12/15/2016

量子についての誤解

教科書には今でも「量子は波であり粒子でもある」とか書かれていることだろう。
私自身もそうだったが、これが量子についての誤解の始まりのような気がする。
量子が何であるかということは今現在も解明されていないはず。
それを波であり粒子でもある、と言ってしまったら理解できるわけがない。

正しくは、量子は波のような挙動と同時に粒子のような挙動をする”もの”である。とか
なんとか言った方がいいのではないだろうか。
あるいは量子はその挙動が波動方程式で現わされる”もの”である。とか。
あるいは量子の存在は波動方程式から導かれる確率で現わされる。とか。

そうすれば、二重スリット問題なんかも全く不思議じゃなくなるし、
その前に、素粒子を1個ずつスリットに通しても干渉模様を描くとかいうことも理解できる。
なぜなら量子は波が示す確率で存在するから。1個ずつだろうがまとめてだろうが、
確率の描く模様通りに存在を現わすから。

人間がそのその位置や存在を確認しようとすると粒子の挙動をするとかいうことも理解できる。
挙動を確認するということは、その存在を示す確率を表す波を止めてしまうわけだから、
確率を表す波はその時点での確率が最も高い位置を示すしかない。

それを「波である」と言ってしまったら電波のような、あるいは海の波のような形状を連想
してしまう。その手の波だと考えてしまうと止まった時に後からくる波はどうした?
ということになってしまう。

波と言っているのはあくまでも波動方程式でその挙動が表現できるらしい、というこで
あって、量子は波であるとわかっているわけではない。
たぶん量子はなぜかその存在は波の性質を持っているのだろう。だから波についての
様々なアプローチができる。フーリエ変換などもできるのだろう。ただ波としてはひょっとすると
1波だけなのかもしれない。パルス波形みたいな。
パルス波形も連続した正弦波としてフーリエ変換するのだけれど、同じように量子も
連続した波として扱うことになるのだろう。しかし量子が連続した波であるかどうかは
わからないと思う。ただ単に波の方程式で現わされるらしいということだ。


12/08/2016

Wilhelm Furtwangler

前に確かTscaniniが好きだと書いたと思うけれど、中学・高校時代はトスカニーニばかり
聴いていた。まあ、NHKとFENでトスカニーニ・アワーという番組をやっていたせいも
あるのだけど、フルトヴェングラーはほとんど聴かなかった。
その理由は当時はフルトヴェングラーはナチに協力していたと言われていたからという
理由が大きい。
最近「戦争交響曲」(中川右介著)という本を読んで、たぶん正しい事実関係を知った。
フルトヴェングラーという人は悪い人では無いということだ。
どちらかというと不器用な芸術家気質という感じだろうか。
ただ不幸なことに当時のナチスドイツで暮らさずを得なかったということだろう。
K氏のようにナチスの党員になっていたわけでもなく、ヒトラーをできるだけ避けて
音楽活動をしたかったようだ。しかしヒトラー、ゲッペルスは宣伝塔として彼を使おうと
思っていた。
彼は平気でユダヤ系の音楽家を自分の演奏者に加えようと思っていたそうだ。それは
彼が政治的なことに関心が無かったのか政治音痴だったのか知らないが、そういう
ことよりも音楽のことしか考えていなかったようだ。

そういうことを踏まえて考えてみると、フルトヴェングラーはあの時代をよく生き抜いたな、
と思う。へたをすればヒトラーの機嫌を損ねることになり命の危険もあったろうに。
実際ヒトラーの機嫌を悪くさせたこともあったらしい。それも無事に切り抜けていた。

こういう写真が残ってしまっていることが、フルトヴェングラーの
不幸の一つだろう。彼の指揮ぶりを見ると音楽に集中している
ことがわかる。

このナチスドイツの中にいて、ドイツ人として暮らしていたなら、ナチがユダヤ人を
迫害していたことはさすがにわかっていただろう。
しかし絶滅収容所で行われていたことが知られたのは戦争が終わってからでは
ないだろうか。どのくらいのことまでわかっていたのか私にはわからないが、
あれを知っていたらさすがにドイツ人も平気ではいられなかったのではないだろうか。
まあ、知っていなかったとしてもユダヤ人を迫害していたこと自体許されることではない。
そこは日本も同罪だろう。

当然の結果だけれど、戦後はナチ協力者とみなされてしまったようだ。
だから正反対にナチスのいたドイツを嫌っていたトスカニーニとは最後まで会ったことが
なかったそうだ。

そんなわけで最近フルトヴェングラーを聴くようになった。
思うに、すごく新鮮だ。
最新のステレオ録音の演奏などよりも新鮮に感じる。
これはモノラル録音なのか?と思うほどだ。
トスカニーニとは全く違ってゆったりとして、一般的な演奏に聞きなれている耳には
これ遅すぎるのでは?とさえ思わせるほどだ。

田園を聴いた。
1940年の録音だ。
当然ベルリンフィルだ。
初めて田園を聴いた時の感動が蘇った。
大げさではなく。
これは過去あらゆる田園の中で最高の演奏かもしれない。

11/25/2016

量子コンピュータ・EMドライブ

ちょっと癪なのは、たぶんその結果がはっきりするまで生きていないだろうということだ。
量子コンピュータは現実化しそうだ。
あるいは現実に動いているところでは動いているのだろう。
でも自分の机の上で動くのはもうちょっと先だろう。
EMドライブについてはNASAからの発表が(今日?)あったが、
それも原理が解明されるのも時間の問題のような気がする。
どちらも量子に関連したものなのだろう。

今日このEMドライブの説明を読んだ時に感じた、一種の不安は一体何だろう。
もやもやした苛立ちのような。

もしも燃料あるいはなにがしかの物質を噴射せずに動けるというのは、なぜか現実的な感じがする。 噴射物質を噴射しながら飛ぶよりもクールだ。
そういえば2001の映画に出てくる宇宙船のエンジンは一切何も噴射していなかった。
あれは多分慣性航法によるためなのだろうけれど、
ひょっとするとEMドライブを予感していたのかもしれない。

あるいは、多分星間ロケットの形状を想像とは全く違うものにしてしまうかもしれない。
噴射する必要が無いのなら、エンジンはロケットの後尾にある必要がなくなる。
ミッドシップのロケットができるかもしれない。
そうなるとその形状は鉛筆形ではなくいわゆる円盤型でも良いかもしれない。
たぶんその方が便利だ。




11/16/2016

ハローCQ

あれは小学生の時だと思っていたけど、中学生だったのか。
確か北の丸に科学技術館ができた頃と同じだったはずだ。
科学技術館はできた時に行った。
あまりよく覚えていないけれど、建物の斬新さと中が未来っぽかったのを覚えている。
小さな箱を配っていてその箱にはイヤホンがついていて、説明が流れた。
帰りに係員の人に「これは電波でやってるんですか?」と聞いたら
「電磁波です」と言っていた。
電磁波は電波じゃないのか?と帰り道、ずっと考えたことははっきり覚えている。

ハローCQだ。
このドラマは覚えている。
しかしどういう内容だったのか全く覚えていない。
覚えているのは歌だ。
テーマソングはよく歌った記憶がある。

アマチュア無線の資格はハングで使うために取ったけれど、
その後何も使っていない。
YouTube友達のJackさんがアマチュア無線をやっていて話をしたことがある。
そのJackさんももう空の上だ。



11/03/2016

幸せを求めるだけが人生じゃない

ラジオを聴いていたら、ある牧師がそう言っていた。
「え?」と思ったけれど、この人の言ってることはほんとだなと思った。
「あなたはそれで幸せなの?」
「あなたが幸せをだめにしたの」
「あなたには幸せなんてわからないの」
とかいろいろ言われたけど。
どうやってこの牧師はそんな心境になれたのだろう。

「なんでもないようなことが幸せだったと思う…」
という歌があったけれど、たぶんそうなのだろう。
何も変わりない生活が幸せなのだろう。
確かに一番心休まる思い出は親と一緒にくらしていた子供時代だ。
明日の生活の心配をする必要もなく、
お金が必要な時は親が出してくれた。
確かにあれが幸せだったというならそうなんだろう。

子供が小さかった頃。
仕事は大変だった。
夜も眠れず、恐怖で飛び起きたこともあった。
車の中で一夜を明かすこともしょちゅうだった。
でも、あれも幸せだったのだろうと今思う。
今思うと絶対にあの時の仕事はしたくない。
もう自分には無理だったのに「頑張って」やっていた。
自分の能力以上のことをやろうとしていた。
いずれは破綻するはずだった。
他人に迷惑をかけるずっと前にやめておくべきだった。

たぶん幸せというのは幻想なのだろう。
ありもしない幻想を求めても無駄だ。
どんな状況にあろうとも今が一番「幸せ」なのだと思う。


10/24/2016

学校放送 「森は生きている」  Двена́дцать ме́сяцев

突然歌を思い出した。
「燃えろ、燃えろ、鮮やかに~ 夏はかっかと照るだろう…」
っていう歌なのだけど、全部は覚えていないこの部分の歌詞と、
メロディーは多分全部覚えている。
あれは三鷹の第六小学校の西の端にあった校舎で聞いた歌だ。
その頃、学校放送というのがあって、お昼休みか?授業時間かにラジオ放送を
聴く時間があった。
そこでやっていたのが「森は生きている」というお話だ。
その中で「12月の歌」という歌が流れ、それが上の「燃えろ~、燃えろ~」だった。

検索してわかったのだが「12月の歌」というのは”じゅうにつきのうた”と読む
らしい。そうだったろうか? と言っても当時は曲名は言わなかったと思うが。
そういうのだからそうなんだろう。

それで、この歌はYouTubeにあるだろうか? と探してみた。
原題が Двена́дцать ме́сяцев らしい。全く読めないが。
それで検索すると「森は生きている」の劇、アニメが出てくる。
その中の歌を探して通して聞いてみた。
しかしあの歌は無い。
さらに検索してわかったことはあの歌は日本人が作曲したうただということだ。
すっかりロシアの元歌があるのだと思っていた。
それになんかロシアっぽい曲だったからすっかりそう思っていた。
作曲は 林光 だそうだ。

あれを学校放送で聴いたのは、1960年だったと思う。





























10/17/2016

The Log Cabin (自由茶屋)

前から気になっていたことがあって、それを実行することにした。

静岡の山合いに木造のお店が有りそこで定期的にフォークソングの集まりがある。
その建物を写真で見た時になにかとても懐かしく感じた。
建ってからちょっと時間が経っているのを感じさせる色と木の質感だ。
40の頃に行ったノースカロライナのブーンにあったマスト・ストアーの感じだ。



あの木の肌の感じだ。

静岡のそのお店に一度行ってみようとずっと思っていたけれど、出不精のためなかなか行けなかった。
それを昨日実行した。

一応地図は頭に入れていた。
静岡駅前からバスでそのお店の「近くの」バス停まで行った。
もうそこはほとんど山間という感じだった。

頭の中では、あの先のカーブを曲がった先だろう、くらいにしか思っていなかった。
歩き始めてしばらくしたら車が止まって、その集まりに行く人が一緒に行きましょう、と
車に乗せてくれた。
後でしらべたらバス停からお店まで2.5キロあった。
歩けない距離ではないけれど最近足が痛いので歩いたらかなりつらかったかもしれない。
着いたお店の前は川が流れ、その向こうは山だ。
アパラチアの山の中に似てなくもない。




お店の裏は茶畑になっていた。
お店の中はこんな感じに、ライブ用に配置換えされていた。
中も感じが良い。



こういう集まりは一人ずつ順番に何曲ずつかを歌う。
結局3回回ってきて準備していた歌を全部歌ってしまった。

帰りは、来るときに拾ってくれた方に三島まで送っていただいた。
静岡から三島まであんなに距離があるとは思わなかった。
新幹線駅まで送っていただき、とても助かった。

9/25/2016

本日は晴天なり Test,one,two,three

というマイクテストに使われていた言葉がある。
「この言葉は英語のIt's a fine dayをそのまま訳して使っているので、
元の英語の周波数成分を含まないので意味が無い。」
というのが通説らしい。
しかしこれはどう考えてもおかしい。
まず周波数成分としては「本日は晴天なり」の方が高い方から低い方まで多く含んでいる。
あるいは英語の発音に意味がある、とか言う人もいるけれど、英語の発音を日本で
使っても意味が無い。それより日本語の発声の方がいいに決まってる。

これはたぶん誰かがでっちあげた都市伝説なんじゃないだろうか。
日本語でも英語でも検索したけれど、この言葉(It's a fine day)がマイクテストに使われていたという記述は無い。(…と思う)
何かの映画でマイクテストにこの言葉が使われていたのも聞いたことがない。
「アマチュア無線で使われていた」というのが誰かのサイトに書かれていたけれど、
それなら挨拶は「CQ、CQ」とかだろう。

ちょっと参考になることが書かれていた。
http://www.southgatearc.org/news/april2006/first_words.htm

The first word spoken on radio
'Hello!'  Not surprisingly, it was the first word to be heard over the radio some 100 years ago.
From the time he was a young boy, Canadian Reginald Fessenden was fascinated with the idea of transmitting voice. Upon hearing his uncle describe Alexander Graham Bell's demonstration of the telephone, the 10 year-old reportedly asked, "Why do they need wires?" He then spent much of his life trying to figure it out.
His early attempts at voice transmission were unintelligible. With government backing, Fessenden, and his assistant Thiessen, kept trying various improvements until they met with success. The first words transmitted via radio were "Hello! Test, 1, 2, 3, 4. Is it snowing where you are Mr. Thiessen?"

この最後のところだけど、「Test, one , two,」は今でも使われるマイクテストの言葉だ。
その次のところだけど、「It's snowing 」と言っている。
つまり時候の挨拶だ。
たぶん「本日は晴天なり」という言葉を思いついた人は、誰かが時候の挨拶として
It's a fine day「いい天気です」と言っていたのを、そういうもんなんだと思って
使っただけなのだろう。それは自然に出る言葉だから。

しかし、この「本日は晴天なり」という言葉は日本では広く使われてきた言葉で、
とても素晴らしいと思う。思いついた人は天才的だ。
今でも正式に無線でのマイクテストにこれを使うことが決められているらしい。
この言葉がすべて正確に再現できているかでオーディオ設備の再生精度を
確認するのにとてもいい言葉だと思う。
最近はあまり使われなくなったのが寂しい。




9/23/2016

ノスタルジック渋谷

ねえ、あれはいつだっけ?
渋谷駅前のハチ公前の広場で別れたのは。
まだ交番があったね。
あの後の記憶がはっきりしない。
あの時君は何て言ったの?

あそこで別れたということはそれまでどこに行っていたのだろうか?
なぜだろう、その前まではもっとたくさんの人がいたように思う。
どこかでみんなで集まっていたのかな?

それじゃあ、あれはいつだったろう?
地下の部室だったかな?
学校だったと思うけど、
はっきりしない。
ねえ、あの時は君は何て言ったの?

あの映画は僕は全く観る気がしなかったよ。
でも観て良かった。
あんなにすごい人だとは思わなかったから。
今でもあの映画は思い出せる。
だけど、なぜ君は僕をあの映画に誘ったの?
その映画館はもう無いけれど、
渋谷に行けばあの映画館があるような気がする。

あの地下の喫茶店。
あれももうずいぶん昔に無くなってしまった。
でもあの煙った狭い部屋で、
洪水のような音の中に僕らが居たことは
今でも思い出す。

実はあの後何度かあのお店に行ったんだ。
でも君に会うことは無かった。
じゃあ、なぜ君は僕をあの店に誘ったの?

君のアパートの狭い部屋のコタツで
朝までレコードを聴きながら話をしたね。
空が明るくなる前に
僕は眠ってしまった。
あの部屋ももう無いだろうな。
駅からの道は覚えているけれど
あの部屋まではたどり着けない。

雨の日の野外コンサート
傘の中からステージを眺めていた。
誰かが大声で歌っている時に
君は何か言ったね
よく聞こえなかったけど
あれは何て言ったの?

いつだったか君の家に電話をしたね。
あまり元気がなさそうだったけど
君は僕に聞いたね。
その時僕は何て言ったろう?

全てはまだ何もが始まる前のこと。
ずっとずっと昔、昔のこと。
たぶんあの時が世界が始まる前の
最後の1ページだった。


9/20/2016

札幌1992年 (2)

住んでいた時には近くに古い洋館のような建物がいくつかあった。
この1992年に行った時にはすでにそのいくつかが無くなっていた。
でもこの家だけは1992年には残っていた。


しかしこの辺りは今はすっかり変わってしまってもう無い。
多分大通り20の17あたり。
ここよりもう少し西の方にももう1軒あったように思うが、そこももう無かった。

私が住んでいた(下宿のようなアパート)は1992年にはまだあった。
大通り22丁目だった。

右手のシャッターの向こうに鉄製の階段があった。
そこを登ってすぐ右側が私の部屋だった。
しかしこの写真は当時と何かが違うような気がする。
何が違うのだろう?

札幌1992年 (1)

私が東京に移ってから2度目の札幌だった。
写真に1992年とあるので、多分1992年なのだろう。
写真を見ると今年行った時には既に無かったものが写っていた。

円山市場
円山市場の北側に駐車場があったけれど、それがまだあった。
この駐車場は現在は半分以上無くなっている。
その向こうに見える果物屋だけれど、現在残ってお店がそうだろうと思っていたら、
今あるお店はその隣にあったお店のようだ。
上の写真にあるビルがそのようだ。色が茶色に変わっている。

一枚、どこで撮ったのかわからに写真があった。
たぶん、昔からあったであろう家を撮ったのだと思う。
たぶん街の方だと思って地図を探したけれど、よくわからない。
それで写真にある「安全モーター商会」という名前と「54山京ビル」という名前で
調べてわかった。ここだ。Googleだとここだ。
この青い三角屋根の建物だけれど、1975年の航空写真には写っていない。
でも1985年には写っている。

だからたぶん1975年よりも後で建ったもののようだ。
現在は幅が半分になっているようだ。
しかし、なぜこの場所を撮ったのかわからない。

9/18/2016

友人とクラッシック

問題は同じことを二度書いてしまうことかもしれない。
でもこれはまだ書いていないはず。

高校は都立神代高校という高校だった。
木造のおんぼろ校舎だった。
友人に「カチョウ」と呼ばれている男がいた。
本名は小柳勇志朗と言ったと思う。  字が違うかも。
私はクラスでは一番背が高い方だったが、彼は私よりも2センチくらい大きかった。
並んでバス停まで帰る時、あいつはよく私の肩に手を置いて歩いた。
ちょっと変だったかもしれないが、その時はそんな風には思わなかった。

カチョウもクラシック音楽が好きだった。
よく音楽の話をした。
クラシック音楽の話を気兼ねなくできるのは彼だけだった。
音楽の知識は私の方が詳しかった。
でも彼の方が間違えていても決して譲らなかった。


私は短距離が得意だった。
体育の授業で50mの記録を録る時があった。
私とカチョーは同じグループだった。
ゴールの手前で横を見た時カチョーは少し後ろで顔を上に向けて走っていた。
そのグループでは私が1番だった。
でもカチョウは1番の記録時間を自分の時間と信じていて譲らなかった。
ま、いいかと思って、私は2番目の記録を自分の記録として書いた。

どこかに一緒にオーケストラを聴きに行ったことがあったような気がする。
調布だったか。
その会場がシンナーの匂いが強くて音楽を聴いてる場合ではないほどだった。

カチョーの家に行ったことがあった。
確か多摩川に近い団地の一室だった。
タンスの上でハムスターを飼っていた。
その匂いがたまらなく臭かった。
「気にならないの?」と聞いたら、気にならないと言っていた。

カチョーと付き合わなくなったのは、私が当時同じクラスの女の子と付き合い始めた
からだったのだろう。
私が彼女とバス停まで歩いていると彼は道路の反対側を一人でまっすぐ前を向いて
歩いていた。
そのシーンだけをよく覚えている。

それからずいぶん年月が経ってから、京王線の電車で偶然彼に会った。
全く以前のままの感じだった。
「元気?」とかなんとか言ったように思う。
私が電車を降りるとき「じゃあね」と言うと、
彼も「じゃあ」と言い、
まっすぐ窓の外を見ていた。

9/14/2016

Kein schöner Land , Trapp family in America「菩提樹」から

この映画を初めて見たのは実に小学校6年の時だ。
とてもよく覚えている。
特にこの最後のシーンとこの歌のメロディーは覚えている。
時々くちずさんでいた。


ずっと後になって、もう50近くになってこの映画がネットで買えることが分かって、
注文した。
海外のアマゾンだった。
DVD2枚組でTrappファミリーのヨーロッパの物語と、アメリカに渡ってからの物語
が2枚のDVDに入っていた。
ただし、これはPAL仕様のDVDだった。幸い仕事上PALの再生はできた。

そのDVDを改めて見た時思ったのは、劇中の曲は覚えているけれどシーンはほとんど覚えて
いないことだ。
この少年は「野ばら」に出ていたミハエル・エンデだとわかった。
母親役の女性は今見るととても綺麗な人だと思った。

小学生の時に見た時はこれが後のサウンド・オブ・ミュージックの元になった映画
だとは知る由も無かった。
サウンド・オブ・ミュージックは16歳の時だった。
映画の中でI am sixteenと歌っていたが、その年齢だった。

YouTubeにはこの歌を歌っている映像がたくさんある。
でもメロディーが映画のものとは少し異なるみたいだ。
とても美しい歌だと思う。






8/29/2016

無言歌 Vazha Azarashvili

昨日は日曜日。
コンビニでお弁当を買って、都筑中央公園に行って食べることにした。
いつもは人の居ない広場に親子連れがたくさん。
ベンチに座って前のバーに足をかけて、お弁当を食べた。
非常によろしくない恰好だ。

スマホでFMを聴きながら。
最近聴かなかったキラクラをやっていた。
いつもは聞き流して聞いているのだけど、昨日の最後の方でチェロの曲がかかった。
これはクラシックなのだろうか?と思った。
どこか懐かしい、いつか聴いたことのある感じの曲だった。
「ア… の無言歌でした」と言っていた。
作曲者の名前が聞き取れなかった。

家に帰って調べた。
Vazha Azarashviliという人らしい。
アザラシヴィリだろうか。
YouTubeにあるだろうと思って検索した。
あった。

FMでやってたのはもっと小編成だったように思うが、この曲だ。
いい曲だと思う。
このアザラシヴィリさん、どうやらジョージア(グルジア)の作曲家らしい。
YouTubeには本人と思われる映像がいくつかあるが、読めない!


8/19/2016

CG景観ソフト(3) Terragen

現在TerragenはTerragen4のBeta版が出ている。
Terragenは最初から使っているがTerragen3で大幅に変更があったように思う。
それまでは結構適当な設定でそれなりの絵が作れたけれど、Terragen3になって
設定が細かくなって、機能も増えた。
昔のTerragenで遊んだ画像はあまり残っていない。

旧Terragen


これは確か、グレイスケールのビットマップ画像データをマスクにして地形を変形させた
ものだと思う。この時点でも大気やオブジェクトの表面などを細かに設定すれば
かなりきれいな画像ができた。

Terragenはその名前の通り地形を作るのは簡単にできる。
また大気や霧、水、雲などリアルな設定ができる。



樹木はpopulationで植林することができるが、エリアの端っこが見えるとこのように
バリカンで刈ったようになる。
後ろの山だが、デフォルトのままだとこの山が必ず見える。



ここで使っているpopulationだがほぼ同じ2台のWindows10 64bitのマシンで片方はエラー
を起こしソフトがダウンしてしまう。何度やっても同じ。
その理由がわからない。
もう少し形のいい樹木のオブジェクトがあればよいのだが。
たぶんどこかにあるだろう。

Terragenはまるで仮想のGoogle Earthのように思える。



ま昼間からこんな風に見えるかどうか知らないが、適当にセットするとこんな感じ。


思うに、CGで景色を描かせる意味は現実には無い景色を描くことだと思うが、
やっているとできるだけ現実に近い絵を求めるようになる。
だったらどこかで写真撮ってくればいい、とは思う。

しかし、まあ現実に山に登ってこんな景色をみるのはかなり労力がいる。


しかし、すばらしいのはこんな絵を描くことができるソフトが無料ということだ。
いろいろ制限はあるが、ある程度満足できる絵は作れる。

あとは、動画だ。
動画でこの景色の中を飛ぼうと思うと6万円くらい払わないといけない。
まあ、昔のソフトに比べたら安いものだ。

8/18/2016

CG景観ソフト(2) レイトレーシング

しかし、一番最初にポイントごとのデータを表示する方法をやめて、
ワイヤーフレームにした所で、もしもポイントごとの表示をもっと
追及していたら今の自分も少し違う生活をしてたかもしれないと思う。

レイトレーシングというものが出たのはもっとあとの1980年前後だったと思う。
私がCGをやっていたのは1979年だから1年間の時間があったはず。
スターウォーズで満足してしまったのが間違いだった。

対象物の1点が画面のどこに投影されるかを計算するのは、ワイヤーフレームの
隠れ線消去よりもはるかに簡単だ。
その1点がどのような色(輝度)で画面のどこに表示されるかを計算すればいい。
はみ出した点は単純に表示しなければいい。
基本的にはそれだけだ。

まあ、当時のPC8001では色で表現することは不可能だったから、
モノクロのディスプレイを使って白黒8諧調で表示できないこともなかったかも。
それを追及して、どこかのコンピュータ会社に入り込んで1,2年で
開発したらソフト屋になっていたかもしれない。

問題はディスプレイの表示能力と計算速度だったかもしれない。
当時はBASICが便利だったのでそれを使っていたけれど、
BASICでレイトレーシングを細かな画素でやるには相当時間がかかったと思う。

まあ、今だから言えることだけれど。



CG景観ソフト(1)

CGというものを最初にやったのはNECのPC-8001だった。
1976年だと思う。訂正:1979年だった。
ASCIIに載っていた海外のソフトを参考にしてBASICで作った。
当然速度は遅いのだけれど、当時としてはそれ以外なかった。
あれはよく作ったなと今思う。

ディスプレイに線や点を描くのはBASICが持っている機能を使うだけだが、
立体的なものを平面的なディスプレイ上にどう描けばいいかについては、ほとんど
参考書が無かった。
それで考えてわかったのは、PCのディスプレイが透明なガラスだったと仮定して、
ガラスを通して向こうに見えるもの、あるいは景色の上の1点は
そのガラスのどこを通るかを計算すれば良いのではないかということ。
中学・高校の数学の記憶を駆使して対象物の1点と自分の目を通る線分が
ディスプレイガラスのどこを通るかを計算した。

それで1点が決まる。
それで何点かを計算して描いてみると、なんとなくわかるが、
対象物を描いているようには見えない。
それで当時PCでやっと使われ始めた「ワイヤーフレーム」っていうのはどうやっている
のだろう?と考えた。
対象物の外形を線分で描くことを想定して、対象物を線分で分けてデータを作った。
最初に作ったのは単純な立方体だった。
その線分データの両端の各点がディスプレイガラスのどこを通るかを先の方法で
計算した。
全ての線分を計算してディスプレイに表示すると見事に立方体が表示された。
「おう、できるじゃないか!」とうれしかった。
この時点で遠近法的に表示するにはカメラレンズの焦点距離というパラメータが
必要だと気が付いた。

次に考えたのは、当時上映されていたスターウォーズのXファイターがデススターの
溝の中を飛んでいるシーンが作れないだろうか?と考えた。
それで広い平面データを格子状のデータとして作り、その中央を溝の形状にした。
そしてその溝の中ほどに橋(普通の橋の形状)を作って、ここをくぐろう、と思った。

それをやる前までは気が付かなかったのだが、なんとなくワイヤーフレームで
データを作って先の方法で表示すれば後はPC8001の表示機能がやってくれる。
と思っていた。
ところが、当然なのだが、対象物を遠くから見ている分には全体がディスプレイの
中に納まるのでちゃんと表示するのだが、
線分に近づいて線分が画面からはみ出した時はその線分は正常に表示されない。

当時のPC8001は640×480(だったろうか?)
訂正:160×100しかなかった。
の画素しかなかったからこの値を
超えた場合は、画面を飛び出して表示される線分を想定して、
線分のどこではみ出すかを計算して、その点を新たな線分の両端にしなければいけない。
その方法はどうしたらいいかは全く参考書が無かった。
言葉の上では「隠れ線消去」(と言ったろうか?)という言葉はASCIIなどでも
見られたが、それはどうすればいいのかが書かれたのはだいぶ後だった。

その隠れ線消去の計算が大変だったように思う。
左右上下にはみ出すのはいいとして、向こうから手前に(画面を)はみ出す場合も
ある。
そのすべての場合を設定して計算しないといけなかった。

で、それら全ての計算をさせた。
それを画面に表示させるのだが、当時のPCの画面は粗すぎてきれいに見えない。
そこで考えたのはXY-プロッターに出すことだった。
会社にローランドDGのプロッターがあったのでそれで書かせることにした。
そうすると隠れ線消去の画面幅が大幅に拡大することができた。
100分の1mm精度でA3横向きの大きさに出力できた。

それで描いた溝と橋の画像は非常に綺麗だった。
バンクをかけなかがら溝に入って、橋をくぐって外に出る。という一連の画面
を十数枚のA3用紙(会社の)に描かせた。
1枚を描くのにものすごい時間がかかったけれど、満足だった。
その描いた紙が1枚も残っていない。
たぶん引っ越しの時に処分してしまったのだろう。

8/15/2016

なぜ書かない?

私の子供たち、一緒に暮らしていた人がいつかこれを読んで思うかもしれない。
なぜ…を書かない?と。
それは書かないのではなく書けないから。
そのうち書けるようになるかもしれないけれど、
書かずに終わるかもしれない。
ごめん。
今は書けない。

8/14/2016

単なる連想

棒高跳びを見ていた。
ポールがケースに入って積まれているのがテレビに映った。
あれはまるでハングがケースに入って積まれているのにそっくりだ。
そう考えるとドキドキしてくる。
このドキドキはいろんな時に出てくる。
ちょっと高いところに行って前から風が来る時。
崖っぷちに立った時。
鳥が滑空して降りてくるのを見る時。

忘れないように時々書いておこうと思う。

朝6時前に起きて、テレビの天気予報を見る。
たいていは渡辺さんが解説している。
風向きと強さ、それに今日の天気を確認して、行けそうだったら準備をする。
ハーネスのケースにヘルメットとタイヤが入っているかを確認して、
手袋とサングラスも入れる。
それを持ってガレージの車に行き後ろの席に積む。
車を外に出して、フロントにステーを立てる。
ステーはパイプで作った自作のもの。
強力なマジックテープでバンパーに取り付ける。

それからケースに入ったハングをガレージから担ぎ出し、車の上に載せる。
車の屋根にはスキーヤリアを固定しているので、そこと前のステーに
ゴムで縛り付ける。
プロシード・マビーだと前後にはみ出す部分はあまりない。
固定されているのを確認して車を走らせる。

首都高に乗り常磐道に向かう。
途中空の様子が気になる。
曇りはいいが、雨はだめだ。
ハングを積んでいるとあまり早くは走れない。
外れたことはないが、バタつくことはある。

足尾のスクールに着くとかなりの人がもう山に向かおうとしている。
知り合いに声をかけ風の様子を聞く。
いつも一緒になる大学生の女性がいる。
目が合うと会釈する。とてもかわいらしい人だ。
でも筑波大の学生らしいということ以外何も知らない。
親しいハングの仲間とバカ話をする。
それからショップに行って山に登るため名前を書く。

そこからが問題なのだが、
スクールのマイクロバスに余裕があるときはなんとか載せてもらえる。
そうでない時、あるいはすでに出発直前の場合は積んでもらえない。
その時は、知り合いで車で山に向かう人を見つけて載せてもらう。
それもできない時は自分の車で山に向かうが、
たいてい誰か便乗する人がいるのでその人のハングも積んで
山に向かう。

テイクオフのあたりはハングで埋まっている。
その手前か通り過ぎたあたりに車を停めて、とりあえずハングを下す。
下したハングはそのままにして車を駐車場までおろす。
駐車場はテイクオフから歩いてちょっとある。

ハングに戻って空いている場所を探してそこまで担いで運ぶ。
空いているのはたいていはずれの方だ。
冬場はけっこう雪が積もっていたりする。

ハングを組み立てるのは一種の儀式だと思う。
他の仲間にそう言ったら、自分もそう思っていると言っていた。
一連の作業を毎回全く同じように行う。
逆に言えば、全く同じように行わなければいけない。

まずケースのチャックを開けて、バテンの束を取り出し、ハングの機体を出す。
アップライトを広げて機体を起こす。
両翼を7部ほど広げる。
私の場合、バテンをまず右翼内側から入れて行く。
入れながらいつも思うことは「こんなゴムで本当に固定できてるのか?」ということ。
両翼にバテンを入れたら、ノーズのバテンを前から差し込み、カバーをする。
そして…名前が思い出せない…
クロスバーをキールに留めるワイヤー(何て言ったろう?)をガチョンと留める。

ちょっとまて、ノーズバテンはセールを張ってから入れるのか?
張る前か?
なんとなく張ってからのような気がする。
いや張ってからだろう。風のある時は誰かにキールを支えてもらって
よいしょと入れたように思う。
それからタイヤを付けて、バリオ(高度指示器)を付ける。

ハーネスは広げてハングにカラビナで吊るしておく。
ケースもたたんでハーネスに入れておく。

それからハングは置いておいて、テイクオフのランチャーまで歩いて行く。
そして他の人にテイクオフの様子を見る。
風の強や、皆がどこに向かって飛んでいくかも確認する。
と言っても私の場合はパラがたくさん飛んでいるいわゆる「パラマエ」
には行かず「サルカベ」と呼んでいた峰の方に向かうのが常だった。

私はいつもランディングの風向きが読めないので、テイクオフ前に
確認しておくか、スターターの人に聞いておく。
微妙な風向きの場合が困る。

それから自分のハングに戻る。
ハーネスに左足から入り、右足、そして前のジッパーを留め、
レスキューパラシュートを胸の前にジッパで固定する。
たぶん全体で30キロを超えると思うが、あまり重くは感じない。
ヘルメットをかぶって、テイクオフに向かうハングの列に並ぶ。
その時が一番辛い。
中腰で機体を持ち上げて少しずつ歩かなければいけない。

自分の順番が来る。
スタータの人はたいてい知ってる人なので挨拶をかわす。
その日の注意をくれる。
風の状態が良くない時はまたなければいけない。
記憶では長く待たされた時はあまり無かったように思う。

風が強めの時は誰かが支えてくれて、
2歩ほど歩いた時にはもう機体は浮いている。

風が弱い時は、とにかく走る。
ハングを始めた頃は変な癖があって良く怒られた。
それは、なかなか浮かないと自分でノーズを持ち上げてしまうことだ。
そうすると失速して飛べないか不安定になる。
それで自分で飛び出し方を決めた。
目はノーズから離さず、機体の角度を変えない、
そのまま走り始め機体が浮いても足は止めない。
これでほぼ100%安全に出ることができるようになった。

ここまで書いていて、もうドキドキが止まらない。
あの気持ちのいい興奮と緊張状態だ。
もう一度飛びたい。
できるなら。

8/10/2016

ヨーゼフ・パステルナックと「戦争の音楽」

世の中には「生かされていると感じる」と言う人が多い。
そういう私もそれをすごく感じる。
様々な分かれ道を思い出してみると自分がいま生きていることが不思議でならない。
それと同じように「導かれている」と感じる事も多い。
前にも書いたが、偶然入った本屋で「これだ」という本に巡り合うことが多い。

今日はなんとなく宮沢賢治の詩集のサイトを開いて眺めていた。
その「冬と銀河ステーション」「というタイトルが気になって、それを読んでいた。
途中にJosef Pasternack という指揮者の名前が出てくる。
全く知らない名前だ。
それを検索するとWikiがあった。
それを読んでみると1908年にメトロポリタンオーケストラの主席指揮者になった
トスカニーニのアシスタント指揮者に1年間なっていたことがあるらしい。

それがどうした?ということなのだけれど、
私はトスカニーニの大ファンだ。
それで半年ほど前に立ち寄った本屋に「戦争の音楽」(だったかな?)という本を見つけ
それを読んでいたところだったから。
その本はブルーノ・ワルター、ウィルヘルム・フルトヴェングラー、アルトゥーロ・マエストロ・
トスカニーニ、なんとかフォン・カラヤン(ひどいなぁ)、らが戦争の前後どういう行動を
とっていたかが書かれている。
当時(私が高校生の頃)はフルトヴェングラーはナチスに協力した指揮者というのが通説だった。
しかし、本を読んでみるとどうも結果的にそうなってしまったけれど、本人にはそんな気持ちは
無かったようだ。というか政治音痴だったようだ。思想にも興味が無かったようだ。
ユダヤ人の指揮者、演奏家がなぜドイツで演奏できないのかがわからなかったようだ。
それでユダヤ人演奏家が国内に残って演奏できるように総統にもちかけていたようだ。
それで総統の反感を買っても本人ははっきりその理由がわかってなかったようだ。
音楽のことしか頭になかったようだ。

一方のトスカニーニだが彼はこれまでの通説通り、ナチスには真正面から向かっていたようだ。
とても尊敬できる人だ。

それで、なんとかフォン・カラヤンだが。
どうもやはり好きになれない。
彼は自分が生きるためにそうしてきたのだろうけれど、わざわざ2度もナチス党員に
なることを自分から申し込んでいる。
それはナチスによって仕事を奪われないようにするためだった。

ワルターや他のユダヤ人演奏家は本当に時代に翻弄された。
ブルーノ・ワルターとかの戦争前後のことなど初めて知った。







8/05/2016

札幌1976年 航空写真 つづき

購入したのは大通りの西20あたりから宮の森あたりまでの範囲なのだが、
けっこうきれいに見えるので他の部分も欲しくなってしまう。
ただこの1枚が¥5000近くするのでうかつに他の部分を注文する気にもならない。

こまかな部分がみえると記憶と違うことがけっこうある。
大通り西26の中通りあたりに沼があったように記憶しているのだが、
写真を見てみると材木置き場だったようだ。たぶんここに雨水がたまっていたのだろう。
あるいは除雪した雪置き場になっていたのかもしれない。それが春になって溶けて水たまり
になっていたのかもしれない。
1974年ころの大通りは13丁目あたりから西はまだ工事中で砂利道だったように思う。
確か1974年ころに研修できた時、15丁目あたりを歩いた時ぬかるみだったように思う。

<追記>
この材木置き場のあたり全体を見ると左斜め上からこの場所に流れ込み、下に流れている
ような川の形跡が見える。これは川だろうか?と古い地図を見ると山鼻あたりを源泉として
途中琴似川になって茨戸まで流れていた川があったようだ。

円山市場の並びは昔のことを思い出させる。
フードセンターの向かいにドンクのパン屋があった。その先の並びのどこかに知り合いの
トンカツ屋があるはずだ。それがどれかわからない。
でもそのうちの1件は今でも残っている。先日行って確認した。

円山市場の先が駐車場で駐車場のはずれに「みよしの餃子」のお店があった。
写真で、ここがそのはずだ、と思う。

写真の下の世界は確かにこの時街は活動して人々は、自分も含め、この街で生きていた。
実際の航空写真を撮った飛行機はたぶん2000メートルくらいの高度だったのだろうか。
それを切り取って、この写真のように見ると高度300メートルくらいから見ている感じだ。
降りるとしたら円山市場の屋上しかない。
降りられたらいいのに、と思う。



8/04/2016

札幌1976年 航空写真

国土地理院の航空写真のサイトで元データのコピーを売っている。
1200dpiだ。
それはどのくらい見えるのだろう?
と興味が湧くと止められない。
それで1枚の航空写真が1976年でエリアがちょうど私が住んだ場所を網羅していた。
それを購入した。
2,3週間かかると書かれていたけれど、ずっと早く届いた。

CDに入ったデータは確かにでかい。
tifなのでフォトショップで開いた。
Google Earthよりも少し細かい感じだ。(訂正Google Mapと同程度か少し粗い)
車はなんとか判別できる。

写真の日付は1976年9月24日だ。
これを調べると金曜日だ。
写真の欄外に時計が写り込んでいる。
2時15分だ。
ということは私が赴任して2年目の金曜日の昼だから、私は会社で仕事をしてるはず。
この時は車はチェリーF2の白だ。

会社に車で行くときは傍の工場長の家の脇に停めていた。
その場所を見る。

左右に大通りが走り、その少し上の右端の緑の多いブロックの中に建っているビルが
会社が入ってたビルだ。
私の車はその周辺にあるはずだが、無い。
このあたりは当時も駐車禁止だったから停めるとしたら工場長の家の脇なのだが。
あるいはその近くに下宿してた家があるのでその脇か?とおもったけれど無い。

そうすると車では行っていないのだろうか。
それで今度はアパートの方を見た。
アパートは茶色の長い屋根が2本並んだところだ。
「宮の森バードマンション」と言った。
その入り口に白い車がある。
他の車と比較すると後部の窓ガラスはセダンではほとんど写らないようだ。
私のチェリーF2は後部はハッチバックになってやや広めのガラス窓だった。
写真を見ると後部窓は大きく写っている。
たぶん、これだ。

でもどうしてアパートの外に置いているんだろう?と思った。
いつもは管理人さんの部屋の前に置かせてもらっていたはずだ。
よーく、思い出してみると、管理人さんが「置いていいよ」と言ってくれたのは
すこし後だったような気がする。
さらに思い出すと、この写真にある場所にいつも停めていたから冬は毎日ここの
雪かきをしていた。前の電信柱のところに山のように雪を積んでやっと車が停められた。
そんなことを思い出した。

ということは、私のチェリーちゃんは私が戻るまでこの路上で待っていたわけだ。
今だったら、怖くてそんなことはできない。

この航空写真はとても面白い。
昔のそのままがそこにあるような気がする。

ストリートビューがあればいいのだが。。

8/01/2016

サハラ夢美術館

時々美術館に行きたくなる。
春に行った札幌の近代美術館は良かった。
展示もよかったし、学芸員の人と長話もできた。

今住んでいる都筑区に美術館はあるだろうか?と検索したことがある。
1軒だけあるようだった。
ホームページを見るとなんか変な宗教じゃないのか?という第一印象。
でもどうやら個人の人が自分の作品を展示しているらしい。
いつか行ってみよう。

と思ってから半年以上経っている。
昨日の日曜日は急ぎの仕事もなかったので、行ってみようと思った。
どうも駅は中川駅で降りるらしい。
家から2駅地下鉄に乗って、中川で降りた。
記憶で、こっちだろう?と思って歩き始めた。
最初から地図を確認してあるくのは好きじゃないから、
まあ、それで失敗することが多い。
歩き始めたのはいつも自転車で走っているあたりだ。
だいぶ歩いてから「どうもちがうなあ」と思いはじめ、
スマホの地図を見ることにした。

かなりちがう。
しかたないからわかりやすい早淵川まで出て川に沿って歩いた。
雨が降ってきた。
強くならないといいな、と思っているうちに激しくなってきた。
民家の庭の木立が雨をしのいでくれた。
しばらくすると弱くなってきたので、また歩き始めた。

だいぶあるいて、目的地に近くなった。
ちょっと坂を上ったところにその建物はあった。
ちょっと古風な円柱形の建物だった。
何か貼ってあって営業はしているようだった。
インターホンを押すように書いてあったので押した。
しばらくして女性がドアを開けてくれた。

500円を払って、地下の展示室に案内してくれた。
広い部屋の壁に沿って絵が展示されていた。
端から見て行った。

絵は精神世界を描いたような感じの絵だった。
自分としては好きなタイプの絵だった。
描かれている一つ一つ、背景に至るまですべてに意味があった。
また、模様に見える部分も全て何かを象徴していた。

もっと宗教がかった絵を予想していたけれど、全く違った。
いや、描かれている世界は宗教にのめりこんだ人が見ると
宗教的に見えるかもしれないけれど。
宗教がかった絵とは決定的に違うものがあった。
祈りが無い。
祈りが聴こえて来ない。
静かにその「場」だけがそこにあり、
それをただその場に居て見ている。
「アポカリプス」
と書くとどこかの宗教になってしまうけれど、
まあ、そういう感じだ。

たぶん私があまり時間をかけて見ていたので心配になったのかもしれない
沙原秀さんが階段を下りてきた。
絵についてそれぞれの絵を話しながら見た。
それから上の喫茶室に行って話をした。
沙原さんが画集を開いて説明してくれた。
それからの会話の展開は私が好きな内容だったので
2時間以上話をしてしまった。
途中ある絵を見ながら
「これは、あれ、あの人の絵…」というので私もすぐにわかった。
わかったけれど、名前が出てこない。
しばらくして私が思い出した。
「マグリット!」。
二人で大笑いした。

その手の話をするのは先日の札幌の近代美術館以来だった。
とても楽しい一日だった。
また来ることを約束してそこを後にした。

帰りは早淵川にそって家まで歩いて帰ることにした。
強い日差しだった。
日陰を選んで歩き、途中から都筑中央公園に入ることにした。
公園の森の中の階段を上っていると、雨が降り始めた。
すごく強い雨だった。
広葉樹が雨の傘になっているところを見つけて
しばらく一人でそこで過ごした。
美術館に居た間だけ空は青空だったのが不思議だ。
雨はなかなか止まなかった。
小枝を伝って雨が頭に落ちてくる。
冷たい。
この感じは子供の頃にもあったなと思い出した。

雨が弱まってきてそこから移動すると、別の木の下で
何人も同じように雨宿りしていた。
雨があがり皆三々五々移動しはじめた。

空を見ると真っ白な入道雲の下にいたことがわかった。



本当は違うけれど、あの美術館は公園の森の奥にあるような気がする。














7/26/2016

レ・ミゼラブル 民衆の歌

どうでも良くないことをほっといて、どうでもいいことが気になる。

日本語題で「民衆の歌」の歌詞だけれど、
日本語歌詞は「戦う者の歌が聴こえるか?…」で始まるけれど、
「戦う者」でいいのか? と思い始めた。
確か元はSinging a song of angry men?だった。
歌っているのは怒れる人々のはずだ。
戦う人と怒れる人はずいぶん違うと思う。
怒れる人は怒っているけれど静かに我慢している感じがする。
戦う者と言うともっとラジカルな感じがする。

だいたいこの歌はワルシャワ労働歌ににている。
歌詞も旋律も。
「砦の上に我らの世界だ」
と考えたていたところに、
横から「あの歌はもともとフランス語でしょう」
と言われた。

そうかフランス語だ。
と思い、フランス語の歌詞はどうなんだ?
と検索してみたら、フランス語歌詞の日本語訳を書いている人がいた。
読んでみると、むしろワルシャワ労働歌の日本語歌詞に似ている。

それじゃあワルシャワ労働歌の原語歌詞はどうなんだろう?
と検索してみると、もう、モロ、ワルシャワの革命歌だ。
日本語のワルシャワ労働歌は原語よりもむしろフランス語版の「民衆の歌」に似ている。

とわかったところで、
どうでも良くなった。


7/25/2016

かつて電話は

そうじゃなかった。
さっき「北の国から」の再放送をたまたまやっていて、それを見て思い出した。
じゅん君が人の目を盗んで職員室の電話で東京のお母さんに電話をする。
それを見ていて、なんでこんなにドキドキするんだろう?と思った。
携帯ではこんなにドキドキすることはないだろう。

北海道から東京に電話するのは頻繁にはできなかった。
公衆電話から電話すると100円玉がガシガシ落ちる。
話に詰まって、だまっていても落ちる。

私の父親は時々電話をくれた。
いつも決まって日曜日の夜だった。
その時は家にいないといけない。
でも日曜日はでかけているときが多かった。
今、考えると、逆の立場だったらと思う。
父はちょうど今の私のように息子に電話していたのだろう。
出なかった時はきっと寂しかっただろう。


もうこれが最後の電話になるからと、電話をして来てくれた人がいた。
札幌から東京にだった。
ひとつひとつの言葉にはすごく重みがあった。
その数日後に亡くなった。
あの電話は一生忘れない。


そういう大切な人への言葉の電話がメールやLINEになってしまって、
心は携帯とともにどこかに行ってしまったような気がする。
だから、大事な人へはメールではなく電話をすることにしている。

きっと、いい迷惑だろう。

7/23/2016

携帯

捨てたい。。

いつからこんなことになってしまったんだろう?
次のイージーライダーは時計ではなく携帯を捨てるシーンから始まる。
と、前に書いたような気もするが、
70年当時の時計と今のスマホは似てるかもしれない。
たぶん現代の生活には必須のものなのだろう。
私を除いて。

それでも会社で仕事をしてた時は、頻繁にメールもしていたし、
電話もしていた。
だいたい車で運転しながら電話してたし、メールもしていた。
そんな時があったことが今は不思議に思える。

今、携帯があって良かったと思うのは娘からたまにメールが入ることだ。
まあ、だいたい「カンパして」という内容なのだけれど、
それでも、まあ、父親としてはうれしい。

それだけだ。
なのに毎月の料金が馬鹿にならない。
だから来月、格安スマホに変えることにした。

スマホを捨ててバイクに乗ってどこかへ出かける
という勇気も無い。


7/19/2016

千歳空港

札幌に住んでいた時には毎年1回か2回は東京に飛行機で帰っていた。
飛行機じゃないときは車だった。
車は青函連絡船を使ってあとはひたすら4号線を走った。

千歳空港は当時は車は何日停めても500円くらいだったように思う。
だから千歳空港までは車で行って停めておくか、雪のひどい日は
バスで空港まで行った。
バスは確か道庁のすぐ前のところから出ていたように思う。

飛行機は当時は席は早いもん順だったので、できるだけ早く行って
翼の上ではない窓側席をとった。ジャンボの時は2階席の窓側がとれる
ときもしばしばだった。
何かの理由で窓側が取れないときはほんとにがっかりした。
飛行機に乗る意味がなかった。

だいたい機内に座るとほとんど窓にへばりついていた。
飛び立つ前から飛行機から降りるまでずっとだった。
夜は地上の街や道路の灯りがきれいだった。

窓の外を見ていないと経験できないきれいな景色やめずらしい瞬間も
たくさんあった。
…ということは前にも書いたような気がする。

今回は格安航空券だったので、できるだけ早く搭乗手続きを済ませ
窓側の良い席をとった。
今回はカメラで撮影しようと思いカメラを出しておいたのだけど、
なぜかバッテリーが切れかかっていて離陸しかとれなかった。


離陸して雲の上にでると雲がきれいだった。
でも撮影できなかった。

帰りは、離陸はきれいに録れた。
映像には自機の影が雲に投影されるシーンが録れた。
8:07あたりから。


札幌ー東京というのは上昇して上がったらすぐに下降するような感じだ。
海外便だと高度も高く雲の景色は本当にきれいだ。

海外か… また乗ることあるかな。

昔録った千歳空港の写真がある。

この写真はどこで撮ったのだろう?とずっと思っていた。
今回、電車で札幌から千歳空港まで乗ってわかった。
今の南千歳駅横の国道36号線上だ。
思い出した。
車を停めて吹雪の中、窓を開けて撮った。
三脚を助手席側に立ててカメラを固定して撮った。

あの飛行機に乗りたいと思っていた。


時計台

しかし残念な観光地だとか言ってる人の気持ちがわからない。
明治時代からビルの谷間にこれを建てたわけじゃないし。

まあ、そんなことはどうでもいいのだけど、私はこの時計台が好きだ。

札幌に赴任して数日後に東京から車が来て、最初に行ったのが時計台だった。
夜中だった。
車を中通(当時は大阪屋があったところ)に停めてしばらく眺めていた。
鐘が鳴るはずだと思って録音機を持って鳴るのを待っていた。
それが今から何十年も前だとは信じられない。
今回も夜10時前に行って鳴るのを待っていた。

観光客はこの時計台が鳴るとは思っていないようだ。
ほとんどの観光客は写真を撮って去って行く。
しかし、10時の鐘が鳴り始めたとたん、驚いたように足を止め、
あるいは引き返して鐘の音を聞いている。



この音も好きだ。
イメージではもっと余韻があり広々した野山にこだまするようなイメージかもしれないけれど、
私はこの音が好きだ。
この音は昔と全く変わっていない。(と思う)

時計台は夜がいい。

7/16/2016

札幌、あれから2か月

また行きたくなった。
いつも札幌に行って帰ってくると、あの街には嫌われてるな、と思っていたけれど、
今回はその感じが無い。
それに思い出にある全ての物が変わってしまっているのに、
あの街の今が懐かしい。


札幌にいたときに知り合った唯一の男の友達は豊平川のそばに住んでいた。
彼のアパートはどのあたりだったろう?と思い豊平川に行ってみたが、思い出せなかった。



土手に座ってしばらく見ていた。
ひとつ思い出した。
この写真の向かいあたりに「穀物屋」だったかな?そんな名前のジャガイモ料理とか
を食べさせる店があった。
一度は入ったことがあったはずだけれど、それ以上思い出せない。
しかし豊平川をこんなにじっくり見ることはあっただろうか。

そうだ、一度花火大会を見た。
あの時もこの向かい側のあたりに車を止めて花火を見た。
あの当時も混み合っていたけれど、たぶん今からすれば平和だったのだろう。
車を停めていても何も言われなかった。

その土手からその友人に電話をかけたけれど、3回かけなおしたけれど、
出なかった。どうしているだろう?
もし電話に出たら「今どこにいると思う?」と言ってやろうと思ってたのに。

豊平川だよ。


藻岩山が見えた。
藻岩山のケーブルカーは午後からなんだ。
時間が合わず行けなかったけれど、羽田の閉鎖で一日ずれるのがわかっていたら行くのだった。







6/24/2016

ヘッドフォン

問題はヘッドフォンだ。
ヘッドフォンのレビューはほとんど役に立たない。
過去何度失望しただろう。

今まで一番良かったのは30年前くらいに買ったDENONの密閉型の3万円くらいのやつ。
少し前まではそれを持っていたけれど、さすがに処分してしまった。
すでに同じものは売られていないし、型番も忘れた。
でもその音の印象は今でも覚えている。

スマホが出る前は、店のヘッドフォンは店が用意した音が鳴るようになっていた。
それがどこのお店もけっこういいかげんな音源で、あまり違いがわからなかった。
しかし、最近は自分のスマホの音源で聞き比べることができる。
それが画期的だ。
自分の知ってる音で聞き比べるとヘッドフォンの違いが非常によくわかる。
例えば喜多郎のシルクロードだけれど、左で演奏しているアコースティックギターの
音が聞こえるものと聞こえないものがあることがわかった。

これは非常にはっきりわかる。
値段の高いもの、世の中の評価の高いものでも聞こえないものがある。
だいたい値段の高いものが良いというのはヘッドフォンには全く通用しない。

そのシルクロードに限って言えば一番解像度の高いものはオーディオテクニカの
¥8000くらいの密閉型のものだった。
全ての音がクリアーに定位して聞こえた。
それを買った。
3日目くらいにマイクオンスイッチ(こんなものが付いてることに気が付かなかった)が
勝手にオンになり音が途切れるという不具合が出てきた。
面倒なので、もう使っていない。

解像度を別にして、一番聞きやすいのはフィリップスだった。
イヤホンタイプにしてもヘッドフォンタイプにしても、それほど高くないクラスの
ものが一番聞きやすい。
と思う。

ヘッドフォンで一つ問題なのは、モニターとして使う時だ。
YouTubeにアップしたい音をモニターする時は平均的な音のものでないといけない。
私はSONYの密閉型ヘッドフォンをいつも使っているが、それは低音が豊かで全体に
柔らかい音だからだ。
しかしそれで音をモニターして映像を作ると低音が不足した音になってしまう。
だから、それを意識して音を作るか、あるいは他のヘッドフォンを使うかだ。


5/30/2016

札幌1975・ 2016・バイク (2)


札幌到着の日は午前中雨だった。ちょうど着いた頃に止んだようだ。
雨雲に突っ込んで行く時の景色が好きだ。
機体はがたがたと揺れ始めるけれど、柔らかい雲の中に埋もれて行く感じが好きだ。

次の日はまた札幌から千歳に戻った。
今回千歳には4回行くことになってしまった。

千歳のオリックス・レンタカーのカウンターでレンタルバイクの連絡バスを申し込む。
なぜか最初、カウンターの女性に英語で話しかけられた。
たぶん東南アジアの人に見えたのだろう。
今回が初めてではなかった。

バスはほとんど中国人だった。
オリックスのレンタカーショップについて皆レンタカーのカウンターに向かっていたが、
私だけレンタルバイクのカウンターに向かう。
そこでヘルメットを借りて、その他手続きをしてバイクをチェックする。
大きなのはいやだったので、250のアメリカンを予約していたが、バイクは思ったより大きかった。
たぶん400と同じ大きさだ。
しかも重い。


ショップの人が写真を撮ってくれた。
これは以前も同じ系列のレンタルショップで借りたことがあるけれど、初めてだった。
バイクはYAMAHAのDS250。
形は古風だけど機器類はちゃんとしてる。
座ってみると十分低い。
セルを回すと低めのサウンドが気持ちいい。
しかしこれはシングルではない。
「行ってきます!」とショップの人に言って、
シフトペダルを蹴り下ろす。
ゴツンという振動。
クラッチをつなぐと意外に緩やかな発進だった。
でも、いつものころだけれど、走り始めはアチコチにふらつく。
坑道に出てアクセルを吹かすと、あの腰を押される気もち良い加速感。
サイドミラーを直し、やっとここでメーター類は何があるのかわかった。
ウィンカーもリセットが付いている。今はみんなそうなのだろうか。

脇道から6車線の道路に出る。
ただただ、気もちいい。

千歳駅前で左折する。
この道は昔はこんなじゃなかった。
昔はビルなど無かった。

しばらく走って高速をくぐるとあとは昔のままの森林を抜ける道だ。
この道は起伏があって、真冬はいい気になって走っていると凍結で止まらなくなる。
当然だけれど、ハンドルに固定したカメラでは振動がすごい。

支笏湖に近づくにつれて気温が下がってくる。
支笏湖に着いた時にはもうすっかり冷えてしまっていた。

しかし行きたいのは恵庭岳の方の湖岸。そこまで大した距離ではないのだけど、とにかく寒かった。
やっと向こう側にたどり着いた時には死ぬかと思うくらい。
なにせバイク用のジャケットが夏用だったので風よけにはならない。
そこのお店(もう100回近く行っているはずなのに一度も入ったことがなかった)に入って
暖かいウドンを食べた。
普段だったら特に美味しいとは思わない観光地のウドンだったけれど、その時は
とても美味しかった。とにかく温まった。

そこからオコタンペへ行こうと思い、山を登って行ったけれど、オコタンへの分岐点が
通行止めになっていた。崖崩れだったようだ。
しかたなくモーラップの方へ行くことにした。
そのころには太陽も出てきて少し寒さが和らいでいた。

途中の樽前山の向かい側の駐車スペースに停めて写真を撮っていたら、停まっていた観光バスの
運転手ともう一人、男の人が声をかけてきた。
話してみるとその一人はついこの前まで横浜にいたそうだ。
そこから千歳へお客を乗せに行くそうだった。

275号に出て、そこから湖岸を美笛の方に走った。
途中のトンネルがまた非常に寒かった。
二つ目のトンネルで折り返して戻ることにした。
途中キャンプ場の方への脇道に入って行きどまりまで走った。


そこの森がとてもきれいだった。
地面はコケや草で覆われていて、湿地のように見えた。でもたぶん乾いていたのだろう。

バイクを返すにはまだ早かったけれど、千歳空港に戻ることにした。
暗くなってから帰るのは不安だったから。
千歳の街に出るとさすがに車が多い。幹線道路は大型トラックが頻繁に走っている。
そういう道を走るのは久しぶりだった。
とても緊張した。
でも無事に空港に戻ってバイクを返すことができた。
バイクは3年ぶり。その前は30年ぶりだった。

5/29/2016

札幌1975・ 2016・バイク (1)

札幌に行ってきた。
その後何度か行っているが、一人で行くのは20年ぶりくらいだ。
最初の目的はバイクに乗りことだった。
予定していた日は雨だったので1日延期だ。

そうなるとどこへ行こうということになる。
まず道庁だ。
あのアイヌ地名の大きな地図をもう一度見てみたかった。

道庁の入り口の職員に「あの地図はどこだったでしょう?」と聞いたが、知らなかった。
それで上の階に行って各部屋を調べた。
無かった。
そこの職員に「あの地図はどこだったでしょう?」と聞いたが、知らなかった。
「もうあの展示はやめたのでしょうか?」と聞いた。
すると「そうですねえ、私も覚えていないくらいですから…」と言う。
そうか残念だ。と思った。
1階に降りた。
「そうだ1階にも何か展示があったなあ」と思って、廊下の奥に行った。
左手の部屋に入った時に、大きな地図があった。
「なんだあるじゃないか」と思った。
道庁職員はちゃんと仕事するように。

そこから西28丁目に向かった。



たぶん昔から変わっていないのはこの景色だけではないだろうか。
店の名前が微妙に変わっているけれど、「東急ストアー」があった場所だ。
この正面の景色はほとんど変わっていない。


東急ストアーから西に少し行くと斜めに入る道がある。
この道がアパートまで続いていた道だ。
その入り口のところ、昔はガソリンスタンドだった。ここでいつも洗車し、ガソリンを入れていた。
今思い出した。現金ではなく月締めでお金を払っていた。綴り伝票があったように思う。
その道を入ると一度クランクがあって緩い坂を上って行く。
そのクランクになっているところに昔は民家があってその塀に美しい蔦が這っていた。
秋になると真っ赤になった。


確かずっと前のこのブログに雪道の写真を載せたけれど、この先の電柱のあたりに、
「バードマンション宮の森」とかかれた看板があった。

この道を突き当りまで行くと右側に郵便局とスギハラさんと呼んでいたスーパーがあった。
そのスパーはまだあった。

このお店がそのまま残っているのは驚きだ。
なぜなら札幌の当時のものはほぼ無くなっているからだ。
このお店は全く昔のままだ。
アパートからすぐなのでここでよく買い物をした。

そこから南に出ると北一条の通りに出る。
記憶では北一条からアパートの方に曲がるのは神宮の鳥居の手前だったように思ったけれど、
実際は鳥居を過ぎてからだ。

そこから神宮の方に入り、公園に抜ける。
そのまま大通り20丁目まで歩くのが車を使わない時の通勤ルートだった。


公園の中は冬は雪に覆われていて、人の歩く道が一本だけ通っていた。
そこを行くと大通りの西の終点の場所に出る。

ここは道路もきれいになって全く別の場所の感じがする。
そこを東に少し戻るとバスターミナルがある。
その向かい側に円山ブロードハイツというマンションがあるが、そこは当時社長が部屋をもっていて、オーディオのリスニングルームにしていた。
よくそこに行って音を聞いた。
そこの窓から写真を撮ったりした。
それもどこかにアップした。雪の中の道を写したものだ。


部屋のカーテンを深いブルーにした。
カーテンを閉めても太陽の光で部屋はブルー一色になった。

そこから北に中通を歩くと西28丁目の地下鉄駅に戻る。

そのちょうど突き当りのところにアパートがあって、友達が住んでいた。
その前に車を停めて友達を待っていた。
ちょうどこの場所。

たぶん同じ場所の40年前。


宮の森を一周した。





4/30/2016

不確かな過去

そうすると「過去」の歴史とかはどうなんだろう?
「過去」に起きたことは確かなのだろうか?
それは確かなのだろう。
起きたことなのだから。
それは記憶に残っているし、何かに記述されている。
しかし、それは記録であって過去そのものではない。

例えば500年前に起きたことは確かにあったことなのだろう。
しかし、もしも時間を過去に進ませることができたとしても、
過去の記述通りに戻るわけじゃない。
つまり映画のフィルムを戻すようにはならない。
戻そうとしたとたんフィルムは現在の1コマを除いて
真っ白になってしまう。

過去に向かったとたんに過去は不確かなものになり、
未来が不確かなことと同じように、
過去に何が起きるかは不確かなことになってしまう。
シュレディンガーの方程式の時間が負の場合は
そういうことを言っているのだろう。

4/28/2016

時間のスケール

だいたい時間が遠い過去から永遠の未来までまるで物差しのようにつながっている、
というイメージはどこから生まれたのだろう?
子供の頃からだろうか、それも学校で歴史年表みたいなものを見たのが始まりだろうか。
物差しのようになっているというイメージがあるからタイムマシンのような考えが浮かんで
しまうのだろう。
しかし、おそらく時間というものはああいう風にはなっていない。

未来がほんの一瞬先でもどうなるかわからないのと同じように、
過去も一瞬前がどうであったかも同じ不確かさであるはず。
というのもシュレディンガーの方程式が負の時間でも成り立つらしいからなのだけれど、
それをずっと考えていたら、その方が自然のように思えてきた。

だから時間を長さのあるものでたとえてはいけないのだろう。
時間と言うのは「一瞬」でしかない。
…これも変な言い方かもしれない。
「一瞬」と言った時、頭では位置的なイメージを描いてしまうから。
それじゃあ、時間とはいったい「何のような」ものだろう?

ディスプレーに写る映像はどうだろう。
映像それ自体は絶えず一瞬しか画面上に存在しない。
ただし映像に投影される映像はビデオテープやビデオ信号のように記録されたもので
あってはいけない。ビデオ映像だとまた戻すことや進めることができてしまうから。
でもまあ、時間のたとえとしてはいいような気がする。

画面に何が映るかは、正の時間でも負の時間でも同じように投影される。
画面に映るものは時間の正負にかかわらずある確率を持って投影される。
我々は時間が正であれ負であれその画面に映る瞬間の映像を見るしかない。
その映像は絶えず変わって行き、元に戻すことはできない。

そういう状況ではタイムマシンなどという概念すら意味を持たない。
100年後も100年前も確率的にしか語れない。
それでいいような気がする。
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4/26/2016

ビジコンからハイビジョン映像

1981年にオーディオの会社からパソコン関連機器を作る会社に移った。
パソコン関連機器というのはその頃まだ「マイコン」と言っていたボードコンピュータを
コンピュータに作り上げ、それに画像処理機能を組み込んでいたものだった。
その頃のCPUは6802だった。その後6809を組み込んでいた。
OSとしてFLEXを使っていた。

その画像処理機能だけれど、ビデオ信号入力からビデオメモリーとそのメモリーをアクセスするためのインターフェイス、それとビデオメモリーの出力をまたビデオ信号に戻して出力していた。
たぶん、画期的なものだったと思う。
その全体の開発に私は関係していなかったけれど、ビデオ信号処理の部分に少し改造を加えていた。

当初は入力となるビデオ信号元はビデオカメラ、それもビジコンかサチコンを撮像素子に使ったものだった。あちカルニコンというのもあったと思う。
いずれにしても解像度は低く、水平が200くらい垂直は240くらいだったのだろう。
少し良いもので300×240くらいだったと思う。
だからビデオメモリーも256×256画素のものだった。
深さは4ビットで16階調だった。

それを6809ボードから制御していたが、インターフェイスを付けて、その頃出始めたパソコンにつなげるようにしていた。PC-8001やMZ-80,FM-8などだった。
インターフェイスは上下アドレスをパラレルIOでセットしてそのデータを読み書きするものだったから、処理速度は遅かった。8ビットコンピュータで1画面全部を書き換えるのに数分かかっていたと思う。後に16ビットのPC-9801が出てからも1秒くらいはかかっていたように思う。
その後に、パソコンのメモリーマップの中で直接アクセスできるよういにしてかなり早くなった。

そこに至ってもビデオ信号はあまり変化なかった。
撮像素子がCCDに変わって安定はした。特に焼きつきや残像が無くなったので、産業用に使うには条件はかなりよくなった。
しかしNTSCの制約のために解像度はほとんどよくならなかった。
イメージメモリーは512×512に変わったけれど、実際の解像度はそんなに良くなかった。

ビデオ信号のアナログ処理部はほとんど確立されていたのだと思う。
当時世に出ていた回路図はほとんどテレビ受像機の回路が基本になっていたように思う。
そのため画像入力装置のAD変換の前段の回路はそれを継承していた。
たいていはトランジスタ2,3石で作られていた。
アナログテレビ受像機の場合ビデオ信号のDCが多少変動しても平気で写っていたけれど、
AD変換ICはその変動をまともに受けていた。だから明るい場面から暗い場面に変わるとDC変動によってデジタルデータは大きく変わってしまった。
同じ白いものでも画面の中にある大きさによってその値が変わってしまった。

従来のビデオ回路でもクランプ処理というもの行ってある程度ビデオ信号の安定化を行っていたけれど、ビデオ信号処理にはむいていなかった。
それで、クランプ回路を作った。
最初はビデオ信号の同期パルスの底を検出してその変動をビデオアンプにフィードバックする方法を考えた。それは何も参考回路が無かったので、自分で考えたものだったけれど、とてもうまく動いた。DCの変動はほとんど無くなった。それはその後改造してぺディスタル部分を検出してペディスタル部分のDCを固定する方法に変えた。

ずっと後になって他のメーカーの回路図を見ることがあった。それを見るとビデオ入力部分の回路が私の回路とほとんど同じだった。
きっと同じことを考えたのだろう。真似されたとは思わなかった。
だいたい電子回路なんて目的が一緒だったら同じような回路になるいはず。


それから、ある時の画像処理展で、あれは確かTIだったと思うけれど、1000×1000くらいのCCD素子を出したと思う。
その頃からこう解像度のビデオに世の中は移っていったのだと思う。
NTSCを離れて独自のビデオ信号のカメラが出始めていた。
でもコンピュータの方がそれに追いついていなかったように思う。
複雑な処理になるとかなり遅かった。
いずれにしてもPC98の時代が終わりDOS-Vになってからだったと思う。まともな処理ができるようになったのは。

考えてみると256×256のメモリーボードがA3サイズあった頃から考えると、Go-PROがあの大きさでハイビジョン映像を記録できるのは驚異的だ。
いや、大きさとしてはもっともっと小さくできるのだろうけど。

4/12/2016

高層マンションと子供

昨日のニュースを聞いて、もうひとつ古い映画を思い出した。
あれも海外のショートフィルムだったように思う。

アパートの一室で母親と子どもが暮らしている。
母親が家事をしている間に、子どもがベランダに出て柵に上って遊んでいる。
母親はそれに気づかない。
子供は柵の外に身体を乗り出しているうちに手を滑らせてしまう。
子供はかろうじて柵をつかんでいる。

母親が子供を探して呼ぶ。
でも返事が無い。
どこを探してもいない。
そこで母親は思い出す。
以前冷蔵庫に入っていたことがあった。
子供は雪になりたかった。(とかだったと思う)
母親は急いで冷蔵庫に走る。
ドアを開けるが子供はいない。

部屋のドアを開けて出てはいないはず。
母親はぼんやり窓を見る。
柵の下に子供の手が見える。
母親は急いで走って行って、その手をつかむ。
しかし、柵を通してつかんでいるのでどうしようもない。

母親はなんとか子供を上に上げようとするが、
できない。
そのまま時間だけが過ぎ、
子供も親も手の力がなくなって行く。

子供は空を飛ぶ空想をする。
子供が言う。
「お母さん手を離していいよ、僕は空を飛んでふんわり地面に降りるから。」
「大丈夫だよ」
母親は子供を叱り付ける。

そうしているうちに、道路を歩いていた人が二人に気がつく。
みな空を見上げて大騒ぎになる。
そこにいた一人の若者がそのアパートに駆け込み
階段を上ってその部屋にたどり着く。
ドアを開けようとするが、鍵がしまっていて開かない。

(ここから記憶が不確かだけれど…)
たしかその若者は人のいる部屋を探す。
そして上の階に人がいて、その部屋のベランダに出て
パイプ等をつたって親子のいるベランダにたどり着く。
そして子供の腕をつかんで部屋に入れようとするが、
母親は子供の手をつかんだまま離さない。

もう大丈夫だからというが手を離さない。
でもそれは手を離さないのではなく、
母親の手が固まってしまい、離すことができないのだった。
やっと母親の手を離して部屋に入れるが、
母親の手は子供をつかんだ格好のまま戻らない。

地上では歓声があがる。


というような映画だった。
あれは何という映画だったのだろう?
記憶ではMotherだったように思うが。


















4/10/2016

ショートムービー

あれは誰の何と言う映画だったろう?
かなり以前のことだけれど、YAHOO?のショートムービー紹介のところにあった映画。
確かその監督の友人がライフルで自殺してしまったという実話に基づく映画で、

その映画は主人公が野原の真ん中で車だったかの上に座って
ライフルをくわえて自殺しようとしている。
足で引き鉄をひこうとすると、どこかから赤ん坊の泣き声がする。
彼はライフルを置いてその声の主を探し始める
すると赤ん坊が置き去りにされているのを見つける。
彼は赤ん坊を抱き上げ、その子を連れてそこを立ち去る。

というような内容だったと思う。
監督はその自殺した友人をどうしたら救えただろう、と考えたのだろう。
とても感動的な映画だった。

4/02/2016

YouTube Creator Day


なんだかわからなかったけれど、面白そうだから行ってきた。
その前に、このお知らせのメールが来て「抽選で参加できます」というので申し込んでおいた
わけなのだけれど、みごと当たったわけです。
これがどういう条件で選ばれたのかわからなかったが、当日プレゼンターが言った言葉で
恐らくチャンネル登録者数1000人以上から選ばれたのではないかと思った。
私はその下限ぎりぎりだ。

 
この会場はほぼ満席だった。
まだ誰もあまり来ないうちにこの写真を撮ったので椅子しか写っていないが、一番左に立って
いる女性がプレゼンターの一人。
私は前から2列目に座った。
 
正直なところここで何をするのかわからなかったけれど、まあ何か説明を受けるのだとは
わかっていた。
二人のプレゼンターが1時間交代でプレゼンを行った。
                                
                        もらい物1(アメちゃん)

 
内容は「いかに集客するか」に尽きる。
二人のプレゼンターは非常にわかりやすくその説明をしていた。
私も利用していなかった機能をいくつか知ることができた。
ただ、私は単に集客目的でチャンネルを管理していない。どこからかの検索で私のところに来て
動画を気に入ってくれる人がいたらラッキーとしか思っていない。
しかしおかしなもので説明を聞くうちに「なるほど、そうすればもっと見てもらえるのか」と
納得してしまうものがある。
説明も良かったのだけど、ああいう内容はYouTubeで研究・検討されているのだろう。
 
                         もらいもの2(マグカップ)
 
 
私としてはもうすこし来ていた人たちと自由に話ができればよかったとおもうけれど、
時間に制約されていたのでしかたないかもしれない。
例えばプレゼンを1時間にして後は交流のために時間にしてもらえたらよかったかもしれない。
音楽関連のチャンネルをやってる人が多いと言っていたけれど、私はそういう人とは話が
できなかった。
途中20分くらだったろうか軽い食事とカップケーキなどを食べながらグループに分かれて各自の
チャンネルを説明してコラボ相手を探すという時間があった。
味はともかくこのYouTubeカップケーキは街で売ったら売れるだろう。かわいらしかった。
 
結局のところ、あの集まりに行って良かったと思う。
ああいうプレゼンを受けるのは実は初めてだ。私の時代にやっていたのはプロジェクター
と白板を使ったプレゼンの方法だったから。今のプレゼン方式ではレジュメもいらないし、
必要なところをスマホで撮っておけばいいから理解はしやすいだろうなと思った。
それにヒルズのビジネスフロアーに入ったのは初めてだ。
 
 
 
 
いずれにしてもあれを自分のチャンネルに反映させるのは少し時間が必要みたいだ。
 
もう一つもらい物があった、プレゼンの説明が書かれたブックレットとステッカーだ。
ステッカーはどこに貼る? ギターケースにでも貼るのだろうか。