9/21/2024

今だから思うこと

 写真だけど今では小さなカメラ、スマホも含め、で高画質の撮影
ができる。動画もOK.
1975年~1980年頃に戻って、今の知識であの当時に小さな
デジタルカメラって作れただろうか?
一番の問題はデータを入れておく媒体が無いということだろう。
デジタル・メモリーは4KBのものでもIC1個分あった。
SRAMもDRAMも同様だった。
あれで高画質のカメラを作ろうとしたら大変な大きさになっただろう。
ICを高密度にできるのはだいぶ後の話だ。
だから一部カメラメーカーではフロッピーディスクあるいは
独自の磁気ディスクにデータを入れようとした。
しかもアナログ信号をだった。
テープレコーダのようにアナログ信号を記録し
アナログ信号を再生するタイプだった。
解像度はえらく悪かった。
たぶん250X250くらい。
しかしこれが一番サイズが小さかった。
一眼レフよりも小さかった。
今考えても当時在った媒体を考えるとそんなものだろう。
DAT(今はもう無いが)に映像を入れるタイプもあった。
それも似たようなものだ。
たぶんカメラは今の知識だけ持っていても小型化は
できなかったと思う。

それでパソコンだけど、
1978年頃だろうか、そのころまで戻って今の知識を使ったら
何かできただろうか?
常々思うのはあの当時ビルゲイツになれた人はたくさんいたと思う。
マイクロコンピュータ自体は今からすると非常に単純だし、
基本的な構造を知っていれば作れた。ビルゲイツもそのコンピュータ
を使っていたはずだ。
ソフトウェアだって基本的なことを理解していれば、作ることはできた。
今思うと、ほんの少しの努力だ。
それと未来をどこまで見ることができたか?だ。
ビルゲイツはそれができたのだろう。
今、1年あげるからインタープリター型のBASICを作れ
と言われたらできると思う。
もちろん当時のコンピュータで。
いや、当時であっても作れと言われたら作れたと思う。
だけどそれができなかったのは未来が見えなかったからだろう。
知り合いにも自分で開発ソフトを作った人がいた。
あの人に未来の見える企業が出資していたら日本に
マイクロソフトができていたかもしれない。

やはり1980年頃がキーのように思う。
現在の知識を持った人間をあの当時に送り込んだら
今の世界はもっと違ったものになっていたように思う。

パソコン

 「パソコン」という言葉は嫌いだ。
と同僚のエンジニアと言っていた。
たぶん1982年頃だ。
「マイコン」という言葉が使われなくなった後だ。
だから二人で「パーソナル・コンピュータ」と言っていた。
いつからか全部がパソコンになってしまったので
パソコンと言うことにした。

そのパソコンだけど、先月新しいのを買った。
DellのサイトからDell直々に買った。
そこそこの値段がした。
買った理由は普段使いのパソコンがWindows10だったから。
もう1台Core-i7のWindows11のパソコンがあったのだけど
それを妻に取られたから。

そのDellのパソコンだけど最初から数日でおかしな動作を
するようになった。
使わずにおいておくと勝手に落ちる。
また何かのきっかけで再起動しなくてはいけなくなる。
そうこうしているうちに再起動ができなくなった。
しかたなくDellのサポートに電話した。
中国人が出た。
片言の日本語だけど長い時間親切に対応してくれた。
しかし、最後は「ハードウェアは大丈夫ですが、
WindowsのOSが壊れているので、後でメールするところから
再インストールしてください」だと。
それで、それをやったのだけど途中で「再起動してください」
のメッセージが出て止まる。
同じことを3回やった。
どうしてもできないので諦めた。

それでそのクソサポートの言うことは無視して、
Windowsをクリーンインストールすることにした。
たいしたデータは残っていないはずだから全部消すことにした。
それで電源投入、ファンクションキー連打という一連の作業を
始めたら、クリーンインストールはうまくいった。
すべての作成データは消えてまっさらなWindows11
になった。
それからマイクロソフトのソフトの設定があるのだけど
いつもなら全部飛ばして、白紙から始めるのだけど、
今回は全てマイクロソフト様の言うとおりにやった。
そしたら忘れていたのだけどOne Driveにお金を払って
スペースを借りていたのを思い出した。
それでなんだかんだ前のデスクトップも画像データも
復元されて元のままのパソコンになった。

たぶんこれでうまく動いているはず。
Windowsの欠陥部分もOSの再インストールで
修復されたはずだ。

まあとりあえずこのまま使ってみよう。













9/20/2024

Long Time Gone

 Woodstockを観たのは1970年だった
学校のクラブの人間5,6人で観に行った
どこの映画館だったか忘れた

それで何が一番印象的だったかというと
映画が始まる最初のシーンだ
バックにCSN&YのLomg Time Goneが流れていた
風が吹いている
・・・ように感じた

その後の素晴らしい演奏シーンなどもあったが
Woodstockというと
最初に思い出すのはこのシーンだ




9/18/2024

雑記

 最近目が調子悪い
見えないわけじゃなくて、ボケるというか
ガラスに水をかけた時のような感じだ。
しばらく目をぱちぱちしてると治る
けっこう頻繁になる
でも全く見えなくなるわけじゃないから
たぶん涙の成分がおかしいのかもしれない

「手紙は憶えている」という映画を前に観た
あれは、なんていうか正義漢ぶって自分の行いを
正当化しようとすると思いもかけないことがわかって
自分の墓穴を掘るはめになるということだ
そう、だから僕も自分の過去はあまり掘り下げないことにしよう
時々昔のことがフラッシュバックする
それを追求すると生きて行けなくなりそうだから

サクソフォンで静かなバラードの曲を聴くと
札幌の雪の中をドライブした時の映像が見える
路面も視界も真っ白の中を走っている
どこかはわからない
どこか遠くに通じている道だ
一人だ
果てしなく一人だ

帰ろうか・・・
時々無意識に言っている
いったいどこへ?
人にも帰巣本能があるのだろうか?
どこ?というのは場所ではないだろう
時間だ
いつかのあの時あの場所
いつか帰ることができるだろうか?

免許返納? って何だろう?
と思う
先日免許返納した高齢者が無免許でつかまった
なぜ返納した? なぜ運転した?
返納するって何だろう?
おそらく「私はもう運転しない」という意思表示なのだろう
でも返納する必要もないだろうに
返納して「絶対に運転しない!」という強い意志を持っていればいいけど
いつか、ある時、どうしても運転しないといけない時があるかもしれない
例えば・・・二人で乗っていて運転者が運転できなくなった時とか?
ああ。この前の無免許の人は北海道の人だった。
北海道は絶対に車が必要だ。
なんで返納しちゃったんだろう?
確かに「私は返納します!」っていうと恰好いいけど
精神的にも身体的にもまだ運転できるのであれば返納する必要は無い
と思う。
一度返納したらもう一度取るなんて不可能だ。
自分はもう自信が無いというなら乗らなければいいだけだ
免許を保持していればいつか何かの役に立つかもしれないし
免許を返納したのにまた(無免許)運転するなら
返納せずに持っているべきだ。
非常の時以外運転しなければいい
そう決めればいい


9/17/2024

それからどうしたかも書いておこう

 そして僕は東京に帰ろうと思い仕事先を探した。
秋葉原の会社が採用してくれそうだった。
「東京に戻ってから来てみて」と言われた。

そこまで行くまで何度も悩んだ。
東京でやっていけるんだろうか?
そう心配していた。

そのころ頻繁に手紙をくれる人がいた。
僕の悩みもわかってくれた。
大学の同じクラブの人だ。
それでいろいろ話をした。
僕は勇気を出して会社に辞めることを伝えて
東京に行くことにした。

東京、と言っても最初は千葉の行徳だった。
行徳にアパートを借りて一人で住んだ。
そこから秋葉原の会社まで通った。
なんとかなりそうだった。
それで1年後にその同じクラブの人と一緒に暮らすことにした。
東京の深川だった
何年か同棲した。何年だ?
5年かなあ?
そのあと子供が生まれる時に籍を入れた。
区役所に届けを出しに行った時に
離婚届も一緒にもらってきたのを覚えている。

そして義父が横浜に家を建てるというので
そっちに引っ越すことにした。
深川生活と比べるととても大きな家だった。
そこでずっと暮らすはずだった。

それがその後に起きたことだ



あれから僕は何をしていたか

 あれから僕は何をしていたかを書こう

たいてい一人で車でどこかへ行っていた
どこか行くあてがあるわけじゃなく
走っていた
夜中も走った
一人で走っているのが良かった
大きな音で音楽をかけて
湖や海の近くに車を停めて寝た
朝日が昇る前に車を走らせた。
地平線のギリギリに太陽が昇り
でもそれはあっという間に高く昇って行った

あの後はずっと頭が混乱していて
何も考えていなかった
あの土地に僕が住んでいたのは
何か希望があったわけじゃない
自分はだめだと思っていた
こんなのと一緒にいたらだめになる
そう思っていた。

それから夏になって
僕のところにやってきた誰かを空港まで送って行って、
ずっと飛行機が飛ぶのを車の中から見ていたことがある
あの人は何で来たんだろう?
僕は湖や山に案内して
ドライブしながら話をした
そしてそれが当たり前のように
空港から帰って行った
「また来てよ」
そう言ってから1年くらいしてまた来てくれた
そしてまた同じように帰って行った
そんなことが何度かあった
いや、何度も、

それからも僕はあの北の国で暮らしていた
ある年に我慢できなくなって
あそこを脱出しようと思うまではね、
あそこを抜け出して
そしてまた東京の暮らしが始まった

それから何十年もしてから
まるで僕が、
僕だけが悪かったような言い方をされた
なぜなのか?
ちょっと待って!
あのあと君の住んでいるところには何度も行ったよね
「いいよ」というので一緒に行ったよね?
僕らは話をしていただけだったけど
僕はそれでよかったんだけどね
でも、あの一緒にドライブした想い出を
消し去ってしまった言葉は、とても悲しい

それがあの後の僕に起きたことの一つ

1990年以降の技術革新

 というのを考えていたのだけど、
表立って見えないところでの技術革新というは数えきれない
ほどあると思う。
医療やエレクトロニクス、宇宙工学など様々地道に
すごい開発が行われている。

しかし、ネットで言われていることはそれらを無視して
もっと身近なものに限られている。
もっとも一般的なものは
「スマートフォンができたことは革新的だ!」
というものだ。
確かに街を歩けばほぼ全員がこれを持ってあるいている。
驚くべきは10歳くらいから90歳くらいまで皆持っていることだ。
それを思うと確かに1990年以前には無かった革新的な
ことだとは思う。
だけどよく考えると、スマホの機能っていうのは
電話、電卓、カメラ、パソコン、通信、音楽再生、ゲーム、クレジットカード
などだ。
でもそれらって全て昔からある技術だ。
それをコンパクトにまとめたものに過ぎない。
コンパクトになったところがすごい、と言うだろうが
ただ小さくなっただけだ。
少しも革新的じゃない。

革新的と言うなら
馬車が時速300キロで走る車になったり、
何百人も乗って空を飛ぶ乗り物ができたり、
人間を月まで運ぶことができたり、
そういうものだろう。

それで行くならスマホだって、
病気になった時に頭に当てると病気が治ったり、
考えていることを自動で翻訳して自分の口から
他言語をしゃべることができたり、
動物と意思を通じ合うことができたり、
悩んでいる時に気持ちを解析してどうすればいいのかを
教えてくれたり。
それでこそ革新的だと思う。

今、最低だと思うのは、
体の調子がおかしいから症状を検索してどういう病気なのか
を知りたいと思うとき、
最終的に病院のサイトに行かされてしまう。
もっと気持ちを汲んで欲しい。
まあ、病院行けよ!ということだとは思うけれど、
それにしてももう少し親切に誘導してほしい。
・・・と思う。

9/15/2024

もう一つの疑問が湧いた

 ピンク・フロイドだけど、いつから聴くようになったんだろう?

第一のきっかけは新宿のロック喫茶「ソウルイート」で聴いたから。
というのが考えられる。
それまでピンク・フロイドは聴いたことがなかった。
・・・・そうかぁ?
ちょっと思い出してみよう。
最初にあのお店に入った時のことを。
1970年だ。
その時知っていた曲は?
グランド・ファンクの「ハートブレーカー」が流れていた。
その曲は知っていた。
レッド・ツェッペリンの「移民の歌」も知っていた。
ピンク・フロイドの「ウマグマ」がかかっていたけれど、
その記憶はその最初の時のだろうか?
ウマグマは1969年だから1970にはお店でかかっていてもおかしくない。
だけど問題はその時私はそれがピンクフロイドだと知っていただろうか?
大いに疑問だ。
知っていたとしたらどうやって知った?
FM放送かなあ?
(いや、これにはもう一つの記憶と関連がある)

ある日の午後、三鷹の家の縁側で寝ていた。
部屋のラジオをつけっぱなしでFM放送が流れていた。
それを聞きながら空を眺めていたら、変な曲が流れだした。
それは
オートバイか車か戦車かの走り始める爆音で始まった。
その音の時はそれが音楽(曲)だとは思わなかった。
すこしすると爆音を遮るように演奏が始まった。
エレキとベースとドラムスだ。
「えー!何この音楽?!」と思った。
その曲は優に20分はあった。
これはなんの音楽だろう?と思った。
音楽が終わって曲の説明が無くコマーシャルになってしまった。
「あれは何だったんだろう?」とずっと思っていた。
その曲は結局ピンクフロイドの「原子心母」だったのだけど、
いつそれを知ったんだろう?
たぶん、それは(後になるまで)わからなかったと思う。

そうだ、それが先だ。
その謎の音楽のことはずっと心に残っていた。
そうだ!それからソウルイートだ。
「ウマグマ」と「原子心母」をかけていた。
それは確かだ。
あのサイケデリック・ブレックファーストのコーンフレーク
を食べる時のムシャムシャいう音を覚えている。
だけど「原子心母」の曲はその時は覚えていなかった。
お店では曲をかける時はDJの前にそのレコードジャケットを
立てていたから、それを見てピンクフロイドを知ったのだと思う。

それから、そうだ、1971年の箱根だ。
箱根でピンクフロイドは最初に「原子心母」を演奏した。
それはオートバイの走り出す爆音から始まっていた。
それがあの三鷹の縁側で聴いた曲と同じ曲だとはその時は
気が付かなかった。
だいぶあとで「ああ、あれがあの曲だったんだ!」と分かった。

そこでもう一つの疑問がある。
レコードの「原子心母」は決してオートバイの音では始まらない。
オーケストラの静かな出だしで始まる。
じゃああのラジオで聞いたオートバイバージョンの演奏は
どうやって放送したんだろう?

その2年後にFM東京は、ピンクフロイドの東京都体育館での
演奏をプライベートに録音して演奏者もタイトルも言わずに
放送してしまった。
「これはいったいどこのグループのなんという曲でしょうねえ・・」と
いうアナウンサーの録音がテープに残っている。
だからたぶんそのアナウンサーはどこかでライブ版の「原子心母」を
手に入れて勝手に放送してしまったのだろう。
だから曲名も言わずに終わってしまったのだろう。

今なら絶対にありえないことだけれど、
当時はそれができてしまったのだろう。
その2年まえまでFM東京は「実験放送・FM東海」だったのだから。
やっていてもおかしくない。
担当者はよっぽどのロック好きだったのだろう。

だけどその縁側で聴いた曲の不思議な感触は
今でも覚えている。


9/14/2024

Some Memories Are Better Left Alone

 先日からMickey Newburyの歌を聴いている。
聴き始めると止まらない。
私はアメリカ人じゃないし英語も完璧にわかるわけじゃないから
歌詞のすべてを理解できるわけじゃないけれど、
まあ80%くらいはわかっているつもりだ。(本当か?)

Mickey Newburyの曲を最初に聞いたのは
1971年の「プレスリー・オンステージ」だった。
「American trilogy」
それが誰が作った歌かは知らなかったけれど、
曲はその映画を見て覚えてしまった。

・・・と思っていた。
しかし今調べたら問題がある。
1971年の映画ではその歌は歌っていなかったのだ。
だけど最初に聞いたのは確かにプレスリーの歌だったと思っていた。
しかしこの歌ができたのは1972年なのだ。

プレスリーは1972年の年末にElvis on tourの映画で
この歌を歌っている。それだろうか?
いや違うな。Elvis on tourの映画をちょっと見てみたけど、
あまり見覚えが無い。
またエルビスは1973年のハワイ公演の映画でもこの歌を歌っている。
この映画をまた観に行ったというのはあり得ない。
だってもう1973年なのだから。

もう一つの可能性として、観に行ったのはOn tourの方だったけど、
後でオンステージのレコードを借りてそれを聞いていたので、すっかり
オンステージの映画を見た気になっていたということ。
これはありうるなあ。

実際どうだったのかは今になってはもうわからない。
それにもしわかったとしても別の問題が発生しそうだ。
だから
Some Memories Are Better Left Alone

 夢を見た。
割とはっきり覚えている。
学校のクラブの集まりみたいだった。
でも知らない人もいる。
小山の上の大きな家で何かの発表会の様なことをするらしい。
私もそれに出るのだろう、と思っている。
舞台の様子はわからないがもう何か始まっているらしい。
ギターを弾いて歌をうたうのだろう、
そう思っている。
女性陣が集まって騒いでいる。
自分たちの出番を待っているようだ。
私は出番を書いた大きな紙をのぞき込んで
自分がどこで出るのかを探すが
私の名前はどこにも書かれていない。
友達とちょっと話をする。
すると誰かが墨と筆を持って現れて
私の顔に黒い墨を塗ろうとする。
私は逃げる。
逃げ回っているうちにその集まりは終わってしまった。
みなそれぞれ会場を出て帰り始める。
私も帰ろうと思ってその小山を降りる。
友達の顔を探すがいない。
下りる坂道の途中に大きな川が流れている。
川幅は20メートルくらいありそうだ。
しかも水面まで5,6メートルの崖がある。
私はその崖を飛び降りる。
水面に落ちると水深は40センチくらいしかない。
向こう岸まで歩いて渡る。
水が冷たい。
他の人もみな川に飛び降りてくる。

そんな夢だった。


9/10/2024

車の運転

 2年前に再び自分の車を持つまで、約20年間自分の車は
持っていなかった。
年に何度かレンタカーを借りて乗るくらいだった。
それで久しぶりに自分の車を運転して思うことがいくつかある。

まず皆の運転が穏やかになったということ。
これはマナーが良くなったことが大きいと思う。
なんというか昔はセコセコ運転していたように思う。
車間距離はできるだけ詰めて、前に車がいなかったら
できるだけスピードを上げて前の車に追いつく。
右車線の車の車間が開いていたらすぐにそこに入る。
交差点の右折は対向車がかなり近くても曲がる。
対向車を邪魔しても曲がる。
夜の国道は追い越し禁止でも前のトラックを抜きにかかる。
制限速度の+10Km/hが標準速度。

などなど、私もやっていたけれど皆そうだった。
・・・と思う。
それが最近の運転は皆マナーがいい。
もちろん悪い人もいるけれど、
平均して良いように思う。

そうだ、昔はスピード違反の取り調べをやっていたら
パッシングで教えてくれた。
今それをやる人はいない。
そうだな、それにクラクション(ホーン)を鳴らさない。
ちょっとした挨拶代わりに軽く鳴らすことはあるが。
危険回避と鳴らす指示があった場合以外は基本的に禁止
なわけだけれど、いつからそうなった?
昔は信号待ちで青になって前が出ないと、
まあ必ず鳴らされた。
でもそれも違法になったらしい。

ああでも、この前盛大に鳴らしたなあ、
大きな交差点で信号が青になって出たら
向かいの横断歩道をヘッドフォンをしてスマホを見ながら
渡り始めた若いのがいた。
私は先頭だったので盛大に鳴らした。
あれは仕方がなかったと思う。
右車線の車もそこに向かっていたから、
注意しなかったら気が付かずにひかれていたかもしれない。

そうそう乗用車のほとんどが3ナンバーになったね。
5ナンバーのセダンとかあんまり見ないように思う。
見かけるとやけに小さく見える。
でも昔はみなあれだったんだよね。

それから箱みたいな軽が異常に多い。
しかも色は皆白。
国道を走ってるとその多さに驚く。

それと、これは昔もそうだったけど、
色は白とか黒とかシルバーとか、
どうでもいいような色の車が多い。
私は昔から色付きの車ばかり乗っていたけど。
グレーっていうのがあったなあ。
パルサーエクサがそうだった。
あとはなんだかんだ色がついていた。

今乗ってるオレンジはとても気に入っている。
というかその色を探して色で決めてしまったから。
駐車場で自分の車を探すのに苦労しない。
走っていて同じ色、同じ車種の車にめったに出会わない。
そういうとこもいい。

しかし、なんだよね、
いつまで乗るんだろうね?
っていうか、いつまで乗れるんだろうね。
ニュースでは毎日のように高齢者の事故をやっている。
あれ、いつか自分になるのかな?
誰かを傷つけるのはいやだから、危なくなったら
やめた方がいい。
でもそれはいつだろうね?

9/07/2024

YouTube

をやっているわけだけれど、今まで何をやってきたのだろう?と
全リストを印刷してみた。
すると2024年9月6日現在で689件ある。
これは今継続しているチャンネルだ。
このチャンネルの最初は2008年1月17日だ。

その前にやっていたチェンネルもあるのだが、パスワードを
忘れてしまい今はアクセスできない。
そのチャンネルの最初が2006年8月16日だ。
しかしその日付まえにもたくさんアップしていた。
しかしそれらはテレビ番組を載せていたので消されてしまった。
その元動画も無くなってしまったのでもう見れない。
「昨日、悲別で」など編集して載せたのに。
そのチャンネルでアップしている動画の一つが私が上げている
動画で一番の再生数だ。
The 虎舞竜「ロード~第2章」、180万回再生だ。
これもテレビの録画だけれど消されていないのが不思議だ。
私は課金設定していないけれどいくらになっただろう?
その他にTRFとかあたりまえだけど全部消された。

現行チャンネルで一番アクセスが多いのは、
1980年代に録画したモーターバイク・トライアルの室内コンペ
の動画だ。
いくつか入っているけどそれが11万回くらい。
それが一番多い。
別にSNSで宣伝もしていないのでそんなもんだ。
私が歌ってるもので一番アクセスが多いのは
「街の灯り」で約27000アクセス。
これもう10年も前なんだ。
恐ろしい。

そうなんだ、YouTubeの何が恐ろしいかって、
あれ?これついこの前アップしたやつだよね?
っていうのがもう何年も前だったってこと。
この時間の流れが怖い。
実際その最初にアップした2008年のだって、
ついこの前だよ。

アクセス数なんてどうでもいいだけどね、ほんとは。
全部自分で後で見たり聞いたするためとか、
保存しておきたいとかが理由だから。
自分の演奏は自分で聞くためにやってる。
この歌はギターはこんな感じで伴奏がこんな感じであってほしい
ということで作っているから。
大体アクセスしてる人なんて最初の10秒くらいしか聞いてないでしょう?
いや、3秒かもしれない。
最後まで聞いてくれる人なんか居ない。
だから「よかったら聴いてください」なんて絶対言わない。
フェイスブックでは多いね。
そう言ってる人。
だけど最初の3秒しか聞いてないからね。
3秒聴いて「イイネ!」だから。
みんなそれをわかっているのだろうか?

そういう点ではYouTubeはフェイスブックよりも理にかなっている。
誰がイイネしたかわからないし、だれが来てるとか来てないとか
気にしないでいいからね。

現在私のYouTubeチャンネルにコメントをくれるのは
海外の昔からの音楽友達だけだ。
それも忘れた頃に来る。
それがまたとてもいい。


9/03/2024

虎に翼

 面白いので見ているのだが、時代が私の子供時代だ。
60年安保の頃だ。
1960年から1970年までの10年間の日本とアメリカの安全保障条約が決まったころだ。
今やっているのは昭和35年頃だから私は小学校5年だか6年だか。
その頃の自分のことは覚えているけれど、その頃の社会がどうだったのか
ほとんど実感としては覚えていない。
ドラマでは今原爆裁判をやっている。
その頃を母はどう思っていたのだろう?
母は原爆手帳を持っていたのだろうか?
裁判の結果を聞いて母は何かを思ったろうか?
今となってはわからない。
私と広島に(戦後初めて)行ったのはそれから30年近くあとだ。
ヒロシマのことを母はずっと心に押し込んでいたのだろう。
あの時母は涙は見せなかったが、
ずっと遠くを見ていた。
ずっと昔の広島の街を。