12/29/2013

メニエール病(Meniere’s disease)

先日Gravityという映画を観た。
始まって10分で吐きそうになった。ずっと我慢し続けて観たが、
私は宇宙には行けないと確信した。

オヤジの持病についてはこれでおしまいだと思う。
私の母がこれだったので私のは遺伝かもしれないと思う。
Wikiによると遺伝はしないということになっているらしいが・・・

一番最初の発症はたぶん小学校の4年の時だ。広場で遊んでいて突然来た。
家が近かったのでふらふらの状態で家まで帰った。
家では母が親戚のおばさんと話をしていた。
私はそれを気にもせず母親の膝に崩れた。
母には何も言わなかった。
自分でも何が起きているかわからなかったから。
その時は2,30分でおさまった。

次は遊園地で回転する遊具で遊んでいた時だ。
乗ってすぐに目が回り始めた。
ずっと下を向いて早く終わるのを待っていた。

その後は回転や揺れるものは避けるようにしていたので、あまり発作は起きなかった。

一番ひどかったのは30歳の頃、夜寝ている時だった。
夜中の2時ころだろうか、異様な感じに目が覚めたら、
部屋がぐるぐる回っていた。
とっさに「これはガスだ!」と思ってふらふらになりながら、台所のガスを確かめて
窓を全部開けた。
しかしガスではなかった。
なかなかめまいが治らず、トイレにこもって吐き続けた。
それから原因がわからなかったので、救急車を呼んでくれた。
救急車に乗るころにはかなり治まっていた。
そのまま病院に入って点滴を受けて、翌日には家に帰ってきた。

これはメニエール病だろうな、と思い。
専門の大学病院で見てもらう事にした。
しかし、いろいろなテストをしたが原因も治療法もわからずじまいだった。
むしろそのテストの方が辛かった。
尺骨神経麻痺のところでも書いたけれど、どうも大学病院というのはそういうところがあるようだ。

その後はさらに注意して回り始めたら故意に目を逆に回したりしてなんとか大きな発作は
発症していない。
不思議なのはハングで飛んでいたとき機体をぐるぐる回すわだけれど、
その時は全く問題は無かった。
たぶんああいう回転の遊具に乗ったらすぐに発作が起きそうだけれど。

幸い最近は大も小も発作は起きていない。

スーザン・オズボーン(Susan Osborn)という女性歌手

最初に聴いたのはたぶんテレビ番組のBGMだったと思う。
今から10年以上前だろうな。
確かNTTの提供のボイジャーのドキュメンタリーだった。
ジャワの音楽とスーザン・オズボーンの「浜辺の歌」とヴァンゲリスの「南極物語」のテーマ
がBGMに使われていた。
いずれも宇宙のシーンにぴったり合っていた。
特に「浜辺の歌」は印象的だった。
なんで宇宙で浜辺の歌なんだ?という疑問は全く浮かばなかった。
なぜか宇宙の映像にぴったりだった。
番組の最後の方はもう涙無しには見れなかった。

あの歌は誰が歌っていたのだろう?と思いビデオをもう一度見直して、
スーザン・オズボーンという人が歌っているのを知った。
早速アルバムを買って聴いた。
どの曲もすばらしく良かった。

彼女は日本語の歌をそのまま歌っているのではなく、英語の詩に直して歌っている。
浜辺の歌はまだ元の歌詞が残っているけれど、「地球」をテーマにした詩に置き換えて
いるものが多い。
「ふるさと」もそうだし、「仰げば尊し」もそうだ。
いずれもすばらしい歌詞だ。
この二つの詩はとてもよく似ている。
「ふるさと」の方は地球が我々のふるさとだと歌っている。
「仰げば尊し」の方は、この地球上で我々が共通に経験したこと全てを、我々は決して忘れない。
と歌っている。学校を卒業するという狭い意味ではなくこの地球の上でのこととしてを歌っている。
・・・ということは前にも書いたな・・・



12/27/2013

タンホイザー・ゲート(追加) Tannhauser Gate

「二つで十分」問題は置いといて、
この映画の最もすばらしいシーンはやはりmonologueのシーンだ。
私はこの映画はここで終わらせるべきだったと思う。
その後のシーン、ストーリーは不要だ。

I've... seen things you people wouldn't believe...
Attack ships on fire off the shoulder of Orion.
I watched c-beams glitter in the dark near the Tannhäuser Gate.
All those... moments... will be lost in time, like tears... in... rain.

アドリブでこの台詞を言った俳優は天才だ。
・・・というかこの台詞をこの映画で言うために生まれた人のように思う。
この言葉を残してレプリカントが死んでしまった後で、映画を観ている我々は、
彼らが昔の写真を欲しがっていた理由もわかるし、
彼らが寂しい存在だったこともわかる。
この言葉は腐った未来都市から一気に宇宙の真ん中に我々を
連れて行ってくれるものがある。

タンホイザー・ゲートを一度見てみたい。

<追加>
Rutger Hauerは撮影の前日までは別の台詞を用意していたようだ。

I've known adventures, seen places you people will never see, I've been Offworld and back...frontiers!
I've stood on the back deck of a blinker bound for the Plutition Camps with sweat in my eyes watching the stars fight on the shoulder of Orion...
I've felt wind in my hair, riding test boats off the black galaxies and seen an attack fleet burn like a match and disappear. I've seen it, felt it...!

これを見ると映画の中の台詞がいかに推敲されつくしたものかがわかる。
「冒険(あるいは出来事)」という言葉がThingsになっている。
またPlutition Campsという言葉が入っている。日本ではあまり語られていないが海外サイトでは
ちょっと話題になっているようだ。たぶんこれもTanhauser Gateと同じく彼が作った地名なのだろう。

the soulder os Orionで見たのはstars fightになっている。これは映画の方が具体的になっている。

I've felt wind in my hairというのはすごいなぁ。暗黒星雲に向かう実験機の乗っている時の話だが、宇宙船に乗って風を感じるというのは・・・これは台詞に入れて欲しかったような気もする。

最後の、船団がマッチのように燃え尽きて消えてしまった。というのはあまりに普通の描写だったような気がする。それでOrionの方に持って行ったのだろう。

いずれにしても、すばらしいの言葉に尽きる。

映画でこのシーンを撮影し終わった時、スタッフの中にも涙を流した人がいたそうだ。

12/26/2013

年末が世界の終わりだった頃

札幌に住んでいた頃は年末には車で東京まで帰ってきた。
帰るのは12月30日とか31日になってしまうわけだけれど、あの頃はお店はほとんど
閉まってしまっていた。
そういうのがいつまでそうだったのだろう?と思う。
いつのまにか大晦日までお店はやっていて元旦から開くようになった。
そうでなかった頃は大変だった。

まずガソリンスタンドも閉まっているところが多かったので、開いているお店で
入れておかないとガス欠になってしまう。特に北海道、東北では閉まっていたように思う。
まだ東北自動車道ができていなかった頃はずっと国道を走ったから結構気を使った。
東北道が出来てからはサービスエリアで入れることができるようになった。
銀行も(これは今もだけれど)年末年始は閉まってしまうからお金も下ろしておかないと
いけない。
お店も閉まるから皆買いだしにでかけた。
あの頃は商店街もにぎやかだったように思う。
大量の食品を買い込んでいた。

私の父は年末は大晦日までにやることをやっておかないと気がすまない性分だった。
紅白が始まるまでに片付けや掃除や風呂を済ませ、あとは何もしなかった。
父にとって大晦日で1年は完全に終わったのだろう。

ときどき、まるで父のようにしている自分に気がつく。

12/23/2013

正常眼圧緑内障 (続き)

オヤジはまだ目が見えているからどうでもいいのだけど、
大事なことを書くのを忘れていた。

目の検査に通っていた市大病院での話しだ。
眼科の待合室はあまり広くなく長椅子が2本あるだけだったから、
座って待っていると他の患者さんの話が聞こえてくる。
そこに白内障の手術をした人がいて話をしているのが聞こえた。

その人は手術をしても見えるようになるかどうかわからなかったそうだ。
それでも手術をすることにしてそうだ。
手術が無事終わり包帯を外す時のことだ。
先生がゆっくりと包帯を外し、「目を開けてみてください」と言われたらしい。
その人は恐る恐る目を開けたそうだ。
でも何も見えなかった。
自分では目を開けているつもりだったので、先生に「開いてますか?」
と聞いたらしい。先生は「はい、開いてますよ」と言った。
その時、「ああ、だめだったか・・・」と心底失望したそうだ。
しかし、先生は、
「そのまま、まばたきしないでください」と言った。
そして先生はペンシルライトの光をその人の目にあてたそうだ。
その瞬間目の前の景色がまるで夢から覚めたように
明るい世界として見えたそうだ。

私はとなりでその話を聞いていて思わず涙を流してしまった。
目が見えるというのはすばらしいことだと思った。

12/22/2013

正常眼圧緑内障

低眼圧緑内障とも言うみたいだ。
これに気がついたのは全くの偶然だった。
たまたま眼科の先生も一緒に何人かで話をしていたときに、私が雑誌を見ていて
「右目と左目の見え方が違うな・・・」と言ったのを先生が聞いていて、どんな風に
見えるかを聞いてきた。文字だけのページを開いて片目ずつ、どういう風に見えるか
を調べた。それを見て先生が「今すぐ私の病院に行きましょう!」と言った。
角膜剥離かもしれないし、緑内障かもしれないということですぐに見てもらうことになった。

調べた結果、緑内障らしいということだった。その頃はまだ正常眼圧緑内障という病気が
あまり知られていなかったが、私の眼圧は全く正常な値だったが、
右目が緑内障の症状で、上半分が見えなかった。
見えなかったことに気がついたのは実はその時が初めてだった。
いったいいつから見えなかったのだろう? と考えたけれど思い出せない。

子供の頃は顕微鏡をよく覗いていたので、左目で顕微鏡を覗き右目でその絵を描く。
その時には別に不自由は無かったように思う。
その後、私立大学を紹介してもらい何度も検査してもらったが見え方に変化は無かった。
だから生まれつきかもしれないと思い、兄にも聞いてみた。
兄も調べた結果私と同じだった。ただし反対側の目だった。
だからたぶん母親のヒロシマでの被爆が原因なのだろうと思う。

幸いその後も見え方に変化は無いようだ。

12/20/2013

70年代のドライブ

田中光二のことを書いたのでついでに昔のドライブのことを書いておこう。
一番最初に乗った車は中古の日産チェリー1000だった。小さいけれど4ドアのセダンだった。
このチェリーも良く乗った。下取りの時の走行距離は14万キロだった。
初めての北海道もこの車だった。

日産のディーラーから初めて一人で公道を走った時のことはよく覚えている。
今は連雀通りと言うらしいが、井口にあったお店を東に左折で出て、とにかくまっすぐ走った。
すぐに右折すれば家に着いたのだが、右折ができなかった。
それで左折だけで家に帰る道順を一筆書きで頭に描いた。
八幡前から三鷹台の方にまっすぐ走り、井の頭通り(水道道路)に出た。そこで左折して
まっすぐ吉祥寺を抜け、三鷹駅の北側に出てそこを左折して国鉄をくぐり(あれ?まだ踏み切り
だったかな?)、再び八幡前に出た。そこはさっき右折をあきらめた交差点なのだが、意を決して
右折した。当時は今と違い大成高校から三鷹駅に向かうにはクランクになっていた。
そこまで走るとちょっと慣れてきたので右折もできた。
そのまま家まで走ることができた。

’70年ころは駐車は今のように厳しくなかった。
ラーメン屋の前に車を停めておいたり、商店街のお店の前に車を停めたりというのは普通に
行われていた。農地だろうと思われる道路は駐車場と化していた。私が初めて違反を取られた
のは駐車違反だった。それも右側駐車だった。茅ヶ崎の友人の家に行った時に普通の市道の
右側に4時間くらい停めていた。帰ろうと思ったら車が無かったので近くの警察署に行ったら
そこにあった。レッカー代は取られたけれど、確か初心者マークを付けていたので切符は
切られなかったと思う。

「中央フリーウェイ」という歌があるが、調布飛行場を調布基地と言うのは我々の世代の
しかもあのあたりに住んでいた人ではないだろうか?と思う。
歌の中で「・・・言っても聞こえない風が強くて・・・」というのが出てくるけれど、
ちょっと考えたらあれはオープンカーのか?とも思うが、たぶんそうではないだろう。
あの頃はエアコンを付けていた人は少なかったから、夏だったら窓は開放だっただろう。
あるいは冬であったとしても当時の車は今の車に比べると車内の騒音がすごかった。
タイヤからの路面の走行音と、車体に当たる風切り音だ。
今でも古い車に乗ると音がうるさくて驚く。

オートマチック車も少なかった。
たぶん今は死語となってしまったと思うのは、「クラッチ滑り」とか「押しがけ」とか「ダブルクラッチ」
とかの言葉だ。トラックではまだ生きているかもしれない。
「チョーク」はどうだ?「ノッキング」は?最近はキャブレターも使われていないから「ツインキャブ」
と言う言葉の響きも感じることもないだろうな。












12/17/2013

山田正紀 田中光二 高齋正 SF小説

SF小説については書いただろうか?
忘れてしまった。
まあ、いいか。

札幌在住時代は時間だけは豊富にあったので、本はよく読んだ。
特にSFは読み尽くした。
好きだったのは山田正紀や田中光二それに高齋正さんだ。たぶん高齋さんは私よりも
ずっと年配だと思う。

山田正紀の話は好きだった。スケールが大きくて発想がちょっと思いつかないような話
が多かった。最初に読んだのは「神狩り」だった。この話はなんていうか生活している中で
うすうす感じていた神というものの存在を小説の形で現したような感じだ。
神が「敵」として現れるのは他の小説にもあるが、この話はほんとうに面白かった。
「チョウたちの時間」までは全部読んだ。 そうか、札幌を去ろうと思い始めた頃までは
読んでいたんだ。。

田中光二も読んだ。最初に読んだのは「君は円盤を見たか」だった。それが面白かったので
さかのぼってほとんど全部の話を読んだ。
田中光二の話は車で走る話が多い。それにその場所場所の描写がリアルで自分でも走った
所が多いのでその場所を明確に特定できたような気がする。
車はクラッチ付きの車だ。オートマチックなどありえない。
まだダブルクラッチできるだろうか?・・・

車のSFと言えば高齋正さんだ。この人にはだれもかなわないと思う。
話自体はフィクションだが中で出てくるエピソードは全て実際の話だ。あの当時あるいは
それ以前の名レースの話や(今となっては)クラシックカーの話など知識の宝庫だ。
エピソードとフィクションを一緒に読んでいると全てが事実なんじゃないかと思えてくる。

車と言えば比較的最近感動したSFがあった。
神林長平の「魂の駆動体」だ。
何が感動したかと言うと、遠い未来に車の設計図(紙)を読み解くシーンだ。
車と言うもの自体意味の無い遠い未来にその設計図を基に車を作る。
そのシーンは涙無しには読めない。
たぶんエンジニアならわかるだろう。あれは。

12/15/2013

星のカーテン

神代高校には地学の先生で羽鳥先生という先生がいらっしゃった。
関東ローム層の権威だった。
その先生の授業は当時としてはとてもユニークで授業の大半はスライドを映しながら
真っ暗な教室で行われた。生徒達は予め手元を見ずにノートをとる方法を練習させられた。
そのためノートはとても大きく乱れた文字で埋め尽くされた。
 
その先生の授業で最も感動したのは星の話だった。
『ではみなさん、さういふふうに川だと云はれたり、乳の流れたあとだと云はれたりしてゐた・・・』
というのは宮沢賢治だけれど、まさにそういう感じだった。
 
先生はスライドで沢山の星の中に浮かんだ星雲の写真をスクリーンに映した。
私はそのままこの「星雲は星達の中に浮かんでいる」とずっと思っていた。
しかし先生は
「この周りの星達は言わば私たちの住む銀河のカーテンです。」と言った。
「私たちはカーテン越しに星雲を見ているんです。星雲の周りには何もありません。」
 
           
 
先生がそう説明された瞬間に私はその何も無い宇宙の中で星雲を見ている気がした。
あの感動は今でも忘れない。
真っ暗な教室が宇宙に変わった瞬間だった。
高校生の頃にあの感動をくれた羽鳥先生に感謝したい。
 

12/08/2013

HP-67

もうずっと探しているのだけれど、どこかに行ってしまってみつからない。
初めて物語を書こうかと思っていた。NECのPC-8001が出た時のことを書こうと思っていた。
PC-8001が出てすぐに会社で買った。何をするでもなく何かに使えるだろうと思って会社で買ってもらったものだけれど、プロッターで図面を描いたことと、会社の会計ソフトをBASICで作った
のは覚えている。たぶんあの頃はそれで十分だったような気がする。

それ以前に社長からHPの電卓をお借りしていた。
HP-67だ。
これを探している。どこに入れたのか全く覚えていない。
本体が見つからないが、プログラミングカードは見つかった。


 
 
この電卓は本当にすごい。
計算のプログラムを組むことができ、それを磁気カードにSAVEできた。

計算はRPNなので知らない人は使えない。でも使い慣れるともうこれしか使いたくなくなる。
頭がRPNになってしまうと頭の方にもスタックができるようだ。

HP-67はずっと使っていて1995年頃だったろうかカードリーダーが壊れたので横河で修理して
もらった。バッテリーもいかれていたので修理代が7万円くらいだった。
今だったら絶対に払えない。
その後HPは新しい電卓を沢山出していて、私も新しいものを使うようになり、HP-67はどこかに
しまって、そのままだ。

「あれはどうした?」と突然思い出して探し始めたけれど、みつからない。
皮のケースに入って、ブランクカード20枚くらいと一緒にどこかにあるはずだ。

HPの電卓はこの他HP-97というBASICが走るコンピュータも持っていたのだが、これは売って
しまった。今でも後悔している。それは秋葉原の大型電気店の倉庫で見つけてその社長に
譲ってもらったものだった。要するにタダだった。GP-IBのインターフェイスユニット付だった。
あの時はとりあえずお金が必要だったから、かなり安く売ってしまった。失敗だった。

HPの電卓はRPNを知らない人に「1足す2、計算してみて」と言って渡すと面白い。
その人がどう考えているかを見ているのが面白い。

今パソコンのディスクトップにHP-67のエミュレータが置いてある。
ちょっと動作が遅いがよくできていると思う。
上の写真は実はエミュレータの画像。



12/05/2013

札幌で好きだったもの


札幌で好きだったものを書こう。

●夏の石狩浜
     今はたぶん無くなってしまったかもしれないが、花畔から海岸に至る間の
     草原というか原野の残りは好きだった。

●時計台の鐘の音
     あの音が好きだ。
     なんであれが残念な観光地と言われるのか理解できない。

●地下鉄の警笛
     あの音は札幌だけだろう。

●雪虫
     雪虫自体は好きではないが、あれが舞っている姿はとても懐かしい。

●紅葉
     北海道の紅葉は文句無く美しい。
     その後に山全体が茶色になってしまうことを思うとなお美しく思った。

●唐松の落葉
     文句無く美しい。 
     風が吹いて一斉に黄金色の雨を降らせる。

●落葉
     紅葉が終わってダケカンバの白い幹が茶色の山に映えるのも美しい。
     何度も写真を撮りに行った。

●光る路面
     雪が降って道路がカチカチになった頃、太陽の光が反射して道路が光る。
     その反射を見ながら走るのが好きだった。
     あの頃はスパイクタイヤだったから多少の凍結道路はなんともなかった。

●雪雲
     手稲山の方に分厚い雪雲がかかる。札幌はまだ青空。
     その感じが好きだった。

●凍った部屋
     あの感じはこっちでは絶対に味わえない。
     仕事から帰ると部屋が空気ごと凍っている。
     凍った空気を押しのけてポット式ストーブに火をつける。
     ストーブの周りから空気が溶け始める。
     あれをもう一度味わいたい、と時々思う。

●雪
     何もかもが雪の中に埋もれてしまうこと。
     想い出も一緒に。
     あれには勝てない。

●雪解け
     春になって路面の雪が溶け始め、黒い路面が見えてきて、
     道路の端に小さな流れできて、
     ちょろちょろと音をたてて流れるところ。

●ふきのとう
     春だ。と思う。


12/03/2013

おせっかい 秋葉原で

ピンク・フロイドのアルバムの話ではなく・・・

先日、公園を歩いていたら一匹の蝶が蜘蛛の巣にひっかかって、ばたばたしていた。
それを見て、かわいそうだと思い蜘蛛の巣から放してあげた。
蝶はどこかに飛んで行った。
「ああ、いいことをした」と思って歩いていたのだが、いや、まてよ、いいことだったのか?
と思った。じゃあ蜘蛛はどうした?
蜘蛛だって何週間も食べ物が無かったのかもしれないじゃないか。
それに思い至り、戻ってさっきの蝶々を捕まえてもう一度巣にかけようかとも思った。

私はおせっかいかもしれない、と昔から思っている。
いままでやったおせっかいで一番面白かったのを書こう。

今から30年くらい前、私は御茶ノ水のレモンで買い物をして一駅だけれど秋葉まで
電車に乗ろうと思い、ホームにいた。
そこに南米風の家族5人連れがいた。
そのうちの一番小さな女の子がはしゃいでいた。
電車が来て私が乗り込むとその女の子も乗ってきた。
しかし他の家族はホームで、たぶんこの電車でいいのかを考えていたようだ。
他の家族が乗る前にドアーが閉まってしまい、女の子一人が電車に乗ってしまった。
その子のお母さんがドアの向こうで何か言っているが聞こえない。
手で何か言っていたようだが女の子はどうしていいかわからず泣きそうだった。

電車はお茶の水駅を出てしまった。
女の子の隣にいた初老のおばさんが女の子の手をとって大丈夫だからと言って、
なぐさめていた。でも言葉は通じていなかった。
私は次の秋葉原で降りたが、女の子とおばあさんも一緒に降りてきた。
おばあさんは駅員さんを探していた。
駅員は近くにいないようだった。
おばあさんと女の子はうろうろして、ホームの端の方に行こうとしていた。

私はさっさと下のホームに行き改札に向かっていたが、
「絶対に会えない」という考えが浮かび、さっきのホームまで走って戻った。
ちょうど次のお茶の水からの電車が到着したところだった。
私はさっきの家族が降りてくるだろうと探していたが、ベルが鳴っても降りてこない。

さっき女の子が乗った車両まで走って行くと、そこに家族が乗っていた。
彼らはそこでは降りないつもりだったらしい。たぶんさっきドア越しに言っていたのは
降りる駅名だったのだろう。
私はドアを押さえて、「女の子はここにいるから」と言って彼らを降ろした。
ホームを見渡して女の子を捜したがすぐに見つからなかった。
おばあさんと女の子は秋葉原デパートに降りる出口のところにいた。
「ここにいるよ」と家族を呼ぶと、心配そうな顔をしていたお母さんが来て女の子を
抱きしめていた。

私はそれを確認して、すぐに改札に向かった。
「私がいなかったら、絶対会えなかったよな・・」と
おせっかいなやつが満足そうだった。

12/01/2013

尺骨神経麻痺(ulnar nerve palsy)

そもそもの初めは子供の時に自転車ごと倒れたのが原因だった(らしい)。
たぶん私が3歳くらいの頃だろう。
左腕を複雑骨折して曲がったままになってしまった。
小学校の時はその曲がった腕を見られるのがいやで、いつも長袖の服を
着ていた。でもさすがに夏は暑いので半そでのシャツを着ていたけれど、
右手で左腕のひじを隠すのが癖になっていた。

そのまま成長して高校、大学とギターを弾き始めてから左手の握力が
異常に弱いのに気がつき、バネで筋力をアップする器具で左手の握力
を強くしようと思った。
それをしばらく続けていたある日、左手に「プチッ」とした感触があった。
あれ?と思った。
左手を動かしてみると小指がうまく動かない。
伸ばすことができなくなっていた。
その時は、そのうち治るだろうと思っていた。
しかし、いつまでも治ることはなかった。

それからはギターを弾くときに小指を動かすことができなくなっていた。
それだけでなく、セーハー(昔はバーコードと言っていた)でコードを押さえる
ことができなくなっていた。
しかたなく押さえられるコードだけを使って弾くようになっていた。

そしてさらに大人になって、30歳を過ぎた頃、小指と薬指の感覚が無くなってきた。
それでしかたなく病院に行くことにした。
母親が東大病院がいいというので、そこに行くことにした。
診察してもらった病名は「尺骨神経麻痺」だった。
複雑骨折が原因で腕を曲げるたびに神経が磨り減ったらしい。
それをほぼ30年続けていたので、どんどん神経が無くなってしまったそうだ。

そのままでは左手全部の感覚がなくなってしまうというので、手術することになった。
東大病院なので手術は公開処刑のようなものだった。
沢山の先生が見学できる部屋での手術だった。

2、3時間で終わるはずの手術だった。
台の上に乗せられて、笑気ガスのマスクを当てられて、
「ゆっくり数を数えてください」と言われた。
確か4までは数えた。
その後、目の前が真っ白になったところまでは覚えている。

次の記憶は(後から思い出した)車の付いた担架で廊下を運ばれているところ。
私は寝ていたが、長く寝ていたので背骨が痛くて、背中をずらそうとしていた。
それを(母が言うには)、私が暴れていると思った先生、看護婦が押さえて
いたらしい。とにかく背中が痛かった。

手術は結局6時間以上かかって、母も心配したらしい。
病室に戻る時には麻酔は切れてますから、と母は言われていたそうだが、
麻酔から完全に覚めたのは1時間以上あとだった。
後は1週間入院して腕は少し痛みがあったけれど、変なしびれは無くなり
手術して良かったと思った。

しかし実はそれからが痛かった。
毎週病院に通って検査するのだが、その検査は異常だった。
指と腕に電極を付けて、パルス的に電圧をかけるのだが、
指が動き始めるまで電圧を上げる。
もう神経も筋肉もほとんど無い指を動かそうとするのだから電圧は相当高かった
と思う。
私は指よりも他の部分が電気パルスのせいで我慢できないほど痛かった。
拷問に近かった。
「ちょ、ちょっともうだめです!」と言ったら先生に、
もう少しなので我慢してください。と言われた。

そんな検査を5回は受けただろうか。
それがあまりにつらいのと、
あれは結局どこまで動くか調べて学会の資料にでもするのだろう・・・
と思い至って、それから行くのはやめた。

神経を腕の反対側に通したのが良かったのか、
それからはしびれはなくなった。
でも小指の感覚はいまだに無く、薬指も半分感覚が無い。
握力は相変わらず子供よりも弱い。
神経が無いはずなのに、年に何度か痛みで目が覚める。
眠りに入った瞬間に電気的な痛みが走る。
それで目が覚める。
またうとうとして眠った瞬間に痛みが走る。
そして絶対に眠らせてくれない。
これもまた拷問だ。



11/29/2013

子供の頃聴いた歌 North Wind

最近気がついたのだけれど、子供の頃に聴いた英語の歌は
かなり正確に覚えているな、と思う。
たとえば、何も考えず子供の頃の記憶のまま歌うと、
  

      のーす いん~
      のーす いん~
         ぶりんま べーび ばっかげん
      のーす うぃん~
      うぇー でしーごー      
      のーばで ばちゅ~      
      うぃーえばの~

これは「北風」(North Wind)というウェスタンっぽい歌で確か小学校5年の頃だから、1960年頃だと思う。確かテキサス・ビル・ストリングス(Texas Bill Strings)というバンドだった。
日本人の歌手もこれを日本語で歌っていたと思うけれど、私は日本語の方は歌わなかった。
いつもくちずさんでいたのは英語の歌の方だった。
それはたぶん兄の影響だと思う。兄は英語の歌ばかり聴いていたから。
正しい英語は

      North wind
      north wind
      bring my baby back again
      North wind
      where did she go
      nobody but you
      will ever know

かなり正確だと思う。
この歌を子供の頃聴いた人は同じように覚えているのではないだろうか。
’60年代のアメリカンポップスはいつもラジオから流れていたから、子供は自然に覚えて
しまった。
ちょっと今思い出せないが、「ここを聞き取ったのか!」と思うような歌もある。
子供の耳はかなり正確だ。

 



11/23/2013

北海道シンフォニー

私が北海道を離れる1年前にレイモン・ルフェーブルの「北海道シンフォニー」というアルバムが
発売された。発売当時は結構ラジオやテレビで聴かれたけれど、最近はあまり聴かない。
このアルバムはとてもいいアルバムだと思う。
最初の3曲が北海道シンフォニーとなっている。
またこのアルバムの最後には有名な「夜間飛行」が入っている。
 
 
これを聴くと北海道の景色が目の前に浮かぶ。
このアルバムをカセットに入れて北海道を走り回っていたから、様々な景色が浮かぶ。

 
 
 
特に中山峠から洞爺、羊蹄山のあたりや、反対に狩勝峠のあたりの冬の景色だ。
 
そういえば、レイモン・ルフェーブルはその昔はレイモンド・ルフェーブルと呼んでいた。
 

 

11/22/2013

They shall not grow old

昨日宮崎アニメの話を書いていて、この本を思い出した。
この本は面白い。
何度も読み返したためページが外れてしまっている。
それでも時々読み返している。
「カティーナ」という話は何度読んでも感動してしまう。

宮崎アニメで思い出したのは「彼らは年をとらない」という話だ。
これもとても好きな話だ。

 
 
宮崎なんとかがこの話を元にしているかどうか知らないが、シーンはそっくりだ。
戦闘に飛び立った飛行機の一機が、もうすっかり燃料が無くなった頃になっても
戻らず、皆はもうだめだろうと思っていた時にその飛行機が戻ってくる。
しかし操縦士はいつものように帰ってきただけで、空白の時間については
何もしらない。
その飛行士がある日の戦闘中にその空白の時間に何があったのかを思い出す。
その時彼が話すシーンが「紅の豚」に出てくる。
 
たぶん本当にそういうことがあるのだろう、と思う。
空の上ではいろいろ不思議なことが起きるから。
 
 

11/21/2013

懐かしい街

先日夜中に目が覚めてしまって、眠れなくなったので、
タブレットでYouTubeを開いたら、たまたま右側のお勧めのところに「なつかしい街」
という歌があった。スタジオジブリ「コクリコ坂から」の歌とあった。
最近のジブリはあまり好きじゃないけど、クリックして再生してみたら、
やたらハスキーな女性が歌っていた。
この歌はいいな。と思った。

その歌がアニメのどんなシーンに使われているのかが気になって、レンタルで
借りてきた。ストーリーは見ていなかったけれど、音楽と歌は真剣に聞いた。
しかし映画にはあの歌は入っていなかった。
映画のバージョンが違うのかと思い、調べてみたら、
どうも映画には入っていないようだ。
この歌は「コクリコ坂歌集」という歌集の中の歌のようだ。

映画の内容はほとんど覚えていないが、ちょっと気になるシーンがあった。
どうやら昔の学校の部室を守る話が恋愛話と平行しているようだ。
その部室で思い出した。
私の居たクラブの部室にはもうひとつ別のクラブが同居していた。
名前は確か「古都探索会」。
その部長が私と同じ学部の親友だった。
どうして彼がその部長になっていたのか知らないが、
初めて北海道を一緒に旅行した親友だった。
偶然というのは不思議だ。


11/20/2013

堂平山 天文台

堂平山の天文台のことを思い出した。
あれは1987年頃だろうか。
仕事で同僚の松ちゃんと一緒に行った。埼玉県の山の上にあった。

 
 
 
堂平山を上り詰めたところに天文台はあった。ドームの周りには何も無かったように思う。
あれはドームの隣の部屋だったろうか。VAX-11とラックに入った基盤がいくつあった
ように思う。
その仕事をいただいた相手の方は確か菊池さんとおっしゃった。体格の良い人で、
話し方もすごく穏やかな方だった。
仕事は確かビデオ画像入力装置とVAX11をつなぐインターフェイスを作る仕事だった。
その時はほとんど松ちゃんがその設計をやっていた。
 
仕事が終わってから菊池さんがドームの中に案内してくれた。
その日は確か曇りがちだったか、雨っぽかったように思う。
菊池さんは望遠鏡(確か反射型だったと思う)とその周りの装置について説明してくださった。
でも一番印象に残っている話は、雷雨の時はこの中に稲妻が走ることがある、
という話だった。
菊池さんとはその後も何度か電話でお話したことがあるように思う。
 
天文台の周りは今は公園のようになっているようだ。
 

11/16/2013

Tangerine Dream out of The Wall

Tangerine Dream のアルバムにPERGAMONというのがある。
このアルバムはライブアルバムなのだが、そのライブは1980年に東ドイツの
Palast der republik(共和国宮殿)で行われたものだ。もちろん統合前のことだ。
このライブは東ドイツで初めて行われた西側ロックバンドのコンサートだった。
このときのチケットはその80%が東ドイツ政府関係者に渡ってしまい残りの20%
のチケットは売り出し5分で完売したらしい。

そのためコンサート開始前には900人の東ドイツ市民が会場に押しかけ、
かなり緊張した状態になってしまったらしい。そのままではガラスが割られ、怪我人
が出ることは必至だった。
そのためFroeseは彼らを無料で中に入れなければ我々は演奏しない、と言ったそうだ。
オフィシャルはその意見にしたがって無事にコンサートは行われたらしい。

その東ベルリンのことだけれど、私が住んでいる街にはドイツ系の会社が沢山ある。
またドイツ人もよくみかける。家の近くにはドイツ学校もあって毎年ドイツ祭りをやって
にぎわっている。
近くにドイツ系の会社(テュフラインランドTÜV Rheinland)があって、
その玄関先に「壁」の一部が置いてある.

これがその壁なのだが、非常に鮮やかなのはこの絵の作者が改めて塗りなおしたからだそうだ。
歴史的資料の改竄ではないか?と思った。
一般道路側からそこにいたる石段の途中に、いままで気がつかなかったが、Border Line
と書かれた小さなブロックが2個向かい合わせに設置されていた。


これはたぶん、実際の壁のあったところの手前の境界線を示しているのだろう。
しかしこのしるしから壁まではわずか数メートルしかない。
これが西側、つまりベルリンの内側だったからなのだろう。
 
東ドイツ側には絵は無く、コンクリートのままだ。
                    
 
こっち側のborderはどのくらいだったのだろう?と昔の写真を見たら緩衝地帯が
数十メールはあった。この壁を触ることすらできなかったろう。
 
ついでのことだが、このTangerine DreamのPERGAMONのCD、私の持っているのは
輸入盤だと思うのだが、ミスプリントがある。
下が正しいものでPALAST DER REPUBLIKとなっているが、
私のはPALAST DER REPBULIKとなっている。
 

 
 
 
 



 

11/14/2013

SF画 Chris Foss と Chris Moore

1978年頃の話だけれど、札幌に住んでしばらくしてから「未知との遭遇」「スターウォーズ」が
公開された。同時に関連グッズや雑誌も販売された。
両方の映画ともに宇宙船のデザインは見た事のないような斬新なもので、格好いいと思った。

ちょうどその頃、札幌のパルコの本屋で長岡秀星やロジャー・ディーンなどのSF画、ファンタスティック・アートの画集を売っていた。そのひとつにSF画を集めた雑誌があった。
そこで見つけたのがChris Fossだった。

 
 
この本には本当にお世話になった。Tangerine Dream や Pink Floydの音楽を聴きながら
眺めると最高だった。


絵の中に完全に入り込んで楽しむことができた。
クリス・フォスの画集は何冊か出ていた。それを買ったのが70年代だったのか80年代だった
のか忘れてしまったが、本屋で見つけると買っていた。

 
 
ところが他のSF画集の中にChris Fossととてもよく似た絵を描いている人がいた。
名前はChris Mooreと言う。
私はずっとこのクリスさんはクリス・フォスの別名だと思っていた。



 
 
しかし調べてみるとどうも別人だとわかった。
クリスフォスの画集を見ると彼の絵は現実のシーンを加工して作っている感じがする。
建設機械や軍の施設、設備などを元に描いている感じがする。
でも、クリス・ムーアさんの絵は何か独自のものを感じる。見た事の無い視点から見た
見た事の無いシーンを描いているものが多い。
 
この絵はムーアさんの絵で一番好きな絵だ。
 

11/12/2013

高槻の記憶 (4) ローハイドのテーマ

’60年、’70年のアメリカンTVドラマのほとんどが日本に入ってきていた
ということは前に書いたと思うけれど、その主題歌は決して同じではなかった。
メロディーは同じだけど、日本人が日本語歌詞で歌っているとか、あるいは
全く独自に日本で主題歌を作ったりしていた。
たぶんどこかのサイトに載っているだろう。

高槻にいたとき(小学校5年)のテレビの記憶で一番クリアーに残っているのは、
ローハイドだ。この番組だけは家族全員が居間で一緒に見ていた。
たぶん1回も逃さず見ていたはずだ。

ローハイドのテーマソングはフランキーレインの例の”ローレンローレン”だ。
しかし私が思い出として記憶しているのは、牛を追うシーンで必ず流れるメロディーだ。
そのメロディーは、実は歌詞が付いている歌だった。なぜそれをサブテーマソングにしなかった
のかは、アメリカのどこかのサイトに書いてあった。確か。たぶん。

その歌をドラマの中でロディー(クリント・イーストウッド)が歌うシーンがあった。
その歌を記憶していた。
そして、数年後の中学3年の頃に再放送があった時に、それをテレコに録音した。
その頃はまだビデオは家庭に無かった。確か。たぶん。

そしてそれを何度も聴いていた。
全部の歌詞がわかったのはずっと後だった。
社会人になって、人前で何度かその歌を歌ったのだけど、その歌を知ってる人は
あまりいなかった。と言うか、一人もいなかった。メロディーさえ知らなかった。
なぜだろう?と思う。
もう4年も前になるけれど、その歌をYouTubeにアップした。
やはりアメリカ人は「このメロディーはずっと記憶にあったよ」と言ってくれる人が
何人もいる。とてもうれしい。
でも一人若いのが「これはローハイドじゃない!」と書いてるガキがいる。
「お前はローハイドを知らない」と言いたい。

私はこの歌が好きだ。

C              F
Beyond the sun over the mountain
     C                G
there's a place my heart's longing to be
  C             F
Beyond the sun over the mountain
      C    G         C
There's a face my eyes hunger to see
    F                 Em
The long long road seems like an endless thing
    F                G
Somewhere, some place there is a home
   C            F
Beyond the sun over the mountain
      C    G                  C
There are lonely arms waiting for me waiting for me
 
 
 
 
 

11/11/2013

レコードからCDに

1979年頃だったと思うが、私はまだオーディオ業界で働いていた。
私がいた会社はレコードに関係した製品を作っていた。
その年のオーディオフェア、確か晴海だったと思うけれど、流通センターだったかもしれない、
に札幌から説明員として行っていた。
実際に説明していたのはベテランの営業の人や技術の人だった。だから私はそれほど
緊張も焦ることも無くその場にいたと思う。

休憩時間には自由に歩き回ることができたので、他のブースを見て回った。
全てのオーディオ機器の表示装置が変わっているのに気がついた。
その年より以前からそうだったと思うけれど、その時はそれがすごく気になった。
オープンリールテープデッキもまだ出展されていたが、表示はアナログメータでは
なく、デジタル表示だった。カセットデッキもそうだった。
さらにアンプやチューナーのボリューム調整などもアナログの可変抵抗器ではなく、
カチカチとクリック感のあるつまみだった。
つまり全てがデジタル化の方向になっていた。

一番人だかりのあったブースは(私の記憶では)SONYのブースだった。
そこの壁にはキラキラと虹色に輝くCDが飾られていた。
またその一角では実際にCDの音を出して聞かせていた。

私はその壁に飾られていたキラキラ光るものを欲しいと思った。
音はどうでもよかった。ただそのキラキラ光る板が欲しかった。

私はもう一人の社員の人と一緒に話しながら歩いていた。そのCDを見ながら
その人が「まだまだCD化されるレコードは少ないから、売れないね」と言っていた
のを覚えている。
でもそれから全てがCDになるのはあっと言う間だった。

でも音はどうだったろう。
そんなに安物ではないCDデッキで聞いていたけれど、「すごくいい音」という
感じはしなかった。初期のCD録音、CDデッキはビット数も少なく、サンプリング
それほど高いものではなかったと思う。でもたぶん20KHzはクリアーしていた
と思う。CDの音をいい音だとは思わなかった。

有名メーカーのCDデッキで、明らかにデジタル音のするものがあった。
サンプリング数が明らかに少ない感じだった。

そういえば、いつから「1ビット」AD/DAになったのだろう?
あの録音再生方式はマイコン初期のTK80でやっていたデルタ・シグマ変換だ。





11/10/2013

税務署

昔のことしか書かないと書いたくせに、今のことを書こうと思う。
これもそのうち過去のことになる。

知ってのように、会社の税金は前年の分が来る。
毎年売り上げが上がっていれば(たぶん)問題無いのだが、
右肩下がりだと前年の税金を払うことができない状態になる。

それでしょうがないので税務署に分納の相談に行く。
税務署も分割数によって前例が無いとか言って渋る。

前の担当者は「どこかから借りて払えませんか?」と言った。
思わず立ち上がって殴ろうと思った。
殴れないけど。
お前は借金地獄を勧めるわけだ。と思った。
なんとか粘って、その前例を作った。

また今年もその時期が来て、相談に行った。
分納の誓約書を書いて捺印するわけだが、
「判を押していただいたので、これが払えないと差し押さえになります」と言った。
それは脅しか?と思った。
担当者によっては「まあ、差し押さえになった方が楽かもしれません、もう督促行きませんから」
と言っていた人もいた。
それを言ったら、差し押さえがいかに怖いものかを説明し始めた。
こいつは悪魔か?と思った。

たぶんこうして自殺に追い込まれるまじめな経営者もいるだろうなと思った。
私のようにいい加減な人間は、そんなことでは死なない。たぶん。
I ain't down yet!





11/08/2013

記憶と思い出

このblogを書こうと思ったのは、以前紙に書いていたものをnetに残したらどうだろう、
と思ったからで、それは自分の記憶というのはどのくらい思い出せるものなのだろう?
と思ったからにすぎない。

「思い出」というのは記憶とは異なるように思う。記憶のかたまり、あるいは記憶に感情
が加わったもののように思える。そういう意味では私が書いているのは純粋な記憶を
書いているより思い出に近いのかもしれない。

記憶をたどるということは単純に時間経過に沿って思い出せるものではないようだ。
ピンポイントである時のことを思い出そうとするとぼんやりした概観のようなものしか
思い出せない。しかしある全く関係ない出来事でその時代のことが鮮明に思い出せる
ことがある。

前に車のことを書いた。その車がどんな車だったかを思い出そうとするとやはり
車雑誌にあるようなものしか思い出せない。しかし「あ、チョークが付いていた」と
気がついた時、運転席がどうなっていたかを鮮明に思い出すことができた。

だから、こういう風に思い出そうとして書いていること以上に記憶には残っている
ことは確かだ。頭の中の記憶の構造はどうなっているのだろう。

いままで仕事のことはあまり書いていない。バブルの始まる前からバブルがはじけた
頃までのことだ。この時代は思い出したくない。だからこれからも書かないだろう。
私が死んでもその頃のことは残らない方がいい。

11/05/2013

高槻の記憶 (3)

国道171号線

当時は国道が何号線かなど知らなかったのだけど、国道だということは知っていた。
向かい側にネコスという会社があった。確か椅子を作っている会社だった。

少し京都側に歩くと左側に「オアシス」というレストランだったのだろうか?があった。
屋根が三角に木組みされたような外観だった。赤い色だったような気がする。

もう少し行くと右側にユアサ電池の工場があった。道路側は瓦礫が捨てられていて、
その中に電池が沢山捨てられていた。そこで拾ってきた電池はまだ使えた。
なぜあんなに沢山捨てられていたのか知らないが、今では考えられないことだ。

その瓦礫捨て場?はかなり広くて、トロッコの線路があった。
友達とそこでトロッコを見つけて転がして遊んでいたら、工場から人が怒鳴りながら
走って来た。僕らは焦って逃げた。でも確かあの時1時間くらいトロッコで遊んでた。

自転車でもう少し走って、右の方に行くと淀川の川原に出た。
なんだか大きな川だなあ、という印象だった。

さらに国道を行くと左の山際にサントリーの工場があった。当時はテレビのCMで
その工場がよく映っていた。

高槻かた枚方のほうに自転車で行ったことがあったけれど、やたら遠かった。
しかもほとんど何も覚えていない。途中通った大きな橋の姿だけ覚えている。

茨木の方に自転車で行ったことはなかった。

家の縁側から国道を見ていたら自衛隊の戦車が走っていって、驚いたことがあった。
また縁側からは生駒山のアンテナがよく見えた。




高槻の記憶 (2)

ウサギ狩り

「うさぎ追いしかの山~」のウサギ狩りだけれど、そういえばやったことがあった。
1961年の話だけれど、高槻小学校全校生徒でやったと思う。
記憶があいまいだけれど、「摂津峡」という名前を覚えているので今の摂津峡公園
があるあたりだと思う。
学校から歩いて行った。雪がちょっと降っている日だった。
全校生徒で山をぐるっと取り囲んで少しずつ山を登ってくのだが、ちょっと考えてみると
当時は携帯もトランシーバーも無かったと思う。どうやってスタートしたのだろう?

とにかく道の無い山肌を登って行った。すぐそばに別の生徒が登っているので、
怖くは無かったが、やわらかな土が滑りやすくてうまく上れなかったのを覚えている。
私がすべり落ちそうになったのを先生が止めてくれたと思う。

1時間以上かかったような気がする。小雪が降っていたれど寒くはなかったように思う。
山の上までたどり着いたけれど、うさぎには出会わなかった。
また山を降りてからきいたことだけれど、ウサギが2匹つかまったらしい。
そのウサギがどうなったかは知らない。たぶん本校のウサギ小屋に入れられたのでは
ないだろうか。

しかしイノシシに襲われるとか考えなかったのだろうか?当時は。


映画

学校で映画鑑賞があった。
確か国鉄の高槻駅の北口を出て通りの右側に映画館があったと思う。
ものすごく古い建物で1階に椅子の座席があり、2階は取り囲むように桟敷席があった。
あれは芝居小屋だったのではないだろうか。
2階の正面で見たが、床がふかふかして落ちそうだったのを覚えている。
壁に役者の絵か看板がいくつかかかっていたように思う。

見た映画はディズニー映画だった。
ずっと「王様の剣」だと思っていたが、調べてみると日本での公開は1962年だ。
だからそれはありえない。
あの映画は何だったろう?







11/03/2013

タンデム


バイク
富士急ハイランドの近くの施設で大学のクラブの合宿があった。
あれは夏だった。クラブの中のバンド活動に限界を感じていた。
同じクラブにいたWilliam(1年下の学年だった)がある日
「もう帰りません?なんかもうどうでも良くなっちゃって・・・」と言うので
私も「おう、帰ろうか」と言う事になり、発表会の日を前にして二人でバイクに
乗って帰ってしまった。
その後私のいたバンドがどうなったかは知らないが、私は250ccのバイクの
後ろに乗り、富士急ハイランドから藤沢まで走ってきた。
途中どこかで休んだかどうかも忘れてしまったが、箱根を越える時に見えた
樹海の景色を覚えている。
今考えるとでかい男二人が250にタンデムで走っている姿は結構おかしかった
のではないだろうか。

後で知った話だけれど、あいつは本当は同じクラブのガールフレンドと一緒に
そのバイクで帰ってくるはずだった。それを私が乗ってきてしまったらしい。
ずっと後になって彼女から知らされた。

ハング
ハンググライダーを始める前に、実際はどんなだろう?と思い、タンデム体験を
したことがあった。
場所は板敷のタンデム講習(タンデムで教える)のスクールだった。
その日一日はスクールのスケジュールで一緒に行動して、飛べるようであれば
タンデムで飛ぶことができる。というものだった。
初めてハングを肩にしたのもその時だったと思う。

朝から板敷に行って、飛んだのはお昼過ぎだったと思う。
テイクオフはハーネスを着て先生の後ろに付いて一緒にランチャーの上を走る
のだが、先生の背中で足元はよく見えなかった。
後に一人で同じランチャーから飛んだが、あれは見えなくて正解だったと思う。
完全に崖だ。
前に出ていた機体が4機くらいいた。
最初先生がサーマルを探しながら上げて行き600メートルくらいのところで
操縦を交代してくれた。だからハングを自分で操縦したのはあれが最初だ。
全く怖い感じはしなかったが、思うように機体を制御できなかった。
風の音と景色がきれいだったのを覚えている。
また先生に代わってすぐの時だった、別の機体が近づいてきた。
その時先生が大声で怒っていた。全くこっちに気がついていなかったようだ。
降りてからも怒られていた。

あれがハングの初体験だった。

先日北海道でパラグライダーのタンデム事故があった。
先生が亡くなった。ベテランの方だった。
ああいう事故があると必ず「スカイスポーツは危険だ」とか「ハングとパラと
どっちが危険か」とかいう意見が飛び交う。
私が思うには、そんなことはどうでもいいと思う。
何をしようと、何もしなくとも、人生はいつも死が隣り合わせにいる。
危険だと思うこと全てから遠ざかっていると、何一つ体験せずに死ぬことになる。
「そーんなのはいやだ~♪」ということだ。
「だから君は飛ぶんーだ何処までも~♪」ということだ。




11/02/2013

高槻の記憶 (小学校)

小学校5年の1年間は大阪の高槻にいた。
高槻小学校は小学生の数が多かったようで、5年生は分校だった。
本校からあるいて5,6分だったと思う。

なんか軍で使っていた場所だと聞いたことがあるけれど、地図を見ると
お城の跡だったようだ。
(検索してもそれらしきものが出てこない。あれは大塚分校と言ったろうか・・)

中学校の端に小学校の校舎があった。木造で1階建て、何か古い感じがした。
 
通学路から堀を渡って(橋だったのかな?)学校の方に入った。
入り口のところが、たぶん昔は門があったのだと思う。その跡のようなものが
あり瓦礫の小山があった。
校舎の前には庭だったか草むらのような場所があり、休み時間に横になって
友達と空を眺めていたことを覚えている。
校舎とは別に音楽教室があったように思う。音楽の先生に悪戯して怒られた
のを覚えている。なんであんなことしたのかわからないが、衝動的に先生の
背中に何かした覚えがある。
最初の時に先生にちょっと歌ってみろと言われて何か歌った。
その頃はボーイソプラノだったので、みんな「いい声~」と言っていた。
そのことを覚えている。
 
中学生に目をつけられて学校の帰りに、その堀を出たところで殴られた
ことがあった。私は中学生が何か言ってきたのを理解できずにいたら、友達が
「逃げろ」と言った。走って逃げたが追いつかれて殴られた。
その時は泣かなかったが、あとで何でだかわからず涙が出た。
友達に「おまえなんで逃げなかったんだよ」と言われた。
その友達は花谷と言ったかな?。もう一人あとから転校してきた田辺という男と
も友達だった。
名前を知らなかったが、同じ頃東京から転校してきた男の子がいた。
話はあまりしなかったが、会うと「やあ」と笑顔で挨拶していた。
その笑顔だけ、覚えている。
 
高槻はもちろん大阪弁だった。あとでわかったのだけれど、その皆が使っていた
大阪弁は今はあまり使われないほどひどい訛りだったようだ。
私は最初は何を言っているかわからなかった。
ジャンケンをしようと言う時「インジャンホイ」と言っていた。
行きしな、とか帰りしな、という言い方を東京ではしない。それがどういう意味か
わからなかった。「しやしや」とか・・・
 
担任の先生、何ていう名前だったろう?、そのひとこそ最もひどい関西弁で、
ほんとうに何を言ってるかわからないことがあった。
「X」を「エッキュス」と言った。皆もそれを真似て「エッキュス プラス ワイ」とか
言っていた。
 
音楽の先生は「怒られたけど」、とてもいい先生だった。
考えてみると、あの頃から精神不安定だったのかもしれない。
時々「恐怖症」が出て、何も考えられなくなった。
できるだけ不安になるようなことは考えないようにしていた。
外から見ると変だったと思う。
 
 

11/01/2013

三鷹の記憶 (13)擬似カラーテレビ

家にテレビが来たのはいつだったろう?
下連雀の家だったことは確かだ。たぶん私が9歳くらいの時だと思う。
プロレス&ディズニーランド、少年ジェット、事件記者、私の秘密とか覚えている。

最初のテレビの筐体は木製だったろうか?たぶんそうだ。12インチくらいだったろうか。
他のうちの子供とかも一緒にみていた。
もちろん白黒テレビだったけれど、擬似カラーフィルターみたいなものがあった。
透明なプラスチックの板が3色に色づけされていた。それをテレビの前に付けると
画面に色がついて見えた。
 
実際のカラーとは違うけれど、雰囲気はカラーテレビだった。
これは電機屋で買ってきたのだろうか?なんか違う気がする。家に売りに来たのでは
なかったろうか。どうもそんな気がする。
この3色フィルターには改良版があって、それはこのプラスチック板がフレネルレンズに
なっているものだ。
 
これはかなり効果的だったように思う。それでその後に色付け無しで透明なフレネルレンズ
だけのものになったと思う。
このフレネルレンズは小さいテレビでも画面が大きく見えて、使えたと思う。
あまりよく覚えていないがこれはたぶんカラーテレビになっても使えたはずだ。
 
たぶんこの頃のテレビの解像度は300×240くらいだと思う。今のテレビが1600×1080と
すると面積にすると実に24分の1だ。今のテレビ放送のP-Pの画面よりも粗いかもしれない。
 
 
 
 

 


10/31/2013

三鷹の記憶 (12) 行商

六小(三鷹市立第6小学校)の東門の前にはよく業者がいろいろなものを
売りにきていた。昭和34,5年の頃の話だが。

●型抜き  今でも時々見るが、どうすればいい出来になるのかわからなかった。
●ヒヨコ   一日で死んだ。
●万華鏡  これは遊べた。
●夜光   小さな般若のお面を覚えている、他にも種類があったのだけれど、
       思い出せない。あの当時は放射能物質を使っていたと思う。それが問題に
       なったのはもっとずっと後だったと思う。
       みんな手の中で光らせて遊んでいた。
●キビガラ鉄砲  こんな格好だったと思う。
           キビガラを穴に詰めて、後ろから押すと「ポン!」という音がした。
           
            キビガラは飛んだのかな?覚えていない。

●輪ゴム鉄砲  これは買わなかった。というかちょっと高かったように思う。
           針金でできていて引き金を引くと輪ゴムを飛ばすことができた。
           2連とか3連とかもあったと思う。
           構造をはっきり覚えていない。
            基本形はこんな感じだが、針金をたくみに曲げたりして、
見た感じかなり格好良かった。 

●謎のガラス  これは万華鏡ではなかった。ガラスを3枚合わせて切り口を黒いパテ
          で固めて一応安全なようになっていた。長さは5センチくらい。
          万華鏡なら断面は正三角形だと思うが、これは直角三角形だった。


          ガラスは暗い緑色だったように思う。中に水が入っていた。
           横から覗いても特に何かが見えるわけではなかったように思う。
           
            あれは一体何だったんだろう?

●日光写真  これは印象に強く残ってる。
     
      値段は忘れたが、印画紙が何枚かとサンプルのネガが何種類かと台紙がセットに
       なっていた。後で学校の授業でやったのとほぼ同じだった。
        これは太陽にしばらくあてておくときれいに絵が焼けた。でもそのまま置いておくと         
        真っ黒になってしまった。あれはお酢が何かで固定できたのかな?
 
他にも何か売りに来ていたように思う。
あの頃は結構それを楽しんでいたように思う。
 
 


   

10/29/2013

三鷹の記憶 (11)一中

三鷹市立第一中学校に通っていたのは、1963年から3年間だと思う。
あまり楽しい思い出は無い。
勉強してただけのように思う。

1年の時は一応部活をやっていた。陸上部だった。
一中は100メートルのコースを直線で取ることができた。しかも前後に余裕があった。
トラックも確か一周200メートルが余裕でとれたと思う。
10周で2000mだったように思う。
短距離は自信があったのだけれど、長距離がぜんぜんだめだった。1000m走るともう
バテバテだった。それで主にハイジャンプをやっていた。
あんまり走らなくていいし、楽そうだったから。
部長(小川さんって言ったかな?)は厳しかったかれど、あまり無理を強いるひとではなかった。
いまでもその感じを思い出す。



正門の前には第一パンの工場があって、売店が道路脇にあった。お昼はよくそこで
パンを買って食べた。
正門の左側に体育館があった。前にも書いたが、NHKの喉自慢をやったことがあった。
バイオリンの潮田益子さんのコンサートを観たことがあった。あれは確か音楽の先生の
中村彦作先生の教え子だったからではなかったろうか。
中村先生はひどい訛りがあったけれど、明るい先生だった。音楽の時間は楽しかった。
音楽室は校舎2の一番東のはずれの2階だったと思う。黒板の両側に大きなダイアトーン
のスピーカーがあって、それでレコード鑑賞をやることが多かった。
その頃はクラシックオタクだったのでその授業をよく覚えている。

校舎3は確か技術家庭課の教室があったと思う。真空管ラジオを組み立てたことと、
何か木工をやったのを覚えている。木を切るとき丸鋸盤で切ったのだけど、それは
先生が切ったように思う。木っ端で板を抑えて切っていた先生を覚えている。
その先生の名前は思い出せないけれど容姿はよく覚えている。

私は2年、3年は図書委員だった。確か図書館はここにあったと思う。
ずっとそこにいたと思うのだけど、高校の図書館ほどは覚えていない。

校舎1の1階に職員室があったと思う。
3年生の時はその校舎の2階だったように思う。
校舎1と校舎2の間には庭があって何か植物が植わっていたと思う。
渡り廊下が2本あったと思う。

あと何を覚えている?

「科学教室」というのがあった。
あれは推薦だったのだろうか?小平の中学校に出向いてそこで科学の授業を受ける
というものなのだが、私はそれに行きたくて担任の先生(橋本先生)に頼みに行った。
そうしたら先生に「あれはお前、Kのような優等生が行くものだぞ」と言われた。
すごくショックを受けたのを覚えている。しかし、しばらくして先生に職員室に呼び出されて
「お前に行ってもらうことにしたから」と言われた。うれしかった。
小平の授業は12人くらいだっただろうか、少人数ですごく面白い授業だった。
しかし、私が全く知らない言葉が出てくることがあった。私がまだ習っていない事だった。
今思うと、ああいう授業を全員にやるべきだったと思う。

あと何を覚えている?

工藤君が亡くなった話を聞いたのは校舎1だった。そうか、工藤君はもうすぐ卒業する
ところだったんだ。

小学校4年の時に一中のグランドで模型飛行機の大会があった。
私はそれに出て確か10位に入った。グランドの真ん中あたりから飛ばして
何回か旋回して東のフェンスのあたりまで飛んだ。
あ、あの時は2回飛ばしたんだった。1回目でフェンスにぶつかって翼の一部が曲がって
しまった。それを直して、2回目を飛ばしたんだった。
壊れていたのに良く飛んだと思う。
何か賞をもらったって、あれくらいだな。

10/28/2013

三鷹の記憶 (10)第九書房

三鷹駅の一番古い記憶は、駅前(南)の広場は少し盛り上がった感じになっていて、
車は駅舎の前に停められた。という記憶なのだけれど、それは本当の記憶かどうか
わからない。何かの写真で見たものを覚えているのかもしれない。
駅舎は当然1階建てでどこかの田舎の駅のような感じ。

次の記憶はそのバスが着くすぐ脇の1階で切符を売っていなかったろうか?
1階で切符を買って渡り廊下を渡ってホームに行く・という感じ。
それはたぶん小学校6年だな。それ以前は主に吉祥寺駅を使っていたから。

駅舎が2階になってから、各バス停の方に渡り廊下がなかったろうか?
なんか記憶にある。山中住宅方面大沢行きはその廊下を斜めに渡る。
その廊下を降りた・・・降りるところはどうなっていただろう?・・・ところに
第九書房があった。
付けてくれる表紙が好きだった。なんか古風な・・・どこかに残ってないかな?・・・
威厳のある感じの表紙だった。

第九書房の中はこんな感じではなかったろうか・・・かなり適当だが。

 
端の入り口を入ると奥におじさんが座っていた。私はそのおじさんが好きで
いつもおじさんの方で買っていた。
おじさんの前の書棚にブルーバックスがあった。そのあたりで本を探すことが多かった。
入ってすぐ右手にもレジがあったと思う。
おじさんの前あたりが文庫本がたくさん並んでいたように思う。
雑誌はどこにあったろう? 壁側だったかな。
 
床は途中で段差が無かったろうか?
左側は一段低くなっていたように思うけれど・・気のせいか?・・
 
まあ、私の記憶ではこんな感じなのでいつまでもこのイメージで覚えているだろう。
よく入った本屋にしてはあまりよく覚えていない。
2階には第九茶房があった。何度か入ったことがある。
 
ロータリーの東側に三鷹楽器があり、その下にJinJInという喫茶店(レストラン)が
あったと思う。よくそこで待ち合わせをした。いつもナポリタンを食べた。
どう考えても三鷹駅前の記憶イメージというのはこんな感じだな。
 
 
床屋と書いたところに床屋があったと思う。
とても安かったと思う。小学生のころお金を握ってここまで散髪に行った記憶がある。
第九からちょっと歩いたところにも本屋があった。ちょっと古いお店だったけれど、
岩波文庫の「カレワラ」が全冊そろっていて、いつか買おうと思っているうちに
買わずじまいだったので、覚えている。
模型店はタバコ屋の2階だったかな?確か有名人の実家だった。
 
この地図の隙間にどんなお店があったのか?・・・
記憶の底を探るのも面白いかもしれない。
 

10/27/2013

卒業

考えてみると小中高大と卒業した時は全部三鷹に住んでいた時だった。
小学校の卒業式では「仰げば尊し」は歌わなかった。
高校も歌わなかったと思う。
でも中学の卒業式では歌ったように思う。
三鷹一中の体育館でだった。
三鷹一中の体育館は第一パンの工場のあった道路側にあった。
確かNHKののど自慢もそこでやった。
私達の学年は500人近くいたと思う。J組まであったから。
「仰げば尊し」ときくとその体育館を思い出すので、その時は歌ったのだと思う。

「仰げば尊し」というタイトルもその時歌った歌の内容もどうでもよいのだけど、
スーザン・オズボーンがこのメロディー(元々アメリカの歌)に英語歌詞をつけて
歌っている。
その歌詞がすばらしい。
スーザン・オズボーンという人は他にも日本の歌に英語詩をつけて歌っているが、
日本という狭い国を歌うことはなく、地球の歌にして歌っている。

この歌は泣けるほど美しいと思う。

 
 
Suspended on the edge of time
Remembering who we are
Our blue green planet spins and turns
Around a burning star
Across the silent galaxies
The universe unfolds
This great ship sails the seas of space
Toward the vast unknown

Companion travelers all are we
Whether stranger foe or friend
Evolving through these births and deaths
A spiral without end
Sharing joy and sorrow
Our laughter and our fears
We're learning in this school of life
Together through the years

The universe within our hearts
Embraces all that live
True rest we find and peace of mind
Are all we have to give
Our place is here our time is now
Sunrise to sunset
The beauty of these days we share
I never will forget
 

10/26/2013

三鷹の記憶 (9) 工藤君のこと

工藤君のことを書こう。
誰か工藤君のことを思い出すだろうか?

アルバムを見ていて思い出した。
私は6年の時は7小だったけれど、中学は六小の友達とまた一緒になった。
中学1年の遠足の写真に写っている。

工藤君は転校生だったのだろうか?どうもその前の記憶が無い。
髪はいつもボサボサで強い訛りがあった。
あの訛りはどこだろう?あまり聴いたことがない訛りだ。

工藤君は明るくいつも楽しそうにしていた。
そうだ、いつも何か歌を口ずさんでいた。
何の歌だったろう・・・

工藤君は新聞配達をしていた。
ある朝、自転車で新聞配達中にトラックとコンクリート壁にはさまれて死んだ。

彼はたったの14年しか生きなかった。
私は遠くまで来すぎた。

10/25/2013

三鷹の記憶 (8) 夏が来れば・・・

記憶を呼び覚ますものは「匂い」だとどこかで書いたけれど、もうひとつ「音楽」があった。
ある歌を聴くとその歌を聴いたころの気分に戻ることがある。
子供時代では大阪から三鷹に戻った頃、小学校の6年の頃が一番思い出深い時代
だと思う。その頃はやっていた歌で「レモンのキッス」原題は"Like I do"かな?
この英語版の方を聞くと昨日書いた初恋の頃の気持ちを思い出す。自転車でその子
の家の近くを走りまわったりしていた。

同じ頃音楽の授業で習っていたうたもそうだ。
「おぼろ月夜」、こっちの方が強烈かもしれない。
いろいろな感情を思い出す。
学校へ行くまでの畑の匂い、校舎、図書室の匂い。

夏の林間学校の時に歌った「夏の思い出」。
これもかなり強烈に思い出す。
尾瀬ではなく箱根だった。
林間学校で泊まった宿の長い洗面台で歯を磨いた時の水と歯磨きの匂い、
隣の小学校の校庭でやった朝のラジオ体操。
その彼女はぴったりのスラックスをはいていてうまく運動できないようだった。
それを先生に注意されていたのを覚えている。

記憶に結びついている歌はなるべく歌わないようにしている。
なるべく聴かないようにしている。
そうした方が記憶が薄れないから。


10/24/2013

三鷹の記憶 (7)初恋

小学校6年の時一時的に離れていた三鷹に戻ってきた。
戻ってきたのは以前住んでいた下連雀ではなく上連雀だった。
だから小学校6年の新学期の転校生だった。
先生は女性の若い先生で(たぶん若かった、めがねをかけて当時は年配に見えたけれど、)
明るい活発な先生だった。
私のクラスは40人くらいだったろうか、私以外はみな下の学年から来た子たちだった。
私はクラスでも背が高く、転校生ということもあってみんなが良くしてくれた。

最初に親友になった男は頭が良く小学生だったけれどギターが弾けた。スポーツも得意
で彼はクラスの一番の人気者だった。
学校の帰りも彼と二人で寄り道をしたりして、とても仲が良かった。

いつだったかクラスの体育の時間にドッジボールをしたことがあった。
当時は女子も男子も一緒の授業だった。
2つのチームに分かれてドッジボールをした。
前から気にはなっていたのだけど、相手チームに一人の女の子がいた。みんなよりちょっと
背が高く、やはりクラスの優等生だった。
その彼女のところにボールが行って、彼女はそれを私に投げ返してきた。
私はそれを受けてまた彼女に投げ返した。彼女は他の子に返せばいいのに、また私に
投げ返してきた。その時彼女の顔が赤くなっているのがわかった。
私はもう一度彼女に投げ返した。彼女はそれを受け損ねてしまって笑いながら外に出た。
私は何か悪いことをしたような気がした。けれど他の子達は私は、思いもよらなかったけれど、
私とその女の子をはやしたてはじめた。
私はちょっと恥ずかしかったけれど、その時何かおかしな感情が生まれたのを覚えている。

その時から、授業中に彼女と目が合うとお互いに笑い返したりしていた。
しかし、私の親友だった男の子と話をしているときに彼も彼女のことが好きだったことを知った。
私が来る前の学年からそうだったらしい。それで彼女も彼のことを好きだったらしい。
その話をしてからもずっと彼とは親友だった。二人とも彼女のことが好きだった。
それは確か3学期まではそんなことが続いたと思う。

その後、私は以前からちょっと精神的におかしくなることがあって、全ての人を自分から
排除しようとし始めていた。その感情は今はもうわからないが、友達すべてが気に入らなかった。
友達だけでなく親以外の誰も気に入らなくなった。
そのまま友達とも気まずいまま小学校を卒業してしまった。

時々夢であの初恋の時の感情が現れることがある。
夢から覚めてもその日はその感じを思い出す。
あれは不安と紙一重の感情のように感じる。

10/23/2013

三鷹の記憶 (6)バス

小学校低学年の頃(昭和35年頃)、家に一番近いバス停は「品川上水」だった。
そこの前の道は2車線で今よりも狭かったはずだけれど交通量は多かった。
兄が道を渡ろうとしてバスのすぐ後ろを飛び出し、車にはねられそうになったことがあった。
その時父はひどく怒った。
いまだから父の気持ちがわかるが、当時はあまりに怒っている父が怖かった。
父は「こんな子供は警察で罰してもらう!」と言って、交番に行くと言い残して
兄と行ってしまった。
私は家ですごく不安な思いでまっていた記憶がある。
しばらくして兄はニコニコしながら父と帰ってきた。
たぶんどこかで時間をつぶして帰ってきただけなのだろう。
今でも品川上水(今はもうないのかな?)バス停のところを通るとそれを思い出す。

記憶の底では三輪のバスが走っていた記憶がある。
運転手は足を広げて座ってオート三輪のハンドルで運転していた。
出入り口は真ん中あたりにあった。当然女性の車掌さんがいた。
品川上水のところを走っていたから三鷹---吉祥寺路線だったのだろう。

東京駅の前から三鷹か吉祥寺までバスに乗ったことがある。たぶん東京駅だったと思う。
そのバスはトレーラーバスだった。今の長距離トラックのように運転手側と客車が別れて
いた。運転手側の脇には煙突があって黒い煙を吐いて走っていた。
全体としてすごく長かったように思う。
なんの時に乗ったのか覚えていないが、すごく長い時間乗っていたように思う。

吉祥寺のサンロードのところもバスが走っていた。
つい先日吉祥寺に行くことがあった。あらためてサンロードを歩いてみると、
「いや、ここはバスはすれ違えないだろう」と思った。バスが一台走るのがやっとだ。
一方通行だったのだろうか。

品川上水のところを走っているバスは小田急バスだ。
赤白のツートーンで犬のマークがある。
先日久しぶりに小田急バスのマークを見てすごく懐かしかった。



10/20/2013

三鷹の記憶 (5)

 
子供の頃の記憶は思い出せないくらいたくさんあると思っていたが、いざ思い出そうとすると
あまり思い出せない。断片的に思い出したものを書いておこう。

 

[1]
地図の1番のところに広い原っぱがあった。畑だったのかもしれないが、そこで友達と
遊んだ記憶がある。草原があって、「そこにウズラがいるから取りに行こう」と友達が
言うので行った覚えがある。しかし1961年頃だからさすがに野生のウズラがいるわけがない。

[2]
ここには立野病院という病院があった。当時としては大きな病院だった。確か2階建てだった。
その一部が小さな公園になっていて(あるいは公園が隣接していて)子供達が遊んでいた。
夕方になると病院の看護婦さんが病院のテレビを外に向けてくれて、子供達がおおぜい
その公園のところから見ることができた。「スーパーマン」や「ノンちゃん雲に乗る」、
「少年ジェット」などはそこで見たように思う。立野先生という先生はとてもいい先生だったのだろう。

[3]
ここに金物屋があった。釘やネジやヤスリなどを買いに行った覚えがある。またその近くに
テレビを作っている工場があった。今思うと町工場という感じなのだろうが、当時は立派な
工場だと思っていた。「みなみテレビ」とか言ったかな?
この通りのお店には友達の家が多かった。肉屋さんとか八百屋さんとかみな小学校の
同級生だった。

[4]
ここに貸し本屋があった。マンガや何か本を借りた。立ち読みもした。
貸本屋というとここを思い出す。

[5]
ここに模型屋があった。「ミヤコ模型店」と言ったと思う。プラモデルをたくさん買った。
またモーターやギヤーやプーリーも品揃え良く置いていた。そういおう部材もよく買った。
夫婦でお店をやられていたようで、お二人の感じは今でもよく覚えている。
模型屋は駅前の[9]のところにもあった。角のお店の2階だったように思う。

[6][7]
八幡神社と神明神社。お祭りの時はよく行った。お祭りでなくても友達とよく行った。

[8][12]
井の頭公園の近くは前にも書いたけれど、よく自転車で遊びに行った。
公園の多摩川上水ちかくにちょっと山になったところがあって、自転車で駆け下りて
遊んだ。あの小山はまだあるのだろうか?

[11]
ここに歯医者があった。日本無線の斜め向かいだった。たぶん生まれて初めて行った
歯医者がここだった。ベルトがプーリーの間を回る音が今でも覚えている。
当時の歯医者はめちゃくちゃ痛かった覚えがある。
(追記:風祭歯科と言ったように思う)

[10]
日赤病院から坂を下ったところに池がなかったろうか?プランクトンをとりに行った覚えが
ある。

[13]
ここに映画館があった。よく小学校の映画鑑賞で行った。「24の瞳」とか「路傍の石」とか記憶に
ある。もう1件[9]のあたりにも映画館があった。ノザキ楽器三鷹店の脇だったのではないだろうか。
兄と「日本海海戦」を見に行った覚えがある。その時に予告編として「液体人間」という
映画を紹介していたけれど、それが怖くて「日本海海戦」はほとんど覚えていない。

[14]
三鷹電車庫。陸橋があってそこから下を走る電車を見に行った。
このあたりは友達の家も多かったのでよく行った。
ところで三鷹駅の西側に踏み切りがあった。武蔵野市と三鷹市をつなぐ踏切だった。
あの踏み切りも開かずの踏み切りだった。しかも三鷹駅からのほとんどの路線バスが
その前を通らなかっただろうか?あの当時いったいどうやってバスは駅の方に行った
のだろう?とても大変だったのではないだろうか。

10/15/2013

思い出したこと (札幌を去る時)

札幌から東京に帰ろうと思ったのは札幌に住み始めて5年目だったと思う。

だから1979年頃だ。
工場長にまず話したと思う。特に反対とかはされなかった。とても親身になって話を
きいてくれたと思う。

帰ろうと思っても仕事も変えなければいけないし、住むところも決めていなかった。
実家に帰るのも何か気が進まなかった。それでまず仕事を探そうと思った。
最初は雑誌・トランジスタ技術の募集欄を見て探していたが、どうもいいところが無かった。
しかもトラ技は1ヶ月ごとにしか来ないのでらちがあかない。
それで新聞屋(道新をとっていた)に頼んで東京の朝日新聞に変えてもらった。
新聞は1日遅れだったけれど、ちゃんと届いた。

なにか良さそうな募集を見つけたら電話で問い合わせした。
しかし、「今札幌に住んでます」と言うとほとんどのところが「東京に移ったらまた
電話してみて」というところばかりだった。

それでも、「東京に来た時に面接でOKです」という会社が2,3社あった。
それで夏に東京に行った時に面接を受けることにした。
夏に東京に帰ったときは兄が空港まで来てくれて、兄のところに泊まることにした。
空港から千葉の方に向かう時に周りの工場地帯や倉庫群や林立するマンションを
みていたら「ほんとにこっちで暮らせるのか?」とすごく心細くなったのを覚えている。

面接は出版社と電機関係の会社とテレビゲームなどを作っている会社だった。
テレビゲームの基盤を作っていた会社は、当時増えてきていたマイコン応用機器も
作っていた。それでそこが面白そうだったので、結局その会社にはいることになった。

札幌の会社を去る時は、社長や工場長がほんとによくしてくれて、
失業手当がもらえるようにしてくれた。また退職金も年数分用意してくれた。
そのお金は本当にその後の助けになった。


私はその時はソフトも組めなかったし、ハードも素人仕事しかできなかったので、
最初の1年は営業の仕事だった。それは結構面白い仕事だった。
電話で問い合わせしてくる工場や学校、研究所の人に自社の製品を説明するの
だが、技術屋が営業用の資料を作ってくれないので、結局自分で作ってやっていた。
1台が安いもので50万円、高いもので500万円くらいの製品を売っていたが、
当時は同じようなものを他では売っていなかったので、次々売れた。
2年目の私一人の売り上げは1億円を超えていた。

2年目くらいからは自分がアナログ回路が得意だったので、回路の設計の方もやった。
その頃の設計の仕事は本当に面白かった。
回路をチェックするためのソフトも自分で作るようになった。

あの頃が一番日本の景気が良かった頃だったのだな、と今思う。

10/14/2013

三鷹の記憶 (4)自転車

三鷹の記憶で書いているのは小学校4年の頃の話。だから1961年頃のことだ。
三鷹市内はほとんど自転車で走っていた。走っていない小道は無いかもしれない。
走っていない道があると探して走っていたから。
 
是政
南へ一番遠くまで走ったのは是政だろう。年上の友達と一緒に走った。途中で怖くなった
のを覚えている。他の子達もわざわざ是政までザリガニ取りに行ったりしていたようだ。
 
調布飛行場
調布飛行場はよく行った。格納庫の裏から入れた。
セスナが主だったように思うけれど、複葉機も飛んでいた。黄色の機体でちょっとずんぐり
した感じだったように思う。
 
東京天文台
飛行場に行った時は天文台も眺めた。崖の下からドームが見えたように思う。
その風景を覚えている。ちょっと未来的な感じがした。
ずっと後になって仕事で中に入ったことがあった。これがあの時眺めたドームか、と思った。
 
 

 
基督教大学
基督教大学は好きだった。キャンパスはどこかテレビで見た外国のような風景だった。
きれいに刈られた芝生が広がっていた。
正門から建物のあるところまでまっすぐな道だった。つきあたりを右へ行くと大学の校舎があった。
左に行くと天文台の続きの崖まで行くことができた。その崖は多摩丘陵の淵だ。
崖のところには小さな水の流れがあって、それが崖のところで滝になっていた。
そこに沢蟹がいて、子供達はそれをとったり、水遊びをしたりしていた。
崖は岩ではなく赤土だったように思う。
 
崖の手前に防空壕があった。子供達は懐中電灯やろうそくを持ってそこに入って遊んでいた。
どのくらいの距離があっただろうか。数十メートルはあったように思う。入り口とは別の所に
出口があった。しばらくしてそこは閉鎖されてしまったけれど、2回は行ったように思う。
その頃は懐中電灯も無かったので、空き缶の壁に釘を刺して、そこに小さなろうそくを
立てて、火をつけると懐中電灯のように使えた。缶の内壁で光が反射してけっこう明るかった。
 
前・神代植物園
神代植物園はまだできていなかった。深大寺は毎年ダルマ市が立って、子供達でよく行った。
ダルマは買ったことが無かったけれど、おもちゃやゲームをやっている屋台がたくさん出て
それ目当てで行った。
植物園ができる辺りは草原だった。今バラ園のあるところは当時も少しくぼ地になっていて、
きれいな草原だった。その草原を自転車で駆け下りて遊んだ。
 
新川
新川はほとんどがたんぼだった。家からも近かったのでバッタやザリガニを取りによく行った。
川の脇に沼があってそこにはフナもいた。
沼の淵には木が茂っていてその木の枝に白い泡のようなものがたくさんあった。
子供達はあれは蛇の卵だよ、と言っていたが、よく考えたらそんなことはないとわかった。
後で知ったのだが、あれはモリアオガエルの卵だった。木からポタポタと沼に落ちて
おたまじゃくしになるようだ。
イナゴもトンボも(オニヤンマもギンヤンマも)たくさんいた。ヤマカガシもアオダイショウも
いた。森の方には山猫がいるから行くな、と子供達では行っていたけれど、
そんなものがいるわけもなかった。
 
そのほか
小金井公園にも何度か行った。井の頭公園から三鷹台、西荻窪まで走った。
鉄塔は追わなかったけれど、どこまでも走った。
 
 
 

10/13/2013

三鷹の記憶 (3)下連雀の南側

 
六小のところに書いた小川だけれど、地図の痕跡をたどると六小のグランドの下(たぶん暗渠)を流れて三和グランドの方に流れていたようだ。六小の上をたどると南浦のところまで斜めに痕跡がある。その先をたどると・・・どうも桜通りになっているようだ。
昔は桜通りが品川用水(上水)だったのだろうか。住んでいた時には思いもよらなかったが、
たぶん勘ではそうだろう。
記憶の一番古いところではこの川はとてもきれいな川だった。魚が泳いでいたし、川縁には水草が
あった。
 
 
三和グランドは三和銀行の施設だったのだろう。

中はほぼ芝生で覆われていて、野球グランドがあった。大きなスコアーパネルもあって
立派なグランドだった。
その脇に遊具がいくつかあった。
普通のブランコと4人乗りの向かい合って座るタイプのブランコだ。でもそのブランコには
まともに乗ったことがない。たいていは座席の後ろに立って乗って最大ふり幅までこいで
いた。最大になるとガチャンと大きな音をたててブランコが上にくっついてしまう。
それをまた戻して同じ事を繰り返し遊んでいた。
思い出した野球グランド側と遊具のある側の間には橋があった。橋の下は小川だった。
水が流れていた記憶が無いが、川だった。あれが品川用水だったのだろう。

三和グランドの西側には今病院があるが、これは後からできたような気がする。
その場所には浅野セメントと書いたセメント工場があったと思う。
その西側は広い草むらだった。セイタカアワダチソウが生い茂ったりしていた。
子供の我々は草むらの中の方の草を全部倒して、外から見えない秘密基地を
作ったりしていた。

その先がどうなっていいたのか記憶が無いのだが、おそらく畑だったのではないだろうか。
あるいは、ずっと市役所前の通りまで草原だったような気もする。

一中のひがし側は畑だった。南の方に向かって少し丘になっていたようにも思う。
一中の南東のあたりで小学校の写生大会があって、私は畑の中に1本だけ立って
いた柿木を描いた。それが何かの賞をもらったのでよく覚えている。

大成高校の前を東西に走る道路だが、我々子供達は「広い道」と呼んでいた。
砂利道だった。その道を兵士が運転した米軍のジープがよく走っていたように
思う。どこへ行っていたのかわからないが記憶にある。

六小の道路を挟んで南側には三菱?だったかの研究所があって、当時の皇太子、
今の天皇が訪問したことがあったと思う。
六小の遠足の時はその六小南側の道路に観光バスが並んで停まった。

六小だが、今プールがあるところにも校舎がなかったろうか?
私の小学校4年はそこで勉強したと思う。
北側の敷地内には富士見学園があった。

校庭では映画上映会をやった。
柱を2本立ててそこに白い幕を張って映画を上映した。
何度かあったと思うが、覚えているのは「我は海の子」という映画だった。
映画の中で亡くなったお父さんの亡霊が出るシーンがあって怖かった。

市役所の東側に東大の寮が無かったろうか?
何か記憶にある。
道路(人見街道)からそこまでは草むらだった。

10/12/2013

三鷹の記憶 (2)下連雀

小f学校の低学年の時は、第六小学校に通っていた。
六小の校門の東側はすぐに畑だった。その北側は空き地になっていて車が何台か停まっていた。
畑は校門の前からずっと次の道まで畑だった。

その畑はいくつかに別れていたけれど、麦畑と葱畑とキャベツなどが植えられていた。
麦畑はその中でよく隠れんぼをした。麦の中に穂が真っ黒になったものがあった。
麦の穂は素手で触って指を切ったりした。

六小の北側は篠原病院だったが、その向こうはキャベツ畑だった。
モンシロチョウがたくさん飛んでいてた。
校門の右側には文房具屋があった。杉田さん、と言ったが今もあるようだ。
杉田さんは文具よりも駄菓子やおもちゃを置いていた。
ソースイカ、やイカせんべい、ガラス管に入った色つきの寒天、そのほかほとんどの
駄菓子があった。
くじ引きもあった。

六小から見て二つ目の空地は子供が野球をよくやっていた。
また柱を立てて白い幕を張り、映画を上映したことが何度かあったと思う。
覚えている映画のひとつは「しいのみ学園」。それから「つづり方教室」だったか
そんな名前の映画を覚えている。いずれもちょっと悲しい映画だったように思う。

このあたりの畑は冬は何も植わっていなかったので、子供の遊び場になった。
凧揚げもこの畑で上げた。

六小の南には林があった。
林は主に杉の木だったように思う。でも広葉樹もその間に生えていた。
カブトムシやクワガタがいた。
蛇(ヤマカガシ)もよくみた。
林は、その頃子供達の間で「広い道」と呼んでいた道の両側にあった。

南側の林の脇には小川が流れていた。
たぶん品川用水(上水)だと思う。
始めは、その小川はとてもきれいな水でフナやさわがにが棲んでいた。
その側は昭和35年頃からだろうか、下水のようになってしまい、赤や緑色の水が
流れるようになった。生き物はほとんど全滅して糸ミミズのようなものしかいなくなって
しまった。

六小の道路を挟んで西側に工場があった。その工場には「山水」と書いてあった。
当時の子供達はその読み方を知らなかった。トランスを作っていた。

「注意一秒・怪我一生」という交通標語は確か当時の六小の子供が考えた
ものだったときいたことがある。

三鷹の記憶 (1)吉祥寺の近く

忘れないうちに書いておこう。

噴水のある喫茶店
サンロードをバスが交互通行していた頃、サンロードから1本東寄りの路地に
噴水のある喫茶店があったと思う。
私の記憶で最も古い記憶のひとつだ。
父に連れられて4歳か5歳の頃に行った。
そのお店で何か飲み物を飲んだが、テーブルの向かい側に植物があって、
その間だを小さな噴水が幾つもあった。
その噴水がとても印象的だったのだと思う。
ずっと忘れたことがない。

吉祥寺駅の踏み切り
吉祥寺駅の三鷹側に踏切があった。
開かずの踏み切りだった。
井の頭公園の方から吉祥寺に向かうバスはどうしていたのだろう?と今にして思う。
あの焼き鳥屋の前の道も今より細かったと思う。
踏み切りを渡ろうとする車と右折して吉祥寺駅あるいは水道道路の方へ行く車は
どうやって右折したのだろう? 全く記憶に無い。
踏み切りを渡ってしばらく行くと左手に「名店会館」というビルがあった。
吉祥寺では最も早くできたデパート形式のビルではないだろうか。
中に古銭や切手を売っている店があってよく遊びに行った」。

野崎楽器店
駅前のサンロードから西にちょっと入ったところに野崎楽器店があった。
学生の時にずっとバイトをしていた。
1階がレコード屋になっていて、2階が楽器屋になっていた。
レコードもギターも良く売れていた。
いつだったか天地真理がキャンペーンで来たことがあった。
またあるときレコードメーカーの良く来る人が「すごい歌手が出たよ」と言いながら来た
ことがあった。その人のメーカーではないのに、いかにすごいかを店長に話していた。
その歌手は尾崎紀世彦だった。

蛇屋
その踏み切りの手前に蛇屋があって、ガラスショーウィンドウの中に蛇が
とぐろを巻いていた。私は平気だったが、その前で騒いでいる女の人がよくいた。

井の頭公園の池
今もあるが、ボート乗り場があった。子供達数人でよくボートに乗った。
乗ってボート同士をぶつけて遊んだ。
いつだったかそのうちの一人がぶつかったボートに指を挟まれて大怪我をした。
事務所で怪我の手当てをしてもらったが、なぜか怒られることはなかったように思う。
誰も落ちた子はいなかったが、落ちると泥に足をとられて上がってこれなくなる
といううわさがあった。

蛇と言えば、その池の近くに宇賀神像とかいうのがあって、体中を蛇に巻きつかれた
人の像があった。何の意味かわからなかったがちょっと不気味だった。
たぶん今もあるのだろう。

多摩川上水
公園のはずれに多摩川上水が流れていた。
いつも水量が多く、水は白く泡立つように渦を巻いて流れていて、万助橋から見下ろすと
吸い込まれそうで怖かった。
川はあまりの流れの速さで壷のような形状になっていて、流されたら絶対に上がって
これないといううわさがあった。
しかしそうなっていなくても落ちたら一瞬で見えなくなるくらいの流れだった。

山本有三文庫
多摩川上水の脇に山本有三文庫があった。
この建物はテレビのドラマに出てきそうな洋館で、建物自体も背の高い木に囲まれて
不思議な雰囲気を持っていた。
その建物は図書館になっていて無料で登録すると中で本を読むことができた。
その図書館には良く通った。
部屋は独特の匂いがあった。あれは単に本の匂いではないと思う。
今でもちょっと思い出すことができる香りだ。

有三文庫のすぐ近くで撮影された映画のシーンがあった。
小栗康平の「伽倻子のために」という映画だ。
水道局の人が夜中に鉄の聴診器にようなもので水道漏れの音を聞きながら
歩くシーンだ。映画をみた時にすぐにその場所がわかった、と同時に
あのあたりの雰囲気に包まれた。

平沼プール
たぶん2,3回行ったと思う。前にも書いたけれど私は泳げないのでプールには
あまり行かなかった。行ってももぐって遊んでいるくらいだったから。
私が小学校4年生の時だったろうか、年上の友達だった男の子がプールで溺れて
亡くなってしまった。お葬式の時のお坊さんの読経と祭壇で笑っているその子の
写真を今でも覚えている。
その後転校した先でついたあだ名がその亡くなった子と同じだった。
だからいつもその子のことを思いだしていた。

八丁地下道
平沼プールのところの中央線をくぐる地下道をこう呼ばなかっただろうか?
その地下道は坂になっているので自転車で思い切り走るとスピードが出た。
自転車にメーターを付けて時に走ったら35キロくらい出た。
たぶん今は車の交通量が多いのでそんなことはできないだろう。

水道道路
さっきの踏み切りの西側、水道道路の延長部分はもともとは住宅地の間の
路地だったと思う。今は三鷹の方までずっと延びているけれど、
踏み切りから三鷹の方まで砂利道だったのを覚えている。
自転車で走るとすごく走りにくかった。だからあまりその道は通らなかった。
砂利道が直行する道路と交わるところには橋の欄干が残っていたように思う。
ということはあの道は元は川だったのだろうか?
思い出せない。

日産厚生園
ジブリの吉祥寺寄りの公園は昔は日産厚生園と言わなかったろうか?
バスに乗ると必ず「次は日産厚生園前~」と言っていた。
あの競技場で陸上体育大会があった。中学の時だ。
私はハイジャンプ(走り高跳び)で出た。正面とびだった。
斜めから飛ぶのも正面とびと呼んだが、私は正面から飛ぶ正面とびだった。
たぶん順位にははいらなかった。順位に入ったのはベリーロールの人だったと思う。

10/05/2013

That lucky old sun

ちょっと前にDock of the bayのことを書いたけれど、
この歌はまだ働いている人の歌だ。
というよりまだ働かなくてはいけない人の歌だ。
 
私もまだDock of the bayを歌える状態ではないけれど、
あのラッキーな太陽の様に何もせず
一日中空をめぐっていたい、と思う時はある。

 

10/02/2013

秋祭り 三鷹・上連雀

三鷹の井口の方に「神明神社」という神社がある。小学校の6年の時からその近くに住んでいた。
秋になるとその神社でお祭りがある。その神社からそれほど遠くないところにも八幡様があって
そこもお祭りを行う。八幡様の方は小学校4年まですんでいた地区だったので、そっちのお祭りにはその頃の友達が来ていた。
 
引越してからは神明神社が近かったので神明様の方へ遊びに行った。
もっとも新しい友達はみな神明神社の方に遊びに来ていたから、
どうしてもそっちへ行くことになる。
 
友達をさそって、あるいはさそわれて一緒に行くのだが、目当ては当然女の子だ。
小学校6年くらいだと皆着物姿で来ている。
自分の目当ての女の子を探しに行くようなものだった。
見つけたときのドキドキ感は忘れられない。
でも女の子はなぜか3,4人のグループで来ていて目が合っても挨拶するでもなく、
そのままどこかに行ってしまう。
当時の小学生はそんな感じだった。

 
 
 
目当ての女の子を見つけたのはたぶん1度だけだ。
中学生になってからも自転車で様子を見に行ったけれど、会うことはなかった。
 今でもどこかで秋祭りの神社を見ると、その頃のことを思い出す。



思い出した。
神社の隣に自転車屋があってそこは同級の友達の家だった。その後どうしているだろう。
自転車屋をついでいるのだろうか。Googleで見ると向こうにHONDAの看板がある。
たぶんあれが彼の家だろう。

 

神社の反対側に材木屋があった。Googleでみると今でもある。
中学の2年の時にこの材木やで幅30センチ厚さ1.5センチくらいの板を買って家まで運んだ。
この長い板を手で持って運んだ。今考えるとよく運んだなと思う。
家の庭に押し込んでのこぎりで切ってスピーカーボックスを作った。
1個しかできなかったけれど当時はモノラルで聴いていたのでそれでよかった。
そのスピーカーボックスは重くて丈夫で後で処分に困った。


材木屋のすぐそばに私が通っていた小学校がある。三鷹第七小学校だ。
小学校の脇に文房具屋がった。「いづみ屋」という名前だ。今でも同じ場所にある。
ここには文房具の他にプラモデルも売られていて、学校の帰りによくたむろしていた。
当時はおばさんが店員をされていた。

七小は小学校6年の1年間しかいなかった。
1年間面白かったけれど、後半はまた恐怖症にやられていて、自分でもよくわからない感じだった。
前半は友達もたくさんいた。後半は・・・あれは反抗期というのもあったのかな?
友達にはよく思われていなかったようだ。
卒業してからすぐにクラス会があった。
そのクラス会はとても楽しかった。
でもその後すぐ親友だった人にデパートで会ったけれど、私を避けるようにしていた。
だいぶ後になって、その理由がわかったけれど、完全に誤解されていたようだ。
もうそんなことも含め、私を覚えている人などいないと思う。