3/23/2024

母と歩いたヒロシマの街

 ネガフィルムのスキャナーが壊れる前にネガをスキャンしておこうと思う。
母と行った広島の写真をスキャンした。
もうスキャナーが少しだめになっているのかなあ?
色むらがひどい。
フィルムがダメになっているのか?
いつか新しいスキャナーを買ってやってみようと思う。

母は広島にいたことをずっとおしえてくれなかった。
知ったのは確か私がもう30歳も半ばを過ぎてからだったと思う。
母はあの日から一度も広島には行っていないと言う。
それで「一緒に行ってみようよ」と言った。
確か1985年頃だったと思う。

ヒロシマまでは飛行機だったけれど、小さめのジェット機で
当時の広島空港は海側にあって、飛行機はかなり急なループを
描きながら高度下げて降りる。
母はそれをとても怖がっていた。


空港を降りると、母は「この近くで働いていたのよ」と言う。
それが東洋工業だったか三菱だったか私は忘れてしまった。
とにかくそこで働いていて被爆した。
爆心から2~3キロだったと思う。
母は全身に窓ガラスの破片を浴びて、時々体から出てくるのを
私に見せてくれた。
戦後もおそらく亡くなるまで体にガラスの破片があったと思う。
母の住んでいた家は観音町だったから、飛行場と家の間の工場で
働いていたのだと思う。

そんなわけで飛行機を降りてから空港から徒歩で歩き始めた。
途中母は独り言のように「ここに**があったのよ」と言っていた。
後でわかったことだけれど、太田川は戦争中と今ではその流れが
全く変わってしまっていた。
母は「変ねえ、この変に・・・・」と言いながら歩いていた。



川は昔は山手川、川添川、福島川、天満川、太田川とあったのだけれど、
それが太田川放水路と天満川と旧太田川の3つに分かれてしまった。
ところが母の住んでいた福島川の少し出っ張ったところは、
なんとそのまま残っていた。

「この土手の左側には昔は朝鮮の人達が住んでいたの」
と言いながら、「そうそうこの場所だった」と思い出していた。




写真はたぶん場所が前後しているけれど、
私は母の後をずっと歩いていた。


母は時々目をつぶって、「この右手に確か・・・があって」
と記憶をたどっていた。
私はずっと母の記憶の街を見ようと思っていた。


「このあたりはぜんぜん変わってしまっている・・」
後で古地図を買ってわかったことだけれど、
この時はまだ知らなかった。

一緒に歩いていて、母は今の景色を見ているのではないことはわかった。
母は終始記憶の中の街を見ながらあるいていた。

横河駅まで歩いた。
駅の前で「ここには大勢の火傷をした人がいたのよ」と言った。
それ以上詳しくは話さなかったけれど、
それで充分だった。
ぽつりぽつりと話す独り言を聴きながら、
私も母の住んでいた街があの時どんなだったか少しわかった気がした。

ああ、この写真は横川駅前だと思う。
それから祖父(母の父親)がよく行っていた緑井の
試験農場に行ってみましょう、ということになった。
横川から可部線に乗って緑井まで行った。
緑井駅は平屋の小さな駅だった。
(今グーグルで見たら今の駅も平屋で雰囲気はそのままのうようだった)

緑井の駅から母の記憶をたどって、試験農場(のあった所)まで歩いた。
場所は確かにそこだったけれど、その後別のものになっていた。
祖父は農業の指導員みたいな仕事をしていたようだ。
廣島県庁に務めていた。

母の妹はあの日、この可部線に乗って学校に行っていたので
無事だったそうだ。
母の一番下の妹と祖母とが家に居て被爆した。
その話をつい先日聞いた。
今生きているはその人だけだ。
その人は今でも家族や子供たちに自分が広島にいて
被爆したことを言っていないそうだ。
「それ言っておいた方がいいですよ」と、電話で私は気軽に言ったけれど、
あの当時はとんでもないことだったと思う。
それをそんな風に偉そうに言ったことを後悔している。
とにかく、祖母と妹さんは家に居たのだけど、
奇跡的に何か大きなものの陰に居て、二人とも無事だった。
まだ小さい頃だったのでそれが何だったか覚えていないそうだ。


試験農場の場所は水道局の浄水場になっていた。
母は時々父に連れられてその試験農場に行ったようだ。
いつごろに浄水場になったかわからないけれど、
母はちょっと寂しそうだった。

それから市内に入って記念館に行った。
母はドームはあまり見たくないようだった。
母は自分のカメラを持っていたけれど、確か写真は撮っていなかった
ように思う。

こうやって写真を見ると、母は大きなカバンをずっと持っているけれど、
なぜ私はそれを持ってやらなかったんだろう?
たぶん私も飛行場から自分のカバンを持って歩いていた
とは思うけれど、
今にして思えば無理をしてでもカバンを持ってあげればよかった。

この3本ならんだ中州の一番左の所に住んでいたのだけれど、
この時母は今はこれとは全然変わっていることに気が付かなかった。

母はあの日の前日、今は平和公園になっている材木町にあった
友達の家に行っていた。
その日は泊まって行くように言われたのだけれど、
仕事があったので家に帰ったそうだ。
そのまま泊まっていたら今の私は居なかったかもしれない。
「ここが友達の家」「名前もあるわ」と言った。
でも私はその名前を忘れてしまった。
この写真の真ん中あたりだと思う。
その友達も家族も全員亡くなったそうだ。
母は展示物はあまり見ていないようだった。
横目で見ている感じだった。
ただ上の写真の所(石板に彫られている)ではずっと見入っていた。


次の日は宮島に行った。
宇品からフェリーだった。
結構長かったように思う。
「あの時は宇品から島の方に避難した人もたくさん居いたの」
母が言った。





宮島ではあまり話をしなかった。
私は宮島は初めてだったけれど、母は何度も家族で来ていたのだろう。

次の日は帰る日だけれど、その前にもう一度家のあたりを見たいと言うので
タクシーで回ってもらうことにした。
寡黙な運転手だった。
観音町を見ている時に川向うが見えた。
そこで母が「己斐の方の三瀧寺に行ってみたい」と言った。
運転手に行ってもらうよう言った。

観音町から己斐(こい)へは橋を渡る。
その途中だったか爆弾の話をしていた時、運転手が
「被爆されたんですか?」と突然話してきた。
「私も被爆したんです。小学校の時に」と言う。
それからその時のことを話始めた。
校庭にいたけれど、何かの陰になって助かったと言っていた。
それから三瀧寺に着いて運転手も一緒に歩いた。


母が「ここには避難してきた人が大勢いて・・・」と話した。
運転手さんが当時いたのはそこからは離れた場所だったようだった。
そういえば母は何故その三瀧寺に行きたかったんだろう?
聴き忘れた。
恐らく、家が川向うだったので祖父が亡くなった時この寺で
荼毘に付したのではないだろうか。
それは8月7日か8日くらいだっただろうか。
いやもっと後かもしれない。

祖父はその日、朝に自転車で廣島県庁まで出勤した。
恐らく着く前に県庁(旧)の近くで被爆したのだと思う。
ということは爆心に非常に近い場所だ。
祖父はそこから壊れた自転車にもたれて
動けるのが不思議なくらいの火傷を負っていたのに、
家まで帰って家族全員が無事なのを知ってから
亡くなったそうだ。

また大学へ行っていた母の弟は爆弾のことを知り
急いで戻って来たそうだけれど、確か東京の大学だった。
たぶん3、4日はかかっただろう。


その後、祖母と私の母(長女)と二人の妹と大学生の長男で
どうやってきたのか私はしらない。
とにかく茨城の故郷まで戻ったのだろう。
そういう話も聞かなかったのが悔やまれる。

母は私と二人で行った旅行の2年後に
妹さんと二人でまた広島を回ったそうだ。
その時は私と母が広島市内の古本屋で手に入れた
「被爆前の廣島」という大きな地図を持って行ったそうだ。