8/31/2013

Deep Gapへの旅 (1) Mast General Store

今からもう20年も前の話だ。

Doc Watsonを初めて聞いたのは高校生の時だから1966年くらいだろうか。
1965年だったか1966年だったかのNewport Folk festivalでのレコードでBlackmountain rag とDoc's guitarを演奏していた。それから数多くのDocのレコードを買った。
レコードの解説には必ずと言っていいほどNorth Carolinaという名前が書かれていた。

いつか行ってみたいとずっと思っていた。
それで40を過ぎた頃に行ってみようと思った。
目的地はDeep Gapだ。
ディープギャップはドックワトソンの生家があり、Tom Ashleyの家も近くのはずだった。
しかし、そのDeep Gapがどこにあるかまず調べなければならなかった。
まだインターネットも初期の頃でたいした情報がなかった。
地図も詳しいものは持っていなかったので、一番詳しい地図は下写真のレコードの解説ブックに書かれていたアパラチアの地図だけだった。

これがそのFolk Waysのレコード

BooneとDeep Gapの位置が書かれている。


7月の20に日本を出て、まずLAに着き、LAからAtrantaまでの飛行機に乗り換えた。
そしてさらにAtlantaからAshevilleまで飛んだ。Asheville空港でレンタカーを借りて、
とりあえずホテルのあるBooneまで走った。

Booneのホテルからの眺め

ホテルのパンフレットを見ていたら、見たことのあるお店の写真が載っていた。
Mast General Storeという名前の店だった。
そのお店はDoc WatsonのレコードDoc Watson and the Boysの裏ジャケットの写真に使われていたお店だった。
「そうかこのお店が近くにあるんだ・・」と思い、翌日はまずそこに行くことにした。

Doc Watson and the boysのジャケット

ホテルはBooneのほぼ中央にあったので、そこからお店のあるValle Crucisというとこへ向かった。
私も長いこと北海道で過ごし、一緒に行った友人も北海道に住んでいるので、二人ともアパラチアの景色は北海道に似ていると思っていた。
Valle CrucisはBooneの西にあたる。


Mast Storeの駐車場はお店の裏にある。

レコードジャケットにあるお店の正面



このお店は確かアメリカで一番か2番目に古い現存する雑貨屋だという話しだ。
お店の中は雑貨屋なので様々なものが実際に売られているが、20年前の当時でもほぼ土産物屋のような感じだった。


壁の斧やノコギリは一応値札が付いていた。
でもほんとにこういうものを買い時は大型店で買うだろうと思う。

売り物ではないが昔のオモチャが飾られていた。
飾られていたというより雑然とショーウィンドーの中に置かれていた。


たぶん昔はほんとに郵便局を兼ねていたのだろう


いわゆる雑貨も新品のものが売られていた。

お店に年配のおじさんがいたので、Doc Watsonのこととか話をした。
彼はもう有名なミュージシャンだからとか、何かを話したのだけど、
すっかり忘れてしまった。
North Carolinaの最初の訪問地としてはとても良かった。


Mast General Storeはインターネットショップになっていて、ネットから色々なものを
買うことができる。


お店のホームページに歴史も書かれている。
写真を検索したら、最近オバマ大統領がこのお店を訪問した写真があった。



8/27/2013

ハカランダとJacaranda




初めてアメリカに行った時、ガイドの人が高速道路脇の木を指差して、
「あれがジャカランダの花です」と説明していた。
その頃は札幌に住んでいて、その花は良く見ているような気がした。
「あれは桐だろう・・」と思っていた。

ジャカランダとハカランダとJacarandaが同じものだとわかったのはだいぶ後だった。
私は始めて持った自分のギターはKawase楽器のBillyというギターだった。
そのギターにハカランダが使われているということを知ったのもだいぶ後の話だった。

どうでもいいと思っていた。
Billyはネックの反りが異常で直せない。ブイリッジのあたりも交換しないと使えない。
自分でゴシゴシ削ってしまったせいだ。

その後オークションで木曽鈴木バイオリンのHillbilly W-60というギターを入手した。
たぶんBillyと同じ時代に作られたものだと思う。
しかしこのギターの造りは非常にきれいだ。
各部分のインレイや仕上げがBIllyとは比べ物にならない。
このギターもハカランダが使われているそうだ。だから? 音はどうだろう?
マーチンのような深いスコーンと響く音ではない。むしろ軽い乾いた音だ。
しかもちょっと歪んでいるように思う。
その歪みが実にいいですね。(中島誠之助みたいだな)




こんな音。
 
 

 
このギターは購入してからあまり弦を緩めていない。
ほとんど張りっぱなし。
しかし弦高が高くなったりネックが反ったりしていない。
いつでも思いついた時に弾ける状態だ。
たぶん楽器というのはそういうものなんだと思う。
確かに弦を緩めないと全体が反ってしまうギターがある。
それはそれなんだろう。
 

8/25/2013

UFO

UFOの写真ってなぜちょうどカメラで写り易い位置に写っているのだろう?
といつも思っていた。
最近はYouTubeにもたくさん投稿されているがどれも怪しい。

しかし私は2度ちょっと理解できないものを見たことがある。
一度目は夏だった。
家族で海岸で花火で遊んだ後、夜道をペンションに帰る途中だった。
街灯は道沿いにところどころあった。
ちょうど駐車場のところまで来た時だった。真上を青白い光が飛んで行った。
たぶん後ろの方向から来たのだと思う。一瞬だったが四角い形が見えた。
私が「あれ?!」と言おうとしたと同時に息子が「何あれ?」と言った。
4人全員が同じものを見た。
飛んで行った先は丘になっていてすぐに見えなくなった。
子供たちはそれ以来決してその話をしない。

2度目も息子と一緒の時だった。
駅から家に帰る途中だった。
1度目と同じように後ろから青い光が飛んで行って森の先に消えた。
それも一瞬だったが、1度目と同じ形だった。
息子も一緒に見た。

なぜ2度同じものを見たのかわからない。
でも飛行機ではない。音も無かった。
高度はたぶん200メートルくらいの低い高度だったと思う。
それから考えると大きさは車くらいの大きさだと思う。
四角いひし形で青白い色をしていた。

あれは何だったんだろう?と時々思う。



8/24/2013

童心

誰かにこの感じを伝えるのは難しいのだけれど、
子供の頃の意識というか心理状態というか気持ちというか、そういうものが
ふと再現されることがある。
 
たとえば「匂い」。
歩いているときに道の脇に咲いていた草花の匂いでそれが来ることがある。
あるいは新築の家の匂い、何か特別のものの匂い、図書館の匂い、
伺った家の匂いなどで子供の頃の気持ちが再現することがある。
 

音楽や歌や音でも多少そうなることがある。
私は中学生になった時に小学生の時の気持ちを持ち続けようと思い、それをある歌に託した。
歌はいくつかあるが、ひとつは小学校6年の時に習った「おぼろ月夜」。
今でもこの歌をそっと歌うと小学生の頃の気持ちが蘇る。
もうひとつはラジオドラマのテーマソング。当時は西部劇が流行っていてラジオでも西部劇ドラマ
をやっていた。そのラジオドラマの名前は忘れてしまったが、歌は覚えている。
そのドラマは小学校6年の時に放送されていた番組だった。
その歌を口ずさむと子供の頃の気持ちが蘇る。

いつまであの気持ちが蘇るだろう?と思う。
きっといつかは他の思い出と同じように単なる懐かしさに変わってしまうのだろう。

8/22/2013

渋滞

今は車を持っていないのでたまにレンタカーを借りた時にしか渋滞を気にしたことがないが、
今まで記憶にある最大の渋滞があった。
たぶん1979年か1980年頃だと思うけれど、東京から仙台までつながったことがあった。

私が札幌に住んでいた時で、年に2回くらい車で東京を往復していた。
札幌から帰るときはいつも渋滞は逆方向だった。
その渋滞の時も私は青森から東京を目指していた。
ラジオで大渋滞のことを聞いていたので、仙台あたりからどこまで動いていないだろう?と
ずっと見ながら走っていた。
結局ところどころ動いてはいたが、ほぼ仙台から東京まで車の列だった。
反対側にいなくて良かったと思った。

もう一つ高速を走った時の忘れられないシーンがある。
天皇が崩御され、大喪の礼の日にどうしても筑波の工場まで機械調整に行かなければいけなかった。当日は交通規制で首都高は全面的に通行止めになるだろうとテレビでは言っていた。

その日は朝早くから一般道路は渋滞だろうと思い、朝8時にゆっくりでかけた。
横浜の高速入り口に行ってみると通常通り開いていた。
そこから首都高に乗ると自分の前には1台の車も無かった。
普通なら横浜から環状まで車がつながっている時間だった。

横浜から首都高環状線まで1台の車にも会わなかった。反対車線に2台走っていたのを見ただけだった。結局環状線に入って数台の車に追いつくまで車に会わなかった。
横浜から見渡す限り車が見えない首都高というのはあの時だけだったのではないだろうか。
ビデオカメラを持ってくればよかったと思った。
結局先方には予定よりもかなり早く着いてしまった。

今年もお盆の時は各地で大渋滞だったようだ。

8/21/2013

秋葉原

秋葉原で10年以上仕事をした。
札幌から東京に戻った最初の会社は今の秋月、昔の信越電気の隣のビルにあった。

生まれて初めて秋葉原に行ったのはたぶん小学校の4年の時だ。
だから昭和35年だと思う。そのときは隣の交通博物館に行ったときだと思う。
秋葉原の印象はほとんど無い。
秋葉の近くの神田に科学教材者という会社があって、理科実験の道具や模型部品を売っていた。
そこへは何度か行った記憶がある。

秋葉原によく行くようになったのはまだオーディオ全盛の1970年前だと思う。
大型店も少なく、小さなお店がたくさんあった。そのほとんどがオーディオ関係だった。
無くなってしまったがラジオ会館脇の路地にはスピーカー専門のお店がいくつかあった。
店頭に丸いあなのあいた木の箱がおいてあり、欲しいスピーカーの音を聞きたいと言うと
そのスピーカーを丸い穴の上に置いて音を出してくれた。径30センチくらいのスピーカーも鳴らしていた。

ダイアトーンやパイオニア、DENONなどの他にアシダボックスという安めのスピーカーが人気があった。あのころはまだスピーカーボックスはおおきなものが多く、スピーカー屋はスピーカーボックスで埋まっていた。

録音もまだテープの時代で、オープンリールテープも現役だった。
新しいテープは高いので、放送局放出のテープも売っていた。つぎはぎだらけだったが一応使えた。前に録音されていた音は消されていなかったので音楽や朗読がそのまま残っていた。
いま考えると中には貴重な録音もあったかもしれない。

TVやFM受信機(ラジオ)をものらるからステレオに変換するユニットも売られていた。
大体が金属のケースむき出しで多少の知識がないと取り付けられなかった。
まだ真空管の時代だったけれど、半導体はすごい勢いで入ってきた。

私が秋葉原の会社に入った時は、ちょうどアナログレコードからCDに変わった時で、
ほぼ同時くらいにマイコンからパソコンが生まれた頃だった。

電子部品のお店がほとんどだった時から、パソコンショップが増えてきたのは、NECのPC-8001やシャープのMZ-80、AppleIIなどが流行り始めたころからだった。
AppleIIのコンパチを扱った店が多かった。またAppleII用のフロッピードライブなどもものすごい数が売られていた。

日本ではNECのPC-8001シリーズからPC-9801のシリーズに変わり、日本国内のパソコンはほとんどがNECだった。工場で使われるコンピュータもほとんどNECだった。
そのころのパソコンは256色しか表現できなかった。しかも640×240画素程度の粗い画面だった。
パソコンゲームもみなその貧弱な画面でやっていた。

海外ではIBM-PCが主流だった。
それをマニアが改造して非常に高機能なものにしていた。
その頃出たゲームソフト(たとえばフライトシミュレータやツームレイダーなど)の画面はNECがおもちゃに見えるくらいに鮮明だった。しかも動きもリアルだった。
そこからNECパソコンがDos-V機やWindowsマシンに変わるのは早かった。

早かったが、初期のWindowsにはまだBASICで動くモードがついていた。
考えてみるとこれは便利だった。簡単にI/Oのテストができたし、テストプログラムをBASICでその場で作って試してみることができた。
I/O(BUS関係)もその後のWindowsとは違い勝手に拡張基盤を使って簡単に作ることができた。

ソフマップが秋葉原にできた頃から普通の電機屋さんがパソコンショップに変わって行ったように思う。電子部品専門店やジャンク屋はどんどん無くなってしまった。
その後は、パソコンショップがゲームソフトやメディアショップに変わって行き、
今はなんだかわからないお店ばかりだ。

そんな中ですごいと思うのは「ミスタードーナッツ」だ。
たぶん1980年より前からあるのではないだろうか。
あそこだけは変わらない。


8/19/2013

少年・少女合唱

少年というのは少女も含まれるそうだ。だから少年合唱というのが正しいらしい。

少年合唱というのは聴くと泣けてしまうものが多い。
なぜかはわからない。
私は11歳まではボーイソプラノだった。
小学校6年になった時、突然声が出なくなった。
ちょっとショックだった。

今日、YouTubeで泣けた少年コーラスをみつけた。
アメリカ、ユタ州の州歌だ。
ユタ州の州歌は最近新しいものに変わった。これがその新しい州歌だ。
映像に写っている指揮者兼編曲者は日本人らしい。(日本名だ)

Utah, This is the place
 
 
このコーラスはほんとうにすばらしい。
途中2回少女のソロが入るがその時点でもう泣けてくる。
 
もうひとつ以前に感動した少年コーラスがある。
それは長野オリンピック閉会式でのオリンピック賛歌だ。
 
                                   
 
 
前奏が長いのでカットしてしまったけれど、この編曲もすばらしい。
オリンピック賛歌をオリンピックで歌うことになったのは日本のオリンピック関係者の功績だそうだ。
いろいろな国のオリンピック閉会式のこの歌を聴いても、長野の少年コーラスがいかにすばらしいかがわかる。
 
この曲は東京オリンピックの時のオリンピック行進曲のドーナツ盤のB面の曲だった。
 
 
 
 
 
 

 

 


8/18/2013

お城の話

私は元々お城には全く興味が無かった。
ある日、得意先の人が来社した。仕事の話が終わってからその人が大きな写真集をカバンから取り出した。そして「この本をスキャンしてもらえませんか?」と言う。
その本は「和田山」という写真集だった。

その人はお城が好きで各地のお城を趣味で回っていると言う。そして兵庫県の竹田城を訪れた時に、町で食事をした時にそのお店の人からその写真集を貸りたそうだ。
竹田城跡というのは角川映画が映画「天と地と」を撮影した時にロケ地として使った場所だった。
そして角川はその城跡に実際に城を築き映画に使ったそうだ。

その城は発砲スチロールで作り、わずか10日間くらいしか存在しなかった幻の城だったそうだ。


その時の様子を写真集にして限定数のみ関係者に渡されたそうだ。
写真集は「竹田城跡「天と地と」ロケ和田山町委員会というところが作ったそうだ。
写真集によると約420トンの資材をヘリコプターで420回往復して運び上げ、1600人の作業員が作り上げた。また上杉家の家紋入り瓦6万枚も特注で作ったそうだ。



確かに映画撮影のために作ったものではあるが、それを実際に作ろうと思った角川さんに敬服する。お金があれば何でもできるという範疇の話ではないように思う。

その人に影響されて出張で地方に行くと、お城を見学するようになった。
あまり沢山は見ていないが、和歌山、犬山、姫路、名古屋、大阪、松本、小田原、などを見学した。
まだ竹田城跡には行っていないが、「日本のマチュピチュ」ということで有名になってしまい、
観光客による影響で石垣が崩れてしまっているようだ。
恐らく入場制限になるだろう。その方がいい。


8/17/2013

英語のこと 続き

子供の頃から英語ができたらどんなにいいだろう、と思っていた。
たぶん基本的にミーハーだったのだと思う。
だから英語ができればいいと思っていたのは、外国人の友達が欲しかったからだ。

インターネットが使えるようになるまでは知り合いの外国人は2人だけだった。
二人とも中国人だ。一人は大学の教授、もう一人はバイヤーだった。
バイヤーの方の人とはあまり親しくなかったが大学の先生だった人、馬さん、とは親しかった。
馬さんはソフトウェアのプログラマーだった。非常に優秀な人で、NECのパソコンのOSが使いにくかったので、自分で改造したりしていた。一緒に食事したり、一緒に徹夜の作業も何度もした。
天安門事件の時、彼は日本にいた。国のことを心配していたが、その後彼は中国に帰って学校にでさらに高い地位についたようだ。

インターネットを始めて最初に知り合いになった外国人は韓国人だった。Ryuさんと言った。
私のホームページを見てメールをくれた。その人とはその後もずっとメールのやり取りをしていた。
その時は英語だった。
だから英語でメールを最初にしたのはRyuさんだった。
その後カナダに留学したそうだ。その後はアメリカに住んでいるようだ。

その後は、別のところで書いたように、キングストントリオファンのLarryさんだ。
ずいぶんやりとりしたけれど、今はYouTubeで時々挨拶するくらいだ。


頭が爆発している(30代)

その後に知り合ったJohnさんはずっとメールが続いている。
もう何年になるだろう?
一番、色々なことを話せるのはJohnさんだ。
仕事のことや、子供のこと、妻の話や、親戚の話。音楽の話。昔の恋人のこと。
相談事。
なんでも話す。
しかもこっちは中学英語だ。


8/16/2013

英語のこと 

私は泳ぎもできないが、英語も得意でない。
初めてアメリカに行った時は会社の研修旅行だった。
だから特に英語が出来なくても皆について行くだけなので、最終日までは特に困らなかった。
最終日にカンファレンスがあり、その後小さなパーティーがあった。
当然回りはみなアメリカ人のバイヤーやメーカーの人ばかり。
そこで話しかけられた。全くわからなかった。
適当にごまかしてしまった。今思い出しても何をきかれたのかわからない。


2度目のアメリカ旅行は友人と男二人旅だった。もう一人の英語能力も私とそんなにかわらないだろうな、と思っていた。それでもなんかしなければと思い、数ヶ月前から旅行用のビデオを何度も見たり、会話用のカセットを何度も聞いた。親戚の人がSONYの英会話聞き取り用の機械をくれた。
これが一番役立ったと思う。ネイティブの会話をそのままの速さで聞いて、何て言ってるかをテストするための機械だった。
今良く聞くスピードラーニングもたぶん真面目にやれば効用があるかもしれない。

それでなんとかしゃべっている話は聞けるようになった。でもその中の単語や言い回しはわからないままだった。
それで2週間を旅行した。
あやしいところも多かったけれど、なんとかなるかな、と思った。

海外旅行で英語に困るのは人と話をしている時ではなくて、公共の場での英語だと思う。
例えば飛行機の中。日本語のわかる搭乗員はいないから、聞き取らなくてはいけない。
LAからアトランタ行きの飛行機の座席が非常口のところだった。非常口の前は英語が普通にできる人でないといけない。あの時はどうしたんだろう? 代わってもらったのかな?忘れてしまった。

機内放送も聴かないといけない。空港の放送も地方の空港は日本語が流れない。
アトランタからアッシュビル行きの飛行機に搭乗口の変更があった。
あれはよくわかったな。と自分でも思う。

途中私が高熱を出して動けなくなった時に、友人が薬局で薬を買ってきてくれて、
なんとか熱が下がった。あの時はもし友人が英語ができなかったらどうなっていただろうと思う。
2度目のアメリカ旅行は途中で現地の友人と合流して、あとはそいつまかせだった。

3度目のアメリカは息子と二人旅だった。
行きと帰りの飛行機だけツアーに参加して、あとは自由行動にした。
この時も英語の能力はあまり変わっていなかったけれど、「まあなんとかなる」という自信だけはついた感じだ。このときもあまり困らなかった。
息子が一人でケンタッキーを買いに行ったりしていた。
あいつはあの時はほとんど英語ができなかったはずだ。度胸だけはあるようだ。

最近「中学英語でなんでもできる」みたいな本を書店で見かけるが、私がそのことに気がついたのは2度目のアメリカ旅行の時だった。
ようするに中学英語ができればほとんど話せる。と気がついた。
それで旅行前に中学で習う英語の文法をやりなおした。
これは非常に有効だった。

今は海外の数多くのペンパルとメールのやり取りをしているが、ほとんど中学英語しか使っていない。向こうは普通に書いてくるが、読む方はほとんど読める。
問題はこっちが何か言いたい時にうまく言えない。それでも非常に簡単な言い方でなんとか意思を伝えることができていると思う。そうであって欲しいが。

聞いてるだけで英語ができるようになるかどうかは知らないが、
中学英語で何でもできる、というのは本当だと思う。

8/14/2013

泳げない

スキーも出来るし、車もバイクも乗れる。ハングも飛べるしパラも少しできる。
自転車にも乗れる。
でも子供の頃から泳ぎができない。

大阪に引っ越した時、1度だけプールの授業があった。
泳げないし、水に入りたくもなかったのでプルーサイドで友達と話をしていたら、
通りかかった先生が「なんだお前泳げないのか?」と言うので、泳げないというのが
いやだったので、「いいえ」と言った。
すると先生が「じゃあ、そこから飛び込んでみろ」と言った。
私はプールサイドから思い切り飛び込んだ。そして潜水したまま反対側までなんとかたどり着き、
水面から先生に手を振った。先生はきっと泳げると思っただろう。

大学2年の夏にクラブの仲間で三宅島に行くことになった。
その時は自分が泳げないことは公言していた。だから島一周のサイクリング競争には参加した。
しかし目的は海なので、当然海で泳ぐことになった。
穏やかな海でボートを浮かべて皆はその周りで泳いでいた。
私もボートにつかまって水につかったりしていた。

ボートの上から海底を見ると白い砂と、岩と、小さな魚が泳いでいるのが見えた。
海底までは何メートルくらいだったろう。
たぶんそんなに深くない、せいぜい5メートルくらいだったろうか。
その時誰か一緒にボートにいたと思う。それが誰だったかずっと忘れていた。

私はあの海底まで行って、あそこの石を持ってこようと思いついた。
ボートからゆっくり水に入って、頭から思いっきり潜った。
なかなか体が沈まなかった。息はどのくらい続くだろう?と考えていた。
なんとか海底に近づき、思いっきり手を伸ばして小石を握った。


それから頭を上にして海面を見た。
それはすごくきれいな眺めだった。
海面に太陽の光が反射してキラキラしていた。
あんなにきれいな眺めは見たことがなかった。

それからがむしゃらに海面に向かった。
頭が海面に出たときに周りを見たが、ボートはちょっと遠くにあった。
どうやってボートまで行ったのか覚えていない。
でも誰か女の子が「こっちこっち」と言いながら、
手を差し伸べてくれたのを覚えている。


8/13/2013

空で思ったこと その2


足が地面を離れて風の音しか聞こえなくなると、ほとんど自分と話している。
初めて空を飛んだ時からそうだ。
声を出している時もあるし声に出さない時もある。
テイクオフしたすぐ後からだ。
「よし、今日はどっちへ行く?」
「あそこでだれか上げてるな、あそこに行こう」


高い高度に一人でいると孤独感が強くなる。
初めてスキーで急な斜面に立った時もそうだった。
自分を少し後ろから見ているような感覚だ。
あるいは自分という体を操縦している感じがする。

他の機体に接触したことがあった。
私が上げ始めた時、遥か上に誰かの機体が見えた。
高さも十分あったし、先に上がって行くだろうと思っていた。
そこでしばらく回していた。バリオの上昇音はかなり強かった。
700メートルくらいまで来た時、上でバリバリと音がした。
とっさに誰かにぶつかったと直感した。
すぐに、機体が回転しているのがわかった。
どこか壊れたかどうかはわからないが、とにかくかなりの速度で下の森が近づいてくる。

その時は声を上げていた。
「ちょっとまて、レスキューだ」
「レスキュー、レスキュー」
「なんでだよ! 出ない!、出ない!」
そんなことを言っていた。レスキューというのは緊急パラシュートのこと。

思い出してみると、私はぶつかったと思った瞬間から機体をコントロール
しようとは思ってもいなかった。だからきっと両手でベースバーをがっちり握って
固まってしまっていたのだと思う。
見ていた人に聞いたら回転しながら落ちていた、と言っていたので、
ベースバーをいっぱいに引いたままだったのだと思う。

左手で胸のレスキューを出そうとするが手が震えて出なかった。
「レスキュー!レスキュー!」と叫んでいた。
左手では無理だと思って両手で引き出そうと思って、右手をレスキューの
端に持って行った瞬間に機体が”ブファ”と音を立てて水平に戻った。
そのまま何も無かったかのように穏やかに水平に飛んでいた。

たぶん両手を離したために、機体が自由になり、自分で水平を取り戻したのだろう。
後で考えたことだけれど、あの時緊急パラシュートを投げても、開かなかったろう。
それにもし開いたとしても高度が400mくらいしかなかったから、ちゃんと降りられたかどうか
疑問だ。

私は独り言癖があるのか?いやそんなことはないだろう。
誰でも空の上ではそうなんだろうか?

秋の足尾はすばらしくきれいだ。
上空から見る紅葉は絶対に他では経験できない。
1000mくらいを飛んでいると紅葉をバックに他のハングが遥か下を飛んで
いるのが見え、紅葉とハングの機体の色が実にきれいだ。

ハングは下を見ると自分の下の視野にさえぎるものが何も無い。
だから自分が飛んでいることを怖いくらいに実感できる。
体を水平にして飛んでいるのは夢の中で飛ぶシーンと同じだ。

自分の飛んでいる影が山肌に映ることがある。格好いいと思う。

思い切りベースバーを引き込むと、ものすごい風きり音とともに下降する。
地上からはヒューという音に聞こえる。
斜面で練習していた時は、いつかあれをやってみようと思っていた。



家の近くの公園へ時々行く。
50mくらいの高さの丘があり、そこから街が一望できる。
斜面の上に立つと前からいい風が入ってくる。
目をつぶるとそのまま飛べそうな気がする。

8/12/2013

空で思ったこと その1


結局、ノイマンさんが言っていた風を切るシューという音はキャノピーのあるグライダーでないと聞くことはできないことはわかった。
ハングでは飛んでいる時は両耳に風を切るボワーという音しか聞こえない。
でもそれが止まる時がある。
ソアリングしている途中でふいに静かになり地上の音がかなりはっきり聞こえることがある。
たぶん空気に対して静止した状態が起きるからなのだろう。


また、よく聞く話で、鳥と一緒に飛んだというのがある。
私も何度か御一緒したことがある。
足尾は鳶やチョウゲンボウなどの鳥がハングと同じ場所でソアリングしている。
考えて見るとあたりまえなのだが、我々が彼らのエリアに踏み込んでいるようなものだ。
サーマルを見つけて上げようとして回していると横を猛禽類が一緒に飛んでいる。
しかし彼らは私の倍以上の角度で上昇して行く。
やはりプロだと思った。

よく聞く話で、雲底まで行ったというのがある。
私も何度か経験があるが、はっきりと雲の底だと思ったことはない。私の場合がそうなのかどうか知らないが、境目ははっきりしない。臆病なのでやばいと思ったら降りる。
だからちょっともやもやしてるなということと、遠くを見ると、ああここが雲底だな。と思った程度だ。

テイクオフで失敗するのをスタ沈、山に降りるのを山沈、木の上に降りてしまうのをツリーランとか言うのだけれど、スタ沈とツリーランは一度ならず経験がある。
山沈しそうになったことがある。
その時は調子に乗ってあまりいい条件じゃなかったのに、そのうち上がるだろうとぐるぐる回っていた時だった。急に機体が激しく沈みだした。もう木の梢に着きそうな感じがしたと同時に、自然が悪意を持って私を落とそうとしているような感じがした。
自然が悪意を持っていると感じたのはその時だけではないのだが、不意打ちをくらうとよくそう感じた。 その時はそのまま山の斜面に沿って飛び、そのままランディング場までたどり着いた。

一緒に飛び始めたAさんも私と全く同じような状態で木の上に引っかかってしまったそうだ。
彼は不幸なことに木に降りたことを誰も気づかず、無線も届かず、自分でなんとかハーネスを脱いで、自力で木を降りてショップまで帰ってきたらしい。


ランディング場に戻れなかったことがある。
いつものように尾根の上で回していたのだけど、あまり上昇しなかった。そこでやめればよかったのに、深追いしすぎて、気が着いた時は尾根の反対側にいた。
そこから上昇せずに尾根を越えるルートが無かったので、あきらめてどこかに降りられそうなところを探した。1600mくらい先に茶色の地面があった。あとは畑と林だったと思う。
そこに向かって飛んだ。高度は大丈夫だろうか?電線は無いか?風向きはどっちだろうか?誰か見てくれているだろうか?とその時ほど考えて飛んだことはなかった。
降りられそうな場所の上空を2回ほど回って高度を落として行ったが、途中農家の人がいた。
上空から「すみませーん!おりまーす!」と叫んだ。(この時ビデオを撮っていたのでその声も残っている)
そこは無風だったようだ。敷地ぎりぎりに降りられた。畑ではなかったようだが、急いであぜ道に移動して機体をたたんだ。
それから機体をそのままそこに置いて、歩いてショップまで帰った。ずいぶん歩いたような気がする。自分の車に乗って機体を取りに行った。
ランディング場以外の場所に降りるのは違反なので、それを報告して罰金を払った。
罰金はそのままお酒に変わって農家の人に届けられたそうだ。
それがB級ライセンスでやった唯一のクロスカントリーだった。

8/11/2013

空の友人へ

私がスクールに入った時君はすで大先輩だった。
ハングの練習をしていたのは私を入れて6人くらいいたけれど、
いつのまにか4人になってしまったね。

私はいつも君が飛んでいるのを下からみていた。
格好良かった。
自分も早く飛びたいとずっと思っていた。
そしてずっと君は私の先を行っていた。

校長の好意で私が大池を離れてから、一度大池で飛ぶことができた。
その時は君も一緒だった。
私は200mのテイクオフはその時が初めてだった。
同じ空を一緒に飛べたことを嬉しく思う。
その後、もう一度別の山で会ったね。
その時は風の状態が悪くて飛べなかった。
あれが地上で君に逢った最後かな?
そのうち私もそっちへ行くので、
また空で会おう。



3人とも私より20以上若かったのに、タメで付き合ってくれてありがとう。
あそこで過ごした時間はほんとに楽しかった


ずっと練習に付き合ってくれたインストラクターの力也さん、感謝しています。


校長すっかりお世話になりました。
その後、遊びに行った時に、皆の飛びを見ていた私の口に
後ろからミニトマトを入れてくれましたね。
私、実はトマトが一番の苦手です。
でも、その時は別の食べ物のように思え、おいしくいただきました。
また遊びに行きたいと思っています。

今井浜フライングスクールは他のどこよりもすばらしいスクールです。


8/10/2013

高度1200メートルへ その4

最も長時間飛んだのは冬だった。
テイクオフしてから1時間ちょっと飛んでいた。その時のことをメモを見ながら思い出してみる。
テイクオフは11時くらいだった。寒い曇り空だったが日が差し始めていたので、皆次々と出て行った。私はゆっくりと機体を組みながら皆が次々出て行くのを横目で見ていた。
実は機体を組み上げる作業は自分にとっては大事なことだった。儀式に近いかもしれない。
それに早く飛びたい気持ちを落ち着かせるのにも必要な時間だった。

機体を組み上げて、私も列に並んで何番目かに飛んだ。
いつもの様に左側の尾根に向かって飛んだ。いつも上げているあたりまでくるとバリオ(高度計)が強い上昇音を上げ始めた。 そこで機体をターンさせながら上昇するのだが曜日によって回す方向が決まっていた。その日は左だった。

機体を回している時は、体をベースバーの端近くに寄せて、なおベースバーを押し出すようにする。
その日のサーマル(上昇気流)によって程度は違うが、その日はそれほど強いものではなかった。
だいたい800メートルあたりを上下しながら、尾根からテイクオフの真上、パラのテイクオフの真上、パラのランディングの真上、そしてまたさっきの尾根の上。
これを何度か繰り返していた。
降りた時は1時間以上経っていた。
しかし、その時もう40歳代後半だったので、それ以上は無理だと実感した。

この写真は板敷のテイクオフ
me on the take-off at Itajiki 

最も高く飛んだ日も冬だった。
大体いつもと同じコースで飛んでいた。
その日はちょっと寒かったが、雲は薄く、太陽が見えていた。テイクオフした時は空気が冷たくアップライトを素手で持つととても冷たかった。
いつもの尾根のあたりまでくると空気の暖かさを感じた。ほんのわずかだが下から来る空気が暖かだった。それと同時にバリオは強い上昇音を立てはじめた。
機体は回転するごとにどんどん上昇して行った。結局場所を変わることなくその場所で1200メートルまで上昇したのを確認した。
私の機体は上の写真のバディーという機体だった。前淵のみダブルになっていた。
1200メートルで周りをみると同じ位の高さを飛んでいたハングが数機、あとは皆自分よりも下だった。
しばらく尾根とテイクオフ上空を回っていた。1200まで上げたら筑波の方にも行けそうだなと思った。学生は皆筑波山まで行って帰ってきた経験があった。
しかし私にはその勇気は無かった。
足尾山のあたりで飛んでいるだけで十分だった。

1200mというのはこんな感じではなかったろうか。
(この写真は私のものではない。クレームがあれば削除します)







高度1200メートルへ その3


そんなわけでなんとかB級ライセンスを取って、晴れて足尾で飛べることになった。
足尾のSETには3つテイクオフがあった。
ハングの東とハングの西、それとパラの東だ。
ハングは東と西のテイクオフから飛び、東はショップ横のランディング、西は東よりも少し遠いランディングに降りる。ただ西のランディングはたびたび変わっている。

東のテイクオフは斜面(下写真)とその右にランチャー台がある。だいたいは斜面の方から出る。

東のテイクオフを出ると伐採してあるエリアのすぐ先に木が林立している。風の良い日はいいがそうでないときは木の先端に触れそうな気がして怖い。しかしそこを過ぎると谷だ。谷はランディングのあるショップの脇まで続いているので、全く上がらない日でもなんとかランディングにたどり着ける。

足尾は風の良い日はだいたい下の写真のようにテイクオフしてすぐに上昇できる。
出て左の尾根に向かうか、右のパラグライダーのテイクオフの方に向かうか、だ。
私は出ると左の尾根に向かう。
上の写真の左側の山並みだ。
パラグライダーのテイクオフの前はパラとハングが沢山飛んでいて、素人には怖い。
2,3回行ってみたが、とても無理だと思った。

ハングのテイクオフ上空はこんな感じで何機もソアリングしている。

私はここで120回くらい飛んだ。飛んだ記録は全部、飛行経路とともにメモしてある。
ハングのライセンスにはA,B,C,パイロット、クロスカントリーなどがあるが、私は結局
Bしかとっていない。Bしかとっていないが足尾では自由に飛べる。ただし他のエリアに下りたり、
好きな場所に下りたりすることはできない。
それでも私には十分だった。

8/09/2013

高度1200メートルへ その2


<転校>
伊豆の大池には1年2ヶ月通った。
しかしまだ山から飛ぶことはできなかったので、気分を変えようと思い、スクールを変えることにした。富士山麓のスクールや筑波のスクールをいくつか見学した。雰囲気で筑波のSETに決めた。
伊豆の雰囲気は現代的でスマートな感じだったが筑波ははっきり言って田舎だ。私が生まれたところなのでそれははっきり言える。

練習場の感じはだいぶ違う。SETは整地された斜面のような感じだ。
着地側の先は田んぼだ。そこまで飛ぶことは無いけれどその手前にネットがあり、
そこにひっかった人は見たことがある。 

私はこのスクールに中途で入ったような扱いをしてくれた。そのため本来ならまた1年間ここで練習しなければいけなかったのだが、確か4ヶ月で山から飛べるB級のライセンスを取れた。
伊豆と筑波の違いは筑波の方が体育の授業的なやりかただったことだ。
他のスクールではもっと本格的な体育会的なスクールもあった。ベテランと新入生の上下関係があった。そこは絶対に行きたくないと思った。

<初飛び>
SETで練習して、B級ライセンスを取るため山から初飛びを行うのだが、初飛びは足尾山(筑波)ではなく、山形県の南陽市にある十部一山だった。泊り込みの合宿のような形で初飛びツアーに行った。合宿などというのは学生の頃以来だったが、これは非常に楽しかった。
同じ時にBをとった仲間と親しくなっていたので、社会人、学生関係なく一緒に初飛びを楽しむことができた。

十部一山はそれほど高い山ではないが、秋の刈り入れが終わると山から見た見渡す限りの場所に下りることができた。
テイクオフの場所は平らになっていて、その片側がゆるい崖になっていた。ハングはその崖を駆け下りる感じだった。(ランチャーではなかったと思う)
その時の写真が無いのだが、雰囲気はしたの写真のような感じだ。(この写真は後に板敷で飛んだ時の私のハング)。十部一山はこの写真の緑の部分がほとんど畑だった。
初飛びは確か決まった順番に飛ぶのだが、それで上手く飛んでちゃんと降りられないとB級ライセンスはもらえない。 みんな結構うまく飛ぶのだが、中にはちょっとトラブル人もいた。
学生の一人は無線が切れたままで飛んでしまったようで、どういう風に降りればいいかをインストラクターから指示が得られない人がいた。
しかし彼は休憩所のテレビアンテナを壊しただけで無事降りることができた。もしもそれが私だったらと思うと、うまく降りられたかどうか疑問だ。
女性(社会人)の一人はテイクオフしてそのまま固まってしまって、遥かかなたに降りた人がいた。
普通はテイクオフしたらすぐに体を水平位置に持ってくるのだけど、彼女は直立した状態だった。

私の番になって、テイクオフに立った。その時は風がきれいに入ってきていた。
確か3歩走る前に体が浮いていた。無線もきれいに聞こえていたので結構すんなり飛んで降りることができた。その時のインストラクターは板垣さんという世界的にも有名なフライヤーだった。
その時のフライトではまず問題なくB級がとれる内容だった。

順番が回るのが予定よりも早く、2回目を飛べる人は飛ぶことになった。
私も何番目かに飛ぶことにした。
2回目は風の状態が悪く、なかなか良い風が来なかった。そのため無風状態で飛ぶことにした。
無風ではかなり走らないと飛べない。
タイミングを見て私は走り出したが、途中でつまづいた。そのまま機体を肩に崖をすべり落ちてしまった。
何人かが助けに来てくれた。
機体はアップライトが折れたけれど、大丈夫だった。
私は前歯の1本がぐらぐらになってしまった。

一応テイクオフの失敗は危険行為になるので、B級を取るのは難しかった。
2本目をやらなければ良かった、と後悔した。
しかし発表の時に、板垣さんは1本目が良かったからと、私にB級をくれた。
これは本当に嬉しかった。
バイクの失敗の時と同じようにまた何度も練習しなければいけないかと思っていたから。


8/08/2013

高度1200メートルへ その1

要するに私が一人でたどり着いた一番高い高さだった。
ハングのことも忘れないうちに書いておこうと思う。

空を飛ぼうと思ったのは、結局ノイマンさんの話が元だったように思う。
ノイマンさんはマイクロフォンで有名なあの会社の社長さんだった。
ソアラーを自分で飛ばしていて、その話が実に面白かったからだ。

その話から15年後、伊豆の大池という場所にあるフライングスクールに通うことにした。
なぜそこにしたのか理由がよくわからないが、そこにして良かったと今思う。
スカイスポーツの中で自分で動力無しで”飛べる”(落ちるのではなく)のはハンググライダーとパラグライダーだけだ。あとは何がしかの動力、助力が必要だ。

パラで山から飛べるようになるのは1ヶ月くらい、ハングは1年と聞かされていた。
どちらかを選ぶわけだが、全く考える余地無くハングにした。
機体と飛行姿勢を考えてそう決めた。


大池というのは山の中腹にある盆地のような場所だ。
そこに練習バーンと200mと300mのテイクオフがあった。
練習バーンは上の写真の場所だ。約30メートルの処から斜面を駆け下りる感じだ。
下から見ているとたいした高さには見えないが、この場所に実際に立つと見え方は全く違う。
下の写真が上から見た景色。


ハングやパラは向かい風か無風状態でないと飛べない。一般的な会話では「追い風」は調子がいいことを意味するが、ハングやパラでは「追い風」は最悪の状態だ。

だから、一日のほとんどは良い風を待っている状態だ。
それはどこのスクール(エリア)でも同じだ。
良い風が来ない日は飛べない。片道3時間かけて行っても飛べない時は飛べない。

ハングの場合、約20キロから25キロくらいの重さの機体をかついでこの斜面を何往復も上り下りする。真夏はまさに地獄のような労働だ。
でも誰もやめようとはしない。
皆早く山から飛ぼうと思っているからだ。
ハングの場合、夏も経験するが真冬の練習も経験することになる。王道はありえない。


私と同時期にハンググライダーを練習していた人が6人いた。他の多くの人はパラグライダーだった。だからハングの練習をしていた一団はちょっと特異な存在だったかもしれない。
私のほか、Mariちゃん、Mayumiちゃん、Mitsuki、Tsuji君、もう一人あまりこない人がいた。
この時40歳だった私はもちろん一番年上で他の人は20台だった。

30メートルのテイクオフでも皆トランシーバを付けて飛ぶ。
インストラクターが着地するであろう場所に立って無線で全ての指示を与えてくれる。
その状況を再現するとこんな感じだ。



インストラクター(以下イ): そっちの風はどうですかー? こっちは結構いい風入ってます。
                  よければいつでもいいですよ。

私(以下ワ): 大丈夫そうです。

イ:  じゃあ、行ってみましょう!

わ:  (無線ではなく) 行きまーーす!  

私は走り始める。 機体の先端を見ながらとにかく走る。
風が機体を持ち上げて、足が空回りするが、走るのは止めない。

完全に機体が浮くと眼下に見える景色は違って見える。
たぶん人間は慣れないうちはあんな風に見えるのだろう。
全てが魚眼レンズを通して見ているように見える。
飛んでいる自分の周りは大きくゆがんで見える。

30メートルからの飛行ではそんなに長い飛行時間ではない。
せいぜい数十秒だと思う。
その間にハングの姿勢制御を学ばなければいけない。

降りたらまた機体を担いで斜面を登る。
それを1年間くりかえした。

大池(今井浜フライングスクール)の校長の西野さんは第一回日本ハンググライダー選手権の優勝者だ。とてもお世話になった。
その息子さんの力也氏が私の先生だった。年齢差は20以上だったと思う。若くて元気な人だ。
とてもお世話になった。
私はスカイスポーツのスクールをいくつも知っているが、今井浜ほどアットホームな雰囲気で皆が楽しんでいるところを他に知らない。

8/07/2013

夢の論理

先日ある作業をしている時に、その作業の視野に重なって別の映像の断片が見えた。
それはゲーム盤のようでもあり曼荼羅のようでもあり、一瞬のことなのではっきり
確認できなかったが、
今やっている作業を別の視点で見ているような映像だった。
また既知感に近いものだった。

だから、どこかで見たはずの映像なのだけど、思い出せない。
しばらくして、それは夢のシーンだったのかもしれないと思った。


夢の話は自分にしかわからない。
たぶん覚醒している時に夢の中の行動は理解できないだろう。
しかし、夢の中では成立している行動なのだ。
その断片的映像は現実にやっている作業を夢のロジックで置き換えたものだったように思う。

夢で私はよく電車に乗る。
しかし行き先はたいてい自分が望んでいる方向ではなく、別な場所についてしまう。
そこから帰りの電車は無く、歩いて戻ろうとする。
恐ろしく長い道のりを歩き続ける。
途中、海峡を渡るとても細い橋を渡ったり、水の底をあるいたりする。
足を下ろすのがいやなくらい汚いところを歩いたりする。
途中で自分の車が停めてあったはずの場所を探しまわり、
街中を歩き回る。
いつのまにか車に乗っているが、その車はなかなか動こうとしない。
どたばたしているうちにそれが自転車に変わってしまう。
自転車は曲がりくねったスロープを矢のように駆け下りる。

そんな夢をずっと見ている。
それでも夢の中では普通のことのように世界は動いている。

夢の中のシーンに実際に出会ったことは少なくとも3回はある。
その場所に出る前に、その景色が見えた。
その瞬間自分は夢の中に戻ったような気がした。

夢の中で既知感にあったことがある。
家の中には私にかかわる全ての人がいた。
亡くなった両親やめったに会わない兄弟もいた。
子供もみないた。
子供の体を抱きしめた時、「あ、この感じは前にもあった」と思った。

親の記憶を夢で見たことがある。
私がほんとうにまだ小さな頃から恐ろしい夢を時々見た。
大きな黒い台があり、私はその脇にいてそれを見上げている。
黒い台の上には何かが載っていて、煙を上げている。
その上の空は灰色の雲が渦巻いている。

そんな夢を時々見て、泣きながら目を覚ました。
私はその夢の話を母親に話したことがある。
母は何も言わなかった。

母が広島にいたことを私に話してくれたのは私が30歳になってからだ。
それまでは全く話してくれなかった。
それを聞いて一緒に広島に行こうと言った。
母はあの時以来広島には行っていなかった。

広島空港(昔の海の傍の)について、そこから母の家があったところまで歩いた。
歩きながら母は昔ここには何があって、誰が住んでいたのか、
母の父親が県庁で被爆して、家まで自転車を引きずって帰って来て、
家族の無事を知ってから亡くなった話や。
その父親を河原で荼毘にふしたことを聞いた。
その時のシーンを私は記憶しているのだと思った。

記憶が遺伝するものかどうか知らない。
しかし私が母の記憶を持っていることは確かだと信じている。


8/05/2013

バイクー2 夏は心の状態



バイクの話だが、この映画は昔だったら絶対に観なかったと思う。
しかしYouTubeにアップされていた断片を何の気なしに見ていたら全部を観てみたくなった。



原作はずっと昔に読んでいた。片岡義男の「僕のオートバイ彼女の島」だ。
まあ、片岡義男だからそういう話だろうなと思って読んだのだが、やはりそういう話だった。
ただ、最後のところの言葉だけ記憶に残っていた。その言葉がこの話だったことをすっかり忘れていた。

映画を観た。
ストーリーはどう贔屓目に見ても最悪だろう。
しかしバイクで走るシーンは涙が出るほどいい。
他にストーリーはいらない、バイクのシーンだけで映画を作ってくれ。

Kaw(コー)は私の昔のあだ名でもある。
主人公には似ていないが走りたい気持ちはわかる。
夏は心の状態なのだから。



8/02/2013

私の音楽ー15 YouTubeの1

YouTubeを始めて、一番最初にメールをくれたのはLarryというアメリカ中部に住んでいる人だった。Larryはキングストントリオのファンで自分はYouTubeにアップしていないが、彼の友人のバンドをアップしている。
Larryとメールのやり取りをしているうちに一緒に何かやろうということになり、お互い良く知っているキングストントリオの曲をやることにした。私が最初に歌を歌ってそれを彼にメールで送り、それに彼が彼のパートとギターを録音するというやりかただった。
何曲か一緒にやったがそれはYouTubeにはアップしなかった。

それからしばらくしてJohnさんという人がメールをくれた。かれはFloating House Bandのメンバーと知り合いだった。私もレコードを持っていたので話が合っていろいろなことを話した。
Johnさんと私は色々なことで一致することが多く、驚くべき一致だとか言い合っていた。
Johnさんはその後もう4、5年くらいになるだろうか、ずっとメールをやりとりしている。

JohnさんはMartinのギターを持っている。ビンテージのギターだ。だけど彼の歌も演奏も未だに聞いたことがない。
Johnさんと話をしていうちにcllaborationはどうだろう、という考えが浮かんで、Johnさんもそれはすばらしい考えだと言っていた。

それでYouTubeにアップされている沢山の人の中から一緒にできそうな人を見つけて勝手に伴奏とコーラスを付けることにした。
最初の犠牲者はBillさんだった。BillさんがDonald and Lydiaをひとりで演奏している映像に私の映像を編集して、一緒にやっているようにした。


それを非公開でBIllさんに知らせて、アップしていいかどうかを尋ねた。
Billさんはその映像を見て驚いたようだった。またすごく喜んでいた。すぐに公開するように言ってきたので、公開した。
それがcollabの最初だった。
まだ他にもcollabビデオをアップしている人はそんなにいなかった。
Billさんとはその後も沢山のcollabビデオを作った。
BIllさんはアメリカだが、アメリカでは他にRichさん、Donさん、Micheleさん、Bethさん、Peterさん他何人かの人とcollab友達になった。

またスウェーデンのGittさん、やフィリピンのDamselさん、ほかドイツ、アイルランド、イギリスなど他の国の人ともcollab友達ができた。

グループでコラボはどうだろうと思い、MochidukiやYoshinoに手伝ってもらい、一緒にコラボビデオを作った。曲は前からやりたかったMy Back Pagesで、それを各verseごとに一人ずつ歌ってもらうことにした。

メンバーは Rich(US), Mart(Japan), Michele(US), Gitt(Sweden), Beth(US),Bill(US)と私とMochidukiとYoshinoだった。
もう一人Damselを加えたかったのだけど、連絡がとれなかった。

これがそのグループコラボ

実は私はほとんど連絡係で、演奏のほとんどはMochiがやっている。
全然出てこないのも寂しいので最後に1番を繰り返し入れて歌っている。

これは各人のサウンドとビデオをそれぞれ編集でまとめたのだが、思ったよりも上手く行ったと思う。私はきれいにできるよりもライブっぽいのがすきなので、こんな感じがいい。

Micheleさん(黒いロング髪)は、ギターを持って歌いたがっていたのだけれど、アカペラで歌ってもらった。アカペラで歌うのがよっぽどきらいな様で、次はギターを弾きながら歌うから、と何度も言っていた。

Bethさんは静止画を送ってきたけれど、彼女の歌はすごくいい。
ブロンドのGittさんはいつもセクシーかつキュートだ。
先頭のRichさんは自分で改造したHarleyに乗っている。メールの書き方もぶっきらぼうで好きだ。Veriginiaに住んでいる。
日本人のMartさんは北海道からだ。

Billさんには最初からトリをやってもらうつもりだった。
オリジナルキーは男性には高すぎて、女性には低いので、Mochiにキーを何度もシフトしてもらった。それによってみなちょうどいいキーで歌うことができた。

私は演奏はしなかったが、この時のメール交換は実に面白かった。
そのうちまたやりたい。



8/01/2013

私の音楽ー14 バンド(続きの続き)

札幌フォークでやったコンサートが最後だった。
それ以降ずっと長い間バンドは組んでいない。

さて、いつの写真だろう?

1990年に学生の時のバンドを再結成してCDを作ったのがバンドと言えばバンドだった。
その後2000年にも何jかCDを作ったろうか。
あるいは同じようなメンバーでその後も何度かライブをやった。
また、学生の頃のもう一つのバンドも再結成して何年かやっていたが、これもまた昔のぶり返しでいやになり、やめてしまった。

今は、Mochi, Yoshinoと年に何回か集まって「音楽をやっている」。
バンド活動ではないのだろう。
インターネットを利用して音データをやりとりしたりして音楽を作っている。
またYouTubeを通じて知り合った海外の人たちとも音楽をやっている。

バンド活動というのはもうやらないだろう。
音楽の好きな人と、好きな時に一緒に音楽をやるのが音楽なんだと思う。