2/27/2019

「俺たちの・・」

再放送か再々放送か、再々再放送かしらないけど、
昔のテレビドラマをやっている。
札幌にいた時はいつも見ていた。
内容は全く覚えていなかったけれど、
もう一度見て、「ああこんな感じだった」ということを思い出した。
それはいいのだけど、
ある一瞬、その昔のアパートの一室にいてそのテレビを見ている錯覚が起きた。
あまりにはっきりした錯覚だった。
あれ?と思った。
ちょっと怖かった。
ポット式ストーブがゴーという音を立てて燃えていた。
ベッドポストに頭を置いてテレビを見ていた。
一瞬だったけれど、確かにあの瞬間は札幌のアパートにいた。
あれからいったいどれくらい遠くまで来たのだろう。
カースケのようには生きた時もあった。
オメダのように生きていた時もあった。
でもグズ六のようには生きられなかった。
だれが正解だったかわからないけど。
だけど当時からするとああいうふうにみんな生きていたんだなと思う。


2/23/2019

反省会

Sメールには大量のスパムエールやいたずらメールが来る。
だから普段は確認すらしない。
だけど時々ほんとうに知人から来ていたりする。
知らずに何日も経って、あやまるしかないのだけど。
返事を書きたくても書けない相手もいるわけで。
まあ、わかってくれているとは思うのだけど。

昔から(子供の頃から)の自分のことを思い出してみると、
定期的に自分の意志でなく他人にひどいことを言ったり、ひどい行動をとって
いたりする。記憶にあるだけでも4回はそういうことがあった。
そのつど友人を無くしている。
今思うとどうしてそういうことをしたのかわからない。
まったく別の人間になっていたような気がする。
・・・それも言い訳のように思えないこともないけれど、
正常な意識じゃなかったことは確かだ。

秋葉原で仕事をしていた頃がひどかった。
それを思い出せるということが辛い。
でもひどかった。

一方であれが自分の本性なんじゃないか?という気もする。
どうなのかわからない。

2/22/2019

忙しい

悪い予感と良い期待のどちらかが起きる場合、
圧倒的に悪い予感の方が起きる可能性が高い。
急ぎの仕事とそれほど急がない仕事を同時にやる場合、
トラブルは必ず急ぎの仕事の方に起きる。
マーフィーがどうしたこうした、、

すごく忙しいんだけど、どうしたもんだろう?
「すこし休めば」とか気安く言う人がいるけれど、
休めるくらいなら休まない。

2/20/2019

猫は笑わない

怒るときははっきりと怒る。
でもやつは笑わない。
一番いい感じの時はすりすりしてくるくらい。
名前を呼ぶとこっちを見る。
名前はわかるみたいだ。
布団に入ってから夜中に真っ暗な中で名前を呼んで「おいで」
と言うと、しばらくして布団に潜り込んでくる。
左腕の中に入ってきて、肩のあたりを枕にして寝る。
そうなんだやつは必ず枕をして寝る。
枕が無い時は何か盛り上がったところに頭を置く。
膝だったり腕だったり、
寝る時は脇の下あたりだ。
問題はお腹がすいた時。
まるで別人のように狂暴になる。
ご飯を出すまで足にかみついてくる。
それがとても痛い。
やつは本気で噛みついてる。
好き嫌いするなと言っているのに、
毎回同じものは食べない。
匂いをかいだだけでプイと行ってしまう。
だからと言って、他のものを出せとは言わない。

夜中、気が付くと隣でいびきをかいている。
また次に気が付くといなくなっている。
自分のベッドに戻って寝ている。

ウェスタン・ギター フォーク・ギター アコースティック・ギター

この「フォーク・ギター」という素晴らしい名前(lol w)があまり使われなくなったのは寂しい。フォークギターの前はウェスタン・ギターと言っていた。
日本でフォークソングが流行った頃は一般名として「ウェスタンギター」だったように思う。楽器屋でバイトしてた時も総称としてはウェスタンギターだったように思う。
いつからフォークギターになったか知らないけれど、western guitarという呼び名は、西洋音楽をwestern musicと言うのと同じく正しい名称のように思う。
これはカントリー&ウェスタンから来ているわけではなく、正しく(lol)西洋のギターという呼び方をしているから。
そういえばピックガードが付いていないギターをウェスタンギターとは呼ばないような風潮もあったように思う。
それがいつからかフォーク・ギターになって、最近ではアコースティック・ギターとかアコギとか言っている。
だけどこのアコースティックギターという呼び方はあまりに広すぎる。
そのフォークギター(金属弦)もナイロン弦のフォークギターもクラッシックギターもスパニッシュギターもベースギターだって「アコギ」だ。
だいたいピックアップを付けてライン録りしてるのは「アコースティック」と言えるのだろうか?という疑問もある。
その前にアコースティックの本来の意味は「音」とか「音響」とかいう意味だろう。
そうなると音の出るギターは全てアコースティック・ギターだ。
電気を通さないギターと言いたいなら一時流行った「アンプラグド・ギター」とか言った方がいいんじゃないか?

どうでもいいけど。
お昼食べよう。


2/18/2019

同期会

高校の同期会を今年行うとかいう記述が高校の同窓会ホームページにあったので、
問い合わせのメールを送ってみた。
前にも一度会報の件でメールした時は返事が無かったので、今回も返事は来ない
だろうと思っていたら、メールが来た。
我々の同期の幹事をやっている人に連絡をしたので、その人から連絡が行きます。
ということだった。
しばらくしたらメールが来た。
フジシロさんという人だった。
確か彼は・・イメージだけ記憶にある。
直接話した記憶は無い。
でも向こうは私のことを覚えていてくれた。
不思議だ。
今年確かに開催する予定です、と。
たぶん秋になるので、決まったらまた連絡します、ということだった。

高校の時の人とメールをやりとりしたことはほとんど無い。
ほとんど。
彼は私が三鷹からバスで通っていることを覚えていた。
なぜだ?
三鷹の家のあたりから通っていた人は4,5人いた。
考えてみると、そんなにいたんだ、と不思議な感じがする。

テレビの「じゅん散歩」をやっている高田純次は確か都立府中高校だ。
都立は府中と三鷹と神代がセットになっていなかった?
微妙に三鷹の方が上だったような気がする。
大学で一緒だった小沼は三鷹高校だった。
彼の方が頭良さそうだった気がする。


2/17/2019

The Floating House Band

JohnさんのFBに若い頃の写真があった。
それを見たらどこかで前にみたような気がした。
よく考えたら自分の昔の写真と似てないか?と思った。
古い写真を探したらそれがあった。
やっぱり似ていた。

Johnさんとは境遇がよく似ていて前から大笑いだったのだけど、
これも結構おかしい。
Johnさんとはもう11年くらいの付き合いになる。
と言ってもメールをやりとりしているだけだけれど。
一番最初は私の別のアカウントで出していたThe Floating House Bandの曲にコメントを
くれたことからだった。彼は一時バンドと一緒に活動していた時期があって、その時に
彼女をバンドのメンバーにとられた。とかいう話が始まりだった。
最近はメールの数も減ったけれど、以前はほぼ毎日やりとりしていた。
彼がスマホになってから数が減ってきた。
それでもなんだかんだ言ってくる。

Johnさんにこの写真を送ってやった。
Funny! We are brothers! だと。
彼はただ一人の同い年の友人だ。

2/14/2019

夢にコマツ

昨日見た夢に久しぶりにコマツが出てきた。
僕ら3人はどこかのレストランで食事をする。
狭いテーブルに座っていると、向こうで誰かがギターを弾いている。
俺たちもやろう、と言って楽器を出す。
僕はバンジョーを弾いている。
…弾いているのかどうかわからないけれど・・・
それからどこかに移動することになる。
車に楽器を積んでいると、僕のバンジョーのケースになぜかギターが
入っていて、ギターケースは空だ。
僕は「ちょっとギターをとってくる」と言ってギターを探しに行く。
ギターはみつからない。
次のシーンになり、コマツは本がたくさんおいてある部屋にいる。
僕はその本の一つを手にとると、古い大きな本で分厚いページの
それぞれにきれいな絵が描かれている。
「ああ、この本ほしいな」と思う。
黒い紙に描かれた絵の色がとてもきれい。
僕は本を手にとって見ている。
コマツが隣に座っている。
とても穏やかな気持ちになる。
「ああ、こんなことが前にあったなあ・・」と思う。

猫が腕の中でもがいている。
うるさい。
起きてご飯を入れてやる。
一口二口食べて、もう食べない。
頭にきて、また布団をかぶって寝ることにする。
さっきの夢はなんか良かったなあ、と思う。


たまプラーザ

KSPからたまプラーザに移った時は社員が9人くらいいたように思う。
ソフトをやってる人と営業の人と私はハードをやっていた。


1階はレンタルビデオのお店だった。
最初は2階の二部屋を借りて、片方をパソコン教室にするはずだった。
でもパソコン教室は中断になった。
それでその部屋は子供向けの英会話教室になった。
毎日こども達の英語の歌が聞こえてきた。
上のセミナーの看板は無かった。
広さは少しだけ狭くなったけれど、一部屋の家賃はKSPの半分以下だったように思う。

となりにマルディグラというバーがあった。
昼はハンバーガーみたいなのをやっていたと思う。
一度友人達と入ったことがあった。
下の中華料理屋もよく行った。
斜め向かいのそば屋とか。
食べ物屋のことはいろいろ思い出す。

たまプラはいろいろなことがあったけれど、目黒以前のことと同じく
あまり思い出したくない。

やっとここまで書く気になったけれど、
秋葉原時代のことはちょっと思い出したくない。

KSP

目黒から川崎のKSPに移る時に神津さんにお願いして2週間休みをもらい
アメリカを旅行してきた。あれはとても楽しい旅行だった。
一緒に行ったモチはどうだったか知らないけど。
その話は前にどこかに書いた。


KSPは確かテレビで見て「こういう場所があるみたいです」と神津さんに言ったら
そこにしようということになった。野池さんが手配してくれた。
部屋は広い一間だった。確か一か月の家賃が100万円ちょうどだった。
KSPの時はソフトをやっていたS君を入れて7人くらいだったと思う。
地下に駐車場があったので車で通っていた。
たぶん人生で一番贅沢な環境で仕事をしていた時だと思う。
確か食堂もあった。
ホテルもあった。
要するにベンチャーの企業がたくさん入っている研究所みたいなところだった。

考えてみると冷たい感じの場所だった。
部屋の扉も鉄扉で倉庫のようだった。
眺めはあまり良くなかったように思うけれど、一度激しい雷の日があった。
ベランダの外に出て雷を眺めていたのを覚えている。

そこに何年かいた。3年かな?
そのあとたまプラーザに移った。

目黒

全部の会社で失敗して、神津さんに電話したらとりあえず手伝ってということだったので、最初は信濃町の神津さんの会社に行ってソフトを作ったりしていた。
その後で会社を作ろうということになって、目黒に小さな事務所を借りた。
今見るとトラットリアとかいう看板が出ている。その名前は、そうだったろうか?という感じがするけれど、ここだったと思う。
この一番上の部屋で天井が屋根の形に斜めになっているロフトみたいな部屋だった。
でも確か2部屋あってその一部屋で何か作っていた。
この階段を上がって行くのだがよくカラスが途中にいた。
神津さんは一度カラスに威嚇されたと言っていた。
ここにどのくらいいただろう?
あまり覚えていないけれど、のちにオウム事件の会計士さんが誘拐されたところはそれほど遠くはなかった。
駅の近くの定食屋に神津さんとよく一緒に行った。
神津さんは肉野菜炒めが好きでよく食べていた。
とにかく神津さんがいなかったらどうしてたろう?という感じだ。
シャープ関連の会社とか魚群探知機を作っている会社からお誘いはあったのだけど、そんな会社で私が務まるはずもない(と今は思える)。
神津さんは命の恩人だ。

ここにいたのはたぶん1年くらいだった。
そのあと川崎のKSPに移った。

2/13/2019

本郷三丁目

最初に作った会社が本郷三丁目だった。
社長ではなかった。
ビデオ回路の設計をしていた。

その会社が本郷三丁目だったのだけど、そのどこだったかがわからない。
当時のビルはもう無い。
たぶんこの辺だったと思う所もなにか違う。
Googleでずいぶん探したけれどわからなかった。
都内はやはり移り変わりが激しいみたいだ。

そのころお昼を食べに行った「とと屋」という店の場所もわからない。
会社から後楽園の方向に少し行ったところだった。
でもわからない。
とと屋にはほぼ毎日行っていたので他の会社の人と話したりした。
その人がその後どうしたか知らないけれど、一度電話で話したようにも思う。
仕事関係の中国人の人と一緒に行ったこともあった。
なんか静かな人だった。

そこからちょっと行くと東京ドームが見えた。
坂の下に見えた。
その眺めが好きだった。
記憶ではもっと急な坂のように思っていたけれど、
そんなでもなかった。
夜この坂を下りて水道橋駅に向かうと、ドームと遊園地の照明がとてもきれいだった。


その頃は深川に住んでいて、そこから自転車で箱崎ー神田ー小川町から
駿河台を一気に駆け上がり順天堂病院の脇を通って本郷三丁目まで通っていた。
ずっと登りだった。深川はゼロメートルだから。
若いからできた。
帰りはけっこう快適だったように思う。

車で会社に行くときは東大の構内に駐車していた。
あれはいつごろまでできたのだろう?
その後外部の車は入れなくなった。

父は東大生だった。
父が最後を過ごした病院は近くの順天堂病院だった。
兄から連絡を受けて駆け付けたけれど間に合わなかった。

追記:
「ととや」という料理屋があるみたいだ。同じお店かどうかわからない。
場所が近すぎるような気がする。
記憶では本郷通を渡った向こうのような気がするけど、ちがうかも。
いずれにしても今ある「ととや」は記憶よりもずっと立派だ。もう少し普通の
定食屋だったように思う。

それから会社はたぶんこのビルだ。ビルの名前が変わっている。
この2階だったと思。
けっこう広い。
ここじゃないかもしれない。でもこの角度のこんなビルだった。
ここではまだ柿崎さんは生きていて一緒に働いていた。
今までの人生で、同い年だったただ一人の友人だった。
柿崎さんのことは前に書いたけれど、会社を別れてしばらくしてから電話したら
亡くなっていた。その時の電話はほんとうにショックだった。
奥さんが出て、私が「カキちゃんいる?」と言うと。
「何言ってるの?」と言われた。
「え?本当に知らないの?」と言われた。
知らなかった。ごめん。
君がそんなに早く行ってしまうなんて思いもしなかった。

この会社で一緒だった人でもう一人亡くなった人がいた。
彼はバイクに乗っていた。結婚してまもなく子供もできて、
突然のバイク事故だった。彼は確か20代だった。
名前を思い出した。小塚君だ。

あ、もう一人いた。
広告を出していた雑誌会社の営業の青山さんだ。
青山さんもその後別の会社に移っても広告をお願いしていた。
しばらく会わずにいて雑誌屋に電話して青山さんをお願いします。
と言ったら、病気でずっと会社には来ていません、とのことだった。
その人が言うには深刻な状態でたぶん亡くなっているとのことだった。
青山さんは50くらいだったと思う。

その会社に一緒にいたカメさんは今でも年賀状をくれる。
バイクで一緒に乗鞍の上まで走った人だ。
まだ元気みたいだ。
そうだな、あの時代からつながっているのはカメさんだけだ。

2/12/2019

スライドショー

最近は葬儀のスライドショーDVDの仕事が来る。
年齢は10個か、もう少し上の人が多いけど、
今日の人はほぼ同い年だった。
だから写真を見るとまるで自分のアルバムを見ているようだ。
中学、高校の集合写真は白黒。
どこかの観光地で撮られている。
大学時代はギターを持って歌っている。
また車でどこか遠くへ仲間と出かけた写真がある。
卒業して社会人になって、
バイクに乗って、
結婚して子供ができて、

というのを見ていると自分じゃないにしても
この人知ってる人じゃないだろうか?と思ってしまう。
名前を見直して、思い出そうとする。
でも知らない人みたいだ。

自分もいつかこんな風にスライドショーになるだろうか。
誰が作ってくれるんだ?
葬儀屋に頼むのもなんだから、
そのうち自分で作っておこうかな

2/11/2019

昨日の夢

近頃にはめずらしくはっきり覚えているので書いておこう。
(これが何かの意味があるのか、何かの役に立つのか知らない)

その前の日はどこかの公園をずっと散歩していたらしい。
次の日になってなぜか病院に行く。
すると女医さん(これは昔の友達だ)が来て、「いったいどこに行っていたの?」
と聞かれた。
僕は公園に行っていたと言うと、昨日は手術のはずでしょう?と言われた。
「ああ、そうだった」と思う。
それから病室(手術室ではない)にある手術用のベッドによこになると
胸のところに布がかけられて見えなくなった。
その、向こう側で開胸手術が行われているらしい。
「もう開いてるの?」と聞くと、返事が無い。
どうも感覚的に胸が開かれてどこかの部位を切られているらしい。
そばに友人がいる。
その友人は昔、不義理をしている友人だった。
なぜか優しい顔で横にいる。
彼が出て行こうとするので私は呼び止めて、
「ここにいてくれないか?」とたのむ。
かれはニコニコしてそばにいてくれる。

しばらくして気が付くともう手術は終わっていて、胸も閉じられている。
もう先生もいなくなっていて、
僕は外に出て歩き始める。
友人に「こんなに歩いて大丈夫かな?」と聞くと、
「無理しなければ大丈夫」と言う。
もう、こうして歩いていることが無理なようにも思う。
胸のところは痛くはないけれど、何か違和感がある。

ずっと歩いてゆくと土手になっていて、
その上に登って歩いて行く。
途中で土手の向こうから水が流れ出していて、
そこを急いで渡らないといけない。

・・・そこまでしか覚えていない。














2/10/2019

雪祭り

今年は70周年だとか。
ほぼ私が生まれた年からやってるらしい。
大通りは昔より明るくなったように思う。
昔はオレンジ色だったと思うけれど、今は白から青色が多いみたいだ。

大通りの外れに大倉山が見える。
私が住んでいたのはあの少し手前だった。
大通りをまっすぐ西に向かったところだ。

大通りのここ(テレビ搭のあたり)からアパートまで歩いて帰ったことはあったろうか。
あまり思い出せないのだけれど、会社までは歩いて帰ったことがあったと思う。
地下鉄で来て、部品屋を廻って帰った時だ。
前にも書いたけれど西島無線が10丁目あたりだったから、そこから21丁目まで歩いた。
あれだけだろう。
あとはずっと車だったから。

あ、そうだ思い出した。
交通違反で家庭裁判所に行ったことがあった。
確か免停が来るまでの間に違反をやってしまった時だ。
それが11丁目にあったように思う。
はっきりしないけど、あのあたりだったと思う。

考えてみると違反のほぼ90%は速度超過だった。
よく生きていたと思う。
あるいはよく他人様を怪我させずにいたと思う。

あの頃は車が無いということは考えられなかった。
いつも車に乗っていた。
どこにも行くところがなくても、家から大倉山の脇を通り
盤渓まで走った。
全く意味はなかった。
石狩の海岸までも走った。
全く意味は無かった。
千歳から支笏湖を廻って帰ってきた。
全く意味はなかった。
ただ、一人でじっとしていると耐えられなくなった。
それでどこかに向かっていた。
走るのは夜だから誰もいない。
誰にも会わない。
でも海や湖の脇に車を停めていると少し落ち着いた。

東京に戻ってからもその気分が抜けなかった。
夜中に海に走った。
結婚(同棲)してからも夜一人で走った。
誰もいない海は落ち着いた。
遠くの工場の灯りを眺めていた。
その感じは数年抜けなかった。

今はその気分は無い。
でも電車に乗って宛てもなく旅をしたい気持ちはある。
どこか遠くに。

2/09/2019

雪だよ。
ずいぶん久しぶりに思えるけど、
去年も降ったんだっけ?
さっきまで霙っぽかったけど、
今は少し粉雪がまざってる。
このまま気温が下がるとけっこう積もるかも。
雪が降ればティドリポンだよ。

夜まで降っていたらカメラを持って外に出てみよう。
朝まで降っていたら、
朝、積もっていたら、
カメラを持って公園に行ってみよう。

                                          2014.02.08 みなきたウォーク

2/08/2019

またちょっと疲れた

今月はそれでなくても忙しい月なのに、
全く相関係のないトラブルが同時に起きる。
いろいろ考えてると頭が痛くなる。

最近は寝てる時が一番気持ちいい。
わけのわからない夢を見て、朝になるのがいい。

夜中に猫が脇の下に入ってくる。
そのまま腕の中で眠ってる。
しばらくすると腕が痛くなってくる。
向こうに押しやって寝ようとすると
猫はベッドを出て自分のベッドで寝る。

しばらくして寒くなってくるとまた入ってくる。
それを繰り返して朝になる。
朝になって猫はお腹がすくと噛みついてくる。
毛布をかぶって寝てると、
爪を立ててつんつんしてくる。

しかたがないので食べ物を出してやる。
しばらくすると鳴きながらそこらを歩き回る。
・・・あれは何なんだろう?

夏になって暑くなると来ないくせに




2/06/2019

ランゴリアーズ

ほんの数日前のことだけれど、ふと「ランゴリアーズ」を娘は覚えているかな?
という思いが浮かんだ。
こんどきいてみようと思っていた。

今日娘に会った。
今アマゾンから来たという「ランゴリアーズ」のDVDを持っていた。
かなり驚いたけれど、一緒に全部見てしまった。

ランゴリアーズは昔NHKで2回に分けて放映された。
それを10歳くらいだった娘と一緒に毛布にくるまって観た。
あれを覚えていたらすごいと思ったけれど、どうもそれ以上だった。

またそれを一緒に見たのだけど、
映画のように時間が戻ることはなかった。


2/04/2019

Grace

卒業して最初に入った会社。
この会社に入らなければ北海道に住むことも無かったし、
アメリカのスタジオ見学の旅行に行くこともできなかった。
色々なことを勉強させてもらった。
しかし私は会社のためには何の役にも立てなかったと思う。

Tシャツをい見つけた。
現在売られているようだ。
誰が着るんだろう?と思う。
でも着てる人がいたらちょっと嬉しいかも。

そういえばグレースは航空会社もやっていた。
確か。「エアーグレース」と言った。
小型機を持っていた。
今で言えばプライベートジェットのような飛行機だったのだろうか。
私は見たことが無かったけれど、そのパイロットの人には何度も会ったことがある。
どうも最初から飛行機に因縁があるみたいだ。
社長の朝倉さんも飛行機の免許を持っていたと思う。
一度お会いしたドイツのノイマンの社長もグライダー(ソアラー)を持っていた。
そうそう、ノイマンさんの話でいつかグライダーに乗りたいと思ったのが始まりだ。

人に出会うことは大切だ。
いつか必ず助けになる。
・・・と出会った方は勝手に思っている。

2/01/2019

北の国から 「初恋」

「北の国から」というドラマは私が北海道を離れ東京に移った年に始まった。
運命的というか嫌がらせというかそういう時に始まった。
たぶん9割くらいの物語は見ていると思う。

それであの音楽はどういう構成になっているんだろうか?と思い、DVDを買ってみようと思った。最初の頃のものは比較的安く売られている。でもどうせなら「初恋」だろうと思って調べたらやたらと高い。なんでこれだけ高いんだという感じだ。
それで中古の¥950というのを見つけてそれを買った。

あのドラマは見た後に変なやるせなさとか、なにかいらいらするものをいつも感じていた。今回あらためてみてわかったのはあのおやじだ。五郎だ。
あの全てがいやだ。
俳優のことではなく「役」がだ。
かなり不自然に感じる。
まあ、それは作者がそうしたのだからしょうがないのだろう。

一方、この世の不運をすべて引き受けた純君は同情の余地がある。
というか自分にも経験のあることがいくつもある。
この「初恋」編は若い頃の不運な運命をよく描いていると思う。

初恋のれいちゃんはこのシーンを最後にもう見ることができない。
もうずーーーと後になって会うことができるけれど、その時はもう遅い。
「遅れても遅すぎることはない」とかいう諺がどこかの国にあるようだけれど、
こういうふうに別れてしまうと、もう全てが遅すぎる。
全ては真っ白な吹雪の向こうだ。