田中光二のことを書いたのでついでに昔のドライブのことを書いておこう。
一番最初に乗った車は中古の日産チェリー1000だった。小さいけれど4ドアのセダンだった。
このチェリーも良く乗った。下取りの時の走行距離は14万キロだった。
初めての北海道もこの車だった。
日産のディーラーから初めて一人で公道を走った時のことはよく覚えている。
今は連雀通りと言うらしいが、井口にあったお店を東に左折で出て、とにかくまっすぐ走った。
すぐに右折すれば家に着いたのだが、右折ができなかった。
それで左折だけで家に帰る道順を一筆書きで頭に描いた。
八幡前から三鷹台の方にまっすぐ走り、井の頭通り(水道道路)に出た。そこで左折して
まっすぐ吉祥寺を抜け、三鷹駅の北側に出てそこを左折して国鉄をくぐり(あれ?まだ踏み切り
だったかな?)、再び八幡前に出た。そこはさっき右折をあきらめた交差点なのだが、意を決して
右折した。当時は今と違い大成高校から三鷹駅に向かうにはクランクになっていた。
そこまで走るとちょっと慣れてきたので右折もできた。
そのまま家まで走ることができた。
’70年ころは駐車は今のように厳しくなかった。
ラーメン屋の前に車を停めておいたり、商店街のお店の前に車を停めたりというのは普通に
行われていた。農地だろうと思われる道路は駐車場と化していた。私が初めて違反を取られた
のは駐車違反だった。それも右側駐車だった。茅ヶ崎の友人の家に行った時に普通の市道の
右側に4時間くらい停めていた。帰ろうと思ったら車が無かったので近くの警察署に行ったら
そこにあった。レッカー代は取られたけれど、確か初心者マークを付けていたので切符は
切られなかったと思う。
「中央フリーウェイ」という歌があるが、調布飛行場を調布基地と言うのは我々の世代の
しかもあのあたりに住んでいた人ではないだろうか?と思う。
歌の中で「・・・言っても聞こえない風が強くて・・・」というのが出てくるけれど、
ちょっと考えたらあれはオープンカーのか?とも思うが、たぶんそうではないだろう。
あの頃はエアコンを付けていた人は少なかったから、夏だったら窓は開放だっただろう。
あるいは冬であったとしても当時の車は今の車に比べると車内の騒音がすごかった。
タイヤからの路面の走行音と、車体に当たる風切り音だ。
今でも古い車に乗ると音がうるさくて驚く。
オートマチック車も少なかった。
たぶん今は死語となってしまったと思うのは、「クラッチ滑り」とか「押しがけ」とか「ダブルクラッチ」
とかの言葉だ。トラックではまだ生きているかもしれない。
「チョーク」はどうだ?「ノッキング」は?最近はキャブレターも使われていないから「ツインキャブ」
と言う言葉の響きも感じることもないだろうな。