9/30/2017

夢からの逃避

夢と言えど、何度も同じ夢を見ていると
現実になることがあるらしい。
そうなると現実はがぜん夢実を帯びてくる。
現実の中で起きていることが
まるで夢に現実として起きていることのように思える。
こんなことが夢の中で起きるわけがないとわかっていても
まるで手で触れるように現実が存在する。
それはあくまで現実だと
心のどこかではわかっていても。

現実に逃避してはいけないと言うけれど、
現実の方が夢よりも心地よい
だからいつまでも現実にいたい
いつか現実から覚めて夢に戻るまでは



9/23/2017

40年て・・・

よく見る夢がある。
知らない街である人に出会う。
とても懐かしい。
一緒に歩いていると昔の街に出る。
見慣れた家の並びの間の道を歩いている。
誰か向こうから歩いてくる。
私はその人と少し話す。
そして隣を見るとさっきまで一緒に歩いていたのに
そこに居ない。
あれ?と思いながらもと来た道を戻ってみるけれど、
いない。
「そうだ、電話だ」と思い、携帯を取りだす。
でも画面がぼやけてはっきり見えない。
番号を思い出そうとするけれど、
まったく思い出せない。
住所と番号を書いておくんだった、
と後悔する。

そんな夢を何度も見た。





9/12/2017

円山・札幌フードセンター 宮の森・東急ストアー


不思議なことにこのお店は1975年当時と変わらずにここにある。
円山に居た時はあまり自炊しなかったから買い物は円山市場ですませていた。
だからこのお店に入ったのはあまり頻繁ではなかったと思う。
あまり店内の記憶が無い。
この向かい側のドンクのパン屋があった。
そこは毎日のようにパンを買っていた。
フードセンターは会社のパートの人達が良く買い物をしていたようだ。

よく買い物をしたのは宮の森の東急ストアーだ。
今は東光ストアーと名前を変えているけれど、あのお店変わっていない。
その前にあるミスタードーナツも変わっていない。
ん?
あのミスタードーナツはいつからあるんだ?
記憶では1975年当時にあったような気がするけれど、
ドーナツを買って帰った記憶が無いと思う。
あっただろうか?
わからない。
別なお店だったかもしれない。
写真が残っていないか調べてみよう.

前にどこかに入れたかもしれないけど、ここを左に行くと「まるやまいちば」だ。



上を反対側(北側)から見るとこんな感じだった。


毎日のように通ったはずなのだけど、中のお店のことをあまり覚えていない。
端っこにコロッケを売っている店があって、ごつごつしたとても美味しいコロッケ
だった。

9/11/2017

ブログ  だ

考えてえ見ると私の実生活と同じように、ブログを見ている人はいないわけで、
私が公園を歩いていても誰かがそれを見ていることは無い。
ただ私が歩いていることは残らないけれど、書いていることは残るはずで、
いつか誰かがこれを読んでるかもしれない。
おめでとう、あなたは外れくじを引いたようです。

小説家は誰かに読まれることを想定して書いているはず。
でも日記はどうなんだろう?
誰かが読むことがあるかも、可能性としてはあるかもしれないと
考えて書くものなのだろうか?
たぶんどこかで意識はしていると思う。

でも日記を書いてどうなるんだろう?
とは考えないだろうか?
自分で読み返すことなんてあるんだろうか?
そう考えると空しい作業だ。

深い森の奥で木が一本倒れた
誰かその音を聞くことがあるだろうか。

…みたいな

9/10/2017

札幌芸術の森美術館 の2

その野外ステージからバス停の方に戻って入り口を見つけた。
入り口はかなり見つけにくいと思う。

そこで入園料¥700を払って屋外の彫刻展示場に入る。
入ってすぐに彫刻の展示が始まる。
最初が風で動く白い帆のような作品で、それに続いて女性二人が互いに背を向けて
座っている彫刻があり、通り過ぎながらちょっと気になった。
 次にあるのが「日時計の広場」なのだけれど、これは作者の名前が無いので
この美術館のベーシックな展示物なのだと思う。
…と思っていたけれど、どうもこれはダニ・カラヴァンの「隠された庭への道」の
一環らしい。パンフレットを良く見るとこのあたり全体がこの作品ということらしい。

しかしこの「作品」はとても良い。
しばらくこの前で座っていた。
2本の柱の間に太陽の光があたるとオレンジ色に輝いてとてもきれいだ。

それから水を使った作品が続く。
その後は、木々の間に沢山の彫刻が置かれている。
それらを見ながら歩くと芝生の丘の沿って展示物が置かれている。



もう全体を一周して終わりに近いところにこの作品がある。
1・2・√2という名前らしい。
この作品が気にいった。
30分くらいこの作品の周りで眺めていた。

シンプルかつダイナミックな作品だ。
ずっと見ていたい。

全部を廻って、最初に見た女性二人の彫刻が気になって、
そこに戻った。

この作品は二人というらしい。
このビデオの説明にも書いたけれど、正面から見て左側の女性が気になる。
どこかで会ったような気もする。
じっと見ていると声をかけられたような気になる。
後ろにいるもう一人を見た時にこの美術館の入り口の建物が見えてしまうのが
ちょっと残念。少し角度を変えてもらって、邪魔な背景が無くなると
もっと違った印象になるかもしれない。

箱根と比べると見るべき彫刻が多いように思う。
4時間くらいこの公園(美術館)にいたけれど、飽きることはなかった。






Pacific Music Festival (PMF) 札幌芸術の森美術館 レナード・バーンスタインがいた

箱根彫刻の森美術館が1969年。札幌芸術の森美術館が1986だそうだ。
箱根に初めて行ったのはいつだったろう?
思い出せない。
思い出せないくらいつまらなかったのかもしれない。

今回初めて札幌芸術の森美術館に行った。
旅行の最終日でその日に羽田に帰る日だった。
朝ゲストハウスを出て(誰もいなかったのでお別れの挨拶もできなかった)
大通り公園駅に出てロッカーにバッグを押し込んで、
そのまま南北線で真駒内まで乗った。
たぶん南北線で真駒内までというのは初めてだと思う。
真駒内駅からバスで芸術の森まで乗る。
この道は車で支笏湖に向かう道で、100回以上は走っていたはず。
その頃は家がまばらに建っているだけだった。
しかし、今は家が立ち並びもう郊外の住宅地になっている。

バスの終点で降りたが、美術館の入り口がわからず適当に歩いて行くと、
楽器を持った学生らしき人々が何人も歩いて来た。
そちらの方向にあるいてゆくと音楽ホールがあった。
そこへは入らず、脇を行くと屋外のステージに出た。
斜面の芝生が美しい。

それに対面している大きなキノコのような形状のステージもきれいだ。


ステージの右側の壁にパネルがあった。
そこにバーンスタインの写真とメッセージが彫られていた。
「パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)誕生の地
1990年6月26日、レナードバーンスタインの提唱で始まったPMFは、
国際教育音楽祭としての第一歩をこの地に印しました。」
とある。

その下に日本語と英語でバーンスタインのメッセージが書かれていた。

And I now must make the choice again of how best to serve music,and serve people through it.
Should I spend whatever days the good Load gives to me going back to my first love,the piano.
and playing all the Beethoven Sonata again?
Shoul I just go being a conductor playing all the Brahms Symphonies again year after year?
Shoul I devote myself only to being a composer
and writing the various kinds of music that I do write?
When you get to be 71,you consider such problems.
My decision has been, without too much difficulty,
to spend most of the remaining energy and time the Load grants me
with education,sharing as much as I can with younger people
---especially with very much younger people.
What ever I know not only about music,
but also about the arts,and not only about art,but also about the relation betweeen art and life.
And about being oneself,finding one's self,"knowing who you are"and doing the best possible job.
If I can communicate some of this to as many young people as possible
in the years that remain to me.I will be a very happy man.
This Pacific Music Festival is one very large aspect of this  commitment
which I hereby nake for the rest of my life.
from this address at the PMF 1990 Opening Ceremony     Leonard Bernstein(実筆サイン)

71歳になるとそういうことも考えるのか。
自分もその歳になったらそんなことを考えてみるかな、と思った。

しばらく芝生に座っていた。
草刈りの機械がうるさかった。






9/09/2017

北海道っぽい所

今回の旅行では北海道っぽい場所に行ってみようと思った。
それでGoogleストリートビューで景色の良さそうなところを探しておいた。

その一つが沙流川の河口付近の牧場だった。
日高や浦川まで行かなくても沙流川両脇に広々した牧場がいくつもあった。
道東までいかなくてもけっこう広々した牧場が見られる。



このあたりはたぶん馬の牧場だと思うけれど、牛もけっこういた。


このあたりの馬はみな競走馬だ。
とても美しい。



このあたりはどこに行っても広々している。
はるか向こうまで牧草地だ。

もうひとつ行ってみたいところがあった。
それは深川から山の方に行ったところの丸加高原だ。
深川にも行ってみたかったので友人の車で送ってもらった。

この高原は文句なく美しいと思う。
今まで何度も深川、滝川には来ていたけれど、この高原には来たことがなかった。
もっと前に来ておけばよかったと思ったけれど、
昔はここに通じる道はできていただろうか?


札幌は変わったか

今回札幌に行って思ったことがある。
確かに街並みや家やビルや道路は昔とは違っている。
綺麗な公園もできているし、昔は砂利道だったところがきれいに舗装されている。
だから昔の感覚で歩くと「ずいぶん変わったなあ」と感じる。
でも今回の旅行はちょっと違った。
これが札幌なんだろう、と思った。

私が住んでいた頃も、古い家は次々無くなり、
道路はきれいになり、
新しいビルが次々と建った。
今も昔も変わりない。
そうなんだと思った。

札幌はちっとも変っていない。

9/06/2017

藻岩山

学生の時友人と二人で東京から1000ccのチェリーを駆って、
ひたすら4号線を青森まで走り、青森から青函連絡船のデッキに車を積んで、
函館から札幌まで走った時に登ったのが初めてだった。



それから札幌に住み始めて登ったのはたぶん4回くらいだと思う。
札幌を去ってからは今回が初めてだ。
確か以前は山頂まで車で行けたはずだけれど、今回行ってみてわかったのは、
山頂までの自動車道路は途中で通行止めになっていて、そこからは
ロープウェイで登るか、歩いてのぼるしかない。
ひどいものだ。
そんなわけで歩いて登った。

「こういう眺めだっけ?」と思った。
記憶よりずっとクリアーできれいに見えた。
たぶん高層ビルが増えている。
野幌の百年の塔がなぜかとても遠くに見えた。

帰りは(宮の森のトヨタ)盤渓を通って帰りたいと思っていたら、
カーナナビはちゃんと盤渓を通る道で案内してくれた。
盤渓から真駒内へは以前はカーブの続く峠道だったけれど、
その後トンネルができたようだ。

もう藻岩山に登ることもないかな、と思う。

望来海岸

望来まで行った。
宮の森、と言っても旧5号線のトヨタレンタで車を借りた。
そこから昔よく行った道で、手稲まで行って駅の所を右折して花畔に向かう。
しかし、こんなに遠かったっけ? というくらい遠い。
昔はよっぽど時間があったのだろう、記憶ではかなり近かったのだが
なかなか着かない。
やっと見慣れた下り坂のところに来た。
下りきったところから海岸沿いの道に入る入り口がある。
そこを入ると丘を登って海岸の脇に出る。


この海岸沿いの道は昔は来たことがなかった。GoogleMapで見ると崖に見えるので
どんなところだろうか、と行ってみた。
この崖はGoogleMapで見るよりも険しい崖だった。



この写真ではわかりにくいが、一歩左によるとがけ下に落ちる。
しかも強い海風が吹いていて怖い。
この崖の上には家がいくつか建っている。
お店と美術館?があった。
人も住んでいるようだ。
まさに海の見える崖の上の家だ。

そこからちょっと行くと今度は石狩海岸が見える。
遠く小樽の方まで見える。



そこで写真を撮っていたら、近くの草むらでガーガーと草を刈っている人達がいた。
この辺の農家の人だろうと思っていた。すると道の方から男の人が来て
「この辺でパラグライダーやってるのしりませんか?」ときいてきた。
「え?」と思ったがすぐにわかった。
あの草を刈っているのは農家の人ではなくパラのテイクオフのための整地を
しているのだ。
そのことを伝えるとその人は草を刈ってる人のところに行った。
私もあとからそこに向かった。
話をすると普段は海風でリッジソアリングをしているとか。
確かにその日は強すぎたけれどコンスタントに海からの風が来ている。
きっと風が良ければいつまででも飛んでいられるだろう。
「今度ハング持って来て下さいよ」と言われたけれど、
そう簡単には行かない。

望来は何度通ったかわからないが、ここに来たのは今回が初めてだった。
風が弱い日はきっと絶好のソアリングスポットなのだろう。

札幌 ゲストハウス 「つむり庵」

札幌に行ってきた。
今回は4泊5日だ。
しかし今の札幌のホテル料金は異常だ。
それでドミトリーはどうかと思い、探した。
すると北1条西22丁目に「つむり庵」というゲストハウスがあることがわかった。
この場所は実に私が一番最初に下宿していた家の道路を隔ててすぐ裏側だった。

ゲストハウスは使ったことが無いのでどんな感じかと思っていたけれど、
心配は無用だった。
とても親切な女性の管理人さんが面倒を見てくれて、困ることは無かった。
2階が女性で1階が男性の部屋ということになっているようだ。
トイレとバスは1階の男性で共用になっている。他の人が使っていない時に
使えばよい。私は同室の人に使うかどうかを聞いて使ったので何の問題も無かった。

大通りのその場所(大通り西22丁目)で寝ることは40年ぶりくらいなのだけれど、
こんなに静かだっただろうか?と思うほど静かだった。
2日目は4人同室で、一人寝息のうるさい人がいたがそのうち静かになった。
他の日も4人、5人ということがあったけれど、皆とても静かだった。

玄関のところがリビングのようになっていて、そこではコーヒー(インスタント)
と麦茶と(何だったろう?)はいつでも勝手に飲んで良かった。
朝はチーズをかけたトーストが用意されていてそれをトースターで温めて食べる。
そこにたまたま居た人と話をすることもできるが、みなあまり話好きではないようだった。特に男性がそうなのかもしれない。女性は夜は何か団欒している声が聞こえていた。

夜は好きな時間に帰ってくればいいし、出かける時も勝手に出かければいい。
洗濯機もあるけれど、洗うのが面倒なのでバスタオルと小さなタオルは毎日借りた。
それも¥50だ。
これだけのことができて、街の大通り沿いのホテルの1泊料金で4泊できるのはすばらしい。

円山市場ももう無いし、ドンクのパン屋も場所が変わってしまってるし、
下宿していた家ももう無いけれど、
円山の雰囲気はそのままだった。
通りに出て南を見れば藻岩山が見える。
山が見える街はいい。






8/30/2017

北海道

明日北海道に行く。
4泊5日だ。
一人の旅行では長い方かもしれない。
バイクに乗ろうと思ったけど、たぶん、やめた。
この前熱中症で救急車を呼んで弱気になった。
おとなしく行こう。


8/27/2017

藤井川ダム・小松寺・石塚駅

Google Mapを眺めていた。
来週北海道に行くので下見をしていた。
それとは関係なく田舎のことを思い出して、あそこは今どうなっているのだろう?
と茨城県に飛んだ。
小松寺の先に藤井川ダムがあるが、今はリクリエーション施設ができて
にぎやかになっている。
そのダムができた頃に田舎の家(母の実家)からそこまで、
隣の貴雄さんの牛車に乗って行ったことがあった。
それは確か小学校の4年生くらいの時だ。
いったい家からどのくらいの距離だったんだろう、と調べてみた。
3.9Kmあった。約一里だ。
一緒に行った貴雄さんが写真を撮ってくれて残っている。

また別の時、近くの町から家まで歩いたことがあった。
というのもバスが出てしまい歩いて帰ろうと思ったからだ。
後でわかったのだけれどバスは結構本数があったのでしばらく待てば次の
バスが来たはずだった。
歩きながらとても暑かったのを覚えている。
また歩いている途中でバスに追い越され、そのバスに隣のおばさん
(ハルさんと言ったと思う。貴雄さんのお母さん)が乗っていて
僕に気が付いて手を振ってくれたのを覚えている。
その町は石塚と言った。
町から家までは4kmだった。丁度一里だ。


バスはどこから乗ったのだろう?とストリートビューを見ていたら
昔のことを思い出した。
確かバスは駅前から乗るはずだった。
その時確かまだ汽車(ディーゼルかも)が走っていた。
だから石塚駅がまだあった時だ。
駅前からまっすぐ商店街があり、お店はけっこうにぎわっていたように思う。

石塚駅から家に向かう途中、町をはずれるあたりに火の見やぐらがあった。
バスは確かその脇を通っていた。
記憶では「十文字」という地名があったように思う。
Google mapには記載が無いが、確かにあったように思う。
町から家までは舗装されていない砂利道だった。
バスは土煙を上げながら走っていた。
今では道はきれいになっているけれど、周りの景色は基本的に
変わっていない。
畑だ。
途中起伏がかなりある。
ストリートビューで追ってみると全て見覚えがある。
最後の坂を上って家に続く脇道の入り口にある雑貨屋が見えた時は
「ああ、もうすぐだ」と言った記憶がある。
夢で時々見る、延々と続く田舎道はあの風景なのかもしれない。
今は、たぶん私を覚えている人は誰もいない。

北海道のところで「花畔(ばんなぐろ)」という地名のことを書いたけれど、
その田舎の近くに「木葉下(あぼっけ)」というところがある。
これもちょっと読めない。


この左手のあぜ道に田んぼで仕事をしていた何人もの人達が座ってお昼を食べていた。
たぶん4歳か5歳くらいだった私は祖母(チヨさん)と一緒に家から
ヤカンにお茶を入れてそこまで持って行ったのを覚えている。
なぜ覚えているかというと、自分にもお茶をすすめられたのだが茶碗が無かった
のでヤカンの蓋で飲めると言われた。でも空気穴が開いているのでそこを指で
押さえながら飲むんだよ、と言われた。その時のことをとてもはっきり覚えている。





8/23/2017

ギター弾きたがり

タイトルなんてどうでもいいのだけど、
今日のYahooニュースで「歌声喫茶」?が最近流行っているというようなことが
書かれていた。
あれはどうも好きになれない。
カラオケよりも好きになれない。
なんとなく民*の匂いがする。
「なぜかロシア民謡が多い」とか書かれていたけれど、
当然と言えば当然だろう。
もともと民*が歌声喫茶をやっていたのだから。
最近のは全く政治団体には関係ないと言われても、好きになれない。
ああいうのはだめだ。

かと言って、それじゃあ「弾き語りライブ」みたいなのはどうか?
というと、あまり好きじゃない。
好きじゃないけど時々出たりしてる。
ああいう形態は我々の世代で終わりだろうな、と思う。
次の世代は同じようにステージで歌ったとしても、何か違うだろうな。
まず、説経臭い歌はないだろうな。
昔を懐かしんだり、遥か昔の歌を歌ってそれが同世代に
結構受けていたりということはどうだろう?
それはそれなりにありそうだけれど、歌は我々の時代の歌じゃないだろう。
今の弾き語りライブはほとんどがエレキ禁止だけれど、
それは逆にエレキとエレアコばかりになるだろうな。
ドラムもOKかな。

今の弾き語りライブでもエレキ(大音量でなく)の音はあってもいいとおもうけれど、
大体が禁止だ。
キーボードはOKでどうしてエレキ禁止?
と思う。

あと30年後のお店のライブを見て見たい気がする。
ぎりぎり生きているかもしれないけど、
どんな音でどんな歌を演奏っているんだろう?
と時々思う。

8/14/2017

柳田芙美緒

今朝テレビで特集していた。
この方は存じ上げなかった。
静岡連隊に従軍して写真を撮っていたそうだ。
出兵する兵士たちを建物の上から撮った写真と、遺骨になって帰って人々の首に掛けられた白い箱の列の写真はすごく説得力がある。残酷な写真だ。
彼が自分の写真集に載せた見開きの大きな写真は
戦争が終わってから銃剣を喉に刺して自殺した兵士の写真だった。
その写真集が世に出た時批判する新聞がけっこうあったそうだ。
しかし写真の本当の力というのはそういうものだと思う。
焦点をぼかしたり、間接的な写真では表現できないものがある。

トランクいっぱいのプリントとネガが焼けずに残ったのをみつけて
トランクに抱きついて号泣したというのは良くわかる。
大勢の戦死した兵隊の写真がその中にあったからだ。




8/09/2017

記憶喪失

これを書いたかどうか忘れた。
これは記憶喪失か?
ま、いいか。

高校3年の時だった。
体育の時間はたいていハンドボールだった。
だいたい球技は苦手できらいだった。
ゴールポストの手前に立って、秋山のジャンプシュートを防ごうとした。
それは覚えていた。でもその前のことは思い出せない。
その後のことはだいぶ後になって思い出した。

私は秋山に倒されて後頭部を地面にぶつけたようだ。
痛みは全く無かったが、ジンジンしていた。
その直前まで眠っていて突然起こされたような気がした。
だからなぜそこにいるのかが理解できなかった。
しばらくコートの外で立っていた。
私は景色を見渡していた。
一人の同級生が「お前大丈夫?」ときいてきた。
そいつも一度記憶喪失になったことがあるゴールキーパーだった。
大丈夫かどうかわからなかった。
そいつは自分の経験から気が付いたのだろう。
先生に「ちょっと保健室に連れて行きます」と言って
私の腕をとって歩き出した。
そこから保健室に歩いて行く時に気がついたのは
少し前のことをどんどん忘れて行くことだった。

図書館の前を通り過ぎる時には自分がハンドボールをしていたことも、
コート脇に立っていたことも忘れて行った。
結局保健室に着いた時には自分がどこからそこに行ったのか
わからなかった。
連れて行ってくれた友人が保険の先生に、「こいつ記憶喪失ですよ」
と言うと、先生は「大丈夫だと思うけれど、様子を見ましょう」
と言っていた。
それからベッドに横になって天井を見ていた。
誰か他の生徒が気分が悪いとかで入ってきた。

そこまでは、ベッドに横になっていた時は全く覚えていなかった。
その後半日くらいしてから徐々に思い出した。

途中その連れてきてくれた友人が「大丈夫?怖くない?」と聞いてきた。
彼は自分が記憶喪失になった時、わけがわからなくて怖かったそうだ。
私は別に怖くは無かった。
そのうち治るだろうと思っていた。
楽天的な性格が効いたのだろう。

その後は記憶を失うことはなかった。
でもハンドボールで倒れる以前のことはもう思い出すことがきなかった。
それがいつまでだったのか、わからない。
1日分なのか数日分なのかもっと長い間の記憶を失ったのか
今となってはわからない。



8/06/2017

8月6日

こうやって毎年書いてるとそのうち同じことを書いてるのに気が付かなく
なるかもしれない。

…というわけで書こう。
8時15分にNHKのテレビを見ていた。
広島の中島町のことをやっていた。
母と一緒に平和記念資料館に行った時、この街のレリーフの前で
母は友人の家のあった場所を指さして、
「あの日の前日の夜は友達とここにいたのよ」と言った。
でも母は仕事があったので家に帰って、直撃はまぬがれた。
私はもっとはっきりその場所を覚えておくべきだった。
すっかり忘れてしまった。

そんなことを考えていると子供たちの平和宣言が始まった。
チャンネルを変えた。
いったい誰があの話し方を教えているんだろう?
先日の沖縄慰霊の日もそうだ。
なぜ子供たちにあんな芝居じみた話し方をさせるのだろう。
ちっとも良くない。
もっと子供が普通に話す話し方で自然に話せばいいのに。

あの話し方は何か典型があるのだろう。
青年の主張とかもそうだ。
あの話し方では全く聞く気にならない。
文章を後から読んだ方がいい。
不謹慎と言われようとかまわない。

たとえばポップスの歌をオペラ歌手が歌うとあんな感じになる。
形式で歌ってはいけない。
形式で思いを語ってはいけない。

・・・と思う。









8/02/2017

父のこと

私の父は銀行マンだった。
その前は大蔵省にいた。
私がまだ子供の頃に、子供二人を座らせて
「お父さんは会社を辞めた」という話をした。
まだ子供だったからその意味がわからなかった。
たぶん何の不安も抱かなかったと思う。
だからその時大蔵省を辞めて銀行に入ったのだと思う。

だいたいそこまではわかっていたのだけど、父の写真を探していたら
その前があったと思われる写真を見つけた。


この写真の裏には「東京帝国大学卒業、日産自動車株式会社」とある。
たぶん大学を出て日産自動車に就職したのだろう。
この写真はすごく父らしい感じがする。

そしておそらくその後に軍に徴集されたのだろう。



写真は二等兵だ。
この写真は父があまり見せなかった表情だ。
とても不安そうだ。
たぶん私が怖がりだったことから考えると父も怖がりだったかもしれない。
ここに行って「大丈夫だよ!」と言ってやりたい。

戦争が終わっても長い間シンガポールの英国軍の捕虜収容所にいた。
日本に帰ってくるのはずいぶん遅くなったらしい。
前にも書いたけれど通訳というか翻訳というかの仕事をまかされていたらしい。

友人が言うにはこの写真は私にそっくりだということだ。



7/25/2017

マックとマウス

スティーブ・ジョブズの映画をやっているので見ていた。
そういえばマッキントッシュが世に(日本に)出た時のことを思い出した。
エレショー(何年だか忘れた)のアップルのブースにマッキントッシュが置かれていた。
白い四角い柱状の台の上に置かれていた。
確か仮想知能(AI)の簡単なデモをやっていた。
画面に出た質問にキーボードで答えると正解かどうかを応えたように思う。
やり取りは英語だったように思う。
私はアップルⅡのファンだったけれど、マッキントッシュが何か魅力的な
ものとは思えなかった。
その要因はハードウエアにあった。
つまり外付けのインターフェイスを作るための技術データが公開されていなかった。
一方IBMあるいはNECはハードが公開されていた。
だから外付けの映像メモリーなどを作ることができた。
仕事で使う上ではマックよりもIBMあるいはNECの方が便利だった。
結局そのままマックを仕事に使うことは無かった。

それに「マウス」だ。
今でこそマウスが無ければ何もできないが、その前史はキーボードしかなかった。
というかキーボードで何から何までやることが普通だったし、
マウスを触ったエンジニアは皆口を揃えて「あれは使えない」と言っていた。
ソフト屋はキーボードがあれば何でもプログラミングできたし、ハード屋は
マウスのような不安定な訳の分からないものを使いたくなかった。

しかし、私はマウスは使わなかったけれどトラックボールを使っていた。
図面を描くのに必要だったからだ。
パソコンもグラッフィク画面を元になにもかも行うようになって、マウスが
必需品になった。

全てをキーボードでやっていた頃は、ディスプレイが無くてもパソコンを動かすための
コマンドラインを打ち込むことが普通にできた。
でも今はもう画面を見なければキーボードを打つこともできない。

ちょっと思い出した。アップルⅡはファイル名にキーコマンドを入れることができた。
例えば TEST1[esc].doc のようにエスケープキーコマンドを入れられた。
でもファイル名にはTEST1しか表示されないから、他の人には開くことができない。
いまでも使えるんだろうか?


追悼 レオンラッセル

去年の11月にレオンラッセルが亡くなった。
結構ショックだった。
その頃多くのアーティストが続けて亡くなっていたように思う。
でもレオンラッセルはなにか特別だった。
ジョン・スチュワートが亡くなった時以来のショックだった。
レオンラッセルのアルバムはたくさん聞いた。
好きだった。

もう半年経ったけれど、追悼の意味でこれを彼のハンク・ウイルソンズ・バックの
コード風で演奏。あくまで「風」


明治大学1969

昨日「ジュン散歩」を見ていたら明治大学が写っていた。
建物は新しくなりすっかり都会の大学だ。
1969年の春にそこにいたことを思い出した。
まだ浪人中だった。
近くの予備校から何人かが一緒に明大に行こうということになって行った。
その頃まだ明治大学はバリケードの中だった。
どうやって入ったかよく覚えていないが入口があったように思う。
ほとんど人がいなかったように思う。
勝手に教室入り込んで、「ここで話をしよう」ということになって、
しばらくそこで「ああでもないこうでもない」と話をした。
その時には既に安田講堂は陥落した後だったから、焦燥感と惰性で
何かやらなければという感じだった。
その時のグループは5人くらいのよくわけのわからない人達だった。
一人女性がいた。イケメンのノッポが一人、理論派の固そうな人が一人。
もう一人はその理論派といつも言い合っていた男。
私は同じ予備校だったのでちょっと付き合っただけ。
一緒に行動したのは2回だけだった。

今日のジュン散歩はその予備校があった西永福だった。
どこもみな当時とは全く変わっている。
べつにどうでもいいが、あの頃には戻りたくない。

7/17/2017

軍歌とHome coming songs

ウッディ・ガスリーのトリビュートアルバムの一番最初の曲はDear Mrs Rooseveltとか
いう曲だった。確か。その冒頭でジェス・ピアソンがウッディの文章を朗読している。
とても劇的な伴奏が付いている。
その話の中で、兵隊たちがPXで酒を飲み歌を歌うシーンがある。兵隊たちは戦争の歌
を歌っていたのではない。彼らはHome coming songsを歌っていた。
歌を歌い故郷を懐かしいんでいた。
ということが語られている。

私の父は(私が子供の頃は)よく軍歌と言われる歌を歌っていた。
私はそのいくつかをよく覚えている。
しかしその後70年も近くなってくると軍歌を歌うシーンはほとんど覚えていない。
60年安保、70年安保と世の中は反戦・反戦と騒いでいたから、歌を歌うわけにも
いかなくなったのだろう。

父は終戦の時、何歳だったのだろう?と思って計算してみた。
30歳だ。
私が札幌から東京に戻った頃の年齢だ。
私がその年齢の頃に聴いていた音楽は今でも好きで聞いている。
父にとってその年齢の頃に戦争に行っていたわけだ。
つまり軍歌は父にとって青春の歌だったのではないだろうか。

それじゃ軍歌とは何だろう?
軍歌が戦意を高揚させる歌だとすると、今軍歌と言われている歌の中には
そうではない歌が多数含まれている。

「ラバウル小唄」だけれど、父はこれを良く歌っていた。
父はラバウルには行かなかった(と思う)けれど、よく歌っていた。
しかし、これが軍歌だろうか?
戦意を高揚させるだろうか?
まったく逆のように思う。
これは日本に帰る時の歌だ。

「異国の丘」は?
これだって故郷に帰るまではがんばろう、という歌だ。
「麦と兵隊」は?
こんな歌を歌って戦意が高揚するわけがない。
しかももともとは死なずに帰りたいという歌詞だったらしい。
「戦友」は?
これなどは「腰まで泥まみれ」の歌に近いと思う。
軍規に背いてまで友を助けようというのだから。
一つ前の戦争からの歌だけれど、よくこんな歌を軍はほっておいたなと思う。
みんなHome coming songsだ。

日本で今日「軍歌」と言われている歌の中には「戦時中の歌謡曲」が多数
含まれていると思う。そういう歌を一緒くたに「軍歌」と言って忌嫌うのは
間違っているように思う。

7/15/2017

飛燕の操縦士

仕事で知り合った人で印象に残っている人が何人かいる。
その一人は三井さんという人で知り合った時に既に80近かった。
10年くらい前の話だから今存命かどうかわからない。
逆に言えば、あと十数年経ったら自分も「あの人ご存命かしら?」とか言われて
いると思う。

三井さんは飛燕に乗っていた。
中国の方で飛んでいたらしい。
三井さんに体験記を書いてほしいと頼んだら、ワープロソフトで書いてくれた。
そうだ、思い出した。
そのワープロソフトの入ったパソコンのメンテナンスに伺ったのが最初だった。
三井さんは毎年百里基地の航空ショーに招待されていたそうだ。
たぶん特別待遇だったと思う。
三井さんのお宅に最後に伺った時には歩くのが辛そうだった。
そうだ、その後で道で奥さんと二人で歩いていた時にお会いした。
それが最後だったかもしれない。

馬さんという人がいた。
中国からの留学生だったけれど、国に帰れば大学の教授だった。
馬さん(マーサン)には仕事でソフトを作ってもらっていた。
私が身元保証人になっていた。
Cが一般に使われ始めた頃の話だ。
とても頭のいい人でNECの(MSの)OSの不都合なところを修正して使って
いたりした。
ある時、深刻な顔をして現れた。
天安門事件の起きた時だ。
一度国に帰らないといけないかもしれない。と言っていた。
理由はわからないが、仲間の学生が逮捕されたからだったろうか。
国からの連絡で警察の聞き込みや密告などがあったそうだ。
馬さんとはその後10年くらい前に中国とメールで話したことがあった。
馬さんは有名な大学の教授になっていた。
立派な先生になっていたようだ。

東京に帰ってきて最初に勤めた会社にアダルトの映画に出ていた女性がいた。
なぜ彼女がその会社にいたのかは後になってわかったのだけれど、
私にはその可憐な可愛らしい女性がアダルト映画に出ていたとは
全く知らなかった。
普通に話をしてコピーや印刷物を頼んで一緒に食事したりした。
彼女が映画に出ていると知ったのは同僚が雑誌のグラビアを見せてくれた時だ。
彼女とは半年くらい一緒に仕事をした。
その後会社には来なくなった。
1年後くらいに会社のあったビルの玄関でばったり会った。
仕事で外出する時だった。
彼女は玄関の端の方に立っていて私の名前を呼んだ。
そばに行くと、社長がいるかどうを聞いた。
それから私は会社を変わったので彼女と会うこともなくなった。
しかし、その後テレビで良く彼女をみるようになった。
名前は違っていたけれど芸名になったのだろう。
バラエティー番組でアシスタントのようなことをしていた。
それからしばらくしたら、彼女はカーレースに出ていることがわかった。
レーシングドライバーとしてだ。
すごいなあ、と思った。
その彼女をついこの前テレビでみた。
歳はとっていたけれど雰囲気はそのままだった。


























7/14/2017

半田付け不良

非常に気に入っているMTRがあるのだけれど、
小さくて基本機能だけで8トラックあって持ち運びにとても便利だ。
それのACアダプターのコネクター部が接触不良で差し込み部に触れると
電源が落ちてしまうという不具合があった。

しかたないのでずっと接着剤でプラグを本体に固定して使っていたのだが、
それでもちょっと何かが当たると電源が落ちてしまう。
それで別にZoomのR8を買って使っているのだけど、これはこれで必要のない
機能が時々じゃまをして使いにくい。
「それいらないから!」ということなんだけれど。

それで意を決して不具合のMTRの方を直すことにした。
前に一度開けてコネクター部に触れないことがわかって中断していた。
今回は徹底的にやろうと思った。
裏ブタを開けると基板の下にコネクターが付いていて触れない。
基板はネジを外しただけでははずれない。

ちょっとその前に電源を直付けしてみようと思い、ACアダプターの5Vを
基板のコネクターの5V部分の足とGNDの足に半田付けしてみた。
これで電源が入るはず。
と思いきや、電源が入らない。
それでそのままACアダプターのプラグだけ(何もついていない)を差し込むと
電源が入る。しかしちょっと触ると切れる。
という症状が変わらない。

これは変だろう?
とプラグを動かしながら基盤を良く見るとコネクターのGND端子が基板から
浮いているように見える。
ルーペで見ると明らかにコネクターのGND端子は半田は盛ってあるけれど、
基板についていない状態で浮いている。
しかもそのはんだ付けはまるで素人がやったように丸く団子状になってる。

原因がわかった!
コネクターの半田を一度吸い取って、基板のフラックスを削り取り
再度半田付けをした。
これで大丈夫だろう。
電源を入れると入った。
プラグを動かしても電源が切れることがない。

しかし、こんな半田不良は日本国内で作っている時にはめったに見たことがない。
その昔、まだ技術が初期の頃のオーディオ製品にはあった。
でも90年以降は見たことが無い。
工場が外国に移って製品は安くなったのだろうけれど、
中身まで安くなるのはどうか。

かの地の製造は、まだしばらくは信用できない。
あるいはそのつもりで使わざるを得ない。














7/13/2017

風に薫る夏の記憶

…何だって?
これはお前の記憶じゃないだろう?
まあそうかもしれない、でも誰かの記憶は俺の記憶なんじゃないだろうか。。
特に夏の記憶はみな同じ記憶を持っているんじゃないかな。
たぶん夏の記憶は全て幻想
大昔の古代の人達の記憶も
遠い未来のどこかの惑星の上の人達の記憶も
たぶんみんな同じ


もう5年も前になるけれど、夏の歌を探していた。
いろいろ聞いていたら
「君の知らない物語」という曲があった。
supercell?
  たぶん私の子供達の世代の歌だろう
  いやひょっとするともっと下かもしれないけれど
これは夏の歌だと思った。
記憶が重なっている

今日も暑い
それでまた夏の歌を探していた
いろいろ聞いていたら
「風に薫夏の記憶」という歌があった。
AAA?
  これでさえ
  もう3年前の歌みたいだ
これも夏の歌だと思った
記憶が重なっているから




7/11/2017

ガソリン自動車

フランスがガソリン車の生産をやめるという話が出て、将来ガソリン車は
すっかり無くなるだろうということが現実味を帯びてきた。
大気汚染の元凶であるかもしれないし、そのうち石油も無くなるかもしれないし、
電気の方がいろいろ良いことがあるのだろう。
でも電気で動く自動車は何か面白くない。
あの音も無く動き出す感覚はだめだ。お尻がもぞもぞする。
電気自動車の自動車レースも面白くない。
テレビの音を消してF1を見てるような感覚だ。

始動する時のエンジンの武者震い。
排気ガスの匂い。
ハンドルに伝わるエンジンの振動。
エンジンブレーキの時の逆Gとエンジンの咆哮。
しばらくしたらその全てを知る人間はいなくなってしまうだろう。

遠い遠い未来に「魂の駆動体」のように、車人間の遺伝子を持った未来人が
ガソリンエンジン自動車を再現して、どこかの惑星の上を走るだろうか。

あるいは人類が絶滅した後で生き残っていた野生馬が蘇り
人間のいない大地の上をエンジン音を響かせて走ることがあるだろうか。
誰のSFだったか忘れたけれど
高斎さんだったろうか。
遠い遠い未来にもどこかでガソリン自動車が走っていてほしい。


7/10/2017

星まつり

また思い出したことを書いておこう。
たぶん1990年頃だったけれど、新潟県の胎内市で行われている星まつりに行った。
これは月刊天文ガイドが後援している催し物なのだけれど、私はその頃ペルチエ素子
で冷却したCCDカメラを試作していてそれの紹介記事を天文ガイドに載せてもらった
ことでその会場でデモすることになっていた。
詳しくは忘れてしまったけれど、スタティックRAMを使ったメモリーを使って
CCDに蓄積した映像データを撮りこんで表示するものだった。
CCDは蓄積時間が長くなるほど熱ノイズが増加するのでそれを押さえるために
ペルチエ素子で冷やしながら撮像するのがみそだった。

会場は丘というか山の中腹のような場所にあった。
車で行ったので登るのに苦労した記憶はない。
その当日はあいにくの曇り空で星は見えなかった。
でもいろいろなプログラムがあって、けっこうにぎわっていたように思う。
確かそんなに夜遅くならないうちに帰ってきたように思う。

トランジスタ技術には何度も記事を載せたことがあるけれど、
天文ガイドはその1回だけだったように思う。

7/08/2017

アイヌとインディアン

…について前に書いたけれど、ちょっと認識が違っていたところがあるのでまた書いてみようと思う。
アイヌは意味としては「人間」ということなんだけれど、
モシリは「土地」だから、アイヌモシリは「人間の土地」ということになる。
それを入れ替えると「土地の人間」ということになり、つまり土人だ。と前に書いた。
だから「北海道旧土人保護法」というのは正しく北海道がアイヌの土地であることを
図らずも示していると思う。
一方、インディアンだけれどネイティブアメリカンの約半数は自分たちを「インディアン
と呼べ」と言っている(10年くらい前の統計調査)ということを前に書いた。

これは「お前たちが名付けたくせに今更何がネイティブアメリカンだ!」
というニュアンスで言っているのだと思ったけれど、
よく考えてみるともともと「インディアン」と名付けたのはコロンブスがアメリカ大陸を
インドと誤認したのに始まるわけだから、コロンブスが「発見」した時に住んでいたのは
間違いなく「インディアン」だったわけだ。
つまりインディアンという名前はインディアンがアメリカの先住民であるということを
暗に示していることになる。
これは北海道がアイヌモシリであるのと同様に北米大陸がインディアンモシリであること
と同じ意味になる。
どうも「アメリカ・インディアン」という名前を主張している人達はこの意味で言って
いるようだ。だから「ネイティブアメリカン」という名称の方が差別的であると言って
いる。
日本では「インディアンって言っちゃいけないだよ、ネイティブアメリカンって言わなくちゃ」というのが通説だけれど、そんなに単純な問題ではなさそうだ。



7/06/2017

秋葉原

最近、というかここ10年くらい、秋葉原には行っていない。
だから今(2017)どうなっているのか全く知らない。

記憶にある最も古い秋葉原はスピーカーを買いに行ったときじゃないだろうか。
中学3年の時だから、1964年だと思う。
もっと前の記憶もあるのだけど確かではない。父と一緒に歩いた気がする。
スピーカーを買いに行った頃はまだオーディオ全盛期だった。
スピーカーユニットだけを売っているお店がいくつもあった。
みな四角い箱の上を丸く切ってスピーカーをはめて音を聞けるようになっていた。
それで聴いても音の良し悪しなどわからなかったろうが、皆それで聴いていた。
私が買ったのは確かパイオニアの20cmくらいのものだった。
いくらだか忘れた。

それからしばらくの間がオーディオ全盛期だったと思う。
ガード下の部品屋はそれ以前からずっとあった。
今でもまだあるだろう。あってほしい。
その頃は店頭にシャシーに部品を乗せただけの5級スーパーのラジオをまだ売っていた。
それに合わせて組み込むとFMの受信ができるユニットも売っていた。
さらにFMの受信ができるラジオに組み込むとFMステレオ受信ができるユニットも
売られていた。みな真鍮のシャシーむき出しで売られていた。

まだオープンリールのデッキが普通に使われていた頃なので、オープンテープを店頭に
平積みして売っていた。新品のものが売られていたが、再生品というものも売られていた。再生品のテープは放送局やレコード会社で使ったテープをそのまま売っているものだった。だからテープにはいろいろなものが録音されたままだった。ラジオ放送やテレビ放送の音がそのまま残っていたので、買って聞いてみるとムード音楽やドラマの声を聴くことができた。テープは編集されているのでブチ切れ状態でつないだものだった。
それを使う人はみなその上から音楽番組等を録音して使っていた。
今思うと消さない方が貴重な録音が残ったような気もする。

その頃のテープに録音したものを持ってくるお客がいるが、つないだ部分からみな切れてしまう。当時のスプライジングテープの粘性が全く無くなっているからだ。
1本のテープで50か所くらいつなぎ直さないといけないものもある。
そういう自分のテープもその状態のものがある。
それに磁性体自体がだめになってきている。磁性体がテープからはがれてしまう。
たぶん50年くらいが限度だったのだろう。

ラジオは半分くらいは真空管だった。5級スーパーは文字通り5本の真空管でできていた。このスーパーヘテロダインというのは誰が考えたか知らないが、天才的な発明だ。
天才的と言うのは歴史の中で生まれるべくして生まれたものだろう、という意味でだ。
テープデッキもステレオアンプもチューナーもほとんど真空管だった。

それからすぐに半導体に移行していったように思う。
ラジオガーデンの中は人がすれ違うのが大変なほど混みあっていた。
テープデッキのヘッドを売っているお店があった。よくそこに行った。
4チャンネルのヘッドをそこそこ安く売っていた。
レコード用のカートリッジとトーンアーム関係だけを売っているお店もたくさんあった。
楽器屋は無かった。カメラ関係も無かった。
オーディオと無線関係がほとんどだったと思う。
勿論ジャンク屋はあった。

オーディオの時代はたぶん1976年頃までだったと思う。
1975年頃にTK80(ティーケイハチマル)が出たのが「マイコン」の時代の始まりだと思う。オーディオは半導体とICになり小型化されていた。
店頭でTK80のデモを見ることが多かった。自分でマイコンボードを作る人も出てきてマイコン用の部品がオーディオ部品に並んでいた。
オーディオもIC化されて行って、それまではエコー(リバーブ)はスプリングを使ったものが多く、やはり真鍮の羊羹のような形をしたリバーブユニットが店頭で売られていたが、それに代わってBBD(バケツリレー素子)が使われるようになってきた。
リバーブは数年後にはD-RAMを使ったマイコン制御のものが出てきて、D-RAMの容量がまだ小さかったため結構ガタイの大きなリバーブ・エコーユニットが売られていた。

マイコンがパソコンになって行った頃には秋葉原はパソコン関連が増えて行って、逆にオーディオ専門店は消えて行った。1980年以降だろうか。
それでもまだオタク系の店は無かったように思う。
ソフマップ、Tゾーン系列が目立っていた。

あ、そうだ、まだ野菜市場があった。
あれはいつ頃まであったんだろう?
あれを壊し始めてからあたりがオタク系が侵食始めた頃なんじゃないだろうか。
気分的にはそんな感じだ。

当時、日の丸無線の社長さんの話だと。

昔はラジオの仕掛品を店頭につるしておくとすぐに売れた。いくら仕入れてもすぐに
無くなった。バスに部品をたくさん積んで各地を移動秋葉原ショップとして回った時
は各地で大勢の人達が買いに来た。来るのを待っていてくれた人もたくさんいた。

ということだった。
今だとアマゾンやネット部品ショップでほとんど買えるが、当時はネット自体が
無かったから、人気だったのだろう。

秋葉原では1981年から10年くらいいた。
秋葉原のど真ん中の会社に1年、それから近くの会社に移った。
移った、というか3回会社を変えた。
その3回の内2回は自分たちで始めた会社だった。

6/29/2017

Buffy Ford Stewart

今朝メールボックスを見たらYouTubeにコメントが入ってるのがわかった。
英語で入っているから誰かがコメントを付けてくれたのだと思った。
読んでみると大変な人からのメッセージだとわかった。
Buffy Fordだ。

Hi Kogowa, I just discovered this and it is so beautiful. Thank you for this and thank you for all the beautiful songs that you play of John's. I just released a new record called, Once Upon A Time. I am the widow of John's, Buffy Ford Stewart and many of the songs on my new CD are JOhn's songs, and many are originals. You might enjoy listening to the CD. And Thanks again for keeping John's music allive. YOur playing is really, really beautiful. Don't stop! All My Love, Buffy

20代のころからずっとJohn Stewartの歌を聞き続けて、Johnさんももう亡くなってしまい、会うこともできなくなってしまったので、Kingston Trioの頃に見て置けば良かった
と今になって思っていた。
このメッセージは全くの不意打ちだった。
Buffy Fordの声はJohnのアルバムの所々に聞こえてくるが、あの声があると無いとでは全く違ったものになっていただろうと思う。Johnはあの声にやられたのではないだろうか。



若い頃はこの写真に憧れたものだった。
二人とも格好いいと思った。
確かこの写真はSunstormの中ジャケットに白黒で載っていたものじゃなかったろうか。

もうずっと前からBolinasという歌をやりたいと思っているけれど、これにはBuffy Fordの
声が無ければ”ならない”。あの声は他にはいない。だからできない。
一緒に歌いませんか?と言ってみようか。。。
とも考えたけれど言い出す勇気が無い。

メッセージの最後の「止めないで」っていうのが突き刺さる。

6/25/2017

悲愴

今日久しぶりに不思議なことがあったので書いておこう。

お客さんから古いオープンリールテープを14本預かった。
中身がわからない。
中に結婚式の録音があるはず、というのでそれを探しながら聞いていた。
何本かはテープが変形してしまって再生できない。
たぶん1960年から1970年頃のテープだ。
ひどく酢酸の匂いがしてテープはワカメ状になっていた。
結婚式のテープは2本あると言われた。
1本はみつかった。
最後の1本をデッキにセットしようとしたらリーダーテープがはがれた。
良くあることだ。というよりつないだ部分はほとんどはがれてしまう。
新しいリーダーテープをつなぎながらチャイコフスキーの6番の出だしを
口ずさんでいた。
悲愴なんてもう何年も聞いていない。
テープをセットし終わって再生始めたらどこかで聞いたメロディーが
低く流れ出した。
あれ?と思った。
「悲愴」だった。
あれ?一度かけたっけ?
と思ったけれど、リーダーテープが切れていたからかけていない。

こういう数秒前に起こることがわかるのはずいぶん久しぶりだ。
中学、高校の頃はよくあった。
「デジャヴーじゃないの?」とよく言われた。
デジャヴーは何度も経験している。
でも起きたことを以前あったと感じるのではなく、
起きる前にわかるのだ。
はっきりとではなく、ぼんやりと見える、聞こえる、感じる。

人に言っても誰も信じないだろう。
でも、自分としては結構普通に起きることだ。
そういえば母は天気を言い当てた。
ほぼ完ぺきだった。
母に自分は「たぶんお母さんの記憶を持ってるよ」と言ったことがある。
前にも書いたかもしれない。
自分の夢を詳細に母に話した。

 真っ暗な空の下に壊れたビルが建っていて、その間に大きな机か台があった。
 その台の上に誰かが横たわっていた。顔は見えない。
 その人も真っ黒だった。
 言い知れぬ不安感があった。
 あまりに怖くて下を向いた。
 
「夢でもその夢を良くみるんだ」と言った。
母は驚きも否定もしなかった。
「そうねえ、それはあの時の景色ね」というようなことを言った。
どの時か私にはわかった。

考えてみると母は不思議な人だった。

6/24/2017

大麻?野幌?江別?

どうしても思い出せないことがある。
北海道で最後に出たコンサートは、あれはどこだったんだろう?
ずっと江別だと思っていたけれど、今Google Mapを見ていたら
あれは大麻だったかもしれないと思った。
酪農大学の学生が何人かいたから江別よりも大麻の方が学校に近い。
江別市民会館だと思い込んでいたけれど、今の市民会館はすごく立派だ。
あんな建物じゃなかったと思う。

あのコンサートの日は吹雪だった。
ステージの脇に楽屋だったかな?部屋があってそのガラス窓から外の
吹雪が見えていた。大雪だった。
私は友人のNと後のNの奥さんのトッピ、それにひげちゃんとのグループ
で出て歌った。3曲くらい歌った。

あれが北海道のステージで歌った最後だ。
NSPの「さよなら」を歌った。
トッピの声がまだ耳の奥に残っている。

どうやって行ったのか、吹雪の中どうやって帰ってきたのか、
まったく思い出せない。

野幌というともう一つ思い出がある。
当時私は28歳くらい。
フォークの集まりの皆は学生だから19歳~23歳くらいだった。
だからちょっと入って行けないところはあった。
皆は気にしなくていいでしょう?と言ってくれていたけれど。

夏だった。
その集まりの皆で、野幌森林公園の百年の塔の下のところで歌を歌おう
ということになった。
私はちょうど用事があったので「行けない」と言った。
でもその日の用事が早く終わったので行ってみることにした。
公園の駐車場に車を停めて、公園を探し歩いた。
すると百年の塔からは少し離れたところに若い人たちが輪になっているのが見えた。
100m以上離れていたので誰も私には気が付かなかったけれど、
私には彼らが騒いでいる声は聞こえた。
しばらく立ち止まってしまった。
そしてどうしてもそこに加わることができなかった。
そこから走って車まで戻って、アパートに帰った。
あれ以来だと思う。
彼らには会っていない。

6/22/2017

母のいた町

母は廣島で原爆に遭う前は鹿児島にいたはず。
母の鹿児島県立第一高等女学校 2598年卒業アルバムを見てみた。
その前に2598年って何年だろう?
アルバムの中には昭和13年3月と書いてあった。
1938年だ。戦争に入る3年前だ。



おかしな話だがアルバムを見ていると母は結構かわいらしい感じだったようだ。
目のあたりは私に似ているように思う。

このアルバムには最後のページに生徒の現住所が書かれている。
鹿児島市西田町38 とある。
この住所は今はもう無いようだ。
でも西田という地名は残っている。
1945年の航空写真と照らし合わせてみると、このあたりだろうと思う。


他のアルバムに同じ頃の写真があった。

また別の写真は、これは学生の頃ではないだろう。
だいぶ後のようだ。

気のせいか、バックは瓦礫のように見える。
家も崩れているように見える。
これはどこだろう?
廣島ではないだろう。
母は大怪我をしていたはずだ。
でもひょっとすると廣島かもしれない。
廣島の後は茨城に帰っていたから、これは水戸かもしれない。
水戸も空襲を受けただろう。
時代もわからない。
何もかもわからない。

この写真が好きだ。
たぶん結婚前の写真だ。

追記:
書き終わってから考えたのだけれど、このアルバムは廣島原爆の7年前のものだ。
母はいつ廣島に行ったのだろう?
もし鹿児島の後すぐに廣島に行ったとしたらこのアルバムは残っていなかったろう。
あるいは拾い出して持っていたのかもしれないが、とてもきれいな状態だからそれは
考えられない。
廣島の家は爆心から1.7kmだった。その距離は壊滅地区だ。
とするとこのアルバムは水戸に残っていたものなのだろう。
母は鹿児島から一度水戸に戻り(父親が役人で農業・営林の仕事で日本各地を回っていた)
また広島に行ったのだろう。

6/10/2017

そこに山があるから

マロリーが本当にこれを言ったかどうかしらないけれど、
私が子供のころから
「なぜ山に登るんだ?」
「そこに山があるから」
という言い回しを何度きいたことだろう。
それもこの言葉をあまりに適当な発言だという意味合いで紹介されていた。

歳をとって、この言葉を改めて読んでみると
これは当然のことというか、これ以外に理由は無いだろうとおもうくらい
的を射たことばだと思う。

自分の人生をいろいろ思い出してみると、
それをしなければいけなかった様々なことを思い出す。
会社に入って仕事をして家に帰ってまた仕事をしてという
の繰り返しの中で様々なことにも挑戦もした。

マロリーにとって山に登ることは人生の一部に過ぎなかったのだろうと思う。
かれは「わざわざ」山に登っていたのではなく、
それが彼の人生だったから山に登っていたのだろう。
山に登ることが彼の人生そのものだったのだろう。

「なんで会社で仕事して働いてるの?」という質問にたいして、
「それが俺の人生における役目だから」、と同じ意味で
「なんで山に登るの?」と聞かれたら
「そこに山があるから」だったのだろう。

私もハンググライダーで飛んでいた時があった。
「なんでそんな危ないことしてるの?」と聞かれた。
でも、今思うとあの経験が無かったら自分の人生はつまらないものだったと思う。

6/07/2017

光・時間・法則

時々おかしいんじゃないか?と思うことがある。
例えば、宇宙は加速膨張をしていて宇宙の端では光の速度に近づいている。
とかいう話があるけれど、宇宙の端って何だろう?と思う。
ここからどこか遠くの方に宇宙の端がある、ということなのだろうけど、
ここでも十分宇宙の端じゃないかと思う。
たぶん宇宙は閉じていてどこにいても宇宙の端なんじゃないかと思う。
そうすると、ここは光の速度に近い速度で広がっているはず。

だいたい光ってなんだろう?と思う。
前にも書いたと思うけれど、光はたぶんこの宇宙のシステムクロックみたいなもの
なんだと思う。だから静止した系から見ても、動いている系からみても同じ速度なのだろう。
光より早いものは無い。
はず。

そういえば、時間に関するドキュメンタリーで、
「ある限られた空間の物や空気やゴミや何もかもとり去ったらそこに何がある?」
ということを言っていたけれど、
大学1年の時に同じことを思って友人に問いかけたことがある。
もう46年くらい前だ。
友人は同じ理工学部で私より頭が良かった。
彼にきいた。
「ここの30cm四方の空間からガスとかチリとかを全部取ったらそこに何がある?」
というテレビと全く同じ質問だった。
私は
「たぶん数学的な3次元空間があるんだろうけど、なぜそれが様々な因果律を持つの?
 例えばネズミを入れたとすると死ぬでしょう? なんで死ぬの?
 何事も起きなくていいはずなのに、何がネズミを殺すの?」
と聞いた。
さらに、
「それじゃあこの何もないみたいな空間を宇宙に持って行って、小さな鉄の玉を2個
 その中に入れたとすると、そのうちその2個は互いにくっつくでしょう?なぜ?」
彼は
「それは自然の法則があるからだよ」と言った。
私は
「その自然の法則ってのは、その一見何も無い空間にどういう風に存在してるの?」
と聞いた。
その返事を覚えていない。
だから今でも同じことを疑問に思っている。

この何もないけれど何かの働きがある。
というのはコンピュータ・プログラムとそれで動いている一連の処理に似ている。
処理の側からは自分がなぜこういう動作をしているのか理解できない。
というと「仮想空間」の話に戻ってしまうけれど、
私は世界がプログラムでできているとは思わない。
しかし世界というハードウェアが自然の法則というプログラムで動いているとは思う。













6/06/2017

仮想現実?

「この世界が仮想現実であることを示す…」とかいう動画があったので見てみた。
「見てみた?」「見て見た?」
まあほっといて、
その理由の一つに量子のダブルスリット問題を挙げていた。

まずその前にこの世界が作られた仮想現実であるという説を初めて言ったのは
2003年とか言っているけれど、それよりずっと前の「ミステリーゾーン」(トワイライトゾーン)
でミニチュアの街に迷い込んでしまう男の話をやっていた。最後にその街を上から大きな
女の子が覗いているという落ちだった。
そういうアイデアはたぶんもっとずっと前からあったのだろうと思う。

それでダブルスリット問題の量子がどっちを通ったかを検出しようとすると、
量子はそれを見越してどちらかからしか通らなくなる。というのを持ち出して
それと仮想現実と似てないか?と言ってるのだけれど、
それは全く別の問題だ。

量子の問題は確率からきている。
仮想現実の問題は単にメモリーあるいはCPUのアクセス低減の問題から来ている。
だいたい本当に仮想現実を作るのだったら、十分なメモリーと高い能力のCPUのを
使って見てないところでもオブジェクトが動いているようにするだろう。
この2017年の人類の能力で、その人類の世界を作っている(かもしれない)仮想現実
の構造を想定するのは全く馬鹿げている。

どこかの海に沈んでる巨大な岩の形状がミレアムファルコンに似ているというのと同じ
くらい馬鹿げている。

と思う。


追伸 to serizawaさん

というわけで書き込みを制限しました。
serizawaさんにはとても不愉快な思いをさせてしまったと思います。
申し訳ありません。



6/05/2017

これのこと

すみません。頭のところにも書いていますが、これは誰かが読むことを想定して書いていません。いい加減な思い付きを書いているだけです。ですから何か書かれてもそれに対してお返事する術をもちません。なぜならいい加減なことを書いているだけだからです。
自分で正論だと思っていることを書いているわけでもなく、
思い付きを書いているだけです。

量子の話なども「こんなのデタラメだろう!」と言われたら、
「ハイその通りデタラメでございます」としか言えません。

昔あったこととか、思いついたこととかを、ここに覚えさせているだけなのです。
希望としてはいつか私の子供達がこれを読んでくれて、バカな父親だったなあ、
と笑ってくれれば本望です。

そんなわけで、今まであまり気にせず書き込み可の状態でやってきましたが、
近々、書き込みできる状態をやめようと思います。

今までコメントを頂いた数人の方々には感謝とお詫びを言わせてください。
ありがとうございました。
また無礼をお詫びします。


硝子細工

前にも書いていると思う。
私の学校の研究室の直接の先生(神崎先生)はガラス細工が得意だった。
私が壊しまくった器具をいつも直してくださった。
私はそれほどうまくはないけれど、普通のガラス管を使った細工は結構できるようになった。

今日YouTubeを見て思い出したことがあった。
YouTubeの動画は
BIGGER BULLET BEATS Prince Rupert's Drop? (at 223,000 FPS) - Smarter Every Day 170              
というタイトルのものだが、オタマジャクシ状のガラスを銃弾で撃つというものだ。
先端の丸い部分は非常に丈夫で銃弾が当たっても壊れない。
ガラスは普通の(並)ガラスなのだが、高温状態の時に水に流し込むとオタマジャクシ状の
形状ができる。
この形状というか、これが丈夫だということはどこかで見たような気がする。

問題はこれが壊れる瞬間なのだけれど、動画では頭の丸い部分を狙った銃弾で
壊れる時の映像が撮られている。やはり壊れる時もあるわけだ。
この壊れる瞬間は非常に短い時間で全体が壊れる。
高速度撮影した映像では頭から壊れて行く時に反対側からも壊れ始める様子が写っている。
どうして反対側は先端が壊れたことがわかったのだろう?
と思って良く見ると、ガラスの表面を何かが壊れる速度よりも早く走っている。
それが反対側まで達して後ろからも壊れ始めるようだ。

この現象は面白い。
並ガラスが割れる速度はこんなに早くない。

それで、この現象は前にどこかで見たような気がする。
恐らく神崎先生が話してくださったか、あるいはあの先生だから実際にガラスを
急冷させて、目の前で実験しくださったような気がする。
細くなった方をペンチかなにかで挟んで割ると、一瞬にして全体が壊れる。
そういうことを見せてくださったように思う。

神崎先生は化学のことだけでなく電子回路のことも教えてくださった。
笑いながら説明してくれて、私が理解できないと厳しく教えてくださった。
とても感謝しています。

6/04/2017

弾き語り

日本のフォークソングの世界に「弾き語り」という演奏形態がある。
いや、演奏形態なのか?とも思う。
たぶん琵琶説法とかバイオリン演歌とか三線弾きながら歌うとかTalking Bluesとか
そういうのが「本家」弾き語りなのだと思うけれど。
記憶では1960年代に流行ったアメリカンフォークソングの中でTalking Bluesのことを
日本語訳で弾き語りと言っていたように思う。
しかし、どうも今の日本のフォークソングの世界で言っている弾き語りというのはそうでは
ないような感じだ。

ギター1本を弾きながら一人で歌を歌のを「弾き語り」と言うらしい。
ピアノを弾きながら歌っても弾き語りだと思うけれど、どうもちょっと違うらしい。
じゃあエレキを弾きながらというのはどうだろう?と思うけれど、これも微妙に違うらしい。
要するにアコースティックギターを弾きながらフォークソングを歌うのを弾き語りというらしい。
「語りが無いだろう?」と言うと、歌っていることが語りだという。
「ああそうですか」とこたえておく。

これで済めばいいのだけど、伴奏を入れたらどうなの?と聞くと、
それも微妙に「弾き語り」ではないらしい。
ベースは?と聞くとそれも違うらしい。

ドラムスとベースとハモとサイドギターを入れてバックにストリングスを入れて「一人で
アコースティックギターを弾いて一人で歌ったら?」と聞くと
それはもう弾き語りでもなんでもはないらしい。
ようするにそういうものらしい。

一人でギター1本で歌って人に聴かせるというのはよほどの歌唱力がないと無理だ。
その辺の集まりで「弾き語り」と称して歌っているのを聞くが、
とても聞いていて気持ちがいいという人はほとんどいない。
考えてみると初期のフォークソングで一人でギターを弾きながら歌っていた人達の
音を聞くとすごいと思う。歌だけでなくギターも聞かせている。
あれは簡単には真似できない。
別に「弾き語り」と言わなくても「ギター単独伴奏による独唱」とか言ってもいいと思う。

思うに、素人でもギター伴奏が一つ増えただけでも聞いてる方は気分がいい。
他の伴奏やハモが入るとさらに聞いていていいと思う。
他の人と一緒に演奏したり歌ったりすることは楽しい。
また音楽的にも厚みがでるように思う。

素人が一人でギター1本で歌うには限界があると思う。
よっぽどの技量がないと無理だ。
「いや、そこがいいんだ」と言う人もいそうだが、無理だ。

と言ってはいけないかもしれない。
選曲が問題だ。
一人で歌うのならそれなりの歌にしてほしい。
ギターをガチャガチャと鳴らして大声でが鳴られてはちょっと引く。
普通に歌ってほしい。
「自分に言えよ!」という声も聞こえてくるけれど、気にせず。。

それに「弾き語り」という謎のジャンルを設定して
それにとらわれるのもどうかと思う。
音楽はもっと楽しく行こう。

5/31/2017

MTR

今日気が付いたのだけれど、今まで使った(買った)マルチトラックレコードの数が
けっこうあることに気が付いた。トータル金額はいくらになるだろうか。全部無駄だ!

最初に使ったマルチトラックのレコーダはSONYのオープンデッキを改造したものだった。

確かこれだと思うのだけど(写真はネットから)、鎌倉山で録音したのはこのデッキだったと思う。
その後このヘッドを直列のものに改造して4チャンネルの独立した録音ができるようにした。
たぶん今それがあって音を聞いたらあまり良いものではなかったと思う。でもちゃんと録音できた。
だからこれが最初のマルチトラックレコーダだったと思う。

その後中古で買ったのがこれだった。TEACのA3340とか言ったと思う。


これは4チャンネルの独立した録音ができたけれど、これで何か歌を録音したことは無かった。
ほとんど再生にしか使わなかったと思う。


たぶん次に買ったのがこれだったと思う。
ヤマハのCMX-100だか1000だかいうカセットテープを使ったMTRだ。
これは倍速で録音することができた。
何か曲も録音したりした。

しかしやはりカセットテープなのでヒスノイズがあって、興味本位で買ったけれど、
それほど使わなかったと思う。これは友人にあげてしまった。

もうひとつ同じ頃にかったのがこれだった。TASCAM 488とか言ったと思う。
YAMAHAよりトラック数が多かった。でもこれもやはりカセットテープで音がいいとはいえなかった。これはけっこう使ったように思うけれど、その音が残っていない。

その頃MDを媒体としたMTRが出始めた。
でもMDのMTRは結局買わなかった。
その後に使ったのがFOSTEXのVF80とかいうハードディスクレコーダだった。

さすがにデジタル録音なのでノイズや音質は良かった。
これで録音した曲はいくつかどこかに残っていると思う。
使っていての不満はレコーダ自体の音がうるさいことだ。
後のMTRは録音中はファンを静音状態にしたりするがこのレコーダはずっとファンの音がしてる。
だからマイクとレコーダは離しておかなければいけなかった。
これは誰かが借りて行って帰ってこない。

その次がこのKORG D12だ。
このあたりからずっとKORGを使い続けている。なぜなら使いやすいのと音がいいからだ。
この頃は主にこれをメインで使って、スタジオとかに行くときは小型のレコーダ、
KORG PANDORA PX4とかいうのを持ち歩いていた。
このパンドラは媒体がスマートメディアで、じきにスマメは街で見なくなった。
それで持ち運び用に買ったのがZOOMのH4だった。


これは、適度に大きくて使いやすかった。また音が抜群に良かった。
内蔵のマイクでいろいろな音を録りに歩いた。百里でジェット機の音なども録った。
一応4チャンネルのマルチトラックレコーダだ。

その後がこのBOSS BR600だ。
これはノートくらいの大きさと重さしかなく鞄に入れて持ち歩けるので便利だった。
ただ使っているうちに気になったのがチャンネル同士のクロストークだ。


静かな音をあるトラックにいれるとどこかのチャンネルの音が少し漏れてくる。
最終的な音になった時は気にならないかもしれないけれど、どうしても我慢できなくて
息子にあげてしまった。

その後に持ち運び用に買ったのがTASCAM DP-008だった。


これはとても良いレコーダだと思う。
全て直接的な操作で行える。内蔵マイクもついていて良い音で録音できる。
これは今でも使っている。ただ一つの問題は電池の消耗が早いということ。それでACアダプター
で使うことになるのだけれど、そのコネクターが調子悪い。
ちょっと触ると接続が切れてしまい知らない内に電池動作になって電池が切れてしまう。
ということが何度もあった。それでACアダプターのコネクターを接着剤で固定して使って
いるが、それでも何かの拍子に切れてしまうことがある。
ただ小型ですごく使いやすいのでまだ使っている。

それで、安定して持ち運びで使えるものが欲しいと思い、これを買った。
ZOOMのR8だ。


これは特に問題も無く、順調に動いている。
だからスタジオにはこれを持って行っている。
ひとつ問題があるとすると私がZOOMのマンマシンインターフェイスにどうしても慣れないことだ。
だからほとんど生音の録音にしか使っていない。

家で使うMTRは長いこと先のKORG D12を使っていたがそのあとはKORG D1600をずっと
使っていた。
これは
16トラックを独立して使え操作もわかりやすくとても良いMTRだと思う。
ずっとこれを使っていたが、インターフェイスがSCSIしかなくて、CDへのWAVデータの
書き込みができなかった。いやできたのかもしれないけれどそのアプリの配布が終了
してしまっていて使えなかった。
それでMTRとPCで直にWAVのやり取りがしたかったのでやはり同じ系列で
KORG D1200MK2というのを買った。D1600は処分した。

操作や機能はD1600とほぼ同じでUSBインターフェイスが付いている。
これはとても便利だった。
だいぶ長いことこれを使っていた。YouTubeにアップしている音はほとんどこれを使った
ものだと思う。
それでこのD1200だけれど、実質独立したチャンネルとして使えるのは1~6の6チェンネル
だけだ。その上は2トラックずつの録音になる。まあ、コピーしたりして使えば12トラック
使えるのだけど、細かく音を入れていくとどうしても足りなくなる。
それで先日D1600Mk2の中古が安く売られていたのでそれを買うことにした、1万円だった。
ものはすごくきれいで全く問題なく使える。Mk2はUSBが付いている。
これは先のD1600にUSBが付いただけのものだ。
でも独立して16トラックが使えるしかも各チャンネルにヴァーチャルトラックがついているので
実質いくらでもトラックを使えるので便利。
KORGは各トラックの入出力に独立してイフェクトとイコライザーをかけることができ、
最終マスター出力にもファイナルイフェクトをかけることができる。このファイナルイフェクト
がとても便利。

たぶん後は新たに何か買うことは無いだろう。
これを最後まで使うことになると思う。













5/29/2017

3D

あれは1986年頃だろうか、地図を作っている大手の会社から仕事が来た。
それは航空写真を目で立体的に見ることはできないだろう?というものだった。
その地図データはレーザーディスクに記録されていた。そこから右(目)に相当する映像(静止画)
と左目に相当する映像を出して肉眼で立体的に見えるようにする。
右目と左目に対して独立した別の映像を見せることができればそれで済むのだけれど、
当時はそういう小さな高精細のディスプレイは無かった。

当時映画館でやっていた立体映像は赤と青のセロファンを貼った眼鏡で見るものだった。
それでも良かったのだけど、スマートじゃないので白黒あるいはカラー画像のままででき
ないだろうかというのが仕事の内容だった。

それで当時試験的に作られていた液晶シャッターを使ったゴーグルを使おうということになった。
そのゴーグルを作っていたのはビクターだった。
その現物はついこの前まであったのだけど処分してしまった。
写真は他の会社のものだが、確かこんな感じだった。
こんなボックスはついていなくて、ケーブルとコネクターがついているだけだったと思う。
この液晶シャッターは後になって低電圧でも動くものができたけれど、当時は数百ボルト
の電圧をかけないといけなかった。200ボルトくらいだったろうか。
電流はほとんどいらないので高電圧の矩形波を2相にして左右の液晶に入れてやればよかった。
この回路はうまく行った。
NTSCのビデオ信号が1フィールド60ヘルツだったので、とりあえず片フィールドのみで
試すことにした。60ヘルツの電圧を左右の液晶に入れてやった。

映像も1フィールドごとに左右の映像を切り替えなければいけないのだけれど、レーザーディスク
やビデオテープでこれを行うことはできなかった。
レーザーディスクは(当時)は出力信号が正規のものでなくモニターテレビに映ればいい、
という程度のものだったので正確に切り替えることができなかった。
それで方チャンネルごとに画像メモリーに入れることにした。
片フィールドなのでとりあえず256*256のメモリーに入れた。
2枚の画像メモリーは同期発生器を共有して同じタイミングで出力するようにして、
60分の1秒ごとに左右の映像を切り替えて出力した。
その左右の切り替えタイミングを液晶シャッターにも与えてやって目とモニターを
同期させた。

これはうまく動いた。
きちんと立体的に見えた。
それで確か一度収めたように思う。
しばらくして客先から「ちょっとおかしい」という連絡があって、出かけて行った。
そうすると「山が谷に見える」という。
私と一緒に行った同僚が見てみた。
私はきちんと山は山に見えた。
ところが同僚は「たしかに谷に見える」という。
私ももう一度見たけれどちゃんと山に見えた。
何度かやっているうちにわかった。
山は谷に見えるんだ。どちらがとがっているかは2枚の写真からではわからない場合が
あることがわかった。
最近よく見る顔の立体マスクが実は窪んでいる、というのと同じだった。

それをその後どうしたか忘れてしまったけれど、
ハード屋だった私の方は、レーザーディスクの同期信号が正規のものでない方が
重大な問題で、そこで使っていたレーザーディスクから正確に左右のデータを
引き出すことができずに辞めたような記憶がある。

あれはその後どうしたんだろう?
よく覚えていない。


5/27/2017

<読むに値しない・単なる覚え書き>

私の夢にはいくつかパターンがある。
パターンというかケースと言った方がいいかもしれない。
その一つは元の場所に戻れないという夢だ。
昨日見た夢は長いわりに全部覚えている。
忘れないうちに書いておこう。

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前半は忘れたけれど、友人の車でどこかに出かけるところだった。
その車には友人と子供(私の)が乗っていた。
その車で皆でどこかに行こうとしていたが、私が机の椅子を出しっぱなしだったことを思い出した。
椅子と机の間に国道が通っていて、私がいないうちに椅子が動くと交通の妨げになると思った。
それで私だけ降りて戻って、椅子を動かないようにしてくることにした。
友人の車は先に行ってもらって、私は後からタクシーで追いかけることにした。

それで車を降りて道を歩いて戻ろうとしていた。
国道は人はあるけないのでその脇の道を歩いていた。
道は舗装されていない土の道路だった。
国道は橋のように高架になっていたが、歩いている道路はその脇を深く下って
谷のようになっているところを降りて行った。
降りる道はでこぼこになっていてほとんどお尻をつきながら滑り降りる感じだった。

下に降りると田んぼ道だった。
あぜ道が途切れて、少し離れたあぜ道に移ろうとして歩けそうな場所を探した。
草が生えていて歩けそうな場所があったので、そこを歩こうとした。
すると草は表面だけで、下は沼のようになっていて足が太ももまで泥の中に入ってしまった。
なんとか抜け出すと足はドロドロになってしまっていた。
「これではどこへも行けない」と思った。

方向がわからなくなってしまい、そのまま歩いて行くと高台に出た。
高台には学校があって、生徒が体育の授業をしていた。
私は体操をしている女子生徒の脇を通って、
高台の端まで歩いて行くと、下は深い谷になっていた。
谷の底は草原になっていて、右手の方から雲か霞かが流れていて
美しい模様を作っていた。
黄色の大地の上に緑の灌木が生えていて、その上を真っ白の霧が流れていた。
「写真を撮っておこうか」と思った。
でもなぜかその時は写真を撮らず、また歩き始めた。

時計を見ると10時40分だった。
友達はもうどこまで行っただろう?
今からじゃもう追いかけられないかもしれない、と思った。
待っていてくれるだろうか?
と思いながら自分はまだ椅子を直しに行かなければと考えていた。

道路に戻って歩きはじめるけれど、道は起伏が激しく
その道を歩いて行くが、その方向が正しいのかさえ分からなくなっている。

(まだ続くのだけど、夢ってこんなに長く続くのだろうか?)

学校がある。
大学だ。
女子学生に誘われて一緒に授業を受けにいくことになった。
コンクリートの建物の一角にエレベータがある。
それで行こうということになった。
エレベータは大きな升のような形で、その縁に立って乗るらしい。
女子学生と向かい合わせになって乗るとエレベータは上の方に向かって
かなりの速度で登って行く。
下の地面が斜めになって見える。
エレベータは斜めになって登ると暗くなって、どこかの階に止まる。
そこで降りると廊下になっている。

見たような感じの長い廊下でその脇がどうも教室になっているらしい。
さっきの女子学生は?と探すがもういない。
廊下を歩いて行くと授業中のようだ。
私はその一室に入って座る。
何の授業なのか全くわからない。
教室には私の他2,3人が座っている。
私は単位はとれるだろうか?と心配している。

突然、街の中にいる。
私は誰かと歩いている。
「きてくれて良かった」とか言っている。
建物の中にはいると机が並んだ会社の中だ。
机の上に回路基板がいくつか置いてある。
「これを見て欲しいんです」
と言うのは昔一緒に働いていたマッちゃんだ。
彼はソフトもハードも抜群に詳しい。
私は半田ゴテを持とうとする。

次のシーンはまた道を歩いている。
友達の車はどこまで行っただろう?と考えている。
(夢の中でも記憶は残るんだろうか?)
椅子のことは忘れている。
どうやって行こうかと考えている。
(携帯とかは全く思いもつかない。)

その辺で夢の記憶は無くなっている。


5/26/2017

Roger Dean

Mucha展に行ってきた。
ミュシャのポスターは以前何度か美術館に足を運んだことがあった。
だからあまり行く元気は無かったのだけど、行こうという人がいたので一緒に行った。
驚いたのは見たこともないサイズの巨大なスラヴ叙事詩の絵だ。
1枚ではない。かなりの数の巨大な絵だった。
はっきり言って感動した。


美術館は良く行くが絵を見て本気で感動することは少ない。
だけどあの一群の絵はすごいとしか言いようがない。
ものすごい数の鑑賞する人々が部屋にあふれていたのだけど、そんなことはどうでも良かった。
あれを観ずに死ぬのは明らかに馬鹿げている。
あの場にいると観客は消えてしまいえの世界に入り込めた。
そんなことはめったに無い。
その後に一連のポスターが展示されていたのだけど、
スラブ叙事詩に圧倒されてしまいあの大きな有名なポスターが小さく見えた。

スラヴ叙事詩の絵の一部に気になるシーンがあった。
こんな風に切り取ってしまうのは顰蹙ものだと思うけれど。「原故郷のスラヴ民族」という絵の
一部なのだけれどどこかで見た気がした。
家に帰って調べてみてわかった。Roger Deanだ。

真似したわけではないと思うけれど、同じようなシーンだ。
そうだやっぱりこのシーンだ。
気が済んだ。

札幌にいた時、部屋はロジャー・ディーンであふれていた。
壁いっぱいのポスターを貼っていた。
そのポスターは今はもう無いけれど、検索したら見つかった。


この画像ではわかりにくいけれど、魔女のような人が岩に座っている。
札幌のパスコで買った。
その他にもそれほど大きくないポスターが何枚かあった。


Roger Deanはまだ健在のようだ。
私と6つしか違わない。
あの頃はRoger DeanとCriss Fossの絵を眺めながらレコードを聴くのが常だった。

                Criss Foss


5/22/2017

友達

もう終盤であることは確かなのだけど、エンディングをどうするか全く不明。
エンディングはやっぱり静かなストリングスで始まって、ボーカルが続き、そのまま盛り上がって
フルオーケストラで終わるのが理想だけど、オケが居ない。

学校に行く前から小学校、中学校、高校と、その頃の友達は今では一人もいない。
前にも書いたように同窓会の知らせは来ないので卒業してそのまま付き合いも無い。
だから今付き合っている友達は大学の時の友達、数人(片手)だけだ。

大学を出て今まで40数年、その間にできた友達は仕事かインターネットを通じて知り合った人達。
それもほとんど外国の人だから実際には会ったことも無い。

日本人で今も連絡している友達は1人か2人。
そのうち一人は札幌で知り合った人だけれど、今は連絡しても返ってこないので
実質「一人」かもしれない。
YouTubeで知り合った人だけれど、私の会社まで来てくれた。
一緒にギターを弾いて歌を歌った。
嬉しかった。
その人は時々連絡をくれる。
私はそれに見合ったことをしていない。
申し訳ないと思う。

とても感謝しています。



5/20/2017

富良野

あのドラマが始まったのは私が北海道を去った年だった。
だから始まりはとても印象に残っている。
今日、YAHOOの記事で倉本聡氏が富良野について語っていた。
確かにあのドラマは富良野を有名にしたと思う。
でもそのずっと前に富良野を世界に紹介した人がいた。
前田真三さんだ。
私は前田さんの写真を見て北海道に憧れたわけではない。
この有名な写真を見たのは北海道に行ってからだった。
札幌のアパートで、本屋で買って来た写真集を見ながら、
「へえ、北海道にはこんな場所があるんだ…」と思った。
でもなにか記憶にひっかかるものがあった。
前田という名前と北海道というつながりに何か覚えがあった。
それで思い出した。
私の学生時代の友人が「(友達の)前田さんのお父さんは北海道の写真を撮ってるんだって」
と言っていた。
その友達の名前が前田だった。
そういえば前田さんのお父さんとは電話で話したことがあったなあ、と思い出した。
その時は全く知らない人から電話が来たわけだからいぶかっていたのだろう。
ちょっと厳しい口調の怖そうな印象だった。
そうか、あの人だったんだ。と思った。

前田さんの写真集はいくつも買い込んだ。
まだ手元にある。
あの写真が1971年頃だから、その頃から富良野の景色を撮っていたのだろう。
あるいはもっと前かもしれない。
富良野を有名にしたのは前田真三さんだと思う。

私は北海道に住んでいた時、一度も富良野に行ったことがない。
近くまでは行ったけれど立ち寄っていない。
その後も一度も富良野には行ったことがない。
こんなに有名になってしまっては行くことができない。

前田さんの写真集を引っ張り出してきて眺めていよう。

5/17/2017

Rip van Winkle

リップ・ヴァン・ウィンクルという名前を聞くといくつか引っかかるものがある。
まず叔母が住んでいたのがTexas州のRip van Winkleという街だった。
私は行ったことなないが、「その名前はあの物語の場所だから?」と聞いたら、物語とは
関係が無いということだった。
でもちょっと行ってみたい気もする。

ある日中古CDショップに行って良さそうなCDを何枚か買って来た。
その何枚かの中に全く知らないCDが入っていた。
インディーズバンドの「リップヴァンウィンクル」という名前のバンドだった。
なぜそこに入っていたのかわからない。
たぶん欲しかったCDの隣にあったCDだったのだろう。確認せずに持って来てしまったのだろう。
300円だった。一度聞いて、ああいいや、と思った。

昨日「リップバンウインクルの花嫁」という映画を観た。
「ああ、なんかこういうのは後々気になっちゃうんだよな」と思いながら最初の方のシーンを
見ていた。しかし話はそういう方向ではなくとても不思議な方向に向かって行った。
すごく美しい映像だった。
観終わって時間が経ってもじわじわとくる映画だった。
何だろう?ああいう感覚はちょっとなかったなあと思う。

それで本来のお話は浦島太郎物語なのだけれど、ああいう発想は世界中にあるのだろうか?
勿論相対性理論ができるずっと前のことだけれど。
普通に生活していて時間を超越するという概念がうまれるのだろうか?

どちらも長い時間経ってお爺さんになって戻ってくると、村は数十年経っていて、という一致は
不思議だ。

5/10/2017

Belle and Sebastian ベル&セバスチャン 新たな旅だち

子供の頃というか、だいぶ大きくなっても録音された自分の声を聴くと自分の声とは思えなかった。
誰か別の人の声のような気がした。
最近ネットでそのことが話題になっていた。
それによるといろいろな理由をつけていたけれど、私は音程が違うとか自分の声は直接耳で聞くことができないとか、そういう理由ではないように思う。

子供の頃は自分の声のイメージを自分で作っているように思う。
自分はこんな感じの声で、こんな感じで話しているはず、というイメージ。
そういうものを持っていたように思う。
だからたぶんテレビやなにかで同じ年頃の子供の声を聴いた時に、自分で似てると思う声は
他人が似てるという声とは違っていたはず。

同じように自分がどんな顔をしていて、どんな雰囲気で話しているか、そういうイメージも
持っていたように思う。
たぶんそれは本当の自分とは違うものだと思う。
だけど、自分の中ではこういう感じのはずだ、と思っていたはず。

映画を観ていてそんなことを思い出した。
この映画に出てきた男の子は自分が同じ年頃の頃に思っていた理想的な自分の姿
に近いように思う。
こんな顔つきに近い自分の写真があったように思う。
それを出して来たくはないけれど、たぶんそんな風なイメージだったと思う。

実際には全然違うと思う。でもそれはそれでいい。
大事なことは自分の中にどんなイメージを思っていたかだ。