3/31/2024

父の誕生日

 私の父の誕生日は4月1日だ。
父が子供の頃はたぶんエイプリルフールというのは無かったと
思うけれど、一説には大正時代には既にあったというから、
ひょっとすると父はそれで馬鹿にされたかもしれない。
しかし学校はなぜ4月1日始まりではなく7日とか8日なのだろう?
年度というのは明治後期から4月から新年度になったらしい。
つまり4月1日から新年度に制定されたらしい。
なのになぜ7日とか8日なのだろう?
私は4月6日生まれなので学校で誰かに「誕生日おめでとう!」
と言われたことが無い。
ずっと後になって幼稚園や学校の誕生会はまとめてやることに
なったらしいけれど、私の時代にはそんなのは無い。
だから父もたぶんそうだったろう。
学校で誰かに誕生祝を言われたことは無いだろう。

最近フェイスブックに席を置いているので、人々の誕生日は
毎日のように伝えられる。
非常に面倒だ。
他人の誕生日が今日だと言われるのはまだいい。
無視してればいいのだから、しかし自分の誕生日であることが
大勢の人に伝えられるので、その内の何割かから
「誕生日おめでとうございます!」とか来るわけだ。
それが非常に憂鬱だ。
返事をしないといけない。
別にもう誕生日なんてめでたくもなんともない。
なんならほっといてほしい。
「どうもありがとうございます!これからもよろしくお願いいたします!」
とか書かなくてはいけない。
返事しないとまた何を思われるかわからないし。
いや、何を言われようとかまわないんだけど、
できることなら波風立てずに済ませたい。
なにかいい方法はないだろうか?

3/30/2024

夢の移住計画(続き)

 家をいろいろ調べていると面白い。
北海道は低価格の一軒家がけっこうあるけど、
静岡や伊豆も多い。
特に伊豆は山の上だけれどログハウス風のものや
小型の一軒家なんかもある。
いずれも自分で少し手入れしないといけないみたいだ。
もちろん高いお金出すなら綺麗な家はある。
だけどそれでは面白くない。
自治体によっては補助金が出るところもあるようだ。
ただし40歳までとか地元で職がある人とか
制約がいろいろある。
だから若いころにやっていればトータル100万近く
補助金がもらえたようだ。
そういうのはどこの自治体も自治体からは言わないから
こちらから申請しないといけないようだ。

歳をとるとそういうのも入らないわけで、
また賃貸だと孤独死とかされると困るから
貸してくれない。
それにもしも家を買ってしまう場合だけど、
登記簿とか念入りに調べないといけないようだ。
家と土地がほんとに手に入るのか確認しないといけない。
・・・ようだ。
それと買ってしまった場合だけど、もういらないから
売ろうと思ってもすぐに売れるものじゃない。
なぜなら格安の家を買っているわけだから。
そして売れなかった場合その固定資産税などは
永久に払わないといけない。
それは困ったものだ。
0円でも売れないかもしれない。
そうなったらどうしたらいいんだろう?
私が死んだ場合は?
登記を抹消してくれるの?
されなかったら誰かがそれを負の遺産として
引き受けなくちゃいけないのかな?

とかなんとか調べないといけないな

3/29/2024

同い年

 の友達はまだいた。
小沼だ。
化学科で5年間一緒だった。
ああ、小沼に会いたいなあ。
話すことは尽きないだろうな。
小沼はたぶん元々は私とそれほど変わらない学力
だったと思う。
しかし彼が私と違うのは勉強が好きだったことだ。
だから最終的には私は彼の学力の半分にも至らなかったと思う。
彼は学校を出て大手電機会社の関連企業に入り、
ドイツでの海外研修に行き会社に戻らずそのままドイツに
住んで、マックス・プランクの研究所に入った。
あれは面白かったなあ、当時はまだインターネットのセキュリティー
とか無頓着だった。
私が研究所の研究部署の人名リストを片っ端から調べて
彼の名前を見つけた。
しかしメールアドレスが書かれていなかったので、
その関連の人のメールアドレスが書かれている人にメール
を送った。
これこれこういう人がそちらにいるはずだから
このメールアドレスと私の名前を伝えて欲しいと書いた。
数日後に小沼からメールが来た。
漢字が送れないのでローマ字で来た。
そんなメールを何度かやりとりをして、そのままだ。
もうどこに居るかもわからない。

今調べたらマックス・プランクの個体物理のグループの
former memberにその名前があった。
その記述は2024年だけど彼がいつまでいたのかはわからない。

生きていて欲しいなあ。
そしてまた話がしたい。



音楽は量子か?

 昨日は妻のヘアーセットに付き合って、というか運転手のために
ショッピングモールへ行った。
待ってる間暇なので本屋に行った。
最近はあまり足を運ばなくなったので、本屋の本は
知らないものばかりだ。
棚を回っていると「量子力学の奥深くに隠されたもの」
とかいう本があったので立ち読みしていた。
面白そうなので買おうかと思ったけれど3000円もするので
やめた。だいたい量子関連の本にはろくなものが無い。
やたら難しい数式が並んでいるか、これは何かの新興宗教か?
と思うもののどちらかだ。
そのやたら難しい数式が並んでいる方だけれど、見ているうちに
そういえば学校で「量子化学」をとったことを思い出した。
思い出したけれど、良く単位が取れたなと思う。
確か珍しく結構いい成績だったように思う。
ああ、星先生と言ったな教授が。
それで本の数式を見ても「全く!!」わからない。
思い出そうとするけれど濃霧の向こうの遥か彼方だ。
単位を取ったのは何かの間違いだと思う。

それで式を見ているうちに「ああ、音楽も量子かなあ?」
と思った。
まあ波だから量子の要素を持っていることは確かだ。
ポンとかピッとか音を出した時のその波は一つの固まり
と見ることもできるだろう。
その固まりは「波」か「固まり」か?
と問えば「波だ」としか言えないのが悔しい。
まあ、そこを敢えて「固まり」でもあると言ってしまおう。
だって聞いてる方からすれば「ポン」って固まりで聴こえるから。
そうすると「波」でもあり「固まり」でもある。
ということになる。
その固まりの位置は波の関数の確率でしか示せない。
(わけじゃない)
「音楽」と言うからには一つの音波ではなく多くの楽器の
多彩な音から構成される。
そうなると量子だとか言っていられないけれど、
全部をフーリエ級数に変換すれば1個ずつの波になるから
その1個ずつは量子だとか言っても良くないですか?

今日も雨だ。
外はすこしモワっとする。
外気温が高さそうだ。












3/27/2024

金田一温泉と神居古潭

 さっき息子から電話があった。
引っ越しを予定しているのだけど不安になっているようだ。
この1年住んでいるマンションの居心地が悪くて鬱になっていた。
それは防音が弱くてわずかな物音にも臆病に
なってしまっているから。
それで彼は別の家(一軒家)を探していた。
見つけた家は2階建てで比較的新しくモダンな感じの家だ。
そこが環境もいいし両隣とも少し離れているので
音は気にしなくて済みそうな家だ。横浜の郊外なので
窓からの景色もいい。
息子はそこにしようと思っているのだが、今後のこと
で気が弱くなっていた。
だから、「とにかく前向きで悪いことは考えずに
やってみれば」と、いつものように無責任なことを言った。
だけど私より10倍くらい神経の細い彼には
とにかくアグレッシブに生きることが大事だと思う。
だから「何が起きてもお父さんがバックアップするから
そこの家に決めたらいい」と言った。
彼は親から金銭的な援助を受けるのが嫌いだ。
だけど万一の助けがあるとわかってれば
彼も前向きになるだろう。
彼は少しは元気になったようだ。

その私が自分勝手な能天気な人生を送っていた頃、
北海道と東京を車で毎年2回往復していた。
その頃は高速道路が無かったのでひたすら4号線を走った。
その中で印象的な道路がいくつかあった。
その一つが金田一温泉のカーブだ。 写真は1970年ごろ
下から登ってきて急に大きな左カーブになる。
冬場は気を付けないと最後の立ち上がりのところで
滑りそうになる。
いつも東京から走ってくると「ああ、やっとここまで来た」
と思った。
記憶では冬の印象が強い。

もう一つ北海道内で同じようなカーブがあった。
(というか道内はそんなところばかりだったけれど)
それは神居古潭だ。   写真は1970年頃
左下、札幌の方から上がってきて神居古潭で大きくUの字型に
カーブしていた。
ここも脇に川が流れていて独特の風景だった。
旭川に行くには必ずこのカーブを通った。
今はこのUの字のところはまっすぐなトンネルになっている。
金田一温泉の方も、今は川から離れてまっすぐな道路になっている。

今の方が走りやすいのだろうけれど、その土地の趣がなくなって
しまったのが残念だ。

3/26/2024

九十九里廃墟ロード

 Youtubeを見ていたら九十九里ビーチラインは廃墟ロードだと
いう動画があった。
そういえば昔、25年くらい前にそのあたりの友達の家を訪ねた
ことがあったのを思い出した。
その家がどこだったのか全く思い出せないけれど、
九十九里ビーチラインという名前には憶えがある。
その道沿いでなければまずわからなかったと思う。
ナビも無い時代だし。電話で住所を聞いてもどこだかは
まずわからなかったはずだ。

グーグルストリートで見てみたけど、全くわからない。
たぶんかなり変わってしまっているのだろう。
でもその家の雰囲気はよく覚えている。
当時で既に古い昭和の家で平屋だった。
庭があってその道路に出入口があった。
道路からその庭に車を乗り入れて停めた。
庭の脇にその家があり、昔の横開きの玄関ドアーがあった。
部屋は確か2間で、手前は洋間(床)にしていたように思う。
奥はちょっと薄暗くてエスニックなお香がたかれていた。

彼女とは沖縄で会ったきりだった。
沖縄で医者の旦那さんと暮らしていて、
ずっと手紙をやり取りしていた。
一度会いに行った。

宜野湾の丘の上の鉄筋コンクリート造りの白い家だった。
眺めが良かった。
それがどこだったのか今はグーグルで調べてもわからない。
私は海の近くのホテルに泊まっていた。
海まで歩いて行くとサンゴの海岸でところどころ
水溜まりがあり、色とりどりの熱帯魚が泳いでいた。
すごく綺麗だった。
彼女は車(ベンツのコンパーチブル)で沖縄を一周して
案内してくれた。
途中車を停めたガジュマルのある丘を覚えている。
そこから遠く海岸がどこまでも伸びているのが見えた。

その彼女はその後しばらくして離婚したと言ってきた。
なんでも慰謝料で1000万円もらったと言っていた。
それからしばらく連絡が途絶えて、次に手紙が来たのは
ハワイからだった。
海に近いコンドミニアムの彼氏の所に同居してるとか。
どういう関係なのか知らない。

それからまたしばらくして、今度は日本に帰ってきて
九十九里にサーファーの彼と一緒にいると言ってきた。
遊びに来てよというので行ったのが先の家だ。
どういう経緯で九十九里なのか知らないけれど、
海の近くでサーファーとヒッピーライクな生活をしていたらしい。

それからまたしばらくして連絡が来て、
これから刑務所の彼氏に差し入れに行くと言っていた。
確かではないけれど、たぶんグラスがらみだと思う。
それが最後の連絡だった。
しかし彼女から電話の着信があったのに気が付かず
出れなかったことが後でわかった。
それで掛けなおしてみたけれど、出なかった。
ずっと後になってもう一度電話をかけたけれど、
ぜんぜん関係ない人が出た。電話の持ち主が変わっていたようだ。

それが九十九里ビーチラインだ。



3/24/2024

Touch me in the morning

 ハーレーを飛ばして根室の岬から飛び出そう!
と思うので、5月に北海道に行くことにした。
全部予約した。
ハーレーは乗れないのでオープンカーを借りることにした。
とは言ってもいつも乗ってる車の屋根が無いだけだ。
長さもちょっと短いけど、色と仕様は同じだ。
なんでわざわざ同じ車種か?というと
単にこの色が好きで、たまたまこの色の車があったので
それを借りることにした。
これにもみじマークを付けて
根室の岬から飛び出そう!

3/23/2024

母と歩いたヒロシマの街

 ネガフィルムのスキャナーが壊れる前にネガをスキャンしておこうと思う。
母と行った広島の写真をスキャンした。
もうスキャナーが少しだめになっているのかなあ?
色むらがひどい。
フィルムがダメになっているのか?
いつか新しいスキャナーを買ってやってみようと思う。

母は広島にいたことをずっとおしえてくれなかった。
知ったのは確か私がもう30歳も半ばを過ぎてからだったと思う。
母はあの日から一度も広島には行っていないと言う。
それで「一緒に行ってみようよ」と言った。
確か1985年頃だったと思う。

ヒロシマまでは飛行機だったけれど、小さめのジェット機で
当時の広島空港は海側にあって、飛行機はかなり急なループを
描きながら高度下げて降りる。
母はそれをとても怖がっていた。


空港を降りると、母は「この近くで働いていたのよ」と言う。
それが東洋工業だったか三菱だったか私は忘れてしまった。
とにかくそこで働いていて被爆した。
爆心から2~3キロだったと思う。
母は全身に窓ガラスの破片を浴びて、時々体から出てくるのを
私に見せてくれた。
戦後もおそらく亡くなるまで体にガラスの破片があったと思う。
母の住んでいた家は観音町だったから、飛行場と家の間の工場で
働いていたのだと思う。

そんなわけで飛行機を降りてから空港から徒歩で歩き始めた。
途中母は独り言のように「ここに**があったのよ」と言っていた。
後でわかったことだけれど、太田川は戦争中と今ではその流れが
全く変わってしまっていた。
母は「変ねえ、この変に・・・・」と言いながら歩いていた。



川は昔は山手川、川添川、福島川、天満川、太田川とあったのだけれど、
それが太田川放水路と天満川と旧太田川の3つに分かれてしまった。
ところが母の住んでいた福島川の少し出っ張ったところは、
なんとそのまま残っていた。

「この土手の左側には昔は朝鮮の人達が住んでいたの」
と言いながら、「そうそうこの場所だった」と思い出していた。




写真はたぶん場所が前後しているけれど、
私は母の後をずっと歩いていた。


母は時々目をつぶって、「この右手に確か・・・があって」
と記憶をたどっていた。
私はずっと母の記憶の街を見ようと思っていた。


「このあたりはぜんぜん変わってしまっている・・」
後で古地図を買ってわかったことだけれど、
この時はまだ知らなかった。

一緒に歩いていて、母は今の景色を見ているのではないことはわかった。
母は終始記憶の中の街を見ながらあるいていた。

横河駅まで歩いた。
駅の前で「ここには大勢の火傷をした人がいたのよ」と言った。
それ以上詳しくは話さなかったけれど、
それで充分だった。
ぽつりぽつりと話す独り言を聴きながら、
私も母の住んでいた街があの時どんなだったか少しわかった気がした。

ああ、この写真は横川駅前だと思う。
それから祖父(母の父親)がよく行っていた緑井の
試験農場に行ってみましょう、ということになった。
横川から可部線に乗って緑井まで行った。
緑井駅は平屋の小さな駅だった。
(今グーグルで見たら今の駅も平屋で雰囲気はそのままのうようだった)

緑井の駅から母の記憶をたどって、試験農場(のあった所)まで歩いた。
場所は確かにそこだったけれど、その後別のものになっていた。
祖父は農業の指導員みたいな仕事をしていたようだ。
廣島県庁に務めていた。

母の妹はあの日、この可部線に乗って学校に行っていたので
無事だったそうだ。
母の一番下の妹と祖母とが家に居て被爆した。
その話をつい先日聞いた。
今生きているはその人だけだ。
その人は今でも家族や子供たちに自分が広島にいて
被爆したことを言っていないそうだ。
「それ言っておいた方がいいですよ」と、電話で私は気軽に言ったけれど、
あの当時はとんでもないことだったと思う。
それをそんな風に偉そうに言ったことを後悔している。
とにかく、祖母と妹さんは家に居たのだけど、
奇跡的に何か大きなものの陰に居て、二人とも無事だった。
まだ小さい頃だったのでそれが何だったか覚えていないそうだ。


試験農場の場所は水道局の浄水場になっていた。
母は時々父に連れられてその試験農場に行ったようだ。
いつごろに浄水場になったかわからないけれど、
母はちょっと寂しそうだった。

それから市内に入って記念館に行った。
母はドームはあまり見たくないようだった。
母は自分のカメラを持っていたけれど、確か写真は撮っていなかった
ように思う。

こうやって写真を見ると、母は大きなカバンをずっと持っているけれど、
なぜ私はそれを持ってやらなかったんだろう?
たぶん私も飛行場から自分のカバンを持って歩いていた
とは思うけれど、
今にして思えば無理をしてでもカバンを持ってあげればよかった。

この3本ならんだ中州の一番左の所に住んでいたのだけれど、
この時母は今はこれとは全然変わっていることに気が付かなかった。

母はあの日の前日、今は平和公園になっている材木町にあった
友達の家に行っていた。
その日は泊まって行くように言われたのだけれど、
仕事があったので家に帰ったそうだ。
そのまま泊まっていたら今の私は居なかったかもしれない。
「ここが友達の家」「名前もあるわ」と言った。
でも私はその名前を忘れてしまった。
この写真の真ん中あたりだと思う。
その友達も家族も全員亡くなったそうだ。
母は展示物はあまり見ていないようだった。
横目で見ている感じだった。
ただ上の写真の所(石板に彫られている)ではずっと見入っていた。


次の日は宮島に行った。
宇品からフェリーだった。
結構長かったように思う。
「あの時は宇品から島の方に避難した人もたくさん居いたの」
母が言った。





宮島ではあまり話をしなかった。
私は宮島は初めてだったけれど、母は何度も家族で来ていたのだろう。

次の日は帰る日だけれど、その前にもう一度家のあたりを見たいと言うので
タクシーで回ってもらうことにした。
寡黙な運転手だった。
観音町を見ている時に川向うが見えた。
そこで母が「己斐の方の三瀧寺に行ってみたい」と言った。
運転手に行ってもらうよう言った。

観音町から己斐(こい)へは橋を渡る。
その途中だったか爆弾の話をしていた時、運転手が
「被爆されたんですか?」と突然話してきた。
「私も被爆したんです。小学校の時に」と言う。
それからその時のことを話始めた。
校庭にいたけれど、何かの陰になって助かったと言っていた。
それから三瀧寺に着いて運転手も一緒に歩いた。


母が「ここには避難してきた人が大勢いて・・・」と話した。
運転手さんが当時いたのはそこからは離れた場所だったようだった。
そういえば母は何故その三瀧寺に行きたかったんだろう?
聴き忘れた。
恐らく、家が川向うだったので祖父が亡くなった時この寺で
荼毘に付したのではないだろうか。
それは8月7日か8日くらいだっただろうか。
いやもっと後かもしれない。

祖父はその日、朝に自転車で廣島県庁まで出勤した。
恐らく着く前に県庁(旧)の近くで被爆したのだと思う。
ということは爆心に非常に近い場所だ。
祖父はそこから壊れた自転車にもたれて
動けるのが不思議なくらいの火傷を負っていたのに、
家まで帰って家族全員が無事なのを知ってから
亡くなったそうだ。

また大学へ行っていた母の弟は爆弾のことを知り
急いで戻って来たそうだけれど、確か東京の大学だった。
たぶん3、4日はかかっただろう。


その後、祖母と私の母(長女)と二人の妹と大学生の長男で
どうやってきたのか私はしらない。
とにかく茨城の故郷まで戻ったのだろう。
そういう話も聞かなかったのが悔やまれる。

母は私と二人で行った旅行の2年後に
妹さんと二人でまた広島を回ったそうだ。
その時は私と母が広島市内の古本屋で手に入れた
「被爆前の廣島」という大きな地図を持って行ったそうだ。