12/31/2019

大晦日

ねえ、僕らはあと何年くらい生きられるんだろうね。
僕の父は確か76歳だった。
それよりは生きられるかな。

僕は天国は信じてるっていう話はしたよね確か。
それからね、神様も信じてるよ。
神様ってそこらへんの神様じゃなくて、
なんて言うの、何かの存在ね。
この宇宙を作ったとかどうしたとかじゃなくて、
自分に何かしらの力を与えてくれる何か。
あるいは言い方を変えると、単なる偶然じゃない経験を
させてくれるもの。かな?

「神はサイコロを振らない」って誰か言ったけど、
そうだと思うよ。
何が起きようと何かしらの力が働いているように思う。
だって考えてみて。
確率50%の2つの事象のどちらかが起きる時、
「どちらかが起きる」んだ。
どちらでもいいのにどちらかが起きる。
どちらかが起きなくていいように思う。
量子もつれにある2つの事象、どちらかが決まれば相手も決まる。
そのどちらでもない状態とか。

スリット問題でもAかBかどちらかを素粒子が通る。
でもどちらを通ったかは確認するまではわからない。
どちらの状態でもある。

前に読んだアメリカの交通事故を調査した人の話で、
事故に遭った人のその日の行動を調べると
まるでその事故に遭うために行動していたように思える、と言っていた。
それはある種の運命論かもしれないけれど、
だけどその事故に遭わなくてもいいはず。

突き詰めるとすごくミクロな部分で物事が決まるのかもしれない。
そのミクロなところで働いているのが量子物理かもしれないし、
神かもしれない。







12/28/2019

寒い夜には夢を見る

昨日は寒かった。
毛布1枚をコタツにかけてしまったから寝具用に毛布が1枚足りなかった。
寒いと夢を見る。
正しくは寒いと夢を覚えていると言った方がいいだろうか。
どういう仕組みか知らないけれど、寒い時の方が夢を見る。

自転車に乗っていた。
誰かがパンツを持って来て、と言っている。
私はそのパンツをバッグに入れて、
バッグの持ち手を自転車のかごの上に結び付ける。
それから一緒にいた子供を誰か(母親か?)に預けて
自転車を走らせる。

自転車は泥道を走っている。
上り坂があって漕ぐのがとてもつらい。
それでも登って行く。
狭い道なのに行く先におっさんが乗った自転車がのろのろ走っている。
その左を抜けようとすると、おっさんも左に寄って来る。
挟まれるように止まってしまう。
「おい!どっちかによけろよ!」と言う。
おっさんは構わずのろのろと自転車をこいでいる。

私はそれを追い抜いて走って行くと、
先が坂になっている。
かなり長い下り坂で300メートルくらい先まで下り坂だ。
「これ、大丈夫かな?」と思いつつ
自転車はその坂を走り下りている。
スピードがかなり出ている。
先のわだちに水が溜まっている。
そこに突っ込むしかない。
自転車はスピードを上げてその水たまりの道を走り下りて行く。

足が冷たい。
それでもどんどん走って行く。
その先の道路がとても汚い。
道路の左半分に汚物が広がっている。
そこを通らないように右側を走る。

とそこは仕事場になっている。
大きなスクリーンのある部屋でオーディオ装置を作っている。
プリント基板とケーブルをつないで音が出るのを確かめた。
そしていると誰かが「こっちのスクリーンにつなげて!」と言っている。
私は今確かめたばかりの装置を持ってスクリーンのオーディオ装置に
それをつなげて音が出るようにした。

どこかのオーディオ評論家のような人たちが来て何か言っている。
何を言っているのかわからない。
あまり良い感じではない。
自分が無視されているように感じる。

・・・そこまでしか覚えていない。

12/26/2019

「どうでもいいけど」の2か3か4か?・・・

このブログ、Google Bloggerっていうのは確か検索から外されたって
言ってたと思うのだけど、検索されるのかなぁ?
というのは一応アクセス数がカウントされるんだけど、
誰がアクセスしてるかとかアクセス元などはわからない。
ただその日のアクセス数が出る。
普段は「1」か多くて「4」くらい。
それが異常に多い時がある。
例えば最近では
「カワカマス」が32  (今年11月)
「The Last Campaign」が126 (今年5月)
「北の国から・初恋」が27 (今年2月)
「望来海岸」が50 (2017年)
「北海道っぽいところ」が127 (2017年)
検索で出てた頃のアクセスはもっとずっと多いのだけどこの2,3年の
アクセスでこの数は変だ。
ここを知ってる友人は2人くらいしかいないはず。
同じ人が何十回もアクセスしてるわけがない。
特にThe Last Campaignなんかは日本人はあまり知らないはずだから
アメリカからのアクセスだろうなぁ。。
ということは今でも検索で出るんじゃないかな?

どうでもいいんだけどね。
あ、いままでアクセスがゼロだったことは無い.
自分のアクセスは無視されるから、
誰が読んでるのか?
不思議だ。


12/25/2019

今朝の夢

僕はどこかのレストランにいた。
ちょっと暗い。
日本じゃない、LAとかハワイとかそんな感じ。
カウンターの脇でコマツが僕に何か言ってる。
よくわからないけれど、ギターを弾いてとか言ってる。

それでライブで僕はギターを弾くことになっているらしい。
しかし僕は時価6000円のエレキしか持っていない。
「これでいいんだろうか?」と思う。

しばらくすると「時間だからステージに」と言われる。
僕はそのギターを持ってステージに向かう。
途中、美容室があってその脇を通る時に
ガラス戸越しに中が見えて、コマツがお客の髪を切っている。
すっかり美容師になっていてハサミさばきがプロだ。
「あれ?コマツも一緒にライブに出るんじゃないの?」と思う。
そのままステージに上がると皆忙しそうに歩き回っている。
僕は自分のシールドがどれだろう?と探し回るけれど
自分のシールドが見つからない。
そうこうしてるうちに、大きな音で演奏が始まってしまう。

僕はしかたなくステージを降りて、柵のようなところに手を置いて
ステージを眺めている。
1曲目はバラード調の曲だった。
だれかが歌っている。
2曲目が始まるが、ドラムで始まりちょっとアップテンポの曲だった。
だれかがダミ声で歌っている。

・・・
そういう夢だったのだけれど、
気になるのはその演奏していた曲の音がやけにリアルだったこと。
特に2曲目は実際に音が鳴っていたとしか思えない。
大体の曲のイメージしか覚えていないけれど、
もしも僕がロックシンガーだったらそれを曲にしていただろうと思う。

目が覚めたのが7:30だから、誰かがテレビをつけていたとは
考えられない。
たぶん頭の中で鳴っていた音なんだと思う。


ホテルは嫌いだ


このホテルに泊まったのは2度目だ。
確かにきれいなホテルだ。
でも基本的にホテルは嫌いだ。
なんだろうあの違和感というか居心地の悪さは。
どこのホテルも全然落ち着かない。

かといってアウトドアも嫌いだ。
テントを張って泊まったことはあるけれど、
まだ外でシュラフで寝た方がいいかもしれない。

家にいるのが一番だ



12/24/2019

新神戸の滝

前にどこかに書いたと思うのだけど、
滝のある場所の崖を降りる夢
その夢とそっくりな場所に行った。
新神戸駅の裏にある滝だ。
そもそもその滝は行くつもりで行ったわけではなく
前に人から言われていたことを思い出したから。

新幹線に乗るまでに時間があったので行ってみることにした。
駅から数百メートル坂道を登るとそこにあった。

夢では、子供と一緒に滝の上の方から降りてくる。
かなり急な崖だ。
下はプールのようになっていて水が溜まっている。
ちょうどこの写真の平らな部分だ。
夢ではもっと深く水がたまっていた。
今の季節は水量が少ないからこんな感じだ。

夢ではそこからさらに下まで急な壁を降りる。
ちょうどこの土管が埋まっている壁のような場所だ。
これら全てを少しデフォルメすると夢の中のシーンになる。
・・・と思う

とにかくこの場所にたどり着いた瞬間に
「あ、これは夢だ」と思った
変な場所だった。




12/17/2019

夢を見た

とても長い夢だったと思う。
だけどあまり覚えていないのが悔しい。

家族で食事会をすることになっていた。
その場所はわかっていた。
だから私はそこの場所にいた。

その時間が近づいて家族が駅に着いたらしい。
その駅の様子が見える。
おばあちゃんとその家族4人くらいが見える。
あとは子供が2人と誰か大人だ。
その全員を私は知らない。
誰だろうと思うけれど、
どうもそれが私の家族らしい。
私はまたその食事会の場所にいる。
日本建築のお店で室内は暗い。
低い天井にテーブルがいくつかある。
全部がくすんだ焦げ茶色だ。
時間が来ても家族は到着しない。

お店の中を歩いていると、
端っこの方にひらけたホールのような場所があり、
そこに滑り台がある。
滑り台は外に向かってスロープになっていて、
先は海の方まで行っている。
子供が一人その滑り台に飛び乗った。
子供は勢いよく下の方に滑って行った。
「あぶなくないのか?」と心配になる。

また元のテーブルの方に行く。
座っていると誰か子供のお母さんがテーブルの向かいに座る。
何か話しかけてきた。
何の話だったか覚えていない。
でもその彼女は元々知り合いだったように親しげに話している。
にこにこ微笑んでいる。

私の後ろにトラックが停まる。
運転手が窓から顔を出してそのお母さんに何か言う。
私がひどい男で、そいつとは話をしない方がいいと言う。
私はそんなことはないからと言い訳をする。
(私は何を言い訳してるんだろう?)と思う。
私は自分がそのお母さんに気に入られようとしていることに気が付く。
席を立ってトラック運転手の顔を見る。
知っている顔だった。
でも誰だか思い出せない。

12/16/2019

くだらない

ところで眠れてますか?
はい!
しかし、最近の傾向としては1時頃に眠りに入って、
「ああ、なんかすごく良く寝たなぁ」と目が覚めて時計を見ると
「2:30」
「え!?」って思う。
「まだあと6時間くらい寝なくちゃいけないのか!」
というのが多い。
そういえばまだ外は真っ暗だ。
パッドでネットを眺めているうちにまた眠ってしまう。

「ちょっとまて!今日は10時にだれか来る約束だったんじゃないか?」
今もう10時半だ。
いやな予感。
このパターンは、以前の事務所に行っている感じか。
以前の事務所で部屋番号を鳴らされている会社はいい迷惑だ。
この前は以前の事務所のポストに急ぎの仕事のSDカードを入れてしまった
人がいた。
しょうがないので行ってみたら、休日でだれもいない。
ポストをのぞいたらそれらしきものが入っていた。
指先でなんとかつまみ出して取り出した。
「あ、あそこ監視カメラあったかな?」

これから出かけようと思っているのに来ないと困る。
たいてい見切りをつけて出かけようとすると来る。
あ、そういうことないですか?
外にいて「あ、誰か来てるかも」と思うと来てる。
ヘッドフォンしてガンガン音を聴いてる時に
「あ、電話きてるかな?」と思って着信を見ると来てる。
「ああ、今あの人から電話くると困るなぁ」と思うと
さっそくその人から電話が来る。

僕が何をしているか、誰かが教えているように思う。
誰に?

僕はその存在を信じている。
というか信じざるを得ないことが多すぎる。
時々「神狩り」のようなことをしたくなる。
それでも裏をかかれる。
あの存在は一体何なんだ?


望みは捨てた

今週は客人が来るので部屋を片付けている。
全てが必要なものであり、かつまたよく考えると全て不要なものでもある。
そこから選択して運の悪い奴が捨てられる。

だいたい片付けると仕事ができなくなるんだよね。
他の人はしらないけど、私は机の上が適度にちらかっていないと仕事にならない。
ああ、よくテレビに出てくる誰かのオフィースみたいにパソコンとレポート用紙
しか机に乗っていないような、ああいう景色では仕事にならない。

というのはもともと技術屋だから机の上には計測器や工具やモニターや
なんやかんやに加えて細かな部品が乗っている。
それを片付けたら仕事にならない。
そんなもんだ。

捨てられるものは捨てたけど、あんまり片付いた感がない。
それはもう仕方がない。
それで望みを捨てた。

お後が・・・


12/14/2019

コダマって

山でやったことあるだろうか?
たぶん無いように思う。
だいたいコダマが響きそうな山に行ったことがない。
トンネルとかどこかのホールとか、そんなところだろう。

ちょっと疑問なのは、山でやった場合、跳ね返る方の山に居る人は
その「ヤッホー」が聞こえているだろうか?
もっとも聞こえてないと跳ね返ってこないと思うけれど。
でも遠くの山から「ヤッホー」って聞こえてきたりするんだろうか?
山で。
山登りを楽しんでいる時に。
遠くの方から「ヤッホー」って。
やだね、なんか。



お気づきのように、
次のテーマは「望み」かもしれない。

12/13/2019

光では遅すぎる

と以前から思っていた。
最近になって光の速さを示す動画が現れてきて、光が遅いことが
一般的に知られるようになった。

例えば目の前の何かの紙に直径1.5mmの円を描く。
それを地球とするとその円周が約10mm。
光は1秒間に地球を7回り半するから、その1.5mmの円のそばに
7.5cmの線を描くとそれが光が1秒に進む距離。
その線の端から端まで「いっち」と言いながら指を動かすと
それが光が1秒で進む距離。
ほとんど地球から離れていない。

その速さでは宇宙何てとても旅行できるものじゃない。
しかも人類が出せる最高の速さはそれの数万分の一。
もうその辺までしか行けない。

しかし我々は学校や教育テレビで光の速さはとてつもなく早い
と習ってきた。だから光の速さはもうそれこそあっという間に星の間を
飛んで行けるものと勘違いしていた。

これはなんというか、手漕ぎボートで太平洋を行くよなものだ。
いやもっとひどいかもしれないけど。

一番近い恒星系まで約4光年だ。
光の速さで4年だ。
普通の宇宙船なら数万年かかる。
ワープ航法とか夢のようなことを言ってるけど、夢だ。
そんなものができるわけがない。
タイムマシンと同じで神話にすぎない。
たとえワープが科学的に可能だとしても、人類が存続する間にはできないだろう。

だから地球に限らず他の知的生物がいる惑星も同じ状況だろう。
お互いに行き来することは不可能だろう。
何かで通信できたとしても会話は数年おきにしかできない。
たぶん人類にできるのはそこまでだろう。


12/12/2019

たぶんデジャヴューは夢

まともに考えるなら、人間の感覚器官とそれの認識器官は同時には
行われていないから、知ある現象を先に認識して、それを知覚した
のが後からになることは十分考えられる。
例えば道を歩いていたら懐かしい感覚が起きて、ほんの瞬間後に
どこかから懐かしい歌が聞こえてきた。とか
そういう感覚のずれは起きてもおかしくないけれど、
だけどデジャヴューの感覚はそういう感覚ではない。
ある場面に遭遇した時、明らかにもっとずっと前のどこかでそのシーンを
みたような気がするという感覚だ。
決してニューロンの刺激の遅れで生まれるようなわずかな時間差じゃない。

それじゃあという人がいて、ある遭遇したシーンを記憶するけれど、
そのシーンを確認するよりも早く記憶領域からの記憶が先に
知覚されるからだと言う。
なんかそれはまるでコンピュータの記憶回路のような言い方だけど、
はたして人間の記憶も同じようなシステムになっているだろうか。

今日港で海を見ている時にデジャヴューを感じた。
手すりによりかかって海を見ていた時だ。
前にこのシーンを経験していると感じた。
僅か数秒のことだけれど、それは夢で見たシーンだと思った。
前後のことを思い出せなかったけれど、
確かに夢で見たシーンだ。

他のページでも書いたけれど、初めて行った場所なのに見覚えがある
ということが何度もあった。
それの短い版がデジャヴューなんじゃないだろうか。
と思う。
ことにした。

12/11/2019

奇跡・幸運・天の助け・・とか (続き)

そんなものは払えません。と言いに行こうと思っていた。

すると会社の前の社長から連絡があり。
「私のE社の株、あれは売ってしまって使っていいから」と言う。
この時はほんとにびっくりした。
その株は何もせずほっといた間に分株され2倍に増えていた。
その半分を売った。
それでその法人市民税は全部払ってまだ残る分があった。
あの株がなかったらどうなったことか。
残り半分は様子を見ている間に暴落して元値を割ってしまった。
そこで売った。額はとても少なかった。

それからまたぎりぎりのやりくりがあって、なんとかやっていた。
そのうち来月は完全にショートする!
という予測が起きた。
どう頑張っても、このままではどこかから借り入れしなくちゃいけない。
どうしよう?
と思っていたところ、全く新規のお客さんから大口の注文が来た。
それを完納すればなんとか切り抜けられるという額だった。
それで、それを完納してなんとかなった。
しかし、なぜそのタイミングで新規のお客さんが、しかも大口の
仕事をくれたか、全くの謎だ。

そういう事があと、2、3回あった。
いずれももうだめだという時に助けが現れた。
とてもじゃないが偶然とは思えない。

それで今月だ。
義理の娘の結婚式がある。
税金の分納分とかクレジットカードの支払いがすごい。
年金分を加えてやっと払える。
ということは今月末の支払いがアウトだ。
それをどうにかしなければ。とずっと考えていた。
臨時の注文も無い(今無いと回収できない)。
12月に入ってずっと滅入っていた。

そんな時、昨日会社の前の社長(Kさん)から電話があり、「会えないか?」
と言うので今日会ってきた。
Kさんは腎臓の検査に行ったら心臓に巨大な動脈瘤がみつかって
手術をしたという。動脈瘤は取らずにそこを避けるように血管にガイド
を入れたらしい。医者が言うにはあと半年だとか。
でもとても元気そうだった。笑いながらその話をしていた。
それで僕が「Kさん、僕は本当に最初からお世話になりっぱなしで、
そのお礼もできずに申し訳ないです」と言ったら、
Kさんはカバンから封筒を取り出して、
「これさ、いままで世話になったお礼だから」と。
明らかに厚みのある封筒を僕に手渡した。
「だめですよ、これは僕のほうからKさんに渡さなくちゃならないものですから」
とかえそうとすると、「いや、世話になった皆に渡してるんだよ」と言う。
あと2人、会って渡すつもりだとか。
それでそれを頂戴することにした。
僕はほんとに世話になりっぱなしなのに。

それがたぶん今年最後の奇跡。

奇跡・幸運・天の助け・・とか

そんなものは信じない!と言い切れない。
特にお金に関してはどうも不思議なことが何度も起きる。
そもそも私は金銭感覚がだめだ。
それに会社の経営能力も無い。
だから今も昔も貯金はほぼゼロだ。
よくやってると自分でも思う。
それでも一時はけっこう預金があった。
でもそれは私が管理していたんじゃない。
金銭感覚に優れた相方がいたからだ。

だから一人で何もかもやらなければならなくなってからが問題だ。
いつもぎりぎりで生活してるから何かあった時が問題だ。
最初の大きな問題は会社でトラブルがあって多額の賠償をしなければ
ならなくなった時。しかもその時離婚の問題も同時に起きてさらに今の妻との
生活もなんとかしなければならなくなった時だ。
本当ならもう完全アウトだった。
しかし親の遺産相続で私が土地を受けていた。
それを売ることにした。親戚一同からの猛反対を押して売ってしまった。
その時が生涯で一番多額の現金を持った時だった。
そのお金で会社の損害賠償と元の家族への仕送り、自分の新たな住まいの
購入頭金、生活費を工面した。
しかしそれも数年で無くなった。

その後で子供の学費が続けて必要になった。
この時はたまたま新規に店舗を作った信用金庫の人が現れ、
会社に結構な額のお金を貸してもらった。
何に使っても自由だったので、それを各方面の子供の学費に使った。
他の銀行で貸してくれた可能性は低い。
たまたまその信金の担当地区だったから。

しかし、それもすぐに無くなった。
無くなった頃に市民税・県民税・法人市民税・法人県民税・社会保険料
の滞納などの支払いの督促が次々来た。
あるだけは払ったけれど、市民税の滞納分が払えなかった。
仕方ないので区役所に行って相談した。
すると、とにかく差し押さえになりますから、銀行関係の残高を
しらべさせていただきます。と言われた。
無いものは無いので、やってくださいと言った。
数日後、区役所から呼び出しがあった。
行ってみると「生命保険の積み立て分がありました。」と言われた。
全く記憶に無かったものだった。
「解約していいですか」と聞かれたので、どうぞ、どうぞどうぞと言った。
区役所からなのですぐに解約してお金が入金された。
その時のたまった区民税を十分払える額だった。
今でも不思議に思うのは、その保険一体どこからでてきたんだろう?
ということ。

それで、そのお金もしばらくしてなくなった。
そうこうしているうちに今度は「法人市民税が払われていません」
という電話が市役所から来た。
6年分で80万円くらいだった。
絶対に払えない。。

(続くらしい)

12/10/2019

限りなく透明に近いどうしたこうした

本が届いた。
1円のものはやめて¥250のにした。
でもたぶん1円のと変わらないであろうものが届いた。
全体にきれいだけれど紙は柿汁に漬けたように茶色だった。
まだ読んでいないが、1ページ目を少し読んでみた。
数行で70年に戻りそうだった。
やばい本かもしれない。

たぶんいつの時代も同じなのだろうけれど、
あの70年の雰囲気は体験しないとわからないだろう。
もう戻りたくはないけれど、
なぜか懐かしい。
あの感じ。

この本読むのか? ほんとに・・・


12/09/2019

シャクシャインが哭く

「なく」って読めなかった。

前回札幌に行った時にその並樹書店でこの本を見つけたので買ってきた。
まだ前の方までしか読んでいないけれど、すでに日本人のアイヌの扱いに
怒りを覚えている。
今やっと前段の歴史説目から本編の物語が始まったところだ。

やはりアイヌの人たちはずっと昔から日本人と交流をしてきたのだと思う。
それが商人がそこに入ってきて様相が一変した。
たぶん全ての悲劇はそこから始まったように思う。
その結果として藩が侵略を始めたのだろう、きっと。

アメリカのインディアンと移民との関係に似ている。
どちらも現地人に対してひどいことをしている。
アイヌもアメリカインディアンも元々は自然の中で暮らしていた。
どちらも部族間の争いはあったようなので、平和しか望まない人達なのかどうか
私は知らない。
どちらも最後は部族を越えて日本人・白人と戦っている。

と、思い出したけれど、「北の零年」の映画で確か二人のアイヌが
日本人を助けるような役になっている。
しかし静内はそのシャクシャインの戦いがあった当地だ。
そこのアイヌがあの時代に勝手に侵食してきた日本人を助けるだろうか。
アメリカの西部劇でも同じようなシーンがいくつもある。
恐らく日本人や白人がやってきた蛮行を正当化するためにアイヌやインディアンの
ような人たちを味方に付けようという魂胆なんだと思う。

アイヌの人達が今実際にどんな差別を受けているか私は知らない。
いろいろ読んでみると、我々が考えているような差別を越えた差別が
あるみたいだ。
沖縄の人達にも共通したものがあるように思う。
沖縄に押し付けている米軍の問題を忘れようとしているかのように
沖縄の話題はすぐに影をひそめる。
焼けた首里城ももう話題にもならない。
そういう表には表れない下の方に差別がありそうだ。


12/08/2019

韓国の友達

韓国人の知り合いは仕事関係で何人かいた。
でも仕事のことだけで友達関係ではなかった。

もうずいぶん前に僕がハンググライダーのホームページをやっていた頃に
メールをくれた人が何人もいたけれど、その中にリュウ(Ryu)さんという人がいた。
彼女は僕より15歳くらい下だった。
ずっとメールを英語でやりとりしていた。
ああ、英語のメールが少し書けるようになったのは彼女のおかげかもしれない。
2年くらいメールしていたと思う。
それから電話番号を交換して電話でも話すようになった。
何を話したかあまり覚えていないけれど、彼女は確かスポーツ系の仕事をしていて
コンピュータに運動する時の体の動きをデジタルで取り込むというような仕事も
していた。
彼女は市川だったかに友達(韓国人と日本人)が住んでいて時々日本に来た。
来た時は電話をくれて、時間があった時はどこかで会った。
初めて会った時に驚いたのはいわゆる韓国の美人系の人でまた、若かったせいか
かわいらしい感じの人だった。
会った時は英語と日本語(彼女は日本語も少しできた。しばらく後ではかなり達者な日本語だった)で話をした。
何度あったのか忘れたけれど、5回か6回は会っている。
いつも喫茶店かどこかで食事かだった。
彼女の日本の彼氏と思われる人にも会った。
その人はあまり英語が達者ではないようで、「彼女の英語わかるんですね、すごいですね」と言っていたけれど、どうも彼女には若すぎる感じの男の子だった。
あ、その話は成田空港だった。
彼女が韓国に帰る時に見送りに行った時だ。
彼女とはほんとにいろいろ話をした。
家族のこととか、兄弟のこととか。
彼女の韓国の家の写真とかも送ってくれた。

何時だったか、彼女がソウルを離れて韓国の別の都市に旅行してるときに
ソウルが台風で洪水状態になった時があった。その時、僕が日本で放映されて
いるソウルのそのニュース写真を送ったら、彼女がいるところでは
テレビが見れなくて、写真を見て驚いていた。

彼女に最後に会ったのは渋谷だった。
2時間くらい時間があるとかで、渋谷で食事をした。
食事の後でハチ公前で、「それじゃあ」と言って別れを言った。
その時彼女が英語か韓国語かわからなかったけれど、
何か一言言って軽くハグして東急の方に歩いて行った。

それが最後だった。
メールを送っても返ってこなくなった。
彼女のホームページも見れなくなった。
たぶん何か理由があってそうしたのだと思う。
悪い理由ではないと信じたい。

今どうしてるだろう?と時々思う。

東金、九十九里と大網

九十九里はよく行った。
東京から東金までは高速があったからそこまで走って、後は細い道を海岸まで
走った。一番最初はひとりだったと思う。
とても気持ちいいところだったから、同じ会社の坪井君に言ったら
よし行こうと言うことになって、ポルシェだったかなあ?いやその前は
ギャランだったか? とにかく夜中にぶっ飛ばして行った。
夜の海岸に男が二人というのもおかしな感じだけど、
坪井君はその時レーザービームの装置を持っていた。
今のように小さなレーザーLEDは無い頃だったので、ガスレーザーだった。
それを海岸に向けて、赤いレーザーを照射していたら、
前に止まっていた、たぶんカップルの車が急いで車を走らせてどこかに行ってしまった。
海岸から海に向けての赤いレーザーはとてもきれいだった。
それが何度目の東金だったか忘れた。

誰かがバイクで足の骨を折った時も、友達と一緒に行った。
あの時は昼だった。
でも冬じゃなかったかなあ?
海岸の砂浜に皆で座って何か食べた。
それからどうしたか覚えていない。
あの時は僕の車に皆を乗せて行った。
ああ、その中に葉月がいた。
なんでいたんだろう?

天文ガイドで知り合った沖縄の穂波さんに会いに行ったことがあった。
穂波さんは沖縄で離婚して慰謝料をたくさんもらったけれど、
そのあとハワイのコンドミニアムにアメリカ人と住んでるとか手紙が来て、
それからしばらくして、日本にいるという手紙が来た。
それが九十九里だった。
九十九里にサーファーの男と一緒に暮らしているとか。
その家は大網の海からすぐ近くの普通の民家だった。
旦那?はいなかったけれど中に上げてくれたて、部屋の中を案内してくれた。
エスニックな御香がたかれていて部屋はその匂いでいっぱいだった。
クリシュナムルティーの本が何冊かあった。
(そういえば僕の本はどうしたろう?前の家かな?)
部屋の飾りもエスニックな感じだった。
部屋に二人でいるのもなんなので外で話をした。
彼女はあの後、慰謝料を全部遣いきってしまったと言っていた。
しばらくいて僕が車で帰る時に見送ってくれた。
帰り際「私たちってキスもしてないし手も触れてないね。どういう関係なんだろうね?」
と言って二人で笑った。
たぶん友達だったんだと思う。
それからしばらくして電話があって「旦那が逮捕されたんでこれから拘置所に差し入れに行く」という電話が最後で、それからは連絡ができなくなってしまった。
今会いたい気がする。
穂波さんはちょっと日本人離れした顔つきで本人もアメリカ人みたいに見られる
と言っていた。
僕は最初からそんなことは気にもしなかった。

九十九里はその穂波さんとこが最後だったかもしれない。






春色の汽車に乗って

千葉の養老渓谷に行ったことがあった。
僕は養老の滝は養老渓谷にあるものと思っていた。
だから、いつだったか養老渓谷に行ってみようと思った。
あれは秋だったかな。
養老の滝は無かったけれど、何か滝はみたような気がする。
瀧というかちょっと急な渓谷。
途中どこかの道脇の土手で写真を撮ったはず。
あれは春だったかな?
いや、ススキがバックになっていたから秋だと思う。
「赤いスイートピー」を聴くとその時の景色が浮かぶ。
なぜかはわからないけれど。
だから春色の汽車というのはいすみ鉄道なんじゃないかと勝手に思っている。
春になったらいすみ鉄道に乗ろう。
春色の汽車に乗ろう。

12/07/2019

並樹書店

札幌で最初に住んだ下宿アパートが大通り21丁目だった。
そこから少し戻って19丁目に並樹書店という古書店がある。
実は住んでた時には気が付かなかった。

何年か前に札幌に行った時にこの本屋に気が付いた。
そんなに大きな本屋ではないけれど、北海道関係、アイヌ関係の本が
沢山おいてある。

毎回札幌に行くたびにここに寄って何かの本を買って帰る。
前回は「シャクシャインが哭く」という小説。
まだ読んでいない。

買う時にそこのおじさんに聞いてみた。
「ここいつからやってますか?1976年頃はありました?」と
するとすでにその頃からあったということだ。
知らなかった。
というか18丁目で地下鉄の乗り降りをしてたのになぜ気が付かなかった
のだろう。
たぶん地下鉄を利用することがあまり無かったからかもしれない。
だいたい車で移動していたから。
街に買い物に行くときも車だった。

まだ店内全部を見ていない。
次回行った時にはもう少しちゃんと見てこようと思う。

本の包み紙が素敵だ。
札幌の地図がデザインされていて、そこに「namiki」と小さな字で
本屋の場所が書かれている。

これを見ると三鷹の第九書房の包み紙を思い出す。

12/05/2019

限りなく透明に近い

ブルーだ。

この本を読んだのはいつだったろう?
もうずいぶん前だ。
ストーリーも何もほとんど覚えていないけれど
読み終わった後の不思議な感じだけ覚えている。
また読もうかな?
アマゾンで1円で売ってる。
1円って何だ?
売らない方がいいんじゃないか?
舞台は確か福生だ。
小沼の家があったところだ。
小沼の家?
まだあるだろうか?
彼はまだドイツなんだろうか?
日本に帰ってきたのかな?
奥さんはピアニストだった。
たぶん奥さんがドイツに住むのを望んだのだと思う。
でも小沼も学生の頃からドイツ語ができたように思う。
いつも「会議は踊る」をドイツ語で歌っていた。

もう10年くらい前にマックスプランクで彼を探してメールを誰かに
送ったことがあった。
小沼ではなくてたぶん同じような研究をしてそうな人に勝手にメールを
送って「小沼に渡してください」と英語のメールを送った。
そしたらなんと小沼からメールが届いた。
あれは迷惑だったかもしれないと後で思ったけど、
そんなことは知らない。
届いて良かった。
彼はローマ字で日本語を書いて送ってきた。
日本語漢字が書けなかったみたいだ。

あのあと彼はずっと研究所にいたのだろうか?
もう年齢的にいないとはおもうけれど。

ああ、小沼も会いたいな。
そういえば、小沼は僕を覚えているだろうか?
同期会ではこっちが覚えていても向こうが覚えていなかった。
それでちょっと落ち込んだ。
まあ、逆もあるだろうな。
いつだったライブハウスで知らない(?)人に声をかけられた。
向こうはどこかで僕に会って覚えていたみたいだけど、
こっちは全く覚えていなかった。ひどいもんだ。
こういう食い違いはどういう風におきるんだろう?
学生の時は同じクラスでよく話したりしていたのに
時間とともに忘れられる。
時間の隔たりはお互い同じなのに、こっちは覚えていて向こうは覚えていない。
あるいはその逆。
もちろん定期的に会ったりしてれば覚えているけど、
お互いの間に時間だけがどーんとあった時、
忘れられてしまう。

それはそうと、「限りなく透明に近いブルー」買おうかな。。

12/04/2019

今日は小田原と日限山

月一で小田原に行く日だった。
誰かが監視カメラの一台に車をぶつけて壊したので、今日はその修理だった。
かなり時間がかかると思ったけれど、新しい物の取り付け工事をやってくれた
人の作業が早かったので、こっちもすぐに修理できた。
なんか普段は怖そうな感じの人なのだけど、今日は作業が終わった時に
「ありがとうございました」とお礼を言ったら、とてもやさしい人だと分かった。
クライアント見れば私もその人も同じ業者にしか見えないだろうけれど、
お礼を言って良かったと思った。

それが早く済んだので帰りは下永谷に寄ることにした。
電話したら今日は調子が良さそうだったので行くことにした。
戸塚の東急で二人分のお弁当を買っていくのが常だった。
娘か息子がいる時はその分も買って行く。
どういうお弁当にするかいつも悩むのだけど、それもちょっと楽しい。
息子が食べるという時はガッツリ系のもの、娘もそれよりは少ない満足系のもの。
それにあまり寮の多くない野菜系のものも。自分用には適当に目についたもの。
娘は居る時は顔をだすけれど、息子はめったに現れない。
猫が1匹いるが人見知りが激しく私が行くとどこかに隠れて、
めったに見たことがない。
一緒にお弁当を食べてコーヒーを飲んで話すだけだけれど、
昔の話とかこの間にあったこととかを話す。

下永谷にはいつも車の修理を頼んでいた工場があって、
お昼まえにそこの前を通ると維持さんとおばさんがいて、挨拶しなくちゃいけない。
実情を知ってる人たちなので、ちょっと気まずい。
それでわざと遠回りして行ったりする。

駅(と言っても地下鉄の出入り口がるだけの駅)からは階段を上って
日限山の方に行く。
住んでいた頃はその階段を一気に駆け上がったりしてたのだけど、
今はさすがにそれはしない。
できないこともないと思うけれど、怪我しそうだ。
昔はその階段のあたりは鶯がよく鳴いていた。
今はもういない。
ずいぶん緑が少なくなった。

下永谷は変わってしまったけれど、基本的には変わっていない。
いろいろなものが無くなって、新しいものができたけれど、
街は昔のままだ。
駅の方のアパートにも息子の友達があのまままだ住んでいるような気がしてならない。




12/03/2019

ひどい夢を見た

僕はどこかに向かうため(そこまでの前段を思い出せない)に道を歩いている。
陽射しがとても強く、持っていたカバンを頭にかざして日差しを遮っている。
(しかしその暑さは不思議だ、布団で寝ているのに確かに太陽の陽射しだった)
道は山道にさしかかり、大きく左にカーブしながら登っている。
そのカーブを曲がり切ったところで人が倒れているのが見えた。
近づくと大型のバイクが倒れて壊れている。
その脇にライダーウェアを着た人が倒れていた。
近寄って「大丈夫ですか!」と言うと痙攣している。
道路の先を見ると他に2台の大型バイクが壊れていて、そこにもう2人倒れていた。
ひどい怪我だ。
「大変だ!」と言って、携帯で電話をかけようとしたところで目が覚めた。
たぶん大声を出して自分で目覚めたのだと思う。
人が倒れていた道路は夏のように熱せられていた。
その道路を触った感触が残っていた。
すごくリアルだった。
バイクで倒れたことはあるけど、あれは雨の日だった。
そういえば、それ以外倒れたことは無かった。
熱い道路をあんな風に触ったことがあっただろうか?

ひどい気分だ。
仕事も注文が途切れている。
前にも何度もそんなことはあった。
だから持ち前の能天気でなんとかやってきたけど。
しかしどうにも元気が出ない。
お腹が空いてるからかもしれない。
昼を食べてなかった。
何か食べよう。

12/02/2019

悲しい

さっき電話で得意先の新聞社の人から、
「毎月頼んでるDVD版の新聞は今月で終了します」って。
そうですか。
もう何年やってただろう?
ずいぶん長かった。
だけどこの年末にその連絡?
よりによって厳しくなるのがわかってる今月?
できるだけ明るい声で
「そうですか、わかりました、ずいぶん長い事お世話になりました」
とか言ったけど。
あと3か月伸ばして!
って言いたかった。

さてどうしよう?
明日、スタジオ行って歌歌ってこようかな。

芹沢さんも九州だよね。
並川も佐賀だった。
九州はちょっと遠いなぁ。
お金に余裕のある時に行っておくんだった。


12/01/2019

12月になってしまった


公園まで行ってきた。
所々真っ赤な紅葉があってそこにはカメラを構えた人だ何人もいた。
いつものようにそこは避けてだれもいないところを選んで行った。
以前は事務所から山の紅葉具合がわかったのだけど、
この部屋から中央公園は見えない。
あの事務所は部屋代が払えなくなって出てしまったけれど、
眺めが良かった。
屋上まで行くとぐるっと見渡せた。
ああいう部屋がまた欲しい。
歌を歌ってもギターを弾いても文句を言われることもなかった。
上下左右全然音が聞こえなかったから。

芹沢さん、一度事務所に来てくれたよね。
まだここ見ててくれてるかな?
いつも何書いてるんだ?!と言われそうですがね。
思ったことを書いてるだけなんですけどね。
その後、体の具合はどうでしょう。
もう一度一緒に歌いたいね。
FBからメッセージを送りましたが届いたでしょうか?
と思ったらさっき返事をいただいていました。
ありがとうございます。(これ見てるかな?)

コマツ君はどうしてるだろう?
噂でしか聞かないけど。
最近は電話も来ないし(おまえがかけろって?)
まだここ見てたらメールでも送って。
メールの頭がkogawa2に変わってるからね。
業務連絡みたいだけど。
コマツ君は日本に帰るようなこと言ってたけど、
まだ当分帰ってきそうもないね。
コマツが返ってきたらまた皆でバンドやろう。
まだ全員生きてる。
モチとヨシノとは3人で毎日のように曲作りでやりとりしてるよ。
もう何年も。
ほんとによくやってると思う。
CDも何十枚になったろう。
だけどやっぱりコマツが入って欲しいと思うよ。

12月は忙しくなりそう。
神戸の結婚式に出ないといけない。
リサの結婚式。


------------------------------------------------------------------------------------------------
追伸:
書き忘れました。
新宿フォークゲリラのサイトの方。
まさかもうここを見てはいないと思いますが、かの時はありがとうございました。
今では全くのいいかげんなフォークシンガーです。
でも、新宿の米軍タンク車炎上のことをちょっと書きました(同期会のとこです)。
当時の事件で私の高校が関係していたのは偶然ですが、ちょっと当時を
思い出しました。





寒そうだ

けど、ちょっと出かけよう。
お昼も食べないと。
何も食べたくないけど。
だいたい外で食べるのがいやだ。
いろいろ考えなくちゃいけないから。
家で料理した方がいい。
ちょっと面倒だけど、自分だけの範疇だ。

雲の切れ間から太陽が時々のぞいている。
目の前のマンションの窓ガラスに白い太陽が反射して眩しい。
KFCでも買ってこようかな。
と、のぞいてみるとけっこう列ができてる。
休日はいつもそうだ。

ネットニュースの広告で量子ドットのディスプレイっていうのがあった。
ひどい名前だと思って読んでみたけれど、
そんなに的を外れた話でもなかった。
量子と言うより波長ドットと言った方がいい。
量子的なことはたぶん何も無いだろうから。

時々思うのは量子はこのマクロな世界のどこまで影響してるだろうか?
ということ。
たぶん、多分に素人的な漫画チックな考え。
タイムマシンくらい意味の無いことかもしれない。
あのS博士の猫みたいなもの。
何かマクロな出来事の根底に量子が影響しているということ。
そういうことがあるだろうか?
例えば人生でAとBの選択を迫られた時、
AとBは本来確率的に同じであるのとしたとき、
AあるいはBに起因する次の現象CとDは
量子もつれ状態にあるのだろうか?

人生のある時点で誰かがAをとり僕がBをとった時、
その誰かはAによって起こった結果がCだと知った時、
僕に起こっている結果はDだと決定される
ということが起きるだろうか?
それを考えると昔流行した超能力とかが可能なような気がしてくる。

ちょっと天気が良くなってきたから
ちょっと散歩しよう。






何をやっても

上手く行かない時って、こういうことを書きたくなってしまう。
別に誰かのせいじゃないのに。
友達がいないのは自分のせいだよ。
それは確か。
友達だけじゃない、いろんな人に嫌な思いをさせて生きていた。
思い返すとそんなことばかり。
自分では普通にしてきたつもりだったんだけど。
振り返って自分を見てみるとすごくいやな奴だ。

それでも、奇跡的にだけど、僕を友達と思ってくれる人が5人はいる。
それはリアルな世界に於いてね。

僕はどこか狂っていると時々思う。
何やってるの? ということが時々ある。
それで人にいやな思いをさせてしまう。
だから、もう思い出したくないんだよね。
何もかも。
こういう不安な時は特にね。
来月やっていけるか?って時に、FBだのYTだの能天気な
書き込みに付き合って「いいね」って。
いや、たぶん気分がおちついている時ならそんなことは思わないけ
きっと。
どこまでお互いのことを知ってるんだろう?って思うんだよね。
たぶん何も知らない。
JohnさんとBillさんはずっと前から何でも、プライベートなことも
話してきたから、Billさんが亡くなって、今は僕のことをほんとに知ってるのは
Johnさんだけだ。

Johnさんとは、高校時代の話もした、お互いのその頃の彼女のこととか、
それからどうなったとか。離婚したのはどうして?とか
その後どうしてる?とか。
お互い、子どもたちと会えないことなんかも話した。
子供は達は会いたいと思ってないみたいだ、とか。
お互いに慰めあったりしてきたから、
本当には会ったこともないけど友達だと思っている。
他の人は知らないし、これ以上親しくなりたいとも思わない。

11/30/2019

友達

もともと友達は少なかった。
この前の同期会に行って思ったのだけど、
友達だと(こっちが)思っていても決して友達ではなかったんだなと。
友達100人などできない。
僕のことを友達としてくれている人はたぶん
片手で収まる。
そんなもんだろう。

フェイスブックもユーチューブもほんとに友達だと思える人は
1人くらいだ。
あとは何?付き合いか?

僕が死んだら誰かJohn McCarthyに連絡してください。
フェイスブックで出てきますから。
ユタ州のソルトレイクです。
僕が死んで涙を流してくれるのは彼ぐらいだから。

1か月以上ここの更新が無かったらきっと死んでる。
やすらかにお休みください。。。



11/28/2019

50年ってどのくらい?(3)

僕は当時いつも小柳と一緒にいた。
村野は確か小柳と一緒の中学だ。
僕に声をかけてきたことにまず驚いた。
それから彼の名札を見て村野だとわかった。
すごくうれしかった。
小柳は大学の時に電車で一度会っただけだ。
彼の家に行ったこともあったけれど、
その後のことはまったく知らないと伝えた。
僕の名刺を渡したら「今度連絡するかもしれない」と言ってくれた。
2人だ。二人も僕のことを覚えていてくれた。
それでじゅうぶんなのかもしれない。

帰りは仙川駅から理工学部のあった千歳烏山をみて帰った。
一人で車窓を眺めながら帰った。
さみしい気持ちでいっぱいだった。
でも竹内の笑顔と村野に助けられた気分だった。

後で物故者のリストを見たら、
仲の良かった友人の名前がいくつもあった。
石川、仙波、増田、播磨
播磨はそのタンク車炎上のあと山で遭難して亡くなっている。
小柳は不明者のリストに入っていた。

50年ってどのくらい? (2)

伊東先生はその後の「先生のお話」でもみなにその後の学校教育のことについて
熱く語っていた。
それから69年の新宿駅での米軍タンク車炎上の時のことを話された。
その日は、実は次の日から山岳部の合宿があったらしい。
伊東先生が引率だった。
次の日からなのでその米軍のタンク炎上の日に新宿駅に学生がいるわけはないのだけど、
内緒で合宿の日程を一日伸ばしたらしい。
それでタンクが燃えている時神代の山岳部がそこにいたために
駅員から声をかけられてみんなで燃えてないタンク車を押して移動させたらしい。
そのことが新聞で取り上げられ、学校側は「なぜそこに学生がいたんだ?!」
と伊東先生に責任を問うたらしい。

しかし、その後その山岳部の人達が炎上防止に協力したということで
表彰されることになった。(どこから?)
その表彰式は学校で行われたらしい。(全く覚えていないけど)
それで先生の責任問題はすっ飛んで、先生は「ざまあみろ」と思ったそうだ。

僕もその時の新聞記事(燃えてるのと表彰の)を覚えている。
伊東先生の「お話」はそんな話とか当時あった飲み屋での先生方の
自由な交流について話された。それで今の学校はもうそういう自由な
ものではなくなったと嘆かれていた。
先生はそんなで元気に話されていた。

と、ここまで僕のことを覚えている人は誰もいない。

秋山がいたので声をかけた。
ハンドボールで秋山のジャンプシュートの下敷きになって頭を強打して
記憶喪失になったことを話したけど全然覚えていなかった。
まあ、当時もあまり話をしなかったけど。

竹中は4中だったから、4中の知り合いの名前をあげてみた。
そしたらほとんど知っていた。
僕は7小だったから友達はみんな4中に行ってしまった。
僕のことは覚えていないみたいだったけど。

テーブルに竹内がいたので声をかけた。
「ああ、粉川」と覚えていてくれた。
竹内は70人中僕のことを覚えていてくれた2人のうちの一人だ。
竹内は今でもあの場所で幼稚園をやっている。
園長先生だ。
竹内といろいろ話をした。
「いつも家のあったところを通ると粉川のことを思い出すよ」
と言ってくれた。
それから「彼女(Kさん)はどうしているかなぁ?」と言っていた。
僕は多くを話さなかったけれど、
「世界中をまわっていたみたい」とだけ言った。
竹内は「会いたいなあ」と言っていた。

結局70人もいたのに僕を覚えていてくれたのは竹内だけだったな。
と寂しい気持ちだった。
会が終わりかけていた時に一人で壁のところで立っていたら、
声をかけられた。
「小柳どうしてるか知ってる?」と声をかけられた。
村野だった。
(また書けなくなった、次のページへ)















50年ってどのくらい? (1)

あえて書いていなかったけど、10月に同期会があった。
一人でも行くかどうか考えたのだけど、ひょっとしたら誰か来てるかも
と思って行くことにした。
仙川の駅前のビルの上のレストラン?か? 飲み屋みたいなレストラン。
行く前に学校に行ってみた。
工事をしていた。
歩いて行く時にも誰かが写真を撮っているのが見えた。
遠くから見てたら他にも写真を撮ってる人がいた。
きっと同期会に行く人だ、と思った。
思ったけれどどう見ても老人だ。
いや、そういう年齢なんだろう。
駅に戻る時にも何人か学校の方に向かう人(老人)をみかけた。

その前にバス停から学校までこんなに遠かったんだろうか?と思った。
商店街も商店街としてあったけれど、長いなと思った。
途中のお店は全く見覚え無い。
パン屋さんがあったはずだけど、どうも無くなっているようだった。
ずっと見て歩いたけど無かった。
あればパンを買って帰ったのに。

同期会の会場に行くとすでに10人くらい来ていた。
受付のフジシロ君は僕をわかってくれた。
中に入ると、あたりまえだけど、誰もわからない。
適当に誰かに話しかけると「いや、私も誰もわからない」と言っていた。
しかたないので壁のとこで始まるのを待っていた。
隣に女性がいた。
名札を見ても全く知らない。
「全然わからないねえ」と話しかけたら、
「うーーん、わからない」と言っていた。
しばらくその人と話していたけれど、学校で同じクラスにはならなかった
みたいだ。
そうこうしているうちに人が集まってきて(相変わらずだれもわからない)
先生もみえた。
伊東ちゃんと前島先生だ。
全部で70人来たらしい。
会食会が始まって、僕が知ってる人を何人か見つけた。
竹中と反町と秋山と臼田だ。
問題はここからで、この4人、僕はよく覚えているのに
向こうは覚えていない。
反町君は小学校から一緒だったので、さすがに名前は憶えていてくれた。
お店の部屋が2つに分かれていたので、しばらくしてから別の部屋にも
行ってみた。僕の名札を見せて「覚えている人いる?」と聞いてみた。
だれも知らないと言った。
しかしあとで名簿をみると3年で同じクラスだった人もそこに何人か
いたはず。

じゃあ、先生はどうだろう?と伊東先生のところに行った。
先生も全然僕のことは覚えていなかった。
それじゃあ、と思い、先生が授業で教えてくれた「くまのプーさん」
の副教材のことを言ってみた。
先生は驚いた様子だった。
僕らの後の教育方針で副教材は使えなくなったらしい。
それで僕がその時の授業のこと、どんな紙に書かれていたかとか、
どんな風にそのプーさんの授業をしていたかを話した。
先生は「それはうれしいことを聞いたなあ!」と言って、
学校教育の問題についていろいろ語っていた。
(・・・なぜか書けなくなったので別のページへ)




















11/25/2019

空欄

いつの日かにこれを読んでいるのが子供たちか、
あるいは誰かはわからないけど、
ひょっとすると空欄になっている年代に気付くかもしれないので、
それについて書いておこうと思う。

1987年頃から2010年頃までのことは書いていないように思う。
その理由は家庭がとか、誰かとのことがとかいう理由じゃない。
そのあたりでやっていた仕事が問題だ。
実は今こう書いていても思い出したくないのだけれど、
まあ、好きでやっていた仕事ではあるけれど、
上手く行っていたわけじゃない。
時代が時代だったからそれでもやってこれたようなものだ。
自分の仕事のことも、
会社のことも、
会社の人付き合いのことも
管理者としての自分のことについても
思い出したくない。
その頃のことを思い出そうとすると、
どうしても仕事のことを思い出してしまう。

あの頃のことはあまり考えたくない。
もう一度2,30年もどれるとしてももうその時代はやりたくない。
でも子供たちと暮らしたことは何度やってもいい。
仕事は別の仕事にしてほしい。
肉体労働でもいい。
きたない仕事でもいい。
とにかくあれはもうやりたくない。
人に迷惑をかけずに、
誰かに嫌な思いをさせずに、
済む仕事がいい。

全て自分のせいなんだけどね。
その自分が
その頃の自分がいやだ。

11/20/2019

カワカマス

本屋へ行って本を眺めていたら
不意に声をかけられた
・・・ように思った
「僕を覚えてる?」

あ!そうだ、思い出したよ
僕は君を前の家に置いてきてしまったね。



それでまた君を今の僕の家につれてきた。
また君の話を読んでいたら
「少しずつ、ボクの心は、
 言葉ではとうてい表現できない、幸せな感情で満たされていった。」
。。。よ


ヤン君がふいに現れたことで、僕は変なことに気が付いた。
まずカワカマス君は「名の日」の名目でいろいろ借りて行くけれど
カワカマス君には名前が無い。
名前が無いのに「名の日」を持ち出してきている。
たぶんカワカマス君の名の日は永遠に来ない。
まあ、それはそれでいいのだけど、
僕はこの話を読んでいて、どっちだろう?と考えたのだけれど
つまりヤン君かカワカマス君か
どうも僕はカワカマスなんじゃないかと思う。
カワカマスのやってることを僕もやってそうだ。
たぶんずっとそうしてきた。
ただ、不幸なことにヤン君のような心の温かい人 ? 猫?
に会わなかった。
僕もいつか誰かと一緒にサモワールでお茶をのみたい。







尾崎紅葉って

紅葉なんだ。。
へえ~
今まで気にもしなかったけど、紅葉なんだ。

昨日は昼に中央公園から八幡山公園までぐるっと回ってきたけど、
あんまり紅葉らしい紅葉は無かった。
むしろ駅の周りの街路樹の方がよっぽど紅葉してる。

水元公園のことって前に書いたっけ?
僕はグーグルマップで見て水元公園は広々してそうでいいなあ
と思っていたのだけど、
いかんせん(古い!)遠い。
ちょっと散歩にって行くにはいろいろ準備しないといけない。
あれは東京の向こう側だ。

水元公園の上の方じゃなくて、駐車場の右側の川沿いのとこ。
背の高い草が生い茂っているところがいいなあ。
ちょっと待て、
っていうことは秋はその草は枯れてしまうのか?
枯れた草が生い茂っていることになるんだろうか?

そうしたら、しょうがないので上の方かな?
広葉樹が多そうだ。
紅葉してるかもね。
いつ頃まで紅葉してるんだろうか?



11/18/2019

感覚的懐古趣味

若い頃は「生まれて初めての経験」っていうのがたくさんあった。
コーヒーだって紅茶だって本格的にマジで経験したのは初めてだったんだと思う。
アールグレイの香りはほんとに衝撃的だった。
細い筆の先の青い絵の具をほんの一滴バケツに落としてかきまぜた水に
真っ白なガーゼを浸したら
きっとほんの少しだけブルーの色が付くと思う。
今は老眼鏡をつけてもわからないけど
若い頃はきっと白とそのブルーが区別できたと思う。

そのくらいの感覚であのアールグレイに出会ったんだと思う。
味もおいしかった。
オレンジペコとの違いも分かったと思う。
今はどうかな?
自信は無い
それよりも僕は香りだ。
あの香り。

強烈な郷愁と懐かしさ。。(郷愁と懐かしさは同じか?)
不意に雨に出会って濡れた”友達”のセーターの背中の匂い
あれと同じくらい強烈な懐かしさ



11/17/2019

家に帰りたい

・・・っていう夢を見た。

その前のシーンを覚えていないけれど、
どこか見慣れた街の道路に友人と一緒にいるのだけど、
自分の家があると思う路地に家が無い。
ここのはずだけど・・と思う。
友人が家に電話してみたら? と言う。
でも携帯は家に置いてきた。

一体どこだろう?
と次の路地を歩くが、そこにも家は無い。
どうやら似ているけれど違う街にいるようだ。
どうやったら帰れるんだろう?
と通りを歩いて行くと長い下り坂の道になっている。
道は左にカーブしてまたまっすぐになっていて、
その先に繁華街のような街並みがある。
全く見覚えのない街並みだ。

そっちじゃないような気がする。
反対方向に歩く。
大きな古風な造りのビルがある。
昭和初期の窓の形、また窓の上にはかざりがある。
でもビル全体は近代的な造りで、白く輝いている。
その脇を歩くと、木々が緑の(ほんとうにきれいな輝くような)緑の
光をなげかけてくる。
その先はT字路になっていてさらに広い道にぶつかっている。
道路の真ん中は灌木が植わっていて、反対方向には行けない。

なんとなく左にはまがりたくないので、
右に曲がって、少し下り坂の道を歩いて行く。
通りは細くなってまるで迷路の曲がり角のようになっている。
いつのまにか車を運転している。
その曲がり角に来ると向こうのぎゃくの曲がり角からトラックが来る。
「今は行っちゃだめ!」と誰かに怒られる。
左手に窓口があって、キップを売っているようだ。
女性が窓口にいてキップを買おうとすると「気を付けてね」と言われる。
女性はニコニコしている。
キップを受け取るがスーパーのレシートのようでぺらぺらの紙だ。

そこを通り抜けようとすると、もう道はビルの間の渡り廊下のように
なっていて、両側がガラス張りの通路のようになっている。
そこを自分の足で歩いて行く。

誰か知っている女性がいる。
ベッドのような台の上に寝ている。
この人は誰だったろう? と思いながら、その人の脇に座る。
顔を見ようとおもうけれど、目がかすんでよく見えない。
目をこすろうと思って手を上げたら、
目が覚めた。






11/16/2019

アールグレイ

紅茶は今はあまり飲まないけれど、
昔はよく飲んだ。
アールグレイという紅茶を知ったのも学生の頃だ。
不思議なものであの香りがしないと紅茶を飲んだ気がしない。

たまに夜コーヒーか紅茶を飲みたくなる。
そういう時はカフェインレスのアールグレイだ。
紅茶はカフェインレスでもあまり違和感が無いから。
カフェインレスのコーヒーもいろいろ試したけれど、
あれはなんか別物になってしまうように思う。
だから一応何種類かカフェインレスコーヒーは買ってあるけど、
豆(ひいたやつ)よりもインスタントのカフェインレスの方がまだいい。

なんでカフェインレスかと言うと昔は平気だったのに
最近は夜6時以降にカフェインのものを飲むと確実に眠れなくなるから。
だからカフェインレスのコーヒーかカフェインレスの紅茶を飲む。
そうするととりあえず眠れる。

あ、思い出した。
受験の頃はコーヒーを飲んで寝ると金縛りになった。
今はそんなことはない。

いい夢を見るには何を飲んだらいいだろう?
というか夢をはっきり覚えていられる飲み物があったら欲しい。

11/15/2019

モカ

前はKARDYで豆を挽いてもらっていたりしたけれど、最近コーヒー豆は
マキシムの袋入りのモカにしている。
コーヒーはよっぽどひどいものでなければ何でもOKなのだけれど、
そのよっぽどっていうのに結構当たってしまう。
それで面倒なのでマキシムの大量生産型の「マスターのおすすめ モカブレンド」
にしている。マスターがおすすめなのだから確かだろう。
そんなことはいいのだけど、これにはすばらしい点がある。
袋を開封した時の香りだ。
モカの香りがする。
当たり前なのだけれど、下手なモカの袋入りはとんでもない匂いがすることがある。
でもこのマキシムのモカはとてもいい香りだ。

この香りは昔よくやったサイホンコーヒーの香りだ。
家でもやったけど、中野の喫茶店「かかし」の香りだ。
絶対にそうだと思う。
かかしでモカを飲んでいたかは覚えていないけれど、
とにかくこの香りはあの店の香りだ。

あの店のあの席に座っているような気になる。
よく行っていたあの店だ。
たぶん今は無い。
でもここにある。
この香りで全てを思い出す。

11/14/2019

Somebody loves you

It used to be your town
It used be my town too
You never know until it all falls down
Somebody loves you 
Somebody loves you
Darling, somebody still loves you
I can still remember her
When it used to be her town ,too


ジェームステーラだ。
何時だったか忘れたけれど武道館でのライブだ。
この歌は初めて聞いた歌だったけれど、
とても耳に残ってずっと覚えていた。
レコードも買った。
Her Town

自分にはこんな投げやりなことは言えないけれど、
心の中ではそう願っている。
確かに君の街だったし、
僕の街でもあった

11/13/2019

オーディオ伝説あるいは神話

最近思うことはオーディオ、特にアナログオーディオが息を吹き返していること。
ここで言ってる「アナログオーディオ」というのは、
あのオーディオが全盛だった頃のあることないことの知識のこと。

アナログレコード盤がもてはやされている。
当然レコードプレーヤーやカートリッジ、トーンアームなども
復活している。
オークションではまるで昔の価格の通りに売られていたりする。
たぶん我々の世代の人達がこれをやっているのだと思う。
いや、そうであって欲しいのだけれど。
若い人があんなことを信じてほしくない。

一方、昔は30万円くらいしたEMTカートリッジの新品が
1万円くらいで大量にうられている。
それも純正のものだ。
これを見ても当時の神話が嘘だとわかる。

それに「ハイレゾ・オーディオ」とかいうのを流行らそうとしている
メーカーがある。言わずと知れたSONYだ。
だけど、CDの音だって本当は良し悪しなんてわからないのに、
それ以上の解像度を持たせて何のいみがあるんだろう?

書いたかもしれないけど、昔松下がオーディオ雑誌と共同で
オーディオファンの耳がどのくらいなものかを調べたことがあった。
確か100人くらいの希望者を募って、松下の最高のオーディオ機器
を使って、生バンドの演奏と録音とを聴き比べしたり、
最高級機と汎用機の音を聴き比べさせたことがあった。
その結果はなぜかオーディオ雑誌の記事にはならなかった。
その理由は明らかで、正しく判断できた人がいなかったからだ。

そんなもんだ。

よっぽどひどいオーディオ機で聴いてない限り、
そこそこの音で十分聴ける。
そういうことだ。

もしもSONYがハイレゾを主張するならその聞き比べを大々的にやって
その結果を公表したらいい。
たぶん誰もただしく言い当てることはできないだろう。

並川君のこと(5)

昨日並川君の奥さんと電話で話した。

声は思いのほか元気そうだった。
僕のこともすぐにわかってくれた。
話によると僕が札幌から電話をしようとした頃から
もう話ができなくなっていたそうだ。
たぶん4,5年になる。
最期はもう痩せこけて本人とは思えないくらいで、
水さえも飲めない状態だったそうだ。
記憶の中の彼からは想像もできない。

トッピの声は昔のままだった。
あまりに変わりなくて驚いた。
でも元気で良かった。



11/11/2019

ライブで女性とデュエット

昨日は何年ぶりかで人前で歌った。
しかも他のグループのメンバーの人とデュエット。
イアンとシルビアバンドカバーをやっているグループがあって、
そのイアン役の人と以前にネットで知り合ったのだけど、
不思議なことにその人は兄の友達でもあった。
兄たちのライブでわかった。
それにあざみ野という非常に近いところに住んでいることもわかった。

それでその相手のシルビア役の女性とも知り合って
いつか一緒に歌おうと話していたのだけど、
昨日のライブに招待されて、そこで1曲私が歌うことになった。
歌はJohn Stewartの歌なのだけど、コーラスとハーモニカのソロを
入れてね、と言ったらやってくれることになった。
その歌は並川たちとその吹雪のコンサートで一緒に歌った歌だったから
それを歌いたかった。

昨日のリハーサルで初めて合わせて歌ったのだけど、
その前に自分が緊張していてどうしても途中で止まってしまう。
それでも何回かやって最後だけ止まらずにできた。
なにせギター1本なのでごまかせない。
それで本番の出番が来てやったのだけど、
これが奇跡的にちょっとしたミスだけで
あとは通して歌えた。
ハーモニカのソロもハモも入れてもらえた。

前にも書いたかもしれないけど、女性の声とデュエットで
歌うのが夢だった。
だけど一緒に歌ってくれる人なんてそんなに簡単にみつからない。
今回はほんとに奇跡的だった。
とても良かった。


11/07/2019

タイムトラベラー

時々、元々居たところからは
ひどく遠い未来にいるような気がする。
一人で
家族や知ってる人はいるけれど
ほんとはみんな未来の人間で
自分だけが過去から来た人間
誰もほんとに知ってる人はいない
そんな気がする

突然時間を越えて遠い未来に来たわけじゃない
順当な時間経過で未来に来た
それだけの話だ。

だけどだれか私と同じ時から
同じようにこの未来に来た人がいるんじゃないだろうか
どこかにいるはず


11/06/2019

並川君のこと (4)

今日はずっと写真を探していた。
見つかった。


驚いた。
これは深川のアパートでの写真だ。
しかも子供を抱いていたのは並川君じゃなくて私だ。
横浜の家にも来てくれなかったろうか?
なんてひどい記憶力だろう。
よく見ると87年5月とある。
ということは私は30代並川君は20代だ。
なんていうことだ。

私が四国の並川君の家に行ったのはいつだったろう?
そうするとたぶん90年頃だろうか。
あれは姫路だったか岡山だったかに仕事で行った時に
四国に渡って彼の家に行った時だ。
何の仕事だったか全く思い出せない。
何を覚えている?
彼の家で何かしばらく話をしたことは覚えている。
たぶんトッピ(彼の奥さん)は私をあまり良く思っていなかったと思う。
たぶん、それは札幌時代からそうだったと思う。
なぜならあの頃の私は狂っていたから。
何かが狂っていたから。

そうだ。
今思い出した。
私のアパートで並川とトッピとヒゲちゃんとで歌の練習をした時、
私は何か彼女の気に障ることを言った。
何を言ったか思い出せないけれど、言った。
なにかへんなことを言ったことを自分でもわかった。
というか変なことを言ってる自分を見ていた感じがする。
あの頃はいつもそんなだった。
自分で言っちゃいけないことを勝手に言ってるやつがいた。
あれはどうしてだろう?
あまりに自分を否定しすぎていたからそうなってしまったのだろうか?
あの頃言っちゃいけないことを誰かに言った記憶が5つくらいはある。
あるいはもっとかもしれない。
いや、もっとだろう。
二重人格だったんだろうか?
言い訳に聞こえるかもしれないけど、
そいつが言ってるのを聞いている自分がいたことは確かだ。

ああ、それでね、トッピは私のことを良くは思っていなかったってこと。
そんな私に並川はいつも変わらず良くしてくれた。
話も聞いてくれたし、話を聞かせてくれた。

そんな並川に乾杯!

11/04/2019

並川君のこと (3)

今日は並川君のお葬式が行われている。
ちょうど今のはず。
冥福を祈るとかってどうすればいいのかわからないけれど、
彼のことをずっと考えている。
札幌時代彼の存在がどんなに私の支えになったか。
感謝しきれない。
札幌時代の私を支えてくれた人は3人いる。
並川君はその一人だ。
もう一人はここにも書いたけれどだいぶ前に亡くなってしまっている。

並川君と奥さんのトッピ達と江別でやったコンサートは決して忘れない。
・・・あれ?ねえ、あれは江別だった?
野幌?大麻?・・・
だんだんわからなくなったきたよ。
とにかく市民会館みたいなステージだったよね。
California Bloodlineと「さよなら」あと何か歌った?
廊下の窓から外を見たら猛吹雪だった。
雪が舞って街灯に白く渦をまいていた。
あの雪の中をどうやって帰ったんだろうね。

君の部屋にも何度か行ったね。
豊平川のそばだった。
猫の話をしてたよ。
猫を飼っていたんだけど公園に連れて行ったら戻ってこない、って。
君はあの笑い方で笑いながら話していたけどほんとはどうだったんだろう?
それから道路工事の話もしていたよね。
道路で猫が車にひかれたあとの処理をどうするのか、
君は笑いながら話していたけど、心の中は違ったんだろうね。
僕が東京(横浜)に戻って、君が四国や九州に行ったあとも
時々電話をくれたね。
そうなんだ。何年か前に札幌に行った時に、
豊平川の護岸に座って「今、君住んでいた近くの豊平川にいるよ」
と言おうと思って電話をしたら出なかった。
あれはつながっていたのかなあ?
それからだね、電話もメールもつながらなくなってしまった。

君は一度横浜の家に来てくれた。
僕の娘と一緒に撮った写真がある。
ひょっとするとあれが実際に君に会った最後だったのかなあ?

今、君の声が聞きたい。

11/02/2019

並川君のこと (2)

ちょっと前にも並川君のことを書いたけれど、
悪い予感が当たってしまったみたいだ。
今日、佐世保から電話があった。
私はすっかり忘れてしまっていたけれど、電話をくれた人は
ずっと前に仕事のことか何かで私に相談をしてきた人だった。
並川君の友達だ。
「並川君が亡くなった」と言っていた。
そうかやっぱり、という気持ちと
いやそれはうそであって欲しいという気持ちが
交差していた。
話をしているうちに我慢できなくなって泣いてしまった。
声が出なくなってしまい、
ちょっと待ってもらった。

並川君はなまりのあるしゃべり方だったけれど、
あれは四国のなまりだったんだろうか。
パーキンソン病だった。
最期に電話で話した時は言葉がすこしおかしかった。
メールでもそんなことを書いていた。

それからしばらくして全く連絡がとれなくなってしまった。
電話もだめ、メールもだめ、ブログも止まってる。
そのまま何年か経ってしまい
それで今日だ。

夜、寝る時が怖い。
涙が止まらなくなりそうだ。

11/01/2019

「フォークゲリラを知ってるかい?」

という記事をブログに書いている人がいる。
かなり前だけどその人に自分がやってきたことを書いて送ったと思う。
それが問題なのだけど、一体何を書いて送ったんだろう?
今思うと自分勝手なことを書いて送ったように思う。
まだその人のURLはわかっているけれど、
怖くて見に行けない。

この前「播磨と米軍タンク車の炎上」のことを書いたけれど、
ちょうどその頃のことだったと思う。
Mが言ったと書いたけれど、自分も「あんなのは燃えればいい」
と思っていた。

あの頃を想うと、過激だったけれど考えがいい加減だった。
と思う。
あの時代、あれ以外に自分にできることは無かったとは思うけれど、
やるんだったらもっとはっきりと自分の意志を持ってやるべきだった。
と思う。
だから今、あの時代に自分が何をしていたのか
話してしまったことはとても恥ずかしい。
穴がいくつかあったら一番深い穴に入って出て来ないでいたい。

たぶん自分は歌を歌っていればよかったんだと思う。
ほかのことは考えず、
あの頃できたことはそれくらいしかなかったはず。
そういうことはできただろうか?

10/24/2019

最近思い出したこと

播磨だ。
この字かどうかわからないけれど「はりま」だ。
高校の時の友達。
中学からかもしれない。ちょっと忘れた。
1969年に新宿駅で米軍のタンク車が炎上した。
その時たまたま高校(神代高校)の登山部の生徒が何人かいた。
播磨もそのメンバーだった。
たぶん播磨がリーダー的役だったと思う。
新宿駅員が燃えていないタンク車を移動させるのに彼らに声をかけたらしい。
彼らは皆でタンク車を押して移動させて炎上をくいとめたらしい。
それで後で感謝状を受けた。確か学校で授与式があった。

同級生のM(ちょっと過激)は彼らの行動を批難して
「あんなのは燃やしておけばいいんだ」と言っていたのを覚えている。

その播磨だけれど、山で遭難して亡くなった。
それがいつだったか忘れたけれど、
私はそれを新聞で知った。
そのことを思い出した。
それでちょっと彼の顔と声を思い出した。

10/22/2019

この世に一人だけ

寒くなってきた。
朝から雨。
テレビでは謎の儀式をずっと中継している。
寒くなると何故か寂しい感じがする。
何処か行く?
まだ雨が降ってるのかな?

世界中と言わなくても日本中あるいはこの街に
知っていて話をできる人が3人いるとすると、
それは多分この世に話せる人が3人しかいない
というのと等価だ。
街にはたくさん人がいて、
窓の外を歩いている。
だけど私に話しかけてくる人はいない。
だからこのたくさんの人は居ないに等しい。
そんな気がする。

どこかに話したい人が一人いればいい。
たぶんこの世の中にその人一人しか存在しないのと同じだ。
hello! someone!


10/21/2019

眠れない

夢の話を書くには眠らないといけない。
でも眠れない。
猫がご飯を食べに来たので抱き枕にしようと思ったけど
呼んだのに来ない。
向こうの部屋のベッドに行ってしまったのだろう。
今午前2時13分だ。
いつも午前2時を過ぎるともう眠れない。

孤独な時間だ。
孤独? おまえは好きだったんじゃないの?
そうだけどさみしい


10/15/2019

札幌「つむり庵」

先月北海道に行った時に泊まったのは札幌の大通の西22丁目にある
「つむり庵」というゲストハウス。
ゲストハウスなので4人部屋にベッドが4つなのだけれど、最近個室
もできるようになったらしい。
それよりも驚いたのは前回管理していた女性が亡くなっていたこと。
今回はその家族の方が管理されていた。
若い男の方でとても感じのいい人だった。

「つむり庵」はもちろん日本人だけじゃなく、外国人も利用する。
私は1度しか一緒にならなかったけれど、その人はイギリスの人だった。
少し話をした。
「つむり庵」の良いところは何一つ煩わしくないこと。
出入りは自由。風呂はだれか入っていなければ次に入ればいい。
洗濯機はお金を賽銭箱?に入れて使える。

ロビーには朝はピザトーストが1枚用意されていて、それをトースターで
焼いて食べることができる。
コーヒー(インスタント)は自由にいつでも飲める。ただしお湯はそこにある
ポットで沸かして飲んだあとはコップを洗って置いておく。
ロビーにはたいてい泊ってる人(女性も男性も)がいて、話をしたければ
話もできるし、情報交換もできる。
外へ出るときは各自鍵を持って出る。誰も残っていなそうなときはドアに
カギをかけて出る。
つまり「つむり庵」のいいところはまるで自分の家のように過ごせるところ。
部屋は清潔で奇麗。
ただし同居人あり、だ。それと1泊¥3000ってことだ。

帯広に行った時はユースホステルだった。
ユースホステルと言っても昔のユースみたいに集合して歌を歌ったりはしない。
(まだそういうところもあるという話を誰かがしていたけれど)
そこのユースホステルもほかの部屋の人と会うのは食事の時くらい。
部屋はやはり4人だったか5人だったかの部屋。
その日はこれから網走に行くという男の人が一人同室だった。
ユースなので全体的に合宿っぽい。
そういうのが気にならない人はいいと思う。
宿泊料金は食事なしで4千円くらいだったと思う。
ここのすばらしさは、なにせ広大な畑の真ん中なので夜は真っ暗、
空を見上げるとものすごい星。天の川もはっきりと見える。
星空ってこんなだったんだ!と思わせる。
それだけを見に行ってもいいくらい。

北海道に住んでいた時は帯広は2,3度通り過ぎただけだった。
今回行ってみて、もう一度行きたいと思った。

秋だからまた夢の話をしよう

・・・いつもそれだけど・・・

小さな4歳くらいの男の子と一緒に布団に入って寝ている。
男の子はふざけて大声を出したりしている。
するとその部屋に一緒に寝ている(何かの合宿のようだ)他の人が
起き上がるのがわかった。
「ほら、静かにしないと・・」と男の子に言うけれど
男の子はすっかり起きていて歩き回っている。
その子を抱き上げて布団に戻り横になろうとする。
男の子は笑っている。

誰かが雨戸を開けて黒い煙の出る何かを燃やしている。
「窓を閉めろ!」と誰かが言っている。
外に真っ黒の煙が見える。
「世界一黒い煙だ」と誰かが言う。

私はその男の子を抱えて裏から外に出る。
するとそこは崖になっていて、高さ40メートルくらいある。
みんなそこを滑るように降りてゆく。
私も男の子を抱えてそこを降りる。
すると崖はほとんど垂直で、足が着くところを選んで落ちるように
降りて行く。
しばらくするとその降下感が快感になってくる。
どんどん下に降りてゆく。

降りると工場の中だった。
どうやら私がその工場を管理しているらしい。
広い部屋にところどころ机があって、そこに何人か座って仕事をしている。
私はそれを見回っているが、内心何を管理しているのかわからない。
私も誰もいない机に座ると、目の前に電子回路の基板がある。
「ああ、これは私が作ったんだ」と思う。
でもそれが何のための回路かいまいちわからない。

向こうで何人か集まって話をしている。
私はそれには加わらない。
いや、加わることができる雰囲気じゃない。
私は気にしないようにしている。
疎外感。
いつも感じていた。
あの感じだ。

目が覚める。



10/10/2019

ゆめのはなし

君のオレンジ色のコートは肩のところが少しはげて地が見えていた。
「なんでそのコートを着てるの?」と思った。
だけどそれには見覚えがあった。
それから君はいつもそうしてたようにスタスタと歩いて行ってしまった。
僕は後を追うけれど、どこに行ったのか。。。
そうだ家に行ってみようと思った。
でも家に行くと僕は入れてもらえないと思った。
それで家に行くのはやめた。
電話してみようと思った。
でも携帯の画面はいつものようにぼやけていて
どこを押していいかわからない。
電話番号も覚えていない。
「あ、そうだ!あの家にはもういないんだっけ!」と思い出した。
「なんだマンションにいるじゃないか!」と思った。
その時、オレンジ色のコートは僕のコートだと思い出した。
ずっしりとしたコートだ。
そうだった?
コットンのコートだ。
箱根だ。
箱根で野宿した時に着ていた。
あ、でもあれはオレンジじゃない。
コットンの白い色だった。
いや、違うグレーだ。
そうするとあのオレンジ色のコートは何だろう。
少し表面がはげて下地が見えていたのが妙にリアルだ。
匂いだ。
芳香の。。
もう何が本当なのかわからない。






10/09/2019

あの頃の未来

羽田の展望台から眺めていたら、
これはもう十分未来なんじゃないかと思った。
子どもの頃の科学雑誌にこういう絵があったように思う。
まあ、その絵では空を原子力飛行機が飛んで車も空を飛んでいたけれど、
だけど、この景色はほとんどその時の未来だと思う。


前にも書いたけれど、薄汚れているからピカピカの未来とは感じない。
だけど、今の世の中の何もかも未来のうな気がする。


10/06/2019

千歳行きバス

どうでもいいけれどこの駅前から千歳行きのバスに乗るのは不正解だった。
どうも昔の高速バスのつもりで乗ってしまったのだけど、
ここから出ているのは各駅停車だ。
千歳まで1時間半かかった。
飛行機の時間に余裕がなかったら途中で降りてるところだ。

だけど道順はほぼ昔乗ったバスと変わらないので夕方の景色を見ながら
行くのは良かった。

バスに乗る直前に横断歩道で自転車に乗った初老のおっさんと歩いていた
それよりかなり年配のおじさんが衝突して、二人とも道路に倒れてしまった。
ぶつけられたおじさんはすごく怒っていたけれど、急いでいたのかその場を
後にしてしまった。
私はバス停のバスに向かっていたのでバスに乗ってしまったけれど、
もし暇な時だったら「交通事故だから警察呼んだ方がいいよ」とか
「そのままにしたらひき逃げになるよ」とか
余計なことを言っていたと思う。
だから、第三者が警察に通報していないことを祈る。
誰か通報していたら自転車のおっさんはひき逃げ犯だ。

そこで札幌はどうなんだろう? と思う。
あれが東京や横浜だったら当事者か野次馬が通報していたと思う。








10/01/2019

帰るところ


札幌に1週間いた。
最終日、夜の便だったので夜まで札幌にいた。
夕方になって北一条通り、4丁目あたりから西を見ると遠く三角山が見える。
昔あの山の手前に住んでいた。
無性にそこに帰りたくなるけれど、
もう何度も試したように、
そこに自分の場所はもう無い。
だけど、こうして街から見ていると、そこにまだ自分の部屋があるような気がする。
その思いを引きはがして
札幌を後にした。

9/16/2019

帯広

木曜日から北海道だ。
着いた翌日は千歳からバイクを借りて帯広まで行くつもりだけれど、
雨が降ったら急遽レンタカーに変更しよう。
帯広は海岸まで行くつもり。
それから牧場とか畑とかの映像を撮りたい。

心配なのはどのくらいの気温になるだろうか?ということ。
ライダージャケットはそんなに厚くない。
風を遮ることはできそうだけど。
以前は夏用のジャケットで風通しが良くて凍えそうだった。
今回はちょっと厚着も一応持って行こう。
熊のでそうな山側とか朝晩は出かけないようにしよう。


9/07/2019

デミアン

センター北のノースポートの本屋アカデミアは賞賛すべき。
いつ売れるかわからない膨大な本を置いている。
最近の本屋にはめずらしいと思う。

今日は散歩ついでにその本屋に行った。
特に何も買うつもりは無かったのだけれど、書店の名前を見て
「あそうだ、デミアン買おう」と思った。
まだ読んだこと無かったから。
洋書も探したけれど無かったので、文庫本を買ってきた。

デミアンの文庫本は2冊(2種類)あった。
一つは岩波、もう一つは光文社だった。
両方を比べてみると微妙に違う。
どっちがいいと言えない。
ある部分では岩波の訳の方が自然だけど、同じのを光文社で読むと
ちょっと不自然。
やっぱり洋書で欲しいと思った。
まあ、いいや、と光文社の方を買ってきた。
一度これを読んでみて我慢できなかったら洋書を買おう。

それから楽器屋に行った。
用もないのに行くと危険な店だ。
楽譜を見ていたら小さなサイズの昔はよくみたクラシック曲の
スコアが結構あった。
前から欲しかったベートーヴェンの田園のスコアーを見ていたら
買って帰ろうと思った。
たぶんこれをどうこうすることは無いと思う。
でも最終楽章をアレンジしてギターを弾こうと前から思っていたので
役にたつかもしれない。
買って帰って家で見ていたら、「これ持ってたんじゃないかな?」
というかなり確かな記憶が蘇った。
そうだ、持っていた。
中学の時に買った。
でも度重なる引っ越しのどこかで無くなった。
あの頃は今よりも楽譜は読めなかったと思う。
中二病だったんだろうか。
田園は生まれて初めて生演奏で聴いた曲だ。

漂泊のピアニスト アファナシエフ

昨日のBSでやっていた。
その番組で取り上げられていた曲はシューベルトピアノソナタ第21番だった。
この曲は何度か聴いたことがある。
第一楽章の低音部のトリルにも気が付いていた。
気が付いていたけれど、それほど気にもしていなかった。

その番組でアファナシェフが「最も恐ろしいトリル」とか言っていた。
それで気が付いた。
そういえばこのトリルは何だ?
と思った。
前後の曲想とは全く異なる「音」だ。
これは死の不安に似ている。
子供の頃、不意に襲ってきたあの感じ。
遊んでいてもちょっと気を許すとあれがやってきた。
その感覚にすごく似ている。

シューベルトがどういうつもりであの音を入れたのかわからないけど、
何かとても強い不安があったんじゃないだろうか。
と思う。




9/05/2019

想い出したこと

今日の午後、突然当時のできごとを思い出した。
胸がどきどきした。
急いでシャッターを閉じた。
閉じてよかったのかどうかわからない。
そのままにしていたら全てを思い出したのかもしれないから。

想い出したのは、


僕の母がだいぶ後になってそのことを話してくれた。
あれは父と母と一緒に層雲峡の旅館に泊まった時だと思う。
僕は外が見える窓のところで向かいの山肌を見ながら母と話をした。
いろいろなことを話した。
その時に、そのことを聞いたんだと思う。
母は僕を励ましてくれた。

そうだ。
母はいつも励ましてくれていた。


これは後で消そう。。

札幌・花畔 1978年?

札幌でたくさん写真を撮ったのだけれど、だいたいはどこで撮ったか
憶えている。でも何枚かはどこで撮ったのか思い出せないものがある。
この写真は花畔で撮ったものだ。記憶ではカメラの三脚を立てたのは
砂利の地面だった。

夜中に石狩手稲通を手稲から花川の方に向かって走っていると右手に新しい
住宅地が見えたので、車を右折させて行くと、この住宅の列があった。
ここはその前にギターを持って行って練習したあたりだ。

それがどこかを探してみた。
まずこの10軒の家が並んだ場所がほとんど無い。
多いところで8軒。
この10軒並んだところで、しかもまっすぐ後ろに手稲山が見えるところ
1か所しかない。
その場所は航空写真で見るとここだ。
家の屋根の形を見てもだいたい一致している。
ここは1976年の写真には写っていない。
しかし1981年の写真には写っている。

この2枚は同じ場所だけれど、写した角度が違う。
ちょうど私が札幌にいた時期のどこかでこの住宅ができた。

今はどうも家も改築されたか立て直したかで、形が変わっている。
私が三脚を立てた場所は今は郵便局になっているようだ。



9/03/2019

高槻 1961年

高槻に居た1年間というのは1961年だった。
その1961年の航空写真があった。
家があったところは新しく住宅が立ち始めていたところだったのがよくわかる。
真ん中の矢印が家だ。
そういえばこのエリアはまだ更地のところが多かった。
でもこの写真よりは家は建っていたように思う。
家の縁側からは直接国道が見えた。
このまえ(6月)行った時はもう家がびっしり建っていて国道は見えなかった。
国道を少し京都寄りに行くとオアシスというレストランがあった。
家の向かい側の国道の向こう側はネコスという椅子を作っている工場だった。
そのもう少し京都よりにユアサ電池の工場があった。
だめになった電池がたくさん捨てられていて、それを拾ってきて
残った電気で遊んだ記憶がある。
それから、そこだったか、もう少し京都寄りだったかに
工事中の場所があって、レールにトロッコが置いてあった。
友達とそれに乗って遊んでいたら男の人が来て怒られた記憶がある。
先日行った景色と比べるとずいぶん変わってしまっている。

同じ年代の学校(分校)のあった場所もわかった。
今の地図と比べてみるとずいぶんこじんまりとまとめられた場所
だったようだ。今の中学はこのずっと上の部分になっている。
音楽教室もほぼ記憶と一致する。
この前座って、「このあたりに校舎があったはず」と思って座った
ベンチはまさにちょうどこの校舎の位置だった。
偶然というか、ちょっと不思議だ。

東八道路(2)1965年~1988年

東八道路の計画は1946年から始まったらしい。
それじゃあ実際には東八道路というのはいつからできたんだろう?
過去の航空写真を調べたら1964年までは全く写っていないことがわかった。
初めて現れるのは1965年の写真からだった。
ど真ん中にある白い帯がそれだ。
左端は多磨霊園だ。
右端は野崎の交差点のあたりだ。
この頃この道は中学生の頃だった。自転車でよく走った。
家からキリ大まで走って、そこからこの東八道路まで行った。
そこから調布飛行場までは長い下り坂だった。
自転車で走ると気持ちよかった。

1968年になると長さがけっこう長くなっている。
多磨霊園の方までつながっている。東は野崎だと思う。

1971年になると東は宇宙研究所のところまで伸びている。
この頃は確か宇宙研の前の道路のところで終わっていて、その先は道路の
ための土地は確保されていたけれど道路にはなっていなかったと思う。
宇宙研究所になったのは少し後なのかな?
その前は、敷地内にスキーのジャンプ台のような急なスロープが
あって、その上から自動車を転がして衝撃を調べていたのを見たことがある。
それから船舶研究所というのになったのか?あるいは同じ場所にあったのか、
そういうのがあった。

この宇宙研のところから府中の方までは片側3車線だったと思う。
けっこうスピードを出せる道なので、一度速度違反でつかまったことがある。

1988年になると牟礼のほうまでつながったみたいだ。
この頃はもう横浜に住んでいたのでよくわからない。




東八道路(1) 1957年三鷹

キンシオの番組でたびたび出てくるのが東八道路だけれど、
あれはいつからできたのだろう?と思い出してみた。
これは1957年の三鷹の航空写真
この写真には東八道路はまだ見えない。
1957年というと小学校(6小)に入ったころだ。
だからその頃住んでいた家はまだ写真に見える。

家の南側は長屋だった。
長屋は2つに分かれていて真ん中に切れ目があって、そこに井戸があった。
よくそこで住人の人が洗い物をしていたのを覚えている。

長屋の右側は串田アパートと言ったと思う。当時親戚の兼雄さんが住んでいた。
アパートは木造の3回建てで兼雄さんが住んでいたのは屋根裏みたいな造りの
一番上の部屋だった。
アパートには大家さんだろうかおばさんがいて、武智豊子に似た感じの人だった。
そのアパートの南側は友達のトッチンの家だった。たぶん今もそこにあるはず。
だいぶ前に行ったら立派な大きな一軒家になっていた。

左上は六小。まえにもかいた小川がそこから右下に向かって流れている。
そこを左右に突っ切っているちょっと広めの道路はこの頃は砂利道だった。

六小の下の交差点の第二象限のところは友達の家だった。
広い庭があって、カンナの花が垣根のように生えていた。
六小の左側は工場。確か山水電気の工場だった。

9/02/2019

稲垣足穂の

「月球儀少年」という本を昔持っていた。
それはもうずっと前にヤフオクで売ってしまった。
定価よりも高く売れたと思う。
ヤフオクも、というかインターネットもまだ初期の頃だったから。

その本だけれど、札幌のパルコで買ったと思っていた。
というかパルコの書店の棚の、目の高さよりも少し上のところに
あの分厚い本が置いてあったのをイメージとして覚えている。
しかし「月球儀少年」の本は1988年が初版と書いてある。
もしも札幌で買ったとすると1980年よりも前のはず。
不思議だけれど札幌のパルコの記憶は幻のようだ。

いや、そうだろうか?
値段が1万円(たぶん¥9800)くらいしたことも覚えている。
その値段を見て買おうかどうか迷った。
・・その迷ったのは東京のことだったのか?
だとするとどこで買ったんだろう?
全く覚えていない。

それはそうと、ちょっと気になってあの本の中の話をもう一度読みたい
と思うところがある。
問題は結構高いことだ。
古書で¥5000くらい。
その金額は本の中のたった数ページに払うのはもったいない。
いつかどこかで投げ売りしてるのを待とう。

9/01/2019

秋吉台

さっきテレビで見ていて思ったのだけど、
「秋吉台」には行ったことがるんじゃないだろうか?
今まで忘れていたけれど、秋吉台には行ったことがあると思っていたように思う。
昔はテレビで秋吉台あるいは秋芳洞というのが出てくると
「ああ、行ったことがある」と思ったような気がする。

だけど、行ったとしたらいつだろう?
東京で暮らしていた時はあまりに遠すぎるから遠足でも行ったことがない。
高校は京都まで。
大学の時には山口に行ったけれど、友達の家に行っただけのような気がする。
でもその時に行ったんだろうか?
まったく記憶には無い。

小学校の5年の時は高槻にいた。
その時にひょっとして遠足で行ったろうか?
可能性はあるけど、あの1年間でどこかに行った記憶は「ウサギ狩り」に
摂津峡まで行ったことを覚えているだけだ。
その時だったんだろうか?
秋吉台の景色を少し覚えている。
その台地のところを歩いた記憶もある。
でも秋芳洞の中には入らなかった(はず)。

「こころ旅」を見てそう思った。

8/31/2019

フォンメック婦人

チャイコフスキーと言えば、フォンメック婦人だけど、
本当に一度も会わずに文通だけしていたのだろうか。
どうも歴史上はそういうことになっているらしい。
不思議なのはどちらも会いたいと思わなかったのだろうか?ということ。
チャイコフスキーと言う人はどうも内気な人だったらしいから
言う勇気が無かったのだろうか?
あるいは「財産目当て」と思われるのがいやだったからだろうか。
それにしても生涯チャイコフスキーを援助したわけだから、チャイコフスキー
にしてみれば一度会ってお礼を・・・みたいなことにはならなかったのだろうか。
お互い独身だったんだから会えばよかったのにと思う。

うーーん、1889年にチャイコフスキーは「かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。」
と書かれている。そして1890年にフォンメック婦人はチャイコフスキーへの援助を止めている。昔のことだからこの1年というのは何かのアクションとしては早いんじゃないだろうか?
フォンメック婦人が恋愛感情を持っていなかったとするとこの援助打ち切りというのは
解せない。

フォンメック婦人が援助を申し出たのが1876年、白鳥の湖も1976年だ。
これは偶然だろうか?

というような週刊文春的な憶測を始めるときりがないからやめよう。

でも、最初に会っているような気がする。



はじめてのクラシック

という番組を見ていた。
同じ時間に同じ放送局の地デジで「題名のない音楽会」をやっている。
いいのか?
と思う思うけれどこっちの方が内容があった。
チャイコフスキーの特集で面白かった。

「ロココの主題による変奏曲」をやっていた。
このタイトルは以前は確か「ロココ風主題による変奏曲」だったと思う。
そこはどうでもいいのだけど、この曲の初演の時に曲を献呈したチェリストの
フィッツェンハーゲンが大幅な編曲をして演奏し、それが後々の定番になってしまったらしい。
チャイコフスキーはそれについて良くは思っていなかったそうだ。

そうだろうな、と思う。
献呈はしたけれど変えていいよとは言っていないと思う。
これはある作家の小説が出版時に内容を変えられてしまったようなものだ。

たぶん、編曲したものの方が受けはいいのかもしれない。
チェリストだからチェロのことは良く知っているはずだから。
でもそれはそれで、変えるなら作者の意見は聞かないといけない。
私はチャイコフスキーのオリジナルのものは聞いたことないけれど、
一度聴かないといけないな。

もうひとついつも気になっていることがある。
「白鳥の湖」だ。
組曲になっている有名な小曲(情景)だけれど冒頭の有名なモチーフの後で第2の
モチーフみたいなメロディーに変わるけれど、その変わり目はもっと劇的にやってほしい。
と思っていた。
なぜかみなサッっと入ってしまう。

それでバレエそのものというか全曲の方を聴いてみると、
フィナーレのところ。
王子がオデッテを抱き上げて踊るところあたりで同じテーマが流れるけれど、
(いや、演出で違うかもしれないけど、王子が悪魔に勝つあたり)
その時の第二テーマの現れ方は実に劇的だ。
あれでないといけない。
「情景」と聞き比べてみるとバレエの方は弦楽と金管がメインで演奏している。
そっちの方がいい。
「情景」の方は弦楽と木管がメインだ。

それはそうと最後オデッテと王子は死んでしまうのか?
なんかそれはひどいように思う。
あの世で一緒になっても面白くない。
悪魔に勝ったんだからハッピーエンドでいいんじゃないの?

追記:
色々な白鳥の湖のバレエの最後のところを見比べてみた。
上に書いた「弦楽と金管」というのは違うかもしれない
バイオリン、ビオラ群とチェロ、コントラバス群かもしれない。

最期のところハッピーエンドで終わるものが多いような気がするけれど、
最期に悪魔が一人台の上に立っているまま終わるのがあった。
なんかちょっと・・・


8/26/2019

表現の不自由展と放送禁止歌

なんだろうね、あれは?

多分に政治臭がするので問題なのかな?
と思ったのだけど、それじゃあスミソニアン博物館の原爆展はどうなの?
と思う。
あれはエノラゲイを展示するなら原爆展も併設しろよ、ということなんだと
思うけれど、アメリカ人に理解を求めるのは難しいだろうね。
日本の原爆展が日本国というよりも人類の悲劇を表現したいということも、
当の落とした方からすれば批難されていると思うだろうし、戦争を終わらせた
意識があるだろうから、純粋な核兵器に対する反対の意味は素直には
受け止められないと思う。

じゃあ、あの少女像は?と考えると戦争の悲劇を表現したというより
「韓国が日本から受けた被害の表現」という意味が強いと思う。
人類の悲劇ではなく韓国の対日本批難の象徴、いや違うな、武器に
近いかもしれない。たぶんかなり強力な武器だと思う。

放送禁止歌というのがあるけれど、
あれも作者ではなく周りが「放送禁止にした方がいいんじゃない?」と
いう様々な意識を忖度して放送禁止にしてしまったのだと思う。
たぶん作者は「表現の自由だ!」と怒ってるかもしれない。

たぶん歌の中の歌詞に誰かがクレームをつけたのだと思うけれど、
改めて歌詞を読んでも「どこが?」という感じがする。
受け取り方次第じゃないだろうか。
しかし放送禁止歌の中には誰かを名指しで非難したり、特定の団体を
批難したものはあまり無いように思う。
あることはあるけど、自衛隊がどうしたとか佐藤栄作がどうしたとか。
まあ、それにしてもOKだろうな。
自国の人間が自国の政治を批難するのはありだと思う。

それじゃあ改めてあの少女像はどうなんだ?
ということになるけれど、あれは自国(韓国)に突き付けた方がいい
ようにも思う。慰安婦問題は2015年に両国が合意したことになっている。
その当時の韓国政府がそうしたのだろう。
韓国が合意してしまったことが問題なのだろう。
合意せずに「韓国は未来永劫にわたって日本を批難します」と言っていれば
しょうがないなあ、ということで現在に至っていたと思う。

それはそうと「表現の不自由展」とかいう展示会だけれど、
どうもあれはだめなような気がする。
少女像に限らず政治色が強すぎる。
例えば天皇の写真を燃やしてしまう「作品」だけど作品としてはあまりに幼稚だ。
あえて「芸術作品」という言葉は使わないけれど、自分の生涯をかけた「作品」
を作るのが「芸術家」だと思う。

結果ありきの展示会のように思う。
「こうすれば誰かが反対するから表現の自由が失われたことになる」
という目論見ではないだろうか。
最初からそれを狙っていたと思う。
それは作品展ではなく「展示会の展示」なんだと思う。
一種のインスタレーションあるいはパフォーマンス。
道路で素っ裸で踊れば警察がやってくることをわかって踊る。
それと同じ。
少女像が「作品」とは思わないけれど、他の作品を出品した人は
展示会のもくろみの被害者だと思う。