11/05/2026

高齢者講習とか

 ハガキが来てすぐに教習所に電話したのだけど、
空いてるのは誕生日を1週間も過ぎてからの日付、
しょうがないのでそれを申し込んだ。
そんなに多いんだ、講習受けるジジババ。
まあいいいか、次の月までは大丈夫みたいだから。

私が最初に免許をとったのは20歳の時。
武蔵野自動車学校という吉祥寺と西荻窪の間にあった
教習所なのだけど、今みたらもう無いみたいだ。
駅に近い場所だったから、売ったのかな?
昔の航空写真と比べてみると、学校の西側だったんだ。
そこに1軒屋が50軒くらい建ってる。
真ん中に高圧線が通っているのでその下だけ空いている。
あの教習所の上に高圧線があったのは全く覚えていない。
中央線のところから青梅街道の桃井4丁目あたりまで
走ったと思う。
青梅街道は車が多くて、そこで車線変更しないといけなかった。
検定の時に車線変更できない人もいた。

そんなことももう50年も前のことだ。
それで、高齢者講習だ。


ハングの事故

 さっき妻が「これ見た?」
と言って動画を見せてきた。
見なければ良かった。
それはブラジルのハングのタンデムフライトの事故の映像だった。
ブラジルの海岸はハングのメッカだ。
観光でタンデムフライトをやっている。
そのタンデムフライトの自撮り動画だった。
あそこはランディングは海岸の砂浜に降りる。
その二人も海岸に降りようとしていた。
たぶんもう何度もやっていることなのだろうけれど。
理由がわからないけれど最後のアプローチの時に
防波堤の岩に二人一緒に激突していた。
激突と言ってもその前の高度からのアプローチに
比べたらスピードはだいぶ落ちていたように思う。
だから怪我ぐらいで済んだように思えた。
しかし二人とも即死だったようだ。
あのスピードなら砂地なら転がったくらいで済んだと思う。

私の友人のミツキが全く同じ事故だった。
今井浜の海岸の突堤のようなコンクリートの壁にぶつかってしまった。
何度も降りているところなのに。
たぶんわずかな高度の違いによるものだと思う。
ミツキは一緒に練習した友達だった。
歳は10歳ぐらい彼の方が若かった。

そのブラジルの事故を見てミツキを思い出した。
ミツキの事故は新聞で知った。
その時のことを思い出した。
ミツキは一度マユミちゃんと一緒に足尾に来たことがあった。
残念ながら風が悪くて飛べなかった。
その時に少し話した。
ああ、あれが最後だったんだ。
記憶の中でミツキの笑顔が笑っている。



11/04/2026

夢で見た家

 のリビングルームはとても広くて、階段状に3部屋が一つの
リビングルームになっていた。
私はその真ん中の部屋のカウンター(部屋とは直角にある)の脇に
スツールを持ってきて、カウンターに肩肘をついている。
部屋は広い窓から太陽がまぶしく入っている。
部屋の1段下の所も明るく入っている。
私は何をするでもなく、スツールに座って
その景色を眺めている。

考えてみると私の夢に出てくる部屋はみな段差がある。
ドアを開けると一段下がった別の部屋があったり、
畳の部屋もわずかに段差があったりする。
なぜだろう?

私が生まれてから最初に過ごした家は三鷹にあった。
一軒家だったけれど、2間しかなかった。
それに台所とトイレがあった。
風呂は外に張り出した形であった。
玄関を出て左に風呂のドアがあった。
父などは家から裸で一度外に出て風呂に入ったように思う。
そとと言っても門があったので全くの外ではなかった。

その家には2間続きの縁側があった。
縁側の前には横長の庭があった。
庭には梅の木とビワの木とイチジクの木が植えられていた。
ビワには実がなったけれど食べたことはない。
イチジクはたくさん実がなったけれど、私は食べたことがない。
梅の木も実がなったけれど何かに使ったのか記憶にない。
父が酒を飲めたら梅酒にしていただろう。

その家は4歳から小学校5年までいた。
だから約7年住んだことになる。
でもその家が夢に出てきたことは無い。

そのあと大阪の高槻に半年くらいいたらしい。
その家は新築でとてもきれいな家だった。
そこの家も夢に出てきたことはない。

大阪からまた三鷹に戻って一軒家に住んだ。
新築の家だった。
部屋は4部屋あったけれど、2部屋はちょっと狭い部屋だった。
その家には小学校6年から大学を出て札幌に行くまで
住んでいた。
だから13年いたことになる。
その家は夢によく出てくる。
夢の中で時々夢なのか現実なのかわからなくなることがある。
その家は私にとってそういう家だ。

その後は、札幌の下宿とバードマンション、
バードマンションは夢に出てきて欲しいけど
夢で見たことは無い。下宿も無い。
その後は行徳のアパート、深川のアパート、
行徳も夢には出たことが無い。
深川の街は夢に出たことがあるけれどあのアパートは
夢に出てきたことは無い。

それから横浜の日限山の家だ。
2階建ての大きな家だった。
義理の父が建ててくれた家だった。
その家はほんとによく夢に出てくる。
その家の2階だ。
「あれはここは・・」と思う景色はほとんどその家だ。
子供も4歳くらいでそこにいる。
ずっと変わらず4歳くらいのままで、その夢の家にいる。
両方の両親もたいてい一緒にいる。
兄まで一緒にいることがある。
もう母もずっと昔に亡くなっているのに
そんなことは関係なく、夢の中では普通にふるまっている。
懐かしいとおもうことはない。
なぜならみんな普通にしているから。
だから、夢から覚めた時が辛い。

その後は都筑の小さなアパート、ワンルームだった。
そこにしばらく2人で住んでいた。
その部屋も夢に出てくることはない。
その後は同じ都筑区のマンション。
3部屋あった。
それに風呂とトイレがついていた。
そこに住んで2年くらいは周りにはビルも無く
見晴らしがいい部屋だった。
だけどすぐに前にマンションが建って景色は見えなくなった。
2匹の猫と人間が2人、多いときは4人で住んでいた。
22年くらいそこにいた。
都筑らしい町が夢に出てきたことは何度かあるけれど、
その家が夢に出てきたことは何度かある。
部屋が北海道とつながっている夢を見た。
部屋の外がスロープになっていて、そこを車で降りて行く、
するとカーブしていて、その先をずっと行くと函館の海に
なっていた。という夢をみたことがある。

その部屋から大学に行く夢も見た。
大学では単位が足りず、またテストも全くわからないという
夢を何度も見た。

その後が今の横須賀だ。
このマンションは南側の前が公園で緑がいっぱいだ。
北側は谷が見渡せてて海が見える。
この家は都筑に住んでいた時に夢に何度かでてきたように
思えてならない。
特に海が見える部屋は最初に来た時に既知感があった。
記憶の中の景色と重なった。

この家は夢によく出てくる。
と言ってもこのままでなく、向きが変わっていたり
階が変わっていたりする。
先の広いリビングの夢もこの家のデフォルメだとわかる。
この家のリビングは広い。
都筑のマンションの2部屋分くらいある。
その全面が公園に面している。
ここはまさに夢の家だ。
夢の中の家であり、
夢で見た家であり、
これからも夢で見るであろう家だ。

11/02/2026

北海道へ行く目的って?

 北海道から東京に戻ってしばらくは懐かしさで北海道に行っていた。
知ってる人もいたし、札幌の街もそんなに変わっていなかった。
それも20年も経つと街も変わって行った。
知ってる人もだんだんいなくなって、
北海道に行っても懐かしいと感じなくなってきた。

それでも何年おきかに北海道に行っていた。
バイクに乗るためだったり、レンタカーを借りて
乗るためだったり。
しかしもうバイクも疲れるし、特に見に行きたい場所も
なくなってきた。
だから北海道に行く目的、理由が無い。
最後に行ったのは4年前だ。
それ以来、雪が見たいとかいう理由で
北海道に行こうと思ったけれど、
また雪の中一人でいるということの意味を
思い出して、行くことができない。

それで、今日考えていたのは、
昔撮った写真がたくさんあるから、その場所の現在
を撮ってみたらどうだろう?と思った。
これは少し面白そうだ。
少なくともFBのネタにはなりそうだ。
でも、冬はやめよう、
今またあの冬に捕まったら復帰できないかもしれない。
だから行くとしたら春だ。
来年だな

11/01/2026

ナツメロ

 最近では「ナツメロ特集」という番組自体がもう古いものに
なってきてしまった。昭和のナツメロなんてもうジジイしか
聞かない。
それの1世代前の時を覚えている。
1970年頃、ラジオのナツメロ特集をテープに録音した。
その中身は結局1950年後半から1960年代のポップス
だったのだけど、それを1980年頃に聞いた時に既に
そのラジオ番組の放送が懐かしの放送になっていた。

最近ではFBの歌のグループでも1960年頃のアメリカン
フォークソングを歌う人はほとんどいなくなった。
かろうじて歌われる曲は
Blowing in the wind, Paff, 500miles
くらいじゃないだろうか?
それはとりもなおさず我々の世代の人間が歌うのをやめた、
あるいは既にこの世にいないとかだろう。
さみしいというよりあきらめだね。

さっきYouTubeで流れていたナツメロを聞いて思ったこと。
タイガースはすごい!ハモも演奏も完璧だ。
スパイダースはひどい!ハモの音程がずれている。
それでも大声で歌ってる。
チェリッシュの「なのにあなたは京都に行くの」という歌
を、「そういえばこういう歌あったなあ・・」と聞いていたら
こんな怖い歌をみんな良く聞いていたなと思った。
だって「私がこんなにあなたを愛してるのに」、
なんであなたは京都に行くの?
と歌っている。
これは中島みゆきの「夏土産」に匹敵するね。
あの友達が送ってきた旅行の写真のバックに
彼氏と女性が写りこんでいるやつ。
女性はこういう怖い曲をよく作るなぁと思う。
男の場合は女々しくなるね。
For The Peace Of All MankindとかWitoit youとか
そういうやつね

これを書きながらYouTubeでRod Mckuenを検索して
自分が以前に上げたビデオを探した。
ロッドマッケンの"Winter"というビデオ。
音はロッド・マッケンのレコードから、
映像は当時住んでいた横浜都筑の雪の日の映像。
それを聞いて懐かしかったのだけど、
アップした年を見て驚いた。
18年前だって。
これは驚くと同時に怖いな。

この頃はアップロードの画質に制限があったので粗い画質だけど、
これを撮影した時のことははっきり覚えている。
都筑で雪が降ったのは3回くらいあった。
そのうち一番たくさん降った日だった。
カメラを持って駅の向こう側まで行って、
今のコーナンがあるあたりで撮影した。
あまり寒いとは思わなかった。
その映像をこんなに時が過ぎて見るとは思わなかった。
ロッドマッケンのこのレコードはその時よりもさらに20年以上前に
札幌で買ったものだ。

もう時間だけはどうしようもない










10/29/2026

昔、横須賀に来たことがあった

 一度目ははっきり覚えていないが、あれはなんで来たんだろう?
1970年か1971年だ。
チェリーに乗ってこっちの方に来た。
一緒に乗ってたのは小沼だ。
保土ヶ谷の方からまだ完成していない横横道路を走った。
雨だった。
工事中の横横道路はぬかるみでひどい状態だった。
でも雨の日は他の舗装していない道路も同じだった。
その雨のシーンを覚えている。
あれは一体どこに向かっていたんだろう?

もう一度は晴れの日だった。
これも学生の頃だ。
たぶん1973年かそのあたり。
僕らは鎌倉の方から逗子を通って南に向かった。
道は全くわからなかった。
覚えているのはその逗子か、葉山のあたりの細い道。
それからどう走ったかわからないけれど、
観音崎の方の、今の走水の信号のところまで行った。
美術館に行く手前の所だ。
その信号機をこのまえ眺めていて
「ああ、ここに来た」と思い出した。
その信号でUターンして帰った。
その帰りは、海側をずっと走った。
横須賀の商店街を通った。
あれはたぶん安浦のあたりだったんだろう。
商店街の景色を覚えている。
帰りはもう夕方になってしまって、
横浜に向かう磯子のあたりで
米軍の基地か米軍の住宅があったように思う。
フェンスで囲まれていた。
それからどうやって走ったか覚えていない。
夜になってしまいそうで焦っていたのかもしれない。
でもあれは確かに横須賀へのドライブだった。

10/26/2026

PP&M

 こんなに真剣にPP&Mを聞いたのは50年以上ぶりだと思う。
不思議に思うのは彼らは一体どこからこれらの演奏を持ってきたのだろう?
彼らの前にこんな風に演奏して歌う人たちは居なかった。
似たのはいたと思うけど、彼らはどうやってこういう演奏に
たどり着いたのだろう?
まるで完璧じゃないか。

私が高校生の頃彼らの演奏を真似しようとして
必死にギターを練習した。
あの熱意は一体何だったんだろう?
たぶん当時彼らと10歳くらいしか違わないのに、
私は一体何をしていたんだろう?

最悪なのは今の自分のままで当時に戻ったとしても
彼らのような演奏を創造することはできなかっただろうということ。



高瀬川玄

 日本の99%はおろか99.999999%は
私のことを知らないか忘れているに違いない
そうであってほしい
20年も前だったら自分のことを覚えてる人がもう少しはいた
だからその時99.99999999%の人が私のことを忘れて
くれていたら人生はもう少し楽だったかもしれない
しかし、今はどうだ?
もう同年齢の人もどんどんいなくなってきている
だから私を知ってる人はもうほとんどいないはずだ。
家族と数少ない友人知人のみだ
仕事関係でつながりのあった人で
私のことを覚えている人はもうほとんどいないだろう。
そうであってほしい

10/25/2026

クレメンタイン(荒野の決闘)

 この映画を最初に見たのは小学校6年の時だった。
あれは三鷹ではなく吉祥寺だったように思う。
ちがうかもしれない。
小さな映画館だった。
内容はわかっていた。
「ワイアットアープとドク・ホリデイが悪い奴らと闘う」
ということだけだ。
同じ内容の「OK牧場の決闘」も見てるが、これはいつ
どこで見たか覚えていない。

荒野の決闘はどこだったろう?ほんとに。
映画が始まると白黒ではなく白青の画面だった。
あれはたぶんコピーしたフィルムだ。
ブルーフィルムと同じ、紺色の映画だった。
しかも画質が悪く露出も悪くとても暗かった。
良く見えなかった。
それでも最後まで見た。
最後のシーンははっきりと記憶に残っていた。

子供ながらにクレメンタインの美しさはわかった。
しかし子供だったので会話はわからないところが多かった。
このシーンはずっと「ワイアットとクレメンタインさんは
別れてしまって、これが最後なんだ」
と思っていた。

さっきこの映画を見直してみた。
すると少し前のシーンでワイアットが、
一度家に戻るが先生になったクレメンタインに逢いにまた来る、
と約束していることがわかった。
史実はどうだかしらないけれど、
「ああ、よかった」とさっき思った。


10/21/2026

Donna Donna

フォークソングのDonna Donnaだけど、
当時は何も考えていなかった、
ということを思い知らされる歌のひとつだ。
牛が売られて行くかわいそうな歌、
としか思っていなかった。
だけど今、歌詞を見直してみるとこの歌は
プロテストソングあるいは民衆を扇動する歌だとわかる。

牛は市場に連れて行かれて売られてしまう。
風は力いっぱい笑っている。
もう不満を言うのはやめろ、
一体誰が牛になれと言ったんだ!
なぜツバメのように誇りを持って
空を飛ぶ翼を持たないんだ!
風は力いっぱい笑っている

という歌なんですね。
牛は市民であり、ノンポリであり
ツバメは不条理な制約から解放された人達だ。

言われるがままに市場に連れて行かれて
売られるなんてやめて
自由になろう

という歌。
これを市場に売られるかわいそうな牛の歌、
と解釈するには
力いっぱい笑っている「風」はあまりにも非情だし、
なんでツバメにならないんだ、というのも
無理な話だ。

今思うにジョーン・バエズがこの歌を英語に翻訳して
歌ったことを私は何も気が付いていなかった。
これが羊だったら違ってきただろうな

あの当時の歌にはそんなのがたくさんある




10/20/2026

三鷹のもう一つの映画館

 オスカーのほかに三鷹東映劇場があった。
普通は「東映」と呼んでいた。
三鷹駅南口を下りてまっすぐ行き、
桜通りの交差点を左に行って50メートルくらい行った
右側にあった。
記憶では桜通りから少し入ったところにあった。
桜通りから間口の広い自転車置き場のような広場
があり、そこの奥に映画館の入り口があったと思う。
赤丸が東映、緑が第六小学校、青丸が家。


1957年の航空写真に写っている。
ここで小学校の時、映画を観た。
何の映画だったかはっきり思い出せない。
だけどとても悲しい映画だったのは覚えている。
だからたぶん「24の瞳」じゃないだろうか?
学校からみんなで歩いて行った。
今しらべたら1.5キロくらいあった。
東映はオスカーよりもずっと大きな映画館だった。
写真でも体育館みたいな屋根が見える。
三鷹としては大スクリーンだったと思う。
その他にここで映画を観た記憶は無い。

10/19/2026

斎藤君のこと

 斎藤君と連絡が取れたみたいだ。
望月が斎藤君と電話で話したそうだ。
一応、元気だったみたい。
今は福井の施設にいるらしい。

斎藤君と最後に話したのはたぶん1999年頃だったと思う。
斎藤君はとても静かな人でギターとマンドリンをやっていた。
青山のスタジオのCD作成にも参加してくれた。
ああ、その前の鎌倉山にも参加してくれていたと思う。
それから馬場ちゃんの追悼録音の作成にも参加した。
その他いろいろ参加してくれた。
それに何よりも、私の数少ないハングで飛んでいるところを
撮ってくれた。あれはとても貴重だ。

斎藤君は今は足が不自由みたいだ。
もう一度会いたい人だ。