前にも書いたと思うけれど、アメリカの交通事故の調査をしてその本を
書いている人がいた。その人が言うには「事故を起こした人のその日の
行動を調べると、皆その事故に遭うために一日を過ごしていたように見える」
と言っていた。
その言葉が前から気になっていた。
つまり、それは誰でもどんなことでもそういう風に見えるんじゃないか?
ということ。事故に限らずその日の起きたことはその人がその日を
過ごした結果に過ぎないんじゃないか、とも思う。
しかし自分が交通事故や嫌な出来事に遭遇した時に真っ先に思うのは
「ああ、今日は来なけりゃ良かった」と思うこと。
確かに途中であそこに寄らなければとか、家を出るのが遅れなければ
とか思う。その結果は運命だったのだろうか?
あるいは逆の場合もある。
途中で立ち話をしたために事故を起こした電車に乗らずに済んだ、とか。
そう考えると全ては「運命」のように思える。
それじゃあ「運命」じゃないのはどういう場合だろう?
たぶん全てのことを自分の意志で決めて他者の介入なしに物事を
決めて行くことだろう。
OK,朝決めた時間に起きて、決めた時間に朝食を取り、決めた時間に
車に乗り、決めたルートで時間通りに目的地に向かう。
それでも事故に遭うことがあるだろう。
それを客観的に見た場合、いや主観的であっても、「あたかもその事故に遭うために
一日を過ごした。と言うだろう。
それを「必然」と言うこともできるし「偶然」ということもできる。
どっちだろうと「なるようにしかならない」
ということは確かだ。
ニュースを見ていて、あの船に乗ったのは必然だったのだろうか?
と考えていた。
わからない。
前に同様の事故があって、それを思い出せたら、
乗らなかったかもしれない。
でもあの場所でその時「やめよう」とは私も言えないと思う。
あの社長は三途の川で遭難すればいい。
と思う。