10/12/2013

三鷹の記憶 (2)下連雀

小f学校の低学年の時は、第六小学校に通っていた。
六小の校門の東側はすぐに畑だった。その北側は空き地になっていて車が何台か停まっていた。
畑は校門の前からずっと次の道まで畑だった。

その畑はいくつかに別れていたけれど、麦畑と葱畑とキャベツなどが植えられていた。
麦畑はその中でよく隠れんぼをした。麦の中に穂が真っ黒になったものがあった。
麦の穂は素手で触って指を切ったりした。

六小の北側は篠原病院だったが、その向こうはキャベツ畑だった。
モンシロチョウがたくさん飛んでいてた。
校門の右側には文房具屋があった。杉田さん、と言ったが今もあるようだ。
杉田さんは文具よりも駄菓子やおもちゃを置いていた。
ソースイカ、やイカせんべい、ガラス管に入った色つきの寒天、そのほかほとんどの
駄菓子があった。
くじ引きもあった。

六小から見て二つ目の空地は子供が野球をよくやっていた。
また柱を立てて白い幕を張り、映画を上映したことが何度かあったと思う。
覚えている映画のひとつは「しいのみ学園」。それから「つづり方教室」だったか
そんな名前の映画を覚えている。いずれもちょっと悲しい映画だったように思う。

このあたりの畑は冬は何も植わっていなかったので、子供の遊び場になった。
凧揚げもこの畑で上げた。

六小の南には林があった。
林は主に杉の木だったように思う。でも広葉樹もその間に生えていた。
カブトムシやクワガタがいた。
蛇(ヤマカガシ)もよくみた。
林は、その頃子供達の間で「広い道」と呼んでいた道の両側にあった。

南側の林の脇には小川が流れていた。
たぶん品川用水(上水)だと思う。
始めは、その小川はとてもきれいな水でフナやさわがにが棲んでいた。
その側は昭和35年頃からだろうか、下水のようになってしまい、赤や緑色の水が
流れるようになった。生き物はほとんど全滅して糸ミミズのようなものしかいなくなって
しまった。

六小の道路を挟んで西側に工場があった。その工場には「山水」と書いてあった。
当時の子供達はその読み方を知らなかった。トランスを作っていた。

「注意一秒・怪我一生」という交通標語は確か当時の六小の子供が考えた
ものだったときいたことがある。