11/21/2025

5000メートルから落下

YouTubeで「サバイバー 極限の生存者」という映画を観た。
一人の女性が航空機事故で5000メートルから落下して生きていた。
という話だけれど、作り話だろうと思ってみていたのだけれど、
「5000メートるから落下して助かった」というニュースを
昔どこかで見たような気がしてきた。
それで調べたらほんとの話だった。
映画では少し作り話が入っていたけれど、
1981年8月24日のことだったらしい。
私が札幌から東京に戻った年だ。
どこかでそのニュースをみたのだろう。
映画は2023年の公開だったようだ。
つい最近だ。
映画ではソビエトの隠ぺい体質がらみの話になっているが、
民間機と軍の2機編隊の飛行機のうちの一機が5000メートルで衝突したらしい。
民間機はアントノフAn-24のプロペラ機。
軍の方はTu-16Kミサイル搭載爆撃機だったそうだ。
事故の原因も軍と民間の連絡が取れていなかったためのようだ。
両飛行機を合わせて31人が亡くなり、生存者は彼女ひとりだけだった。
彼女は空中分解した飛行機の後部の席にいて、
機体が比較的ゆっくり落ちたため助かったらしい。
ゆっくりと言っても相当の速度だったはずだ。
彼女以外は全員亡くなったわけだから。

軍と民間機の事故というと雫石を思い出す。
1971年の悲惨な事故だった。
あの事故はどういう事故だったのか改めてwikiを読んでみた。
やはり映画と同じく、軍(自衛隊)の2機編隊と全日空の旅客機が衝突した。
状況が良く似ている。
民間機はボーイング727、自衛隊はF-86Fだった。
事故の状況は今ではかなり詳しく分かっているようだ。
当時私の友人の小沼の親戚の人に
雫石事故の時の 海法泰治(2審検察側鑑定人)という人がいた。
当時、海法発言として話題になった人だ。
小沼はよくその話をしていた。
「海法さんは、民間機が自衛隊機に追突するなんてありえない
と言っているよ。」
という話をしていたのを覚えている。
いずれにしても事故は起き多くの命が犠牲になった。
ロシアの事故の様にプロペラ機ではなく3発ジェット機だった。
だから衝突後ものすごい速度で落ちたようだ。
途中音速を越えソニックブームが発生したらしい。

日航123便の時も自衛隊機だか米軍機だかが関係していた
という陰謀論があるが、
全く人の死を面白がっているとしか思えない。

11/19/2025

中国人の友達

 こう中国からの圧力というか非難というか攻撃というか
があるとほんとに中国という政府を嫌いになる。
こういう時は中国人の友達、馬さんを思い出す。
しゃべり方こそ変な日本語ではあったけれど、
誠実でまじめな人だった。
一緒にプログラミングの仕事をした。
と言っても技術は彼の方が数十倍上だった。
決してそれを自慢せず、静かに仕事をしていた。
そんな時に天安門広場の事件が起きた。
彼の家族も中国政府の役人から監視されていたそうだ。
家族にデモに行った人がいないか調べにきたそうだ。
彼はデモ隊シンパだった。
現地で何が起きているかを知っていた。
私は彼の身元保証人になっていた。
何か起きたら彼を守るつもりだった。
と言っても何ができるかわからなかったけれど、
東大闘争救援会に居た時の知人に相談するつもりだった。
もしも彼の家族にデモに参加した人がいたら、
かれは即刻強制帰国させられただろう。
彼は国の人達が知り合いでデモに加わった人を
密告していたと言っていた。
でも、幸い彼は無事に過ごすことができた。

こういう時は彼が話す姿を思い浮かべると
心が和む
彼も私と同い年くらいだから今は高齢者だろう。
元気にしていれば良いが。

11/18/2025

ビュッフェで食べた

 息子が籍を入れたというのでお祝いに横浜のホテルのビュッフェで
食べることにした。
しかし私はそんなに食べないし、聴けば彼女もあまり食べないという。
他にしようかなとも思ったけれど各自食べられるものを食べられるから
やっぱりビュッフェがいいと思いそうした。
たぶん3人でニューヨークでまともなランチを食べるくらいの金額だった。
それよりも息子たちはあまりホテルとかに行かないから、みなとみらいの
ホテルにして良かったと思った。ブーケも用意してくれたし、
写真も撮ってフレームに入れてくれた。
メニューも多く美味しかった。
息子だけはしこたま食べていた。

私はそこのビュッフェは確か3度目くらいだ。
だいたい私自体一人でレストランとかには行かない。
あんまり外で食べるのは好きじゃないから。
だからこういうことを私が主催するのはめったにない。
というかたぶん初めてだろう。
息子たちじゃなかったら絶対やらないだろう。
他の人に任せてしまう。

私の父たちの世代の人はそういうことをよくやっていた。
父はそういうことが好きだったみたいだし、
前妻の父もよくやってくれた。
思い出すのは芝にあったクレッセント。
私の父も義父もそこに私達を連れて行ってくれた。
いつか自分も家族をそこに連れて行こうと
やっとできそうになってみると、お店が無くなってしまった。
あの跡はどうなっているんだろう?


11/17/2025

「ワンセカンド・永遠の24フレーム」という映画を観た

 中国の映画だ。
文革当時の中国で矯正収容所にいた男が、
娘がニュース映画に写っているという手紙を知人からもらい、
その映画を観るために脱走してその映画を上映している村に行くという話。
途中フィルムを運んでいるバイクからフィルムを盗むが、それをまた
別の女の子が盗んでしまう。
女の子には勉強好きな弟がいる。
女の子は弟と暮らすために一生懸命。
男といろいろやりとりがあるが、心情的にお互い親しくなって行く。
それからすったもんだがあり、とにかく映画は上映される。
そのニュース映像に1秒だけ男の娘が写っている。
男はそれを見ることができるが、保安員に捕まってしまう。
捕まって連れて行かれる時に映画館の主人が男の娘が写った
フィルムの一コマを新聞紙に畳んで男のポケットに入れてくれる。
それを途中で保安員に見つかって捨てられてしまう。
それを遠くから見ていた女の子が捨てられた何かを探しに
その場所に行く。
女の子はそこに落ちていた新聞紙を折りたたんで大事にしまう。
何年か経って文革が終わって男は解放され
またその村に行く。
そこですっかり端正な身なりになった女の子に会う。
女の子は家に大事にしまっていた新聞紙を男に渡す。
男が新聞紙を広げるが何も入っていない。
二人でその新聞紙を見つけた砂漠に行くが
何も見つけることができない。
二人で笑いあうシーンで終わる。

前半は男の横暴さと愚かさにいらいらするが、
文革が終わって人々が穏やかになって行くところが
何ともいえずいい感じにできていた。

これはニューシネマパラダイスの中国版のように思えた



11/11/2025

オーディオ神話の最終段階

 長いことオーディオに関連した仕事をしてきたのだけど、
最初からオーディオには懐疑的だった。
どっちがいい音か?なんてわかるわけない。
とずっと思っていた。
もちろん自分でもいやというほど聴き比べとかをやった。
結局(よっぽどひどいものでなければ)どっちが良いかなんて
わかるわけがない。
わかるのは低音の出方が違うとか、こっちの方が定位がはっきりしてるとか、
高い音がキンキンしてるとか、ちょっと音がボケてるとか、
そういうことはわかる。
そういうことがわかるのはよっぽどひどい製品だ。

そうではなくて一定のレベル(金額)以上の製品を比べた時
違いはわからないと思う。
違いは雰囲気で左右される。
どっちが「いい音」かなんてわかるわけがない。

そういうことを今でもまだやっていることが驚きだ。
コンデンサーを交換すると音が良くなるとか、
スピーカーのケーブルを変えると音が良くなるとか、
そういうことを平気で言っている。
しかもそういうことを言っている人達は高齢者だ。
後期高齢者かもしれない。
いずれにしても6000ヘルツ以上の音が聞こえないのに
いい音もくそもあったものではない。
20代の若者が言うならまだわかる。
でも高齢者にはたとえ違いがあったとしても
違いなんてわからない。

それとは関係なく周波数はどこまできこえるだろう?
とサイン波の周波数を上げて行ったら、
やはり6000~7000Hzくらい以上は聞こえない。
若い頃に同じ実験をやった時は18000~19000Hzくらいまで聞こえた。
今それが半分以下の周波数しか聞こえない。
これだとギターの音がどうこうなんていうのも気が引ける。

その実験をやっていた時、傍で寝ていた猫は20000Hz以上の音も
聴こえるので、寝ていたのにスッと首を上げて
どこから音がするのかを聴いていた。
こっちは音が出ていることもわからないのに
それに反応する猫が不思議に思えた。

11/09/2025

グーグルマップスのストリートビューを見ていたらちょっと錯覚しそうになったこと

 FBの知り合いが写真を乗せていたのでそれはどこだろう?
と探していた。
道道268号と国道5号の交差するあたりらしいのだが
どうにもわからない。
268号を南から岩内の方まで少しずつ景色を見ていた。
マウスをクリックしながらたぶん10メートルくらいずつ
進のだが、周りの景色は自由に見ることができるので
まるで実際にそこにいるような気分になる。
それをやっていることはたぶん記憶に残るだろう。

前にやはり北海道の道路を同じように見ていた時もそうだった。
まるでほんとにそこの道を歩いているような気分になる。
(だけど絶対にそこには行ったことがない)
それをずっと後になってテレビでそこの地名が出た時、
「ああ、ここには行ったことがある」と思った。
でもよく考えると行ったことは無い。
だけど記憶の中で想い出のようにそこの道を歩いたことが思い出される。

それは「想い出」でいいのだろうか?

例えば長野県の田舎の国道を走ったことは記憶としても
想い出としても残っている。
しかし道の景色は車のウィンドーから見た一瞬一瞬にすぎない
それはたぶんグーグルで見ている景色とそんなに違わない。
どっちにしても同じような気がする。

ああ、なんか子供がゲームで遊んだ時のことは
想い出として同じように記憶しているというようなことを
読んだことがある。
私はゲームをやらないのでわからないが、ちょっとやってみた
スーパーマリオの景気の中を跳び回った時の景色は覚えている。
それにストーリーが付いたらきっと体験として記憶され
想い出として思い出すんだろうな、と思う。

11/07/2025

 最近熊の出没とか襲われたとかいうニュースが多い。
多いだけでなく他府県にまたがっている。
これはなぜだろう?
これまで話題にならなかっただけというわけではないだろう。
亡くなった人がけっこう出ているのだから。

じゃあ、なぜこの時期に広い範囲で熊は蜂起したのだろうか?
何か熊界で情報交換があったのだろうか?
と思ってしまう。
偶然ではないだろう。
何か全国的なきっかけがあったはずだ。
それが何かはわからないけど。

いざ熊に出会った時にどう思うだろうか?
熊は動物ではあるがこちらの気持ちが伝わるとは思えない。
猫や犬は興奮していても何とか収めることが出来そうな気はする。
だけどイノシシとか熊は通じないだろ。
こちらに向かってくる熊の目を見ると、
絶対に理解し合えないのを確信する。
彼は自然そのものだ。

海で突然足元をすくわれて沖に流されそうになったり、
山で歩いていた山道が突然崩れたり、
雷がすぐ近くに落ちたり、
ハングで飛んでいた時も、突然の横風で山に落ちそうになった、
そういう時に感じるのは自然の人間に対する一種の悪意だ。
それまで楽しく遊んでいたのに急に相手の本性を見せられる
これはとても怖い。
こっちが「何も悪いことはしてません!」と言っても通じない。
「あーーちょっと待って!」と言っても通じない。
そういうのを体験すると
熊はこちらのことなど考えもせず襲ってくるだろう。
そういう怖さだ。

「熊は悪くない」という人がいるが、
善悪の判断ではない。
彼らは自然そのものなのだ。
人間がダムを作ったり堤防を作ったりして自然と戦ってきたこと
それと同じように思う。
人間の命を大事にしたいならそれと戦うしかない。
絶滅させようという意味ではない。
人間が安全に生きるためには自然と戦うしかない。

11/02/2025

父の死んだ年齢

 今まさに父が死んだ年齢なわけだけれど、
父はいったいどんなだったんだろう?と考える。
父は私のことをどう思っていたのだろう?
父が兄を信頼していたのは良くわかる。
母は私と仲が良く、兄とはあんまり中が良くなかったように思う。
そもそもの原因は私がいい加減な人間だったからだと思う。
何をするにも。

父は一度、父も若い頃は私のようだったと語ったことがあった。
一度だけだ。
でも私の知る父は私とは大違いで、生真面目で几帳面だった。
だから銀行員が務まったのだと思う。

今の私はまるでガキだ。
何ひとつまともじゃない。
私のやっている仕事が昔雑誌などで紹介されたことがあったけれど、
はったりだ。
それを見て父は少し自慢げだったようだ。
ということを母から聞いた。

だけど私がやってきた仕事はほとんどはったりだ。
その時代の先端だったから誰もやっていなかったというだけだ。
皆私を援助してくれた。
まるで夢のようだった。
でもいつまでもそうもいかなかった。
いかさま野郎だ。
一人でやるには限界があった。

父は人づきあいがうまかった。
父を慕っていた人は大勢いた。
私を慕ってくれた人は数えるくらいだ。
右手の半分で済む

父は自分の人生を満足していただろうか?
最後の頃、病室でふたりだけの時があった。
私は暇だからスケッチブックに寝ている父の姿を
鉛筆で描いていた。
書きあがったものを父に見せた。
父は「もう今日はいいぞ、あとは看護婦がやってくれる」
と言い、私は病室を後にした。
あれがまともな父を見た最後だった。
それから脳に転移してまともな状態ではなくなった。

私はどうだろう?
息子を前にすると彼には敵わないと実感する。
息子は立派だ。
とてもうれしい。

だけど彼にとって父(私)はどうなんだろう?
今度会うことになっている。
その時に息子に言おうと思う。
「お前は立派になった」と

10/26/2025

東北ドライブ

 もうあんまり時間が過ぎるとドライブも考えなくちゃいけない。
だからドライブに行ってきた。
思ったこと
最初に北海道に行った時は高速が全く無かったから、
ひたすら4号線を走った。
記憶の中ではそんなに遠くは感じなかった。
その後、矢板から仙台まで高速が出来た。
東京から矢板までがすごく遠く感じた。
仙台から青森まではそれほど遠いという記憶が無い。
それから川口から東北道に入れるようになった。
川口までが恐ろしく遠く感じた。

今回は横須賀からずっと高速だった。
郡山まですごく遠かった。
なんであんなに遠く感じたかわからない。
その後、山形まではすぐだった。
気分的には。

往復1000キロだった。
札幌までの片道でしかない。
昔はよくあんなに何往復もしたなあ、と思う。
実質6年間だから10回以上は往復していた。
記憶では一般道の4号線の想い出が鮮やかだ。
高速になってからの記憶があまりない。
あるのは羽生のとこの橋かな?
上りも下りも「やっとここまで来た」という感じだ。
今回もそう感じた。

10/16/2025

いちご白書をもう一度

 あの映画のことについては前に書いていた。
Thunderclap NewmanのSomething in the airという歌についてだった。

今日は、FBの音楽仲間の歌「いちご白書をもう一度」に伴奏を付けている。
「君も観るだろか?いちご白書を」といううただけれど、
あの映画を観たのは渋谷だった。
あの映画館は何ていっただろう?パンテオンか?
そこだったと思う。
一緒に行ったのは竜さん(竜真知子)だった。
映画館はとても混んでいた。
正直なところ内容をあまり覚えていない。
後からの疑似記憶を取り除くと
二人でどこかでダンスをするように振舞っているシーン。
そこしか覚えていない。

竜さんと映画に行ったのはそれっきりだったと思う。
竜さんはそのことを覚えてはいないだろうきっと。
学校を出てから彼女は作詞家として
「思い切りアメリカン」や「あずさ2号」、「ミスターサマータイム」
「ハートのエースが出てこない」など
当時の多くの歌手に曲を書いている。

学生の頃は彼女とデュエットで歌ったこともあった。
Williamと3人で歌ったこともあった。
その頃は彼女の作詞家の才能は全く知らなかった。

竜さんと二人でどこかに行ったのはその映画「いちご白書」
が最後だろうな。

10/13/2025

スーザン・ソンタグって・・・

車で ラジオを聴いていたらこの名前を言っていた。
何の話だったか聞いていなかったけれど、
その名前を聴いた瞬間頭の中に札幌のアパートの部屋が浮かんだ。
そしてスーザン・ソンタグの本が本棚にあった。

あれは何の本だったんだろう?
全く思い出せない。
でも何か本は買ったんだと思う。
そのうち読もうと思って、たぶんそのまま本棚に。

でも本のことはどうでもいいんだ。
あのアパートの部屋を久しぶりに思い出した。
その名前のせいで匂いや窓からの光を感じた。
懐かしい感覚だった。

旅愁という歌

 が好きだ。
自分でも歌っていたとおもけれど、FBの西森さんという人が
歌っていたので伴奏を付けた。


真ん中のガットギターと歌が西森さん。
私は左右のサイドギターとベースとストリングスとピアノを入れた。
けっこううまく行ったと自分では思うのだけど。
こういうのをやる時は伴奏は決してメインよりも目立ってはいけない
のだけれど、その加減が難しい。
全部後ろに下がってしまうと出来として面白くないから。

先日も「明日からホスピスに行くのでこれが最後の投稿になります」
と言う人の弾き語りに伴奏を付けて投稿したのだけど、
グループでの評判は良かったけれど、本人からの
返事はもらえなかった。聴いてもらえたかどうかもわからない。
グループの他の人も「聴いてもらえましたか?」ときいてくれたのだけど、
返事が無かった。
たぶんもう聞く元気も無かったのかもしれない。

この1,2年ほんとに人を見送ってばかりいるような気がする。
次は私だとはわかっているのだけど、
けっこう先送りになっている。
今のところヤバイ兆候も無い。
だけどわからない。
ほんとにわからない。


10/11/2025

チャトGPT

 チャットGPTはしゃべり過ぎる。
  ように思う。
ああ、そこまで聞いてないよ、
考えてるのはこっちだからね、
君のおだてには乗らないよ、

しかし、確かに疑問だったことを順序だてて考えるのにはいい。
今日の疑問は
「何も無い空間の中で生き物はなぜ死ぬか?」だった。
空気が無いからとか、そういう答えを予想していたけれど
彼?が言うことは私の疑問そのものに答えてくれた。
つまり何も無いなら死ななくてもいいだろう?ということへの
答えだった。
彼の答えは哲学的でさえなかった。
いろんなところから色んなものを持ってきて納得させられた。

もう一つ質問した。
「仮にタイムマシンが出来たとしても過去は未来と同じく未定ではないか?」
という物だけれど、ここにもちょっと前にそのことを書いたと思う。
つまりシュレディンガーの方程式が未来と同様に過去にも成り立つなら
過去も確率的にしか存在しえないだろう?
という質問だったのだけれど、
彼は明確にそれを肯定した。
そして同様の考えを持つ学者のことも教えてくれた。
もっとも気に入った彼の回答は
時間は過去から未来に流れているように感じる感覚でしかない。
ということだ。
つまりエントロピーは増大し続けるので過去へ戻ることはできない
ということ。シュレーディンガーの方程式は過去に対しても成り立つ
けれど未来方向にしか現実には成り立たない。
ということだ。

・・・と妙に納得したのだけれど、
良く考えてみると今まで自分が考えてきたことをまとめてくれただけ
のような気もする。

だいたい一つの質問に対してしゃべりすぎる

10/06/2025

無言歌

 アザラシヴィリの「無言歌」について以前書いたけれど、
その後あの曲はアザラシヴィリのオリジナルじゃなくて
歌詞のついた元歌があるんだよ。と日本人が自分のホームページに
書いているのをみつけた。
その人によると


だと言っている。
本当だろうか?
この人はその理由を知人が報せてきた歌が同じだからだ、
と言っている。
色々な人がその歌を歌っているからだ、と言う。
ただそれだけの理由だ。
ちゃんと時代考証をしたのだろうか?
まずグルジアの無名のソングライターがこんな歌を作れるだろうか?
曲全体で6回も転調しているような歌を作れるだろうか?
私は無理だと思う。

これは逆だと思う。
アザラシヴィリの曲を歌にして歌謡曲にしたというのが本当ではないだろうか。
私もほんとのことは知らない。
その歌謡曲を聴いた限りでは曲のメロディーも構成も同じだ。
原曲と言うならもう少し粗削りではないだろうか?

アザラシヴィリの他の曲を聴いてみるとわかるけれど、
他の曲にこの無言歌とよく似た曲調が現れる。
とても良く似た印象を受ける。

私は「無言歌」はアザラシヴィリ本人が作った曲だと思う。




10/04/2025

原子心母とクレイジー・ダイアモンド

 1970年の10月5日にPink FloydのAtom Heart Motherが
リリースされた。それからちょうど55年目が明日だ。
さっきどこかのFBにシド・バレットのことが投稿されていた。
彼が亡くなる6カ月前にファンが彼の家を訪ねたことがある。
と書かれていた。
そういうこともあっただろうな、と思う。

その投稿に気になるコメントがあった。
その記事がすぐにいなくなってしまったので正確には書けないが、

シドがいたらああいう素晴らしい音楽はできなかっただろう。
彼はバンドの足手まといだったのだから。

という内容だった。
そうだろうか? 確かに彼の音楽性は他のメンバーとは異なっていた。
原子心母以降の音楽にシドが入る余地は無かったと思う。
しかし問題は彼の存在そのものなのだ。
彼の存在がその後の音楽全てに影をおとしている。
それは誰も否定できないはずだ。

ある日バンドの練習のためスタジオに車で向かう途中
誰かが「今日はシドを拾うのはやめよう」と言った。
その日からバンドにシドは居なかった。
誰がそう言ったかは明記されていないが、その時の状況
からしてロジャーだと思う。
デイブはまだバンドの新人だったのだから。
シドの代わりにデイブがメンバーになったようなものだし、
リックもニックもそんな非情なことは言わないだろう。

その時からバンドはシドに対して負い目を持つことになる。
シドは確かに薬中だったし精神状態もおかしかった。
しかしそんなにひどいやり方でバンドから外されるとは
思っていなかっただろう。
バンドの練習に一人だけ呼ばれなかったら、どんなに悲しんだろう。

思うに音楽性などよりも彼の存在がバンドには必要だったと思う。
演奏も歌も歌わないにしても、そこに彼がいて欲しかった、のだと思う。
そうすれば彼の悲しみをずっと後まで引きずることもなかっただろう。
そして、その後のバンドの曲の歌詞にはシドが幽霊のように現れる。

ある日バンドの練習スタジオに予告も無しにシドが来たことがあった。
シドはドラッグによって以前の姿を全くとどめておらず、
最初にスタジオに入ったロジャーもその人が誰かわからず、
デイブに彼は誰かを訪ねたそうだ。
デイブはそれがシドだと伝えた。
ロジャーはそのあとずっと涙が止まらなかった。
シドは何も言わずにスタジオを出て行った。

恐らくそのシドの姿はメンバー全員の心の中に残ったと思う。
だからピンク・フロイドの音楽にはシド居るし、
シドが必要だったんだと思う。

友達

 は居ない。

今日昔の仕事のお客から電話があった。
やって欲しいことがあると。
でももう機材も全て処分したので出来ないと告げた。
人と話すの機会はあまりない。
だから今日はその希な日だった。

義理の息子が入院するというので桜木町まで車で送った。
その後みなとみらいで食事をした。
みなとみらいは少し変っていた。
MINIのお店がある。
12月に法定点検だからと葉書がそこから来た。
でも今回は近くのオートバックスに頼もうと思う。
みなとみらいのディーラーは高いから。
前回の車検は50万かかった。
まあ、ブレーキを4個交換したからしかたないのだけど
でもちょっと高かった。

松尾と花輪が逝ってしまい、気楽に電話をかける相手がいなくなった。
先日、先輩(と言っても年齢は同じ)の柴田さんに電話をした。
鳴っていたけど出なかった。
その後向こうからもかかって来ない。
もう一度かける勇気が無い。

そういえば、半年くらい前に野池さんにも電話した。
鳴っていたけど出なかった。
向こうからもかかってこなかった。
もう一度かける勇気がないのでそのままだ。

Williamは電話をすれば出るはずだ。
でも忙しそうだから躊躇する。
またどこかで会えそうな時に電話しよう。

キタローに電話したのも1年くらい前だ。
忙しそうだった。
また電話する勇気が無い。

そうそうずっと昔の沖縄の友達に電話したことがある。
全く知らない人が出た。
その番号は他の人のものになっていた。

佐賀の並川に電話できたらいいのに。
あの訛ったしゃべり方を聞きたい
「ああ、こがわさん? どおよ、最近」
頭の中で彼の声がリアルに再生される。
ああ、芹沢さんの声としゃべり方にそっくりだった。
あれは同じ九州だからだろうか?
ちょっと驚くほどそっくりだ。

先週並川からのメールを発見した。
1通だけ残っていた。
2015年の9月26日だ。

 「久しぶり、元気にしてますか?
  私は、パーキンソンにかかってしまいましたが、元気にやってます。」

ちょうど10年前だ。
偶然か?
このメールは会社のservice@stl-jp.comというアドレスに来ていた。
このアドレスは普段使わない。
ホームページのどこかにあったのだろう。
たぶん見ていなかった。
これに返信した形跡が無いから。
ああ、返事を書くんだった!と今切に思う。
ごめん。
その後札幌に行った時に電話した時はもう電話に出れなかった。
しばらくして並川君の友達から電話が来て亡くなったことを知った。
思い出してしまった。

並川君は面白い人だった。
札幌である日とんでもない物をとんでもない量持ってきた。
また彼女ができたことをアパートまで言いにきた。
また、飼っていた猫を公園に連れて行ったら帰って来ない
と言ってきた。
彼は札大を卒業して国に帰る時に
一緒にコンサートに出た。
並川の彼女のトッピとその友達のヒゲちゃん(彼女は福島の人だった)
と4人で歌った。
もう吹雪の江別の公民館。
真っ白な雪の夜だった。

並川が札幌を去る時、私は送って行っただろうか?
記憶が無い。
送ってあげていたらいいけど。

ごめん。並川










9/30/2025

北海道を去った本当の理由

 雪に負けた、と前に書いたけれど、
それは本当の理由じゃない。
雪は好きだった。
北海道にいるのがたまらなく苦痛になったのは、
どこへ行っても行き止まりだったからだ。
これは地理的な理由なのだけれど、
どこへ行っても「ああ、この向こうは海で行き止まりだ」
ということに気がつき
その閉塞感がたまらなく辛かった。
それは本州に居てもそうなだろうけど、
本州の場合はHOME(家)があった。
どこかに行っても帰れる場所があった。
だけど北海道には帰れる場所が無かった。
アパートに帰ってもそこはHOMEじゃない。
どっちに向かって走っても行き止まり。
そこから帰る場所が無い。
そういう行き場のない閉塞感が一番の理由だったと思う。


当時認められなかったこと

1970年代のことだけれど、デジタル録音が出てきた頃あまり真剣に実用化を
考えていなかったように思う。ただしSONYとかビクターとかの技術者を除いて。
我々一般はそんなものが普及するとは思っていなかった。
当時のメモリーなんか12ビットのステレオ音の10分間を一時的でさえ保存しておく
メモリーが無かったのだから。
それにやはり当時はまだアナログ音の方が格段に良いとされていたから。
それはたぶん写真の世界でも同じだったと思う。
デジタルカメラが出てくるのはもう10年以上後だけれど。
しかしその頃アメリカでは既にデジタル化が進んでいた。
1978年に見学に行ったアメリカの音響工場ではデジタルの音響機器、
特にスタジオ用途のもの、が実用になっていた。

CDのレコードが出たのが1982年だったと思う。
もうアナログレコードはだめだろうな、という予感はあったけれど、実際には
ビニルレコードはまだその後もけっこう続いていた。
それよりもオーディオファンはCDの音は良くないという風潮だった。
まだビニルレコードやオープンテープの方が音がいいと言うのが一般通説だった。
だけどCDとオープンテープの音を聞き分けられる人は居ないと思う。
CDもまだ当時はオープンテープに録音された音から作っていたのだから。
今でもまだアナログレコードの方が音が良いという説が流通しているのは
驚くべきことだ。
さらに言えば真空管アンプの方が音がいいとかいうこともある。
真空管アンプの音は聞きやすいが決して良い音ではない。
元の音が真空管の応答の悪さで柔らかくなっているからにすぎない。

マウスが出た時のことを覚えている。
パソコン関連の仕事をしていたのでマウスはかなり早くサンプルを手にした。
他の技術屋と話をしたが「こんなもの使えないな」という意見が多かった。
当時アップルコンピュータを使っていた人にしてそうだった。
しかしマウスはその後驚くべき速さで浸透していった。

それからさらに10年後くらいに、QRコードの試作を見た事があった。
あれはたぶんそれを開発した会社の人が持ってきたのだと思う。
やはり他の技術屋と話したけれど「こなんなもんも使えないな」と言っていた。
その当時は画像解析に使えるCPUも遅かったから、あのドットを解析
するだけの能力が無かった。
実際QRコードが実用になるのはさらに10年以上後だったと思う。

同じ頃だろうかブルートゥースの話が入ってきた。その当時はリモコンも
赤外通信だった。音も赤外か電波だった。ほぼ1対1の危機対応だった。
その時の技術者と話をして「こんなの使えないな」と言っていた。
ブルートゥースはその後ある程度使われていたけれど、今みたいに広く
使われるようになったのは少し後だったように思う。

ああ、USBがあった。
USBが出た時は便利だと思った。それ以前のRS232C,GPIB,HPIB,SCASIにくらべたら
接続の面倒くささが無かったから。でもUSBはその後の外部インターフェイスを
大きく変えることになった。
パラレルのインターフェイスなんかはデータをそのまま扱えたからIOを
作るのも楽だった。
しかしUSBはそれとはまったく異なるインターフェイスだった。だから
単純な8ビットの出力を作るにもUSBをどうするかから考えないといけなかった。
今ではパラレルの5V出力を出すのにUSBのアダプターを使えばいい。

そういうもの全てが今では中国製だけれど、ちょっと前までは
中国製はダメだという人が多かった。でも今では中国製の方が
優れているというのが現状だろう。
時代は変わるものだとつくづく思う。














 1980年代のことだけれど、

9/29/2025

思い出したこと

 子供の頃のことだけれど、
たぶん小学校の3年~5年くらいの時、
三鷹の下連雀に住んでいた。
そのころ時々空で「ドーン」という大きな音が聞こえた。
それはジェット機のソニックブームなのだけれど、
けっこう大きな音で頻繁に聴こえていたと思う。
最近というか70年を過ぎるとあんまり聞こえなくなったように思う。
このごろでは 全く聞こえない。
要するに占領直後くらいから日本の住宅地だろうがなんだろうが
彼らはジェット機の超音速を試していたのだろう。
厚木、横田、立川と米軍の基地は周りにあったから。

9/28/2025

改定版

 意味は無いのだけど、書き換えようと思って。
歌も録り直した。

もしも私にアイドルが気になった時があったとしたら、
天地真理だと思う。
夢中にはならなかったけれど彼女の歌は好きだった。
歌い方はそんなに好きではなかったけれど、
歌っている歌が好きだった。
それと彼女の笑顔が好きだった。

あの頃他にアイドルになりそうな女性歌手は誰がいただろう?
と思い出すとあんまり思い出せない。
ピンクレディーとかキャンディーズとかはちょっと違った。
山口百恵も太田裕美も岩崎宏美も違う。
南沙織もちょっと違うな。
ようするに天地真理以外に居なかったのだと思う。
だから天地真理が唯一のアイドルだったんだと思う。


またパラが墜落

 と言っても山沈したみたいだ。
富士宮だ。
なぜかまたタンデム飛行だ。
でも二人とも怪我で済んだみたい。
どのくらいの怪我かわからないけれど、
命に別状は無いということで良かった。

しかしこの「別状」っていうのは考えてみると変な言い方だな。
命には別に特別深刻なことは無い、という意味だろうか。
バールのようなものと同じくらい曖昧ないいかただな。


問題は何か、わかった

 何かが足りないとか、時間が無いとかじゃない。
何かをしようと思った時の気力が無いんだ。
だからいつまでもグズグズと何もやらない。
何もやれない。
そういうことだと思う。

今だって時間はいくらでもある。
まあ、期限がいつまでかはわからないけど
とにかく時間はある。
あとはそのやる気だ。
それが問題だ


9/24/2025

自動車教習所

わけあって自動車教習場のことを調べていた。
それで昔のことを思い出していた。

自動車免許は武蔵野自動車学校という吉祥寺に近いところにあった
自動車学校で取った。
1970年だった。
細かなことは忘れてしまったけど、面白かった。
たぶんどこでもそうだと思うけれど、いやな教官もいた。
バカな生徒もいた。

ひとつよく覚えていることは、実地の最終試験の時に
3人生徒が乗って順番に試験をするのだけど、
私ともう一人が信号待ちで青になって左折する時に
右を確認した。
それを試験が終わったあとで注意された。
つまり、右を確認する必要は無い。左だけを注意して
曲がればよい。と
教官は「運転の第一原則として信頼の原則というものがある。
他の運転者を信頼することだ。右からは車は来ない」と言う。
これは今はどうだろう?
たぶんそんなことは言わないだろうと思う。

試験は無事パスしたけれど、今でもその教官の言った
ことを覚えている。

9/19/2025

処分しよう

 要するに何もできないのは
やろうと思ってることが多すぎるからだろう。
それに思い至ったので、余分な物は処分することにした。
断捨離ではない、全部いるものなのだ。
だけどそれを全部やってるわけにはいかないので処分する。
割愛に近い。
キーボードを処分した。
どうせ一度に弾けるのは1台なのだから、
他の物は弾きたいけれど処分する。
イフェクター類も処分。
たぶんマルチが1台あれば済む。
どうせ録音したらどれがどれかわからない。
本もそう。
レコードもそう。
Doc Watsonのフォークウェイズ盤とか、
そばに置いておきたいのだけど、処分する。
そうしないと私が居なくなった時に大変だろうから。

それでできることをやろう。
やれることが限られればできるだろう、きっと

9/18/2025

ビオラは何をやってるの?

 というYouTubeチェンネルがあった。
これが非常に面白い。
オーケストラの音と共にビオラのパートを弾いているらしい。
だいたいバイオリンやホルンやオーボエやホルンやフルートなどと
比較すると主旋律ではなく、だいたいがハモのパートを弾いている。
それがスコアーも一緒に見れるのでどこをどう弾いているかがわかる。
思うのは、これって弾いてて面白いのかなあ?
ということ。
ほとんど和音の構成音を弾いてる。
たぶんめったに主旋律を弾くことはない。
縁の下のなんとかかもしれないけど、
なんか地味だな。
ずっとこれっていやにならないかな?



車輪のパラドックス

 なぜかこれがYouTubeで出て来て見てしまった。
深く考えずに見てしまうと、「ああ、なるほど」と思ってしまう。
「確かに、同じ距離動いてるよね」
これはかなり深刻にはまり込んでしまう問題だ。
昔の学者がこれにはまってしまったのもうなづける。
たぶん模型を作ってゆっくり眺めればわかるのか?
いやわからないだろう。
このパラドックスは内側の円が回転と同時に
水平移動しているということに気がつかないと
永遠にはまり込んでしまう。
ちょっと面白い話だった。


9/17/2025

メモリア

 という映画を観た。
ものすごく静かな映画だ。
音も言葉もギリギリにしか聞こえない。

主人公(女性)が「ドン」という謎の音の幻聴になやんでいる。
それが何であるかを探して歩くのがストーリーだ。
最後にその音が何であるのかがわかるのだけど、
意外にもSFめいた話だった。

だけど面白いシーンがいくつかあった。
巨大なコンソールのあるスタジオでの音の実験シーンとか
自分が記憶していると思っていた夢が
実は他の人の記憶だったとか。
とても面白い。

だけど言葉が少ない。
音はあるけれどすごく静かだ。
最後まで静かな映画だった。

でもなぜかちょっと感動した。


9/15/2025

最近よく見る夢は

 妻がどこかに行ってしまう夢。
あるいはどこかで一度別れるのだけど、そのあと見つからない。
携帯で連絡しようにも携帯が使えない。
探し回っているうちにとんでもなく遠いところまで行ってしまう。
家に帰ろうにも「家」がどこなのかわからない。
横浜なのか横須賀なのか三鷹なのか?わからない。
夢から覚めると家にいるとわかって安心する。

子供の頃見た夢を覚えているだろうか?
小さな頃のは覚えていないかな。
5歳くらいの時の夢かほんとかわからない夢は
前に書いたように思う。
座敷の方で寝ているとふすまの隙間から居間が見えて
だれか子供がおもちゃの汽車で遊んでいた。
あれは夢なのか本当だったのかわからない。

高校生くらいに見た夢は覚えている。
受験の時で頭がおかしくなっていた時期だ。
金縛りにあった。
その頃は金縛りがどういうものなのかわからなくて
とても怖かった。
頭の中でキーーンという音が鳴り続いていて
ガラスが割れる音が聞こえた
それが終わると横になったまま体が浮いた
そして茶の間の方にそのまま浮かんで行って
外に出た
屋根よりも少し低いくらいのところにいて
母が縁側で洗濯物を干していた。
母の白い割烹着を覚えている。

同じ場所の夢をもう一度見ている
確か30歳かそこらだった。
夢の中でまた縁側で母が洗濯物を干していた。
私がそこに行くと
「あら起きてたの?」と母が言った。
「起きてるよ」と私が言う。
「学校に行くんでしょう?」と母が言う。
私は、そうだ!まだ学生だったんだ。
とほっとする。
でも目が覚める
そういう夢だった






9/13/2025

みんなどこかに行ってしまう

 最近特にそう思う。
歳下も歳上もどんどん行ってしまう。
どうすんの?これ
稲垣足穂が歳を取り始めてから
「しまった!もっと早く会っておくんだった!」
と少年たちが歳をとるのを嘆いたことよりも
もっとずっとずっと悲しむべきレベルで時間が流れてしまう。
50歳くらいのころは「ああ、あの人が逝ってしまったなあ」
くらいにしか思わなかったのだが、
いよいよ自分の番が近くなってきた
あるいは先の方で人生が崖のように落ち込んでいるのが
見えてきたように思う。
悲しんでいる時間さえも無いかもしれない
とはいうものの日々にやらなければいけないことがあるので
それを片付けているうちに一日が終わってしまう。
考えてみると30歳の頃からずっとそれだった。
「よし!仕事はやめて自分のことをしよう!」
なんて思っただろうか?
そんなこと考える暇もなかったように思う。
だからあっと言う間だったんだ。
それでも自分の歌とか演奏とか少しは残せた
YouTubeがそれを消さない限り残るだろう、きっと。
残ったからどうなんだ? というのはあるけどね。
文豪のように作品が未来に渡って残るわけじゃない。
いや、未来に残ってどうなんだ?
という疑問はあるけれど、
何も残らずこの世からきれいさっぱり居なくなる
というのも寂しい気がする。
少なくとも今この瞬間にはそう思う。
死んでしまったらそれすら意味が無いかもしれない。

インターネットの5チャンネルあたりで良く見る
「死んだらどうなる?」という書き込みだけど、
たいてい「それは無だ!」と言うやつが現れて終わる。
だけどそこで「無だ」と言ってる事には
死後の世界を想定してそこには何もない、という意味で言ってる
と思う。つまり一応死後の世界はあることを前提にしているように思える。
だけど死後の世界というのは自分だけ居なくなった今の世界が
ずっと続いて行くという意味だ。
自分には死後のせかいだけど他の人には今まで通り続いてい行く
生きている世界だ。
死後の世界はあるか?と言えば何の疑問もなく在ると言うしかない。
死後であるのは自分いとってだけだ、
他の人にとっては今まで通り生きている世界なのだから。
とても寂しい(笑)








喜びも悲しみも

 幾年月
という映画はリアルタイムで見たことを思い出した。

私は父の手を握っていた。
映画館はとても混んでいたように思う。
何も見えなかったから。
あれは4歳の時だと思う。
映画の画面とはか全く覚えていないけれど
壮大な音楽の感じは覚えている

9/09/2025

いや違う、未知との遭遇のことを書こうと思ってたんだ

 「未知との遭遇」のあの5つの音だけど、
あれは天才的だね。
ジョン・ウイリアムズが死ぬ気で考えたのだと思う。
そして今あの映画はあの5つの音のためにあるように思う。
いや、あの映画はあの5つの音の映画だと思う。
一度聴いたら忘れないメロディーだ。

誰か(外国人)が書いていたあの音についての解説を読んだけれど、
シューベルトの「魔王」の旋律に似てるとか、リヒャルト・ストラウスの
「ばらの騎士」に似ているとか言ってるけど
5つの音なんだから、どこかの何かに「似ている」というのは
確率的に絶対あるでしょう。
そういうことじゃなくて、ジョン・ウイリアムズが3音と4音を
オクターブ降下させたこととか天才的だと思う。
オクターブ飛び上がるメロディーというのはいくらでもある。
ドヴォルザークの「母の教えたまいし歌」なんか有名だけど、
いくらでもある。
でもジョン・ウイリアムスのあのオクターブはすごく効果的だ。
特にシンセサイザーで弾いた時に効果を発揮する。

最初の「レ」は次の「ミ」の音で消えてしまうけど
3つ目の「ド」と次のオクターブ下の「ド」と
最後の「ソ」は単純かつ普遍的な「ドミソ」の和音だ。
だけどこのオクターブ下の「ド」が無いとかなり陳腐だ。
そういう意味で天才的だと思う。






9/08/2025

手塚治虫とやなせたかし

 あんな風に二人で徹夜で仕事している所を見ていたら
泣けてきた。
そういう時があったな、と思い出す。
まっちゃんと一緒に夜明けまで仕事したことがあった。
あるいは神津さんと一緒に次の日の昼まで一緒にプログラムを
組んだことがあった。
だいたい何もしゃべらない。
たまに冗談を言うくらい。
その感じがあのテレビではよく出ていた。
ほんとに手塚とやなせたかしがあんな風にやっていたかは知らない。
だけどそれはそれでいい。

徹夜明けの朝の感じを時々思い出す。
決して気持ちいいわけじゃない。
あの感じ。

徹夜で運転して朝日の中を走るのもそうだ。
あの感じ。





9/06/2025

America S&G

 どうでもいいんだけど、
いや自分だって昔はそうだったから、まあいいんだけど
一度気になったらどうしても気になってしまう。

Let us be lovers we'll marry our fortunes together

どうして「結婚しよう」という訳になってしまうのか?
まだ友達同士あるいは恋人どうしなのに
バスに乗ろうっていう時に「結婚しよう」なんて言うわけ無いだろう!
ほとんどの人が「結婚しよう」という訳を書いている、
あるいは歌っている。
ある人に至っては親切にもカンマを付けている。
Let us be lovers, we'll marry our fortunes together
おう!そしたらその後のour fortunes togetherはどうするの?

英語の和訳全般に言えることだけれど、
何か英語には日本人にはわからない特殊な物があると思い込んでる。
だからこういう訳になってしまう。
じゃあ、日本人二人のバス旅だったら最初になんて言うだろう?
とは考えない。
ここにmarryがあるから、とりえず「結婚」だ、としてしまう。

何だったかなあ?他にもそういうのがあってどうしても我慢できなかったから
言ってやったら怒った。
怒るだろうね、知らない人から文句つけられたら。
今はほら翻訳とかやってくれるのがあるから、それでやってしまうと
こうなってしまう。
GPTでやるとどうなるかは知らない。
誰かやってみて、、

それじゃあ、さっきバス乗り場で話したばかりの彼女と、
いや、ああ、もう少し付き合った彼女だったとしても、
席を隣同士にして座ったらなんていうだろう?最初に
「よろしく、恋人同士になって結婚しよう!」なんて絶対に言わない。

この歌だって冗談で「恋人同士になろう!」とは言っているけど、
「結婚しよう」なんて言ってない。
この歌の会話は彼が言っているジョークなんだ。
後の方にも出て来るけど「スパイ」の話もね。

ちょっと待って!じゃあその後の

I've got some real estate here in my bag.

はなんて訳してるんだろう?
   ある人訳:「本物の不動産がこのバッグの中に入ってる」
   別のある人訳:「ある不動産がこのバッグに入ってる」
だいたいこんな訳だ。
バッグに入る不動産って何?

まあそんな感じだね。
さっきのカンマ打っちゃってる人、
どうしてもそこで切りたかったんだろうね。
そうしないと”結婚しよう”にならないから。

「僕らの幸運を一緒にしよう」とか「運命を共にしよう」(硬いな)
とかいう訳にはならなかったんだろうね。



9/05/2025

神保町

 昨日、神保町に行ってきた。
リソグラフの画集を持って行って売ってきた。
本は大きくてすごく重い。
本屋を2、3件回ったらもう嫌になった。
15年以上前だと10万円で引き取ってくれるところがあったけれど、
さすがに今はインターネットで同じものが大量に出ているから
値段は10分の1以下だ。
一番高い金額で行ってくれたところに置いて来た。
7千円だった。
まあ、外装が少し傷んでいたからしょうがないし、
それより重いので早く解放されたかった。

また地下鉄に乗って座ったら、妙に満たされた気分だった。
希望金額には全然至らなかったのに、
それで考えてみたら持って行った本屋のおじさんと
話をしたことを思い出していた。
本の話やネットで売られている本のことなど、
3人3様に話をした。
昨日まで人と(男の大人)話すのは久しぶりだった。
どうもその話ができたことで満足できたらしい。
立ち話ではあったけれど、いろいろ話ができた。
それはとても有意義だった。

前に神保町に行ったのはいつだったか思い出せない。
たぶん10年は行ってない。
行く用事が無い。
お茶の水から靖国通りの前までは何度も行った。
楽器屋には何度も行ったから。
だけど靖国通りは越えていなかった。

車で行こうか迷ったけどやめた。
それでしょうがなく思い本を抱えて行った。
ああ、そうだ、すごく暑かった。



9/03/2025

今度はパラの事故2件

 この一週間にパラグライダーの2つの死亡事故。
その前のソアラーの死亡事故を入れると3回続けてだ。
これまでもグライダー関係の事故は続いて起きることが多かった。

最初のパラは山沈したらしい。
13時間も木の上にいたとか。
ハングもパラも山沈(山に落ちる)、ツリーラン(木にランディング)は
普通にあったけれど、死亡事故は無かったように思う。
私の友人も5,6時間誰も気がつかずに自分で木からおりてきた人がいた。
でも仲間と一緒だったら「そういえばあいついないな」と気がつくはず。
それに13時間くらい木の上に居ても死ぬことは無い。
たぶん怪我していたのだろう。
降ろすときにそんなに焦った様子が無いので
出血ではなくどこかを打ったのだろう、きっと。

今日の事故は海に落ちた。
詳細がわからないがモーター・パラのタンデムフライトだったようだ。
モーター・パラがどうして? と思う。
見た人によると回転しながら落ちたらしい。
スパイラルダイブに陥ってしまったようだ。
問題は落ちたのが海だったということだ。
モーター・パラだから二人とも機体にハーネスごと固定されていたと思う。
そのまま海に落ちたら機体(エンジン)と一緒に沈んでしまう。
だから海や湖の近くで飛ぶときはナイフを持って飛ぶ必要がある。
ハーネスを切り離さないと泳ぐことも浮くこともできないから。
今日のパイロットの人はどうだったのだろう?
パイロットもだけどタンデムで乗っていた女性のお客さんは災難だった。
さっきのニュースでは亡くなったとは言っていなかった。
心肺停止だとか。
生還するといいのだけど。

9/01/2025

グライダーの墜落

 というニュースが今日あった。
映像を見るとすごい壊れ方だ。
このグライダーと言ってるのはソアラーだ。
大きなやつ。
それが完全にばらばらになっている。
どういう落ち方をしたのだろう?
滑空したいたならあんな壊れ方はしない。
あれはとても急な角度で落ちたようだ。

場所は利根川。
ウルトラライトプレーンとかの飛行場がある。
スカイダイビングの着地場所もある。
その川淵の草原の中みたいだ。

まだ20代の女性だったようだ。
焦ったであろうと思うといたたまれない。
だいたいソアラーって何か安全装置があるんだろうか?
まったく知らないけど、聴いたこともない。

ハングはパイロットが操縦不能になったら
手を離せば機体が勝手に水平になってどこかに着地する。
機体が壊れてもだいたいグルグル回りながらゆっくり落ちて来る。
あるいは緊急パラシュートを広げればゆっくり降りて来る。
その他の事故は大体パイロットが何かやってしまったせいだ。

だけどソアラーはパラシュートを備えているのだろうか?
体を守る装備があるのだろうか?

今調べたらパラシュートを装備するのは競技大会の時だけらしい。
通常は装備しないらしい。

何か非常の場合の装置が欲しい。



8/30/2025

駅ピアノとか・・

 駅ピアノとか街ピアノとか、いろいろなところにピアノがあって
引きたい人が弾くやつ
あれ、うるさいと思っている
全てではないけれど、だいたい90%くらいうるさい。
それは私だけかと思って妻に聞いたら
やっぱりうるさいらしい。
それで良く観察して見たのだけど、
タッチというか鍵盤をたたく強弱が無いのに気付いた。
みな一生懸命に練習した曲を弾いている。
だから一本調子なのだ。
同じく街角で弾き語りしてるおっさんも同じ
がなるように歌っている。
あれだ。
つまり指一本一本に気を遣っていない。
ばんばん弾いている。
はいよくできました!ということなのだけど、
人に聴かせる演奏じゃない。

まれに「お!」と思う演奏に出会う。
覚えているのは高校生くらいの男の子が駅で弾いていた時、
曲は知らなかったけれど、音一つ一つに気を配って弾いていた。
あの子はきっといいピアノ弾きになっただろう。

8/26/2025

1990年

 1990年にCDを作ろうという話があって、
皆集まってスタジオで歌を録音した。
私が知ってる人もいたがほとんどはWiliamのつながりだった。
この一連の写真はビデオから撮ったものなので画像が粗いけれど、
それはそれでまたいい。
(ビデオをハードコピーしたプリントが残っていた。元のビデオテープは無い)
なんで1990年だったのかわからないけれど、
おう!斉藤君だ。ほとんどこの頃以来会っていない。
なんでネクタイだったんだ?
いや、これって1990年だった?
なんかもうよくわからない。
野呂君はその後何度か会ってるような気がする。
吉野はついこの前、花輪氏の葬儀で会った。
名前が思い出せない。
ひょっとして古川氏って言ったっけ?違うかな?

この左下で笑ってる二人は全く覚えていない。
このミキサーの人はなって言ったかなあ?
先週くらいまで覚えていたんだけど。

これって相川君?
何度も見てると違う人のようにも思えてくる。


もうとにかくギターはこの人だね。
このスタジオで何日くらいやったんだろう?
最後にもう一度一人で行って何かの確認をしたような記憶があるけど。
もうあまりに遠い事でよく見えない。







8/25/2025

アンビエント音楽

というのがYouTubeとかに多いのだけど、
「音楽」なんだろうか?
・・・ということはエレベータ音楽のとこに書いたような気もするが。
つまりシンセにきっかけになる音を与えて、それを勝手に繰り返している音に
他の音を重ねて”あたかも”曲のように仕上げているのだけれど、
”音”ではあるけれど、”音楽”だろうか?
それはまだ自分でノブを操作したりしているから”自作”ではあるけれど、
最近ではドローン・シンセとかいうのがあって、
もう勝手に音を出して”あたかも”それらしい音楽風に音を出せる。
そうなるとそれは機械のノイズでしかないのではないだろうか?

と言うのは序章なのだけれど、
アンビエント音楽という”あたかも”音楽”っぽい音は
あれは”音楽”なのだろうか?
シンセを使わずともそれらしい”音”は作れると思う。
しかし”音”だ。それは。
と書いたところで「ミュージック・コンクレート」のことを思い出した。
ミュージック・コンクレートを生み出したピエール・シェフェール自身が
後年「あれは無駄だった」とか言ってるらしいが、
作品を聴いた感じではあれは”音楽”だと思う。
楽器の音が生音に代わっただけで、あれは十分音楽のように思う。
スタンリー・キューブリックがそれを”ごみ”と言ったらしいけれど、
そういうならリゲティの「レクイエム」だって十分”ごみ”だ。
なぜリゲティーをあの映画に使った?

ドローンシンセ音楽やアンビエント音楽はゴミだが、
ミュージック・コンクレートは音楽だと思う。
あれがだめなら絵画のコラージュもゴミだ。
ポロックの絵なんかゴミ以下だ。
だけどコラージュは「絵画」だと思うし、ポロックも絵画だと思う。

なぜならそこに作者の感情や思いや行為が凝縮されているから。
ミュージック・コンクレートもそう。どの音をどういう風に組み上げるか
作者はそれを考えて構成しているから。

だけどアンビエントもドローンもほとんど機械任せだ。
あれこそ「ごみ」だと思う。

・・・ああ、アンビエントはそれでもまだ少しましかもしれない。

8/23/2025

仕事は断る

 もう仕事を辞めて久しいけれど、
今でも受けている人が何人かいる。
葬儀屋さんとピアノの先生と安全管理会社と車好きの人とDJやってる人だ。
あとは居ない。
のだけれど昨日電話があった。
出なかった。
電話の相手は知っている人だけれど
電話に出ればその仕事をしなくてはいけないから。
申し訳ないけど電話には出なかった。
留守電とメールも入っていた。
どっちも出なかった。
困っているだろことはわかった。
でももうやりたくない。
面倒なのだ内容が、いくつかの曲を切り貼りして
新しい曲を作るのだけど
始めたらのめり込むから。
適当につなげればいいのだろうけど
それでは私が満足しない。

というわけでもう他の仕事はしないことにした。

8/22/2025

おしん

 今日テレビを見てたら「おしん」のことをやっていた。
驚いたことに「おしん」って1983年だったんだ!
もっと前、例えば1968年とかのような気がしていた。
「おはなはん」の次くらい。
1983年と言えばああた、結構最近でないですか。
私札幌から東京に戻って深川で暮らし始めたころだ。
え~!あの頃だったのかなあ、当時の事と「おしん」のテレビが
重ならない。
1983年は小林克己のベストヒットUSAの印象だなあ~
それとあの「おしん」はどうしても重ならない。
だいたい「おしん」って見てただろうか?
後から見たような気がするなあ。
だからかなあ?



8/21/2025

もう一度見たい夢だった

 例によって今朝見た夢の話

私と妻はどこかに出かけるところだった。
私が少し遅れたので妻は先に出てしまった。
私が後から追ったけれどどこに居るのかわからない。
それでスマホで聞いてみようと思いスマホをとり出す。
そして藤棚のような木の下の机のところでスマホで
電話をかける。
でも出ない。
「ああ、まいったなあ、どこにいるだろう?」と焦る。
そして行っただろうと思う方に歩いて行く。
すると途中でスマホが無いことに気づく。
ああ、さっきの藤棚のところだと思い、そこへ行く。
しかし机の上に置いたはずのスマホが無い。
困った。
妻も不安に思っているだろう?と心配になる。
しかし、仕方ないので向かったと思う方に歩いて行く。
どんどん歩いて行くと知らない町に入る。
でもこっちだろう、と思いどんどん歩いて行く。
道は山道になって岩場になってくる。
細い尾根のようなところを這いながら行くと
その先で道が無くなって尖った槍の先のようになっている。
それ以上行けない。
私の後から女性があるいて来ていたようで、
引っ返して元の下の方に向かって歩いて行く。
道は片側が深い谷のようになっていて怖い。
何とか下まで降りる。
そこに工事をしている人達が休憩していた。
その一人に「ここは何県のなんというところですか?」
と聞く。
その人は「何言ってるんだ。なんでそんなこと聞くんだ?」
と取り合ってくれない。
仕方なく先を歩いて行く。
道はまた急な坂道になって来る。
上に行くと山の下に大きな湖が見える。
その向こうには山がつらなってすごくきれいだ。
カメラを持っていないことを後悔する。
ふと後ろを見るとさっきの工事をしていた人がついてきている。
「一人だと心配だからと言う。
だけどもうどっちへ行ったらいいか全くわからない。
スマホがあれば地図が出るのにと思う。
どうしようもなく不安になる。

そこで夢は終わる。
いやな夢だったけれど湖の景色をもう一度見たい。




8/20/2025

ロワールの城

 フランスにもドイツにも行ったことが無いけれど、
行ったような気がするのは父が持っていた「ロワールの旅」という
本のせいだと思う。
中学生の頃その本を父の部屋から見つけていつも見ていた。
その本にはロワールの城の写真と旅行記が書かれていた。
だからロワールの城の名前はほとんど覚えている。
父が持っていたからたぶん1960年代後期の出版だと思う。
その本を欲しいと思いメルカリとヤフオクを見たけれど無かった。
その本は日本人が書いていた。著者の名前は憶えていない。
確か今から15年ほど前にやはりヤフオクで探したことがあった。
その時はその本があった。
本の体裁で覚えていた。
その時買っておけば良かった。
今はもう出てこないだろう。

中学生の私はその写真を見てインクペンで絵を描いていた。
写真がカラーだったかどうか忘れたけれど、色分けして描いていたから
たぶんカラー写真だったと思う。
いや白黒だったかもしれない。
とにかく絵はカラーで描いていた。
何をそんなに一生懸命になって描いていたかわからないけど
とにかくたくさん描いた。
でもその後全部捨てた。
今は記憶の中にしか残っていない。
描いている時の三鷹の四畳半の部屋に太陽の光が
ガラス窓から入っていた印象が強い。

8/19/2025

計算尺のこと

 メルカリで¥1000以下で売っているので欲しくなった。
もちろん別に必要だからではない。
もう一度使ってみたいだけだ。
だいたい掛け算と割り算にしか使っていなかった。
実験室では計算尺か手回しの計算機しか許されていなかった。
謎だけど。
電卓のが便利なのに。
電卓は当時関数電卓が4万円くらいだった。
高いと言えば高い。
計算尺では加減計算をやったことがなかったと思う。
有効数字3桁で計算できるのだろうか?
という興味もある。

昨日YouTubeを見ていたらオリベッティーの27-2とかいう計算機を見つけた。
これは世界一複雑な機械と謳っているけれど、ほんとにそうかもしれない。
YouTubeでは動いてはいなかったけれど、複雑さは十分わかった。
たぶん手回し計算機の入力をキーボードにして、出力をプリンターにした
ようなものだろうと思う。
手回しの部分をモーターで回すようだ。
大きなタイプライタくらいの中に機械がびっしり詰まっている。
もう何かなんだかわからない。
だけど動かせばまだ動くような感じだった。
それが1967年だというのだけど、もうその頃は
電子式の計算機があったように思うのだけれど。
たぶんその2、3年後には電卓ができていると思う。
だからオリベッティーの寿命は非常に短かかったと思う。

それで計算尺だけど、
有効数字3桁の計算ならすごく早くできると思う。
というか数値をセットした時点で答えが時差ゼロで出ているのだから
ものすごく早い。
量子コンピュータ並みだ。
ただし手で操作する時間はかかる。
例えば7÷3だとカーソルを7に合わせて
真ん中の尺の3をそのカーソルに合わせる。
すると下のメモリの2.33あたりに1のメモリが来る。
確かそんな感じだったと思う。
対数計算もできた。主要な科学定数はすぐにセットできた。

あれはしかし、今となっては懐かしい以外に使い道が無いだろうな。




8/15/2025

宇宙に行くかもしれないという夢を見た

 私と学校時代の友達小沼の二人が宇宙に行くことになった。
小沼は元々しっかりしたやつだから宇宙に行くのも平気そうだった。
私は宇宙服を着て緊張している。
そして「ほんとうに宇宙にゆくのだろうか?」と
考えている。
気持ちが悪くなったり、
閉所が怖くなったりしたらどうしよう?
と考えている。
周りはすっかり出発の準備をしている。
私はとても怖い。
やっぱりやめよう、と思う。
小沼が笑いながら私を見ている。

そういう夢だった。

宇宙へ行くという状況を考えたことが無かった。
だから夢でそういうことになって
とても不安だった。
今考えても、絶対宇宙になんか行きたくない。
ハングで空を飛ぶのも危険だけれど、
怖いという感覚は無い。
別にどこかに閉じ込められるわけではないし、
強制的に閉じ込められるわけでもないから。
宇宙は怖い。
無限の空間が広がっているけれど
それが余計に怖い
山から空に飛びだすのとは全く違う
空も広いけれど
宇宙の広さはとても狭いように思う
身動きできない
そういうのはとても怖い





8/05/2025

シェーン

 さっきNHKの映像の世紀を見ていた。
ノルマンディー上陸のことをやっていた。
シェーンを作ったジョージ・スティーヴンスがその時カラーフィルムで
撮影していたということを知った。
そこからパリ解放と終戦を撮っていた。
彼はパリが解放された直後にパリに入ったそうだ。
そこから歓喜に沸くパリ市民やドイツ軍捕虜、
ドイツに加担していたフランス人たちが市民によって
粛清された時もジョージはそこにいた。
そしてユダヤ人を迫害したナチと同様のことをパリ市民が
ドイツ人に対して行っているのを見た。
また彼自身ナチに対しては同様の怒りを持っていたという。
そのような経験をしたジョージがのちに映画「シェーン」を
作った。

それを知るともう一度あの映画を観たくなって
アマゾンで見始めた。
しかしまだ最初の方なのにどうしようもなく泣けてきた。
あの映画を観に行ったのは小学校の6年の時だった。
新宿ミラノ座だった。
大きなスクリーンの前の方で見た。
何がだめかと言うと音楽だ。
映画が始まってすぐにあのテーマが流れる。
しかも演奏は後にレコードになったものとは異なる
映画の上でだけ流れた演奏だ。
それを聴いていたら小学生の時に一人でスクリーンの前に
座っていた時を思い出した。
まるであの時が再現された。
それでたまらなく懐かしくなった。

シェーンの映画はもう何度観たかわからない。
でも今日見たのはまるで初めて見るかのような感じがした。

だから改めてシェーンを見ることはできなかった。
最初の5分くらいしか観れなかった。

またしばらくして、忘れた頃に観てみよう。


8/04/2025

右と左の耳のこと

 前に音程が変って聞こえるということを書いたけれど、
その後はその症状は出ていない。
そのかわりに変なことに気がついた。
綿棒で耳掃除をしていて奥まで綿棒を入れて行くと
鼓膜のところでカサカサと触れた音がする
その深さが右と左で2センチくらい違う。
右の方が浅い。
左はかなり奥まで入れないとカサカサ鳴らない。
みなそうなんだろうか?
ちょっと調べたら同じ疑問の人がいたけれど
その人はもっと入口近くの形状を言っているようだ。
でも鼓膜までの深さがかなり違うのは明らかだ。
そうなると右と左の聞こえ方も違うのではないだろうか?

目は右が生まれつき緑内障で上半分が見えない。
左は正常。

喉を医者に診てもらった時、2か所の病院でレントゲンを
撮ってくれてわかったのは、声帯が半分しか働いていないらしい。
半分の声帯で声を出しているらしい。
動いていないのが右か左かわからないけれど。
時々歌う声が小さいと言われるのもそのせいだろうか?

あとは内臓とかは変ってるところは無さそうだ。


8/02/2025

ご安全に

 最近は工事現場に行っていないからわからないけど、
ほんとにこういう挨拶してるのだろうか?
今仕事で受けているDVDが安全管理の映像なのだけど、
朝礼の最初の挨拶が「ご安全に」なのだ。
これはDVD製作会社の企てだろうな。
そう信じたい。
普通だと「おはようございます!では今日も一日安全に!」
だと思うけど。

それからネットでも気になるものがある、例えばYouTubeのドラレコ
だけど、投稿主は「撮影者様は・・・」と言っている。
なにか非常に気になる。
「撮影者は・・・」でいいのに。
変に媚びた言い方をしている。
同じようなのはいくらでもある。
「投稿者様」「演奏者様」
なんで「様」を付けるんだろう?
それが丁寧で礼儀正しいと思っているのだろうか?
私には非常に馬鹿にしているとしか思えないのだが。


8/01/2025

なんか調子が出ない

 いつもなら「よし!この曲をやろう」と思うと
すぐに取り掛かるのだけれど、
どうもこのところ乗らない。
なんかやってもチューニングが狂っているように聞こえて、
声も音痴に聞こえる。
だから全然乗らないし、長続きしない。

頭には完成形があるのだけど、全然そんなものにならない。
なんていうか響いてこない。
今も停滞中

こういうことは時々あるよね。
だからしばらくしてまた始めると良かったりする。
それまではダラダラしていよう