伊東先生はその後の「先生のお話」でもみなにその後の学校教育のことについて
熱く語っていた。
それから69年の新宿駅での米軍タンク車炎上の時のことを話された。
その日は、実は次の日から山岳部の合宿があったらしい。
伊東先生が引率だった。
次の日からなのでその米軍のタンク炎上の日に新宿駅に学生がいるわけはないのだけど、
内緒で合宿の日程を一日伸ばしたらしい。
それでタンクが燃えている時神代の山岳部がそこにいたために
駅員から声をかけられてみんなで燃えてないタンク車を押して移動させたらしい。
そのことが新聞で取り上げられ、学校側は「なぜそこに学生がいたんだ?!」
と伊東先生に責任を問うたらしい。
しかし、その後その山岳部の人達が炎上防止に協力したということで
表彰されることになった。(どこから?)
その表彰式は学校で行われたらしい。(全く覚えていないけど)
それで先生の責任問題はすっ飛んで、先生は「ざまあみろ」と思ったそうだ。
僕もその時の新聞記事(燃えてるのと表彰の)を覚えている。
伊東先生の「お話」はそんな話とか当時あった飲み屋での先生方の
自由な交流について話された。それで今の学校はもうそういう自由な
ものではなくなったと嘆かれていた。
先生はそんなで元気に話されていた。
と、ここまで僕のことを覚えている人は誰もいない。
秋山がいたので声をかけた。
ハンドボールで秋山のジャンプシュートの下敷きになって頭を強打して
記憶喪失になったことを話したけど全然覚えていなかった。
まあ、当時もあまり話をしなかったけど。
竹中は4中だったから、4中の知り合いの名前をあげてみた。
そしたらほとんど知っていた。
僕は7小だったから友達はみんな4中に行ってしまった。
僕のことは覚えていないみたいだったけど。
テーブルに竹内がいたので声をかけた。
「ああ、粉川」と覚えていてくれた。
竹内は70人中僕のことを覚えていてくれた2人のうちの一人だ。
竹内は今でもあの場所で幼稚園をやっている。
園長先生だ。
竹内といろいろ話をした。
「いつも家のあったところを通ると粉川のことを思い出すよ」
と言ってくれた。
それから「彼女(Kさん)はどうしているかなぁ?」と言っていた。
僕は多くを話さなかったけれど、
「世界中をまわっていたみたい」とだけ言った。
竹内は「会いたいなあ」と言っていた。
結局70人もいたのに僕を覚えていてくれたのは竹内だけだったな。
と寂しい気持ちだった。
会が終わりかけていた時に一人で壁のところで立っていたら、
声をかけられた。
「小柳どうしてるか知ってる?」と声をかけられた。
村野だった。
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