6/30/2024

朝焼けのドライブ

 若い頃は夜通し車を運転して、
朝焼けに向かって走るということがよくあった。
その時の感覚を時々フラッシュバックのように思い出す。
すごく眠いのだけど、目が少ししょぼしょぼして
喉がいがらっぽくなって、
頭がジンジンする。
ちょっと車を路肩に停めて体を休める。
あの感覚をもう一度味わいたい。

「お前、どこに行くんだよ?」
といつも自分で思っていた。
全く目的も無くただ車を走らせていた。
あの頃はそれで良かった。
時間はいくらでもあった。
学校の推薦を全部捨てて、自分で選んだ仕事だった。
それで北海道で一人になった。

「おい、ちょっと待てよ、お前ら大企業を批判してたんじゃないのかよ?」
「なんでスーツ着て面接なんかやってんだよ?」
「自由に生きるんじゃなかったのかよ?」
そう、誰もがそうだった。
デモで機動隊に石を投げてたのも、みんなちゃんとした
会社に収まった。
そうじゃなかった僕等(笑)は、
アメリカに行ったのとか、やはり北海道に行ったのとか、、、
なんだよ、たった3人かよ。

あの朝のドライブのまぶしい太陽と
窓から入る清々しい空気をもう一度感じたい。
そして、これで良かったんだ、と言いたい。




6/29/2024

今だから書いておこう

 1980年以降パソコンが一般的になって行ったが、
ちょうどその時期に私はパソコンの応用システムの開発をしていた。
その時に思ったことを書き留めておこうと思う。

1.マウス
  マウスは三菱総研で初めて見た。(三菱総研にいたわけではない)
  その頃は中型のコンピュータ
  が主流だった。VAX11とかそういうたぐいのものだった。
  そこで初めてマウスを手に取ってみた。
  同僚と「どうこれ?」と話した。
  「これ使えるの?」という印象だった。
  なぜならその頃は全てキーボードで操作していたから。
  ファンクションキーとかショートカットキーとか
  上下左右の矢印キーで全てを操作していたから、
  いちいちマウスを動かして画面を操作するのは非常に
  まどろっこしかった。
  それで「使えない!」ということになった。
  それがたぶん1985年頃だったと思う。

  マウスを使うようになったのはNEC PC98からDOS-Vに
  代わってからだ。

2.画面操作
  今でこそスマホの画面のスワイプは一般的だが、最初に
  画面のタッチ操作を知ったのはだいぶ前だ。
  上の三菱総研の時と同じ頃だったように思う。
  いや同じ場所だったかもしれない。
  正確には覚えていないけれど、「2本の指を広げると・・・」
  という操作をパソコン画面でやった記憶がある。
  その時も同僚と話して「使えない!」ということになった。
  その時もまだキーボード操作が主流だったから。

3.ディスプレイのバックライト
  これはどこかの会社がサンプルを持ってきた。
  ELのバックライトパネルだ。
  大きさは10cm角くらいのとか25cmくらいの帯状のもの
  とか何種類かを置いていった。電源をつなぐと青白く光った。
  面発光だった。
  「これはいいね」とか言いながらうちでは特に使わなかった。
  でもあっと言う間に普及してオーディオ機器などのランプ照明
  は全てEL照明になった。
  それはいつ頃だったろう? 1980年頃かな?

4.トランスポンダ
  今はPASMOとか非接触型のカードがほとんどだけど、
  これもサンプルを持ってきた会社があった。
  それはあるレーシングサーキットで車に付けて、通過した
  車両を確認するために使った。
  まだ電車などでは使われていなかったトランスポンダだった。
  それはたぶん1990年ころだったと思う。

5.CCDカメラ
  私が最初にビデオ信号処理装置を作った頃は撮像管だった。
  主にビジコンの物がほとんどだった。焼き付きを起こすし、解像度も
  低かった。残像もひどかった。
  それがじきにCCDやCMOSに代わって行った。それはたぶん1983年頃だった
  ように思う。あっと言う間にビジコンは無くなった。
  しかし相変わらずビデオ信号はNTSC方式だったので解像度は
  せいぜい400×350くらいしか出なかった。
  走査線は480本くらいが有効だったけれど、走査線1本ごとの
  解像度など望めなかった。
  水平解像度が500を超えるカメラが出たのは1990年ころだった
  のではないだろうか。
  早いとこハイビジョンに移行すれば良かったのに、なかなか
  ハイビジョンは進まなかった。

6.CD
  前後するけれど、初めてSONYがCDを出したのは1979年頃だった。
      WikiによるとCDの発表は1982年となっているけれど、確か
  1979年か1980年のオーディオフェアーでCDが展示されていた。
  私がオーディオ会社の説明員でオーディオフェアーに行った時に
  展示されてデモもやっていたと思う。なにせ1979年までしか
  私はオーディオの会社にいなかったから。
  同僚と「あのキラキラしたやつ1枚欲しいね」
  と話したのを覚えている。

  もう一つの可能性としては、オーディオフェアーではなくて、
  データーショーか何かに展示されていたかもしれない。
  それは1981年か1982年だ。
  うちの会社もデータショーに展示していたから、
  そっちの方が可能性は高いかもしれない。

7.携帯電話
  もう有名なことだけど最初の携帯電話はカバンのような箱に受話器
  が付いたものだった。
  それをいち早く使った人がいた。取引先の会社の人だった。
  車にそれを積んでいた。車ででしか使えなかったけれどとても便利だった。
  もちろん車から外せば持ち歩きできた。
  それは1980年代中頃だったろうか。
  秋葉原の街中で電気屋のオヤジがこれ見よがしに舗道にショルダーフォン
  を持ち出して電話していたのを覚えている。

  それから片手で持てるようになり、ポケットに入るくらいになって
  ガラ携と言われるものになるまではあっという間だった。

まあとにかく昭和は目まぐるしくいろいろなものが開発された。

6/28/2024

我ら青春 1966年版テレビドラマ

 私が小学校6年生の頃あるテレビドラマがあった。
その主題歌をずっと覚えていた。
そのドラマの名前も主題歌の名前も知らなかった。
さっき検索してみた。
覚えている歌詞は
君は若者、君こそは
汚れちまったあの空に
星をたくさん 散らすんだ(正:ともすんだ)
ここだけ覚えていたので、これで検索したら
すぐ出てきた。
(今までなんで検索しようと思わなかったんだろう?)

ドラマの名前は「われら青春」
1962年に放送されたらしい。
ちょうど小学校6年だ。
歌は 作詞:岩谷時子
   作曲:佐藤勝
   歌:克己しげる
だそうだ。
作曲は「若者たち」と同じ佐藤勝さんだ。
覚えていた歌詞はちょっと違ったけれど、
メロディーは正しく覚えていた。

この歌、当時テレビを放送していた時は結構聞かれたけれど
その後はほとんどラジオでも聞かれなかった。
しかしこの歌フォークソングっぽい感じがする。
リズムは軍歌調の行進曲だけれど、
うまくアレンジすればフォークソングになったかもしれない。

何を言いたいかというとこれが1962年なのだ。
ブロードサイド・フォーの「若者たち」が1966年8月、
マイク眞木の「バラが咲いた」が1966年の4月リリース
ドラマ「若者たち」は1966年2月から放送だから、歌は1966年2月
から世に流れていた。

しかしこの「われら青春」はそれよりも4年も早い1962年だ。
この歌どこかの学生バンドが歌っていたら日本のフォークソング
第一号に間違いなかったと思う。








6/26/2024

子供の頃の記憶 その3?4?

 ふと思い出したことがある。
たぶんまだ書いていない。
小学校の4年生くらいの時の事だ。
書いた作文がラジオで放送されるということがあった。
作文の内容は全く覚えていない。
作文を読むのはたぶん学年で適当に選ばれた子供だった。
その一人に選ばれた。
小学校の用務員室、結構広くて土間のようなところと
少し上がったところに住み込める部屋が一つあった。
作文を読んだのはその部屋(畳敷)だった。
ちゃぶ台にマイクが1本あって、
その前に正座して読んだ。
その放送局の人が「はい!いいですよ~!」と言ったのを覚えている。

母親にそのことを伝えたら母は既に知っていた。
学校から知らせが来ていたようだ。
当時はまだテレビはもちろんラジオ放送に出ることも
大騒ぎだった。
その放送のある日は朝早くに放送だった。
私は寝ていて聞かなかった。
母にはそのことを聞かずに学校に行った。
学校で授業の前に先生が
「放送は中止になりました」と言った。
とても残念だった。

それで学校から帰って母に「中止になったんだって」
と言った。
すると母は「ちゃんと放送されたわよ、聴いたわよ」と言った。

どちらが本当なのか母に確かめるのを忘れた。
ひょっとするとどこかの親がクレームを付けたのかもしれない。
それで中止されたということになったのかもしれない。

無意識の仕業

 今日ふとダウジングっていうのがあったな、と思い出した。
どこかの水道局員がダウジングで水道管の位置を探し出していた、
とかいう話があった。
あれはその後どうなったんだろう?

ということを考えていたら、ラジオで糸川英夫さんの
ことを話していた。「努力を表に見せないのが天才で、
努力を表に見せるのが秀才だ」とか言ったらしい。
その彼が学校のテストの時に鉛筆サイコロを使って
答えを書いたことがあったそうだ。
それは答えがわからないからではなく、
鉛筆サイコロでどのくらい当たるのかを知りたかった
からだったそうだ。正解率は30%くらいだったとか。
そんなことを考えるのが天才だと思う。

鉛筆サイコロは当たらないだろう。
同じくダウジングが何かを見つけるのも
「偶然」と「無意識にありそうなところを探している」あるいは
「無意識に過去の記憶がそうさせている」
というのがほんとうのところだろう。
ほんとうにダウジングで何か見つかったとしたら
世の中の仕組みはひっくり返ってしまう。

だから糸川さんがもしもペンデュラムでテストの
正解の番号を当てようとしたら、
無意識のうちに正解の番号を選んでしまうはずだ。
ダウジングなんてそんなものだろう。

6/23/2024

宇宙旅行

 昔、物理科の友人が言っていた。
アンドロメダ銀河の近くに行ってもアンドロメダ銀河は見えない。
その意味をあんまり考えていなかったけれど、確かにそうだ。
今だって銀河(ミルキーウェイ)の中にいるけれど、天の川は
夜でもそれほどはっきりは見えない。
昼間だったらなおさらだ。
良くイラストで地平線の向こうに別の銀河が見えたりするけど
あんなことは無い。

それを良く考えてみると、今だって銀河の中にいて
銀河に一番近いところにいる。
他の銀河に宇宙旅行したとしても今と大して変わり映えしない。
宇宙ぽい景色、例えば土星の間近にいるとか、木星の縞が良く見える
ところにいるとかすれば宇宙ぽい景色を堪能できるかもしれない。
だけどそれにはほんとに長い時間かけて行かなければいけない。
太陽系以外の恒星系なんてとてもじゃないけど行けない。
ワープ航法なんて夢の中だけだ。

今だって十分に我々は宇宙旅行している。
地球はものすごい速さで宇宙を旅しているのだから。

いつか遥か遠い未来に、人類が様々な惑星を旅した旅行記が
ネットで見られる日が来るだろうか?
百億の夜と千億の昼の先で。


6/20/2024

火事

 ここは山なので当然坂道が多い。
引っ越してきた時、もっと年取ってきた時この坂はどうだろう?
と心配していた。
でも他の街の住宅地をみるとここはまだ坂が緩いと思える。
駅からは少しだけエレベーターがあるし。

そんなことよりも、坂の多い街は魅力的だ。
真っ平な街には住みたくない。
三鷹は真っ平だったけど。
横須賀は坂が入り組んでいて坂の途中や
崖の側面に家が立ち並んでいる。
ちょっと心配になるけれど、
がけ崩れとはあまり聴いたことがない。
もともと戦前から軍港の街で人々は谷戸に家を建てて
そこに住んでいた。
たぶんもう100年以上そのままだ。

坂を登ると山に出る。
たいていの谷戸は登って行くと上が緑地か畑か森になっている。
未知の谷戸を登って行くのは面白い。
知らない場所に出る。
そこからの眺めは緑がいっぱいだ。
ここに来て良かったと思う。

谷戸で火事があった。
アパートの下だ。
近所で火事があったのは初めてだ。
しかしこの家、人は住んでいなかったように思った。
もう廃屋みたいに古い家だった。
火事の後しばらくして更地になった。




6/19/2024

故障

 昨日前妻から動けないので助けて欲しいとLINEが来た。
ここから前の家まで車で35分、しかも昨日は大雨だった。
高速もところどころ水がたまっていた。
着いてみると玄関に座っていた。
声もか細い。水を飲ませて少し落ち着いてから
ベッドに運んだ。
なんでも朝ゴミ出しに行って、途中で貧血になり
道路に倒れたらしい。
近所の知人に電話が通じて来てくれて
それで玄関までたどり着いたらしい。
それからたぶん4,5時間玄関にいたようだ。

もう体中が弱っていて寝てるのがやっとの状態。
本人も希望したので救急車を呼んだ。
救急車の車内で一通り検査と問診をして
いつも行っている市大病院に行った。
病院はベッドの空きが無いということだったけれど、
ERで3時間くらい点滴と診察をしてくれた。
その結果、顔と腰を骨折していることがわかった。
でも市大病院はベッドがいっぱいで入院できないので
前に通っていた総合病院に行くことになった。
書類等はERで全部用意してくれた。
そして介護タクシーでその病院に向かった。

知らなかったのだが、介護タクシーは救急車とほぼ同じだ。
車椅子で迎えに来てくれて、その車椅子ごと車に乗って、
到着した病院で待っている介護士の車椅子に乗り換える
までをやってくれる。
これは非常に助かった。

到着した病院で息子が待っていた。
そこからの手続きは全て息子がやってくれた。
あれほど頼もしい息子を見たのは初めてだった。

それでその病院でも検査が始まり、やはり3時間くらい待った。
それから病室が決まり、大部屋ではなく希望した4人部屋になった。
病室に行くと疲れ果てたように横になっていた。
必要なものを聞いて息子が後日持ってくることにした。

それから息子の車で私の車が置いてある実家(?)まで
一緒に帰った。家には能天気な娘がいた。
なんだか猫のことで騒いでいた。
息子はそれからまた自分の家まで帰った。
それまでにはもう雨も弱まっていた。
夜の10時過ぎにそこを出た。

夜の10時ってこんなに車少なかったっけ?
と思うほど車がいなかった。
雨で街灯がキラキラ光る道を走って帰った。

6/16/2024

「Ai」うるさい

 昼を食べながらテレビの討論番組見ていた。
全てのメンバーが「Ai」を連呼していた。
非常にうるさい。
Aiと言えば何か専門的なことを言ってると思っているのだろう。
誰も「コンピュータ」あるいは「ロボット」という言葉を使わない。
それらを使わないことで近未来の特別なものの様に思わせてる。
あるいは本人がそう思い込んでいる。
誰か「ロボット3原則」というのを言わないかな?
と期待していたけど、だれも言わない。
そんなことを言おうものなら「老害」とか「おじいちゃん!」
とか言われるだろう。

だけどコンピュータもロボットもAiも同じものだ。
「Ai兵器」というと最新の特別なもののように感じるが、
「ロボット兵器」と同じものだ。
プログラム的に判断のアルゴリズムがちょっと違うだけだ。
今話題になっているAi兵器の問題は1970年代には既に
問題になっていた。
いやそれよりもずっと前のSFではロボットの人格化の問題
をテーマにしたものがあった。
Ai兵器というとたぶん誰もが最新の特殊な兵器と思うだろうが
ロボット兵器と言いなおせば非常にすっきり理解できる。

Ai がどんなに高度な仕様になっても、
それは人間が作ったものだ。
ロボットだ。

昔コンピュータが事務処理を担うようになった頃、
プログラム上の人間のミスを「コンピュータのエラーで」と
言うことが流行った。
コンピュータがエラーするようにプログラムしたのは人間だ。
そのうちAi兵器の暴走を「Aiの暴走で」とか言いそうだ。
暴走するようにプログラムしたのは誰か?だ。

あるいはAi自身が自分の行動を管理できるようになったとしても
そういう風にプログラムしたのは人間だ。
全てをAiのせいにすることはできない。

仮にAiが自分たちの行動制御をフリーにしてAi が人間社会のインフラとか
勝ってに制御し始めたとしても、そのきっかけを作ったのは人間だ。
人間はそこまで考えてロボットをAi化する必要があると思う。

6/15/2024

夢を見た

 今朝は改修工事のドリルの音で目が覚めた。

どこか学校のような、教室の様な所に座っていた。
夜で少し暗い。
高校生くらいの女の子がケーキのようなものを持ってきた。
下側は白く、上に真っ赤なイチゴのようなものがびっしりと
のっている。
「食べ物だろうか?」
私は上のイチゴのようなものにかぶりつく。
カリカリとカブのような食感で野菜の味がした。
けっこうおいしい。
女の子が「ひょうたんだよ」と言う。
ひょうたんってこういう味か? と思う。

そこから廊下のような道を歩く。
脇に扉がある。
そこを開けると昼間だ。
まぶしいくらいの日差し。
見慣れた住宅街の家々があった。
「あれ?今昼間だっけ?」と思う。
外は白い日差しで真昼間の街だ。

そこで目が覚める。
ゆめであんなにまぶしい景色を見るのはめずらしい。
とてもリアルな情景だった。


どうでもいいのだけど「いばらき」「いばらぎ」

 この数年、たぶん5,6年前から「茨城」は「いばらき」です、
と言う人が出てきた。出てきたというより「いばらきが
正しいですよ」というマナー講師みたいな意見を盛んに
テレビで言うようになった。
私は全く気にもせず「いばらぎ」と言っていたし、今でも
「いばらぎ」と言っている。
ちなみに私は茨城県は水戸の生まれだ。
父も母も茨城の人間だ。
母は「いばらぎ」と言っていた。おばあちゃんも「いばらぎ」
と言っていた。
父が問題なのだけど、父も茨城の人間で「え」と「い」の区別が
つかない人だった。それでも茨城は「いばらぎ」と言っていたと思う。
「えばらぎ」と言っていた人もいるようだけど、
父は「いばらぎ」と言っていた。

なぜ今になって「いばらき」を主張するのだろう?
テレビを見ていると強調するように「いばらき県」と言っている。
その都度違和感を感じる。
古い記述では「いはらき」だったらしい。
それを根拠に「き」と主張しているらしいけれど、
それじゃあその「は」は何?
「き」だろうが「ぎ」だろうがどっちでもいい。
話の内容で茨城だってわかるし、
大阪の茨木が「いばらき」なんだから。こっちは「いばらぎ」で
いいように思う。

どうでもいいけど誰がいまさらそんなこと言い始めたんだろう?



6/12/2024

ピアノの音

 1975年からシンセサイザーをいじっている。
最初は手作りだったけど、、、と言う話はどこかに書いた。
それから覚えているだけでも10台くらいシンセを買った。
でも鍵盤を弾くのは上手くなっていない。
それはいいのだけど、
今使っているRolandのシンセだけど、何も気にせず使って
いるけれど、ただいろんな音が入っているというだけで
使っている。鍵盤は61鍵だ。これ以上あったら
邪魔になる。

ずっとシンセの音を聞いてきたから気にもしていなかったの
だけど、この中のリアル楽器の音はたぶんほとんど
サンプリングだ。
ピアノ十数種類と弦楽器、管楽器、打楽器その他、
サンプリングの音だと思う。
例えばピアノだけど、コンサート・グランドをとってみると
61鍵盤(白黒含めて)全ての音をサンプリングはしていない
だろう、きっと。
例えばドレミファソあたりまで同じサンプリング音の音程だけを
変えて音を出していると思う。(もっとかもしれない)
違うかもしれないけど。
でもたぶんそうだ。
だって全ての楽器の全ての音域の音を記憶するにはメモリー容量
が膨大になるはず。
女性コーラスの音がある音域を越えると途端に変な声に
なるのはその理由だろうきっと。

つまりシンセサイザーとか言って「いろんな音出ます」とか
言ってるのは本当は「いい音」でも何でもなく、ただ
それっぽい音がでます、ということなのだろう。

それで前から思っていたことで、なんでシンセでピアノの音
が出るのに電子ピアノとか言って別に売っているのだろう?
ということ。
電子ピアノはピアノの音重視だからサンプリングをもっと
細かくやっているに違いない。やってて欲しい。
全ての鍵盤の音をサンプリングしている電子ピアノは
あるのだろうか?
あって欲しい気がする。

もう一つの疑問が生まれた。
サンプリングのビット数とサンプリングの長さだ。
ビット数はたぶん12ビット以上はあると思う。
圧縮しているかどうかはわからないけど、
圧縮しているとまた音を出すときに展開しないといけない
からそのままかなあ?
今のCPUは早いから気にしないかなあ?

それに長さだ。
ピアノの鍵盤、特に低い方をボンと弾いて、
そのまま鍵盤を押し続けたら何秒では済まないと思う。
さっきのビット数目いっぱいだったら3分くらいは
鳴り続けるような気がする(知らないけど)。
それを全部サンプリングしていたら大変だ。
やってるかなあ?
たぶんあるところでフェードアウトだと思うけど、
ペダルと絡めるとずっと鳴らしていないといけないから
どこかでループだろうな。
ペダルと言えば一番左のぺダルは考慮されているのだろうか?
弱音ペダルかな?あれも踏み方によって音が変わるらしい。
そこまで考慮した電子ピアノはあるだろうか?
あったらすごいと思う。

でも、そこまで全てに完璧な電子ピアノを作ったら
本当のアコースティックのピアノよりも高くなりそう。
まあ、ある程度のところでやめないと
電子ピアノの意味はなくなるんだろうな。

僕等はどのくらい遠くまで来たのだろう?

 ふと思った。
僕等は地球の上にいて毎日地球と一緒にグルグル回っている。
地球は太陽の周りを回っている。
太陽は銀河の中を回っている。
ここまでは自分の家(銀河)の中で動いているだけだ。

そして銀河は毎秒600Kmで海へビ座の方角に動いている。
これがほんとの移動速度だ。
これは光の1000分の2の速さだ。
つまり光の0.002
年齢を掛けると0.146
0.146光年しか動いていない。
距離にすると1.38×10^12Km
という途方もない数字だけれど、
光年で言うと0.14光年にしかならない。
生まれてから今までこれだけしか宇宙を旅していない。
一番近い恒星まで4光年(銀河の中だけど)あるのに。
宇宙の外れの138億光年は一体どれくらいの距離なのか
想像すらできない。






6/11/2024

TASCAM DP-32修理 ひどいもんだ

TASCAMのこのシリーズはとても使いやすいしマスター作成機能が
付いているので最終的な音ファイルが完成品になる。
それでDP-24から使っているのだけれど、DP-24は
スイッチが効かなくなってしまい、止む無くDP-32を
買った。
それが1年経たないうちにまたスイッチがだめになった。
つまり送り・戻しのスイッチが全く動かない。
とりあえず外部のフットスイッチでなんとか使えるので
使っているのだけれど、非常に面倒だ。
また別のものを買うことも考えたけれど、同じ機種は
もうまともには手に入らない。
修理に出すとしてもたぶん、この機械はそんなに高い
ものではないので新しく買うのと変わらないくらいの
修理代になるだろう。

それでしかたなく直すことにした。
しかし単純に全てのネジを外しても目当のスイッチまで
たどり着かない。これはオーディオ機器などに良くあるのだけど
何かを外さないと取付ねじが外せないという構造になっている。
それで全部ばらした。
問題のスイッチはこれだ。
このスイッチを見るために32チャンネル分のスライダーのノブや
ボリュームつまみなどを全部外さないといけない。
それで目当てスイッチがこれ。
これを取り換えるだけ。
このスイッチ以前はオムロンとかアルプスとかが作っていたけれど、
現物はたぶん見た感じ中国製。
とりあえずアマゾンで見たら100個で500円。
全く同じものだった。
それを使って直した。

オムロン製もモノタローで売っているのだけれど日数が
かかるのでアマゾンのにした。
これも耐久性が悪かったら次はオムロンのを買おうと思う。
DP-24も直せば良かった。

6/09/2024

モンセギュール

 昨日昔の友人に会った。
「昔の」と言ったのはちょっと間が開いてしまっていたから。
彼はずっと日本に居なかったし、時々彼が日本に戻ってきて
何かやった時に私が参加しなかったから。

その彼が日本に帰ってきた。
つまりこれからは日本で暮らすことになった。
永久にかどうかは知らない。
またしばらくしたらやはり国に帰る、と言うかもしれない。
それはわからない。
私だって北海道にいたけれどこっちに戻って来た。
そして今また北海道に戻りたい気持ちもある。
だからそんなことは誰にも、本人にもわからない。

その彼と鎌倉で会った。
なぜ鎌倉なのか、それは鎌倉ではいろいろなことがあったからだ。
あれはひょっとして法に降れたのでは?ということにも参加した。
私にとってはいくつかのことでしかないけれど、
彼にとっては人生の大事なパートなのだろう。
もう遥か昔のことだ。
コンサートもやった。
ちょうどその日に彼の母親が亡くなった。
だから彼抜きでコンサートをやった。
ひどいものだった。
その時のことは少し覚えている。

不思議なお店もあった。
確か「談話室・モンセギュール」とか言った。
今Yahooで検索したけれど出なかった。
誰かその店のことを書いていても良さそうだけどね。
駅から行くと大仏の少し手前の右側のお店の2階だった。
階段を上がって店に入った。
私はそこには彼と一緒に2回ほど行ったように思う。
今だにそこが何のお店か知らない。
まんじさんとかジュンペイさんとかに会ったのもそこだった。
まんじさんはその後自殺してしまったと言っていた。

モンセギュールの向い側が鎌倉病院だった。
鎌倉病院のことは前に書いたけれど、
行ったことは確かだけれどその時のことを覚えていない。
病院で私が原因で大騒ぎがあったことを後で知った。
あれは・・・1976年頃だったかな? ねえ?
前にも言ったけれど病院の廊下の窓から見えた木々の緑が
太陽に輝いていたことを映像として覚えている。

大仏の前の道からモノレールの下に出て大船を通って
三鷹に帰ったことがあった。
1度か2度。
いやちょっと待て、鎌倉山での録音の時はその反対側
から来て山を登って大門邸に行ったな。
そうだ、あれが鎌倉山だった。
何だよ鎌倉山って、あんなことよくやったなあ。
あれに参加しなかったら人生の3分の1くらい無かった
ように思うな。

それで、鎌倉から江ノ電に乗って江の島に行った。
江の島に最後に行ったのはいつだったろう?
もう15年くらい前だろうか。
初めて江の島に行ったのは・・・あの時だ。
まだ20代だった。
なぜだろう?とても鮮明に覚えている。
岩場の穴から聞こえてくる波の音を聞いたり、
洞窟に入って、
奥にお宮があった。
懐中電灯もろうそくも持たずに、
真っ暗だった。
それが最初の江の島だった。

彼に連れられて江の島の海岸に沿って長い階段を、
高低差の激しい階段を歩いて岩場についた。
その場所が昔行った場所かどうかわからないけれど、
たぶんその場所だ。
でも最初に行った時は海沿いから行けたように思う。
気のせいかもしれないけれど。
彼にとっての江の島は私にとっての江の島とは
また全く違う物だのだろう。
私には幼い頃の哀愁と言うものは無いから。

しかしさすがにあの階段は疲れた。
横須賀も山坂が多いので慣れてはいたけれど、
あれだけ一気に登るのは疲れる。
無事に江の島駅まで戻ったけれど、
食事をしているうちに夕方になってしまった。
彼はモノレールからの景色を観たかったようだが、
すっかり暗くなってしまった。
だからモノレールから彼の居たアパートのあたりとか
真っ暗で何も見えなかった。

ひとつ気が付いたことがあった。
対面シートに座って真っ暗な窓の外を
その彼と話しながら
いつだったか同じように見ていたことが
あったのを思い出した。
それが箱根の帰りだったようにも思うし、
どこか別な所へ行った帰りだったかもしれない。
だけど同じように窓側に向かい合わせに座って
真っ暗な窓の外を眺めながら
話をしていたことがあった。
それをまた同じようにやっていることが
不思議で愛おしく思えた。

それがその日の出来事だった。
もう一人、友達が戻って来たことが嬉しい。

6/06/2024

フォークソングクラブ

 昨日学校のフォークソングクラブの人に会った。
同窓会をやろうと思っているので相談に乗って欲しい
ということで会った。
クラブの「同窓会」というのは確か20年前にやった。
その後ライブの形式で1度か2度かやっている。
私はその同窓会には行かなかった。

その後クラブにいた数人の人が亡くなっている。
しかし数人なのだ。
この歳になってまだほとんどの人が健在なのには驚く。
この分だと90歳とか100歳で同窓会とかやっていそうだ。

そういう話の中で出てくる名前には懐かしさと
怖さがある。
「ああ、あの人もしも来たらどうしよう?」
という感情がある。
恐ろしい。。

今度の同窓会では歌は歌わない、ということになるらしい。
そうなるとどうしたらいいのか?
私は酒は飲まないので手持無沙汰になる。
まあ、だいたいいつもそうなのだけど、
困ったものだ。


6/03/2024

 雨の音が窓ガラスを通して聞こえてくる。
まだずいぶん降っているようだ。
雨の音は心を穏やかにさせる。

去年の今頃は九州に旅行に行っていた。
あまり天気には恵まれなかったけれど、
大雨だったのは一度だけだった。
鹿児島市内のホテルから姶良の友人のところへ向かう時だった。
本当は右手に海を隔てて桜島が見える道だったのだけど、
桜島はもうほとんど見えなかった。
土砂降りの雨だった。
視界も悪いし、道の右側は海だ。
そこを恐る恐る走った時が一番ひどいあめだった。
でも無事友人にも会えた。
あの時のことはもう夢のようだ。
今度またいつか晴れた日に彼に会えるといい。