1/31/2022

青山学院学長 早川保昌先生

 青山学院の理工学部の化学科に入った時の学長は早川先生だった。
その頃は入学式でお見掛けしたくらいだった。
その後夏までに学長は石田先生に代わった。
噂では早川先生が学生寄りだったので追い出されたということだった。
たぶんそれは本当のことだろう。1970年のことだ。

その後早川先生は山梨大学に行かれた。
先生は化学の先生だった。
私が卒業する少し前に、恩師神崎先生が山梨大学で研究発表
できるように手配してくれた。
確かそれも東北大学の時と同じ溶融塩討論会の学会だった。
山梨大学の発表会の時、早川先生にお会いして話すことができた。
先生は卒業したら実験助手で来てもらってもいいよとおっしゃってくれた。
バカな私はその頃何も考えていなかったので、
そのお申し出を断ってしまった。
早川先生は優しい感じの方だった。
同じお申し出を横浜国大の朝倉祝治先生からもいただいたことがあった。
でもそれも断ってしまった。

その後の自分の人生を考えてみると、お受けしなくて良かったと思う。
かなり確かな予測で自分は化学を理解できなかっただろう。
勉強する気も無かったし、気楽に生きる方を選んでしまった。
でもそれで良かったと思う。

早川先生は2000年頃亡くなったようだ。
申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

1/30/2022

1972年のクラブの分裂

 クラブというのは大学の音楽サークルのことだけれど、
1970年に有志達が作った音楽サークルがあった。
部員は100人以上いた。私は創設時にはいなかった。
たぶん2,3か月遅れて入った。

2年間は様々な活動をしていた。コンサートや合宿など。
1972年に部室のある学生会館が活動家のセクトに占領され
サークルはそこを出ないわけにいかなくなった。
学園祭は教室での討論会となり、その時の部長がセクト寄りだったため、
その方針に従えない人たちが辞めて行った。
・・・と言っても辞めた方が多いのだけど。
残った人達(10数人)は今までのサークルの名前をひきついで
やって行くことになった。
出て行った人たちは新しく名前を付けたサークルをやって行くことになった。

思うにこの時辞めた人は、ほとんど元のサークルの創立メンバーだったのだから
「いいけどお前らその名前は使うなよ、新しく作れよ」と言えたと思うのだけど。
それはせずに新しい名前のサークルを作った。そのサークルは今でも継続中だ。

問題はこの年の学園祭で演奏するはずだったのが全部討論会に
なってしまい演奏会が出来なかったことだ。
つまりその年で最後の学園祭という人も多数いた。
その恨みを今でも、というか非常に根深く、持っている人が
少なからずいること。
元のサークル名でやって行った人達は十人程度だけれど。

今ならLINEやメールで連絡しあって、どこかで卒業コンサート
をやろう!とかいうことになったと思うけれど、
当時は部室が無いと連絡は電話(家電話)だから
スムーズには行かなかったと思う。

問題の部長はサークルには来ずセクトの方の活動をしていたらしい。
それで部長無しでたぶん2年は続けていたと思う。
私もその合宿の荷物運びを手伝ったりした。

その前に、元のサークルが分裂する前に私(と他2人)は
そのサークルを辞めていた。だからその分裂の時には
既にいなかった。
それがまた誤解を生んでいた。
つまり私達3人は「あっちの」メンバーなんだろう、
と思われていたことだ。

私達は全然関係なく藤沢や湘南で活動していたのだけど、
時々その新サークルの人に会うとどうも変な雰囲気だった。
つまり「お前はあっちの人間だろう」ということだ。
私はその分裂の時を知らなかったから、わけがわからなかった。

もうずっと後になって私はその新サークルの創立メンバーと
話をして誤解が解けた(かもしれない)。
でもその時の恨みはほんとに根深い。
ちょっとしたことでそれが出て来る。

分裂時に部長をやっていた男は数十年後の同窓会に現れた。
全然平気を装っていたけれどぎこちなかった。
周りの人達(つまり分裂させられた)も笑顔を装っていた
けれど、きいてみると後で「なんであんな笑顔でいられるの?」
とか言っていたらしい。

その問題の部長はクラブが始まった頃やってきた。
物静かであまりしゃべらないので私が最初の”仲良し”になった。
合宿の写真にも隣同士で写っている。
その頃デモや集会に行っていたことは知っていた。
私はべ平連系の集会しか行かなかったので一緒になることはなかった。
でもクラブの先輩の中には私が過激派だと思っていた人がいた。
それも後の誤解の元かもしれない。

たぶんもうその軋轢が埋まることは無いだろう。
当時のクラブの人にメールするときも細心の注意を払って
文章を書かなくてはいけない。
今でもそうだ。

鳥はいまどこを飛ぶか

「メシメリ街道」 
1975年ころだろうか、これを読んだ。山野浩一だ。
男は道路の向こうに渡りたいのだが、どこまで歩いても
渡るための歩道も信号も歩道橋も無い。
道にはひっきりなしに車が走っている。
渡ろうとした人は車に轢かれてしまう。
この不条理な道路はどこにも、誰にもあるような気がする。
なんとも言えない不安感が残る作品だった。
当時たくさんのSFを読んだけれど、記憶に残っているのは少ない。
この作品は記憶に残る一つだ。

「鳥は今どこを飛ぶか」、さっき注文した。
もう一度読みたいと思ったから。

1/29/2022

ギターたち

 楽器に限らず趣味を始めるといろいろ集め始めるようだ。
私はギターとかだけれど、今は必要本数しかない。
6弦ギター 2台
ガットギター 1台
12弦ギター 1台
エレキギター 1台
で全部。
確かに以前はもっと持っていたのだけれど、音が出ればいいのだから
必要本数はこんなもんだ。
6弦だって1台でいのだけど、1台売りに出して売れなかったものなので
投げ売りするのもギターがかわいそうなので売らないことにした。
たぶん私が死んだらこれだけ残る。
高価なものは1台も無い。
息子が引き取ってくれればいいのだけど。

一番気に入っているのは12弦だ。
これはYAMAHAのFG12-250とかいうもの。
これはヤフオクで確か¥5000くらいで購入したもの。
ピックガードの下側に丸い穴(ピックアップのジャックが入っていたらしい)が
ある。穴は開いたままでギザギザだった。
これがとにかく音がいい。
その後いろいろ12弦を探して購入してみたのだけど、このYAMAHAに比べたら
全然音が軽い。このYAMAHAは音の響きが抜群。
伴奏トラックに録音すると透き通った美しい音がする。
弦は半音落としで張りっぱなしだけれど、いつも良い音がする。

ガットギター。
ガットギターは今まで4台くらい買い換えている。
一番弾きやすかったのはオベーションのセレブリティーのエレガット
だったけれど、オベーションなので生音はどうしようもなくベコベコ感
が否めなかった。
たぶんYAMAHAの安いクラシックギターが一番音が良かったと思う。
でもなっと幅が広くてとにかく弾きにくい。
それでお茶の水にエレガットを探しに行った。
最初にクロサワに1本音が良くて値段もそこそこなのがあった。
それが気に入ったけれど、他のも見て見たかったのでクロサワの人に
「1時間だけこれキープしといてください」と言って他の店を見て回った。
タカミネとかアイバニーズ、バレンシア、アリア、ヤマハとか10台
くらいエレガットを弾いてみたけれどどうも全部フォークギター的な
音しかしない。
それでクロサワに戻ってマルティネスを買った。
ナット幅も47mmくらいで広からず狭からず。
とにかく音がクラシックギターのそれだったので気に入った。

6弦(鉄)はギルドと木曾スズキ。
ギルドはやはり楽器店で7台くらい弾いてみて気に入った。
木曾スズキは以前は5台くらい持っていた。
高い方から売ってしまって一番安いタイプが残った。
残ったのだけど、これは結構音がいい。
たぶん1975年くらいの製造。

エレキはほんとはどうでもよかったのだけど、その前に持っていた
のがフレット音痴だったので、我慢できなくなって
YAMAHAの安いのを買った。
さすがYAMAHAで安くても音程はしっかりしている。造りもいい。
ので、気に入っている。












1/28/2022

「4、って何だろう?」

 このブログは閲覧者数がわかるのだけど、
たぶん誰も見ていないはずなのだけど、書いて1日経つと
「4」が付く。
他はたまに誰かが見るらしくその数が出るのだけど、
たぶん誰も見ていないのに4が付く。
それが正確に毎回4だ。
何だろう?

もう一つ学校のクラブ用のグーグルブロガーのブログを持っている。
そっちは誰も見ないと「0」だ。
いつまでたっても「0」だ。
永遠のゼロだ。

1/27/2022

マーティー・ロビンス

 さっきYouTubeでなんとなく「エルパソ」を聴いた。
この歌はすごい、中学生の時の家の匂いがする。
三鷹の上連雀の家だ。
たぶんその頃に聴いたからだと思うけれど、
それで思い出したのは三鷹駅前のノザキ楽器店で買ったレコードだ。
白いジャケットでそこに白黒写真のマーティーロビンスの顔があった。
それを買ってひたすら聴いていた。
そのうちそのレコードが2枚組だったらしいのに気が付いて
もう一度ノザキ楽器に行って「これの2枚目ありませんか?」と聞いた。
2枚目は無かった。それと歌詞カードもその2枚目についていたらしい。
すごく残念に思った。

その時お店にいた店員さんだけれど、名前を忘れてしまったけれど、
私が大学生になってからアルバイトをした吉祥寺のノザキ楽器店
で再会した。
向こうは覚えていなかったけれど私は覚えていた。

三鷹のノザキ楽器も吉祥寺のノザキ楽器も今は無いけれど、
考えてみるとそのマーティーロビンスのレコードを買ったのが
そのつながりの最初だった。
アルバイトしていた時にノザキ楽器店主催のフォークコンサートが
あって、そこに出たことがあった。
何を歌ったか覚えていないけれど、なにか公会堂のようなところだった。

バイト中にお店の裏にあったバーだったかキャバレーだったかで
高校の時の同級生にばったり出会った。
名前を忘れたけれどたぶん以前の投稿を見ればどこかに書いて
あったはず。
彼は今どうしてるだろう?

1/26/2022

納谷さんのこと

急に思い出した。
札幌で仕事についた時、会社にいた工場長以外の男の人は納谷さんだけだった。
あとはパートの女性。
納谷さんはとてもはきはきした人でしゃべり方も早口で、いつも笑顔だった。
仕事もいろいろ教えてくれた。
時々工場長に文句を言っていたような気がする。
かれはパートの人の代弁者だったんだと今にして思う。
いいかげんな私とは大違いだ。
一緒に仕事以外のことをした記憶は無いけれど、
一度彼の家に行ったような気がする。
手稲駅からまっすぐ東の方に行ったあたりだったように思う。
彼は私より少し年下だったと思う。
先頭にたって仕事していた。
彼は私にいろいろよくしてくれたけれど、
私は彼に何かしてあげただろうか?

パートの人たち。
原さん:息子さんを車に乗せて一緒に東京まで走った。
途中車酔いして大変だったと思う。ぶっきらぼうなしゃべり方だったけれど、
とても感じのいいひとだった。
日下さん:当時で40歳くらいだっただろうか?大体私の机の前の席にいた。
顔を上げれば彼女の顔が見えた。
その隣にいたのが、
金谷さん:たぶん一番若かったんだと思う。彼女には言葉では言えないくらい
いろいろ助けられた。
守谷さん:彼女は金谷さんと同じくらいかな?あるいは少し若かったかもしれない、
いつもおかしなことを言って周りのおばさんに茶化されていた。
福田さん:金谷さんよりも5歳くらい上だったろうか。正確な歳はしらなかった。
ちょっと姉御肌でみんなからも「あねご」と呼ばれていた。工場長とは仲が
良くなかったような気がする。
古賀さん:私が入社してから1年くらいしかいなかったように思う。歳も
同じくらいだった。顔を思い出したら一緒に支笏湖までドライブしたことを
思い出した。ドライブしたのはその1回だけだった。なんだか気まずい
ドライブだった。すっかり忘れていた。
関さん:確か関さんというおばさんがいた。当時で50歳くらいだったろうか。
顔と声を覚えている。ふっくらした感じの人だった。
佐藤さん:たぶん30後半くらいだったんだろうか?当時はおばさんだと
思っていたけれど、結構若かったのかも。ちょっと怖い感じの人だった。
角谷さん:この人は内職で仕事をしてもらっていた人。エホバの王国に入って
いた。偉そうで非常に感じの悪いおばさんだったが、みんなから弄られていた。
佐々木さん:この人は福田さんと同じくらいの歳だったんだろうか。若いきれいな
奥さんだった。福田さんと仲が良くて席も隣同士でいつも一緒にいたような気がする。
佐々木さんは東京の人だったのかな?

たぶんこれだけかな?一緒に仕事した人は。
よく名前を思い出したなあと思う。もう50年くらい前だ。

北海道品川無線

1/21/2022

夢の中までコロナ

 昨日見た夢でマスクを探していた。

いつものように変な夢だった。
私は仕事場に行くのだけれど自分の作業台は別のことに使われていて
自分が作業する場所が無い。
近くにいた人に言って場所を空けてもらうのだけど、仕事自体がよくわからない。
自分だけすごく年をとっている。
そうこうしていると誰かが大きなグラビア雑誌を持って来る。
それを皆の前で見せると私が表紙を飾っている。
横を向いた私が写っている。
雑誌の中は何か昔あった技術専門の雑誌のような感じで、
中にも私の写真が使われていた。
それを見ているうちに自分が車を路駐していたことに気が付いて
車を探しに行く。
でもどこに停めたのか全く覚えていない。
(いつもの夢なら大体停めたところを覚えているのに)
少し坂になった道を歩きながら探すのだけど無い。
(ポリに)持って行かれたのだろうか?と思うけれど
その停めたところに紙が貼ってあるはずだと思っても
その場所がわからない。
歩き回っていると向こうから何人か人が来る。
「あ、マスクだ!」
と思ってマスクを探す。
確かバッグの中にいつも何枚か入れていたはず(それは現実生活でのこと)、
と思って探すが紙を丸めたようなものしかない。
焦って他を探すけれど無い。

そこまでしか覚えていない。
ついに夢の中までコロナが入ってきた。

1/19/2022

いつからクラシック好きになった?

 どうもわからないのだけど、いろいろな要素があったと思う。
・田舎の蓄音機で誰かが聴いていて、それが聞こえていたから。
・映画やテレビのニュース映像には必ずクラシック音楽が使われていた。 
 それを聞いていたから。
そのどちらかだろう。
自分であれは何の曲だろうと最初に思ったのは覚えている。
学校の朝流れていたペールギュントの「朝」だ。
あれはどうやってわかったんだろう?と思い出してみると、
ずっとわからなかったんだ。
もう中学生になってから音楽の時間でやったような気がする。
そのずっとわからなかったということを覚えている。
真面目に聞くとあれほど感動的な曲もない。
盛り上がり方がすごいと思う。
ラベルのボレロなんか目じゃない。
そうだ、それで北欧に興味を持ったんだった。
北欧の写真や音楽をよく探して見聞きしていた。
ああ、北に興味を持ったのもそれがきっかけかもしれない。
北海道に住みたかったのもそれが始まりだったのかもしれない。
だけど仕事で北海道に住むようになったのは偶然だったんだけどね。
偶然?運命的な感じもする。
全ては決まっていたのかも。

もうひとつ大きなきっかけはテレビのディズニーランドでやった
ベートーヴェンの生涯だ。
これは2回に分けてやったような気がする。
それをテープに録音して何度も聴いていた。
その中に出て来る曲は全部覚えてしまった。
しかも場面の変わり目のほんの数秒のところにもベートーヴェンの
曲が使われていた。
今思うとあれを作った人も凝り性だったんだろうなと思う。
確か最近はあまり聞かない「合唱幻想曲」も入ってた。
シーンで覚えているのは誰かが宮殿のような家の
階段を下りてくる時にピアノ協奏曲の5番「皇帝」が流れて
いたこと。とても印象的なシーンだった。

それから最初のクラシックコンサートだ。
前にも書いたけど、新日本フィルの公開録画だった。
私は一番前の真ん中にいたからたぶんテレビに映っていたと思う。
それは確認しなかったけれど。
ほんとうにすばらしいコンサートだった。
今でもあのキラキラした文化会館のステージを覚えている。
テレビで見ていた渡邉暁雄さんはほんとに背が高く格好良かった。
曲もベートーヴェンの6番「田園」とブラームスのバイオリンと
チェロのための二重協奏曲だった。
ブラームスの方は全くしらない曲だったけれど、その最終楽章
のメロディーがずっと耳から離れなかった。
確か中学2年の時だった。







1/17/2022

Tchaikovsky Symphony No 4

 初めて聴いたのは多分中学2年の時だと思う。
ラジオの「日立・ミュージック・イン・ハイフォニック」、日立の提供だった。
あの番組は30分番組だったからどこかの一楽章端折っていたのだろう。
でもあの当時のことだから延長してやっていたかもしれない。
そのうち図書館の新聞で調べよう。
この曲は1回聴いて好きになった。
それを聞いた後、ラジオ、テレビ番組でこの曲を探していた。
何が好きになったのかわからないけれど、第1、第4楽章だろうな。
ソ連もロシアも知らなかったけれどロシアっぽい感じが好きだった。

それで宮澤清六さんの「兄のトランク」を読んでいたら4番の話が出ていた。

「遠くの女学校の方からかすかにレコードのような管弦楽らしきもの
 がきこえ、彼はその曲を、TschaikowskyのFourth Symphonyの
   Allegro con fuocoではないかと思い、あの不思議で楽しい繰り返し
 を、口のなかで真似てみたりする」

これは宮澤賢治がどこかに書いていることなんだろうか?
それとも清六さんが見聞きしたことなんだろうか?
Allegro con fuocoは最終楽章だ。
賑やかな出だしの部分だ。すぐにその不思議なメロディーの繰り返し
になる。様々な楽器で同じメロディーが繰り返される。
そこから緩急を何度か繰り返し、一番最初のメインテーマが少し流れ、
エンディングに向かって爆走する。

賢治さんの話によく出てくるベートーヴェンの「田園」やドボルザーク
の「新世界より」の静けさと比べるととても劇的だと思う。
新世界の最終楽章にしたってこの4番の最終楽章に比べると牧歌的だ。

賢治さんの詩や物語にこの激しさを現したものがあっただろうか?

1/15/2022

1969年のこと

 たぶん「1959年って何の年だっけ?」と言うのと同じくらい
今の人は1969年も何の年か忘れてしまっていると思う。
なぜなら1969年から自動更新になってしまったから、
期限を気にすることもなくなってしまった。

今日は1月14日だけど1969年の1月18日という日はあの時代を
象徴する出来事があった日だ。
それを記念して何か歌おうか(YouTubeに)と思ったけれど、
今更何をという気持ちだ。
やるとしたらこんな感じでやりたい。
まず当時の歌の出だしを歌う、
その直後に喧騒と催涙弾の音で歌は聞こえなくなる。
聞こえてくるのは騒音と人々の叫びと
催涙弾を打つボンボンという音とカラカラという薬莢の
ころがる音だ。
それが当時の歌だった。

少なくとも私には今でもその騒音の向こうで歌う歌が聞こえる。
だけど、外にいる人々には騒音しか聞こえない。
結局あの時歌った歌は誰にも届かず、
誰も聴くことは無く、
歌は騒音にかき消されてしまったように思える。
でも私には今でも彼らの、私達の歌が聞こえる。
騒音を高速フーリエ変換して音楽成分だけを
取り出せる耳がある。

1969年は人々が砦と広場を失った年だ。

1/14/2022

ハングの友達

道をあるいていて突然思い出した。
「本間君」という名前。
僕が足尾山で飛んでいた時、学生(筑波だったかな)の彼も
ハングをやっていた。
ある日彼が事故ったと聞いた。
カラビナを付け忘れて飛んでしまったらしい。
カラビナは必ず誰か他の人に確認してもらうのが普通なのだけど、
彼はそれをしなかったらしい。
たしか同じ年に60代のハングフライヤーが同じ事故で亡くなっていたのに。
たぶん彼はすぐに手を放せばそのまま下に落下して骨折くらいで済んだ
と思う。でもぶら下がったまま木に衝突したらしい。
笑顔がいい男だった。
お葬式にも参列した。
仲間も大勢来ていた。

それから10年くらいして新聞で今井浜でハングの事故があったのを知った。
今井浜は最初にハングを習ったところだ。
ビックリして名前を見たらミツキとあった、
あのミツキだ。
彼のことは前にも書いた。
ちょっと信じられなかった。
あんなにうまいのに。
今井浜の海岸に降りるのだが、狭い。
滑空して降りる途中にコンクリートの護岸のようなものがあった。
そこに衝突したらしい。
降りる時だからかなりのスピードだ。
今井浜のスクールで詳細をきいた。

僕が失ったハングの友達は知ってるだけでその2人だ。

それを思い出していたら、そのころ一緒に練習していた人達の
名前を思い出した。
いつもならすっかり忘れている名前なのに。

辻君:一緒に今井浜で練習した。
   彼は私より20才くらい若かった。
   ちょっとニヒルで、若い感じがした。
   あまり頻繁には顔を出さなかった。
   そのうち来なくなった。

マリちゃん:一緒に今井浜で練習した。
      辻君より若かったかもしれない。
      だからあのスクールで一番若かったのだろう。
      みんなからマリちゃんと呼ばれて人気者だった。
      背は小柄だったけれど人一倍頑張り屋だった。
      私は彼女に「パパ」と呼ばれていた。

まゆみちゃん:一緒に今井浜で練習した。
       20代中ぐらいだったのかな。
       マリちゃんとまゆみちゃんとミツキと僕が
       いつも一緒だった。真由美ちゃんとは一緒に車で
       帰ったことが何度かあった。
       ちょっと姉御肌の元気な人だった。
       たぶんその後ミツキと付き合い始めたと思う。
       一緒に足尾山に来たことがあった。
       その時は風が悪くて飛べなかった。
       真由美ちゃんとは電話で話したこともあったけど、
       事故の後は話していない。

しんし:よく覚えていないけど突然その名前を思い出した。
    彼はパラグライダーだったように思う。

島根さん:足尾で一緒に飛んでいた。
     明るい人だった。確か宅配の仕事をしていた。
     僕が「シモネ」さんというあだ名をつけたら嫌がっていたけど
     結構その名前が流行っていた。

名前知らない人:足尾で飛んでいた。
     学生だったと思うのだけど、どこの大学かわからない(忘れた)。
     足尾のショップの前で準備しているとよく会った。
     名前も知らないのに会うと必ず笑って挨拶した。
     たぶん僕よりもかなりベテランのフライヤーだったのだろう。
     笑顔だけ覚えてる。

     
  

健康保険喪失届

 やっと出した。
10月末に会社を閉じてから、厚生年金事務所に電話して必要な書類を
きいたのだけど、なんか面倒くさそうでそのままだった。
以前はそばに何でもやってくれる人がいたから何も苦労しなかったのだけど。
会社の解散は司法書士に任せてやってもらった。
あとの手続きをいろいろやらないといけないのだけど、できない。
アメリカのジョンさんがそういう病気だと言っていた。
彼もやらないといけないことができないらしい。
たぶん自由な人なんだろう。

僕はたださぼっているだけかもしれない。
11月から毎日そのことがどこかに引っかかっていた。
だんだん苦しくなってきたので、とりあえず法務局に行って
会社の解散した登記簿をもらった。
これはできた。
なぜならそう言って書類をもらうだけだから。
もらってから気が付いたのは厚生年金事務所がそこから
歩いて10分もかからないということ。

だから歩くことにした。
厚生年金事務所は何度も行ったことがある。
そこで「手続きがわからない」と言えばなんとかなるだろうと思った。
なんとかなった。
受付の女性が教えてくれた。
それでそこでもらった書類を持って区役所に行って国民保険の
手続きをした。
終わってみるとたったそれだけだ。
2か月悩んでいたのがバカみたいだ。
だけど、こういうのは今回だけじゃない。
前にも何度もあった。

とにかくやらないといけない、というのがだめだ。
なかなかできない。
できるならそのまま忘れたい。
病気かなぁ?


1/13/2022

とても懐かしいもの

 思い出した。
オレンジ色のフォグランプだ。
最近は見ないような気がする。
以前はみな付けていた。


霧の日や吹雪の時は必ず点けていた。
ヘッドライトと同じ位置だとかえって見にくくなってしまうけれど、
屋根の上かバンパーの位置につけるとヘッドライトだけよりは良く見える。
特に屋根の上に(スキーキャリアーを付けて)付けた時は
かなり効果的だった。

それとこのオレンジ色だ。
フォグランプのオレンジ色はとても懐かしく感じる。


それは北海道の吹雪の夜を走っていた時を思い出させる。
雪だ。
冬の北海道はひたすら雪だ。
時々どこへ向かって、どこを走っているのかわからなくなる。
記憶も判断も精神もおかしくする。
まるで夢の中を走っているようだ。

時々あの世界にまた戻りたくなる。



1/11/2022

夢は主体的か受動的か

 ときどき夢は誰が作っているんだろう? と思う。
普通に考えると自分が考えているからなんだろうけれど
時として自分では想像もできないことや、全く意外な人物や
知らなかったことなどが出て来ることがある。
それはなんでだろう?
深層心理とか無意識とかがやっているんだろうか?
あるいは過去の忘れていた記憶とか。

昨日の夢に学校が出てきた。
学校と言うのは大学の「理工学部」なのだけれど、
実際の学校は実験室があるのはほぼ1棟なので間違いようがない。
だけど昨日夢ではそうじゃなかった。

そもそも実験室に忘れ物をしたのを取に戻らないといけなかったのだけど、
学校は複雑に棟がたくさんあり、その一つ一つを確かめながら
探さないといけなかった。
結局みつからないのだけど、
だけどそのたくさんあった棟は全部見覚えがあって、
「ああ、ここだ」と思って入ってもそこじゃない。
「そうだ!エレベーターだ」と思ってエレベータに乗ろうと思うのだけど
エレベーターはやけに揺れて全然知らない場所に着く。
もうそこは大雨で雨に濡れながら探しまわる。
でもみつからない。
ああ、雨の中で誰かに会った。
友達か?背の高い男だった。
とても親しみを覚える。
しばらく一緒に歩く。

そんな夢だった。
雨の理由は分かった。
上半身が布団から出ていた。
寒かった。
だけど学校の建物はすごく単純な構造だったから
間違えようがないし、夢の中でも覚えていて良さそうだ。
でも夢の中ではもうそんな記憶はどこかに行ってる。
そもそもその学校の夢を見たのはブログに理工学部の写真を載せたからだ。
それが奇妙にデフォルメされて夢に現れた。
自分ではそんな複雑なものにはしないだろう、きっと。
自分ではない誰かがそういう夢を作っているように思う。

1/10/2022

夢と現実

 世の中は今日まで連休らしい。
休みの時は電話も無いし急ぐことが無い(ように思える)ことがいい。
いつもよりのんびり寝ていられる。

年末からずっと外に出ることがあまりない。
買い物とちょっと公園に行くことくらい。
人と話すことも無い。
家族かマンションの管理人さんと話すくらいだ。

思うのだけど、現実では夢のことはあまり覚えていない。
あまりと言うのはちょっとは覚えているということだけど、
また夢の中では現実のことはほとんど思い出さない。
思い出せないと言った方がいいかもしれない。
断片的に現実のことが入ってくることがあるけれど、
すぐに夢に溶けてしまう。

自分自身のこととしてこれを考えると、いったいどっちに
生きているんだろう? と考える。
夢の中の方がよっぽど人と話をしてるし、いろいろな場所に
言ったりする。感動的な景色にも出会う。
現実では記憶の底に埋もれている人にも会うことができる。
現実ではほとんどこの部屋とわずかな外部の世界だけだ。

よっぽど夢の中に生きていると思った方がすっきりする。
しかも夢のことは少しは覚えている。
現実と思われる世界でも夢のことを思い出すことができる。
ひょっとすると自分の記憶も現実よりも夢の方が多いのかもしれない。

昨日の夢の中で、ある人を助けなければいけないことがあった。
そのために電話をかけなければいけないのだけれど、
その電話番号がわからない。
履歴を見ればわかるはずなのだけど、どうもそのやり方がわからない。
それに画面が例によって虹色に輝いていてよく見えない。
そうこうしているうちに目が覚めた。
その助けなければいけない感だけが残って気分が悪い。
向こうではまだ僕の助けを待っているような気がする。
助けに行かなければと思う。

それはそうと、今日はちょっと郵便物を出さないといけないみたいだ。

1/09/2022

自分

 今自分が一人の人間、というか人格としてここにいるのを

少し(10mmくらい)離れて見ているような気がする。

何か考えている時も、「お前はそう考えているのか」と

自分がそれを見ているような気がする。

歌を歌っている時は自分は自分でピッタリしているように思う。

だけどその録音を聴いているのは少し離れた自分のように感じる。

そして今、まさに二人の人格がこれを書いている。


青山学院理工学部 廻沢キャンパス

 何年前に無くなってしまったのかさえ知らない。
ほとんどは廻沢に居たはずだけど、渋谷の方が覚えているのはなぜだろう?
誰だったかのホームページに廻沢の写真があった。
見ているうちに色々思い出してきた。
なんかクリスマスやってるけど、左側がチャペル(講堂)で右手に電気が付い
ているのが研究室のある棟だ。 一番上ってどこの学科だったろう?
遅くまでやってるなあ。

この右側が守衛さんののいるところ。
このバスが廻沢と渋谷を行き来していた。
たいていこれに乗って渋谷に行った。
そうだなあだいたい化学科が何階だったかも忘れてしまった。
化学科もだいたいこんな感じだった。
廊下に何かもっと物を置いていたような気もするけど。

中庭。時間が開いているいる時はここでよく昼寝した。
気持ちよかった。
これは研究室の棟と授業の棟を結ぶ渡り廊下かな?
ちょっと記憶にある。
学食。昼はほとんどここ。
Aランチ、Bランチの他カツカレーとかあったような。
他の学科の人に会うのはここだった。
この左側に購買があった。確か。
ここの写真が残っているのはすごいと思う。
ここは授業をやる棟の方の中二階の広場。
ここだったなあ、と思う。

そういえば実験室の写真とか全く撮らなかったなあ。
撮っておけばよかった。
頭の中には残っている。
ひどいな、このくらいしか覚えていない。
あとは断片的なシーン。
神崎さんが自分の机でリコーダを吹いていた。僕はギターを持ってきて
伴奏したりした。ガラスのジャーを私が良くつぶしてしまい神崎さんが
ガスバーナーでガラスを熱して直してくれた。たぶん最低4回くらいは。
原因は私が高温に温まっている(500度くらい)ガラスの容器を
真空ポンプで引いてしまったため。
いったい私君はどこまであの実験を理解していたんだろう?
疑問だ。
時々この右側の出入り口から松本先生が突然現れ、
「神崎君あれはどうした?」みたいに言われて神崎さんが焦っていたこと。
二人で演奏して遊んでいると必ず現れた。
ガラスの加工をしている時に天井にある火災警報器に蓋をするのを忘れて
棟内に非常ベルが鳴り響いたのは少なくとも3回はあった。

化学科は何階だったんだろう?
気分的には5階だったような気がする。
実験室のすぐ前にエレベータがあった、
エレベータはすごく大きかった。あれは軽自動車が一台入りそうな
大きさだった。あれで上り下りしてた。
実験棟の裏に駐車場があった。
私は神崎さんの駐車カードを借りていて、自分の車をここに停めていた。
その前は近くの畑の中に停めていた。
この写真の一番手前の右側に停まっているのは日産チェリーF2だ。
たぶんこの写真は1980年くらいだと思う。

今思うと何考えてここで勉強(?)していたんだろうと思う。

1/08/2022

たまプラーザ 2002

20年前はたまプラーザに事務所を借りていた。
ワンフロアー50万円だった。
今考えるととても払える金額じゃない。
あれは神津さんが払ってくれていたんだろうな。
一応神津さんのデスクもあったから。

たぶん前にも書いていたけど、駅から左の方に坂を登ったところにあった。
下がレンタルビデオショップ、向いがコンビニ。

この写真の右側にマルディグラっていうバーがあった。
その向かいあたりにミシン屋があった。今もあるだろうか?

たまプラ駅に向かって下りてゆくと交差点があり、そこを右に行くと
モンスーンカフェがあってその向かいが焼き肉屋(壱番館?だったかな?)があった。
左に行くとビルの中を通って上の道へ上がる階段があって、その途中に
いわゆる飯屋があった。名前を忘れたなあ。
昼はよく食べに行った。


もう少し下るとイトウヨーカドーがあって、その向かいにスポーツ用品店と
YAMAHAの楽器店があった。


ヨーカドーの斜め向かいにKFCがあった。
それから駅があった。
今とは違う平らな駅だった。


この写真は2002年の12月らしい。
まだクリスマスツリーは置かれていない。
そうか、もう20年になるんだ。
恐ろしい。。

1/07/2022

weeping willow

 今に始まったことではないけれど、
何かドラマを見るたびに涙が出る。
何だろう?
何かきっかけになる言葉とか映像とかだろうか?
親子とか子供の話がだめだ。
たぶんなんでもないシーンなんだと思うけど。
気が付いたら泣いている。
ひどいもんだ。
罰であることは確かだ。




1/05/2022

銀河鉄道の機関車(つづき)

 今日はカメさんに手紙を送った。
確か1年に1回くらい書いてるように思うけれど、
2年に1回かもしれない。

銀河鉄道の機関車の続き。
何を書きたかったかというと、私が子供の頃読んだ時はあの列車は
蒸気機関車だとは思わなかったということ。
賢治さんは列車のことも機関車のことも具体的に書いていない。
書いているのは「線路があること」「ごとごと走ること」
「煙や蒸気を出していない(らしい)こと」
車内の様子も具体的には何も書いていないこと。
蒸気機関車とも電気機関車とも電車とも書いていない。

私が初めて読んだころはまだアニメもなく余計な予備知識が無かった。
それであれを読んだのだから、蒸気機関車だと思うわけもない。
賢治さんの時代の子供だったら蒸気機関車だと思うかもしれないけれど、
私の記憶には蒸気機関車だった、という記憶は無い。
ただ「石炭を炊いていない」汽車だった。

それに

  だまって正面の時計を見ていましたら、ずうっと前の方で、
  硝子の笛のようなものが鳴りました。汽車はもう、しずかにうごいていたのです。

とか書いている。
蒸気機関車はガラスの笛なんか鳴らさない。
比喩だとは思わない。
子供がガラスの笛と想像するとたぶんもっと甲高い澄んだ音を想像すると思う。
それを子供の私が読んだ時どう思ったか覚えていないけれど、
でもその「硝子の笛」というのはちょっと覚えている。

はっきりはわからないけれれど、賢治さんはきっと蒸気機関車に限定したくは
なかったんだと思う。
子供がどう想像するか楽しんでいたように思う。

どこかの誰かがアニメで蒸気機関車のイメージを植え付けなかったら、
また具体的な軽便鉄道の影絵を出さなかったら、
子供達はどういう機関車を想像できたろう?
それを考えた方がよっぽど夢がある。
銀河鉄道の具体的なイメージを作ってしまったことは罪に思える。

カメさんのこと

亀川君は今年も年賀状をくれた。
僕は出していない。
毎年のことだけれど、明日にでも手紙を出そうと思う。
カメさんは今はどんな感じだろう?
当時のことしか覚えていないからイメージは当時のままだ。
僕よりも10歳は下だからまだ若いだろうな。
今でも「自分わぁ」って言っているだろうか?
もうバイクには乗っていないだろうな。
だいたい結婚したかどうかもわからない。

亀さんと仕事をしていた時はもう一人バイクに乗っていたのがいた。
名前を忘れてしまったけれど、彼はバイク事故で意識の無いまま
長いこと眠っていて、そのまま亡くなってしまった。
それから柿崎さんがいた。
柿崎さんは家に来たことがあっただろうか?
無かったかもしれないけど。
いや、雪奈が小さいころに会っているはず。
柿崎さんは脳梗塞かで突然死んでしまった。
柿崎さんは仕事仲間でただ一人の同い年だった。
あの声は今でも覚えている頭にスピーカーがあれば
あの声をそのまま出せる。
今、会いたいと思うあの頃のただ一人の人だ。
カキちゃんが死んだときはほんとに泣いたなあ。。
会いたいな。

松山君はどうしたか知らない。
千田君もどうしてるだろう?
千田君は家に来たことがあったように思う。
彼はおニャン子クラブの全員の名前を言えた。
そうだ!松田聖子の大ファンだった。
松山君も千田君も僕には会いたいとは思っていないだろうな。

明日カメさんに手紙を書こう


1/03/2022

銀河鉄道の機関車

子供(小6)の頃初めて読んだ「銀河鉄道の夜」はその後と話しの流れが違っているようだ。しかし銀河鉄道自体は変わっていない。
ところが近年の銀河鉄道の列車は蒸気機関車のイメージが強い。たぶん勇壮なD52とかC62とかの大きな汽車のイメージだ。たぶんにアニメや影絵の影響が強いと思う。
賢治さんはどういうイメージで描いていたのだろう?と思う。   
   気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと、
   ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。
   ほんとうにジョバンニは、夜の軽便鉄道の、小さな黄いろの電燈の
   ならんだ車室に、窓から外を見ながらすわっていたのです。
と書いているから、小さな列車なのだろう。しかも「小さな黄色の電燈」と
言っているから電車なのかもしれない。あるいは発電機を積んだ蒸気機関車
かもしれない。子供の頃に乗った蒸気機関車は確かに壁の所に楕円形の
オレンジ色の電燈がついていたように思う。
だから必ずしも電気機関車とは言えないようだ。
花巻の軽便鉄道の写真を見るととても狭い客室内で椅子はボックス席ではなく
両側の長椅子だ。
いつからボックス席のイメージになったのだろう?
   すぐ前の席に、ぬれたようにまっ黒な上着を着た、せいの高い子供が、
   窓から頭を出して外を見ているのに気が付きました。
   そしてそのこどものかたのあたりが、どうも見たことの
   あるような気がして、そう思うと、もうどうしても
   誰だかわかりたくて、たまらなくなりました。
   いきなりこっちも窓から顔を出そうとしたとき、
   俄かにその子供が頭を引っ込めて、こっちを見ました。
   それはカムパネルラだったのです。
とあるけれど、向かい合って座っているとは書いていない。
長椅子でもこの状況はありそうだ。だいたい岩手軽便鉄道にしろ花巻電鉄にしろ車内はせまくてボックス席は無理だ。賢治さんが「小さな列車」と書いているくらいだから。
国鉄の大きな汽車ではないだろう。
この汽車は電気だろうか?あるいは蒸気機関車だろうか?
それについてははっきり書かれていないけれど、
   「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」
    ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
   「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。
アルコールか電気なんだろう。アルコールだったら煙は出ない。
電気だったら蒸気すら出ない。ジョバンニは何を見て「石炭を炊いていない」と言ったのだろう?たぶんまどの外を煙が流れていないからか、石炭の匂いがしないからだろう。
そうすると「この汽車」は花巻電鉄のような(都電のような)造りの車両かもしれない。
ちなみに岩手軽便鉄道は1915年~1936年、花巻電鉄は1918年創業だ。
賢治さんの銀河鉄道の夜は1924年~1931年くらいだから電気であってもおかしくはない。
それに「この汽車」が何両編成かも不明だ。だけど1両ではないだろうきっと。
軽便鉄道でも4~5両くらいあったようだ。電鉄の方は2両みただい。
車内で物語ができそうなのはやはり4、5両必要かもしれない。
この銀河鉄道には線路はあるのだろうか?
線路という記述と、音については何か所か出て来る。
    気がついてみると、さっきから、ごとごとごとごと
    ジョバンニの乗っている小さな列車が走りつづけていたのでした。
とか。
    そこから流れて来るあやしい楽器の音ももう汽車のひびき
    風の音にすりらされてずうっとかすかになりました。
あるいは、
    ごとごとごとごと、その小さなきれいな汽車は、
    そらのすすきの風にひるがえる中を、天の川の水や、
    三角点の青じろい微光びこうの中を、どこまでもどこまでもと、
    走って行くのでした。    
とかあるので、ごとごとと結構騒音を出しているらしい。
また線路というのは
    そのときすうっと霧がはれかかりました。
    どこかへ行く街道らしく小さな電燈の一列についた通りがありました。
    それはしばらく線路に沿って進んでいました。
どうやら銀河鉄道には線路があるらしい。
銀河の中を走る路線図があるのだろう。
その路線図をイラストを交えて描いた人がいた。たぶん日本で最初にそういうイラストを描いたのだと思う。その路線図にはジョバンニとカンパネルラが乗った列車の路線図が詳細に描かれていた。その人はそのときまだ学生だった。その後その絵と似た絵を作って公表した人がいたらしい。