5/30/2016

札幌1975・ 2016・バイク (2)


札幌到着の日は午前中雨だった。ちょうど着いた頃に止んだようだ。
雨雲に突っ込んで行く時の景色が好きだ。
機体はがたがたと揺れ始めるけれど、柔らかい雲の中に埋もれて行く感じが好きだ。

次の日はまた札幌から千歳に戻った。
今回千歳には4回行くことになってしまった。

千歳のオリックス・レンタカーのカウンターでレンタルバイクの連絡バスを申し込む。
なぜか最初、カウンターの女性に英語で話しかけられた。
たぶん東南アジアの人に見えたのだろう。
今回が初めてではなかった。

バスはほとんど中国人だった。
オリックスのレンタカーショップについて皆レンタカーのカウンターに向かっていたが、
私だけレンタルバイクのカウンターに向かう。
そこでヘルメットを借りて、その他手続きをしてバイクをチェックする。
大きなのはいやだったので、250のアメリカンを予約していたが、バイクは思ったより大きかった。
たぶん400と同じ大きさだ。
しかも重い。


ショップの人が写真を撮ってくれた。
これは以前も同じ系列のレンタルショップで借りたことがあるけれど、初めてだった。
バイクはYAMAHAのDS250。
形は古風だけど機器類はちゃんとしてる。
座ってみると十分低い。
セルを回すと低めのサウンドが気持ちいい。
しかしこれはシングルではない。
「行ってきます!」とショップの人に言って、
シフトペダルを蹴り下ろす。
ゴツンという振動。
クラッチをつなぐと意外に緩やかな発進だった。
でも、いつものころだけれど、走り始めはアチコチにふらつく。
坑道に出てアクセルを吹かすと、あの腰を押される気もち良い加速感。
サイドミラーを直し、やっとここでメーター類は何があるのかわかった。
ウィンカーもリセットが付いている。今はみんなそうなのだろうか。

脇道から6車線の道路に出る。
ただただ、気もちいい。

千歳駅前で左折する。
この道は昔はこんなじゃなかった。
昔はビルなど無かった。

しばらく走って高速をくぐるとあとは昔のままの森林を抜ける道だ。
この道は起伏があって、真冬はいい気になって走っていると凍結で止まらなくなる。
当然だけれど、ハンドルに固定したカメラでは振動がすごい。

支笏湖に近づくにつれて気温が下がってくる。
支笏湖に着いた時にはもうすっかり冷えてしまっていた。

しかし行きたいのは恵庭岳の方の湖岸。そこまで大した距離ではないのだけど、とにかく寒かった。
やっと向こう側にたどり着いた時には死ぬかと思うくらい。
なにせバイク用のジャケットが夏用だったので風よけにはならない。
そこのお店(もう100回近く行っているはずなのに一度も入ったことがなかった)に入って
暖かいウドンを食べた。
普段だったら特に美味しいとは思わない観光地のウドンだったけれど、その時は
とても美味しかった。とにかく温まった。

そこからオコタンペへ行こうと思い、山を登って行ったけれど、オコタンへの分岐点が
通行止めになっていた。崖崩れだったようだ。
しかたなくモーラップの方へ行くことにした。
そのころには太陽も出てきて少し寒さが和らいでいた。

途中の樽前山の向かい側の駐車スペースに停めて写真を撮っていたら、停まっていた観光バスの
運転手ともう一人、男の人が声をかけてきた。
話してみるとその一人はついこの前まで横浜にいたそうだ。
そこから千歳へお客を乗せに行くそうだった。

275号に出て、そこから湖岸を美笛の方に走った。
途中のトンネルがまた非常に寒かった。
二つ目のトンネルで折り返して戻ることにした。
途中キャンプ場の方への脇道に入って行きどまりまで走った。


そこの森がとてもきれいだった。
地面はコケや草で覆われていて、湿地のように見えた。でもたぶん乾いていたのだろう。

バイクを返すにはまだ早かったけれど、千歳空港に戻ることにした。
暗くなってから帰るのは不安だったから。
千歳の街に出るとさすがに車が多い。幹線道路は大型トラックが頻繁に走っている。
そういう道を走るのは久しぶりだった。
とても緊張した。
でも無事に空港に戻ってバイクを返すことができた。
バイクは3年ぶり。その前は30年ぶりだった。

5/29/2016

札幌1975・ 2016・バイク (1)

札幌に行ってきた。
その後何度か行っているが、一人で行くのは20年ぶりくらいだ。
最初の目的はバイクに乗りことだった。
予定していた日は雨だったので1日延期だ。

そうなるとどこへ行こうということになる。
まず道庁だ。
あのアイヌ地名の大きな地図をもう一度見てみたかった。

道庁の入り口の職員に「あの地図はどこだったでしょう?」と聞いたが、知らなかった。
それで上の階に行って各部屋を調べた。
無かった。
そこの職員に「あの地図はどこだったでしょう?」と聞いたが、知らなかった。
「もうあの展示はやめたのでしょうか?」と聞いた。
すると「そうですねえ、私も覚えていないくらいですから…」と言う。
そうか残念だ。と思った。
1階に降りた。
「そうだ1階にも何か展示があったなあ」と思って、廊下の奥に行った。
左手の部屋に入った時に、大きな地図があった。
「なんだあるじゃないか」と思った。
道庁職員はちゃんと仕事するように。

そこから西28丁目に向かった。



たぶん昔から変わっていないのはこの景色だけではないだろうか。
店の名前が微妙に変わっているけれど、「東急ストアー」があった場所だ。
この正面の景色はほとんど変わっていない。


東急ストアーから西に少し行くと斜めに入る道がある。
この道がアパートまで続いていた道だ。
その入り口のところ、昔はガソリンスタンドだった。ここでいつも洗車し、ガソリンを入れていた。
今思い出した。現金ではなく月締めでお金を払っていた。綴り伝票があったように思う。
その道を入ると一度クランクがあって緩い坂を上って行く。
そのクランクになっているところに昔は民家があってその塀に美しい蔦が這っていた。
秋になると真っ赤になった。


確かずっと前のこのブログに雪道の写真を載せたけれど、この先の電柱のあたりに、
「バードマンション宮の森」とかかれた看板があった。

この道を突き当りまで行くと右側に郵便局とスギハラさんと呼んでいたスーパーがあった。
そのスパーはまだあった。

このお店がそのまま残っているのは驚きだ。
なぜなら札幌の当時のものはほぼ無くなっているからだ。
このお店は全く昔のままだ。
アパートからすぐなのでここでよく買い物をした。

そこから南に出ると北一条の通りに出る。
記憶では北一条からアパートの方に曲がるのは神宮の鳥居の手前だったように思ったけれど、
実際は鳥居を過ぎてからだ。

そこから神宮の方に入り、公園に抜ける。
そのまま大通り20丁目まで歩くのが車を使わない時の通勤ルートだった。


公園の中は冬は雪に覆われていて、人の歩く道が一本だけ通っていた。
そこを行くと大通りの西の終点の場所に出る。

ここは道路もきれいになって全く別の場所の感じがする。
そこを東に少し戻るとバスターミナルがある。
その向かい側に円山ブロードハイツというマンションがあるが、そこは当時社長が部屋をもっていて、オーディオのリスニングルームにしていた。
よくそこに行って音を聞いた。
そこの窓から写真を撮ったりした。
それもどこかにアップした。雪の中の道を写したものだ。


部屋のカーテンを深いブルーにした。
カーテンを閉めても太陽の光で部屋はブルー一色になった。

そこから北に中通を歩くと西28丁目の地下鉄駅に戻る。

そのちょうど突き当りのところにアパートがあって、友達が住んでいた。
その前に車を停めて友達を待っていた。
ちょうどこの場所。

たぶん同じ場所の40年前。


宮の森を一周した。





4/30/2016

不確かな過去

そうすると「過去」の歴史とかはどうなんだろう?
「過去」に起きたことは確かなのだろうか?
それは確かなのだろう。
起きたことなのだから。
それは記憶に残っているし、何かに記述されている。
しかし、それは記録であって過去そのものではない。

例えば500年前に起きたことは確かにあったことなのだろう。
しかし、もしも時間を過去に進ませることができたとしても、
過去の記述通りに戻るわけじゃない。
つまり映画のフィルムを戻すようにはならない。
戻そうとしたとたんフィルムは現在の1コマを除いて
真っ白になってしまう。

過去に向かったとたんに過去は不確かなものになり、
未来が不確かなことと同じように、
過去に何が起きるかは不確かなことになってしまう。
シュレディンガーの方程式の時間が負の場合は
そういうことを言っているのだろう。

4/28/2016

時間のスケール

だいたい時間が遠い過去から永遠の未来までまるで物差しのようにつながっている、
というイメージはどこから生まれたのだろう?
子供の頃からだろうか、それも学校で歴史年表みたいなものを見たのが始まりだろうか。
物差しのようになっているというイメージがあるからタイムマシンのような考えが浮かんで
しまうのだろう。
しかし、おそらく時間というものはああいう風にはなっていない。

未来がほんの一瞬先でもどうなるかわからないのと同じように、
過去も一瞬前がどうであったかも同じ不確かさであるはず。
というのもシュレディンガーの方程式が負の時間でも成り立つらしいからなのだけれど、
それをずっと考えていたら、その方が自然のように思えてきた。

だから時間を長さのあるものでたとえてはいけないのだろう。
時間と言うのは「一瞬」でしかない。
…これも変な言い方かもしれない。
「一瞬」と言った時、頭では位置的なイメージを描いてしまうから。
それじゃあ、時間とはいったい「何のような」ものだろう?

ディスプレーに写る映像はどうだろう。
映像それ自体は絶えず一瞬しか画面上に存在しない。
ただし映像に投影される映像はビデオテープやビデオ信号のように記録されたもので
あってはいけない。ビデオ映像だとまた戻すことや進めることができてしまうから。
でもまあ、時間のたとえとしてはいいような気がする。

画面に何が映るかは、正の時間でも負の時間でも同じように投影される。
画面に映るものは時間の正負にかかわらずある確率を持って投影される。
我々は時間が正であれ負であれその画面に映る瞬間の映像を見るしかない。
その映像は絶えず変わって行き、元に戻すことはできない。

そういう状況ではタイムマシンなどという概念すら意味を持たない。
100年後も100年前も確率的にしか語れない。
それでいいような気がする。
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4/26/2016

ビジコンからハイビジョン映像

1981年にオーディオの会社からパソコン関連機器を作る会社に移った。
パソコン関連機器というのはその頃まだ「マイコン」と言っていたボードコンピュータを
コンピュータに作り上げ、それに画像処理機能を組み込んでいたものだった。
その頃のCPUは6802だった。その後6809を組み込んでいた。
OSとしてFLEXを使っていた。

その画像処理機能だけれど、ビデオ信号入力からビデオメモリーとそのメモリーをアクセスするためのインターフェイス、それとビデオメモリーの出力をまたビデオ信号に戻して出力していた。
たぶん、画期的なものだったと思う。
その全体の開発に私は関係していなかったけれど、ビデオ信号処理の部分に少し改造を加えていた。

当初は入力となるビデオ信号元はビデオカメラ、それもビジコンかサチコンを撮像素子に使ったものだった。あちカルニコンというのもあったと思う。
いずれにしても解像度は低く、水平が200くらい垂直は240くらいだったのだろう。
少し良いもので300×240くらいだったと思う。
だからビデオメモリーも256×256画素のものだった。
深さは4ビットで16階調だった。

それを6809ボードから制御していたが、インターフェイスを付けて、その頃出始めたパソコンにつなげるようにしていた。PC-8001やMZ-80,FM-8などだった。
インターフェイスは上下アドレスをパラレルIOでセットしてそのデータを読み書きするものだったから、処理速度は遅かった。8ビットコンピュータで1画面全部を書き換えるのに数分かかっていたと思う。後に16ビットのPC-9801が出てからも1秒くらいはかかっていたように思う。
その後に、パソコンのメモリーマップの中で直接アクセスできるよういにしてかなり早くなった。

そこに至ってもビデオ信号はあまり変化なかった。
撮像素子がCCDに変わって安定はした。特に焼きつきや残像が無くなったので、産業用に使うには条件はかなりよくなった。
しかしNTSCの制約のために解像度はほとんどよくならなかった。
イメージメモリーは512×512に変わったけれど、実際の解像度はそんなに良くなかった。

ビデオ信号のアナログ処理部はほとんど確立されていたのだと思う。
当時世に出ていた回路図はほとんどテレビ受像機の回路が基本になっていたように思う。
そのため画像入力装置のAD変換の前段の回路はそれを継承していた。
たいていはトランジスタ2,3石で作られていた。
アナログテレビ受像機の場合ビデオ信号のDCが多少変動しても平気で写っていたけれど、
AD変換ICはその変動をまともに受けていた。だから明るい場面から暗い場面に変わるとDC変動によってデジタルデータは大きく変わってしまった。
同じ白いものでも画面の中にある大きさによってその値が変わってしまった。

従来のビデオ回路でもクランプ処理というもの行ってある程度ビデオ信号の安定化を行っていたけれど、ビデオ信号処理にはむいていなかった。
それで、クランプ回路を作った。
最初はビデオ信号の同期パルスの底を検出してその変動をビデオアンプにフィードバックする方法を考えた。それは何も参考回路が無かったので、自分で考えたものだったけれど、とてもうまく動いた。DCの変動はほとんど無くなった。それはその後改造してぺディスタル部分を検出してペディスタル部分のDCを固定する方法に変えた。

ずっと後になって他のメーカーの回路図を見ることがあった。それを見るとビデオ入力部分の回路が私の回路とほとんど同じだった。
きっと同じことを考えたのだろう。真似されたとは思わなかった。
だいたい電子回路なんて目的が一緒だったら同じような回路になるいはず。


それから、ある時の画像処理展で、あれは確かTIだったと思うけれど、1000×1000くらいのCCD素子を出したと思う。
その頃からこう解像度のビデオに世の中は移っていったのだと思う。
NTSCを離れて独自のビデオ信号のカメラが出始めていた。
でもコンピュータの方がそれに追いついていなかったように思う。
複雑な処理になるとかなり遅かった。
いずれにしてもPC98の時代が終わりDOS-Vになってからだったと思う。まともな処理ができるようになったのは。

考えてみると256×256のメモリーボードがA3サイズあった頃から考えると、Go-PROがあの大きさでハイビジョン映像を記録できるのは驚異的だ。
いや、大きさとしてはもっともっと小さくできるのだろうけど。

4/12/2016

高層マンションと子供

昨日のニュースを聞いて、もうひとつ古い映画を思い出した。
あれも海外のショートフィルムだったように思う。

アパートの一室で母親と子どもが暮らしている。
母親が家事をしている間に、子どもがベランダに出て柵に上って遊んでいる。
母親はそれに気づかない。
子供は柵の外に身体を乗り出しているうちに手を滑らせてしまう。
子供はかろうじて柵をつかんでいる。

母親が子供を探して呼ぶ。
でも返事が無い。
どこを探してもいない。
そこで母親は思い出す。
以前冷蔵庫に入っていたことがあった。
子供は雪になりたかった。(とかだったと思う)
母親は急いで冷蔵庫に走る。
ドアを開けるが子供はいない。

部屋のドアを開けて出てはいないはず。
母親はぼんやり窓を見る。
柵の下に子供の手が見える。
母親は急いで走って行って、その手をつかむ。
しかし、柵を通してつかんでいるのでどうしようもない。

母親はなんとか子供を上に上げようとするが、
できない。
そのまま時間だけが過ぎ、
子供も親も手の力がなくなって行く。

子供は空を飛ぶ空想をする。
子供が言う。
「お母さん手を離していいよ、僕は空を飛んでふんわり地面に降りるから。」
「大丈夫だよ」
母親は子供を叱り付ける。

そうしているうちに、道路を歩いていた人が二人に気がつく。
みな空を見上げて大騒ぎになる。
そこにいた一人の若者がそのアパートに駆け込み
階段を上ってその部屋にたどり着く。
ドアを開けようとするが、鍵がしまっていて開かない。

(ここから記憶が不確かだけれど…)
たしかその若者は人のいる部屋を探す。
そして上の階に人がいて、その部屋のベランダに出て
パイプ等をつたって親子のいるベランダにたどり着く。
そして子供の腕をつかんで部屋に入れようとするが、
母親は子供の手をつかんだまま離さない。

もう大丈夫だからというが手を離さない。
でもそれは手を離さないのではなく、
母親の手が固まってしまい、離すことができないのだった。
やっと母親の手を離して部屋に入れるが、
母親の手は子供をつかんだ格好のまま戻らない。

地上では歓声があがる。


というような映画だった。
あれは何という映画だったのだろう?
記憶ではMotherだったように思うが。


















4/10/2016

ショートムービー

あれは誰の何と言う映画だったろう?
かなり以前のことだけれど、YAHOO?のショートムービー紹介のところにあった映画。
確かその監督の友人がライフルで自殺してしまったという実話に基づく映画で、

その映画は主人公が野原の真ん中で車だったかの上に座って
ライフルをくわえて自殺しようとしている。
足で引き鉄をひこうとすると、どこかから赤ん坊の泣き声がする。
彼はライフルを置いてその声の主を探し始める
すると赤ん坊が置き去りにされているのを見つける。
彼は赤ん坊を抱き上げ、その子を連れてそこを立ち去る。

というような内容だったと思う。
監督はその自殺した友人をどうしたら救えただろう、と考えたのだろう。
とても感動的な映画だった。

4/02/2016

YouTube Creator Day


なんだかわからなかったけれど、面白そうだから行ってきた。
その前に、このお知らせのメールが来て「抽選で参加できます」というので申し込んでおいた
わけなのだけれど、みごと当たったわけです。
これがどういう条件で選ばれたのかわからなかったが、当日プレゼンターが言った言葉で
恐らくチャンネル登録者数1000人以上から選ばれたのではないかと思った。
私はその下限ぎりぎりだ。

 
この会場はほぼ満席だった。
まだ誰もあまり来ないうちにこの写真を撮ったので椅子しか写っていないが、一番左に立って
いる女性がプレゼンターの一人。
私は前から2列目に座った。
 
正直なところここで何をするのかわからなかったけれど、まあ何か説明を受けるのだとは
わかっていた。
二人のプレゼンターが1時間交代でプレゼンを行った。
                                
                        もらい物1(アメちゃん)

 
内容は「いかに集客するか」に尽きる。
二人のプレゼンターは非常にわかりやすくその説明をしていた。
私も利用していなかった機能をいくつか知ることができた。
ただ、私は単に集客目的でチャンネルを管理していない。どこからかの検索で私のところに来て
動画を気に入ってくれる人がいたらラッキーとしか思っていない。
しかしおかしなもので説明を聞くうちに「なるほど、そうすればもっと見てもらえるのか」と
納得してしまうものがある。
説明も良かったのだけど、ああいう内容はYouTubeで研究・検討されているのだろう。
 
                         もらいもの2(マグカップ)
 
 
私としてはもうすこし来ていた人たちと自由に話ができればよかったとおもうけれど、
時間に制約されていたのでしかたないかもしれない。
例えばプレゼンを1時間にして後は交流のために時間にしてもらえたらよかったかもしれない。
音楽関連のチャンネルをやってる人が多いと言っていたけれど、私はそういう人とは話が
できなかった。
途中20分くらだったろうか軽い食事とカップケーキなどを食べながらグループに分かれて各自の
チャンネルを説明してコラボ相手を探すという時間があった。
味はともかくこのYouTubeカップケーキは街で売ったら売れるだろう。かわいらしかった。
 
結局のところ、あの集まりに行って良かったと思う。
ああいうプレゼンを受けるのは実は初めてだ。私の時代にやっていたのはプロジェクター
と白板を使ったプレゼンの方法だったから。今のプレゼン方式ではレジュメもいらないし、
必要なところをスマホで撮っておけばいいから理解はしやすいだろうなと思った。
それにヒルズのビジネスフロアーに入ったのは初めてだ。
 
 
 
 
いずれにしてもあれを自分のチャンネルに反映させるのは少し時間が必要みたいだ。
 
もう一つもらい物があった、プレゼンの説明が書かれたブックレットとステッカーだ。
ステッカーはどこに貼る? ギターケースにでも貼るのだろうか。
 


3/13/2016

幽霊の存在確率

寝言の続き。

仮に幽界というものがあって、現実世界と同時に存在していたとすると、
その境界には何かエネルギー障壁のようなものがあるのだろう。
その場合、境界近くの領域に居る現実世界の人間はある確率を持って
幽界にも存在しているはず。
同様に、幽界の幽霊はある確率を持って現実世界にも存在しているはず。

一種のトンネル効果として幽界の幽霊は現実世界に現れる。
我々はそれを見て驚くだろうが、彼らも我々を見て驚くはずだ。
タクシー運転手が幽霊を見ることが多いらしいが、幽霊たちも変なタクシー
に乗ったと騒いでいるはずだ。

現実世界の人間が幽界に存在する確率は波動関数の二乗で表わされるが、
幽界の幽霊が現実世界に存在する確立も波動関数で表わされるのだろうか。

だけど、幽霊というのはそういう理由で存在するような気がする。

3/08/2016

時代は変わる

子供の頃、
テレビで見る大人達は父親よりも年食った人達が多かった。
紅白に出ていた人達は自分にとって爺さんだった。

自分が社会人になった頃、
テレビで見る大人達は父親の年代の人が多かった。
紅白に出ていた人達は父親の世代の人が多かった。

自分に子供が出来た頃、
テレビで見る人達は自分と同じ世代の人が多かった。
紅白に出ていた人達に父親の世代の人が少なくなった。

子供達が社会人になった頃、
テレビに出ていた人達の一番高齢者が自分と同じくらいだった。
紅白に出ていた人達には自分の世代の人がまだいた。

自分がシニアと呼ばれるようになった時。
テレビに出ている人はまだ同世代より少し若い人がけっこう多かった。
紅白に出ている人には同世代はわずかだった。

もうすぐ、
自分達の世代はテレビから姿を消し
紅白は子供達ばかりになり、
我々の世代が終わる。





2/25/2016

A long road home

YouTubeというのはずっと見ていると思いもよらないところに行き着く。
確か全く別の歌を聴いていたはず。
そうだAmerican trilogyだ。
あの歌はこの人が編曲したのか、とわかった。
右の関連動画にこの歌があった。
地名や名前を日本のに置き換えればまるで自分のための歌みたいだ。
この人はいったいどういう人だったんだろう。

A LONG ROAD HOME

How I long to feel the salty wind
off Galveston Bay in my face once again
A warm southern wind on my weather-worn skin
Perhaps I would not feel so old

Now I long to hold the golden sand
in the hollow of my hand
Stand for a while there and fill in the hole
left in the heart of a wounded old soul

Here's to tomorrow; here's to today
Here's to whatever I never did say
Here's to old friends who have gone separate ways
Here's to the memories

How I long to be in those East Texas woods.
I would be in those old Piney Woods if I could
on a hot summer mornin' down Centerville Way
...the windows rolled down in my old Chevrolet

Cruisin' the backroads with nothin' but time
three nickels short of having a dime
Miles from the highway, no hill left to climb
Me and the whisperin' pine

Here's to tomorrow; here's to today
Here's to whatever I never did say
Here's to your love, you are happy, I pray...

Out on this long stretch of Interstate 10
that ol' Del Rio station just keeps rollin' right in
Many the night it was my only friend.
Just me and the radio

The Silver Moon Cafe was once out this way
Like Route 66, boys, it too had its day
and this rusty old sign here is all that remains
My, how the times have changed

They tell me ol' Bud Rose hocked his guitar
Bought a ticket to Nashville to become a big star
Now he works on a bottle and he lives in a car
Do you still have your dreams?

You remember the old town here yesterday?
The walk from the Ryman to the Linebaugh Cafe?
We would stop in at Tootsie's and Tubb's on the way
And slowly head east down to First and Broadway

Hey, look at that ol' river, Bud, how it just keeps rollin'
If it was a clock I could stop, I would try
I would let it roll down on about '65
Perhaps I would not feel so old

Hoist all the sails, Bud, to hell with the breeze
Send me a wind that will bend every tree
A storm that will bring every man to his knee
Here's to the howlin' sea

Here's to tomorrow; here's to today
Here's to whatever I never could say
Here's to the piper; the bastard's been paid

Down on this long stretch of Interstate 10
El Paso to Phoenix, to L.A. and then
It is north by northwest, I just follow the wind
And by midnight tonight I will be
home in Springfield again...

~Mickey Newbury

2/24/2016

夢の話ほどどうでもいいものはない

夢を見た。
短いけれど長い夢だった。

地下鉄に乗っていた。
ドアが閉まって走り出した。
ドア窓から外を見るとドアの下に大きな機械が出ていて
それが線路の柱にぶつかって曲がった。
それと同時にドアが曲がって室内に膨らんだ。
私の右足がそれで踏まれて動かなくなった。
落ち着いてはいたけれど、
「だれか電車を止めてください」と言うと
電車は止まった。
でもすぐにゆっくり動き出し
次の駅で止まった。
その時には私の足は外れていた。

地下鉄を降りて歩いていると、
私の後ろを歩いていた女の子が
私のカバンから顔を出していたカラーペンの束を
つかんで1本ずつきれいに束ね始めた。
「これじゃだめよ」と女の子が言った。
一緒に歩きながら女の子は色別にきれいに
束ねて私に返した。
「こういうのってすぐにごちゃごちゃになるよね。」
「うちの娘もそうなんだ」と私が言った。
一緒に駅から歩いていると、
女の子は左側の坂道をすたすたと降りて行った。
私は右側のものすごく急な階段を手すりにつかまって
すべる様に降りて行った。

下でまた一緒になって、何か話しながら歩いた。
女の子は私の左腕につかまって歩いていた。
懐かしい感じだった。
お寺の境内を通って、
右に曲がると平屋の都営住宅のような家が並んでいた。
女の子はその一番手前の家の玄関を開けた。
中から小さな子供達が3人出てきて迎えた。
私は少し離れたところからそれを見ていた。
女の子は両手で私にバイバイと言っていた。

私はまた元来た道を駅の方に帰ろうと思い
歩き出したが、景色がどうも見覚えがない。
向こうの大きな家の屋根がうちわのように
ばたばたと開いたり閉まったりしていた。

そっちじゃないなと思った。
「そうだお寺を通ったじゃないか」
と思い出し、右手の方に向かった。
お寺の門が見えた。

目が覚めた。