10/26/2026

PP&M

 こんなに真剣にPP&Mを聞いたのは50年以上ぶりだと思う。
不思議に思うのは彼らは一体どこからこれらの演奏を持ってきたのだろう?
彼らの前にこんな風に演奏して歌う人たちは居なかった。
似たのはいたと思うけど、彼らはどうやってこういう演奏に
たどり着いたのだろう?
まるで完璧じゃないか。

私が高校生の頃彼らの演奏を真似しようとして
必死にギターを練習した。
あの熱意は一体何だったんだろう?
たぶん当時彼らと10歳くらいしか違わないのに、
私は一体何をしていたんだろう?

最悪なのは今の自分のままで当時に戻ったとしても
彼らのような演奏を創造することはできなかっただろうということ。



高瀬川玄

 日本の99%はおろか99.999999%は
私のことを知らないか忘れているに違いない
そうであってほしい
20年も前だったら自分のことを覚えてる人がもう少しはいた
だからその時99.99999999%の人が私のことを忘れて
くれていたら人生はもう少し楽だったかもしれない
しかし、今はどうだ?
もう同年齢の人もどんどんいなくなってきている
だから私を知ってる人はもうほとんどいないはずだ。
家族と数少ない友人知人のみだ
仕事関係でつながりのあった人で
私のことを覚えている人はもうほとんどいないだろう。
そうであってほしい

10/25/2026

クレメンタイン(荒野の決闘)

 この映画を最初に見たのは小学校6年の時だった。
あれは三鷹ではなく吉祥寺だったように思う。
ちがうかもしれない。
小さな映画館だった。
内容はわかっていた。
「ワイアットアープとドク・ホリデイが悪い奴らと闘う」
ということだけだ。
同じ内容の「OK牧場の決闘」も見てるが、これはいつ
どこで見たか覚えていない。

荒野の決闘はどこだったろう?ほんとに。
映画が始まると白黒ではなく白青の画面だった。
あれはたぶんコピーしたフィルムだ。
ブルーフィルムと同じ、紺色の映画だった。
しかも画質が悪く露出も悪くとても暗かった。
良く見えなかった。
それでも最後まで見た。
最後のシーンははっきりと記憶に残っていた。

子供ながらにクレメンタインの美しさはわかった。
しかし子供だったので会話はわからないところが多かった。
このシーンはずっと「ワイアットとクレメンタインさんは
別れてしまって、これが最後なんだ」
と思っていた。

さっきこの映画を見直してみた。
すると少し前のシーンでワイアットが、
一度家に戻るが先生になったクレメンタインに逢いにまた来る、
と約束していることがわかった。
史実はどうだかしらないけれど、
「ああ、よかった」とさっき思った。


10/21/2026

Donna Donna

フォークソングのDonna Donnaだけど、
当時は何も考えていなかった、
ということを思い知らされる歌のひとつだ。
牛が売られて行くかわいそうな歌、
としか思っていなかった。
だけど今、歌詞を見直してみるとこの歌は
プロテストソングあるいは民衆を扇動する歌だとわかる。

牛は市場に連れて行かれて売られてしまう。
風は力いっぱい笑っている。
もう不満を言うのはやめろ、
一体誰が牛になれと言ったんだ!
なぜツバメのように誇りを持って
空を飛ぶ翼を持たないんだ!
風は力いっぱい笑っている

という歌なんですね。
牛は市民であり、ノンポリであり
ツバメは不条理な制約から解放された人達だ。

言われるがままに市場に連れて行かれて
売られるなんてやめて
自由になろう

という歌。
これを市場に売られるかわいそうな牛の歌、
と解釈するには
力いっぱい笑っている「風」はあまりにも非情だし、
なんでツバメにならないんだ、というのも
無理な話だ。

今思うにジョーン・バエズがこの歌を英語に翻訳して
歌ったことを私は何も気が付いていなかった。
これが羊だったら違ってきただろうな

あの当時の歌にはそんなのがたくさんある




10/20/2026

三鷹のもう一つの映画館

 オスカーのほかに三鷹東映劇場があった。
普通は「東映」と呼んでいた。
三鷹駅南口を下りてまっすぐ行き、
桜通りの交差点を左に行って50メートルくらい行った
右側にあった。
記憶では桜通りから少し入ったところにあった。
桜通りから間口の広い自転車置き場のような広場
があり、そこの奥に映画館の入り口があったと思う。
赤丸が東映、緑が第六小学校、青丸が家。


1957年の航空写真に写っている。
ここで小学校の時、映画を観た。
何の映画だったかはっきり思い出せない。
だけどとても悲しい映画だったのは覚えている。
だからたぶん「24の瞳」じゃないだろうか?
学校からみんなで歩いて行った。
今しらべたら1.5キロくらいあった。
東映はオスカーよりもずっと大きな映画館だった。
写真でも体育館みたいな屋根が見える。
三鷹としては大スクリーンだったと思う。
その他にここで映画を観た記憶は無い。

10/19/2026

斎藤君のこと

 斎藤君と連絡が取れたみたいだ。
望月が斎藤君と電話で話したそうだ。
一応、元気だったみたい。
今は福井の施設にいるらしい。

斎藤君と最後に話したのはたぶん1999年頃だったと思う。
斎藤君はとても静かな人でギターとマンドリンをやっていた。
青山のスタジオのCD作成にも参加してくれた。
ああ、その前の鎌倉山にも参加してくれていたと思う。
それから馬場ちゃんの追悼録音の作成にも参加した。
その他いろいろ参加してくれた。
それに何よりも、私の数少ないハングで飛んでいるところを
撮ってくれた。あれはとても貴重だ。

斎藤君は今は足が不自由みたいだ。
もう一度会いたい人だ。

10/18/2026

大学のクラブのホームページ

「青山シンギングフォーク」という名前のクラブだった。
そのホームページをここと同じGoogleで作ったのだけど、
 もう10年くらい前だろうか?
その時使っていたメールは今は存在しない。パスワードは
わかるけど、ログインできるだろうか?
花輪君が亡くなったことを書いておきたかった。

それでなんだかんだ、やっていたら昔のメールアドレスで
ログインすることができた。よかった。
新しい連絡用メールを設定したので今後は大丈夫?だと思う。

すごいと思うのはGoogle Bloggerは10年ほっといても消えないということ。
どこかのジオシティーは酷かった。
あれはローマの図書館を燃やしたのに匹敵するね。
あれで多くのサブカルチャー的情報が失われたと思う。
あれが残っていれば初期のインターネットやパソコン通信の
歴史が確認できたと思う。

それでクラブのホームページだけど、今や誰も気にもかけて
いないと思うけれど、まだ健在だということを知らしめたい。
誰に?
ASFの後継者のAFWはインスタの方でまだ情報を流している。
だからこっちもまだ死ぬわけにはいかない。



10/16/2026

高尾山

高尾山というのは小学校の5年くらいに行ったのが最初だ と思う。
一番最近は2020年頃みたいだ。
何度登ったかわからないくらい。
中学の時は、ああ中学の時は3回くらい登った。
そのうち1回は生物部の活動だった。
あと2回は確か下から走って頂上まで登った。
すごく元気だった。
でも高尾山ってどんな山だろう?と考えた時
山の形が浮かばない。
まあ、御岳山も同じだけど。
「高尾山行こう!」と言って友達と行ったけど、
せいぜい高尾山口駅くらいしか思い浮かんでいなかった
と思う。
まだ「箱根行こう!」の方が景色を浮かべることができる。
高尾山については確かキンシオでもやっていた。
八王子のあたりに行って町の人に聞いてもよくわからない。
なんかだいたいあの辺の山くらいにしかわからなかったと思う。

それでさっきGoogle Mapsで見てみた。
しかしやっぱりよくわからない。
一連の尾根の一部らしい。

この写真の真ん中の一番上が高尾山らしい。
生まれて初めて見た。

(笑)「超」

 この「かっこ笑い」というのが使われるようになったのは
記憶では1974年頃だと思う。
たぶんそれ以前に漫画や小説では使われていた。
もっと古いと思う。
しかし一般にこれを手紙などで使うようになったのは
1974年ころからだと思う。
1975年にこれを友人宛ての手紙で使ったら、
友人が「なんだよこの(笑)って」
と書いてきたのを覚えている。
つまり少なくとも我々の仲間関係ではこの年くらいが
最初だと思う。
小節などではもっと前からこれは使われていた。
しかし小説の中では登場人物が笑ったことを表現する
手法だったと思う。

例えば
彼は別れ際こう言った
「もう会うことないだろう」(笑)
後ろを振り向かず彼は去って行った。

みたいな表現だったと思う。
その表現を当時揶揄した文章も読んだことがある。
要するに不真面目だと言っていたように思う。

一方、これを面白いと思った人が手紙や文章でこれを
冗談の意味で使い始めた。
1975年よりも少し前からだと思う。
たぶん探せばどこかから出てくると思う。
今では
(笑)を単語登録した時に w で登録することが多いので
w が(笑)の意味になってしまい。
さらにそれを複数並べて wwwwww
としたことが草が生えているようだということで、
「草」が(笑)にとって代わり
嘲笑する意味で使われるようになった。

もう一つ「超」というのがある。
「超」(チョウ)
「ちょうかわいい」とか「ちょうはやい」とか
の使い方だけど、
たぶん一般的に広まったのは1985年以降のように思う。
電車の中などで耳に入るようになったのはその頃だ。
しかしこの「ちょう」は子供のころから使っていた。
たぶん1960年ころには既に使っていた。
もちろん本来の使い方ではなく、俗語としての
使い方でだ。
あれは漫画の影響のように思うけれど
定かではない。
ちょっと待て、
思い出したけど学校で使わないようにしましょう、
とか先生が言ってたように思う。
良くない言葉として。
1960年ころには俗語として「ちょう」を子供たちが
使っていたのは確かだと思う。
それが1980年頃からまた流行り出して
しかもアクセントが変わって
「チョーかわいくね?」みたいなアクセントになった。
昔は
「ちょう」「かわいいね」と二つの節だったように思う。

10/15/2026

三鷹オスカー

 三鷹駅南口を下りて(文字通り昔は階段だったロータリーの駅側、
正面の左側に階段があった)、そのまままっすぐ南に歩くと
右手に第九書房があり、そこを過ぎてすぐ右側に映画館があった。
三鷹オスカーと言ったらしい。
その名前は大学生くらいまでは覚えていたけれど、そのあと忘れていた。
今日それを思い出したのは昔見た映画の予告編をYouTubeで
見たからだ。
その映画は「美女と液体人間」と言った。

1958年だったらしい。兄と二人でその映画館で映画を観た。
かなり鮮明にその映画は覚えている。
「日露海戦」という映画だったと思う。
あるいは「日露戦争」だったかもしれない。
子供ながらにその船のシーンは模型で撮っているとすぐわかるくらいだった。
その映画は無事に日本勝利で終わるわけだけれど、
その前か、後かに次回上映の映画の予告編をやった。
それがその「美女と液体人間」だった。
まだ子供だったから「美女」の方はなんとも思わなかったけれど、
「液体人間」というのが怖かった。
私は下を向いてみないようにしていた。
だからその映画のタイトルは「液体人間」だとずっと思ってた。
しかしさっき見たら「美女と液体人間」だったようだ。
予告編ではそれなりに露出シーンがあったようだ。
だけど私はそれも見ていない。
とにかく怖かった。
中学くらいまでトラウマになっていた。

英語版のその映画が全編みることができる。
それをちょっと見てみると、
ああ、見てしまったら怖かったろうな、と思う。
考えてみると「ターミネーター2」の液体金属人間は
これにヒントを得ているのではないかと思う。1958年だ。
液体になって下水に逃げるシーンもあったようだ。


三鷹オスカーは映画館の入り口の隣に楽器屋があった。
「ノザキ楽器店」だ。
楽器店だけれど店頭ではレコードを売っていた。
そこでマーティーロビンスのレコードを買った。
同じノザキ楽器店の吉祥寺店でアルバイトをしていた。
こっちもレコード販売が主で、2階で楽器を売っていた。
店長が高橋さんと言ったと思う。女性の川奈さんと言う人
がいた。女性があと二人いた。
アルバイトが私の他もう一人。
2階で楽器を担当していたのは思い出せないけど、
宮地さんと言ったように思う。
よく思い出したな。
50年以上前のことだ。
三鷹の方の店長の名前が出てこない。
あんまり好きな感じじゃなかったから忘れたのかも。

10/14/2026

ネオンライト

 いつだったか、まだ私が札幌にいた頃だと思うけれど、
何かの件で藤沢だったかに行ってその帰りに
東京の友達の家に何人かで行って泊まったことがあった。
あれはなぜ行ったのか思い出せない。
ワンルームのきれいな部屋だった。
たぶんバンド(その時はもう活動していなかった)の関係か
たまたま私が札幌から帰っていたので誘ってくれたのか。
女性2人と男2人だったと思う。
ほとんど寝ずに夜を明かしたと思う。
そこで友達がレコードをいろいろかけてくれた。
そのレコードの中にクラフト・ワークがあった。
クラフト・ワークはその時初めて聞いた。
その中のネオンライトと言う曲がとても良かった。
その友達の家の窓から街の明かりが見えてきれいだった。

それがすごく印象に残ったので、札幌に帰ってから
そのレコードを買ってずっと聞いていた。
東京に戻ってからクラフト・ワークのライブにも行った。
あれは中野サンプラザだった。
おかしなコンサートだったけど知ってる曲ばかりで
楽しめた。

その「ネオンライト」は今聞くとあの時いた
友達の家を思い出す。
それと札幌のアパートから夜によく行った
ジャンプ台のあたりから見えた札幌の街の灯りを思い出す。
その二つが一緒になって
とても懐かしい。
ちょっと怖くて、ちょっとさみしい
友達と仲良かった頃を思い出す


渋谷1974

 

1974年の渋谷のハチ公前の写真というのがあった。
なんというかこれはあの時だろう?と思ってしまう。
例えば右の端にいるのは自分と友達のように思える。
そんなことはないのだろうけど、そう思いたい。
右手に交番があった。
ちょうどその前にいた。
学生の頃中の良かった友達とそこで別れた。

それっきり会っていない。
会いたいとは思ったけれど、
向こうも忙しそうだった。
込み入った話も聞いていたから。
また会おうとは言えなかった。

ずっと後になって、電話で話した時があった。
その時は田舎に帰ってお母さんと暮らしていた。
私は声を聞いて少し安心した。
精神的に不安定になっていると聞いていたから。

それからまた膨大な時間が過ぎてしまった。
周りの友達は皆行ってしまっている。
だから時々思い出す。
1974年というのはそういう年だった。