12/29/2013

メニエール病(Meniere’s disease)

先日Gravityという映画を観た。
始まって10分で吐きそうになった。ずっと我慢し続けて観たが、
私は宇宙には行けないと確信した。

オヤジの持病についてはこれでおしまいだと思う。
私の母がこれだったので私のは遺伝かもしれないと思う。
Wikiによると遺伝はしないということになっているらしいが・・・

一番最初の発症はたぶん小学校の4年の時だ。広場で遊んでいて突然来た。
家が近かったのでふらふらの状態で家まで帰った。
家では母が親戚のおばさんと話をしていた。
私はそれを気にもせず母親の膝に崩れた。
母には何も言わなかった。
自分でも何が起きているかわからなかったから。
その時は2,30分でおさまった。

次は遊園地で回転する遊具で遊んでいた時だ。
乗ってすぐに目が回り始めた。
ずっと下を向いて早く終わるのを待っていた。

その後は回転や揺れるものは避けるようにしていたので、あまり発作は起きなかった。

一番ひどかったのは30歳の頃、夜寝ている時だった。
夜中の2時ころだろうか、異様な感じに目が覚めたら、
部屋がぐるぐる回っていた。
とっさに「これはガスだ!」と思ってふらふらになりながら、台所のガスを確かめて
窓を全部開けた。
しかしガスではなかった。
なかなかめまいが治らず、トイレにこもって吐き続けた。
それから原因がわからなかったので、救急車を呼んでくれた。
救急車に乗るころにはかなり治まっていた。
そのまま病院に入って点滴を受けて、翌日には家に帰ってきた。

これはメニエール病だろうな、と思い。
専門の大学病院で見てもらう事にした。
しかし、いろいろなテストをしたが原因も治療法もわからずじまいだった。
むしろそのテストの方が辛かった。
尺骨神経麻痺のところでも書いたけれど、どうも大学病院というのはそういうところがあるようだ。

その後はさらに注意して回り始めたら故意に目を逆に回したりしてなんとか大きな発作は
発症していない。
不思議なのはハングで飛んでいたとき機体をぐるぐる回すわだけれど、
その時は全く問題は無かった。
たぶんああいう回転の遊具に乗ったらすぐに発作が起きそうだけれど。

幸い最近は大も小も発作は起きていない。

スーザン・オズボーン(Susan Osborn)という女性歌手

最初に聴いたのはたぶんテレビ番組のBGMだったと思う。
今から10年以上前だろうな。
確かNTTの提供のボイジャーのドキュメンタリーだった。
ジャワの音楽とスーザン・オズボーンの「浜辺の歌」とヴァンゲリスの「南極物語」のテーマ
がBGMに使われていた。
いずれも宇宙のシーンにぴったり合っていた。
特に「浜辺の歌」は印象的だった。
なんで宇宙で浜辺の歌なんだ?という疑問は全く浮かばなかった。
なぜか宇宙の映像にぴったりだった。
番組の最後の方はもう涙無しには見れなかった。

あの歌は誰が歌っていたのだろう?と思いビデオをもう一度見直して、
スーザン・オズボーンという人が歌っているのを知った。
早速アルバムを買って聴いた。
どの曲もすばらしく良かった。

彼女は日本語の歌をそのまま歌っているのではなく、英語の詩に直して歌っている。
浜辺の歌はまだ元の歌詞が残っているけれど、「地球」をテーマにした詩に置き換えて
いるものが多い。
「ふるさと」もそうだし、「仰げば尊し」もそうだ。
いずれもすばらしい歌詞だ。
この二つの詩はとてもよく似ている。
「ふるさと」の方は地球が我々のふるさとだと歌っている。
「仰げば尊し」の方は、この地球上で我々が共通に経験したこと全てを、我々は決して忘れない。
と歌っている。学校を卒業するという狭い意味ではなくこの地球の上でのこととしてを歌っている。
・・・ということは前にも書いたな・・・



12/27/2013

タンホイザー・ゲート(追加) Tannhauser Gate

「二つで十分」問題は置いといて、
この映画の最もすばらしいシーンはやはりmonologueのシーンだ。
私はこの映画はここで終わらせるべきだったと思う。
その後のシーン、ストーリーは不要だ。

I've... seen things you people wouldn't believe...
Attack ships on fire off the shoulder of Orion.
I watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.
All those... moments... will be lost in time, like tears... in... rain.

アドリブでこの台詞を言った俳優は天才だ。
・・・というかこの台詞をこの映画で言うために生まれた人のように思う。
この言葉を残してレプリカントが死んでしまった後で、映画を観ている我々は、
彼らが昔の写真を欲しがっていた理由もわかるし、
彼らが寂しい存在だったこともわかる。
この言葉は腐った未来都市から一気に宇宙の真ん中に我々を
連れて行ってくれるものがある。

タンホイザー・ゲートを一度見てみたい。

<追加>
Rutger Hauerは撮影の前日までは別の台詞を用意していたようだ。

I've known adventures, seen places you people will never see, I've been Offworld and back...frontiers!
I've stood on the back deck of a blinker bound for the Plutition Camps with sweat in my eyes watching the stars fight on the shoulder of Orion...
I've felt wind in my hair, riding test boats off the black galaxies and seen an attack fleet burn like a match and disappear. I've seen it, felt it...!

これを見ると映画の中の台詞がいかに推敲されつくしたものかがわかる。
「冒険(あるいは出来事)」という言葉がThingsになっている。
またPlutition Campsという言葉が入っている。日本ではあまり語られていないが海外サイトでは
ちょっと話題になっているようだ。たぶんこれもTanhauser Gateと同じく彼が作った地名なのだろう。

the soulder os Orionで見たのはstars fightになっている。これは映画の方が具体的になっている。

I've felt wind in my hairというのはすごいなぁ。暗黒星雲に向かう実験機の乗っている時の話だが、宇宙船に乗って風を感じるというのは・・・これは台詞に入れて欲しかったような気もする。

最後の、船団がマッチのように燃え尽きて消えてしまった。というのはあまりに普通の描写だったような気がする。それでOrionの方に持って行ったのだろう。

いずれにしても、すばらしいの言葉に尽きる。

映画でこのシーンを撮影し終わった時、スタッフの中にも涙を流した人がいたそうだ。

12/26/2013

年末が世界の終わりだった頃

札幌に住んでいた頃は年末には車で東京まで帰ってきた。
帰るのは12月30日とか31日になってしまうわけだけれど、あの頃はお店はほとんど
閉まってしまっていた。
そういうのがいつまでそうだったのだろう?と思う。
いつのまにか大晦日までお店はやっていて元旦から開くようになった。
そうでなかった頃は大変だった。

まずガソリンスタンドも閉まっているところが多かったので、開いているお店で
入れておかないとガス欠になってしまう。特に北海道、東北では閉まっていたように思う。
まだ東北自動車道ができていなかった頃はずっと国道を走ったから結構気を使った。
東北道が出来てからはサービスエリアで入れることができるようになった。
銀行も(これは今もだけれど)年末年始は閉まってしまうからお金も下ろしておかないと
いけない。
お店も閉まるから皆買いだしにでかけた。
あの頃は商店街もにぎやかだったように思う。
大量の食品を買い込んでいた。

私の父は年末は大晦日までにやることをやっておかないと気がすまない性分だった。
紅白が始まるまでに片付けや掃除や風呂を済ませ、あとは何もしなかった。
父にとって大晦日で1年は完全に終わったのだろう。

ときどき、まるで父のようにしている自分に気がつく。

12/23/2013

正常眼圧緑内障 (続き)

オヤジはまだ目が見えているからどうでもいいのだけど、
大事なことを書くのを忘れていた。

目の検査に通っていた市大病院での話しだ。
眼科の待合室はあまり広くなく長椅子が2本あるだけだったから、
座って待っていると他の患者さんの話が聞こえてくる。
そこに白内障の手術をした人がいて話をしているのが聞こえた。

その人は手術をしても見えるようになるかどうかわからなかったそうだ。
それでも手術をすることにしてそうだ。
手術が無事終わり包帯を外す時のことだ。
先生がゆっくりと包帯を外し、「目を開けてみてください」と言われたらしい。
その人は恐る恐る目を開けたそうだ。
でも何も見えなかった。
自分では目を開けているつもりだったので、先生に「開いてますか?」
と聞いたらしい。先生は「はい、開いてますよ」と言った。
その時、「ああ、だめだったか・・・」と心底失望したそうだ。
しかし、先生は、
「そのまま、まばたきしないでください」と言った。
そして先生はペンシルライトの光をその人の目にあてたそうだ。
その瞬間目の前の景色がまるで夢から覚めたように
明るい世界として見えたそうだ。

私はとなりでその話を聞いていて思わず涙を流してしまった。
目が見えるというのはすばらしいことだと思った。

12/22/2013

正常眼圧緑内障

低眼圧緑内障とも言うみたいだ。
これに気がついたのは全くの偶然だった。
たまたま眼科の先生も一緒に何人かで話をしていたときに、私が雑誌を見ていて
「右目と左目の見え方が違うな・・・」と言ったのを先生が聞いていて、どんな風に
見えるかを聞いてきた。文字だけのページを開いて片目ずつ、どういう風に見えるか
を調べた。それを見て先生が「今すぐ私の病院に行きましょう!」と言った。
角膜剥離かもしれないし、緑内障かもしれないということですぐに見てもらうことになった。

調べた結果、緑内障らしいということだった。その頃はまだ正常眼圧緑内障という病気が
あまり知られていなかったが、私の眼圧は全く正常な値だったが、
右目が緑内障の症状で、上半分が見えなかった。
見えなかったことに気がついたのは実はその時が初めてだった。
いったいいつから見えなかったのだろう? と考えたけれど思い出せない。

子供の頃は顕微鏡をよく覗いていたので、左目で顕微鏡を覗き右目でその絵を描く。
その時には別に不自由は無かったように思う。
その後、私立大学を紹介してもらい何度も検査してもらったが見え方に変化は無かった。
だから生まれつきかもしれないと思い、兄にも聞いてみた。
兄も調べた結果私と同じだった。ただし反対側の目だった。
だからたぶん母親のヒロシマでの被爆が原因なのだろうと思う。

幸いその後も見え方に変化は無いようだ。

12/20/2013

70年代のドライブ

田中光二のことを書いたのでついでに昔のドライブのことを書いておこう。
一番最初に乗った車は中古の日産チェリー1000だった。小さいけれど4ドアのセダンだった。
このチェリーも良く乗った。下取りの時の走行距離は14万キロだった。
初めての北海道もこの車だった。

日産のディーラーから初めて一人で公道を走った時のことはよく覚えている。
今は連雀通りと言うらしいが、井口にあったお店を東に左折で出て、とにかくまっすぐ走った。
すぐに右折すれば家に着いたのだが、右折ができなかった。
それで左折だけで家に帰る道順を一筆書きで頭に描いた。
八幡前から三鷹台の方にまっすぐ走り、井の頭通り(水道道路)に出た。そこで左折して
まっすぐ吉祥寺を抜け、三鷹駅の北側に出てそこを左折して国鉄をくぐり(あれ?まだ踏み切り
だったかな?)、再び八幡前に出た。そこはさっき右折をあきらめた交差点なのだが、意を決して
右折した。当時は今と違い大成高校から三鷹駅に向かうにはクランクになっていた。
そこまで走るとちょっと慣れてきたので右折もできた。
そのまま家まで走ることができた。

’70年ころは駐車は今のように厳しくなかった。
ラーメン屋の前に車を停めておいたり、商店街のお店の前に車を停めたりというのは普通に
行われていた。農地だろうと思われる道路は駐車場と化していた。私が初めて違反を取られた
のは駐車違反だった。それも右側駐車だった。茅ヶ崎の友人の家に行った時に普通の市道の
右側に4時間くらい停めていた。帰ろうと思ったら車が無かったので近くの警察署に行ったら
そこにあった。レッカー代は取られたけれど、確か初心者マークを付けていたので切符は
切られなかったと思う。

「中央フリーウェイ」という歌があるが、調布飛行場を調布基地と言うのは我々の世代の
しかもあのあたりに住んでいた人ではないだろうか?と思う。
歌の中で「・・・言っても聞こえない風が強くて・・・」というのが出てくるけれど、
ちょっと考えたらあれはオープンカーのか?とも思うが、たぶんそうではないだろう。
あの頃はエアコンを付けていた人は少なかったから、夏だったら窓は開放だっただろう。
あるいは冬であったとしても当時の車は今の車に比べると車内の騒音がすごかった。
タイヤからの路面の走行音と、車体に当たる風切り音だ。
今でも古い車に乗ると音がうるさくて驚く。

オートマチック車も少なかった。
たぶん今は死語となってしまったと思うのは、「クラッチ滑り」とか「押しがけ」とか「ダブルクラッチ」
とかの言葉だ。トラックではまだ生きているかもしれない。
「チョーク」はどうだ?「ノッキング」は?最近はキャブレターも使われていないから「ツインキャブ」
と言う言葉の響きも感じることもないだろうな。












12/17/2013

山田正紀 田中光二 高齋正 SF小説

SF小説については書いただろうか?
忘れてしまった。
まあ、いいか。

札幌在住時代は時間だけは豊富にあったので、本はよく読んだ。
特にSFは読み尽くした。
好きだったのは山田正紀や田中光二それに高齋正さんだ。たぶん高齋さんは私よりも
ずっと年配だと思う。

山田正紀の話は好きだった。スケールが大きくて発想がちょっと思いつかないような話
が多かった。最初に読んだのは「神狩り」だった。この話はなんていうか生活している中で
うすうす感じていた神というものの存在を小説の形で現したような感じだ。
神が「敵」として現れるのは他の小説にもあるが、この話はほんとうに面白かった。
「チョウたちの時間」までは全部読んだ。 そうか、札幌を去ろうと思い始めた頃までは
読んでいたんだ。。

田中光二も読んだ。最初に読んだのは「君は円盤を見たか」だった。それが面白かったので
さかのぼってほとんど全部の話を読んだ。
田中光二の話は車で走る話が多い。それにその場所場所の描写がリアルで自分でも走った
所が多いのでその場所を明確に特定できたような気がする。
車はクラッチ付きの車だ。オートマチックなどありえない。
まだダブルクラッチできるだろうか?・・・

車のSFと言えば高齋正さんだ。この人にはだれもかなわないと思う。
話自体はフィクションだが中で出てくるエピソードは全て実際の話だ。あの当時あるいは
それ以前の名レースの話や(今となっては)クラシックカーの話など知識の宝庫だ。
エピソードとフィクションを一緒に読んでいると全てが事実なんじゃないかと思えてくる。

車と言えば比較的最近感動したSFがあった。
神林長平の「魂の駆動体」だ。
何が感動したかと言うと、遠い未来に車の設計図(紙)を読み解くシーンだ。
車と言うもの自体意味の無い遠い未来にその設計図を基に車を作る。
そのシーンは涙無しには読めない。
たぶんエンジニアならわかるだろう。あれは。

12/15/2013

星のカーテン

神代高校には地学の先生で羽鳥先生という先生がいらっしゃった。
関東ローム層の権威だった。
その先生の授業は当時としてはとてもユニークで授業の大半はスライドを映しながら
真っ暗な教室で行われた。生徒達は予め手元を見ずにノートをとる方法を練習させられた。
そのためノートはとても大きく乱れた文字で埋め尽くされた。
 
その先生の授業で最も感動したのは星の話だった。
『ではみなさん、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐた・・・』
というのは宮沢賢治だけれど、まさにそういう感じだった。
 
先生はスライドで沢山の星の中に浮かんだ星雲の写真をスクリーンに映した。
私はそのままこの「星雲は星達の中に浮かんでいる」とずっと思っていた。
しかし先生は
「この周りの星達は言わば私たちの住む銀河のカーテンです。」と言った。
「私たちはカーテン越しに星雲を見ているんです。星雲の周りには何もありません。」
 
           
 
先生がそう説明された瞬間に私はその何も無い宇宙の中で星雲を見ている気がした。
あの感動は今でも忘れない。
真っ暗な教室が宇宙に変わった瞬間だった。
高校生の頃にあの感動をくれた羽鳥先生に感謝したい。
 

12/08/2013

HP-67

もうずっと探しているのだけれど、どこかに行ってしまってみつからない。
初めて物語を書こうかと思っていた。NECのPC-8001が出た時のことを書こうと思っていた。
PC-8001が出てすぐに会社で買った。何をするでもなく何かに使えるだろうと思って会社で買ってもらったものだけれど、プロッターで図面を描いたことと、会社の会計ソフトをBASICで作った
のは覚えている。たぶんあの頃はそれで十分だったような気がする。

それ以前に社長からHPの電卓をお借りしていた。
HP-67だ。
これを探している。どこに入れたのか全く覚えていない。
本体が見つからないが、プログラミングカードは見つかった。


 
 
この電卓は本当にすごい。
計算のプログラムを組むことができ、それを磁気カードにSAVEできた。

計算はRPNなので知らない人は使えない。でも使い慣れるともうこれしか使いたくなくなる。
頭がRPNになってしまうと頭の方にもスタックができるようだ。

HP-67はずっと使っていて1995年頃だったろうかカードリーダーが壊れたので横河で修理して
もらった。バッテリーもいかれていたので修理代が7万円くらいだった。
今だったら絶対に払えない。
その後HPは新しい電卓を沢山出していて、私も新しいものを使うようになり、HP-67はどこかに
しまって、そのままだ。

「あれはどうした?」と突然思い出して探し始めたけれど、みつからない。
皮のケースに入って、ブランクカード20枚くらいと一緒にどこかにあるはずだ。

HPの電卓はこの他HP-97というBASICが走るコンピュータも持っていたのだが、これは売って
しまった。今でも後悔している。それは秋葉原の大型電気店の倉庫で見つけてその社長に
譲ってもらったものだった。要するにタダだった。GP-IBのインターフェイスユニット付だった。
あの時はとりあえずお金が必要だったから、かなり安く売ってしまった。失敗だった。

HPの電卓はRPNを知らない人に「1足す2、計算してみて」と言って渡すと面白い。
その人がどう考えているかを見ているのが面白い。

今パソコンのディスクトップにHP-67のエミュレータが置いてある。
ちょっと動作が遅いがよくできていると思う。
上の写真は実はエミュレータの画像。



12/05/2013

札幌で好きだったもの


札幌で好きだったものを書こう。

●夏の石狩浜
     今はたぶん無くなってしまったかもしれないが、花畔から海岸に至る間の
     草原というか原野の残りは好きだった。

●時計台の鐘の音
     あの音が好きだ。
     なんであれが残念な観光地と言われるのか理解できない。

●地下鉄の警笛
     あの音は札幌だけだろう。

●雪虫
     雪虫自体は好きではないが、あれが舞っている姿はとても懐かしい。

●紅葉
     北海道の紅葉は文句無く美しい。
     その後に山全体が茶色になってしまうことを思うとなお美しく思った。

●唐松の落葉
     文句無く美しい。 
     風が吹いて一斉に黄金色の雨を降らせる。

●落葉
     紅葉が終わってダケカンバの白い幹が茶色の山に映えるのも美しい。
     何度も写真を撮りに行った。

●光る路面
     雪が降って道路がカチカチになった頃、太陽の光が反射して道路が光る。
     その反射を見ながら走るのが好きだった。
     あの頃はスパイクタイヤだったから多少の凍結道路はなんともなかった。

●雪雲
     手稲山の方に分厚い雪雲がかかる。札幌はまだ青空。
     その感じが好きだった。

●凍った部屋
     あの感じはこっちでは絶対に味わえない。
     仕事から帰ると部屋が空気ごと凍っている。
     凍った空気を押しのけてポット式ストーブに火をつける。
     ストーブの周りから空気が溶け始める。
     あれをもう一度味わいたい、と時々思う。

●雪
     何もかもが雪の中に埋もれてしまうこと。
     想い出も一緒に。
     あれには勝てない。

●雪解け
     春になって路面の雪が溶け始め、黒い路面が見えてきて、
     道路の端に小さな流れできて、
     ちょろちょろと音をたてて流れるところ。

●ふきのとう
     春だ。と思う。


12/03/2013

おせっかい 秋葉原で

ピンク・フロイドのアルバムの話ではなく・・・

先日、公園を歩いていたら一匹の蝶が蜘蛛の巣にひっかかって、ばたばたしていた。
それを見て、かわいそうだと思い蜘蛛の巣から放してあげた。
蝶はどこかに飛んで行った。
「ああ、いいことをした」と思って歩いていたのだが、いや、まてよ、いいことだったのか?
と思った。じゃあ蜘蛛はどうした?
蜘蛛だって何週間も食べ物が無かったのかもしれないじゃないか。
それに思い至り、戻ってさっきの蝶々を捕まえてもう一度巣にかけようかとも思った。

私はおせっかいかもしれない、と昔から思っている。
いままでやったおせっかいで一番面白かったのを書こう。

今から30年くらい前、私は御茶ノ水のレモンで買い物をして一駅だけれど秋葉まで
電車に乗ろうと思い、ホームにいた。
そこに南米風の家族5人連れがいた。
そのうちの一番小さな女の子がはしゃいでいた。
電車が来て私が乗り込むとその女の子も乗ってきた。
しかし他の家族はホームで、たぶんこの電車でいいのかを考えていたようだ。
他の家族が乗る前にドアーが閉まってしまい、女の子一人が電車に乗ってしまった。
その子のお母さんがドアの向こうで何か言っているが聞こえない。
手で何か言っていたようだが女の子はどうしていいかわからず泣きそうだった。

電車はお茶の水駅を出てしまった。
女の子の隣にいた初老のおばさんが女の子の手をとって大丈夫だからと言って、
なぐさめていた。でも言葉は通じていなかった。
私は次の秋葉原で降りたが、女の子とおばあさんも一緒に降りてきた。
おばあさんは駅員さんを探していた。
駅員は近くにいないようだった。
おばあさんと女の子はうろうろして、ホームの端の方に行こうとしていた。

私はさっさと下のホームに行き改札に向かっていたが、
「絶対に会えない」という考えが浮かび、さっきのホームまで走って戻った。
ちょうど次のお茶の水からの電車が到着したところだった。
私はさっきの家族が降りてくるだろうと探していたが、ベルが鳴っても降りてこない。

さっき女の子が乗った車両まで走って行くと、そこに家族が乗っていた。
彼らはそこでは降りないつもりだったらしい。たぶんさっきドア越しに言っていたのは
降りる駅名だったのだろう。
私はドアを押さえて、「女の子はここにいるから」と言って彼らを降ろした。
ホームを見渡して女の子を捜したがすぐに見つからなかった。
おばあさんと女の子は秋葉原デパートに降りる出口のところにいた。
「ここにいるよ」と家族を呼ぶと、心配そうな顔をしていたお母さんが来て女の子を
抱きしめていた。

私はそれを確認して、すぐに改札に向かった。
「私がいなかったら、絶対会えなかったよな・・」と
おせっかいなやつが満足そうだった。

12/01/2013

尺骨神経麻痺(ulnar nerve palsy)

そもそもの初めは子供の時に自転車ごと倒れたのが原因だった(らしい)。
たぶん私が3歳くらいの頃だろう。
左腕を複雑骨折して曲がったままになってしまった。
小学校の時はその曲がった腕を見られるのがいやで、いつも長袖の服を
着ていた。でもさすがに夏は暑いので半そでのシャツを着ていたけれど、
右手で左腕のひじを隠すのが癖になっていた。

そのまま成長して高校、大学とギターを弾き始めてから左手の握力が
異常に弱いのに気がつき、バネで筋力をアップする器具で左手の握力
を強くしようと思った。
それをしばらく続けていたある日、左手に「プチッ」とした感触があった。
あれ?と思った。
左手を動かしてみると小指がうまく動かない。
伸ばすことができなくなっていた。
その時は、そのうち治るだろうと思っていた。
しかし、いつまでも治ることはなかった。

それからはギターを弾くときに小指を動かすことができなくなっていた。
それだけでなく、セーハー(昔はバーコードと言っていた)でコードを押さえる
ことができなくなっていた。
しかたなく押さえられるコードだけを使って弾くようになっていた。

そしてさらに大人になって、30歳を過ぎた頃、小指と薬指の感覚が無くなってきた。
それでしかたなく病院に行くことにした。
母親が東大病院がいいというので、そこに行くことにした。
診察してもらった病名は「尺骨神経麻痺」だった。
複雑骨折が原因で腕を曲げるたびに神経が磨り減ったらしい。
それをほぼ30年続けていたので、どんどん神経が無くなってしまったそうだ。

そのままでは左手全部の感覚がなくなってしまうというので、手術することになった。
東大病院なので手術は公開処刑のようなものだった。
沢山の先生が見学できる部屋での手術だった。

2、3時間で終わるはずの手術だった。
台の上に乗せられて、笑気ガスのマスクを当てられて、
「ゆっくり数を数えてください」と言われた。
確か4までは数えた。
その後、目の前が真っ白になったところまでは覚えている。

次の記憶は(後から思い出した)車の付いた担架で廊下を運ばれているところ。
私は寝ていたが、長く寝ていたので背骨が痛くて、背中をずらそうとしていた。
それを(母が言うには)、私が暴れていると思った先生、看護婦が押さえて
いたらしい。とにかく背中が痛かった。

手術は結局6時間以上かかって、母も心配したらしい。
病室に戻る時には麻酔は切れてますから、と母は言われていたそうだが、
麻酔から完全に覚めたのは1時間以上あとだった。
後は1週間入院して腕は少し痛みがあったけれど、変なしびれは無くなり
手術して良かったと思った。

しかし実はそれからが痛かった。
毎週病院に通って検査するのだが、その検査は異常だった。
指と腕に電極を付けて、パルス的に電圧をかけるのだが、
指が動き始めるまで電圧を上げる。
もう神経も筋肉もほとんど無い指を動かそうとするのだから電圧は相当高かった
と思う。
私は指よりも他の部分が電気パルスのせいで我慢できないほど痛かった。
拷問に近かった。
「ちょ、ちょっともうだめです!」と言ったら先生に、
もう少しなので我慢してください。と言われた。

そんな検査を5回は受けただろうか。
それがあまりにつらいのと、
あれは結局どこまで動くか調べて学会の資料にでもするのだろう・・・
と思い至って、それから行くのはやめた。

神経を腕の反対側に通したのが良かったのか、
それからはしびれはなくなった。
でも小指の感覚はいまだに無く、薬指も半分感覚が無い。
握力は相変わらず子供よりも弱い。
神経が無いはずなのに、年に何度か痛みで目が覚める。
眠りに入った瞬間に電気的な痛みが走る。
それで目が覚める。
またうとうとして眠った瞬間に痛みが走る。
そして絶対に眠らせてくれない。
これもまた拷問だ。