1/30/2022

1972年のクラブの分裂

 クラブというのは大学の音楽サークルのことだけれど、
1970年に有志達が作った音楽サークルがあった。
部員は100人以上いた。私は創設時にはいなかった。
たぶん2,3か月遅れて入った。

2年間は様々な活動をしていた。コンサートや合宿など。
1972年に部室のある学生会館が活動家のセクトに占領され
サークルはそこを出ないわけにいかなくなった。
学園祭は教室での討論会となり、その時の部長がセクト寄りだったため、
その方針に従えない人たちが辞めて行った。
・・・と言っても辞めた方が多いのだけど。
残った人達(10数人)は今までのサークルの名前をひきついで
やって行くことになった。
出て行った人たちは新しく名前を付けたサークルをやって行くことになった。

思うにこの時辞めた人は、ほとんど元のサークルの創立メンバーだったのだから
「いいけどお前らその名前は使うなよ、新しく作れよ」と言えたと思うのだけど。
それはせずに新しい名前のサークルを作った。そのサークルは今でも継続中だ。

問題はこの年の学園祭で演奏するはずだったのが全部討論会に
なってしまい演奏会が出来なかったことだ。
つまりその年で最後の学園祭という人も多数いた。
その恨みを今でも、というか非常に根深く、持っている人が
少なからずいること。
元のサークル名でやって行った人達は十人程度だけれど。

今ならLINEやメールで連絡しあって、どこかで卒業コンサート
をやろう!とかいうことになったと思うけれど、
当時は部室が無いと連絡は電話(家電話)だから
スムーズには行かなかったと思う。

問題の部長はサークルには来ずセクトの方の活動をしていたらしい。
それで部長無しでたぶん2年は続けていたと思う。
私もその合宿の荷物運びを手伝ったりした。

その前に、元のサークルが分裂する前に私(と他2人)は
そのサークルを辞めていた。だからその分裂の時には
既にいなかった。
それがまた誤解を生んでいた。
つまり私達3人は「あっちの」メンバーなんだろう、
と思われていたことだ。

私達は全然関係なく藤沢や湘南で活動していたのだけど、
時々その新サークルの人に会うとどうも変な雰囲気だった。
つまり「お前はあっちの人間だろう」ということだ。
私はその分裂の時を知らなかったから、わけがわからなかった。

もうずっと後になって私はその新サークルの創立メンバーと
話をして誤解が解けた(かもしれない)。
でもその時の恨みはほんとに根深い。
ちょっとしたことでそれが出て来る。

分裂時に部長をやっていた男は数十年後の同窓会に現れた。
全然平気を装っていたけれどぎこちなかった。
周りの人達(つまり分裂させられた)も笑顔を装っていた
けれど、きいてみると後で「なんであんな笑顔でいられるの?」
とか言っていたらしい。

その問題の部長はクラブが始まった頃やってきた。
物静かであまりしゃべらないので私が最初の”仲良し”になった。
合宿の写真にも隣同士で写っている。
その頃デモや集会に行っていたことは知っていた。
私はべ平連系の集会しか行かなかったので一緒になることはなかった。
でもクラブの先輩の中には私が過激派だと思っていた人がいた。
それも後の誤解の元かもしれない。

たぶんもうその軋轢が埋まることは無いだろう。
当時のクラブの人にメールするときも細心の注意を払って
文章を書かなくてはいけない。
今でもそうだ。