5/30/2019

資産

って何だろう? と思う。
離婚してからしばらくは結構貯金はあったけれど、
それが今はほぼゼロだ。
時々、国民の平均貯蓄額はどうしたこうしたというニュースがあるけれど、
自分はランク外だ。

社会人として普通に仕事をして、普通に家庭をやっていた頃は
アメリカのニュースで貯金ゼロの人が多い、という話をきいて
一体どうやって暮らしているんだろう?と思っていたけれど、
今は自分がそれだ。

しかたないので医療・生命保険だけはぎりぎり入っている。
だから倒れたらそれでなんとか。
死んだら自動的に家は誰かのものになるし。

しかし竜巻で家をバラバラにされてしまった人達とか
ニュースで見ると他人事とは思えない。
彼らは生きるんだろうな、と思う。
自分だったらだめかも。

だから何も起きないで欲しいといつも思っている。
先日ガスの給湯器が壊れた、、致命的な金額だった。
息子と折半して新しいのを入れた。
その後で衣類乾燥機(必需品)が壊れた。
、、息子と折半してなんとか払った。
昨日、洗濯機が壊れた。
新しいのをカードで購入した。
来月だ。
問題は。。

本当の資産というのは健康ということだろう。

5/29/2019

The Last Campaign

3月にアメリカのアマゾで注文した。
それから1か月経っても届かないので連絡をした。
そうするとお詫びと「もう1冊を送りますので、2冊着いたら連絡してください」
という返事が来た。
それから1か月たった昨日、本が届いた。
本はハードカバーのきれいな本だった。
中古の表示だったけれど誰もページをめくった形跡がないものだった。

注文する前に、この本の概要だけアマゾンのHPで見る事ができて、
その索引にJohnh Stewartの名前が5か所くらいあることがわかった。
それで読んでみたくなって注文した。
まだ全部は読んでいないけれど、少し読んだところでは面白い内容だった。

ロバートケネディーが亡くなった時、私は高校生だったろうか。
そのテレビのニュースをかすかに覚えている。

5/28/2019

うんざりする

テレビで「あれは無害だ」とか「タバコよりも害はない」とか議論している
のを聴くとうんざりする。
そんなものを議論してどうなる?と思う。

それよりも全ての薬物をいっしょくたにして「麻薬」と呼んでることが問題だ。
覚せい剤もコカインも阿片も大麻もLSDも何もかも「麻薬」だ。
だから本当に危険なものが何か誰にもわからない。

例えば誰かがどこかでマリファナを体験したとする。
それで「ああ、こんなものか。大騒ぎしてる割に大したことないな」
と思うかもしれない。
それで「覚せい剤ってどうなんだろう?」と思うかもしれない。
あるいは「コカインはどんなものなんだろう?」と思うかもしれない。
その時、今テレビで言ってるように「マリファナは常習性、依存性があります」
とか言うのを信じてたら、「依存性ってこんなものなら俺は全然すぐ止められる」
と思ってしまい「覚せい剤やってみるか」と思うかもしれない。
そこの無知さは致命的だと思う。
だからそこははっきりさせなければいけないと思う。

また麻薬と言われていないものでも十分危険な薬物はたくさんある。
それもはっきりさせた方がいい。

私も実際には知識としてしか知らないけれど、麻薬と呼ばれているものは
人間をだめにすることは確かだ。

5/27/2019

ついでだから書いておこう

期せずして今日のYAHOOニュースの下の方に同じテーマの話が書かれていた。
あれが人体に有害かどうかは私は知らない。
しかしあれを「違法」としたために起きている弊害は見過ごせない。

おそらく最初はTHCそのものを合成したものを「合成ドラッグ」として
売っていたのだと思う。
その時点ではTHCはTHCだったので害は無かったと思う。
それをその筋が「THCは違法」としたので、THCの分子構造を少し変えたものを
作ってそれを新たな「合成ドラッグ」として売り出したのだと思う。
たぶんこのあたりまでは街で普通に売られていたと思う。
そのTHCの分子構造を少し変えたものは「違法」な物質には入っていなかったから。
そこで当局はその少し変化させたものも「違法」とした。

そしてドラッグ製造者はまたすこし分子構造を変えたものを作って売るように
なった。
おそらくこのあたりでは分子構造が似てはいるけれど人体に対しては「猛毒」
の分野のものになっていたに違いない。
その後、それも違法になったのにまた分子構造を変化させて・・・
と悪循環になって行った。

ということではないだろうか。
最期の頃の「合成ドラッグ」はもう、毒以外のなにものでも無かったのだと思う。
THCと合成ドラッグ検索すると元のTHCの分子構造とそれを変化させて行った
経緯とその分子構造を見ることができる。

分子は元の構造のものは無害でも、それを少しでも変化させたら猛毒になる。
味の素を合成するときにグルタミン酸ナトリウムは鏡像関係にある
(つまり鏡に写した形の関係)2種類のものができる。
L型は美味しいがその鏡像関係にあるものはまずい。
どちらもの同じ分子式なのに。
もっと一般的なのはアルコールだ。アルコール類は多くの種類があるけれど、
人が飲めるのはエチル基を持ったエチルアルコールだけだ。
(もっとも、エチルアルコールも毒のたぐいらしいが)
同じように、THCをすこしでも変えたらたぶんそれは毒だ。

一番最初の合成ドラッグがTHCと同じものだったとしたら、それを違法に
しなければ、最近ニュースでよく見る口から泡を吹いて車を運転しているやつ
みたいなのは現れなかったかもしれない。(知らないけど)

でも合成麻薬を規制したためにあれほどひどい「合成ドラッグ」が
出回ってしまったことは確かだ。

と思う。












5/26/2019

あれは何なのか?

そもそも何なのか
合法とか有害とかいうことはほっといて、
あれは一体何なのかを書こうと思う。

その前に「エル」と言われている方を書こう。
最初に発見した人は驚いたと思うけれど、
あれは人間の感覚を開放するものだと思う。
開放を解放とかくと何か思想じみてくるけれど、開放というのは
人間の思考あるいは頭脳によって制御されているものの「制御」を外してしまう
ということだ。

例えば視覚で言えば、目は恐ろしく広角なレンズでとらえているけれど、
頭脳によってそれが自然に見えるように制御されている。
あの薬はその制御を外してしまう。
だから景色は大きく歪み、人の顔は特徴が極端に強調されて見える。
近くのものも歪んだり、色が普通の時よりも鮮やかに見えたり、
輪郭部が輝いて見えたりする。
特に輪郭部はたぶん思考あるいは頭脳がアンチエイリアシングを自動で
行っていると思う。だからそれを解放すると物のエッジ部分がやけに
尖ったり、輝いて見えたりする。

手の触覚も同様で、おそらく頭脳は触覚以外の情報も加味して触った
感覚を得ているのだと思う。つまり温度や振動も考慮に入れて
感触を作っているのだと思う。
その薬によってそれをばらばらにしてしまうと、普通の感触とは
全く違った感触になる。
たとえば冷たい水はぬるぬるした生暖かい油のような感触になったり、
人の肌も触った感じがしなかったり、手を握ると細くしぼんでしまうように
思えたりする。
その感じはとても愉快であると同時に不安がとなり合わせている。
一度不安側に行ってしまうと制御がきかない。
なかなか元の感覚に戻らないのが不安になって、戻ろうとして
ビルの窓から飛び降りてしまったりする。

音もそうなのだけれど、音についてはあまり普段と変わらない。
音量調節ができないような感じはするけれど、
ある音が全く別の音に変わってしまったりはしないように思う。

そこで音についてはもう一つの「葉」の方だけれど、
葉の方は感覚ではなく人間の思考を制御している部分を開放して
しまうように思う。
例えば通常の生活の中では思い出したくないことを思い出さずに、
つらいことは考えずに、もうすっかり歳を取ったこととか、
明日の支払いをどうしようかとか、
あらゆることを考えないように制御している。
つまりレースのカーテン越しに見ていたりドアを少しだけ開けて覗いていたりしているのが普通。
あれはそれを開放してしまう。
だから人によってはbad tripになってしまう。
誰かそばにいて宥めてあげないとどんどん深く入り込んでしまう。
葉の場合はだからと言って窓から飛び降りたりはしないけれど、
不安感はひどくなる。

エルと同じように感覚も変わってくるけれど、この場合は
押さえていたものが取り除かれた感じだ。
手の感覚はいつもより鋭くなり、ものの表面を触ると違いが
はっきりわかったりする。
特に音に関しては顕著で、普段聞こえなかった部分の音が聞こえて
くる。あるいは普段聴いていたものとは全く別なものに聞こえる。
ただし、無い音が聞こえるということではない。また幻聴が聞こえる
ということでもない。
もしもそう言ってる人がいたらそれは嘘だ。

ある楽曲を聴くと、バイオリンの弦がどのように弦をこすっているのか
がわかるほどだ。その楽器を普段演奏している人はそれが顕著に
わかると思う。
その音が普段と全く違うので人によっては面白可笑しく聞こえるらしい。

音以外だけれど、例えば数学の数式を(なんでも)眺めていると
学生の頃理解していた、あるいは初めて理解できた、のと同じ
気分になる。それがほんとに理解できているのかわからないけれど、
非常に深くそのことを考えられることは事実だ。

これらの物質は「違法」のところだけで判断されているように思う。
違法だから「体に有害」なんだろう、違法だから「習慣性があるんだろう」、
違法だから「覚せい剤や麻薬に移行する」というような判断がされて
いるように思う。
違法なのはわかっている。そういう風に決めたのだから。(誰かが)
だからマスコミもその思考方法で騒いでいる。

しかし、ああいう映像が残っていると、のちに合法化された時に
笑いのネタになるだろう。

以上は若い頃に研究したもののレポート。

5/25/2019

どうでもいいけど夢を見た

というよりも夢を覚えている。と言った方がいいかもしれない。
ベッド脇にメモを置いて夜中に目覚めた時に見ていた夢をメモした。

寝ていると誰かがレーザービームを私の目に向けて照射していた。
私は「何だ!」と思いそれに背を向けるけれど、強いビームは頭の後ろから
前に突き刺さるように照射されている。
誰かが「何してるんだ!」と言ってそのレザーポインターを持っている男を
取り押さえてくれる。
私も一緒に取り押さえるが誰なのかわからない。
「ほら説明書を見ろよ、人に向けてはいけないだろう!」と言う。
説明書を見せるがものすごく細かな字で書かれていて、何が書いてあるのか
わからない。

次のシーンは私が広いオフィースのフォロアーの一角に机と棚を置いて
自分の居場所を作っている。
棚にパソコンを置くけれど、縦型のパソコンで片側の蓋が無い。
中身が見えているので反対側を向けた方がいいかな?と思う。
前の部屋(?)に蓋があるかもしれないと思い、前の部屋に探しに行く。

前の部屋は隣の建物なのだけれど、まるで昭和初期の学校のような建物で
木造の三階建てで、学校のような階段を上って行く。
3階に着いたけれど、前の部屋がどこだかわからない。
誰かが「向こうだよ」と言ってくれる。
そっちへ行くけれど、部屋は学校のようで学生が何人かいる。
結局わからないので、元の部屋に戻ろうとおもうけれど、
その部屋もどこだったかわからない。

端から探してゆくとそれだったらしい部屋に着く。
自分の机とパソコンを探すけれど、無い。
そこに居た男に「私のパソコン知らない?」と聞くが、
わからないと言う。
どこへ行ったんだろう?
と探し回るけれど無い。
そうしてる時に、さっきの男が
「あるわけないだろ、みつからねえよ」と言ってるのが聞こえる。
私は腹が立って何か言ってやろうと思って
戻って大声でそいつに何か言おうとする。
そこで目が覚めた。
結構、後味の悪い夢だった。

隣に猫が寝ていた。


Bob RossとMichael James Smith

以前Bob Rossさんがテレビで油絵を早く描く方法をやっていた頃は
毎回見ていた。

それでほんとうにこんなに簡単に描けるんだろうか?
という興味が出て、油絵具と筆とキャンバスとその他必要なものをまず買い集めた。
それからボブさんがやっているのと同じように描いてみた。
下地を乾かしたりなんだりで2日はかかったけれど、ほぼ同じ様に描けることが
分かった。
それがわかると「ああ、できるんだ」で、あんまり興味がなくなってしまった。
他の絵を描いてもたぶん同じように描ける。
それで、買い集めた道具も全てそのままもう二度と使うことはなかった。

最近、YouTubeで同じように油絵(主に景色)の描き方を教えている人がいて、
それを見ていたらまたちょっと興味がわいてきた。
その人はMichael James Smithという人で、Bobさんよりも緻密な描き方をしている。
これは面白そうだなあ。
Bobさんは筆を一種のコピペ(あるいはスタンプツール)のように使って
簡単に景色のパターンを描くやりかただったけれど、
Michaelさんのは、まず下地としてバルクな色を塗っておくのがこつみたいだ。
その上に筆でコツコツと木や草のパターンを描いていく。
特に彼がCanopyと言っているハイライト部分を扇型の筆の端の三角の部分を
使って描くとリアルな木々のハイライト部分が描けるようだ。
Michaelさんの英語はオーストラリア弁だけれど、オーストラリアの人なんだろうか。

油絵は面倒なのでアクリル絵の具ではどうだろうか?





5/24/2019

時は金なり

前にも書いたけれど、時間は流れたり進んだりしない。
もちろん戻ることも無いし、止まることもない。
なぜなら時間は「動作」や「動き」や「流れ」ではないから。
時間はただここにあり絶えず浪費している。
浪費と言ったのはエントロピーの意味で。
ただただ浪費が増大して行く。
この場でじっと浪費して行く。

そういう意味で「時は金なり」というのは名言だと思う。
誰もがベクトル量だと思い込んでいる「時」を「金」という「価値」
あるいは「価値があると思われている”物”」と同等だと言っている。

金は流れたり進んだりしない。
ただここにあって使われるのを待っている。
あるいはいつの間にか無くなっている。
いつのまにか浪費していて、戻ることはない(かぁ?まあうちではない)。

金がいつのまにか無くなるように時もいつの間にか無くなっている。
ま、そんなもんだろう。






5/23/2019

卵が先か名前が先か?

最近英語表記で姓が先で名前が後にしようという動きがあるようで。

これはどっちが先かというよりどっちが気持ちがいいかっていう問題のように思う。
ずっと前にアメリカ人のJohnさんとメールをするようになって、
「どう呼ぼうか?」という話になって、Johnさんは「Johnさん」でいいけれど、
私はKazuoではなくKogawaにしてくれと言ったら、
「名前の方じゃないのか?」と言うので、
私は日本では姓の方でよぶんだよ、名前で呼ぶのは家族、親戚だけだよ。
と言ったら、Johnさんは、
「自分が姓で呼ばれたら恥ずかしい。そんなに大それた人間じゃないから」
と言っていた。
つまりファミリーネームで呼ばれるのはそのファミリー全体を代表するような
感じになる。と言っていた。

私は「逆に家族以外に名前で呼ばれるのは恥ずかしい」と言った。
だって友達から「和夫~」って呼ばれたらなんか無性に腹が立つし、
プライバシーを侵害されたような気がするから。

そんなわけでYouTubeの友達にはみな「日本ではそういうわけだから、私を
姓で呼んでくれ」と言っている。

というわけでKogawaあるいはKogawa sanがいいように思う。



5/22/2019

Surfer Girl と Girls on the beach

どうでもいいけど、似てる。
たぶんGirls on the beachはSurfer girlよりも前に作られたんじゃないだろうか。
歌っていると途中からSurfer Girlになりそうになる。
サーファーガールの方が好きだけど、まあ、どっちもいいかな。

ビーチボーイズは中学の時だろうか。
友達が一緒に歌おうとか言っていたのを覚えている。
その頃はあんまり好きなグループではなかったから、やらなかった。

Surfer Girlはだいぶ前にやって確かYouTubeにアップした。
自分は金づちだという話と一緒に映像を作ったように思う。
もう7,8年前だろうか。

今はSumahamaをやろうと思っているのだけど、どうもあのオリエンタルというか
中華風のメロディーと伴奏が好きじゃない。
だからもう少しすっきりさせようと思う。


5/21/2019

北海道の曲

もう、たぶん20年くらいになると思う。
北海道の音楽を作ろうと思ってから。
簡単な曲を2,3曲作ったけれど、どれも気に入らない。
たぶん雪だ。
あの雪と、
寒さと、
広大さと、
寂しさと、
希望の無さと、
わけのわからない明るい希望と、
人々と、
果てし無い道と、
どこまでも続く空と、
懐かしさと、
それから…
その全てが無い。
(だいぶ行を稼いだ)
今のこの時、この場所にはそれが無い。

と思うのだけど、
もうすこし夏っぽくなったら
北海道に行こう。

5/20/2019

Sumahama

高槻に行く前に須磨の海岸に行ってみた。
全く期待はしていなかったけど、思ったよりも「須磨浜」だった。
そのうちビーチボーイズを歌おうかなと思ってネタの映像を撮ろうと思っていた。
薄曇りだったけれど、暑かった。
帽子が無かったらちょっと辛かったかもしれない。

湘南のように海が砂浜べりまで続いているかと思ったら、
すこし先の沖に堤防が続いていた。
サーブボードやウィンドサーフィンはその内側でやっていた。
でも砂は白くてきれいな海岸だった。




5/19/2019

高槻

ちょっと関西に行ってきた。
用事が終わってからいろいろ散歩したのだけど、
高槻に行ってみた。
高槻は新快速で新大阪まで1駅だから帰りにいくことにした。

小学5年の1年間だけ住んでいた。
その頃は高槻あたりに住宅が増えてきた頃だった。

今回行ってみたら街が変わってしまって、ほとんどどこに行っていいのか
わからなかった。
JRの高槻駅から阪急の高槻駅(今は高槻市駅)の方に行こうと思のだけど、
どの道筋を行ったらいいのかわからない。
でもスマホに頼るのはしゃくだから記憶で行く。

不思議なもので方向性の記憶だけは確かなようで、ちゃんと市駅についた。
そこから線路伝いに京都方向に行くと踏切があったのだけど、今は
高架になっていて踏切は無い。
しかも昔あった道が無い。
それで国道沿いに行くことにして、程なく住んでいた家の場所にたどりついた。
敷地は同じだったけれど家は2階家に建て替えられていた。
そのあたりの家の並びもおなじだった。
家の前に小さな小川(どぶがわ)が流れていたのだけどそれはそのままあった。

そこから小学校まで行こうと思った。
今は家がびっしりと建っていて、昔の道がわからない。
それでも方向感覚だけで、なんとかたどり着いた。

私が通っていたのは分校(大沢分校って言ったかな?)だった。
本校から少し離れた場所にあった。
もうずっと前にも一度来たことがあったけれど、その時はもう少し
当時のものが残っていたようにおもうけれど、
今回はまったく公園になってしまっていた。
子供たちが大勢遊んでいて親たちもいた。

私はその公園の昔校舎だったあたりのベンチに座って想像した。
すると不思議なもので当時の景色がだんだん浮かんでくる。
昔は少し小山になっていた場所、今は平らになって草原になっていた、
そこで友達と横になって空を眺めたことがあった。
横になってあんな風に空と雲を見たのはたぶんその時が初めてだ。

そんな風に思い出していたら、すごくリアルに当時の様子が見えたように思えた。
あの沈没したタイタニックの船室が徐々に輝きだして当時の船室になる、あのシーン
のように。
確かに私はあの小学5年の時のあの場所にいた。
それを感じられただけでもあそこに行ってよかったと思った。

公園の中で「大沢分校跡」とかいう記述が無いか探したけれど、
元のお城のことしか書かれていなかった。
分校があった時は確かまだ軍が使っていた倉庫みたいなのがあったように思うけど。

そこから反対側に国道に出る道があったと思い、そっちへ行ってみた。
もう木々や家並みも変わっているのですぐにはわからなかったけれど、
確かにここだと思うところがあった。

今あるお寺の近くで同級生5人くらいで歩きながら話したのを覚えている。
確か転向して学校に行った最初の日だ。
友達の関西弁が全くわからなかった。
わからなかったからはっきり覚えている。
「なあ~お前のこれかんしぇいのぅ~」とか
「あしたのかえりしな**に行ってみーひん?」
今ならわかるけれどまったく初めての関西弁で、しかも当時は今よりも
ずっと泥臭い関西弁だったから、わからないことが多かった。
だいたい先生が「X]を「エッキュス」というもので、何を言ってるんだろう?
と思った。
先生も濃厚な関西弁だった。

そんなことを思い出しながら歩いていた。


5/17/2019

感謝

今日は自分のことではないことを書きます。
このGoogle Bloggerは私が中断したからか、あるいはシステムが変わったからか、
検索で出て来なくなっています。

にもかかわらず!いつもアクセスカウンターを叩いてくれる人がいます。
アクセス数は何回かあるのですがたぶん1人(か2人)だと思います。
それが誰かは全くわかりません。

でもそのため私はその人が読んでくれていることを気にとめながら
書いているわけです。
要するに勝手に独り言を言っているのではない、と思うわけです。
アクセスカウンターがずっとゼロを維持していたらちょっと寂しいかも。

「これは個人的な日記です」みたいなことをどこかに書いたけれど、
頭の中では誰かに読んで欲しいと思っているわけです。

そんなわけで書き続けていられるわけです。

ということで、その誰かさんに感謝

5/15/2019

ジェットなんとか

朝のBS見てると時々CDとかの宣伝をしてる。
あの城達也のジェットストリームの音楽CDなんかも売られている。
まあ、売ってくださいという感じだけど。
さっき誰かがYouTubeにアップしたのを聴いたら、
怖くなってすぐにやめた。

あの音楽とあの声は全く完璧に当時の雰囲気に包まれてしまう。
場所は定かではないが高校生だ。
だから三鷹の家の机の前だ。
あの時あの椅子に座っていた自分と入れ替わったのか、
同じになったのか、
そんな気がした。
それはすごく怖い感じだ。
もしもこのままあの時代に戻ったら正気ではやっていけないだろうと思う。
あるいはあの当時の気分のまま今を生きるのはもっと怖いかもしれない。

ということであの音楽はもう聞かないことにする。


5/14/2019

日暮里

さっき「じゅん散歩」で日暮里をやっていた。
小学校6年の時に一人で日暮里に行ったことがあった。
三鷹駅は当時は駅前広場から横向きの階段があって、そこを上って
上の窓口で行き先を言ってキップを買った。
私は「ひぐれざと 子供1枚」と言った。
全く疑問も無く言ったのだけど、向こうで「にっぽり ね」
と声がした。
そうか失敗した!にっぽりって言うのか!と思った。

だけど、日暮里に何をしに行ったのか思い出せない。
そのころはよく一人で新宿や渋谷に映画を見に行っていたけれど、
日暮里に何があったんだろう?

小学校4年の時に荻久保の小さな銀行で昆虫の展示会があった。
一人で電車に乗ってどこかに行ったのはあれが初めてだと思う。
三鷹から3つ目の駅だけれど冒険だっただろうか。
全くその時の感情を覚えていないが、
展示会はこじんまりしていて、男の銀行員?が一人いて
なんだか説明してくれたのを覚えている。
白いとてもきれいな部屋だった。

日暮里か・・・なんだったんだろう?
模型屋でもあったのかなあ?


5/12/2019

ドナルド・トランプ

の夢を見た。
川崎のKSPの中で仕事をしているとドナルド・トランプが来てなにやら記者会見とか
打合せとかしていた。
しばらく一緒の場所に居た。
ドナルドはソファーに一人で座っている。
私はそばに行って「一緒に写真撮らせて」と言うと
機嫌よく肩を並べるポーズをとって誰かが写真を撮ってくれた。
なぜかドナルドはずっと一人だ。
夕方になって帰ろうと思うと、ドナルドが「どうやって帰るんだ?」
と聞くので自分の車で帰ると言うと、「一緒に乗せて行ってくれ」と言う。
アメリカ政府の車があるだろう、と思うが、「玄関のところで会おう」
と言って私は自分の車をとりに行こうとすると。
「どこだって?」と聞くので「フロントのひさしが出てるところ」と言う。

ここまで英語で話しているのも不思議だ。夢の中で英語で考えながら言ってる。私の英語を夢の中のドナルドが理解できず、聴き返してきた。私はあれは何て言うんだっけ?と考えながら話している。

私は地下の駐車場に車をとりに行く。その車は1400ccのパルサーだ。
「後ろがかなり狭いな」と思い、後部座席をずらすとかなり広いスペースができた。
(今思うと後ろのシートは動かなかった)
玄関のところまで行って、ドナルドを後ろに乗せる。
ドナルドはずっと無言で外を見ていた。
そこで目が覚めた。
隣に猫が寝ていた。

そういう夢だった。
ドナルド・トランプについてはもちろん全く知らないが、
こういう夢を見ると少し好感が沸いてくるのが不思議だ。
でも現実はたぶん全く別人なんだろう。

5/11/2019

ミョンスン

もうひとつ妙に忘れられない名前がこれ。
今、検索すると「卓球の選手」としか出て来ない。

というのもあまりにかわいそうなので書いておこう。
ミュンスンという少女は確か廣島にいた。
詳しいことは知らない。
廣島で原爆に遭った。
そのショックで明るいところを怖がるようになった。
その後韓国に帰るけれど、韓国では押し入れのような場所から
出ることができなくなった。
光が怖いので。
ずっと押し入れで生活したということだ。

今はもう生きてはいないと思うけれど、
その話は確かテレビのドキュメントで見た。
だからどこかに資料は残っているはず。
でも今「ミョンスン 原爆」と検索しても出て来ない。
韓国人の廣島・長崎被爆者というのはたくさんいるのだろう。

-------------------------------------------------------------------------------------

と思っていたら、一つ検索で出てきた。
その記述も同じミョンスンという名前(仮名と書いているが)でやはり
暗い場所でしか暮らせなくなった人として書かれていた。
でもその理由が全く違っている。
私が見たテレビの方が怪しい。
彼女がそうなった理由が「梅毒」だから。
それはそもそも彼女がそういう病気をうつされるような境遇だったから。
それを日本のテレビは言えなかったのかもしれない。
それでヒロシマを持ち出したのかもしれない。

以下、勝手にコピペ

>
わたしが一番印象に残っている方で、チェ・ミョンスンさんという、これは仮名ですけれども、慰安所でひどい性病にかかってしまい、梅毒があまりひどかったので戦争が終わる前に帰されます。帰って、故郷でまた女性たちがかり出されるという噂を聞くんです。当時、結婚していれば挺身隊に行かなくていい。韓国で挺身隊という言い方をすることについていろいろな批判があるんですが、実際に韓国では挺身隊という名前で認識されていました。挺身隊に女性たちが連れて行かれるというのを耳にして、とにかく紹介された人と結婚するんですね。結局梅毒が治っていなかったので、その相手に移しちゃうんです。それで彼女がどういうことをしてきた人か、夫にわかってしまい、離縁されちゃうんですが、そのときに身ごもっていたんですね。

一人でその子どもを産むんですけれども、その子が30歳を過ぎてから脳梅毒を発症する。その後、彼女は再婚して子どもを何人か産んでいますが、最初の夫との間にできた子が精神に異常をきたして、原因がわからないまま病院を回るうち何軒目かの病院で「お母さん、この子を身ごもっているときに梅毒ではありませんでしたか」といわれた。自分の性病とその子の病気との関連がわかってから、彼女は暗い部屋に閉じこもって外に出られなくなってしまった。真っ暗な部屋の中で立つことができないので這い回っていて、次女がシスターでずっと彼女が面倒をみていたみたいです。部屋にいて立ち上がらない母親にご飯などを運びながら、次女は母親にあったことをその過程でわかっていたらしいんですね。
>
ソース:http://web-saiyuki.net/kenpoh/news2/ns145.html



ドゥーディーランブラーズ

さっきこの名前を聞いた。
なぜか知ってる。
たぶん60年代だと思うけれど、
その時聞いたっきりでその後は絶対にこの名前は聞いていないはず。
なのに確かに覚えている。

当時どこかで彼らの演奏を聴いたのかもしれない。
テレビに出たとは思えないから、どこかのコンサートで聞いたのだと思う。

懐かしくも無いし、覚えていてうれしくもないけれど、
この既知感が面白かった

5/09/2019

ずいぶん歩いた

問題は上野駅だ。
駅の改札を入るとホームへ行く方向がわからない。
あ、夢の話。
駅はとても大きくレンガ造りみたいで外国の古い駅みたいだ。
それに駅員は日本語を話しているけれど黒人だ。
私がうろうろしてると笑っている。
しゃくなので聞くこともせずホームを探そうと思う。

広いコンコースを歩いていてもホームへの目印がない。
端の方の廊下をゆくと外に出た。
外から探そうと思って歩いて行くとすぐに町はずれになって、
道も舗装していない。
歩いていると少しぬかるんだ道になって上り坂になっている。
坂の上から見ればわかるかもしれないと思い、
坂を上って行くと、途中に牛が何頭も飼われている。
茶色の牛で、道はぬかるんでなんか汚い。
靴は泥だらけになってしまう。
おまけに虫がたくさん飛んでいて両腕に飛んでくる。
そこをなんとか抜けると、足が汚れてしまっていて、
両腕は赤いぶつぶつができている。

しばらく行くと左側に小川が流れている。
道路の脇にコンクリートの階段があって、階段は水の中まで続いている。
そこに行って、両足を小川の水できれいにする。
水は澄んでいてとても気持ちがいい。

もう周りは町ではなく田舎になってしまっている。
ここはどこだろうと思い、スマホを出して地図を見ようと思う。
しかし地図は色のパターンのようになっていて自分がどこにいるのかわからない。
しかたないので広い道にでるまで歩き続ける。

(さっきまで覚えていたのに、この先が思い出せない 休憩)

だめだ断片的にしか思い出せない。
朝ははっきり覚えていたのに。。。

道はどこかの民家の庭を通っていてその庭先から垣根の方に
1段高くなって道らしいものが続いている。
その段差を越えると両側が見晴らしのいい橋のような道路に出る。
橋の右手に巨大な像が立っている。
真っ白な色で陰になっているところは少し青みがかかっている。
とても大きい。
牛久大仏くらいの大きさがある。
形はまるでレゴで作ったようにでこぼこしていて、上には顔らしき
ものがある。

やっと街らしいところに出る。
(そこで誰かに会ったような気がするけれど、思い出せない)

上野駅から電車に乗るのはもうあきらめている。
でも今いる場所は上野駅からは何十キロも離れているみたいだ。
たぶん県が違う。
どうやって帰っていいのかもわからない。
足がとにかく疲れている。

その場所に横になる。
すると下はいつのまにか板張りの床になっていて、
目の前に壁がある。
壁のところに誰か女性が座っている。
どうも知っている人みたいだ。
でも誰だかわからない。
その人の横に行って横になる。
とても懐かしい感じがする。

壁に窓があってそこから向こうの様子がわかる。
女性の声がして何人かが話をしているようだ。
一人が娘の名前を言っている。
あれは母だ。
母が娘に何かを告げている。
娘はうなづいている。
「ああ、お母さんがいてくれたら安心だ」と思う。
「ずっといつまでもいてね。。」と言おうとするところで
目が覚めた。

隣に猫が寝ていた。

君がもたらしたもの

静かな朝
静かな午後
静かな夜
君がいないことで静かな一日が続く
楽しかった朝
楽しかった午後
楽しかった夜
君がいなくなったことで静かな一日が続く
眩しいい夏
汗をかいた夏
花火を見た夏
君がいなくなって夏は思い出になった
遠い日の思い出
遠い日の悲しさ
遠い日への思い
僕がここにいることですべては遠くに行ってしまう

こんなことを書いているのも、、昔持っていた本を思い出して、、
先日ロッドマッケンの詩集(片岡義男訳)「ひとり」の古本を買った。
450円
表紙もついていない。
すこし黄ばんだページ。
しかし誰かが読んだ感じがしない。
きれいな黄ばんだ本。
僕は札幌のパルコで新品でこの本を買ってたぶん引っ越しの時に無くしてしまった。
1980年だ。
いや1981年かも。

ネットで買った古本は札幌から送られてきた。
偶然にしてはできすぎだ。
ひょっとしたら自分が引っ越しの時に古本屋に売った本かもしれない。
そう考えた方が面白い。

読んでみるとかなりの詩が記憶に残っていることがわかった。
間違えて記憶しているものもあった。
ずっと「サクラメントまでは」だと思っていた詩は
「サクラメントへ行く途中で」というタイトルだった。
改定で変わったのか?とも思ったけれど、
初版だった。

なぜかこの詩が気に入っていた。
友人の3人が車でサクラメントに向かう話なのだけれど、
お互いが気をつかいすぎて何も話せず、ただ早くサクラメントに
つかないかと思っているという詩だ。

それで何か気まずいシーンの時に「サクラメントまでは」と思っていた。
だからずっと「サクラメントまでは」だと思い込んでいた。

これはいつか英語版で読んでみたい。

筆者(笑)註:上に書いた詩は筆者のたわごと






5/08/2019

高いところ

いつも東海道線に乗って藤沢を通る時思うのだけど、
あの電波塔の一番上には上がったことがあるような記憶がある。
塔の一番上に居て、そこからの景色がわかるような気がする。
そこだけじゃないどこかの倉庫の屋根の少し下のひさしのところに居て
沈む夕日を見ていてことがあるよな気もする。
それは結構はっきりした記憶で、その時の色や音も思い出せる。
それから、もっとよく思い出すのはそこらの高圧線鉄塔のてっぺんからの眺めだ。
ま下を見ると車や人が歩いている。
遠くの方は緑の山が見えたり、はるかかなたに海が見えたり、
そういう記憶がある。



・・・ような気がする。



5/06/2019

調べてきた

とりあえずテレビ・ラジオの番組欄に「フォークソング」という言葉が出てきたのは
いつかを調べてみた。
すると昭和40年(1965年)の11月3日の夜の番組に「フォークNO.1」
という番組があった。これは日本放送の土曜日の番組で、この前の週以前にはこの
番組は無い。

この番組がどういう番組だったは全く分からず。検索でも出てこない。
ついでにその下のFENにもFolk Musicという番組があった。
これは聴いたことがある。
でも古いアメリカ民謡を主にやっていたように思う。
アパラチアンミュージックとか。

1965年というとS&Gのサウンドオブサイレンスが出る前の年だ。
ということはボブディランとかピートシーガーとかキングストントリオ
とかそのあたりの曲をやっていたのだろうか。

1966年になると「フーテナニー」の番組があったようだ。
1966年1月30日(日曜日)
これは文化放送だ。
また1966年12月にはフォークソングフェスティバルというのがあった。
知ってる名前は「フォーク・クルセダーズ」「高石友也」「伊東きよこ」
くらいしか知らない。
これが1966年で第2回なので第一回は1965年だったのかもしれない。


5/05/2019

消えて行くフォークソング

第一次フォークソングブームはたぶん1963年にボブディランの「風に吹かれて」
だからだいたいそのあたりから始まっていると思う。
その頃は日本のフォークはほとんど無く、アメリカ、イギリスの歌ばかりだった。
1966年に「バラが咲いた」、67年に「この広い野原いっぱい」だから
その辺から日本のフォークソングも歌われるようになったのだと思う。

つまり1966年に仮に20歳だったとすると今は73歳だ。
今弾き語りライブなどで歌っている人たちの中心はたぶん50歳前後だろう。
我々の年代も50歳頃はけっこう頻繁にライブなどに出ていたと思うけれど、
最近はさっぱりだ。

皆に歌われる歌もかなり後方にシフトしていると思う。
だんだん初期のフォークソングは歌われることもなくなってくるだろう。
そしてあと10年もしないうちに歴史的歌になるのだろうきっと。
その中でかろうじて数曲はほんとうにフォークソングとして残るかもしれない。

まあ、寂しいけれどしかたないかな。


5/04/2019

昔のこと

昔のことを思い出すのはこわい。
特に昭和30年代。
当時の映像を見ても写真を見ても懐かしいという感情は無い。
もちろん父も母も親戚の誰もが生きていた頃だけれど。
戻りたいとは思わない。
あの時代は何だったんだろうと思う。

懐かしく思うのは70年代だ。
1950年から2019年まで一番良かった時代は70年代だ。
何が?ということは無いけれどこの半世紀ちょいで特別な時代だったように思う。
音楽もコンピュータもあのあたりから新しく生まれたように思う。
人々も生活も街も、すべてが変わった時代のように思う。
今の自分の中のほとんどはあの時代に作られたように思う。

だから戻りたい時代は1970年だ。
そこからもう一度やりたい。

5/03/2019

憶えているかな

「あなたは先週の木曜日の午後6時から7時の間、どこで何をしてましたか?」
と刑事に聞かれても何も答えられないだろうな。
もうそういうのはだめだ。
何があっても答えられない。

もう自分の車を無くしてから10年以上たつけれど、時々レンタカーを借りて
乗ることがある。
ブレーキとアクセルを間違えることは無いけれど、
「今通り過ぎた信号青だった?」と聞かれると答えられない。
ひょっとすると「赤だった?」とも思う。
たぶんその時は信号が青だと認識して運転しているはずだけれど、
通り過ぎたらもうわからない。

それは今に始まったことではないかもしれないのだけど、
20歳くらいの昔だって遮断機の無い踏切を飛び越えたことが何度かあった。
あれでよく死ななかったなと思う。
もともとそのくらいの認知機能しかないのかもしれない。

「あれは覚えてる?」と聞かれて、「覚えてるよ」と答えても
憶えていることがちがうことがあるよね。
自分はこう思っていたけど、そうじゃなかったとか、
「いや、それはほんとうはこうだったはずだよ」とか。

そういうことはどうして起きるんだろう?
一緒に過ごしてきたはずなのに、
一緒に同じ経験をしてきたはずなのに、
例えば綺麗な海岸に行って、僕は空を見ていても
君は水平線を見ていたのかもしれない。
「きれいね」
「うん、きれいだね」
って別のものを見て言ってる。

まあ、同じものを見て、同じように感じ、同じ記憶をしていたら
二人いる必要もないかもしれないね。
どこかで違っているのがいいのかもしれない。


5/02/2019

笑顔

最近は葬儀に使うメモリアルDVDを仕事で作ることが多い。
年配の人や若い人もいる。
今回の人は40歳の女性だった。
3歳の子供が一人。
これほど辛い作業もなかった。
預かった50枚くらいの写真の全てが満面の笑みだ。
若いころも、子供が生まれた時も、
最後の方は病院でチューブを付けて子供を抱いて満面の笑み。
「なんでそんなに笑ってるんだよ!」と言いたくなる。
ビデオを編集しながら涙を堪えきれなかった。
ほんとにやっとの思いで編集を終えて
葬儀社の人に渡した。

笑顔はつらい。

神代植物園の脇でロックフェスティバル

これは誰も覚えていないだろう。
私もはっきり覚えていない。
確か1970年前後だと思う。いや1970年を過ぎてからだ。
なぜならウッドストックの映画が公開された後だったから。
地図のあたりは元々原っぱだった。
その真ん中に土が盛り上がった小山があった。
神代植物園ができる前はそのあたりを自転車で走り廻った。
その小山の上から自転車で降りるのが流行っていた。
今は「自由広場」と言う名前になっているようだけれど、
もともと自由広場だった。

そこで野外コンサートが行われるという話を聞いた。
そこへは行っていないのではっきりわからないが、
人づてで,さっぱり人がいないコンサートだったと聞いた。
本当のことはわからない。
誰が出たのかもわからない。