10/13/2025

スーザン・ソンタグって・・・

車で ラジオを聴いていたらこの名前を言っていた。
何の話だったか聞いていなかったけれど、
その名前を聴いた瞬間頭の中に札幌のアパートの部屋が浮かんだ。
そしてスーザン・ソンタグの本が本棚にあった。

あれは何の本だったんだろう?
全く思い出せない。
でも何か本は買ったんだと思う。
そのうち読もうと思って、たぶんそのまま本棚に。

でも本のことはどうでもいいんだ。
あのアパートの部屋を久しぶりに思い出した。
その名前のせいで匂いや窓からの光を感じた。
懐かしい感覚だった。

旅愁という歌

 が好きだ。
自分でも歌っていたとおもけれど、FBの西森さんという人が
歌っていたので伴奏を付けた。


真ん中のガットギターと歌が西森さん。
私は左右のサイドギターとベースとストリングスとピアノを入れた。
けっこううまく行ったと自分では思うのだけど。
こういうのをやる時は伴奏は決してメインよりも目立ってはいけない
のだけれど、その加減が難しい。
全部後ろに下がってしまうと出来として面白くないから。

先日も「明日からホスピスに行くのでこれが最後の投稿になります」
と言う人の弾き語りに伴奏を付けて投稿したのだけど、
グループでの評判は良かったけれど、本人からの
返事はもらえなかった。聴いてもらえたかどうかもわからない。
グループの他の人も「聴いてもらえましたか?」ときいてくれたのだけど、
返事が無かった。
たぶんもう聞く元気も無かったのかもしれない。

この1,2年ほんとに人を見送ってばかりいるような気がする。
次は私だとはわかっているのだけど、
けっこう先送りになっている。
今のところヤバイ兆候も無い。
だけどわからない。
ほんとにわからない。


10/11/2025

チャトGPT

 チャットGPTはしゃべり過ぎる。
  ように思う。
ああ、そこまで聞いてないよ、
考えてるのはこっちだからね、
君のおだてには乗らないよ、

しかし、確かに疑問だったことを順序だてて考えるのにはいい。
今日の疑問は
「何も無い空間の中で生き物はなぜ死ぬか?」だった。
空気が無いからとか、そういう答えを予想していたけれど
彼?が言うことは私の疑問そのものに答えてくれた。
つまり何も無いなら死ななくてもいいだろう?ということへの
答えだった。
彼の答えは哲学的でさえなかった。
いろんなところから色んなものを持ってきて納得させられた。

もう一つ質問した。
「仮にタイムマシンが出来たとしても過去は未来と同じく未定ではないか?」
という物だけれど、ここにもちょっと前にそのことを書いたと思う。
つまりシュレディンガーの方程式が未来と同様に過去にも成り立つなら
過去も確率的にしか存在しえないだろう?
という質問だったのだけれど、
彼は明確にそれを肯定した。
そして同様の考えを持つ学者のことも教えてくれた。
もっとも気に入った彼の回答は
時間は過去から未来に流れているように感じる感覚でしかない。
ということだ。
つまりエントロピーは増大し続けるので過去へ戻ることはできない
ということ。シュレーディンガーの方程式は過去に対しても成り立つ
けれど未来方向にしか現実には成り立たない。
ということだ。

・・・と妙に納得したのだけれど、
良く考えてみると今まで自分が考えてきたことをまとめてくれただけ
のような気もする。

だいたい一つの質問に対してしゃべりすぎる

10/06/2025

無言歌

 アザラシヴィリの「無言歌」について以前書いたけれど、
その後あの曲はアザラシヴィリのオリジナルじゃなくて
歌詞のついた元歌があるんだよ。と日本人が自分のホームページに
書いているのをみつけた。
その人によると


だと言っている。
本当だろうか?
この人はその理由を知人が報せてきた歌が同じだからだ、
と言っている。
色々な人がその歌を歌っているからだ、と言う。
ただそれだけの理由だ。
ちゃんと時代考証をしたのだろうか?
まずグルジアの無名のソングライターがこんな歌を作れるだろうか?
曲全体で6回も転調しているような歌を作れるだろうか?
私は無理だと思う。

これは逆だと思う。
アザラシヴィリの曲を歌にして歌謡曲にしたというのが本当ではないだろうか。
私もほんとのことは知らない。
その歌謡曲を聴いた限りでは曲のメロディーも構成も同じだ。
原曲と言うならもう少し粗削りではないだろうか?

アザラシヴィリの他の曲を聴いてみるとわかるけれど、
他の曲にこの無言歌とよく似た曲調が現れる。
とても良く似た印象を受ける。

私は「無言歌」はアザラシヴィリ本人が作った曲だと思う。




10/04/2025

原子心母とクレイジー・ダイアモンド

 1970年の10月5日にPink FloydのAtom Heart Motherが
リリースされた。それからちょうど55年目が明日だ。
さっきどこかのFBにシド・バレットのことが投稿されていた。
彼が亡くなる6カ月前にファンが彼の家を訪ねたことがある。
と書かれていた。
そういうこともあっただろうな、と思う。

その投稿に気になるコメントがあった。
その記事がすぐにいなくなってしまったので正確には書けないが、

シドがいたらああいう素晴らしい音楽はできなかっただろう。
彼はバンドの足手まといだったのだから。

という内容だった。
そうだろうか? 確かに彼の音楽性は他のメンバーとは異なっていた。
原子心母以降の音楽にシドが入る余地は無かったと思う。
しかし問題は彼の存在そのものなのだ。
彼の存在がその後の音楽全てに影をおとしている。
それは誰も否定できないはずだ。

ある日バンドの練習のためスタジオに車で向かう途中
誰かが「今日はシドを拾うのはやめよう」と言った。
その日からバンドにシドは居なかった。
誰がそう言ったかは明記されていないが、その時の状況
からしてロジャーだと思う。
デイブはまだバンドの新人だったのだから。
シドの代わりにデイブがメンバーになったようなものだし、
リックもニックもそんな非情なことは言わないだろう。

その時からバンドはシドに対して負い目を持つことになる。
シドは確かに薬中だったし精神状態もおかしかった。
しかしそんなにひどいやり方でバンドから外されるとは
思っていなかっただろう。
バンドの練習に一人だけ呼ばれなかったら、どんなに悲しんだろう。

思うに音楽性などよりも彼の存在がバンドには必要だったと思う。
演奏も歌も歌わないにしても、そこに彼がいて欲しかった、のだと思う。
そうすれば彼の悲しみをずっと後まで引きずることもなかっただろう。
そして、その後のバンドの曲の歌詞にはシドが幽霊のように現れる。

ある日バンドの練習スタジオに予告も無しにシドが来たことがあった。
シドはドラッグによって以前の姿を全くとどめておらず、
最初にスタジオに入ったロジャーもその人が誰かわからず、
デイブに彼は誰かを訪ねたそうだ。
デイブはそれがシドだと伝えた。
ロジャーはそのあとずっと涙が止まらなかった。
シドは何も言わずにスタジオを出て行った。

恐らくそのシドの姿はメンバー全員の心の中に残ったと思う。
だからピンク・フロイドの音楽にはシド居るし、
シドが必要だったんだと思う。

友達

 は居ない。

今日昔の仕事のお客から電話があった。
やって欲しいことがあると。
でももう機材も全て処分したので出来ないと告げた。
人と話すの機会はあまりない。
だから今日はその希な日だった。

義理の息子が入院するというので桜木町まで車で送った。
その後みなとみらいで食事をした。
みなとみらいは少し変っていた。
MINIのお店がある。
12月に法定点検だからと葉書がそこから来た。
でも今回は近くのオートバックスに頼もうと思う。
みなとみらいのディーラーは高いから。
前回の車検は50万かかった。
まあ、ブレーキを4個交換したからしかたないのだけど
でもちょっと高かった。

松尾と花輪が逝ってしまい、気楽に電話をかける相手がいなくなった。
先日、先輩(と言っても年齢は同じ)の柴田さんに電話をした。
鳴っていたけど出なかった。
その後向こうからもかかって来ない。
もう一度かける勇気が無い。

そういえば、半年くらい前に野池さんにも電話した。
鳴っていたけど出なかった。
向こうからもかかってこなかった。
もう一度かける勇気がないのでそのままだ。

Williamは電話をすれば出るはずだ。
でも忙しそうだから躊躇する。
またどこかで会えそうな時に電話しよう。

キタローに電話したのも1年くらい前だ。
忙しそうだった。
また電話する勇気が無い。

そうそうずっと昔の沖縄の友達に電話したことがある。
全く知らない人が出た。
その番号は他の人のものになっていた。

佐賀の並川に電話できたらいいのに。
あの訛ったしゃべり方を聞きたい
「ああ、こがわさん? どおよ、最近」
頭の中で彼の声がリアルに再生される。
ああ、芹沢さんの声としゃべり方にそっくりだった。
あれは同じ九州だからだろうか?
ちょっと驚くほどそっくりだ。

先週並川からのメールを発見した。
1通だけ残っていた。
2015年の9月26日だ。

 「久しぶり、元気にしてますか?
  私は、パーキンソンにかかってしまいましたが、元気にやってます。」

ちょうど10年前だ。
偶然か?
このメールは会社のservice@stl-jp.comというアドレスに来ていた。
このアドレスは普段使わない。
ホームページのどこかにあったのだろう。
たぶん見ていなかった。
これに返信した形跡が無いから。
ああ、返事を書くんだった!と今切に思う。
ごめん。
その後札幌に行った時に電話した時はもう電話に出れなかった。
しばらくして並川君の友達から電話が来て亡くなったことを知った。
思い出してしまった。

並川君は面白い人だった。
札幌である日とんでもない物をとんでもない量持ってきた。
また彼女ができたことをアパートまで言いにきた。
また、飼っていた猫を公園に連れて行ったら帰って来ない
と言ってきた。
彼は札大を卒業して国に帰る時に
一緒にコンサートに出た。
並川の彼女のトッピとその友達のヒゲちゃん(彼女は福島の人だった)
と4人で歌った。
もう吹雪の江別の公民館。
真っ白な雪の夜だった。

並川が札幌を去る時、私は送って行っただろうか?
記憶が無い。
送ってあげていたらいいけど。

ごめん。並川










9/30/2025

北海道を去った本当の理由

 雪に負けた、と前に書いたけれど、
それは本当の理由じゃない。
雪は好きだった。
北海道にいるのがたまらなく苦痛になったのは、
どこへ行っても行き止まりだったからだ。
これは地理的な理由なのだけれど、
どこへ行っても「ああ、この向こうは海で行き止まりだ」
ということに気がつき
その閉塞感がたまらなく辛かった。
それは本州に居てもそうなだろうけど、
本州の場合はHOME(家)があった。
どこかに行っても帰れる場所があった。
だけど北海道には帰れる場所が無かった。
アパートに帰ってもそこはHOMEじゃない。
どっちに向かって走っても行き止まり。
そこから帰る場所が無い。
そういう行き場のない閉塞感が一番の理由だったと思う。


当時認められなかったこと

1970年代のことだけれど、デジタル録音が出てきた頃あまり真剣に実用化を
考えていなかったように思う。ただしSONYとかビクターとかの技術者を除いて。
我々一般はそんなものが普及するとは思っていなかった。
当時のメモリーなんか12ビットのステレオ音の10分間を一時的でさえ保存しておく
メモリーが無かったのだから。
それにやはり当時はまだアナログ音の方が格段に良いとされていたから。
それはたぶん写真の世界でも同じだったと思う。
デジタルカメラが出てくるのはもう10年以上後だけれど。
しかしその頃アメリカでは既にデジタル化が進んでいた。
1978年に見学に行ったアメリカの音響工場ではデジタルの音響機器、
特にスタジオ用途のもの、が実用になっていた。

CDのレコードが出たのが1982年だったと思う。
もうアナログレコードはだめだろうな、という予感はあったけれど、実際には
ビニルレコードはまだその後もけっこう続いていた。
それよりもオーディオファンはCDの音は良くないという風潮だった。
まだビニルレコードやオープンテープの方が音がいいと言うのが一般通説だった。
だけどCDとオープンテープの音を聞き分けられる人は居ないと思う。
CDもまだ当時はオープンテープに録音された音から作っていたのだから。
今でもまだアナログレコードの方が音が良いという説が流通しているのは
驚くべきことだ。
さらに言えば真空管アンプの方が音がいいとかいうこともある。
真空管アンプの音は聞きやすいが決して良い音ではない。
元の音が真空管の応答の悪さで柔らかくなっているからにすぎない。

マウスが出た時のことを覚えている。
パソコン関連の仕事をしていたのでマウスはかなり早くサンプルを手にした。
他の技術屋と話をしたが「こんなもの使えないな」という意見が多かった。
当時アップルコンピュータを使っていた人にしてそうだった。
しかしマウスはその後驚くべき速さで浸透していった。

それからさらに10年後くらいに、QRコードの試作を見た事があった。
あれはたぶんそれを開発した会社の人が持ってきたのだと思う。
やはり他の技術屋と話したけれど「こなんなもんも使えないな」と言っていた。
その当時は画像解析に使えるCPUも遅かったから、あのドットを解析
するだけの能力が無かった。
実際QRコードが実用になるのはさらに10年以上後だったと思う。

同じ頃だろうかブルートゥースの話が入ってきた。その当時はリモコンも
赤外通信だった。音も赤外か電波だった。ほぼ1対1の危機対応だった。
その時の技術者と話をして「こんなの使えないな」と言っていた。
ブルートゥースはその後ある程度使われていたけれど、今みたいに広く
使われるようになったのは少し後だったように思う。

ああ、USBがあった。
USBが出た時は便利だと思った。それ以前のRS232C,GPIB,HPIB,SCASIにくらべたら
接続の面倒くささが無かったから。でもUSBはその後の外部インターフェイスを
大きく変えることになった。
パラレルのインターフェイスなんかはデータをそのまま扱えたからIOを
作るのも楽だった。
しかしUSBはそれとはまったく異なるインターフェイスだった。だから
単純な8ビットの出力を作るにもUSBをどうするかから考えないといけなかった。
今ではパラレルの5V出力を出すのにUSBのアダプターを使えばいい。

そういうもの全てが今では中国製だけれど、ちょっと前までは
中国製はダメだという人が多かった。でも今では中国製の方が
優れているというのが現状だろう。
時代は変わるものだとつくづく思う。














 1980年代のことだけれど、

9/29/2025

思い出したこと

 子供の頃のことだけれど、
たぶん小学校の3年~5年くらいの時、
三鷹の下連雀に住んでいた。
そのころ時々空で「ドーン」という大きな音が聞こえた。
それはジェット機のソニックブームなのだけれど、
けっこう大きな音で頻繁に聴こえていたと思う。
最近というか70年を過ぎるとあんまり聞こえなくなったように思う。
このごろでは 全く聞こえない。
要するに占領直後くらいから日本の住宅地だろうがなんだろうが
彼らはジェット機の超音速を試していたのだろう。
厚木、横田、立川と米軍の基地は周りにあったから。

9/28/2025

改定版

 意味は無いのだけど、書き換えようと思って。
歌も録り直した。

もしも私にアイドルが気になった時があったとしたら、
天地真理だと思う。
夢中にはならなかったけれど彼女の歌は好きだった。
歌い方はそんなに好きではなかったけれど、
歌っている歌が好きだった。
それと彼女の笑顔が好きだった。

あの頃他にアイドルになりそうな女性歌手は誰がいただろう?
と思い出すとあんまり思い出せない。
ピンクレディーとかキャンディーズとかはちょっと違った。
山口百恵も太田裕美も岩崎宏美も違う。
南沙織もちょっと違うな。
ようするに天地真理以外に居なかったのだと思う。
だから天地真理が唯一のアイドルだったんだと思う。


またパラが墜落

 と言っても山沈したみたいだ。
富士宮だ。
なぜかまたタンデム飛行だ。
でも二人とも怪我で済んだみたい。
どのくらいの怪我かわからないけれど、
命に別状は無いということで良かった。

しかしこの「別状」っていうのは考えてみると変な言い方だな。
命には別に特別深刻なことは無い、という意味だろうか。
バールのようなものと同じくらい曖昧ないいかただな。


問題は何か、わかった

 何かが足りないとか、時間が無いとかじゃない。
何かをしようと思った時の気力が無いんだ。
だからいつまでもグズグズと何もやらない。
何もやれない。
そういうことだと思う。

今だって時間はいくらでもある。
まあ、期限がいつまでかはわからないけど
とにかく時間はある。
あとはそのやる気だ。
それが問題だ


9/24/2025

自動車教習所

わけあって自動車教習場のことを調べていた。
それで昔のことを思い出していた。

自動車免許は武蔵野自動車学校という吉祥寺に近いところにあった
自動車学校で取った。
1970年だった。
細かなことは忘れてしまったけど、面白かった。
たぶんどこでもそうだと思うけれど、いやな教官もいた。
バカな生徒もいた。

ひとつよく覚えていることは、実地の最終試験の時に
3人生徒が乗って順番に試験をするのだけど、
私ともう一人が信号待ちで青になって左折する時に
右を確認した。
それを試験が終わったあとで注意された。
つまり、右を確認する必要は無い。左だけを注意して
曲がればよい。と
教官は「運転の第一原則として信頼の原則というものがある。
他の運転者を信頼することだ。右からは車は来ない」と言う。
これは今はどうだろう?
たぶんそんなことは言わないだろうと思う。

試験は無事パスしたけれど、今でもその教官の言った
ことを覚えている。

9/19/2025

処分しよう

 要するに何もできないのは
やろうと思ってることが多すぎるからだろう。
それに思い至ったので、余分な物は処分することにした。
断捨離ではない、全部いるものなのだ。
だけどそれを全部やってるわけにはいかないので処分する。
割愛に近い。
キーボードを処分した。
どうせ一度に弾けるのは1台なのだから、
他の物は弾きたいけれど処分する。
イフェクター類も処分。
たぶんマルチが1台あれば済む。
どうせ録音したらどれがどれかわからない。
本もそう。
レコードもそう。
Doc Watsonのフォークウェイズ盤とか、
そばに置いておきたいのだけど、処分する。
そうしないと私が居なくなった時に大変だろうから。

それでできることをやろう。
やれることが限られればできるだろう、きっと

9/18/2025

ビオラは何をやってるの?

 というYouTubeチェンネルがあった。
これが非常に面白い。
オーケストラの音と共にビオラのパートを弾いているらしい。
だいたいバイオリンやホルンやオーボエやホルンやフルートなどと
比較すると主旋律ではなく、だいたいがハモのパートを弾いている。
それがスコアーも一緒に見れるのでどこをどう弾いているかがわかる。
思うのは、これって弾いてて面白いのかなあ?
ということ。
ほとんど和音の構成音を弾いてる。
たぶんめったに主旋律を弾くことはない。
縁の下のなんとかかもしれないけど、
なんか地味だな。
ずっとこれっていやにならないかな?



車輪のパラドックス

 なぜかこれがYouTubeで出て来て見てしまった。
深く考えずに見てしまうと、「ああ、なるほど」と思ってしまう。
「確かに、同じ距離動いてるよね」
これはかなり深刻にはまり込んでしまう問題だ。
昔の学者がこれにはまってしまったのもうなづける。
たぶん模型を作ってゆっくり眺めればわかるのか?
いやわからないだろう。
このパラドックスは内側の円が回転と同時に
水平移動しているということに気がつかないと
永遠にはまり込んでしまう。
ちょっと面白い話だった。


9/17/2025

メモリア

 という映画を観た。
ものすごく静かな映画だ。
音も言葉もギリギリにしか聞こえない。

主人公(女性)が「ドン」という謎の音の幻聴になやんでいる。
それが何であるかを探して歩くのがストーリーだ。
最後にその音が何であるのかがわかるのだけど、
意外にもSFめいた話だった。

だけど面白いシーンがいくつかあった。
巨大なコンソールのあるスタジオでの音の実験シーンとか
自分が記憶していると思っていた夢が
実は他の人の記憶だったとか。
とても面白い。

だけど言葉が少ない。
音はあるけれどすごく静かだ。
最後まで静かな映画だった。

でもなぜかちょっと感動した。


9/15/2025

最近よく見る夢は

 妻がどこかに行ってしまう夢。
あるいはどこかで一度別れるのだけど、そのあと見つからない。
携帯で連絡しようにも携帯が使えない。
探し回っているうちにとんでもなく遠いところまで行ってしまう。
家に帰ろうにも「家」がどこなのかわからない。
横浜なのか横須賀なのか三鷹なのか?わからない。
夢から覚めると家にいるとわかって安心する。

子供の頃見た夢を覚えているだろうか?
小さな頃のは覚えていないかな。
5歳くらいの時の夢かほんとかわからない夢は
前に書いたように思う。
座敷の方で寝ているとふすまの隙間から居間が見えて
だれか子供がおもちゃの汽車で遊んでいた。
あれは夢なのか本当だったのかわからない。

高校生くらいに見た夢は覚えている。
受験の時で頭がおかしくなっていた時期だ。
金縛りにあった。
その頃は金縛りがどういうものなのかわからなくて
とても怖かった。
頭の中でキーーンという音が鳴り続いていて
ガラスが割れる音が聞こえた
それが終わると横になったまま体が浮いた
そして茶の間の方にそのまま浮かんで行って
外に出た
屋根よりも少し低いくらいのところにいて
母が縁側で洗濯物を干していた。
母の白い割烹着を覚えている。

同じ場所の夢をもう一度見ている
確か30歳かそこらだった。
夢の中でまた縁側で母が洗濯物を干していた。
私がそこに行くと
「あら起きてたの?」と母が言った。
「起きてるよ」と私が言う。
「学校に行くんでしょう?」と母が言う。
私は、そうだ!まだ学生だったんだ。
とほっとする。
でも目が覚める
そういう夢だった






9/13/2025

みんなどこかに行ってしまう

 最近特にそう思う。
歳下も歳上もどんどん行ってしまう。
どうすんの?これ
稲垣足穂が歳を取り始めてから
「しまった!もっと早く会っておくんだった!」
と少年たちが歳をとるのを嘆いたことよりも
もっとずっとずっと悲しむべきレベルで時間が流れてしまう。
50歳くらいのころは「ああ、あの人が逝ってしまったなあ」
くらいにしか思わなかったのだが、
いよいよ自分の番が近くなってきた
あるいは先の方で人生が崖のように落ち込んでいるのが
見えてきたように思う。
悲しんでいる時間さえも無いかもしれない
とはいうものの日々にやらなければいけないことがあるので
それを片付けているうちに一日が終わってしまう。
考えてみると30歳の頃からずっとそれだった。
「よし!仕事はやめて自分のことをしよう!」
なんて思っただろうか?
そんなこと考える暇もなかったように思う。
だからあっと言う間だったんだ。
それでも自分の歌とか演奏とか少しは残せた
YouTubeがそれを消さない限り残るだろう、きっと。
残ったからどうなんだ? というのはあるけどね。
文豪のように作品が未来に渡って残るわけじゃない。
いや、未来に残ってどうなんだ?
という疑問はあるけれど、
何も残らずこの世からきれいさっぱり居なくなる
というのも寂しい気がする。
少なくとも今この瞬間にはそう思う。
死んでしまったらそれすら意味が無いかもしれない。

インターネットの5チャンネルあたりで良く見る
「死んだらどうなる?」という書き込みだけど、
たいてい「それは無だ!」と言うやつが現れて終わる。
だけどそこで「無だ」と言ってる事には
死後の世界を想定してそこには何もない、という意味で言ってる
と思う。つまり一応死後の世界はあることを前提にしているように思える。
だけど死後の世界というのは自分だけ居なくなった今の世界が
ずっと続いて行くという意味だ。
自分には死後のせかいだけど他の人には今まで通り続いてい行く
生きている世界だ。
死後の世界はあるか?と言えば何の疑問もなく在ると言うしかない。
死後であるのは自分いとってだけだ、
他の人にとっては今まで通り生きている世界なのだから。
とても寂しい(笑)








喜びも悲しみも

 幾年月
という映画はリアルタイムで見たことを思い出した。

私は父の手を握っていた。
映画館はとても混んでいたように思う。
何も見えなかったから。
あれは4歳の時だと思う。
映画の画面とはか全く覚えていないけれど
壮大な音楽の感じは覚えている

9/09/2025

いや違う、未知との遭遇のことを書こうと思ってたんだ

 「未知との遭遇」のあの5つの音だけど、
あれは天才的だね。
ジョン・ウイリアムズが死ぬ気で考えたのだと思う。
そして今あの映画はあの5つの音のためにあるように思う。
いや、あの映画はあの5つの音の映画だと思う。
一度聴いたら忘れないメロディーだ。

誰か(外国人)が書いていたあの音についての解説を読んだけれど、
シューベルトの「魔王」の旋律に似てるとか、リヒャルト・ストラウスの
「ばらの騎士」に似ているとか言ってるけど
5つの音なんだから、どこかの何かに「似ている」というのは
確率的に絶対あるでしょう。
そういうことじゃなくて、ジョン・ウイリアムズが3音と4音を
オクターブ降下させたこととか天才的だと思う。
オクターブ飛び上がるメロディーというのはいくらでもある。
ドヴォルザークの「母の教えたまいし歌」なんか有名だけど、
いくらでもある。
でもジョン・ウイリアムスのあのオクターブはすごく効果的だ。
特にシンセサイザーで弾いた時に効果を発揮する。

最初の「レ」は次の「ミ」の音で消えてしまうけど
3つ目の「ド」と次のオクターブ下の「ド」と
最後の「ソ」は単純かつ普遍的な「ドミソ」の和音だ。
だけどこのオクターブ下の「ド」が無いとかなり陳腐だ。
そういう意味で天才的だと思う。






9/08/2025

手塚治虫とやなせたかし

 あんな風に二人で徹夜で仕事している所を見ていたら
泣けてきた。
そういう時があったな、と思い出す。
まっちゃんと一緒に夜明けまで仕事したことがあった。
あるいは神津さんと一緒に次の日の昼まで一緒にプログラムを
組んだことがあった。
だいたい何もしゃべらない。
たまに冗談を言うくらい。
その感じがあのテレビではよく出ていた。
ほんとに手塚とやなせたかしがあんな風にやっていたかは知らない。
だけどそれはそれでいい。

徹夜明けの朝の感じを時々思い出す。
決して気持ちいいわけじゃない。
あの感じ。

徹夜で運転して朝日の中を走るのもそうだ。
あの感じ。





9/06/2025

America S&G

 どうでもいいんだけど、
いや自分だって昔はそうだったから、まあいいんだけど
一度気になったらどうしても気になってしまう。

Let us be lovers we'll marry our fortunes together

どうして「結婚しよう」という訳になってしまうのか?
まだ友達同士あるいは恋人どうしなのに
バスに乗ろうっていう時に「結婚しよう」なんて言うわけ無いだろう!
ほとんどの人が「結婚しよう」という訳を書いている、
あるいは歌っている。
ある人に至っては親切にもカンマを付けている。
Let us be lovers, we'll marry our fortunes together
おう!そしたらその後のour fortunes togetherはどうするの?

英語の和訳全般に言えることだけれど、
何か英語には日本人にはわからない特殊な物があると思い込んでる。
だからこういう訳になってしまう。
じゃあ、日本人二人のバス旅だったら最初になんて言うだろう?
とは考えない。
ここにmarryがあるから、とりえず「結婚」だ、としてしまう。

何だったかなあ?他にもそういうのがあってどうしても我慢できなかったから
言ってやったら怒った。
怒るだろうね、知らない人から文句つけられたら。
今はほら翻訳とかやってくれるのがあるから、それでやってしまうと
こうなってしまう。
GPTでやるとどうなるかは知らない。
誰かやってみて、、

それじゃあ、さっきバス乗り場で話したばかりの彼女と、
いや、ああ、もう少し付き合った彼女だったとしても、
席を隣同士にして座ったらなんていうだろう?最初に
「よろしく、恋人同士になって結婚しよう!」なんて絶対に言わない。

この歌だって冗談で「恋人同士になろう!」とは言っているけど、
「結婚しよう」なんて言ってない。
この歌の会話は彼が言っているジョークなんだ。
後の方にも出て来るけど「スパイ」の話もね。

ちょっと待って!じゃあその後の

I've got some real estate here in my bag.

はなんて訳してるんだろう?
   ある人訳:「本物の不動産がこのバッグの中に入ってる」
   別のある人訳:「ある不動産がこのバッグに入ってる」
だいたいこんな訳だ。
バッグに入る不動産って何?

まあそんな感じだね。
さっきのカンマ打っちゃってる人、
どうしてもそこで切りたかったんだろうね。
そうしないと”結婚しよう”にならないから。

「僕らの幸運を一緒にしよう」とか「運命を共にしよう」(硬いな)
とかいう訳にはならなかったんだろうね。



9/05/2025

神保町

 昨日、神保町に行ってきた。
リソグラフの画集を持って行って売ってきた。
本は大きくてすごく重い。
本屋を2、3件回ったらもう嫌になった。
15年以上前だと10万円で引き取ってくれるところがあったけれど、
さすがに今はインターネットで同じものが大量に出ているから
値段は10分の1以下だ。
一番高い金額で行ってくれたところに置いて来た。
7千円だった。
まあ、外装が少し傷んでいたからしょうがないし、
それより重いので早く解放されたかった。

また地下鉄に乗って座ったら、妙に満たされた気分だった。
希望金額には全然至らなかったのに、
それで考えてみたら持って行った本屋のおじさんと
話をしたことを思い出していた。
本の話やネットで売られている本のことなど、
3人3様に話をした。
昨日まで人と(男の大人)話すのは久しぶりだった。
どうもその話ができたことで満足できたらしい。
立ち話ではあったけれど、いろいろ話ができた。
それはとても有意義だった。

前に神保町に行ったのはいつだったか思い出せない。
たぶん10年は行ってない。
行く用事が無い。
お茶の水から靖国通りの前までは何度も行った。
楽器屋には何度も行ったから。
だけど靖国通りは越えていなかった。

車で行こうか迷ったけどやめた。
それでしょうがなく思い本を抱えて行った。
ああ、そうだ、すごく暑かった。



9/03/2025

今度はパラの事故2件

 この一週間にパラグライダーの2つの死亡事故。
その前のソアラーの死亡事故を入れると3回続けてだ。
これまでもグライダー関係の事故は続いて起きることが多かった。

最初のパラは山沈したらしい。
13時間も木の上にいたとか。
ハングもパラも山沈(山に落ちる)、ツリーラン(木にランディング)は
普通にあったけれど、死亡事故は無かったように思う。
私の友人も5,6時間誰も気がつかずに自分で木からおりてきた人がいた。
でも仲間と一緒だったら「そういえばあいついないな」と気がつくはず。
それに13時間くらい木の上に居ても死ぬことは無い。
たぶん怪我していたのだろう。
降ろすときにそんなに焦った様子が無いので
出血ではなくどこかを打ったのだろう、きっと。

今日の事故は海に落ちた。
詳細がわからないがモーター・パラのタンデムフライトだったようだ。
モーター・パラがどうして? と思う。
見た人によると回転しながら落ちたらしい。
スパイラルダイブに陥ってしまったようだ。
問題は落ちたのが海だったということだ。
モーター・パラだから二人とも機体にハーネスごと固定されていたと思う。
そのまま海に落ちたら機体(エンジン)と一緒に沈んでしまう。
だから海や湖の近くで飛ぶときはナイフを持って飛ぶ必要がある。
ハーネスを切り離さないと泳ぐことも浮くこともできないから。
今日のパイロットの人はどうだったのだろう?
パイロットもだけどタンデムで乗っていた女性のお客さんは災難だった。
さっきのニュースでは亡くなったとは言っていなかった。
心肺停止だとか。
生還するといいのだけど。

9/01/2025

グライダーの墜落

 というニュースが今日あった。
映像を見るとすごい壊れ方だ。
このグライダーと言ってるのはソアラーだ。
大きなやつ。
それが完全にばらばらになっている。
どういう落ち方をしたのだろう?
滑空したいたならあんな壊れ方はしない。
あれはとても急な角度で落ちたようだ。

場所は利根川。
ウルトラライトプレーンとかの飛行場がある。
スカイダイビングの着地場所もある。
その川淵の草原の中みたいだ。

まだ20代の女性だったようだ。
焦ったであろうと思うといたたまれない。
だいたいソアラーって何か安全装置があるんだろうか?
まったく知らないけど、聴いたこともない。

ハングはパイロットが操縦不能になったら
手を離せば機体が勝手に水平になってどこかに着地する。
機体が壊れてもだいたいグルグル回りながらゆっくり落ちて来る。
あるいは緊急パラシュートを広げればゆっくり降りて来る。
その他の事故は大体パイロットが何かやってしまったせいだ。

だけどソアラーはパラシュートを備えているのだろうか?
体を守る装備があるのだろうか?

今調べたらパラシュートを装備するのは競技大会の時だけらしい。
通常は装備しないらしい。

何か非常の場合の装置が欲しい。



8/30/2025

駅ピアノとか・・

 駅ピアノとか街ピアノとか、いろいろなところにピアノがあって
引きたい人が弾くやつ
あれ、うるさいと思っている
全てではないけれど、だいたい90%くらいうるさい。
それは私だけかと思って妻に聞いたら
やっぱりうるさいらしい。
それで良く観察して見たのだけど、
タッチというか鍵盤をたたく強弱が無いのに気付いた。
みな一生懸命に練習した曲を弾いている。
だから一本調子なのだ。
同じく街角で弾き語りしてるおっさんも同じ
がなるように歌っている。
あれだ。
つまり指一本一本に気を遣っていない。
ばんばん弾いている。
はいよくできました!ということなのだけど、
人に聴かせる演奏じゃない。

まれに「お!」と思う演奏に出会う。
覚えているのは高校生くらいの男の子が駅で弾いていた時、
曲は知らなかったけれど、音一つ一つに気を配って弾いていた。
あの子はきっといいピアノ弾きになっただろう。

8/26/2025

1990年

 1990年にCDを作ろうという話があって、
皆集まってスタジオで歌を録音した。
私が知ってる人もいたがほとんどはWiliamのつながりだった。
この一連の写真はビデオから撮ったものなので画像が粗いけれど、
それはそれでまたいい。
(ビデオをハードコピーしたプリントが残っていた。元のビデオテープは無い)
なんで1990年だったのかわからないけれど、
おう!斉藤君だ。ほとんどこの頃以来会っていない。
なんでネクタイだったんだ?
いや、これって1990年だった?
なんかもうよくわからない。
野呂君はその後何度か会ってるような気がする。
吉野はついこの前、花輪氏の葬儀で会った。
名前が思い出せない。
ひょっとして古川氏って言ったっけ?違うかな?

この左下で笑ってる二人は全く覚えていない。
このミキサーの人はなって言ったかなあ?
先週くらいまで覚えていたんだけど。

これって相川君?
何度も見てると違う人のようにも思えてくる。


もうとにかくギターはこの人だね。
このスタジオで何日くらいやったんだろう?
最後にもう一度一人で行って何かの確認をしたような記憶があるけど。
もうあまりに遠い事でよく見えない。







8/25/2025

アンビエント音楽

というのがYouTubeとかに多いのだけど、
「音楽」なんだろうか?
・・・ということはエレベータ音楽のとこに書いたような気もするが。
つまりシンセにきっかけになる音を与えて、それを勝手に繰り返している音に
他の音を重ねて”あたかも”曲のように仕上げているのだけれど、
”音”ではあるけれど、”音楽”だろうか?
それはまだ自分でノブを操作したりしているから”自作”ではあるけれど、
最近ではドローン・シンセとかいうのがあって、
もう勝手に音を出して”あたかも”それらしい音楽風に音を出せる。
そうなるとそれは機械のノイズでしかないのではないだろうか?

と言うのは序章なのだけれど、
アンビエント音楽という”あたかも”音楽”っぽい音は
あれは”音楽”なのだろうか?
シンセを使わずともそれらしい”音”は作れると思う。
しかし”音”だ。それは。
と書いたところで「ミュージック・コンクレート」のことを思い出した。
ミュージック・コンクレートを生み出したピエール・シェフェール自身が
後年「あれは無駄だった」とか言ってるらしいが、
作品を聴いた感じではあれは”音楽”だと思う。
楽器の音が生音に代わっただけで、あれは十分音楽のように思う。
スタンリー・キューブリックがそれを”ごみ”と言ったらしいけれど、
そういうならリゲティの「レクイエム」だって十分”ごみ”だ。
なぜリゲティーをあの映画に使った?

ドローンシンセ音楽やアンビエント音楽はゴミだが、
ミュージック・コンクレートは音楽だと思う。
あれがだめなら絵画のコラージュもゴミだ。
ポロックの絵なんかゴミ以下だ。
だけどコラージュは「絵画」だと思うし、ポロックも絵画だと思う。

なぜならそこに作者の感情や思いや行為が凝縮されているから。
ミュージック・コンクレートもそう。どの音をどういう風に組み上げるか
作者はそれを考えて構成しているから。

だけどアンビエントもドローンもほとんど機械任せだ。
あれこそ「ごみ」だと思う。

・・・ああ、アンビエントはそれでもまだ少しましかもしれない。

8/23/2025

仕事は断る

 もう仕事を辞めて久しいけれど、
今でも受けている人が何人かいる。
葬儀屋さんとピアノの先生と安全管理会社と車好きの人とDJやってる人だ。
あとは居ない。
のだけれど昨日電話があった。
出なかった。
電話の相手は知っている人だけれど
電話に出ればその仕事をしなくてはいけないから。
申し訳ないけど電話には出なかった。
留守電とメールも入っていた。
どっちも出なかった。
困っているだろことはわかった。
でももうやりたくない。
面倒なのだ内容が、いくつかの曲を切り貼りして
新しい曲を作るのだけど
始めたらのめり込むから。
適当につなげればいいのだろうけど
それでは私が満足しない。

というわけでもう他の仕事はしないことにした。

8/22/2025

おしん

 今日テレビを見てたら「おしん」のことをやっていた。
驚いたことに「おしん」って1983年だったんだ!
もっと前、例えば1968年とかのような気がしていた。
「おはなはん」の次くらい。
1983年と言えばああた、結構最近でないですか。
私札幌から東京に戻って深川で暮らし始めたころだ。
え~!あの頃だったのかなあ、当時の事と「おしん」のテレビが
重ならない。
1983年は小林克己のベストヒットUSAの印象だなあ~
それとあの「おしん」はどうしても重ならない。
だいたい「おしん」って見てただろうか?
後から見たような気がするなあ。
だからかなあ?



8/21/2025

もう一度見たい夢だった

 例によって今朝見た夢の話

私と妻はどこかに出かけるところだった。
私が少し遅れたので妻は先に出てしまった。
私が後から追ったけれどどこに居るのかわからない。
それでスマホで聞いてみようと思いスマホをとり出す。
そして藤棚のような木の下の机のところでスマホで
電話をかける。
でも出ない。
「ああ、まいったなあ、どこにいるだろう?」と焦る。
そして行っただろうと思う方に歩いて行く。
すると途中でスマホが無いことに気づく。
ああ、さっきの藤棚のところだと思い、そこへ行く。
しかし机の上に置いたはずのスマホが無い。
困った。
妻も不安に思っているだろう?と心配になる。
しかし、仕方ないので向かったと思う方に歩いて行く。
どんどん歩いて行くと知らない町に入る。
でもこっちだろう、と思いどんどん歩いて行く。
道は山道になって岩場になってくる。
細い尾根のようなところを這いながら行くと
その先で道が無くなって尖った槍の先のようになっている。
それ以上行けない。
私の後から女性があるいて来ていたようで、
引っ返して元の下の方に向かって歩いて行く。
道は片側が深い谷のようになっていて怖い。
何とか下まで降りる。
そこに工事をしている人達が休憩していた。
その一人に「ここは何県のなんというところですか?」
と聞く。
その人は「何言ってるんだ。なんでそんなこと聞くんだ?」
と取り合ってくれない。
仕方なく先を歩いて行く。
道はまた急な坂道になって来る。
上に行くと山の下に大きな湖が見える。
その向こうには山がつらなってすごくきれいだ。
カメラを持っていないことを後悔する。
ふと後ろを見るとさっきの工事をしていた人がついてきている。
「一人だと心配だからと言う。
だけどもうどっちへ行ったらいいか全くわからない。
スマホがあれば地図が出るのにと思う。
どうしようもなく不安になる。

そこで夢は終わる。
いやな夢だったけれど湖の景色をもう一度見たい。




8/20/2025

ロワールの城

 フランスにもドイツにも行ったことが無いけれど、
行ったような気がするのは父が持っていた「ロワールの旅」という
本のせいだと思う。
中学生の頃その本を父の部屋から見つけていつも見ていた。
その本にはロワールの城の写真と旅行記が書かれていた。
だからロワールの城の名前はほとんど覚えている。
父が持っていたからたぶん1960年代後期の出版だと思う。
その本を欲しいと思いメルカリとヤフオクを見たけれど無かった。
その本は日本人が書いていた。著者の名前は憶えていない。
確か今から15年ほど前にやはりヤフオクで探したことがあった。
その時はその本があった。
本の体裁で覚えていた。
その時買っておけば良かった。
今はもう出てこないだろう。

中学生の私はその写真を見てインクペンで絵を描いていた。
写真がカラーだったかどうか忘れたけれど、色分けして描いていたから
たぶんカラー写真だったと思う。
いや白黒だったかもしれない。
とにかく絵はカラーで描いていた。
何をそんなに一生懸命になって描いていたかわからないけど
とにかくたくさん描いた。
でもその後全部捨てた。
今は記憶の中にしか残っていない。
描いている時の三鷹の四畳半の部屋に太陽の光が
ガラス窓から入っていた印象が強い。

8/19/2025

計算尺のこと

 メルカリで¥1000以下で売っているので欲しくなった。
もちろん別に必要だからではない。
もう一度使ってみたいだけだ。
だいたい掛け算と割り算にしか使っていなかった。
実験室では計算尺か手回しの計算機しか許されていなかった。
謎だけど。
電卓のが便利なのに。
電卓は当時関数電卓が4万円くらいだった。
高いと言えば高い。
計算尺では加減計算をやったことがなかったと思う。
有効数字3桁で計算できるのだろうか?
という興味もある。

昨日YouTubeを見ていたらオリベッティーの27-2とかいう計算機を見つけた。
これは世界一複雑な機械と謳っているけれど、ほんとにそうかもしれない。
YouTubeでは動いてはいなかったけれど、複雑さは十分わかった。
たぶん手回し計算機の入力をキーボードにして、出力をプリンターにした
ようなものだろうと思う。
手回しの部分をモーターで回すようだ。
大きなタイプライタくらいの中に機械がびっしり詰まっている。
もう何かなんだかわからない。
だけど動かせばまだ動くような感じだった。
それが1967年だというのだけど、もうその頃は
電子式の計算機があったように思うのだけれど。
たぶんその2、3年後には電卓ができていると思う。
だからオリベッティーの寿命は非常に短かかったと思う。

それで計算尺だけど、
有効数字3桁の計算ならすごく早くできると思う。
というか数値をセットした時点で答えが時差ゼロで出ているのだから
ものすごく早い。
量子コンピュータ並みだ。
ただし手で操作する時間はかかる。
例えば7÷3だとカーソルを7に合わせて
真ん中の尺の3をそのカーソルに合わせる。
すると下のメモリの2.33あたりに1のメモリが来る。
確かそんな感じだったと思う。
対数計算もできた。主要な科学定数はすぐにセットできた。

あれはしかし、今となっては懐かしい以外に使い道が無いだろうな。




8/15/2025

宇宙に行くかもしれないという夢を見た

 私と学校時代の友達小沼の二人が宇宙に行くことになった。
小沼は元々しっかりしたやつだから宇宙に行くのも平気そうだった。
私は宇宙服を着て緊張している。
そして「ほんとうに宇宙にゆくのだろうか?」と
考えている。
気持ちが悪くなったり、
閉所が怖くなったりしたらどうしよう?
と考えている。
周りはすっかり出発の準備をしている。
私はとても怖い。
やっぱりやめよう、と思う。
小沼が笑いながら私を見ている。

そういう夢だった。

宇宙へ行くという状況を考えたことが無かった。
だから夢でそういうことになって
とても不安だった。
今考えても、絶対宇宙になんか行きたくない。
ハングで空を飛ぶのも危険だけれど、
怖いという感覚は無い。
別にどこかに閉じ込められるわけではないし、
強制的に閉じ込められるわけでもないから。
宇宙は怖い。
無限の空間が広がっているけれど
それが余計に怖い
山から空に飛びだすのとは全く違う
空も広いけれど
宇宙の広さはとても狭いように思う
身動きできない
そういうのはとても怖い





8/05/2025

シェーン

 さっきNHKの映像の世紀を見ていた。
ノルマンディー上陸のことをやっていた。
シェーンを作ったジョージ・スティーヴンスがその時カラーフィルムで
撮影していたということを知った。
そこからパリ解放と終戦を撮っていた。
彼はパリが解放された直後にパリに入ったそうだ。
そこから歓喜に沸くパリ市民やドイツ軍捕虜、
ドイツに加担していたフランス人たちが市民によって
粛清された時もジョージはそこにいた。
そしてユダヤ人を迫害したナチと同様のことをパリ市民が
ドイツ人に対して行っているのを見た。
また彼自身ナチに対しては同様の怒りを持っていたという。
そのような経験をしたジョージがのちに映画「シェーン」を
作った。

それを知るともう一度あの映画を観たくなって
アマゾンで見始めた。
しかしまだ最初の方なのにどうしようもなく泣けてきた。
あの映画を観に行ったのは小学校の6年の時だった。
新宿ミラノ座だった。
大きなスクリーンの前の方で見た。
何がだめかと言うと音楽だ。
映画が始まってすぐにあのテーマが流れる。
しかも演奏は後にレコードになったものとは異なる
映画の上でだけ流れた演奏だ。
それを聴いていたら小学生の時に一人でスクリーンの前に
座っていた時を思い出した。
まるであの時が再現された。
それでたまらなく懐かしくなった。

シェーンの映画はもう何度観たかわからない。
でも今日見たのはまるで初めて見るかのような感じがした。

だから改めてシェーンを見ることはできなかった。
最初の5分くらいしか観れなかった。

またしばらくして、忘れた頃に観てみよう。


8/04/2025

右と左の耳のこと

 前に音程が変って聞こえるということを書いたけれど、
その後はその症状は出ていない。
そのかわりに変なことに気がついた。
綿棒で耳掃除をしていて奥まで綿棒を入れて行くと
鼓膜のところでカサカサと触れた音がする
その深さが右と左で2センチくらい違う。
右の方が浅い。
左はかなり奥まで入れないとカサカサ鳴らない。
みなそうなんだろうか?
ちょっと調べたら同じ疑問の人がいたけれど
その人はもっと入口近くの形状を言っているようだ。
でも鼓膜までの深さがかなり違うのは明らかだ。
そうなると右と左の聞こえ方も違うのではないだろうか?

目は右が生まれつき緑内障で上半分が見えない。
左は正常。

喉を医者に診てもらった時、2か所の病院でレントゲンを
撮ってくれてわかったのは、声帯が半分しか働いていないらしい。
半分の声帯で声を出しているらしい。
動いていないのが右か左かわからないけれど。
時々歌う声が小さいと言われるのもそのせいだろうか?

あとは内臓とかは変ってるところは無さそうだ。


8/02/2025

ご安全に

 最近は工事現場に行っていないからわからないけど、
ほんとにこういう挨拶してるのだろうか?
今仕事で受けているDVDが安全管理の映像なのだけど、
朝礼の最初の挨拶が「ご安全に」なのだ。
これはDVD製作会社の企てだろうな。
そう信じたい。
普通だと「おはようございます!では今日も一日安全に!」
だと思うけど。

それからネットでも気になるものがある、例えばYouTubeのドラレコ
だけど、投稿主は「撮影者様は・・・」と言っている。
なにか非常に気になる。
「撮影者は・・・」でいいのに。
変に媚びた言い方をしている。
同じようなのはいくらでもある。
「投稿者様」「演奏者様」
なんで「様」を付けるんだろう?
それが丁寧で礼儀正しいと思っているのだろうか?
私には非常に馬鹿にしているとしか思えないのだが。


8/01/2025

なんか調子が出ない

 いつもなら「よし!この曲をやろう」と思うと
すぐに取り掛かるのだけれど、
どうもこのところ乗らない。
なんかやってもチューニングが狂っているように聞こえて、
声も音痴に聞こえる。
だから全然乗らないし、長続きしない。

頭には完成形があるのだけど、全然そんなものにならない。
なんていうか響いてこない。
今も停滞中

こういうことは時々あるよね。
だからしばらくしてまた始めると良かったりする。
それまではダラダラしていよう

7/30/2025

楽しいこと、楽しそうなこと

 何か無いだろうか?
もうやりたいことはみんなやってしまったように思う。
例えばやりたくないことは?
スカイダイビング、バンジージャンプ、フリーフォール、
ボルダリングとかロッククライミングとか
登山一般、ラフティングとかいうやつ、
全部やりたくない。
全てハンググライダーにはかなわない。
かろうじてシュノーケリングはちょっとやりたい。
泳げないけど海の中は好きだ。
学生の時に三宅島で潜った時の海の底は綺麗だった。
すごく印象に残っている。
泳げないのによく潜ったと思う。

それくらいかな?

できればもう一度アリゾナの砂漠で一日過ごしたい。
何をするわけでもなく
乾いた砂漠を眺めていたい。

それくらいかな?

ああ、静かに降る雪の中を歩きたい。
夜だ。
人のいない街を歩きたい。
どこへということもなく

7/28/2025

太田君のこと

 今日フェイスブックで「友達かも」というので太田昇吾
という名前が出た。
おう!知ってるよ。筑波で飛んでた。
というのはいいのだけど、写真は車椅子に乗っている後ろ姿だった。
いやな予感がした。
読んでみると2023年の春に事故したみたいだ。
ハードランディングと書いてあるから着陸の時に何かあったようだ。
太田君は私が筑波に行ったころすでにプロ級のパイロットだった。
私がハング同士の衝突を起こした時、いろいろ意見を言ってくれた。
ハングは上を跳ぶ人が下にいる人に空を譲らないといけないのだけど
私のすぐ上を飛んでいた人が下から登って来た私をよけずにいたため
衝突してしまった。
そのあとで、飛行の安全についていろいろ尽力してくれた。

ある時、太田君が落ちたという声が聞こえてきた。
でも太田君はそのあと現れて、機体が折れてしまったけど、
そのまま落ちてきた。と言っていた。
ハングは折れてもグルグル回りながら落ちて来るので
速度はそんなに出ない。あまりダメージ無く降りられる。
またある時はちょっとこの強風では飛べないだろう!
という風の中、空から現れてランディングしたのには驚いた。

私が筑波に行かなくなった後も、ハングの大会で成績を上げていた。
そんな太田君が事故だとかちょっと信じられない。
頸椎をやってしまったらしい。
現在では治療法もいろいろあるようだから
なんとか回復してくれるといいけど。


せめないで

 今朝の5 時だ。
いやな夢を見た。
昔のことなのに今のように再現される。
自分がいいかげんなやつだということは
もう十分わかったから責めないでくれ
空が明るくなってきた。


7/25/2025

欲しい物リスト

 何が欲しいか?ってアマゾンのリストに並べているけれど
それを買ったことは少ない。
っていうか1万円の物はもちろん、数千円の物でも
買うかどうか考えて結局買わない。
しかしこのところ千円くらいの物をいくつか買っている。
「ほんとに必要なのか?」と思うものばかりだけど
なんか買うと嬉しくなる。来るのが楽しみ。
先日も細いロープとストッパーを買った。
窓が全開になるのを止めようと思って、
しかしロープと思って注文した物はゴム紐だった。
まあ、そういうこともある。

考えてみると数万円のものを買うには結構勇気がいる。
考えて買わずにいると全く別の所から金の必要性が出て来て
買い物は破棄になる。
そういうことを何十年も続けているように思う。
仕事をしていた時は毎月ギリギリだったから欲しい物も
買わずにいたかと言うとそうでっもない。
結構遊び道具を買ってしまった。
それでもなんとかなった。

世の中なんとかなるもんだと思う。

前にも書いたけれど、どうしようもない事態になると、
不思議なことにどこかからお金が出て来る。
これは本当に不思議だった。
借りたこともあったけれど、全部(たぶん)返した。
一番不思議だったのは差し押さえ状が来て、しょうがないので
区役所に行ったら、「財産を調べさせていただきます」
と言われて銀行や何やら調べられて、
全く記憶にない生命保険が満期になったままで
そこに結構なお金が残っていた。
区役所に払ってもだいぶ残った。
あれは奇跡かあるいは天国の誰かがやってくれたのだと思う。
他にも何度もそういう不思議なことがあった。
「生かされている」という嫌な言葉があるけれど
でもそれが一番当てはまるような気がする。

昨日メルカリを見ていて欲しいGoProがあった。
「今は節約の時だ!」と思った。
それでふと見ると売上金というのが出てきて
それで充分買える金額だった。
これは前にフェンダ-のギターを売った時の売り上げだった。
そのままになっていた。
それで迷わず買ってしまった。
そのうち着くだろう。

世の中は不思議で出来ている

7/24/2025

稲垣足穂・植草甚一・物部長興

 稲垣足穂も植草甚一も70年代から良く読んだ。
稲垣さんは76歳で亡くなって植草さんは71歳だったようだ。
どちらの人も当時はすごい爺さんだと思っていた。
だけどもう既に植草さんを追い越し、稲垣さんにあと少しだ。
どちらも明治生まれだった。
どちらの人とも会ったことはない。
本の中でだけだ。

もう一人70年代私の身近にいた爺さんが物部長興さんだ。
お間思い出すとたぶん60歳くらいだったと思うのだけど、
今の自分より歳をとっているように思えた。
最後に見かけたのが1980年頃だったと思う。
車に乗って吉祥寺を走っていたら道を歩いていたのを見かけた。
物部さんの病院はべ兵連やその他の学生運動家の集まる場所になっていた。
前に書いたと思うけれど核マルと中核が一緒にいた。
他のセクトの人もいたし、企業の運動家もいた。
物部さんは運動で怪我をした学生の治療をしたり、
催涙弾の危険性について社会に訴えていたりした。
反戦自衛官を匿い助けたのも物部さんだった。
60年代から「ちょうちんデモの会」というデモ行進を
吉祥寺から三鷹駅までやっていた。
確かまだ続いているように思う。
ちょうちんデモのメンバーはべ兵連の人や企業内の運動家の人
日中友好協会の人、高校生の運動家や
・・・
ああ、今顔を思い出した。男と女の二人だった。
女の子は可愛らしい顔立ちだった。いつも一緒にいた男の子は
細い感じのイケメンだった。二人は無着成恭さんがいた学校に通っていた。
無着さんはかろうじて昭和生まれだ。96歳まで生きたようだ。
無着さんがデモに加わったかどうか記憶に無いが、
学校では過激な発言をしていたと言っていた。
・・・大学生の運動家など雑多な人達だった。
中に物部さんがいたのでお互いが言い合いになるとかいうことは・・
無かったように思うけれど、あったような気もする。

新宿や井の頭公園や吉祥寺駅で歌を歌っていたフォークゲリラの
仲間も加わっていた。だいたい先頭でギターを弾いて歌いながら
歩いた。
外からみたら「あれは日共か?」と思われただろう。
そういう感じのデモだった。

そうか、無着さんは96まで生きたんだ。
もう少し頑張るかな。

7/22/2025

残された時間

 何をしたらいいのだろう?

何の計画も無かったのだけど、ぼんやりとは思っていた。
たぶん「何か自分の音楽を作りたい」そう思っていたはずだ。
毎日何かやろうと思っているのだけど
何もできない。

絵を描くのは好きだった。
だから何か絵を描くのもいいかも。

小説とかは全くだめだろう。
そういう方面にはむいていないように思う。

写真?
写真もむいてない。
写真を撮るのは好きだけれど、
それっぽい写真を撮るのは好きじゃない。
何の変哲もない写真が好きだ。
そういうのをまとめてみるか?

一時期焼き物もいいなと思った。
だけどたぶん1週間で飽きると思う。
盆栽? やだね。

やっぱり音楽になるのかな?

フライングスクールのこと

 40歳の時ハングをやろうと思ってスクールに通った。
伊豆の先端近くの山の上だった。
それから30年、FBにそこのページを見つけて見ていた。
誰か知ってる人は写っていないだろうか?と
しかし誰も知らない。
2019年まで見たけれど知ってる人は力也氏一人だけだった。

そこのスクールは校長の西野さんが作ったもので、
西野さんは日本の第1回ハンググライダー選手権の優勝者だった。
西野さんの息子が力也、当時20くらいだったのではと思う。

写真、特に宴会をやっている写真を細かくみたけれど、
わかったのは力也だけだった。
他にこれはマユミちゃんかな?と思わせる人がいたが、
マユミちゃんも当時20代だったから今20代の顔はしていないだろう。

写真を見ながら名前を思い出していた。
西野さん:校長
力也:インストラクター
ふじまきさん:パラのインストラクター、のちに力也と結婚した
マリちゃん:ハングをやっていた。たぶん当時1番若かったから19歳ぐらい。
マユミちゃん:ハングをやっていた。たぶん20代そこそこ
つじ君:最初の頃ハングをやっていた。やはり20そこそこだったと思う。
    だんだん会うことがなくなって、来なくなった。
みつき:ハングをやっていた。私が始めた頃すでに山から飛んでいた。
    みつき、つじ君、マリちゃん、マユミちゃんと私がハングの
    仲間だった。
    彼は、10年くらい前だろうか?海岸にランディングする時
    防波堤に激突して亡くなった。
    クールな感じの男だった。会った時は20代前半だったろうか。
マーちゃん:ハングのベテラン。時々スクールに現れて練習を手伝って
      くれたりした。彼は丹那で主に飛んでいたようだ。
      時々話をした。
大友さん:パラをやっていた。飛べない時に山にヤマイモを掘りに行ったり
     した。伊豆からの帰りは車2台並んで途中まで一緒だった。
竹内さん:パラをやっていた。彼はスクールの手伝いをしていたのかな。
     細い感じの男だった。
     よく話をした明るい人だったけど、良く考えたら詳しくしらない。
マツナガさん:パラをやっていた。確か清水の方の病院の女医先生だった。
       当時私と同い年くらいだったと思う。だから今はもう
       高齢だと思う。軽い話をよくした。

他に名前を忘れたけど会うと必ず挨拶して話をした人がいた。
彼女はパラをやっていた。
顔を少し覚えている。30歳くらいだったと思う。
今思うに、何で名前を思い出せないんだろう?
そういえばどこから来てたのかも知らない。
なんてことだ。

7/14/2025

ジジイの問題

 もう今更だけど、SNSでのジジイの問題はコメントをくれるのはいいが、
本題とは関係ない話、自分の知識を書いてくる。
どう返事していいかもわからない。
あるいは自慢話、こちらの話を受けて自分の自慢話をする。
同年代のジジイはほんとにこれが多い。
仕事でも人の話なんか聞いていなかったのだろう。

と、SNSの話ならいいのだが、私の友人にもそれがいる。
ある時私が蒸気機関車のピストンがやけに小さいことに気が付いて、
「あのピストンであのデカイ車体を動かしてるんだぜ」
と話を持って行ったら、
「それ、僕はもうずっと前から知ってた。模型作ったし」
と言う。
しかしそれでは話はそこで終わってしまう。
そうじゃなくて私は、あの動輪全部を動かすだけの力が
あの小さなピストンにあるのはすごいね。
という話をしたかったわけで、あんたの自慢話を聞きたかったわけじゃない。

それで、考えた。
そういうお前は? と
いやいや、自分もそうなのか?
考えるといろいろ思い出す。
別の友人が新しいスポーツカーを買ったと言ってきた時、
私は確か「スポーツカーっていうのは、これこれこうで・・・」
ってうんちくを言ってた。確かにあれは私だ。
違うだろう!!
あの時は「へえ、すごいね!それでどんな感じ?」
とかいうべきところだろう!
どうしようもないやつだ。

妻と話をしたのだけど、
女性の集まりは話が永遠に終わらない。と
男の方はどうだろう?と考えると、
ひとしきり自慢話が終わると、次は知識自慢
それが終わるともう無い。
なんとも寂しい。
そうじゃない話のできる人と語り合いたい。








7/10/2025

テキサス

 暇だから延々とフェイスブックを見ているのだけど、
テキサスのフラッシュフラッドの犠牲になった子供たちの
写真が頻繁に出てくる。
これが辛い。
なんでこんな子供が?とそのつど涙が出る
それが多すぎる。
なんでこんなにたくさんの小さな子供がと思う。
最初はcareとか押していたのだけどもうそれもできない。
どうしても自分の子供の顔に見えてしまう。

明日退院

 長かった囚人生活もやっと終わる。
この病室は四人部屋だ。
私は窓側。
入り口の左側に85歳の男の人。
その人はとても静か。
だけど夜中に毎晩看護師さんが来る。
よくわからないけど、聞こえて来る声を聞いていると
オムツが溢れてしまうようだ。
それでシーツを変えたり着替えたりしているようだ。
毎日だからなんとかならないかと思うけど。
どこが悪いのかはわからない。
私の向かい側の窓側の人も80半ばくらいだろうか。
この人は何をするにもうるさい。
カーテンの開け閉めとかゆっくりやればしずかなのに、
食べる時がまたうるさい。
すする音や食べる音ゲップ、みんなうるさい。
それを5日間聞いてきた。
最初は閉口した。「音出すなよ!」と思っていた。
今日になって分かったのだけど、
彼は歩くのが不自由のようだ。
何の病気かわからないけど、呼吸器系に問題があるのかもしれない。
あんな風に息をしながら食べるのには理由があるのだろう。
彼は眠るととても静かだ。
私のとなりに昨日入ってきた偉そうなおっさんのいびきに比べたら
死んでるように静かだ。
その静かな人が昨日夜中に寝言と歌を歌い始めて驚いた。
何の歌かはわからなかったけれど
はっきりとしたメロディーで歌っていた。
寝ながらあんなにしっかり歌えるのだろうか?

その人たちとも今日でお別れだ。
もう二度と会うこともないだろう。




7/09/2025

時間の続き

 病院で暇だから時間とどういうものか考えてみた。
一番いいたとえはルームランナーだと思う。
絶えず動いているルームランナーの上ではとにかく走るしかない。
後ろ向きに走ることはできない。
走っていても動いているわけではない。
同じ位置ではしっている。
時間はこういうものだと思う。
走ってきた道があるわけでも、走る先があるわけでもない。
同じ場所にいるだけだ。
それじゃあ何がルームランナーを動かしているかというと
それがエントロピーだと思う。

時間という幻影は幻の方向性はある。
走ってる人は年を取るわけだから、あたかも後ろに若い自分がいて
前には年取った自分を感じるだろうから。

時間のこと

 何度目か忘れたけれど時間について書こう
病院で暇だろうからと、入院する前にブックオフでニュートンの
特集号を何冊か買っておいた。それらは入院一日目で読んでしまった。
時間の特集をしたものを読んだけれど、
「時間は存在しない」と言っておきながら、後のほうで
「過去に戻る方法」とか書いていて一貫性がない。
前にも書いたけど、時間というのは幻影だと思う。
今、この瞬間しか存在しない。
少し過去も少し未来も、遠い未来も遠い過去も存在しない。
時計ができて時間という幻影ができたのかもしれない。
1秒間に物がある距離移動するとか、
そうすると1秒後にはここまでいどうするとか、
そういう考えができると当然時間は流れていると思うだろう。
しかしそれは幻影だ。
死んだ人が天国に行くという考えと同じだ。

このあたかも時間が起こしていると思える「変化」は
一体何が起こしているのだろうか?と考えると
それはエントロピーだろうと思う。
エントロピーが変化を起こしている。
エントロピーは絶えず増大する。
つまり時間が進んだように思わせる。
エントロピーは決して自然には減少しない。
だから時間を戻すことはできない。

7/08/2025

卒業証書

 そんなものがあったろうか?
何か騒いでいるけど。
見た記憶がない。
高校までは確かある。
だいたい「君卒業したの?」と聞かれると自信がない。
5年やってるけど最後どうした?
卒業式は行かなかった。
私が卒業したかどうかは学校に聞くしかない。
面倒だからどこかの卒業証書をコピーして偽造するかもしれない。
そんなもんだろう。
ばれたら「ああ、すみません」だろうな。

しかし本当に自信がない。

入院

 日曜日から入院している。
というのも大腸にポリープがたくさん見つかって
その小さいものは二か所の病院で取ってもらったのだけど
大きなものが残っていてそれが癌になる可能性がある
ということで取ることにした。
それが大きな病院でないとできないとかで
横浜市大病院のある八景島のそばにいる。
手術は昨日終わった。
眠りにつく瞬間を覚えておこうと思いずっと
注意していたけれど、気が付いたのは病室のベッドだった。
ずっと昔に全身麻酔で手術した時は、その瞬間を
おぼえていた。
手術台のある部屋の電気が真っ白に光って
その後は、病室に向う廊下の天井だった。

そんなわけで、日曜日から何も食べていない。
それよりも、ずっと点滴がぶらさがっているのがうっとうしい。

6/28/2025

「君が代」の話

聞くところによると小学校の音楽に授業で
先生が校歌のプリントを配りそれを音楽の教科書の
「君が代」のページに貼る様に指示したそうだ。
私の時代にはそういうことは無かった。
何時頃までそれをやっていたか定かではないが
1990年生まれの人が小学校でやったと言っているので
2000年頃まではやっていたのだろうか?
それ以降のことはわからない。

私も一応左翼の翼の根元の方の小さな1枚のつもりだが、
この話を聞いた時「それはダメだろう!」と思った。
「君が代」云々の前にそのやり方は戦時中の軍のやりかた
を彷彿とさせる。
目障りだから紙で覆うというのは全く愚行だ。
それを日教組が指示しているとしたら頭がいかれてる。

もしも君が代に問題があるなら、
君が代を見せることで問題意識を持たせるべきだろう。

・・・と思ったりする
 

6/24/2025

子供の頃信じていた間違い

 って言うのは数多い。
さっき思い出したこと。
一番速いのは何か? っていうことを良く友達と話した。
結論として頭で考えたことが一番速い、
ということになったと思う。
たとえば何かが光ったらそれに反応して機械が動く、
とかだけど、どんな速い機械でも
頭で「光った!」と反応するのがずっと早い。
ほとんど瞬間だから。

ということだけど、今だからわかるけど
目から脳まで信号が届くのには結構時間がかかっているはずだ。
一瞬どころかミリ秒単位でかかっているように思う。

6/18/2025

デジャヴュなこと

 今に始まったことではないのだけど、
何かしている時に頭の片隅に映像が浮かび
「あれ?これいつだっけ?」と思うことがある
昨日はキッチンでタマネギを切っているときに
ずいぶん前に見た(ここの)家の夢を思い出した
都筑に住んでいた時はとにかく家が狭かった。
せまいところに3人、あるいは4人で暮らしていたから
よく広い家にいる夢を見た
使っていない部屋があったりした
そこの部屋をみつけて
「ああ、この部屋を自分の部屋にしよう」と思う
その時の部屋の感じと窓からの太陽の光
それが今いるこの家の感じだった
その夢を思い出した

タマネギを切りながら
頭の隅にはっきりとその光景を思い出した

6/12/2025

思い出したこと

どうもこの前からちらちらと女性の顔が浮かぶ。 
それが誰だったのかわからなかったのだけど、思い出した。
「つみきみほ」という女優だ。
その名前を直接思い出したわけじゃない
思い出した断片を調べてみたらその名前だった

だけど記憶していてちらちらと浮かんできていたのは
彼女の写真だった。
笑ってはいないが静かな目つきの清純な感じだった
その写真?を私は持っていた。
それをどこで撮ったのか思い出せなかった。
またどうしてそれを持っていたのか?わからなかった

それで誰だかわからないその記憶の中の人を想い出そうとしたら
ひとつの映画を思い出した。
「桜の園」という映画だ。
「そうだあの映画の中の人だ」と思い出し
映画の配役を見ていて「つみきみほ」だと思い出した。
そうだ!それだ!
と思い、アマゾンプライムビデオで検索したら無料で全編
見れる物があったのでそれを見た。
しかし、その映画に出て来る彼女の顔と記憶のそれとでは
かなり違いがある。
私の記憶の中の写真の顔は出てこない。
だけど彼女であることは確かだ。

それで彼女の名前で画像検索したけれど、記憶の中の
顔は出てこない。
何処かの映画だろうと調べていたら、突然思い出した。
映画じゃない!テレビだ!
それで彼女の出ていたテレビ番組名を調べてみた。
ところがかなりたくさんの番組に出ている。
順々に調べていたら記憶に引っ掛かったものがあった。
片岡鶴太郎だ。一緒に出ていた。
それで「説教強盗」という短編のドラマだとわかった。

そこまでわかるとかなり鮮明に思い出した。
昔(1991年らしい)ドラマを見ていて彼女が気になって
ポラロイドカメラでテレビを写した。
その写真だった。
あのポラロイドまだあるだろうか?
そのドラマもVHSで残っているらしい。
オークションにあったけれど高くて買う気はおきない。
またどこかでみる機会があるだろう。
その時になんで写真を撮ったのかわかるだろうきっと

追記:
写真が見つかった。
これはビデオプリンターで出力したものだ。

そのビデオプリンターってどういうものだったろう?
思い出せない
検索しても出てくるのは見覚えの無い物ばかりだ。
家に持っていたはずなんだけど
葉書サイズの印画紙をどこかにセットして印刷するものだった はず





ドラマの内容は全く忘れた。