再放送の日曜美術館を見ていた。
あの番組、解説する人がうるさいからたいてい
音を消してみているのだが、今日はずっと聞いていた。
宇野さんの話が面白かった。
宇野さん、と言っても私は雑誌でしかしらないけれど、
あの絵は強烈に70年を思い出させる。
あの女性の感じも当時いた誰かを思わせる。
私はえの才能というか描く技術も無いから心に描いた
ものを絵にすることができない。
絵が描ける人はいいなあと思う。
先日古い紙類を見ていたら小学校の時の写生会で
賞をもらった時の賞状があった。
「そういえばこんあことあったなあ」と思い出した。
今はもうない三鷹の1中の東側の畑であぜ道にあった1本の木
を描いたものだった。
今でもそのときのことを少し記憶している。
あぜ道に座って木の枝を一本一本描いた。
多分その努力で賞をもらえたのだと思う。
その数年後大阪の高槻に行って高槻の小学校で写生会があった。
皆で駅の方に行ってそこらへんの絵を描くことになった。
私は駅とその手前の線路と架線と電柱を描いた。
画用紙の半分より下にそれを描いて、上は空だった。
そこに先生(担任)がやってきて
「もっと大きく描け、電柱を上いっぱいいっぱいに」
とか言った。
私は言われるがままに大きく描きなおした。
でも今でもあれは最初のがよかったと思っている。
変な先生でね。
めちゃくちゃローカルな関西弁でしゃべって、
癖もひどくて、何言ってるかわからない時があった。
よく覚えているのは算数の授業で、
X+3=6 という問題を書いて
「エッキュス プラス サン」と言った。
それを受けて誰か生徒も「エッキュスは3です」
とか言った。
「エッキュス」って何だろう? とその時思っていた。
工作の授業でボール紙で何かを作ることになった。
私はホバークラフトの模型を作った。
それはその前にホバークラフトの写真を見て格好いいと思っていたから。
その時は自分ではすごくよくできたと思った。
今考えてもあの曲線はどうやって出したんだろう?と思う。
楕円形のスカート部分の上に運転席の部分を作った。
それを職員室で先生に見せた。
「なんだ?これは?」と言った。
私は「水陸両用のホバークラフトです」と言った。
「なんだそれは?自動車か?」と先生は言った。
知らなかった。
ほかの先生もホバークラフトを知らなかった。
私は意気揚々とそれを教室に持って帰った。
田辺だけがわかってくれた。
あれは最初の日だったろうか、皆で(5人くらい)で方向が一緒の
生徒と一緒に帰ることになった。
誰かが「帰りしな**に寄るんやけど、どうや?」
とか言われた。
わからなかった。その「しな」って何だろう?と思った。
その「しな」を理解するのは1週間くらい後だった。
「おまえそれかんしぇーわぁ」と言われた。
「かんしぇーわぁ」がわからなかった。
それはだいぶ後までわからなかった。
後で「感じ良い」という意味だとわかった。
ずっと後になって大人になってから大阪出身の人に
「かんしぇーわぁ」って使う? と聞いたら
「いや、使ったことない」と言われた。
じゃんけんは「インジャンホイ!」だった。
あといろいろあったけど、忘れた。
その学校は1年しかいなかったけれど、
強烈な大阪体験だった。
その番組の最後で横尾さんが、
「90歳をどう思う?」とかいう問いを宇野さんに投げかけた。
それを聞いて、私は
そうだなあ、90歳もいいな、と思った。
この前はあと8年は生きるとか書いたけれど、
90歳までは生きようかなと思う。
なんとか