11/29/2013

子供の頃聴いた歌 North Wind

最近気がついたのだけれど、子供の頃に聴いた英語の歌は
かなり正確に覚えているな、と思う。
たとえば、何も考えず子供の頃の記憶のまま歌うと、
  

      のーす いん~
      のーす いん~
         ぶりんま べーび ばっかげん
      のーす うぃん~
      うぇー でしーごー      
      のーばで ばちゅ~      
      うぃーえばの~

これは「北風」(North Wind)というウェスタンっぽい歌で確か小学校5年の頃だから、1960年頃だと思う。確かテキサス・ビル・ストリングス(Texas Bill Strings)というバンドだった。
日本人の歌手もこれを日本語で歌っていたと思うけれど、私は日本語の方は歌わなかった。
いつもくちずさんでいたのは英語の歌の方だった。
それはたぶん兄の影響だと思う。兄は英語の歌ばかり聴いていたから。
正しい英語は

      North wind
      north wind
      bring my baby back again
      North wind
      where did she go
      nobody but you
      will ever know

かなり正確だと思う。
この歌を子供の頃聴いた人は同じように覚えているのではないだろうか。
’60年代のアメリカンポップスはいつもラジオから流れていたから、子供は自然に覚えて
しまった。
ちょっと今思い出せないが、「ここを聞き取ったのか!」と思うような歌もある。
子供の耳はかなり正確だ。

 



11/23/2013

北海道シンフォニー

私が北海道を離れる1年前にレイモン・ルフェーブルの「北海道シンフォニー」というアルバムが
発売された。発売当時は結構ラジオやテレビで聴かれたけれど、最近はあまり聴かない。
このアルバムはとてもいいアルバムだと思う。
最初の3曲が北海道シンフォニーとなっている。
またこのアルバムの最後には有名な「夜間飛行」が入っている。
 
 
これを聴くと北海道の景色が目の前に浮かぶ。
このアルバムをカセットに入れて北海道を走り回っていたから、様々な景色が浮かぶ。

 
 
 
特に中山峠から洞爺、羊蹄山のあたりや、反対に狩勝峠のあたりの冬の景色だ。
 
そういえば、レイモン・ルフェーブルはその昔はレイモンド・ルフェーブルと呼んでいた。
 

 

11/22/2013

They shall not grow old

昨日宮崎アニメの話を書いていて、この本を思い出した。
この本は面白い。
何度も読み返したためページが外れてしまっている。
それでも時々読み返している。
「カティーナ」という話は何度読んでも感動してしまう。

宮崎アニメで思い出したのは「彼らは年をとらない」という話だ。
これもとても好きな話だ。

 
 
宮崎なんとかがこの話を元にしているかどうか知らないが、シーンはそっくりだ。
戦闘に飛び立った飛行機の一機が、もうすっかり燃料が無くなった頃になっても
戻らず、皆はもうだめだろうと思っていた時にその飛行機が戻ってくる。
しかし操縦士はいつものように帰ってきただけで、空白の時間については
何もしらない。
その飛行士がある日の戦闘中にその空白の時間に何があったのかを思い出す。
その時彼が話すシーンが「紅の豚」に出てくる。
 
たぶん本当にそういうことがあるのだろう、と思う。
空の上ではいろいろ不思議なことが起きるから。
 
 

11/21/2013

懐かしい街

先日夜中に目が覚めてしまって、眠れなくなったので、
タブレットでYouTubeを開いたら、たまたま右側のお勧めのところに「なつかしい街」
という歌があった。スタジオジブリ「コクリコ坂から」の歌とあった。
最近のジブリはあまり好きじゃないけど、クリックして再生してみたら、
やたらハスキーな女性が歌っていた。
この歌はいいな。と思った。

その歌がアニメのどんなシーンに使われているのかが気になって、レンタルで
借りてきた。ストーリーは見ていなかったけれど、音楽と歌は真剣に聞いた。
しかし映画にはあの歌は入っていなかった。
映画のバージョンが違うのかと思い、調べてみたら、
どうも映画には入っていないようだ。
この歌は「コクリコ坂歌集」という歌集の中の歌のようだ。

映画の内容はほとんど覚えていないが、ちょっと気になるシーンがあった。
どうやら昔の学校の部室を守る話が恋愛話と平行しているようだ。
その部室で思い出した。
私の居たクラブの部室にはもうひとつ別のクラブが同居していた。
名前は確か「古都探索会」。
その部長が私と同じ学部の親友だった。
どうして彼がその部長になっていたのか知らないが、
初めて北海道を一緒に旅行した親友だった。
偶然というのは不思議だ。


11/20/2013

堂平山 天文台

堂平山の天文台のことを思い出した。
あれは1987年頃だろうか。
仕事で同僚の松ちゃんと一緒に行った。埼玉県の山の上にあった。

 
 
 
堂平山を上り詰めたところに天文台はあった。ドームの周りには何も無かったように思う。
あれはドームの隣の部屋だったろうか。VAX-11とラックに入った基盤がいくつあった
ように思う。
その仕事をいただいた相手の方は確か菊池さんとおっしゃった。体格の良い人で、
話し方もすごく穏やかな方だった。
仕事は確かビデオ画像入力装置とVAX11をつなぐインターフェイスを作る仕事だった。
その時はほとんど松ちゃんがその設計をやっていた。
 
仕事が終わってから菊池さんがドームの中に案内してくれた。
その日は確か曇りがちだったか、雨っぽかったように思う。
菊池さんは望遠鏡(確か反射型だったと思う)とその周りの装置について説明してくださった。
でも一番印象に残っている話は、雷雨の時はこの中に稲妻が走ることがある、
という話だった。
菊池さんとはその後も何度か電話でお話したことがあるように思う。
 
天文台の周りは今は公園のようになっているようだ。
 

11/16/2013

Tangerine Dream out of The Wall

Tangerine Dream のアルバムにPERGAMONというのがある。
このアルバムはライブアルバムなのだが、そのライブは1980年に東ドイツの
Palast der republik(共和国宮殿)で行われたものだ。もちろん統合前のことだ。
このライブは東ドイツで初めて行われた西側ロックバンドのコンサートだった。
このときのチケットはその80%が東ドイツ政府関係者に渡ってしまい残りの20%
のチケットは売り出し5分で完売したらしい。

そのためコンサート開始前には900人の東ドイツ市民が会場に押しかけ、
かなり緊張した状態になってしまったらしい。そのままではガラスが割られ、怪我人
が出ることは必至だった。
そのためFroeseは彼らを無料で中に入れなければ我々は演奏しない、と言ったそうだ。
オフィシャルはその意見にしたがって無事にコンサートは行われたらしい。

その東ベルリンのことだけれど、私が住んでいる街にはドイツ系の会社が沢山ある。
またドイツ人もよくみかける。家の近くにはドイツ学校もあって毎年ドイツ祭りをやって
にぎわっている。
近くにドイツ系の会社(テュフラインランドTÜV Rheinland)があって、
その玄関先に「壁」の一部が置いてある.

これがその壁なのだが、非常に鮮やかなのはこの絵の作者が改めて塗りなおしたからだそうだ。
歴史的資料の改竄ではないか?と思った。
一般道路側からそこにいたる石段の途中に、いままで気がつかなかったが、Border Line
と書かれた小さなブロックが2個向かい合わせに設置されていた。


これはたぶん、実際の壁のあったところの手前の境界線を示しているのだろう。
しかしこのしるしから壁まではわずか数メートルしかない。
これが西側、つまりベルリンの内側だったからなのだろう。
 
東ドイツ側には絵は無く、コンクリートのままだ。
                    
 
こっち側のborderはどのくらいだったのだろう?と昔の写真を見たら緩衝地帯が
数十メールはあった。この壁を触ることすらできなかったろう。
 
ついでのことだが、このTangerine DreamのPERGAMONのCD、私の持っているのは
輸入盤だと思うのだが、ミスプリントがある。
下が正しいものでPALAST DER REPUBLIKとなっているが、
私のはPALAST DER REPBULIKとなっている。
 

 
 
 
 



 

11/14/2013

SF画 Chris Foss と Chris Moore

1978年頃の話だけれど、札幌に住んでしばらくしてから「未知との遭遇」「スターウォーズ」が
公開された。同時に関連グッズや雑誌も販売された。
両方の映画ともに宇宙船のデザインは見た事のないような斬新なもので、格好いいと思った。

ちょうどその頃、札幌のパルコの本屋で長岡秀星やロジャー・ディーンなどのSF画、ファンタスティック・アートの画集を売っていた。そのひとつにSF画を集めた雑誌があった。
そこで見つけたのがChris Fossだった。

 
 
この本には本当にお世話になった。Tangerine Dream や Pink Floydの音楽を聴きながら
眺めると最高だった。


絵の中に完全に入り込んで楽しむことができた。
クリス・フォスの画集は何冊か出ていた。それを買ったのが70年代だったのか80年代だった
のか忘れてしまったが、本屋で見つけると買っていた。

 
 
ところが他のSF画集の中にChris Fossととてもよく似た絵を描いている人がいた。
名前はChris Mooreと言う。
私はずっとこのクリスさんはクリス・フォスの別名だと思っていた。



 
 
しかし調べてみるとどうも別人だとわかった。
クリスフォスの画集を見ると彼の絵は現実のシーンを加工して作っている感じがする。
建設機械や軍の施設、設備などを元に描いている感じがする。
でも、クリス・ムーアさんの絵は何か独自のものを感じる。見た事の無い視点から見た
見た事の無いシーンを描いているものが多い。
 
この絵はムーアさんの絵で一番好きな絵だ。
 

11/12/2013

高槻の記憶 (4) ローハイドのテーマ

’60年、’70年のアメリカンTVドラマのほとんどが日本に入ってきていた
ということは前に書いたと思うけれど、その主題歌は決して同じではなかった。
メロディーは同じだけど、日本人が日本語歌詞で歌っているとか、あるいは
全く独自に日本で主題歌を作ったりしていた。
たぶんどこかのサイトに載っているだろう。

高槻にいたとき(小学校5年)のテレビの記憶で一番クリアーに残っているのは、
ローハイドだ。この番組だけは家族全員が居間で一緒に見ていた。
たぶん1回も逃さず見ていたはずだ。

ローハイドのテーマソングはフランキーレインの例の”ローレンローレン”だ。
しかし私が思い出として記憶しているのは、牛を追うシーンで必ず流れるメロディーだ。
そのメロディーは、実は歌詞が付いている歌だった。なぜそれをサブテーマソングにしなかった
のかは、アメリカのどこかのサイトに書いてあった。確か。たぶん。

その歌をドラマの中でロディー(クリント・イーストウッド)が歌うシーンがあった。
その歌を記憶していた。
そして、数年後の中学3年の頃に再放送があった時に、それをテレコに録音した。
その頃はまだビデオは家庭に無かった。確か。たぶん。

そしてそれを何度も聴いていた。
全部の歌詞がわかったのはずっと後だった。
社会人になって、人前で何度かその歌を歌ったのだけど、その歌を知ってる人は
あまりいなかった。と言うか、一人もいなかった。メロディーさえ知らなかった。
なぜだろう?と思う。
もう4年も前になるけれど、その歌をYouTubeにアップした。
やはりアメリカ人は「このメロディーはずっと記憶にあったよ」と言ってくれる人が
何人もいる。とてもうれしい。
でも一人若いのが「これはローハイドじゃない!」と書いてるガキがいる。
「お前はローハイドを知らない」と言いたい。

私はこの歌が好きだ。

C              F
Beyond the sun over the mountain
     C                G
there's a place my heart's longing to be
  C             F
Beyond the sun over the mountain
      C    G         C
There's a face my eyes hunger to see
    F                 Em
The long long road seems like an endless thing
    F                G
Somewhere, some place there is a home
   C            F
Beyond the sun over the mountain
      C    G                  C
There are lonely arms waiting for me waiting for me
 
 
 
 
 

11/11/2013

レコードからCDに

1979年頃だったと思うが、私はまだオーディオ業界で働いていた。
私がいた会社はレコードに関係した製品を作っていた。
その年のオーディオフェア、確か晴海だったと思うけれど、流通センターだったかもしれない、
に札幌から説明員として行っていた。
実際に説明していたのはベテランの営業の人や技術の人だった。だから私はそれほど
緊張も焦ることも無くその場にいたと思う。

休憩時間には自由に歩き回ることができたので、他のブースを見て回った。
全てのオーディオ機器の表示装置が変わっているのに気がついた。
その年より以前からそうだったと思うけれど、その時はそれがすごく気になった。
オープンリールテープデッキもまだ出展されていたが、表示はアナログメータでは
なく、デジタル表示だった。カセットデッキもそうだった。
さらにアンプやチューナーのボリューム調整などもアナログの可変抵抗器ではなく、
カチカチとクリック感のあるつまみだった。
つまり全てがデジタル化の方向になっていた。

一番人だかりのあったブースは(私の記憶では)SONYのブースだった。
そこの壁にはキラキラと虹色に輝くCDが飾られていた。
またその一角では実際にCDの音を出して聞かせていた。

私はその壁に飾られていたキラキラ光るものを欲しいと思った。
音はどうでもよかった。ただそのキラキラ光る板が欲しかった。

私はもう一人の社員の人と一緒に話しながら歩いていた。そのCDを見ながら
その人が「まだまだCD化されるレコードは少ないから、売れないね」と言っていた
のを覚えている。
でもそれから全てがCDになるのはあっと言う間だった。

でも音はどうだったろう。
そんなに安物ではないCDデッキで聞いていたけれど、「すごくいい音」という
感じはしなかった。初期のCD録音、CDデッキはビット数も少なく、サンプリング
それほど高いものではなかったと思う。でもたぶん20KHzはクリアーしていた
と思う。CDの音をいい音だとは思わなかった。

有名メーカーのCDデッキで、明らかにデジタル音のするものがあった。
サンプリング数が明らかに少ない感じだった。

そういえば、いつから「1ビット」AD/DAになったのだろう?
あの録音再生方式はマイコン初期のTK80でやっていたデルタ・シグマ変換だ。





11/10/2013

税務署

昔のことしか書かないと書いたくせに、今のことを書こうと思う。
これもそのうち過去のことになる。

知ってのように、会社の税金は前年の分が来る。
毎年売り上げが上がっていれば(たぶん)問題無いのだが、
右肩下がりだと前年の税金を払うことができない状態になる。

それでしょうがないので税務署に分納の相談に行く。
税務署も分割数によって前例が無いとか言って渋る。

前の担当者は「どこかから借りて払えませんか?」と言った。
思わず立ち上がって殴ろうと思った。
殴れないけど。
お前は借金地獄を勧めるわけだ。と思った。
なんとか粘って、その前例を作った。

また今年もその時期が来て、相談に行った。
分納の誓約書を書いて捺印するわけだが、
「判を押していただいたので、これが払えないと差し押さえになります」と言った。
それは脅しか?と思った。
担当者によっては「まあ、差し押さえになった方が楽かもしれません、もう督促行きませんから」
と言っていた人もいた。
それを言ったら、差し押さえがいかに怖いものかを説明し始めた。
こいつは悪魔か?と思った。

たぶんこうして自殺に追い込まれるまじめな経営者もいるだろうなと思った。
私のようにいい加減な人間は、そんなことでは死なない。たぶん。
I ain't down yet!





11/08/2013

記憶と思い出

このblogを書こうと思ったのは、以前紙に書いていたものをnetに残したらどうだろう、
と思ったからで、それは自分の記憶というのはどのくらい思い出せるものなのだろう?
と思ったからにすぎない。

「思い出」というのは記憶とは異なるように思う。記憶のかたまり、あるいは記憶に感情
が加わったもののように思える。そういう意味では私が書いているのは純粋な記憶を
書いているより思い出に近いのかもしれない。

記憶をたどるということは単純に時間経過に沿って思い出せるものではないようだ。
ピンポイントである時のことを思い出そうとするとぼんやりした概観のようなものしか
思い出せない。しかしある全く関係ない出来事でその時代のことが鮮明に思い出せる
ことがある。

前に車のことを書いた。その車がどんな車だったかを思い出そうとするとやはり
車雑誌にあるようなものしか思い出せない。しかし「あ、チョークが付いていた」と
気がついた時、運転席がどうなっていたかを鮮明に思い出すことができた。

だから、こういう風に思い出そうとして書いていること以上に記憶には残っている
ことは確かだ。頭の中の記憶の構造はどうなっているのだろう。

いままで仕事のことはあまり書いていない。バブルの始まる前からバブルがはじけた
頃までのことだ。この時代は思い出したくない。だからこれからも書かないだろう。
私が死んでもその頃のことは残らない方がいい。

11/05/2013

高槻の記憶 (3)

国道171号線

当時は国道が何号線かなど知らなかったのだけど、国道だということは知っていた。
向かい側にネコスという会社があった。確か椅子を作っている会社だった。

少し京都側に歩くと左側に「オアシス」というレストランだったのだろうか?があった。
屋根が三角に木組みされたような外観だった。赤い色だったような気がする。

もう少し行くと右側にユアサ電池の工場があった。道路側は瓦礫が捨てられていて、
その中に電池が沢山捨てられていた。そこで拾ってきた電池はまだ使えた。
なぜあんなに沢山捨てられていたのか知らないが、今では考えられないことだ。

その瓦礫捨て場?はかなり広くて、トロッコの線路があった。
友達とそこでトロッコを見つけて転がして遊んでいたら、工場から人が怒鳴りながら
走って来た。僕らは焦って逃げた。でも確かあの時1時間くらいトロッコで遊んでた。

自転車でもう少し走って、右の方に行くと淀川の川原に出た。
なんだか大きな川だなあ、という印象だった。

さらに国道を行くと左の山際にサントリーの工場があった。当時はテレビのCMで
その工場がよく映っていた。

高槻かた枚方のほうに自転車で行ったことがあったけれど、やたら遠かった。
しかもほとんど何も覚えていない。途中通った大きな橋の姿だけ覚えている。

茨木の方に自転車で行ったことはなかった。

家の縁側から国道を見ていたら自衛隊の戦車が走っていって、驚いたことがあった。
また縁側からは生駒山のアンテナがよく見えた。




高槻の記憶 (2)

ウサギ狩り

「うさぎ追いしかの山~」のウサギ狩りだけれど、そういえばやったことがあった。
1961年の話だけれど、高槻小学校全校生徒でやったと思う。
記憶があいまいだけれど、「摂津峡」という名前を覚えているので今の摂津峡公園
があるあたりだと思う。
学校から歩いて行った。雪がちょっと降っている日だった。
全校生徒で山をぐるっと取り囲んで少しずつ山を登ってくのだが、ちょっと考えてみると
当時は携帯もトランシーバーも無かったと思う。どうやってスタートしたのだろう?

とにかく道の無い山肌を登って行った。すぐそばに別の生徒が登っているので、
怖くは無かったが、やわらかな土が滑りやすくてうまく上れなかったのを覚えている。
私がすべり落ちそうになったのを先生が止めてくれたと思う。

1時間以上かかったような気がする。小雪が降っていたれど寒くはなかったように思う。
山の上までたどり着いたけれど、うさぎには出会わなかった。
また山を降りてからきいたことだけれど、ウサギが2匹つかまったらしい。
そのウサギがどうなったかは知らない。たぶん本校のウサギ小屋に入れられたのでは
ないだろうか。

しかしイノシシに襲われるとか考えなかったのだろうか?当時は。


映画

学校で映画鑑賞があった。
確か国鉄の高槻駅の北口を出て通りの右側に映画館があったと思う。
ものすごく古い建物で1階に椅子の座席があり、2階は取り囲むように桟敷席があった。
あれは芝居小屋だったのではないだろうか。
2階の正面で見たが、床がふかふかして落ちそうだったのを覚えている。
壁に役者の絵か看板がいくつかかかっていたように思う。

見た映画はディズニー映画だった。
ずっと「王様の剣」だと思っていたが、調べてみると日本での公開は1962年だ。
だからそれはありえない。
あの映画は何だったろう?







11/03/2013

タンデム


バイク
富士急ハイランドの近くの施設で大学のクラブの合宿があった。
あれは夏だった。クラブの中のバンド活動に限界を感じていた。
同じクラブにいたWilliam(1年下の学年だった)がある日
「もう帰りません?なんかもうどうでも良くなっちゃって・・・」と言うので
私も「おう、帰ろうか」と言う事になり、発表会の日を前にして二人でバイクに
乗って帰ってしまった。
その後私のいたバンドがどうなったかは知らないが、私は250ccのバイクの
後ろに乗り、富士急ハイランドから藤沢まで走ってきた。
途中どこかで休んだかどうかも忘れてしまったが、箱根を越える時に見えた
樹海の景色を覚えている。
今考えるとでかい男二人が250にタンデムで走っている姿は結構おかしかった
のではないだろうか。

後で知った話だけれど、あいつは本当は同じクラブのガールフレンドと一緒に
そのバイクで帰ってくるはずだった。それを私が乗ってきてしまったらしい。
ずっと後になって彼女から知らされた。

ハング
ハンググライダーを始める前に、実際はどんなだろう?と思い、タンデム体験を
したことがあった。
場所は板敷のタンデム講習(タンデムで教える)のスクールだった。
その日一日はスクールのスケジュールで一緒に行動して、飛べるようであれば
タンデムで飛ぶことができる。というものだった。
初めてハングを肩にしたのもその時だったと思う。

朝から板敷に行って、飛んだのはお昼過ぎだったと思う。
テイクオフはハーネスを着て先生の後ろに付いて一緒にランチャーの上を走る
のだが、先生の背中で足元はよく見えなかった。
後に一人で同じランチャーから飛んだが、あれは見えなくて正解だったと思う。
完全に崖だ。
前に出ていた機体が4機くらいいた。
最初先生がサーマルを探しながら上げて行き600メートルくらいのところで
操縦を交代してくれた。だからハングを自分で操縦したのはあれが最初だ。
全く怖い感じはしなかったが、思うように機体を制御できなかった。
風の音と景色がきれいだったのを覚えている。
また先生に代わってすぐの時だった、別の機体が近づいてきた。
その時先生が大声で怒っていた。全くこっちに気がついていなかったようだ。
降りてからも怒られていた。

あれがハングの初体験だった。

先日北海道でパラグライダーのタンデム事故があった。
先生が亡くなった。ベテランの方だった。
ああいう事故があると必ず「スカイスポーツは危険だ」とか「ハングとパラと
どっちが危険か」とかいう意見が飛び交う。
私が思うには、そんなことはどうでもいいと思う。
何をしようと、何もしなくとも、人生はいつも死が隣り合わせにいる。
危険だと思うこと全てから遠ざかっていると、何一つ体験せずに死ぬことになる。
「そーんなのはいやだ~♪」ということだ。
「だから君は飛ぶんーだ何処までも~♪」ということだ。




11/02/2013

高槻の記憶 (小学校)

小学校5年の1年間は大阪の高槻にいた。
高槻小学校は小学生の数が多かったようで、5年生は分校だった。
本校からあるいて5,6分だったと思う。

なんか軍で使っていた場所だと聞いたことがあるけれど、地図を見ると
お城の跡だったようだ。
(検索してもそれらしきものが出てこない。あれは大塚分校と言ったろうか・・)

中学校の端に小学校の校舎があった。木造で1階建て、何か古い感じがした。
 
通学路から堀を渡って(橋だったのかな?)学校の方に入った。
入り口のところが、たぶん昔は門があったのだと思う。その跡のようなものが
あり瓦礫の小山があった。
校舎の前には庭だったか草むらのような場所があり、休み時間に横になって
友達と空を眺めていたことを覚えている。
校舎とは別に音楽教室があったように思う。音楽の先生に悪戯して怒られた
のを覚えている。なんであんなことしたのかわからないが、衝動的に先生の
背中に何かした覚えがある。
最初の時に先生にちょっと歌ってみろと言われて何か歌った。
その頃はボーイソプラノだったので、みんな「いい声~」と言っていた。
そのことを覚えている。
 
中学生に目をつけられて学校の帰りに、その堀を出たところで殴られた
ことがあった。私は中学生が何か言ってきたのを理解できずにいたら、友達が
「逃げろ」と言った。走って逃げたが追いつかれて殴られた。
その時は泣かなかったが、あとで何でだかわからず涙が出た。
友達に「おまえなんで逃げなかったんだよ」と言われた。
その友達は花谷と言ったかな?。もう一人あとから転校してきた田辺という男と
も友達だった。
名前を知らなかったが、同じ頃東京から転校してきた男の子がいた。
話はあまりしなかったが、会うと「やあ」と笑顔で挨拶していた。
その笑顔だけ、覚えている。
 
高槻はもちろん大阪弁だった。あとでわかったのだけれど、その皆が使っていた
大阪弁は今はあまり使われないほどひどい訛りだったようだ。
私は最初は何を言っているかわからなかった。
ジャンケンをしようと言う時「インジャンホイ」と言っていた。
行きしな、とか帰りしな、という言い方を東京ではしない。それがどういう意味か
わからなかった。「しやしや」とか・・・
 
担任の先生、何ていう名前だったろう?、そのひとこそ最もひどい関西弁で、
ほんとうに何を言ってるかわからないことがあった。
「X」を「エッキュス」と言った。皆もそれを真似て「エッキュス プラス ワイ」とか
言っていた。
 
音楽の先生は「怒られたけど」、とてもいい先生だった。
考えてみると、あの頃から精神不安定だったのかもしれない。
時々「恐怖症」が出て、何も考えられなくなった。
できるだけ不安になるようなことは考えないようにしていた。
外から見ると変だったと思う。
 
 

11/01/2013

三鷹の記憶 (13)擬似カラーテレビ

家にテレビが来たのはいつだったろう?
下連雀の家だったことは確かだ。たぶん私が9歳くらいの時だと思う。
プロレス&ディズニーランド、少年ジェット、事件記者、私の秘密とか覚えている。

最初のテレビの筐体は木製だったろうか?たぶんそうだ。12インチくらいだったろうか。
他のうちの子供とかも一緒にみていた。
もちろん白黒テレビだったけれど、擬似カラーフィルターみたいなものがあった。
透明なプラスチックの板が3色に色づけされていた。それをテレビの前に付けると
画面に色がついて見えた。
 
実際のカラーとは違うけれど、雰囲気はカラーテレビだった。
これは電機屋で買ってきたのだろうか?なんか違う気がする。家に売りに来たのでは
なかったろうか。どうもそんな気がする。
この3色フィルターには改良版があって、それはこのプラスチック板がフレネルレンズに
なっているものだ。
 
これはかなり効果的だったように思う。それでその後に色付け無しで透明なフレネルレンズ
だけのものになったと思う。
このフレネルレンズは小さいテレビでも画面が大きく見えて、使えたと思う。
あまりよく覚えていないがこれはたぶんカラーテレビになっても使えたはずだ。
 
たぶんこの頃のテレビの解像度は300×240くらいだと思う。今のテレビが1600×1080と
すると面積にすると実に24分の1だ。今のテレビ放送のP-Pの画面よりも粗いかもしれない。