3/29/2019

昨日の夢

学校にいた。
高校なんだと思う。
これから1年の自由研究のテーマを決めて何をやるかを皆で決めていた。
僕のグループはなんの研究だったか忘れたけれど、僕が図書館でそれに
関しての本を選んで教室に戻ると、すでに授業は始まっていて、
みなお揃いの制服を着ている。
なんだかおかしな色の服だった。
僕は普段着のままそこに入って席に座る。
どうも先生はいない。


高校のはずなのに、すでに年月が経って三鷹にいたのはずっと昔のことになっている。
いつか並んで歩きながら話している。
とても懐かしい感じがする。
同じくクラスメイトの男がいて僕を待っていたようだった。
自由研究のことで話をする。

「次の授業が始まる!」とだれかが言う。
急いでまた教室に戻るが、見覚えのない部屋だ。

教室に入ったつもりが、どうやら車に乗っているようだ。
日の当たる道を走っているが、足を延ばしてもブレーキペダルが無い。
車は坂道を滑るように走っている。
右足をずっと伸ばすとやっとブレーキがあった。
車は並木道を走っている。

3/28/2019

あの時代は何だったのですか?

続きです。

改めて新聞を調べてみた。
まず1968年6月21日(金曜日)だけれど、
朝日には地図が出ていた。
これを見るとバリケードはお茶の水駅側の1か所だったようだ。靖国通り側はどうなんていたのだろう?
記事を読むとこの明大前の通りに3か所バリがあったようだ。また写真をみると靖国通り側からの車が止められているので、靖国側もバリ封鎖されていたようだ。
また記事を見ると夜は雷雨になったようだ。朝日の写真が夕方6時だけれど、
この時点では傘が見えない。手前側は一般の人だと思うけれどだれも傘をさしていない。
このあと機動に排除されたはずだから、その時には雨だったかもしれない。
しかし火炎瓶が使われたということは書かれていないので、(記事だけを理由にするなら)「燃えて」はいなかったと思う。

キャンパス通りがバリ封鎖されたもう1回が1969年の1月18日。
これは毎日新聞の記事だけれど、お茶の水駅前で火炎瓶が燃えている。
文字通り「キャンパス通りが炎に燃えた」のだけれど、1月18日は土曜日だ。

歌の歌詞が全く事実を歌っているとすると1968年6月21日(金)の方が
合っていそうだ。ただし火が燃えてはいなかった。
たぶん比喩だった。ということだろうか。


3/22/2019

Google+

結局Google+というのが何なのかわからないうちに終了するらしい。
何もしてなかったから影響は無いと思うけど。
じゃあGoogle Bloggerは?
というのが次の心配で、こことか学校のクラブのホームページは
Google Bloggerで作っている。
これは無くならないだろう、と見込んでそうしたのだけど
どうなんだろう?

Bloggerは世界的にも使っている人が多いから、
簡単にはやめないだろう。(希望的)
でもそうなる時はこっちもそろそろ終了する時期かもしれない。
どこかに移転してその後は知ったことじゃない。

3/17/2019

みんな夢でありました 森田童子

あの歌は謎があることに気が付いた。

『キャンパス通りが炎に燃えた あれは雨の金曜日~』
というのは一体いつのどこだろう?
「キャンパス通り」と言っているのは明らかに駿河台の明治大学の前の通りだろう。
あの通りがバリケード封鎖されたのは2回。
1回目は1968年6月21日(金曜日)。
この日が最初だ。
神田カルチェラタンと言っているのはこの時だと思う。
しかしバリはすぐに機動に排除されてしまったはずで、燃えてはいない。
この日は確かに金曜日だけれど、雨ではなくどっちかというと晴れていたようだ。
あるいは機動の放水を「雨」と表現しているのかもしれないが、放水があったという
ことはどこにも書かれていなかった。
でも放水と催涙弾の乱射はあったような気がする。
比較的簡単にバリは解除されたようだから。
だからこの日が「キャンパス通りが 炎に燃えた」日だったように思う。


写真はネットから。無検証。無許可。

もう1回は1969年の1月18日。この日は東大の安田講堂の日だ。
天気はこの日も晴れ。土曜日だった。
この時も駿河台の学生はすぐに排除されて燃えてはいなかったようだ。
しかし安田講堂は「燃えてた」と言えないこともない。
ニュース映像では火炎瓶がボンボン燃えていた。
しかも機動の放水がすごかった。
まるで大雨のようだった。
この日はどうだったのだろう?
東大構内には入れなかったんじゃないだろうか。(知らないけど)


写真はネットから。無検証。無許可

じゃあ、他に雨の金曜日はあったかと調べると、それらしい金曜日は無いけれど、
1968年の6・15(土)(何の日か忘れたけど、反戦デー)。日比谷。
この日は雨。
同じく1968年 10.21(火)の国際反戦デーが雨。
私は高校生だったけれど、彼女は2つ下だから中学生だったと思う。
中学生がそのあたりをうろついていただろうか?
あるいは「雨の金曜日」は詩人特権で言っているのかもしれないけれど。

私が高校生でべ平連のデモに参加していた時、確かに中学生のグループもあったけれど、
そのあたりは全くわからない。彼女がどんなだったのか。
どこかに高校中退と書いてあったから自由にやっていたのかもしれないけれど。

『河岸(かわぎし)の向こうに僕たちがいる』
というところはどうだろう?
「キャンパス通り」と言ってるからには「河岸」というとやはりお茶の水駅前
の神田川(外堀)だろう。
駿河台がバリ封鎖されたり機動に排除されたりしてるというと、川岸の「こっち」
つまり駿河台側にはいられないだろう。中学生は。
「河岸のむこう」と言っていながら、そっちがわにいる自分を言っている。
つまり医科歯科大学の側の川岸にいて見ているのだろう。
私はその時(神田カルチェラタンの時)はそのあたりにはいなかったので
わからないけれど、多分お茶の水橋は閉鎖だっただろう。
その向こうがそういう状態だったのだから。

お茶の水橋の医科歯科大に立つと、神田川の深い谷を隔ててその向こうに
活動家の学生と機動隊が見えたに違いない。
それを対岸から見ていたら神田カルチェラタンは燃えていたように思ったかも
しれない。

いずれにしても学生運動はあの時代の一部であり、ゲバルトな活動をしていた
学生はごく一部だった。
他の学生、市民は何らかの討論会を開いていたり反戦歌を歌っていたり、
あるいは何もしなかったり、何も考えなかったり、活動家を批判したり、
反対側(右)にいて相対する活動をしていたりだった。

「僕たちはもう 語らないだろう」
「僕たちは 歌わないだろう」
と言っているからは、彼女はごく普通の(活動家ではない)学生だったのだろう。
あるいは新宿の地下広場には行ったのかもしれない。(あくまで想像)

近年あの当時の反戦活動全てに批判的だけれど、それはまちがいだ。
大半の学生・市民は普通に暮らしていた。ただしそれなりに社会の問題については
考えていて、意見を言う人が多かった。
あの時代があって今があるのだから。

この歌はわざとか、記憶違いか、で事実とは違うことを歌っているのかもしれない。
燃える安田講堂とバリケードで封鎖された駿河台の通り。
あるいはデモを見ていた(参加していた)雨の日の情景がそれに重なっていたの
かもしれない。

あるいは全てはpoetic licens。

八幡山公園

怒涛の2か月がやっと静かになってきた。
今日は急ぐこともなかったので八幡山まで行ってきた。
あれは何だろう?桜の木が2種類あるのかな?
斜面に植わっている桜?はすでに終わってピンクのがくだけが残っていた。
上の桜はまだ全然咲いていないかった。
来週かな?
来週また午後にでも行ってみようと思う。
いつもはセブンイレブンでお弁当を買って、上で食べる。
そのパターンで。
桜が咲いていると親子連れがたくさん来てるかもしれない。
でも晴れるといいけど。

3/15/2019

ロマネスコ

ロマネスコを食べたことがあるだろうか?
どこかで食べたかなあ?
スーパーに置いてあったので明日買ってこよう。
たぶんブロッコリーと同じ料理法でいいんじゃないだろうか。。

しかしあの形状が問題だ。
なんでフラクタルの見本のような形をしているんだろう。
ほかにあれほどのフラクタルはあっただろうか?と考えたのだけど、
シダの葉っぱくらいしか思いつかない。
シダも細かくみたらほんとうにフラクタル形状だろうか、と疑問もある。
パセリなんかも感覚的にはフラクタル形状だけれど、細かくみるとどうも違うみたいだ。

そういうわけでロマネスコを食べよう。
いや食べる前に細かく見てみよう。
話はそれからだ。


3/03/2019

3月だよ

おしいところで4年に1回の誕生日を逃した妹に電話してみた。
とても元気だった。
術後の経過はいいようだ。
声も明るくて安心した。
こういう電話はとても勇気がいる。
もしも落ち込んでいたら、と思うと電話をかける手が止まる。
それでも誕生日だったから、ちょっと遅れたけど、電話してよかった。

札幌を後に東京に車を走らせたのは確かこのあたりの時期だった。
まだ雪が降っていた。
北5条から大通りに向かう道。
丁度社長のマンションにまっすぐ向かう道だった。
見送りしないから、と言っていた友人がバックミラーの中で、雪の中手を振っていた。
それから後はほとんど前が見えなかった。
大通りから石山通りに向かって走ったはず。
真駒内のあたりを過ぎた頃は雪が激しくなってきた。
「ほんとうにこれから東京に向かうのか?」と何度も考えた。
車で東京まで走るのはもう20回目くらいだったけれど、
もう車で来ることはないだろうと思うと、
無性にあの宮の森のアパートに帰りたくなった。

今思うと、あのまま札幌に残るという選択もあった気がする。
会社はあのあと5年くらいでだめになったから、他の仕事をしていたかもしれない。
なんで東京に帰ろうと思ったのかというと、要するに何も考えていなかったから
だろう。よくできたと思う。
その頃、世の中はマイコン、パソコンの世界になって行ったから、その世界の
最初の頃に加われてよかったのかもしれないとは思う。

たぶん仕事の仕組みが劇的に変化した時代だった。
1980年から1990年の変化は2000年から2010年の何倍も大きかったように思う。
その変化を経験できてよかったと思う。
まるであっという間だったけれど。