6/22/2017

母のいた町

母は廣島で原爆に遭う前は鹿児島にいたはず。
母の鹿児島県立第一高等女学校 2598年卒業アルバムを見てみた。
その前に2598年って何年だろう?
アルバムの中には昭和13年3月と書いてあった。
1938年だ。戦争に入る3年前だ。



おかしな話だがアルバムを見ていると母は結構かわいらしい感じだったようだ。
目のあたりは私に似ているように思う。

このアルバムには最後のページに生徒の現住所が書かれている。
鹿児島市西田町38 とある。
この住所は今はもう無いようだ。
でも西田という地名は残っている。
1945年の航空写真と照らし合わせてみると、このあたりだろうと思う。


他のアルバムに同じ頃の写真があった。

また別の写真は、これは学生の頃ではないだろう。
だいぶ後のようだ。

気のせいか、バックは瓦礫のように見える。
家も崩れているように見える。
これはどこだろう?
廣島ではないだろう。
母は大怪我をしていたはずだ。
でもひょっとすると廣島かもしれない。
廣島の後は茨城に帰っていたから、これは水戸かもしれない。
水戸も空襲を受けただろう。
時代もわからない。
何もかもわからない。

この写真が好きだ。
たぶん結婚前の写真だ。

追記:
書き終わってから考えたのだけれど、このアルバムは廣島原爆の7年前のものだ。
母はいつ廣島に行ったのだろう?
もし鹿児島の後すぐに廣島に行ったとしたらこのアルバムは残っていなかったろう。
あるいは拾い出して持っていたのかもしれないが、とてもきれいな状態だからそれは
考えられない。
廣島の家は爆心から1.7kmだった。その距離は壊滅地区だ。
とするとこのアルバムは水戸に残っていたものなのだろう。
母は鹿児島から一度水戸に戻り(父親が役人で農業・営林の仕事で日本各地を回っていた)
また広島に行ったのだろう。