2/13/2019

本郷三丁目

最初に作った会社が本郷三丁目だった。
社長ではなかった。
ビデオ回路の設計をしていた。

その会社が本郷三丁目だったのだけど、そのどこだったかがわからない。
当時のビルはもう無い。
たぶんこの辺だったと思う所もなにか違う。
Googleでずいぶん探したけれどわからなかった。
都内はやはり移り変わりが激しいみたいだ。

そのころお昼を食べに行った「とと屋」という店の場所もわからない。
会社から後楽園の方向に少し行ったところだった。
でもわからない。
とと屋にはほぼ毎日行っていたので他の会社の人と話したりした。
その人がその後どうしたか知らないけれど、一度電話で話したようにも思う。
仕事関係の中国人の人と一緒に行ったこともあった。
なんか静かな人だった。

そこからちょっと行くと東京ドームが見えた。
坂の下に見えた。
その眺めが好きだった。
記憶ではもっと急な坂のように思っていたけれど、
そんなでもなかった。
夜この坂を下りて水道橋駅に向かうと、ドームと遊園地の照明がとてもきれいだった。


その頃は深川に住んでいて、そこから自転車で箱崎ー神田ー小川町から
駿河台を一気に駆け上がり順天堂病院の脇を通って本郷三丁目まで通っていた。
ずっと登りだった。深川はゼロメートルだから。
若いからできた。
帰りはけっこう快適だったように思う。

車で会社に行くときは東大の構内に駐車していた。
あれはいつごろまでできたのだろう?
その後外部の車は入れなくなった。

父は東大生だった。
父が最後を過ごした病院は近くの順天堂病院だった。
兄から連絡を受けて駆け付けたけれど間に合わなかった。

追記:
「ととや」という料理屋があるみたいだ。同じお店かどうかわからない。
場所が近すぎるような気がする。
記憶では本郷通を渡った向こうのような気がするけど、ちがうかも。
いずれにしても今ある「ととや」は記憶よりもずっと立派だ。もう少し普通の
定食屋だったように思う。

それから会社はたぶんこのビルだ。ビルの名前が変わっている。
この2階だったと思。
けっこう広い。
ここじゃないかもしれない。でもこの角度のこんなビルだった。
ここではまだ柿崎さんは生きていて一緒に働いていた。
今までの人生で、同い年だったただ一人の友人だった。
柿崎さんのことは前に書いたけれど、会社を別れてしばらくしてから電話したら
亡くなっていた。その時の電話はほんとうにショックだった。
奥さんが出て、私が「カキちゃんいる?」と言うと。
「何言ってるの?」と言われた。
「え?本当に知らないの?」と言われた。
知らなかった。ごめん。
君がそんなに早く行ってしまうなんて思いもしなかった。

この会社で一緒だった人でもう一人亡くなった人がいた。
彼はバイクに乗っていた。結婚してまもなく子供もできて、
突然のバイク事故だった。彼は確か20代だった。
名前を思い出した。小塚君だ。

あ、もう一人いた。
広告を出していた雑誌会社の営業の青山さんだ。
青山さんもその後別の会社に移っても広告をお願いしていた。
しばらく会わずにいて雑誌屋に電話して青山さんをお願いします。
と言ったら、病気でずっと会社には来ていません、とのことだった。
その人が言うには深刻な状態でたぶん亡くなっているとのことだった。
青山さんは50くらいだったと思う。

その会社に一緒にいたカメさんは今でも年賀状をくれる。
バイクで一緒に乗鞍の上まで走った人だ。
まだ元気みたいだ。
そうだな、あの時代からつながっているのはカメさんだけだ。