10/15/2013

思い出したこと (札幌を去る時)

札幌から東京に帰ろうと思ったのは札幌に住み始めて5年目だったと思う。

だから1979年頃だ。
工場長にまず話したと思う。特に反対とかはされなかった。とても親身になって話を
きいてくれたと思う。

帰ろうと思っても仕事も変えなければいけないし、住むところも決めていなかった。
実家に帰るのも何か気が進まなかった。それでまず仕事を探そうと思った。
最初は雑誌・トランジスタ技術の募集欄を見て探していたが、どうもいいところが無かった。
しかもトラ技は1ヶ月ごとにしか来ないのでらちがあかない。
それで新聞屋(道新をとっていた)に頼んで東京の朝日新聞に変えてもらった。
新聞は1日遅れだったけれど、ちゃんと届いた。

なにか良さそうな募集を見つけたら電話で問い合わせした。
しかし、「今札幌に住んでます」と言うとほとんどのところが「東京に移ったらまた
電話してみて」というところばかりだった。

それでも、「東京に来た時に面接でOKです」という会社が2,3社あった。
それで夏に東京に行った時に面接を受けることにした。
夏に東京に帰ったときは兄が空港まで来てくれて、兄のところに泊まることにした。
空港から千葉の方に向かう時に周りの工場地帯や倉庫群や林立するマンションを
みていたら「ほんとにこっちで暮らせるのか?」とすごく心細くなったのを覚えている。

面接は出版社と電機関係の会社とテレビゲームなどを作っている会社だった。
テレビゲームの基盤を作っていた会社は、当時増えてきていたマイコン応用機器も
作っていた。それでそこが面白そうだったので、結局その会社にはいることになった。

札幌の会社を去る時は、社長や工場長がほんとによくしてくれて、
失業手当がもらえるようにしてくれた。また退職金も年数分用意してくれた。
そのお金は本当にその後の助けになった。


私はその時はソフトも組めなかったし、ハードも素人仕事しかできなかったので、
最初の1年は営業の仕事だった。それは結構面白い仕事だった。
電話で問い合わせしてくる工場や学校、研究所の人に自社の製品を説明するの
だが、技術屋が営業用の資料を作ってくれないので、結局自分で作ってやっていた。
1台が安いもので50万円、高いもので500万円くらいの製品を売っていたが、
当時は同じようなものを他では売っていなかったので、次々売れた。
2年目の私一人の売り上げは1億円を超えていた。

2年目くらいからは自分がアナログ回路が得意だったので、回路の設計の方もやった。
その頃の設計の仕事は本当に面白かった。
回路をチェックするためのソフトも自分で作るようになった。

あの頃が一番日本の景気が良かった頃だったのだな、と今思う。