12/06/2015

量子論的宇宙の構造

             

SFの世界でこの宇宙が誰かのコンピュータの中で動いている架空の世界だという話があるが、
それはちょっと違うように思う。
というのは、それにしてはあまりに良く(現実的に)でき過ぎているし、バグも無いようだから。
まあ、その世界があったとして自分達はその世界のバグに気づくかどうか?という疑問は
確かにあるけれど。私はそういう構造ではないと思う。

ところで亀と象はけっこう辛いんじゃないだろうか

私が思うにはこの宇宙があるのは、こんな構造じゃないかと思う。
我々の宇宙は言わばハードウェアで、それをその外側の「もの」が動かしている。
その「もの」というのが自然の法則(物理、化学、もそもろ)で、これはBIOSにあたる
この宇宙を直接動かしている基本的な法則だ。
我々の宇宙は光速度を周波数とするクロックで動いているから、宇宙のどこでも
光速度を超えて動くことはできない。
自然の法則がなぜこの宇宙の外にあるかというと、前にも書いたけれど、世界の
どこに行っても同じ自然法則が成り立ち、因果律も同じように働くから。
どう考えてもおかしいでしょう、手元の乾電池でLEDが点くのは電流が+からマイナス
に流れる(ということになっている)から。しかし40cm離れた所とか10km離れたところ
では逆であってもおかしくない。それが同じ法則が働くのはこの世界の外側で
時空を超えて働いているからだ。(まあ、当たり前なのだが)

その上層にあるのがカーネルだが、これは、まあ、OSに例えればあるだろうという
くらいのもので、ようわからん。
その上にユーザーインターフェイスがあり神様がマウスとキーボードをカチカチやる
ためにある部分。実際に神様がやってるかどうかは不明。
まあ、こんな感じでしょう。
科学者がいくら研究してもこの青い部分しか解明できない。
その外側は神学者にでも頼むしかない。

ところで「量子もつれ」(Quantum entanglement)だけれど、たぶんプログラムの最初の方に
量子ペアーはentanglementの状態にあること。とかなんとか型宣言しているんじゃないだろうか。
だからどんなに離れていてもペアーの状態にあって、どこかで片方がtrueだとわかると
もう一方はfalseになるのは、もう決まりきったこと。その決定は時空を超えているから
瞬時というか時間ゼロで決まる。

じゃあ量子はなぜ確率でしか現せないかというと、たぶんこの宇宙を動かしているクロック
にかかわることだからではないだろうか。
例えばシンクロスコープでコンピュータの中のクロックで動いているパルスを見た時、
トリガーの方向と閾値によって「1」にも「0」にもなる。
risingエッジで見ようとすれば正のパルスが見えるし、fallingエッジで見れば負のパルスが
見える。言ってることがよくわからないけど、まあそんなようなしくみなんじゃないだろうか。

量子の挙動というのはどうもこの宇宙の中で決まっていることじゃないように思う。
言いたかったのはこれだけかな。(どこが量子論だったのだろう?)

12/05/2015

コンピュータは人類を支配するか?

たぶんアシモフがロボット3原則を考えた時にはすでに人工知能が人間以上の存在になることは
予想できていたのだと思う。
その後の映画がSFの世界でもコンピュータが人間に対抗する存在として描かれてきている。
しかしコンピュータが人間を支配する構図はだいたいがコンピュータが自分の意思を持ち
人間以上の思考能力を持つということがその基本のように思う。
コンピュータが人間の自意識と同じような思考を持つことはそんなに難しいことではない
ように思う。感情にしてもプログラミングでそれらしいものを持たせることも十分可能だと思う。
いずれ人間と同じ形状で、人間と同じ意思を持つコンピュータあるいはロボットができるのは
時間の問題だと思う。

コンピュータが反乱を起すかどうか、それはわからないが、そうした方が自分にとって良いと
判断したらそうするだろう。それはたぶん2001に描かれたように人間がプログラミングした
プログラムの一種のバグによって起きるだろうことは十分考えられる。

でもそれは従来のコンピュータの概念の範疇のことだ。
量子コンピュータ、特に量子アニーリングによる方式のコンピュータが発達した時のことを考えると
従来のコンピュータの反乱とか言っているよりも恐ろしいことが起きそうな気がする。

量子アニーリング方式の量子コンピュータは現実世界のエミュレーションをして結果を出すような機械だ。「結果を出す」というのもちょっと違うかもしれない。要するに現実世界と同じような状況においてはどういう結果になるかを見るだけだ。
ようするに計算尺だ。
計算尺では計算した数値をセットした瞬間に(計算時間ゼロで)結果が得られる。
それと同じように人間の行動に対して十分な条件をセットしてやれば人間の行動を予測することもできるのではないだろうか。
そのコンピュータが(少なくとも)人間と同等の意思を持ったとしたらコンピュータの反乱といったものではなく想像できないような状況になりそうだ。

12/03/2015

羽田国際空港

私が初めてアメリカに行った時は羽田空港だった。
それからしばらくして成田が国際空港になり羽田は国内のみになった。
でも、最近はまた海外便も使えるようになったようだ。

昨日は夜中に目が覚めて眠れなくなったので、
コマツがアメリカに旅立った日のことを思い出そうとしていた。
あの日どういう風に彼に別れを告げたのか全く思い出せない。
いろいろなシーンとごっちゃになってどれが彼だったのかわからない。

しかし忘れないシーンがある。
彼が(たぶん)ゲートの向こうに消えてから私達は空港の屋上に行った。
そこで彼の飛行機が旅立つのを見送った。
私はフェンスに手をあてて見ていた。
そのうちたまらなく淋しくなって、嗚咽しながら号泣した。
彼が行ってしまった悲しみもあったけれど、何かが終わったという気持ちが強かった。
まるで下手な映画のラストシーンを見るように泣いた。

となりにいたモチが「ちょっと~止めてくださいよ~」と笑って言いながら
私よりも激しく泣き出した。
女性達がいた。誰だったのか思い出せないが、
私達の肩に手をあてて、みんなで固まって泣いた。

考えてみると、まだ22か23だった。
ああいう別れは人生で初めてだった。
私もすぐに学校を卒業して社会人になる頃だった。
あれが「青春」の一つの時代の終わりだったのだろう。


11/24/2015

数学と量子、もっと勉強しとけば良かった

久しぶりに本屋に行った。
しかも2時間以上同じところで立ち読みしていた。

だいたい数学は大学の1年で断念した。
量子力学も量子化学も単位は(確か)とったけれど全く理解していなかった。
量子力学って何だったんだろう?と改めて思った。
それで本屋に行くことにした。
量子に関したコーナーの本を端から眺めていた。
150冊くらいあった量子関連の本のうち基本的なことをちゃんと書いてあったのは2,3冊だった。
それの高い方の本を立ち読みした。
最初の方しか読めなかったけれど、シュレディンガーの方程式がどういう意味なのかまでは
わかった。

そうか、そういうことだったのか。と思った。
学生の頃は三角関数から虚数関数への移行について理解していたのだと思う。
しかしその後の数十年であれが一体何だったのかすっかり忘れていた。
高校の3年間、いや中学からの6年間で数学は公式を覚えて機械的に解くことしか勉強していなかった。だから大学に入って最初の数学(微積分学・線形代数)の内容がほとんど理解できなかった。それで自分はあいかわらず機械的に解くことを考えていた。
あの時単位など気にせずもっと「数学」を勉強すべきだった。

本屋から1冊、1番安くしかもちゃんと書いてある本を買ってきた。
それをまた最初から読んでいる。
三角関数と虚数関数の関係がすんなり理解できた。
何度も読めば自分で最初から解を出せるだろう、とさえ思える。

量子については今まで考えていたことに間違いが多かったのに気が付いた。
なぜ三角関数なのか。
だいたい「波」ではないだろう、と気が付いた。
ラザフォードの原子モデルは間違いだと教えられてきた。電子は雲の様に存在するとか。
改めて考えると結局あの原子モデルは間違えてはいないだろうと思う。
スリット問題にしても、あたかも波のような現象として現われるだけのことだ。
どちらにしても存在確率のことだ。
改めてスリットの現象を考えると、当然のように思える。
あれほど不思議な現象だと思えたのは何だったんだろう。

世界は数学でできているかもしれない。

11/19/2015

子供の頃に一人で観にいった映画

何だったろう?と思い出そうと思った。
たぶん「史上最大の作戦」だったのではないだろうか。
小学校6年の時にノートにヘルメットと海岸の絵を描いていたのを覚えている。
それともう一つよく描いていたのが騎兵隊の旗だ。第7騎兵隊とかの旗だ。
「史上最大の作戦」は新宿のスカラ座だ。前の方の席で午前中から夕方まで観ていた。

それと西部劇をよく観にいった。
それも新宿だった。
「荒野の決闘」(字が違う)とか「黄色いリボン」、「コマンチェロ」、「荒野の3軍曹」、「シェーン」、
「OK牧場の決闘」とか。
「遥かなる大西部」というのがあった「大いなる」ではない。ベンジョンスンが出ていた。
あと何だったかずっとカウボーイソングやウェスタンが流れている映画があった。

新宿の映画館というのは決して12歳の子供が一人で行って良い場所ではなかった。
遥かなる大西部という映画を観たのは3丁目から少し外れた地下の映画館だったと思う。
椅子に座っている人は少なく、逆に壁際によりかかって観ている人が何人もいた。
私は真ん中の席に座って一人で観ていた。別に何も起きなかった。
あとで聞いたらあの映画館はあぶないということだった。

最近はこのあたりの映画はYouTubeに全編アップされていたりする。
ひとつ勘違いをしていたことに気が付いた。
荒野の決闘では最後に保安官が彼女と別れるシーンで終わるが、そこで流れるのが
いとしのクレメンタインだった。保安官は一人で馬に乗って三姉妹の岩(メサ)に向かって
行ってしまうのだけど。彼女は一人取り残される。
「駅馬車」の最後はリンゴと彼女が馬車に乗ると保安官が石を投げて馬車を走らせてしまう。
その最後に流れる音楽は「いとしのクレメンタイン」だとばかり思っていた。
さっき聞いたら「金髪のジェニー」だった。

終わり方としては「駅馬車」の方が好きだ。
典型的なハッピーエンドだ。

11/18/2015

New York 1963, America 1968

やっと風邪が和らいできた。

アニマルズだ。
これを初めて聞いたのはいつだったろう?
アメリカでのリリースが1968年だったようだ。それはタイトル通りなのか。
これはFM放送で聞いた。アルバム全曲放送していた。
その時テープに録音していたのでそのテープを何度も聞いた。

その時は高校3年か大学一年の頃で英語はほとんどわからなかった。
でもこの歌では何箇所か聞き取れるところがあった。
彼らが始めてアメリカに行った時の心境を淡々と歌っている。
何度も聞いていると少しずつ聞き取れる部分が増えていった。
だから、なんとなくだがこの歌がどういう歌なのかわかったような気がした。
smilling face of unknown Bob Dylan
ゴミだらけのグリニッジ・ビレッジだ。
テープは引越しの時にどこかに行ってしまった。

ずっとあとになって私が初めてアメリカに行った時、この歌が突然浮かんだ。
しばらく口ずさみながらLAの街を歩いていた。
あの時は半分仕事だったのでLAでは一人で街を歩いた。

それから40年近くたって。
YouTubeでこの歌を見つけた。
そうか、こういうタイトルだったのか・・・と思った。
歌詞も検索したら出てきた。
そうか、こういう歌詞だったのか・・・と思った。

読み返してみるとあの頃雰囲気だけは受け取っていたのがわかった。
いい歌だ。と思った。

11/09/2015

Vanishing Point

風邪をひいた。
風邪をひくのも久しぶりのように思う。
去年まではほとんど事務所にいたので誰かから風邪をうつされることはほとんど無かった。
今年は家にいるし買い物にもよくでるのでうつってしまうのだろうか。

札幌で風邪をひいたときのことを思い出した。
ひどい風邪だった。
熱がひどかった。
アパートで一人で布団をかぶって寝ていた。
汗がひどくかった。
布団から顔だけだしてテレビを見ていた。
テレビでは映画「バニシング・ポイント」をやっていた。
半分熱でもうろうとしながら見た。
最後のシーンでなぜか思いっきり泣いた。
たぶんあの映画を全部観たのはあの時だけだろう。

考えてみると単なるカーチェイスの映画ではない。
なにかわからないけれど、あれが70年だったような気がする。

この笑顔がいい。
死ぬときはこの笑顔だ。



11/07/2015

後悔先になんとか

前に稲垣足穂のことを書いたけれど、稲垣足穂の分厚い本は確か全部読んだけれど、
覚えていることはほとんど無い。ただ、「失敗した」とどこかに書いてあったと思う。
その失敗したというのは昔出会った美形の少年と後年出会ってその老けた容姿に
ショックを受け「失敗した」と言ったのだと思った。つまりもっと前に親しくしておくのだった、
という意味でだと思う。

おなじようなことを私も先日思った。
昔の録音テープの中に札幌時代に入っていた札幌のフォークソングサークルのものが
あって、その音を聞いていて思い出した。
女性二人組みのデュオいて、そのうちの一人とはよく話をしたように思う。
その二人組みの声がすばらしい。
当時も彼女達の声がすごくいいと思っていた。
だいたいテレコを持ち歩いていくつかのライブを録音したのは彼女達の声を録音したかった
からだということを思い出した。

その音をあらためて聞いてみて、ほんとにいい声だと思う。
当時、もっとじっくり聞けば良かったと思う。
今は彼女達の顔も忘れてしまって、思い出せない。
でもテープに残った歌声はすばらしいと思う。



11/03/2015

量子コンピュータとSF 寝言(2)・・・(3か?4か?)

私が死んでしばらくすればアニリング方式かレーザ方式かわからないけれど、
量子コンピュータはまともに動くようになるだろう。きっと。
ひょっとすると量子ゲート方式の方が画期的な発展をするかもしれない。
しかし、量子の挙動がコンピュータの動きにかかわってくると今まで考えたこともないことが
起きたりしないだろうか。

いつだったかNHKの番組で乱数発生器が人間の活動で乱される(かもしれない)と
いう内容の話をしていた。あれが本当だとするとかなり面白いのだが。
つまり確率に人の意識が影響を与えることができるとすると、いわゆる超能力も
ウソではないかもしれない。
私自身はある種の超能力は存在すると思っている。
例えば「予知」というのはあると思っている。
存在するというと御幣があるかもしれないが、「あたかも予知したようなことが起きる」
という現象はあると思う。
決して「起きた事が、予知していた事だった」ということではない。
あくまでも「予知」が先だ。
これは何度か経験がある。 
山道を歩いていて、角を曲がると池が見えるるはず。と思って歩いていくと池があったり。
それは予め地図で見ていたからだとも考えられるが。この時は一人だった。

アパラチアの山道を友人と歩いていた時に、友人に「屈強な男達が向こうから走ってきたりして・・」
と言って笑っていたら、向こうから学生達が10人くらい走ってきた。

襟裳の県道を夜中に走っていて、「犬だ」と声を出して言ったら見えない角を曲がった先の道の真ん中に犬がいて、知らなかったらひいていた。この時も友人が隣に乗って驚いていた。

仕事で友人と名古屋に車で納品に行った途中、中央道を友人がいい気になって走っていたので、
「この先、道路が規制されて1車線になってネズミ捕りしてるぜ」と私が言ったら、友人が笑って
「こんなとこで規制するわけないじゃん」と言った直後のカーブの向こうでパイロンが並べられ、警官が旗を振っていた。

こまかなものを入れると数え切れないけれど、全部「私にしか」わからないことだ。
だから『私は』予知はあると思っている。

それで、量子コンピュータだけれど、考えられる在ったらちょっと怖い現象だけれど、
「コンピュータの判断結果を考えると現実はこうなってなければいけないはずだ。」
というようなことは起きないだろうか。
つまり前後が逆になるようなことはないだろうか。
計算によると猫は死んでいるからアルファー線は出ていたはずだ。
と言ったような・・・寝言。












11/02/2015

ガラス細工と量子コンピュータ

学校の卒業研究の時は神埼先生にカラス細工を教え込まれた。
細い管を細工するのはだいぶ上手くなっていたと思う。
でも大きな器具は先生まかせだった。
私はよくガラス製の溶融塩炉を壊した。
壊したと言っても、まだガラスが熱いうちに真空ポンプで引いてしまって、つぶして
しまったことが何度かあった。
同じ失敗を何度もするのが私のようだ。

その大きなガラス容器を先生は新しい大きなガラスガラス管をつないで補修した。
補修した後は弱い炎をあてて何時間もかけてゆっくりと冷やした。
ガラス加工には熱処理(アニーリング)が必要だ。
600度以上のガラスをゆっくりと時間をかけて冷ましてやると丈夫な修復ができる。

量子コンピュータはどうやって「計算」するのだろう?と思っていた。
ちょっと読んでみた。
どうやら「計算」をするのではなく、「自然のなりゆき」のようだ。
ガラスや鉄を真っ赤にしてからゆっくり冷ますと安定なものにおちつく。
それに相当することをやらしているようだ。

今のところ「最適化問題」に限定した「計算」しかできないようだ。
つまり熱くしておいてアニーリングすれば安定なところ(最適なところ)に落ち着く。
それと同じ原理を利用しているようだ。

たぶん、私を含め、大多数の人はそのハードウェアがどのように動いているのか
理解すらできない。デジタルコンピュータの黎明期もそんなもんだった。
CPUとその回りのICが何をしているのか知ってる人はわずかだった。

量子コンピュータはその動きだけ見てみるとアナログコンピュータににている。
サイン波に乗数を掛けると勝手に波は大きくなる。
量子コンピュータもあの中では計算やシミュレーションが行われているのではなく
自然現象というか自然の成り行きで結果が出てくる。
そんなもののようだ。

量子コンピュータでグラフィック処理ができるようになる頃まで
生きていられるだろうか。
もし今のコンピュータのように使えるようになったら、
本当にコンピュータの中に一つの世界が作れるかもしれない。


10/31/2015

スーパーストリングス理論

世界がどこかの管弦楽団の演奏している旋律だとすると。
スーパーストリングスだ。超弦楽ね。
あっちのスーパーストリング(超ひも)理論はよく知らないけど。

しかしNHKで時々やっているコズミックフロントや数学理論の特集などをみても、
結局何もわかっていないんじゃない? と思う。

世界が人間の意識の上で成り立っているという考えはちょっと無理があるような気がする。
つまり人間がいなかったら世界も無い。
というのは動物にとって失礼だろう。
人間が他の動物から進化してきたとすると人間のいなかった時代もあったわけだから。

それから世界は自分の意識の中だけで存在する。という人もいるね。
自分が死んだら世界も終わる。
自分が死んだら他の人の意識なんて意味がなくなる。

あるいは世界は誰かのコンピュータの中の世界でしかないとか。
これはある程度賛同できるけれど、前にも書いたように”いわゆるコンピュータ”ではないだろう。
それに極めて似たシステム。
たぶん。
光がシステムクロックのような役目をしている。
だから光を超えることはできない。
とかなんとか。

時々、チューナーが合ってると言っているのに、
どうしてもチューニングが合わない時がある。
少し落としたり、上げたりした方がしっくりくる。

昔はチューナーが無かったから音叉で合わせていた。
当時の録音を聞いてみると、
「合ってねえなぁ~」
あれでよくやっていたと思う。









10/28/2015

誰かが弾いているピアノの旋律

要するにこの世界は誰かが弾いてるピアノの旋律のようなものなのだろう。
我々は旋律だ。
旋律にとってそれを誰が弾いているかを知ることはできない。
ただそれがある決まった法則によって流れていることは知ることができるかもしれない。
一つ一つの音が他の音とどのような関係にあるのかはわかるだろう。

旋律にとってピアニストは別次元のものなのだと思う。
この関係はコンピュータプログラムとプログラムによって動いているオブジェクトの関係と同じだ。

あるいはもっと大きなものかもしれない。
壮大なオーケストラによって奏でられている終わりの無いシンフォニーかもしれない。
私はその音楽の中のコントラバスの低い旋律の一部かもしれない。
あるいはピッコロの鋭く響くたった一音かもしれない。その音はそのままコンサートホールを
突き抜け消えて行く。まだ交響曲は終わっていないのに。

そういえば「天上の音楽」という曲があったなあ。あれはヘンデルだったかな?
いや、ヘンデルは「水上の音楽だ」。
モーツアルトだったかな?まあいいいや、
音楽と世界の構造の類似点に気が付いたのはきっとはるか昔なんだろう。
たぶん古代の哲学者の方がわかっていたのだろう。