4/26/2024

103   茶・黒・オレンジ

 テレビにサブウーハーを付けようと思って、サブウーハー用の
スピーカーを買ってサブウーハーのアンプを作ろうと思った。
部品は残っていたものを使うつもりだった。
それで簡単に抵抗とコンデンサーでローパスフィルターを
作ろうと思った。

思ったのだけど0.01μFって表記何だっけ?
と考えてしまった。
回路の仕事をしていた頃は何も考えずに数値はすぐにわかったはず。
しかしどうしてもわからない。
102か?103か?104か?
勘としては103だった。そうだ10X10^3 pFだ。
それで合っていたのだけど、記憶に自信がなくなった。
やっぱり使っていないものは忘れてしまうようだ。
それじゃあ10KΩは?
これは、茶・黒・オレンジだろう、とすぐわかった。
だけどその次の誤差の色って何だっけ?
これは忘れている。
調べてみてやっと思い出した。

16進数と2進数とかも直観ではもうわからないだろう。
今はもう使われることはないだろうけれど、
Z80のコードももうほとんど忘れている。
あれは何を使っているのだろう?
ラズベリーパイ。
へえー、32ビットなんだ。
16ビットだと思ってた。

まあ、時代は変わったね





4/22/2024

ドローン音楽

 最近DTMだかDAWだかをまた始めたということは書いたけれど、
どうなんだろう?
1からコツコツ楽譜を書いて曲を作ることもできるけれど、
DAWのクリップを並べて行くだけでも音楽(らしいもの)はできる。
はい音楽です!って言ってもいいのだけれど、
どうなんだろう?

前にちょっと愚痴ったことで、ノイズ音楽や偶然の音楽とかが、
もっとプリミティブなエレベータ音楽よりも高尚なもののように
扱われているのは何故? と思ったことがある。
だってクリティカルな発振ポイントを見つけて面白そうな
音を出しているだけだ。
あるいはシンセサイザーのやはり音の共振あるいは音の発生原理
そのもののせいで音が変化するのを「音楽」だというのは
どうなの?

たぶん抽象絵画に近いものがあるのだろう。
適当にキャンバスに絵具を跳び散らかして「アート」ですって。
それに近い。というか同じだ。

しかしピカソに代表されるような抽象絵画は全く別だ。
練りに練って自分の絵を描いている。
結果的に両方を見ると同じように見えるかもしれないけれど、
全く別なものだ。と思う。

偶然性を狙った芸術は猿にでもまかせておけばいいと思う。
そうそう、今回のタイトルのドローン音楽だけど、
最近は「ドローン・シンセ」と居直ったような名前のシンセがある。
たぶん適当につまみをいじればそれっぽい環境音楽(アンビエント)
が勝手に鳴り始める。
それはもう音楽ではなくて、そのまま「環境音」なんじゃないだろうか。
自然音だ。
だからもう蜂の羽音をマイクで拾っても同じだ。

だからどうした?ということだけれど、
シンセを鳴らしているとほとんどシンセ任せなような音で
曲を作っているんじゃないか?と心配になる。
自分はこの音(音楽)にどこまで関与しているんだ?
という疑問だ。








4/21/2024

夢は夜開く

もうどうでもいいことなんだけど、
昨日車でラジオを聴いていたら「夢は夜開く」がかかった。
ああ、小林勝也さんの番組だ。
それで「十五、十六、十七と~」と歌っているのだけど、
明らかに「じゅうひち」と言っている。
前にも書いたけれど、私はごく最近まで「7」は「ひち」だと思ってた。
ずっとそう使ってきた。それを誰かに注意された。
「ひち」は”間違い”で「しち」が正しい、と。
家に帰って来て藤圭子の歌を改めて聞いてみた。
2種類聞いて、どちらも「ひち」と言っている。
これは間違いない。
ʃ
の音は聞こえない。
明らかに[ ç ]「hi」と言っている。

よくよく調べてみると、やはりある割合で「ひ」と言ってる人がいるようだ。
”決して”「ひ」は間違いではない。
ということがわかった。

だからどうした?

4/20/2024

インセプション

 今朝妻が観ていたので一緒に観ていた。
途中で思い出したのだけどこの映画はまずい。
そうだ子供が出てくるんだった。
それで途中で抜けてきた。

私の夢に子供達が出てくる。
ほとんどまだ4,5歳のままだ。
私は「ああ、良かったまだ子供だったんだよね」
と安心して抱きしめる。
そういう夢を何度も見る。
辛い



           
 











4/19/2024

Echoic memory エコーイックメモリー

 これはおもしろいなぁ。
カクテルパーティー効果を調べていてこの言葉があった。
確かになあと思う。
特に雑踏の中で、ある言葉の断片が聞こえたらそれに続く「音」を待って
先の言葉を判断する、というようなものらしい。
英語の聞き取りなんかでもそうだが、この場合はもっと時間が短い
ものを言うらしい。
たぶんある音の前後を判断しているのではないだろうか?
ある断片的な音(はっきりした音)の前にある小さな音も必要だし、
それに続く小さな音も必要だ。
これは何かに似ている。
音声圧縮などの時にやはり前後の音を参考にしながら
カレントの音を決めて行く。それに似ている。
耳の中(頭の中)でこれをやってるらしいというのは面白い。
ドラレコが衝撃の前後も録画しているのに似ている。

・・・と思うのだけど、はたしてこの解釈で合っているのか?



4/18/2024

昨日の夢

 合宿だった。
何の合宿だったのだろう?
たぶん高校生時代。
いや、それの同窓会だ。
私は無視されている。
何か発言するが無視される。
私は何もしゃべらないことにする。
私以外のところで皆楽しんでいるようだ。
いやな感じだ。
前に見た夢の場面を思い出す。(夢の中で)
(あいつは面白くない、みんなに無視される)
その会がお開きになる。
私は一人そこを去る。
次のシーンは札幌らしい。
私とオリーブと吉野と他にだれかいる。
皆でバス?を待っている。
吉野がチケットをくれる。
もうすでにオリーブは嫌いだから
私は話しかけない。
吉野が何か話しかけてくる。
私は笑って何かこたえる。
何だったか覚えていない。
いる場所は坂道の終わりの古い駅前のようなところ。
道路、広場は舗装されていない、泥道だ。
しばらく待っていると坂の上からおかしな車が
猛スピードで降りてくる。
良く農場で見る農薬の散布車の大きな感じのやつだ。
後ろに長い箱のようなものを引っ張っている。
それが広場に着くと皆それに乗り込むが
その時小学生が大勢とさっきの同窓会の人達も一緒に
乗り込んでくる。
箱の中は思ったよりもずっと広く
電車の2両分くらいある
私はその真ん中くらいに吉野の隣に座る
「これ飛行機に間に合うんだろうか?」
とわたしが言う。
吉野は「だーいじょうぶ、だいじょうぶ」
といつものように軽く言う。

間に合ったかどうか知らない。
時計を見ると4:30
外はもう少し明るいようだった。
また寝た

4/17/2024

DTM

 私はMTRで生録音で音楽を作っている。
それでずっとやってきたので慣れているというか
それが自然だと思っている。
一方DTMだけれどもう20年以上前はそれでやっていた時もあった。
STEINBERGのCubaseを使っていた。
その頃はクリップとかの概念は無く(有ったかもしれないけど使っていない)、
まあMTRとほぼ同じ使い方をしていた。
違う所はパートの入れ替えや開始終了タイミングを自由に変えられるところ、
細かな編集が画面上でできることだろうか。
たぶん当時でも音声のピッチを自動で修正できたと思う。
でも使っていなかった。
まあ、MTRと同じ使い方をしていただけだ。

それで最近DTMをやってみようと思った。
理由はドラムやパーカッションのクリップの種類がたくさんあって
それをベースに作ったらどうか?と思ったからだ。
それでDTMソフトをいろいろやってみると、
なんていうか、もう全てをソフト任せでも曲が作れることがわかった。
そうなると一体人間は何をしてるんだろう?と思う。

ドラムスのリズムを適当に選んで並べて、ベースを重ねて
ブラス、ストリングス、エレキなどのクリップをそれらしく
並べると曲としては(言わなければ)それっぽく曲に聞こえる。
少なくとも動画のバックかなにかで流す分には十分だ。

世のオリジナルの曲なんかも半分くらいはそんな風に
作っているのではないだろうか?と思ってしまう。
別にベースが弾ける必要も無いしドラムをたたく場所も要らない、
少なくても歌う声は要るだろうと思うけれど、
それだって歌詞を入れれば歌ってくれるアプリもある。
そうなると音楽っていうものの存在が怪しくなる。

前から思っていたのだが公の場で流れているBGMというか
環境音楽というかエレベータ音楽と言うかを良く聞いてみると
人間性が感じられない。
あれ、たぶんそういう自動ソフトで作っているんじゃないか?
と思う。
他にもそういうものはたくさんあると思う。
音楽はやっぱり手作りであって欲しいと思う。

そんなわけでDTMで曲を作ってみよう!
と思う。


4/16/2024

パスタとデジャヴと夢

 このブログを見ている人が最低4人いるようだ。
つまり最低4人で多い時は十数人。
その4人の人2人くらいまではわかるけどあとはわからない。
と言うのも自分からここを教えた人が2人だから。
こんなねえ、単に自分の記憶と記録と思い付きを書いただけのブログ
を読んでいるとは本当にわけがわからない。
だいたいタイトル文句を検索してもここは出てこない。
よっぽど300回くらい深く検索したらでるかもしれないけど。

そう、それが何の問題があるかというと、
ひょっとしたら私は誰かがここを読んでいることを意識して
書かなくてはいけないのだろうか?ということ。
でもそんなことはしない。
消えてしまうと困るので公開はしている。
だからって誰かが読むことを意識して書くとFBみたいになってしまう。
・・・ので、やらない。

昨日お昼にパスタ料理を作っていた。
キッチンでフライパンに入れた具材とパスタを混ぜていた。
その瞬間「あ、これは夢のシーンだ」とわかった。
今から3年くらい前、まだ横浜にいた時に見た夢だ。
その夢ははっきり覚えている。
「広い、あたらしいキッチンはいいねえ~」と言いながら
パスタを混ぜていた。
そのシーンだ。
「ああ、このシーンだったのか!」と思った。
デジャヴのように、
記憶が蘇った。
そのイメージはしばらく頭に残っていた。

何度かそういうシーンのことを書いてきたけれど、
今回のはかなりはっきりしていた。

この写真はネットにあったものだけれど、鍋の色と
トングが今使っているのと同じだ。
こういう感じのシーンだった。



4/15/2024

タナトフォビア

 知らない人は世の中のこの症状について誤解していると思う。
タナトフォビアはただ単に「死ぬことが怖い」というような
ものではない。これはパニックだ。
子供の頃に何度もなった。
何が起きているのかはわからない。
しかし頭の中で無音が鳴り響き、
見えているものすべてが怖い。
もう死がすぐそこまで来ているように思う。
これは誰にもどうにもできないことだと直感する。
とにかく恐怖しかない。
まだ小さかった頃は家まで駆け戻って
母親の膝に潜り込んでそれが過ぎ去るまで耐えた。
学校で起きた時は座り込んでいた。
友達に気づかれないように。
「大丈夫?」とか言われた時は
笑って「うん、なんでもない」って言ってごまかした。
友達が言うことに生返事をしているうちに
パニックはおさまって行った。

そのパニックが収まった後は、
とにかく「死」やそれに関することはなるべく見ない、
考えない、聞かない、と心に強く思って
一日を過ごした。
とにかく少しでもそのパニックに引っかかると
持って行かれるので、触らないようにしないといけない。

ただ単に「死ぬのが怖い」という症状ではない。

4/14/2024

フォークソングと反戦歌

 というのは自演できるムード音楽じゃないかと思う。
一番最初に聞いた「フォークソング」は何だったろう?
と思い出せるのは「トム・ドゥーリー」か「漕げよマイケル」か
だと思う。いずれも当時歌っていた。
歌っていたけれど意味(訳)はわからなかった。
マイケルの方は、まあ船を漕いでるんだろうな、
くらいしかわからなかったし、トム・ドゥーリーにしても
それがどんなにひどい歌詞かわからずに歌っていた。
そこからが始まりだったように思う。
「ドナドナ」「わが祖国(This land is your land)」
「花はどこへ行ったの」「雨を汚したのは誰」
「パフ」「悲惨な戦争」「ハンマー持ったら」
上げていたらきりがないけれど、
ものすごく多くの意味の分からない歌々、
それらの歌を学校で広場で舞台で公園で歌っていた。
私は意味が分からない歌はそれはそれでいいと思う。
歌一つ一つの歌詞の意味を説明しながら歌っていた人
を私は見たことが無い。
だいたいの意味とか趣旨を説明して歌っていた人は
もちろんいた。

私が仲間と歌を歌っていたのはその「歌の意味」を
歌っていたのではないような気がしている。
歌はあくまでも歌であり、その場の雰囲気を盛り上げるため
というか、自分たちの行動を鼓舞するためとか、
そういう意味だったように思う。
だから正直に言えば「歌で世界が平和になる」とは思っていなかった。
仲間と一緒に歌うことで自分たちの連帯感を強めるためとか、
一緒に歌うことで目的性をはっきりさせるとか、
そういう意味だったように思う。
(1965年から1975のことだけれど)

「じゃあみんなで反戦歌を歌おう!」というシュプレヒコール
はありえない。歌は何でも良かった。
よっぽど反動的だったりあまりに日和見的だったりした歌
以外は何でも良かった。
つまり何が言いたいかというと、反戦的だったのは人々の行動
であり、歌ではなかったということ。
だから昨今のライブやネットで盛んな弾き語りで
「これは反戦歌です」とか「ウクライナのために反戦歌を
歌います」とかいうのは違うように思う。
「反戦歌」などというのは元々存在しなかった。
「反戦する人間」がいるだけだと思う。
自分が平和を願う人間だということの
表明として平和を願う歌を作ったのではないだろうか。

「ウクライナの平和を願って赤とんぼを歌います!」
って言う方がまだ反戦歌的だと思う。
反戦歌を歌うことが反戦じゃない。
平和を願う人ならどんな歌でも反戦歌になりうる。

「500マイルという反戦歌を歌います」って言ってる人がいた。
思わず「え!どこが反戦歌なんですか?」と思ってしまった。
そういう発言が多すぎる。
正しくは「私はあの戦争に反対しています。500マイルを歌います」
じゃないだろうか。

いや、それは今始まったわけじゃない。
1960年代からそうなんだ。
反戦歌を歌うことが反戦だと思っている。
歌なんか歌ったって戦争は終わらない。
平和のために何か行動しているか?
が問題だ。
(すみませんお母さん、私は今何もしていません)

何もしないで歌だけ歌って「反戦です」って、
それでいいのか?



4/13/2024

擬態

 今住んでいるのが山なので虫たちがいるのだけど、
先日ナナフシをみつけた。
ナナフシはそれなりの木の枝に居れば周囲に溶け込んでしまう
わけだけれど、先日見たのは大きな幹にへばりついていて
一見してそれとわかる姿だった。
つまりあまり擬態が効果を発揮していなかった。

いつだったかテレビのドキュメント番組でやはり森に住む虫の
擬態をやっていたのだけど、その擬態がちょっと不思議で
木の下の人間が見るとまるで別の物に見えるという擬態だった。
それが何だったかはっきり覚えていないのだが、
木の下にいる人間が見た時に限ってその形に見える、
という擬態だった。
つまりその擬態は人間がどう見ているかを知っていないと
できない擬態だった。
それを見た時不思議に思った。
なぜか「彼」は人間がどう見ているのかを知っている。
どう擬態すればそういう風に見えるようにできるのかを
「彼」は知っている。
これはとても不思議なことではないだろうか。

今では擬態は長い年月をかけた淘汰の結果、ではないという
のが通説になりつつあるらしい。
つまりそういう風に進化したわけではないらしい。
もっと早い時間でそういう進化ができるような遺伝子が
存在するらしい。
スーパー遺伝子によって擬態ができるようになったらしい。

それはそれでいいけれど、なぜ”外から見た時に”
”そういう風に見える”ことがわかるのだろう?
そっちの方が不思議だ。

私が他人からどういう風に見えるのか私にはわからない。
またどうすればイケメン風に見えるのかその術を知らない。


4/11/2024

野辺山の電波天文台

 前に行ったことがあったような気がしていた。
でも行ってみるとたぶん初めての場所だった。
まず、記憶の方だけれど道に車を停めてそこから遠くのパラボラ
を見たような気がした。

しかし行ってみると近くの道からそのパラボラは見えなかった。
いや、見えたけれどちゃんと大きくは見えなかった。
だからその記憶は怪しい。
怪しいけれど八ヶ岳の周辺を車で走ったのは覚えている。
真冬に山の方に向かって走っていたら、
途中で雪で車が動けなくなった。
なんとかそこを抜け出して雪の無い道に戻ったことがあった。
あれは八ヶ岳だ。
だからその時に野辺山のパラボラを見たかもしれない。
あまりに遠いことだ。

巨大なパラボラはグーグーと音を立てて回転したり向きを変えたり
していた。どこで動かしているのかわからなかった。
真下で見ているとその大きさといかにも重そうな機械が
動くのはちょっと怖い。
2010だったかでアメリカの電波望遠鏡が出てきたのを思い出した。

その場で実際に動いているのを見ると、
「これほんとにやってるんだ」と思った。
映像でみているだけではどこか遠くのおとぎの国でやっている
ような気がしたけど、ほんとにこれで見ているんだ、と感心した。
昼間だったけれど電波望遠鏡は夜でなくても観測できるから
実際に何か見ていたのかもしれない。

光学望遠鏡は調布の東京天文台や堂平山の天文台で見ていたから
イメージしやすかったけれど、電波望遠鏡は初めてだ。
敷地内にはこれより少し小型の物が数基とさらに小さな物が
十数基?あったけれど、あれも全体で一つの望遠鏡を構成する
のだろう。

しばし現実から逃れることができた。

4/07/2024

誕生日

 今年も誕生日が来た。
74回目だよ。
フェイスブックに30人近いHappy Birthday!が来た。
全部に一応返事を書かないといけない。
その面倒くささはもう諦めた。
問題は返信していない人がいないか?だ。
だいたいFBは全ての書き込みを一度に出してくれない。
小出しに出すから何人かは別枠で出てくる。
それを見忘れたら大変。
非常に気を遣う。
だいたい日本と外国では1日ずれるから
遅れて入って来る分がけっこうある。
結構あると言っても「友達」何千人も登録されている人
は大変だろうけど、友達は100人くらいにしているから
たいしたことは無い。
たいしたことはないけど何十人かはあるので
それが面倒だ。

4/06/2024

ケーブル類

 仕事を止めたので要らなくなったケーブル類を処分した。
しかしまだなんだかんだこれだけある。(写真)
その前に事務所をたたんだ時にもこの写真以上のケーブル類
を処分した。それなのにまだ要らないものを処分しても
こんなにある。
1本ずつ確認したけど、いつか使うかもしれないと思うものばかりだ。
なので捨てられない。
ほんとに捨てられないものなのか?
疑問だけど、捨てられない。
一番下左は私の持ってるペダル。
これしかない。


4/04/2024

momentary lapse of reason

 Pink Floydのアルバムタイトルだけど、その症状は以前に
一度経験していた。
30歳になる前に車で兄の家に行くとき、幹線道路から
脇道に曲がる時、曲がったとたんに今どこを走っているか
わからなくなった。「ここどこだ?」という感じだった。
でもそれは一瞬で、すぐに今いる状況はわかった。
だけどその一瞬の空白の感覚をよく覚えている。

最近は例えば書棚の前に来たけれど、何しに来たか
わからないという症状は良くある。
それもたぶんその症状に近いんじゃないかと思う。
でもその場合「何しに」というところはなかなか思い出せない。

あるいはある漢字を見ているとその漢字が何の字か
わからなくなることがある。ゲシュタルトなんちゃらという
症状なのだけど、それは若い頃から気が付いていた。
理由はわからないけれど人は漢字を映像で覚えているのかも
しれないような気がする。漢字を見ているとその映像と
漢字の意味が分離してしまうのではないだろうか。

あるいは、例えば役所で書類に住所とか書いているときに
非常に簡単な漢字を思い出せなくなることがある。
それも若い頃からあった。
それは何故だろう?

momentary lapse of reasonというのは、直訳すると
「一時的な理由の欠如」ということだろう。
これに対応する日本語はあるだろうか?
reasonを「理性」と訳している人もいるけれど、理性と
言うと何か意味をはぐらかしているように思える。
たぶん、何かをした時にその理由がわからないということ
だと思う。
このタイトル、邦題は「鬱」だけれど、それもちょっと
違うように思う。
何かをした時になぜそれをしたのかわからない、
という症状のことだと思う。
彼ら(ピンク)にとってそれに相当する状況は2回あった。
いや、3回かもしれない。
1回目はシドを追い出したこと。(原因はロジャー?)
2回目は観客につばを吐いたこと。(原因はロジャー)
3回目はロジャーがバンドを抜けたこと。(原因はロジャーか?)
3回目の原因はわからない。
ひょっとするとロジャー以外の3人がロジャーを拒否した
のかもしれない。
問題は1回目だ。
色々読んでみたけれど、なぜロジャーがその日皆が乗った
車でシドを迎えに行かなかったのかわからない。
書かれていることを読むとロジャーが「行かなくていい」
と言ったように書かれている。
でも他の3人はどうだったのかわからない。

だけど私にはその時のシドの気持ちがよくわかる。
どんなにうろたえて、どんなに不安で、
どんなに悲しかったか。
「お前はいらない」と言われた気持ちがだ。

それを「momentary lapse of reason」と言われたって
受け入れるわけにはいかない。



4/03/2024

軍艦

 私は好きではない。
ところが私が住んでいるあたりからは横須賀湾に停泊している
軍艦が良く見える。
だから山の上とかで写真を撮ってる人の大半はこの軍艦を
撮るのが目的だ。私は全然その方には興味が無いのだけど
やっぱり山の上で山桜の写真をズームレンズで撮っていると
当然軍艦を撮っているのだろう、と思われる。
先日など全然知らない人が突然「先週はすごかったですよ、
田浦の方の入り江から****が入ってきて・・・
どうしたこうした・・・」と話し始めた。
「ああ、誤解してるな」とは思うけれどかわいそうなので
「そうですか!」とか返事しといた。
なんでこんなに軍艦が好きな人が多いんだろう。

私はその横須賀の海の景色のライブ配信をしているのだけど、
当然そこには軍艦が数隻写り込んでしまう。
まあ気にしないでやっているのだけど。

昨日だかその前だかに横須賀の海に停泊している航空母艦の
上をドローンで飛んで撮影している映像が問題になっていた。
上を飛んで甲板上を写していた。
私の所のカメラも最大にズームアップするとかなり細かな
部分も写してしまう。人の顔が判別できるくらいまではできる。
それはかなり問題なんじゃないだろうか?
それどころか軍艦の配置状況や動きがリアルタイムでわかる。
それはかなり問題だと思うのだけど。。。
そのドローンの問題がどうなるかによっては配信を止めた
方がいいかもしれない。無駄に何か言われるのはやだ。

今はマンションの大規模修繕で景色が見えない。
7月にはそれが終わる。
それまでに何か問題になったら海はやめて山でも
写そうかと思う。

昔だったらもっとガンガン軍艦を写して問題になるのを
楽しみにしていたと思うけれど、今はそんな元気は無い。



4/02/2024

無知

 というか知らないこと、知らされないことは怖いと思う。
今朝も栃木県への移住の話題をやっていた。
やっぱり単身で60万円の補助、夫婦だったら100万円とか
いう話をしていた。確かにそうなんだけど、
その時に年齢のことは言っていなかったように思う。
また自分から申請しないと自治体からは何も言ってこないこと、
それにたぶんその番組を見ていたほとんどは
高齢者だと思う。朝の時間だから、
高齢者がそれを見て、私の様に、「おう、安い物件がある」
と思って、「補助金もでるのか」とか思うかもしれない。
それで買ってしまったが最後、その人が死んだ後が大変だ。
自治体は不動産を買い上げてくれないし、登記を抹消しても
くれない、自治体に譲ることもできない。
価値の無い物件は買取業者もゼロ円でも買い取ってくれない。
つまり未来永劫にわたり税金を払わないといけない。
運よく「相続放棄」の裁判で通ったならいいけれど、
そのつもりが「財産放棄」の手続きだったら、
目もあてられない。
越後湯沢なんかも危ないなあ。

とかなんとか、怖いことを平気で注釈無しに放送していた。

いや、たぶん私も誤解しているところがあるかもしれないし、
知らないこともたくさんあるかもしれない。
「安い」とか「簡単に」とかが危ないな

4/01/2024

家は買えない

 私は父から土地を相続した。
かなりの広さがあるけれど、まわりは農業をしている人が多い
ような土地だった。
そこに大きな総合病院が建っていた。
その病院の駐車場として病院に土地を貸していた。
だから毎年いくらかのお金が入ってきていた。
私が離婚した際にどうしてもまとまったお金が必要になり、
その土地を売ることにした。
親戚は皆猛反対だった。
それを契機に十数年家族親戚とは疎遠になってしまった。

土地を売る際に不動産屋と周りの土地の所有者の立ち合いで
土地の境界を確認するわけだけど、
みな父の知りあいなわけで、その人達が私を見る目がとても鋭く
直視できなかった。
ようするに「何で次男のお前が土地を売るんだ?!」ということだ。
それでもなんとか不動産屋の陰に隠れて確認を済ませて
売買契約をした。
住宅地としては使えない土地だったので数千万にしかならなかった。

そのお金も結局ほとんど向こうの家族に送っていた。
私の方で使ったのはマンションの購入時の頭金400万と
仕事で必要だった500万くらいだ。
もちろん細かな買い物はしたけれど、
お金は15年もたなかった。
そんなわけで「それみたことか」という声は聞こえてきた
訳だけれど、そのお金でなんとかその時代を過ごすことができた。

売った相手は埼玉で駐車場の管理会社をしている人だった。
だからそのうちの総合病院の駐車場の管理をして病院からも収入を得る
ことが目的だったと思う。
ところがしばらくしてからその総合病院が移転することになったらしい。
そうするとその土地は全く意味が無くなってしまった。
宅地に使える土地であれば住宅やマンションを建てることも
できたと思うけれど、それができないということは、
今一体そこはどうしているのだろう?

夢の移住計画だけれど、家を買うのはやはり無理なようだ。
いや買うとしたら人気のある土地で利便性が高い将来性のある家だ。
私が望んでいる辺鄙な場所の別荘みたいなものは、
買うことは非常にたやすい。
下手すると向こうからお土産持って売りに来るかもしれない。
一度買ったら最後、私が死んだ時にその土地は残された物が
「永遠に!」その管理をしなくてはいけない。
つまり固定資産税と管理費を永遠に払い続けなくてはいけない。

どうもいろいろ調べると価値の無い土地を手放す(放棄する)
方法は事実上無いようだ。
一つだけ考えられるのは私が死んだら「3カ月以内に」
全ての相続を放棄することのようだ。
まあ、私の場合他に相続する価値のある物は無いから
全てを相続放棄してもOKだと思う。
だけど、それにしても3カ月以内に処理できなければいけない。

つまりそういう家を買うと非常に面倒なことになるらしい。
そうなるとうかつに夢の別荘住まいと言うの現実的じゃない。
バブル期に別荘とか買った人はその後どうしているんだろう?
と思ったらその土地を受け継いだ人が登記していないようだ。
それで所有者不明の家がたくさんできてしまい、
壊そうにも壊せないということになっているらしい。
登記はしていなくても相続税は払い続けなくてはいけないようだ。
だけどほんとは登記しなくてはいけない。

ということで家を買うのは面倒なことになりそうだから
止めよう

3/31/2024

父の誕生日

 私の父の誕生日は4月1日だ。
父が子供の頃はたぶんエイプリルフールというのは無かったと
思うけれど、一説には大正時代には既にあったというから、
ひょっとすると父はそれで馬鹿にされたかもしれない。
しかし学校はなぜ4月1日始まりではなく7日とか8日なのだろう?
年度というのは明治後期から4月から新年度になったらしい。
つまり4月1日から新年度に制定されたらしい。
なのになぜ7日とか8日なのだろう?
私は4月6日生まれなので学校で誰かに「誕生日おめでとう!」
と言われたことが無い。
ずっと後になって幼稚園や学校の誕生会はまとめてやることに
なったらしいけれど、私の時代にはそんなのは無い。
だから父もたぶんそうだったろう。
学校で誰かに誕生祝を言われたことは無いだろう。

最近フェイスブックに席を置いているので、人々の誕生日は
毎日のように伝えられる。
非常に面倒だ。
他人の誕生日が今日だと言われるのはまだいい。
無視してればいいのだから、しかし自分の誕生日であることが
大勢の人に伝えられるので、その内の何割かから
「誕生日おめでとうございます!」とか来るわけだ。
それが非常に憂鬱だ。
返事をしないといけない。
別にもう誕生日なんてめでたくもなんともない。
なんならほっといてほしい。
「どうもありがとうございます!これからもよろしくお願いいたします!」
とか書かなくてはいけない。
返事しないとまた何を思われるかわからないし。
いや、何を言われようとかまわないんだけど、
できることなら波風立てずに済ませたい。
なにかいい方法はないだろうか?

3/30/2024

夢の移住計画(続き)

 家をいろいろ調べていると面白い。
北海道は低価格の一軒家がけっこうあるけど、
静岡や伊豆も多い。
特に伊豆は山の上だけれどログハウス風のものや
小型の一軒家なんかもある。
いずれも自分で少し手入れしないといけないみたいだ。
もちろん高いお金出すなら綺麗な家はある。
だけどそれでは面白くない。
自治体によっては補助金が出るところもあるようだ。
ただし40歳までとか地元で職がある人とか
制約がいろいろある。
だから若いころにやっていればトータル100万近く
補助金がもらえたようだ。
そういうのはどこの自治体も自治体からは言わないから
こちらから申請しないといけないようだ。

歳をとるとそういうのも入らないわけで、
また賃貸だと孤独死とかされると困るから
貸してくれない。
それにもしも家を買ってしまう場合だけど、
登記簿とか念入りに調べないといけないようだ。
家と土地がほんとに手に入るのか確認しないといけない。
・・・ようだ。
それと買ってしまった場合だけど、もういらないから
売ろうと思ってもすぐに売れるものじゃない。
なぜなら格安の家を買っているわけだから。
そして売れなかった場合その固定資産税などは
永久に払わないといけない。
それは困ったものだ。
0円でも売れないかもしれない。
そうなったらどうしたらいいんだろう?
私が死んだ場合は?
登記を抹消してくれるの?
されなかったら誰かがそれを負の遺産として
引き受けなくちゃいけないのかな?

とかなんとか調べないといけないな

3/29/2024

同い年

 の友達はまだいた。
小沼だ。
化学科で5年間一緒だった。
ああ、小沼に会いたいなあ。
話すことは尽きないだろうな。
小沼はたぶん元々は私とそれほど変わらない学力
だったと思う。
しかし彼が私と違うのは勉強が好きだったことだ。
だから最終的には私は彼の学力の半分にも至らなかったと思う。
彼は学校を出て大手電機会社の関連企業に入り、
ドイツでの海外研修に行き会社に戻らずそのままドイツに
住んで、マックス・プランクの研究所に入った。
あれは面白かったなあ、当時はまだインターネットのセキュリティー
とか無頓着だった。
私が研究所の研究部署の人名リストを片っ端から調べて
彼の名前を見つけた。
しかしメールアドレスが書かれていなかったので、
その関連の人のメールアドレスが書かれている人にメール
を送った。
これこれこういう人がそちらにいるはずだから
このメールアドレスと私の名前を伝えて欲しいと書いた。
数日後に小沼からメールが来た。
漢字が送れないのでローマ字で来た。
そんなメールを何度かやりとりをして、そのままだ。
もうどこに居るかもわからない。

今調べたらマックス・プランクの個体物理のグループの
former memberにその名前があった。
その記述は2024年だけど彼がいつまでいたのかはわからない。

生きていて欲しいなあ。
そしてまた話がしたい。



音楽は量子か?

 昨日は妻のヘアーセットに付き合って、というか運転手のために
ショッピングモールへ行った。
待ってる間暇なので本屋に行った。
最近はあまり足を運ばなくなったので、本屋の本は
知らないものばかりだ。
棚を回っていると「量子力学の奥深くに隠されたもの」
とかいう本があったので立ち読みしていた。
面白そうなので買おうかと思ったけれど3000円もするので
やめた。だいたい量子関連の本にはろくなものが無い。
やたら難しい数式が並んでいるか、これは何かの新興宗教か?
と思うもののどちらかだ。
そのやたら難しい数式が並んでいる方だけれど、見ているうちに
そういえば学校で「量子化学」をとったことを思い出した。
思い出したけれど、良く単位が取れたなと思う。
確か珍しく結構いい成績だったように思う。
ああ、星先生と言ったな教授が。
それで本の数式を見ても「全く!!」わからない。
思い出そうとするけれど濃霧の向こうの遥か彼方だ。
単位を取ったのは何かの間違いだと思う。

それで式を見ているうちに「ああ、音楽も量子かなあ?」
と思った。
まあ波だから量子の要素を持っていることは確かだ。
ポンとかピッとか音を出した時のその波は一つの固まり
と見ることもできるだろう。
その固まりは「波」か「固まり」か?
と問えば「波だ」としか言えないのが悔しい。
まあ、そこを敢えて「固まり」でもあると言ってしまおう。
だって聞いてる方からすれば「ポン」って固まりで聴こえるから。
そうすると「波」でもあり「固まり」でもある。
ということになる。
その固まりの位置は波の関数の確率でしか示せない。
(わけじゃない)
「音楽」と言うからには一つの音波ではなく多くの楽器の
多彩な音から構成される。
そうなると量子だとか言っていられないけれど、
全部をフーリエ級数に変換すれば1個ずつの波になるから
その1個ずつは量子だとか言っても良くないですか?

今日も雨だ。
外はすこしモワっとする。
外気温が高さそうだ。












3/27/2024

金田一温泉と神居古潭

 さっき息子から電話があった。
引っ越しを予定しているのだけど不安になっているようだ。
この1年住んでいるマンションの居心地が悪くて鬱になっていた。
それは防音が弱くてわずかな物音にも臆病に
なってしまっているから。
それで彼は別の家(一軒家)を探していた。
見つけた家は2階建てで比較的新しくモダンな感じの家だ。
そこが環境もいいし両隣とも少し離れているので
音は気にしなくて済みそうな家だ。横浜の郊外なので
窓からの景色もいい。
息子はそこにしようと思っているのだが、今後のこと
で気が弱くなっていた。
だから、「とにかく前向きで悪いことは考えずに
やってみれば」と、いつものように無責任なことを言った。
だけど私より10倍くらい神経の細い彼には
とにかくアグレッシブに生きることが大事だと思う。
だから「何が起きてもお父さんがバックアップするから
そこの家に決めたらいい」と言った。
彼は親から金銭的な援助を受けるのが嫌いだ。
だけど万一の助けがあるとわかってれば
彼も前向きになるだろう。
彼は少しは元気になったようだ。

その私が自分勝手な能天気な人生を送っていた頃、
北海道と東京を車で毎年2回往復していた。
その頃は高速道路が無かったのでひたすら4号線を走った。
その中で印象的な道路がいくつかあった。
その一つが金田一温泉のカーブだ。 写真は1970年ごろ
下から登ってきて急に大きな左カーブになる。
冬場は気を付けないと最後の立ち上がりのところで
滑りそうになる。
いつも東京から走ってくると「ああ、やっとここまで来た」
と思った。
記憶では冬の印象が強い。

もう一つ北海道内で同じようなカーブがあった。
(というか道内はそんなところばかりだったけれど)
それは神居古潭だ。   写真は1970年頃
左下、札幌の方から上がってきて神居古潭で大きくUの字型に
カーブしていた。
ここも脇に川が流れていて独特の風景だった。
旭川に行くには必ずこのカーブを通った。
今はこのUの字のところはまっすぐなトンネルになっている。
金田一温泉の方も、今は川から離れてまっすぐな道路になっている。

今の方が走りやすいのだろうけれど、その土地の趣がなくなって
しまったのが残念だ。

3/26/2024

九十九里廃墟ロード

 Youtubeを見ていたら九十九里ビーチラインは廃墟ロードだと
いう動画があった。
そういえば昔、25年くらい前にそのあたりの友達の家を訪ねた
ことがあったのを思い出した。
その家がどこだったのか全く思い出せないけれど、
九十九里ビーチラインという名前には憶えがある。
その道沿いでなければまずわからなかったと思う。
ナビも無い時代だし。電話で住所を聞いてもどこだかは
まずわからなかったはずだ。

グーグルストリートで見てみたけど、全くわからない。
たぶんかなり変わってしまっているのだろう。
でもその家の雰囲気はよく覚えている。
当時で既に古い昭和の家で平屋だった。
庭があってその道路に出入口があった。
道路からその庭に車を乗り入れて停めた。
庭の脇にその家があり、昔の横開きの玄関ドアーがあった。
部屋は確か2間で、手前は洋間(床)にしていたように思う。
奥はちょっと薄暗くてエスニックなお香がたかれていた。

彼女とは沖縄で会ったきりだった。
沖縄で医者の旦那さんと暮らしていて、
ずっと手紙をやり取りしていた。
一度会いに行った。

宜野湾の丘の上の鉄筋コンクリート造りの白い家だった。
眺めが良かった。
それがどこだったのか今はグーグルで調べてもわからない。
私は海の近くのホテルに泊まっていた。
海まで歩いて行くとサンゴの海岸でところどころ
水溜まりがあり、色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。
すごく綺麗だった。
彼女は車(ベンツのコンパーチブル)で沖縄を一周して
案内してくれた。
途中車を停めたガジュマルのある丘を覚えている。
そこから遠く海岸がどこまでも伸びているのが見えた。

その彼女はその後しばらくして離婚したと言ってきた。
なんでも慰謝料で1000万円もらったと言っていた。
それからしばらく連絡が途絶えて、次に手紙が来たのは
ハワイからだった。
海に近いコンドミニアムの彼氏の所に同居してるとか。
どういう関係なのか知らない。

それからまたしばらくして、今度は日本に帰ってきて
九十九里にサーファーの彼と一緒にいると言ってきた。
遊びに来てよというので行ったのが先の家だ。
どういう経緯で九十九里なのか知らないけれど、
海の近くでサーファーとヒッピーライクな生活をしていたらしい。

それからまたしばらくして連絡が来て、
これから刑務所の彼氏に差し入れに行くと言っていた。
確かではないけれど、たぶんグラスがらみだと思う。
それが最後の連絡だった。
しかし彼女から電話の着信があったのに気が付かず
出れなかったことが後でわかった。
それで掛けなおしてみたけれど、出なかった。
ずっと後になってもう一度電話をかけたけれど、
ぜんぜん関係ない人が出た。電話の持ち主が変わっていたようだ。

それが九十九里ビーチラインだ。



3/24/2024

Touch me in the morning

 ハーレーを飛ばして根室の岬から飛び出そう!
と思うので、5月に北海道に行くことにした。
全部予約した。
ハーレーは乗れないのでオープンカーを借りることにした。
とは言ってもいつも乗ってる車の屋根が無いだけだ。
長さもちょっと短いけど、色と仕様は同じだ。
なんでわざわざ同じ車種か?というと
単にこの色が好きで、たまたまこの色の車があったので
それを借りることにした。
これにもみじマークを付けて
根室の岬から飛び出そう!

3/23/2024

母と歩いたヒロシマの街

 ネガフィルムのスキャナーが壊れる前にネガをスキャンしておこうと思う。
母と行った広島の写真をスキャンした。
もうスキャナーが少しだめになっているのかなあ?
色むらがひどい。
フィルムがダメになっているのか?
いつか新しいスキャナーを買ってやってみようと思う。

母は広島にいたことをずっとおしえてくれなかった。
知ったのは確か私がもう30歳も半ばを過ぎてからだったと思う。
母はあの日から一度も広島には行っていないと言う。
それで「一緒に行ってみようよ」と言った。
確か1985年頃だったと思う。

ヒロシマまでは飛行機だったけれど、小さめのジェット機で
当時の広島空港は海側にあって、飛行機はかなり急なループを
描きながら高度下げて降りる。
母はそれをとても怖がっていた。


空港を降りると、母は「この近くで働いていたのよ」と言う。
それが東洋工業だったか三菱だったか私は忘れてしまった。
とにかくそこで働いていて被爆した。
爆心から2~3キロだったと思う。
母は全身に窓ガラスの破片を浴びて、時々体から出てくるのを
私に見せてくれた。
戦後もおそらく亡くなるまで体にガラスの破片があったと思う。
母の住んでいた家は観音町だったから、飛行場と家の間の工場で
働いていたのだと思う。

そんなわけで飛行機を降りてから空港から徒歩で歩き始めた。
途中母は独り言のように「ここに**があったのよ」と言っていた。
後でわかったことだけれど、太田川は戦争中と今ではその流れが
全く変わってしまっていた。
母は「変ねえ、この変に・・・・」と言いながら歩いていた。



川は昔は山手川、川添川、福島川、天満川、太田川とあったのだけれど、
それが太田川放水路と天満川と旧太田川の3つに分かれてしまった。
ところが母の住んでいた福島川の少し出っ張ったところは、
なんとそのまま残っていた。

「この土手の左側には昔は朝鮮の人達が住んでいたの」
と言いながら、「そうそうこの場所だった」と思い出していた。




写真はたぶん場所が前後しているけれど、
私は母の後をずっと歩いていた。


母は時々目をつぶって、「この右手に確か・・・があって」
と記憶をたどっていた。
私はずっと母の記憶の街を見ようと思っていた。


「このあたりはぜんぜん変わってしまっている・・」
後で古地図を買ってわかったことだけれど、
この時はまだ知らなかった。

一緒に歩いていて、母は今の景色を見ているのではないことはわかった。
母は終始記憶の中の街を見ながらあるいていた。

横河駅まで歩いた。
駅の前で「ここには大勢の火傷をした人がいたのよ」と言った。
それ以上詳しくは話さなかったけれど、
それで充分だった。
ぽつりぽつりと話す独り言を聴きながら、
私も母の住んでいた街があの時どんなだったか少しわかった気がした。

ああ、この写真は横川駅前だと思う。
それから祖父(母の父親)がよく行っていた緑井の
試験農場に行ってみましょう、ということになった。
横川から可部線に乗って緑井まで行った。
緑井駅は平屋の小さな駅だった。
(今グーグルで見たら今の駅も平屋で雰囲気はそのままのうようだった)

緑井の駅から母の記憶をたどって、試験農場(のあった所)まで歩いた。
場所は確かにそこだったけれど、その後別のものになっていた。
祖父は農業の指導員みたいな仕事をしていたようだ。
廣島県庁に務めていた。

母の妹はあの日、この可部線に乗って学校に行っていたので
無事だったそうだ。
母の一番下の妹と祖母とが家に居て被爆した。
その話をつい先日聞いた。
今生きているはその人だけだ。
その人は今でも家族や子供たちに自分が広島にいて
被爆したことを言っていないそうだ。
「それ言っておいた方がいいですよ」と、電話で私は気軽に言ったけれど、
あの当時はとんでもないことだったと思う。
それをそんな風に偉そうに言ったことを後悔している。
とにかく、祖母と妹さんは家に居たのだけど、
奇跡的に何か大きなものの陰に居て、二人とも無事だった。
まだ小さい頃だったのでそれが何だったか覚えていないそうだ。


試験農場の場所は水道局の浄水場になっていた。
母は時々父に連れられてその試験農場に行ったようだ。
いつごろに浄水場になったかわからないけれど、
母はちょっと寂しそうだった。

それから市内に入って記念館に行った。
母はドームはあまり見たくないようだった。
母は自分のカメラを持っていたけれど、確か写真は撮っていなかった
ように思う。

こうやって写真を見ると、母は大きなカバンをずっと持っているけれど、
なぜ私はそれを持ってやらなかったんだろう?
たぶん私も飛行場から自分のカバンを持って歩いていた
とは思うけれど、
今にして思えば無理をしてでもカバンを持ってあげればよかった。

この3本ならんだ中州の一番左の所に住んでいたのだけれど、
この時母は今はこれとは全然変わっていることに気が付かなかった。

母はあの日の前日、今は平和公園になっている材木町にあった
友達の家に行っていた。
その日は泊まって行くように言われたのだけれど、
仕事があったので家に帰ったそうだ。
そのまま泊まっていたら今の私は居なかったかもしれない。
「ここが友達の家」「名前もあるわ」と言った。
でも私はその名前を忘れてしまった。
この写真の真ん中あたりだと思う。
その友達も家族も全員亡くなったそうだ。
母は展示物はあまり見ていないようだった。
横目で見ている感じだった。
ただ上の写真の所(石板に彫られている)ではずっと見入っていた。


次の日は宮島に行った。
宇品からフェリーだった。
結構長かったように思う。
「あの時は宇品から島の方に避難した人もたくさん居いたの」
母が言った。





宮島ではあまり話をしなかった。
私は宮島は初めてだったけれど、母は何度も家族で来ていたのだろう。

次の日は帰る日だけれど、その前にもう一度家のあたりを見たいと言うので
タクシーで回ってもらうことにした。
寡黙な運転手だった。
観音町を見ている時に川向うが見えた。
そこで母が「己斐の方の三瀧寺に行ってみたい」と言った。
運転手に行ってもらうよう言った。

観音町から己斐(こい)へは橋を渡る。
その途中だったか爆弾の話をしていた時、運転手が
「被爆されたんですか?」と突然話してきた。
「私も被爆したんです。小学校の時に」と言う。
それからその時のことを話始めた。
校庭にいたけれど、何かの陰になって助かったと言っていた。
それから三瀧寺に着いて運転手も一緒に歩いた。


母が「ここには避難してきた人が大勢いて・・・」と話した。
運転手さんが当時いたのはそこからは離れた場所だったようだった。
そういえば母は何故その三瀧寺に行きたかったんだろう?
聴き忘れた。
恐らく、家が川向うだったので祖父が亡くなった時この寺で
荼毘に付したのではないだろうか。
それは8月7日か8日くらいだっただろうか。
いやもっと後かもしれない。

祖父はその日、朝に自転車で廣島県庁まで出勤した。
恐らく着く前に県庁(旧)の近くで被爆したのだと思う。
ということは爆心に非常に近い場所だ。
祖父はそこから壊れた自転車にもたれて
動けるのが不思議なくらいの火傷を負っていたのに、
家まで帰って家族全員が無事なのを知ってから
亡くなったそうだ。

また大学へ行っていた母の弟は爆弾のことを知り
急いで戻って来たそうだけれど、確か東京の大学だった。
たぶん3、4日はかかっただろう。


その後、祖母と私の母(長女)と二人の妹と大学生の長男で
どうやってきたのか私はしらない。
とにかく茨城の故郷まで戻ったのだろう。
そういう話も聞かなかったのが悔やまれる。

母は私と二人で行った旅行の2年後に
妹さんと二人でまた広島を回ったそうだ。
その時は私と母が広島市内の古本屋で手に入れた
「被爆前の廣島」という大きな地図を持って行ったそうだ。