1/30/2019

夢時間

だいたい1日のうち7時間か8時間眠っている。
残りの8時間くらいは仕事や雑用をしている。
すると自分の時間(食べたり、散歩したり、歌ったり)が8時間。
これは自分が考えてこの現実世界を生きている時間と夢の中の時間がほぼ同じだということだ。
どっちが面白いかというと圧倒的に夢の方が面白い。
夢は大筋はだいたい覚えている。
楽しい夢もあるし悲しい夢もあるし怖い夢もある。
もう少し続きが見たかったと思うことが多い。

しかし夢というのは全く無作為に意外な人物が遠慮なくでてくるのはなぜだろう。
もうすっかり忘れていた人とか。
会いたくもない人とか。
会いたいけれど今会ったらつらいだろうと思う人とか。

ついこの前まで夢にでてくる携帯はガラケイだった。最近はスマホが出てくる。
問題は相手の声がよく聞こえないのと、画面タッチがうまくいかないことと、
相手の電話番号が出てこないことだ。
まだあった、Gマップを出して場所を調べようとしてもちっとも出てこない。
そういうのはうまく漕げない自転車とかブレーキがきかない車とかに似ている。
反対にいくら走っても息がきれずものすごい速度で走っていられることがある。
しかしだいたいがうまく行かないことが多い。
エレベータはだいたいドアも壁も無い。とても怖い。
なぜかエレベータが出てくるのは学校のシーンだ。
そういえば学校のエレベータは機材を乗せるためやたらとでかかった。
ゆっくりと音をたてて上下した。
考えてみると現実のあのエレベータと夢のエレベータは同じくらい怖かった。

僕はだいたい夢に出てきた人は次の夢でも覚えている。
でも夢の中の人は僕のことを覚えてくれているだろうか?

1/23/2019

カレーシチューの匂い

カレーシチューと言ってもわからないだろうな。
おやじが小学生の頃の給食にはカレーシチューというのがあった。
たいていは月曜日のメニューだ。

それがどうしたか?と言うと。
今日街を歩いていたら急にカレーシチューの匂いがした。
その匂いを嗅いだ瞬間、小学校の給食室が目に浮かんだ。
というか給食室にいる感じだった。
ほんの一瞬だったけれど。
その匂いだってホントにカレーシチューの匂いだったかわからない。
止まって見回してみたけれど、もうその匂いはしなかった。
だけど感じたのは確かに給食のカレーシチューだった。

小学校の頃は野菜を全く食べなかった。
よく生きていたなと思うほど食べなかった。
記憶では食べたのは大根の味噌汁、たくわん、枝豆、ゴボウくらいだ。
人参もほうれん草もキャベツもだめ、トマトは今でもだめ。

それであのカレーシチューは食べたのだろうか?

給食の時間を思い出すと清水を思い出す。
なぜかはわからない。
清水は漫画を描くのがすごく上手かった。
彼は教室でもよく絵を見せてくれた。
ちょっと気取った感じのする子だった。
悪い奴じゃなかったけれど好きでもなかった。

小学校それも三鷹6小のころは特に好きな友達はいなかった。
思い出せないから。
大阪に引っ越して高槻小学校に1年だけいた。
その時にやはり東京から来た同学年の男の子がいて、
クラスは違ったので話したこともないのだけど、
どこかで顔が見えるとお互いに笑って会釈した。
彼とはたぶん一度も話をしたことがなかったけれど、
彼がいたから一人で大阪の小学校に行っていても救われたように思う。

高槻小学校のときは死の恐怖症に取りつかれていて、
「死」について考えるとパニックになって何もできなくなった。
教室で起きることもあったし、校庭にいる時にもなった。
あの感じは今ははっきりとは思い出せないけれど、
例えば気が付いたら高い塔の先端にいた、というような感じだ。
ぐっとこらえて耐えないといけない。
小学5年の少年があの気持ちだったと思うと、自分のことながら
可哀そうになる。
頑張れ!と言いたくなる。

校庭でそれになった時に、校舎から出てくる彼を見つけた。
彼はいつもの笑顔で手を振ってくれた。
その瞬間恐怖症の呪縛から解かれた。
私も笑って「やあ」と言った。
その時の顔は今でも思い出す。
今会いたいと思う小学校の友達は彼だけだ。

これは高槻から三鷹に戻った頃小6の時(右)



1/22/2019

ちょっと疲れた

今まで何回こういう落ち込みがあっただろう?
まあ、なんとかやってきたのだから、
なんとかなるだろう
きっと

1/17/2019

マックスロード


マックスロードについては前に何か書いたような気がする。
あの店の写真は無いかな?と探したけれど無い。
ネットはどうかなと検索したらあった。
これはテレビドラマの「東京ラブストーリー」のシーンだ。
私はこのドラマを見ていなかったからどうでもいいのだけど、
この店の表の写真だけでも見れてよかった。
このドラマは1991年だったらい。

その時はまだあったようだ。
その後に行ったことがあるような気がする。
何年だか忘れたけれど。

マックスロードの綴りはどうだったんだろう?
この画像を見るとM'cs Lordのように見える。
そうだったろうか?
マッチがあればいいのだけど、マックスロードのマッチは平たい箱ではなく、
四角柱だったと思う。
黄色地にビーグル犬の絵が描いてあった。
そこにマックスロードと書いてあったように思う。カタカナだったかな?
マッチは持っていたはずだけど、どこに行ったろう?

ハッピーエンドの「風街ろまん」の詩はこの店で書かれた(あるいは発想した)とか
なんとかどこかに書いてあった。
そのアルバムは1971年だ。
我々が最初にマックスロードに行ったのは入学した年の1970年だと思う。
それから、コマツがこの店にあった大きな砂時計にインスパイア(ほんとうか?)されて作った歌が「砂時計」だった。それはたぶん1973年か1974年。1973年かな。

友達との待ち合わせによく使った。
一人でもよく行った。
札幌から東京に帰った時にも一度行ったことがあった。
真ん中に大きなテーブルがあってその周りによく座った。
他にも二人掛けのテーブルがあったと思う。
窓側に座ると外が見えて友達がやってくるのが見えた。
景色はべつにどうってことがない退屈な景色だった。
一人で何をしていたんだろう?




1/16/2019

世界のどこかで

時々YouTubeのライブ映像を見る。
世界各地の映像が見える。
こっちが昼間だとアメリカは夜だからあまり景色も見えない。
今ヴァージニアの駅のライブをみようと思って開いたらちょうど列車が入ってくるところだった。朝の9時50分くらい。こっちは夜中の12時ちょっと前。

列車から男が一人だけ降りてきた。
カメラは車両前部からその人が下りるところまでパンしているのだけど、
このカメラは人が操作しているのだろうか。
黒人の車掌がステップを持って降りてきて、客の荷物を降ろし、
客が下りるのを手伝っていた。


そのシーンをずっと映している。

列車はすぐに発車する。
降りた男は笑いながら迎えに来ている誰かに向かって歩く。
両目のふちの涙を拭いているようだ。



一度屋根で隠れるが子供を抱いて姿を現す。



列車は出てゆくが、黒人の車掌がトランシーバを持った手で
小さく子供にバイバイをしていた。


列車は去り、また車が行き交う風景に戻る。



ただそれだけのことなのだけれど、まるで映画の1シーンのようだった。
そういう遥か遠くのシーンを見ることができるというのは
やっぱりすごいことなんだろうな。

時計の脇に雪だるまがあった。

1/15/2019

センター南・センター北

別にこの土地に特別強い思い入れがあったわけではないけれど、ずっと以前、町ができる前にこのあたりを車で走ったことがあった。
その頃は野原だったように思う。

外から来る人は「センター南」「センター北」という名前に違和感を持つみたいだ。
何がセンター?ということなんだろう。
市役所の説明では街の中心部分の南と北、とか説明している。
でもおそらくこうだろう、というのは北と南のちょうど中間部分の住所が「中川中央」なのだ。中の中だからセンターってことにしよう、ということでその南を
センター(の)南、北をセンター(の)北
ということにしたのではないだろうか。当時の役人は。

昔の航空写真と今の住所を合わせて見てみると、面白いことにそのセンター部分は丘陵地だ。もう少し東側に地下鉄を通せばトンネル掘らずに来れたようにも思うけれど、
多分地主がだめだったのだろう。



早渕川のそばに以前事務所を借りていたけれど、311の地震の時にすごく揺れた。
この航空写真を見ると元は川だったようで沼になっていた場所のようだ。
揺れるはずだ。
まだ高圧線鉄塔の続く道も高圧線も無いうちから南の団地は造成されていたみたいだ。



1/13/2019

空の上で

雪は降らなかった。
空は雲一つない青空だったので、公園に行ってステージの前の長ベンチに横になって
空を見ていた。
青空は太陽(もう沈む準備をしていた)は白く輝いていて、空は太陽から遠くなるにつれて濃い青にグラデーションがかかっていた。



時々飛行機が空を横切って行く。
親子がドローンを飛ばしていた。
結構高くまで上げていて、娘さんが操縦していたのだろうか、真上からどんどん東の方に行ってしまい、木々の向こうに消えてしまった。
どうやら操縦不能になってしまったらしい。
親子は探しに行った。
私はそのまま仰向けになって空を見ていた。

こうしていると、夢でよく見るシーンを思い出す。
そらの高いところに真っ白な巨大な構造物が浮かんでいる。
とても大きな構造物で、飛行機でもないし船でもない、
どこかのプラント工場を切り離してきて空に浮かべたみたいな形だ。
よくみるとその構造がだんだんはっきりしてきて、
なんであんなものが空に浮かんでいるのかと思うと怖くなってくる。
そのシーンを思い出した。
あれが今この空の上に出現したらいいな。
と思いながら何もない青い空を見ていた。
そらは相変わらず青いだけで、
太陽は横からまぶしい光で照らしてくる。

ずいぶん長いことそのまま横になっていた。
ゆっくり起き上がって、帰ろうとすると
さっきの親子がまだドローンを探していた。
私も帰りながら木の上や草むらの中を見ながら歩いていたが、
ドローンは無かった。
振り返ると親子は丘の斜面を探していた。
あのドローンはどこへ行ったのだろう。

そういえばこの地区でドローンが飛行禁止になっていないのは
この公園だけだった。

1/12/2019

雪になるだろうか

今外は雨が降っている。
でも雪が降りそうなほどは寒くない。
箱根は雪だろうきっと。



”こっち”のメタセコイアは電飾を付けられて輝いている。
去年までは寒々しい青色だった。
今年からは少し明るい色になったようだ。
でも電球色のように暖かくはない。
相変わらず広場は寒々しい。

向こうの結婚式場は電球を使っているのか、電球色のLEDかしらないけれど、
オレンジ色をしていた。
写真に撮ると同じに見えるけれど。

1/09/2019

フォークソングブーム黎明期

なんとなく「若者」という言葉が「歌舞伎者」と同じくらい古臭い言葉に思える。

その「若者たち」をブロードサイド・フォーが出したのが1966年だそうだ。
高校生の頃だ。
ボブディランの「風に吹かれて」が1963年だそうだ。
サウンド・オブ・サイレンスが1966年。たぶん日本ではその一年後くらい。
マイク眞木の「バラが咲いた」が1966年。
「帰って来たヨッパライ」は1967年らしい。
「この広い野原いっぱい」が1967年
高石ともやの「かごの鳥ブルース」が1966年、「赤いヤッケ」が1967年

Wikiの「フォークソング」に1965年に「日劇フォークソングフェスティバル」が開催されたとあるが、これは間違いで1966年12月24~30日が正しい。
フォーク・クルセダーズや伊東きよこ高石知也らと他グループが出ていたらしい。
学生¥350、一般¥400だったようだ。
自分のギターを持って行くと250円割引になったらしい。

上記は新聞記事を調べたら第二回が1966年だった。だから第一回は
1965年だったのかもしれない。

ピートシーガーの「花はどこへ行った」は1956が最初の録音だったそうだ。
キングストン・トリオも古く1961年。
ザ・リガニーズが1966年らしい。

いずれにしてもどうやら1966年というのがマイルストーンのようだ。
1966年のことを思い出してみると、私はアメリカンフォークを友人とやっていた。
日本のフォークソングは聞こえてはいたけれどあまり興味はなかったかもしれない。

その頃の世の中というか高校生としての雰囲気としては、何か社会的なことが重要だったように思う。すくなくともそう思っていたことは確かだ。
だからよく意味も分からず英語のフォークソングを歌っていた。
意味もわからずということが重要で、ほんとに意味をわかっていたら歌わなかったろうという歌もあった。

1966年の大晦日に紅白でマイク真木が「バラが咲いた」を歌ったのは見ていた。
ギターではなくリュートを弾いていた。ついでにジーンズで紅白に出た最初の人だったらしい。
確かに今で言う「弾き語り」の形態ではあったけれど、全く惹かれなかった。
ギターじゃないのか?と思ったし、その頃既に大ヒットしていた歌だったけれど、歌に内容が無かった。それで?という感じがしていた。
形だけのような感じがしていた。
たぶんあの歌はフォークソングブームには影響を与えていないと思う。

当時、高校生、大学生は各地でフォークソングコンサートをやっていたけれど、
「バラが咲いた」を歌っていたのは見たことが無い。
当時よく聞いたのは「花はどこへ行った」「この広い野原いっぱい」「500マイル」
とかそのあたりの歌で、「若者たち」のテーマもよく歌っていた。
たぶんフォークソングブームのもとになったのはどちらかというと社会性のある歌だったように思う。
私がいた世界がそうだっただけなのかもしれないけれど、
しかしその流れは1969年までは続いていたように思う。
69年以降はだんだん社会性は薄れてきたように思う。
東大安田講堂がその次のマイルストーンのように思う。























1/08/2019

サンサーンスの3番

トスカニーニーの演奏を聴いていた。
書き込みを読んでいたら、誰かが
「これはカーネギーホールでの録音じゃないだろうか。私の父はファーストバイオリンの
2列目に居た」
と書き込んでいた。
そのチャンネルの主が
「確かにカーネギーホールだ。私はNBCとは関係はないが、あなたの父の名前は?」
いうやりとりがあった。
すごいと思った。
録音は1952年だ。
その父親はたぶん僕の父親と同じくらいの世代だと思う。

1/07/2019

たぶん10数回目のフォレスト・ガンプ

また観てしまった。
観るたびに涙が出る。
それがだんだんひどくなるような気がする。

どこで涙するかというと、以前は最後のバス停のシーン。
子供がバスに乗る時に呼び止めて「おまえを愛してる」というシーン。
フォレストのその時の気持ちが良くわかったから。

今日観ていてもう一つ。
ジェニーのお墓の前で語るシーン。
I don't know if we each have a destiny, or if we're all just floatin' around accidental-like on a breeze, but I, I think maybe it's both. Maybe both is happenin' at the same time. I miss you Jenny. 

ほんとうにそう思う。
自分のこれまでの出来事を思い返すとほんとうにそうだ。

千と千尋の神隠し 幻のエンディング

というのはあったのだろうか?

あの映画を見たのはもう50歳になっていた頃だ。
どこの映画館かは忘れた。
映画の内容はよく覚えている。

予告というかテレビで映像の美しさについて特別番組でやっていたことも覚えている。
それは映画公開の前だった。
なぜなら映画を見た時に「ああ、このシーンだ」と思い出したから。
そのシーンは千尋とハクが両側が花の壁になった小道を走るシーンだった。

もう一つ印象的だったのは水の上を走る電車のシーン。
確かイバラード画集にあったはず、と思い本を探したら、
そうだあれはずいぶん前に娘の友達に貸したままだ。帰ってこない。
そう千と千尋にもイバラードのシーンがいろいろあったように思う。

最後のシーンだけれど、記憶では
トンネルを抜けて、車に乗った千尋が後ろのシートに横になって
空を見ながら「何か」を手にしてみている。
その「何か」が髪留めだったのかもしれないが、確かでない。
花だったような気もする。
ただ後ろのシートに斜めに横になって空を見ているシーンは覚えている。
そのあとで母親が「引っ越しの人来ちゃってるじゃない!」と言ったか、
あるいは「引っ越しの人たち来てるんじゃないの?」とか言ったことも覚えている。
その後のシーンははっきり覚えていないが家の前のシーンがあったように思う。
そこで終わっているんじゃないだろうか。
その後は記憶にない。
だいたいあの映画はあんまり好きじゃないからテレビでは1回か2回しか見ていない。
そのテレビで見た時に「あれ、終わりカットされている」と思った記憶がある。
それがどこで終わっているのかその後見ていないのでわからない。

しかし、上に書いたシーンがあったことは結構確かだと思う。

追記:
今日、その時一緒に見に行った人に聞いてみた。
何も説明せずに「最後覚えてる?」と聞いてみた。
はっきりは覚えていなかったけれど、「引っ越しの人達・・」のところは
覚えていた。
やはり幻のエンディングはあったと思う。

1/06/2019

浅草十二階

浅草十二階という建物は遥か昔になくなってしまっていて、見たことがあるわけがない
のだけれど、子供の時の記憶にその塔を見た記憶がある。
生まれた年からしてそんなことはあり得ないのだけれど、
浅草の町を歩きながらその塔を右手に見た記憶がある。
塔は写真に残っているあの形をしている。

そのことを考えていた。
改めて調べたら十二階は1923年に解体されている。
「浅草の塔」で検索したら「仁丹塔」というのがでてきた。
そうだ、これだ、と思った。
あれは仁丹塔だったんだ。
形はたぶん後から記憶を装飾した結果だと思う。
仁丹塔は1986年に解体されている。
結構後まであったんだ。

浅草はそう何度も行っていない。
しかし学生の時に先生と一緒に行ったことを思い出した。
ドジョウを食べに行こう、と神崎先生がさそってくれた。
あの時だ。
駒形のドゼウだ。
下足番の人が客の靴を全部覚えていたのを覚えている。
相当数の客が入っていたのに。

その帰りに先生の車から見たのが仁丹塔だ。
そうだ、一瞬だったけれど、神崎先生が「あれ、仁丹塔だよ」
と早口で言っていた。
そのシーンをはっきり思い出した。

神崎先生はいろいろ連れて行ってくれたことを思い出した。
先生は今どうしているだろう。


1/05/2019

DARK LOCHNAGAR

時々というか何かのきっかけでいい歌に出会うことがある。
今日もsubしてくれた人のチャンネルが表示されていたので何気なく見ていたら
この歌があった。ホーナーのアコーディオンで弾いていた。
一緒にギターで合わせようとしたら、えらく難しい旋律だ。
どうなってるんだろう?と10回以上聞いてやっとわかった。
ついでに楽譜もあったので、なんとか理解できた。
この歌はケルティック独特の旋律の飛躍がある。
とても美しい。
今度やろう。

前にも同じように難しい旋律の曲があった。
My hone among the hills
ウェストヴァージニアの州の歌だ。
メロディーがすごく長い。
なかなか覚えられなかった。
私の歌はともかく、
この歌もとても美しいと思った。

時々こういう歌にめぐり合う。
ウエストヴァージニアの歌もたまたまどこかのコーラスが歌っていたのを聞いて
いい歌だなと思ったのがきっかけだった。

考えてみるともともと知っていた歌以外はみんなこんな感じだ。