9/22/2024

横尾忠則と宇野亜喜良

 再放送の日曜美術館を見ていた。
あの番組、解説する人がうるさいからたいてい
音を消してみているのだが、今日はずっと聞いていた。
宇野さんの話が面白かった。
宇野さん、と言っても私は雑誌でしかしらないけれど、
あの絵は強烈に70年を思い出させる。
あの女性の感じも当時いた誰かを思わせる。
私はえの才能というか描く技術も無いから心に描いた
ものを絵にすることができない。
絵が描ける人はいいなあと思う。


先日古い紙類を見ていたら小学校の時の写生会で
賞をもらった時の賞状があった。
「そういえばこんあことあったなあ」と思い出した。
今はもうない三鷹の1中の東側の畑であぜ道にあった1本の木
を描いたものだった。
今でもそのときのことを少し記憶している。
あぜ道に座って木の枝を一本一本描いた。
多分その努力で賞をもらえたのだと思う。

その数年後大阪の高槻に行って高槻の小学校で写生会があった。
皆で駅の方に行ってそこらへんの絵を描くことになった。
私は駅とその手前の線路と架線と電柱を描いた。
画用紙の半分より下にそれを描いて、上は空だった。
そこに先生(担任)がやってきて
「もっと大きく描け、電柱を上いっぱいいっぱいに」
とか言った。
私は言われるがままに大きく描きなおした。
でも今でもあれは最初のがよかったと思っている。

変な先生でね。
めちゃくちゃローカルな関西弁でしゃべって、
癖もひどくて、何言ってるかわからない時があった。
よく覚えているのは算数の授業で、
X+3=6 という問題を書いて
「エッキュス プラス サン」と言った。
それを受けて誰か生徒も「エッキュスは3です」
とか言った。
「エッキュス」って何だろう? とその時思っていた。

工作の授業でボール紙で何かを作ることになった。
私はホバークラフトの模型を作った。
それはその前にホバークラフトの写真を見て格好いいと思っていたから。
その時は自分ではすごくよくできたと思った。
今考えてもあの曲線はどうやって出したんだろう?と思う。
楕円形のスカート部分の上に運転席の部分を作った。
それを職員室で先生に見せた。
「なんだ?これは?」と言った。
私は「水陸両用のホバークラフトです」と言った。
「なんだそれは?自動車か?」と先生は言った。
知らなかった。
ほかの先生もホバークラフトを知らなかった。
私は意気揚々とそれを教室に持って帰った。
田辺だけがわかってくれた。

あれは最初の日だったろうか、皆で(5人くらい)で方向が一緒の
生徒と一緒に帰ることになった。
誰かが「帰りしな**に寄るんやけど、どうや?」
とか言われた。
わからなかった。その「しな」って何だろう?と思った。
その「しな」を理解するのは1週間くらい後だった。
「おまえそれかんしぇーわぁ」と言われた。
「かんしぇーわぁ」がわからなかった。
それはだいぶ後までわからなかった。
後で「感じ良い」という意味だとわかった。
ずっと後になって大人になってから大阪出身の人に
「かんしぇーわぁ」って使う? と聞いたら
「いや、使ったことない」と言われた。
じゃんけんは「インジャンホイ!」だった。
あといろいろあったけど、忘れた。
その学校は1年しかいなかったけれど、
強烈な大阪体験だった。

その番組の最後で横尾さんが、
「90歳をどう思う?」とかいう問いを宇野さんに投げかけた。
それを聞いて、私は
そうだなあ、90歳もいいな、と思った。
この前はあと8年は生きるとか書いたけれど、
90歳までは生きようかなと思う。
なんとか