6/29/2015

三井君のことπのこと


三井君という人がいた。彼はいつも全教科クラスでトップだったと思う。
私はほとんどの教科はあまり良くない成績だったけれど、物理と数学だけは
1度だけ彼を超えたことがあった。私がクラスでトップになったのはたぶん
その時だけだ。
三井君の家は私の家から少し離れていたけれど、団地に住んでいた。
学校が終わっていつも彼の団地の階段の踊り場で話をした。
だいたいが物理の話だったけれど、何時間も立ったまま話をした。
いつだったか、学校で誰かが「πは7分の22で求まる」と言ったのを
私も三井君も聞いていた。
それで私が「それで求まるのは3桁だけだよねぇ?」「そういえばπって
どうやって計算するんだろう?」と三井君に聞いた。
三井君は確かルート2を使った計算式を言ったけれど、それも確か3桁だった。
それで、じゃあどうやれば100桁以上出せるか考えよう、ということになって
ふたりでそれぞれ、ずいぶん考えた。
本屋に行って計算式を調べたりした。
しかし、二人とも結局計算式は出せなかった。
私も三井君も級数計算の方法を勉強しないと出せない、という結論になった。
確か、級数計算の式をどこかから見つけてきて、2,3桁だけ計算したような
記憶がある。
三井君とは相対論とかについても話した。
と言ってもそこらへんの本に書いてあるような話だけれど、三井君は私よりも
ずっと本当のことを知っているような気がしていた。
三井君のお父さんは確か大学の先生だった。たぶん三井君も立派な人に
なっていると思う。今会えたら、今度は量子について話したい。
きっと彼は私のわからないことをきちんと説明してくれるだろう。

6/28/2015

明日はどっちだ?

今日、ホームセンターに買い物に行った。
店内を歩き回っているうちに胸が苦しくなった。
苦しいというのはちょっと違うかもしれないが、
みぞおちの辺りを中からつままれて痛いような感じだ。
今年に入って3回目。
その前は30年くらいに何度かなった。
その時に病院に行ったがはっきりわからず心筋梗塞か?
ということでニトロをもらってきたが、使うことは無かった。
今回は今年に入って3回目だから、ちょっとやばい感じがする。

店内の通路に30分くらい動かず座っていた。
汗がひどく、床にしたたっていた。
大勢の人が脇を歩いている。
私がいた商品棚をずっとみている人もいた。
私はずっと下を向いて額の汗をぬぐっていた。
その間、誰一人私に声をかける人はいなかった。

「私はここに居るのか?」
ひょっとして今こうしているのは私の骸か?
急に怖くなって、携帯で家族に電話をした。
みなが来てくれた頃にはだいぶ良くなっていた。

今年1回目は、駅から家に向かう途中だった。
倒れそうだったけれど、なんとか歩いてたどり着いた。
2回目は、風呂でシャワーをしているときだった。
しばらく座ってじっとしていたら、良くなった。
3回目があったら病院に行こう、と思った。

それで3回目だ。
病院に行こう。



6/25/2015

偶然とは思えない偶然

特別なことも無いのに、
いや何か特別なことがあるのかもしれないが、
同じようなことが何度も起きることがある。

最も頻繁に起きるのは、電話がかかってくるのと同時に玄関のインターフォンが鳴る。
一日は24時間十分あるのに、電話は日に一度かかってくるかどうかなのに、
人も日に一度くるかどうかなのに、
それが同時に起きる。
しかも来客は2人同時にくることもある。
いわゆるシンクロニシティとして良く言われているようなこともよく起きる。
あまりに頻繁におきるので、自分の世界はどこかで制御されているような気になる。

今日、不思議な偶然がまたあった。
YouTubeで映画を観た。もう10年以上前に見た映画だ。好きな映画だ。
すでに何度も見た映画なのだが、その始まりの映像を観て驚いた。
いままで気がつかなかったけれど、この建物は知っている。




地下鉄の車窓から見える丘の上に古風な建物があり、それをいつも見ていた。
あれはいったい何の建物だろう? とずっと思っていた。
それで自転車を買った時にあそこに行ってみようと思った。

その建物は丘の上にあった。
そこまではずっと坂道なので、自転車を押してやっとたどり着いた。

ついた時に、ここには前に来たことがあるという感じがした。
いつか子供の頃、この前に立って、こうして建物を見ていた気がした。

 
それがわかった。
この映画に出てきた建物だった。
今日映画を観なければ気がつかなかっただろう。
偶然か?
私があの場所に行ったのは偶然なのか?
 
・大倉山記念館
・1999年の夏休み

6/19/2015

札幌の昔の航空写真

札幌の昔の航空写真

最近、昔の地図や航空写真が見れるサイトを見つけたので、札幌ネタを復活させよう。
ちょうど私が札幌に行った頃の写真があった。
大通りの21丁目あたり。

最初に下宿した片岡さんの家もはっきり写っている。
また勤め先だった佐川ビルの近くには工場長の家も写っている。
写真は1976年なのでまさに私が居た時の写真だ。
そう思ってみると不思議な感じがする。
時間がわからないが、ビルの近くに私の車が停まっているはずだ。
しかし、それらしいものは見えない。

大通りから引っ越して宮の森のアパートに移った。
それがこの写真。
 

 
 
これも1976年の写真。
この写真の右上のくの字型のマンションの下に東急ストアーがあった。
その右が地下鉄駅。
記憶ではアパートから近かったように思うが、こうやって見るとけっこう遠かった。
上と下の2本の大きな通りの真ん中にもう1本道があるが、これは行き止まり(つきあたり)
になっていて、そこに銭湯があった。
風呂が焼けた時、利用したが、そこからアパートに帰るまでに髪の毛が凍った。
上の広い道が左の方で曲がっている、ちょうど曲がり角あたりの右側に喫茶店
「ウインディー・ウエスト」というのがあった。ガラスをふんだんに使った綺麗なお店だった。
 
もうひとつ気になっていた「青い橋」のお店があったところの写真。
 
これも1976年の写真
写真中央の赤い屋根が並んでいるところの右下が駐車場だった。
そこに車を置いて、そこの右下の緑の屋根の一部が見えているところがお店だったように思う。
駐車場からそのお店までの間に橋があったと思う。
写真からはよくわからない。
あるいはその左側の屋根がそうだろうか。
全く記憶でははっきりしない。
 
1981年の写真では、たぶん、まだあるように見える。
 
白黒なので鮮明ではないが、たぶんある。
 
そして、1985年の写真では、たぶん、もう無い。
 
別に私は青い橋の関係者ではないし、青い橋自体が現在どうなっているかしらないが、
私の記憶の検証をしているだけだ。
たぶん、この写真の中をGoogleのように歩ければすぐにわかると思う。
しかし全ては記憶の中にしかない、というのは淋しい。
 
 
 
 
 

6/13/2015

量子と幽霊について考えてみた


幽霊の典型的パターンは、ある人が怨みや後悔などの思い残しを持ったまま死んでしまい、
その思いが幽霊になって現れるとかだろうか。
つまり、そうではなく別な人生を歩いていたはずの人が、思いとは別の終止符を打たれて
しまったということなのだろう。

例えば、本来なら自分が会社から家に帰って家族と食事をするはずが、途中で交通事故にあって
死んでしまった場合だけれど、
交通事故に遭わずに家に帰っていた可能性もあるわけで、パラレルワールドとかではなく
生きて家に帰った自分の確率があるはず。
そううすると自分は死んでしまった世界で、存在しない「はず」の世界でも、生きていた「はず」の
確率分だけ自分は存在しているはず。
私の死をはっきりと確認した人は私が「生きている」か「死んでいる」かのどちらかの状態を
確認しているはずなので、私は死んでいることになる。
そうでなく、私の死を確認していない人、人伝で知った人にとっては私の死は、それをはっきりと
確認するまでは「死んでいる」と「生きている」の両方の状態をとりうる。
私が死んでいる状態は現象として確認することは出来ないけれど、私が「死なずに」歩き回って
いるのはある確率分だけ現象として見ることができるのではないだろうか。

そう考えると今生きている(とされている)私はどこかで死んでしまったはずの確率も持っている
のであるから、私を見たり、私と話したりしている人は私が生きているとする確率分の姿を見ている
ことになる。
私は生きているのだろうか、あるいは死んでいるのだろうか。

6/09/2015

WoodSmog concert ウッドスモッグコンサート 日比谷野音


1971年5月19日だったらしい。
考えてみると箱根アフロディーテの3ヶ月前だ。
私は学校の同じクラブの女の子Tとその野音にいた。
私は行こうと思うような人は出ていなかったので彼女に誘われたのだと思う。
その日はお約束の雨で、彼女は真っ赤な傘をさしていた。私は傘を持っていなかったと思う。
だからその真っ赤な傘にでかいのと小さいのが二人で入っていたことになる。
それで、レコードジャケットに自分達が写っていないだろうか?と思い、オークションでLP
を手に入れた。たまたま安い(通常¥5000~¥1万円以上)のが出ていたので購入した。

私たちはステージに向かって右の後ろの方にいた。大きな写真には写っていないようだ。
右手の赤い傘ではない。
もう1枚小さな写真があり、それは右手の方も写っている。
ルーペで見ると最終列に赤い傘がある。
たぶんこれだ。
私は写っていないがたぶんそのあたりにいたはずだ。

音を聴いてみた。
記憶から浮かび上がる音は無かったが、こんな雰囲気だったんだなと思う。
確か吉田拓郎も出ていたと思うがレコードには入っていない。
高田渡は伴奏とハモで聞こえるのがそうなんだろうか。
内田裕也氏がステージにいたはずだがネットにもその記述は無い。
私は知らないが彼女が「内田裕也だ」と言っていたのを覚えている。

なんか雨で冷たいコンサートだったなあ、と思う。
浅川マキさんが出ていた。
「私だけ屋根の下じゃいけないわね」と
ステージの一番前で雨に濡れながら歌っていたのが印象的だった。




4/28/2015

平行宇宙と引力


なんと12月から何も書いていなかった。
ので、何か書こう。

ちょっと面白いと思ったことがある。
誰か有名人が亡くなったときいた時、「あれこの人前に亡くなっていたんじゃない?」
と思うことが私だけではなくあるようだ。
しかもその人物はほかの人も同じ人をそう思うようだ。

それは恐らく単なる思い違いにすぎないのだろうが、
思い違いではなかった場合はどうなんだろう?という話だ。

その人の記憶では、つまりその人が生きてきた過去においてはその人は亡くなっていた、
のかもしれない。どこかで平行宇宙を横切ってしまい、その人がまだ生きている世界に
来てしまったということではないか、と考える。
無いとは言えない。

昔どこかの超能力者が行っていたが、未来を予知したり、何か不思議なことを起こす
のは単に、そのことが起きる平衡宇宙に移動するだけだと。
もしそういう能力があるなら、それは単純なことなのかもしれない。
しかし、普通に生活していてほかの宇宙に移動してしまうということがあるのだろうか。
もし今そういう現象があるなら過去においてもずっとあったのだろう。

平行宇宙は数学的に同次元なのであろう。もしも次元の違う宇宙に行ってしまったら
のんびり「このひとは前に・・」などと考えてはいられないだろう。
でもひょっとするとそういう次元に行ってしまった人がいるかもしれない。

では同じ次元にしろ別の次元にしろ、他の宇宙に移動することはできるのだろうか?
あるいは他の宇宙を知ることはできるのだろうか?

先日テレビの物理の番組を見ていて、面白いことに気がついた。
その先生が言うには別の宇宙があったとしても音も光も電波も届かないから
別の世界のことをしることができない。と。
しかしその先生は最後に面白いことを言った。
「引力はとどくでしょうね」と。
そうなのか、引力は空間の歪みだからその歪みは別宇宙で感知できるかもしれない。

そう考えるといろいろ思い当たることが無いだろうか。
たとえばピラミッドだ。
あんなに巨大なものを作って何の意味があったのだろう。
恐らくその重さが問題だったのではないだろうか。
あれだけ大きな重量を持ったものなら、その重量で空間も歪んでいるのではないだろうか。
しかもピラミッドの中には「重量軽減の部屋」というものさえある。
それが元々そういう名前だったかどうかは知らないが。
何かあるだろう、きっと。
あの中心で何か願い事をすれば、それの起きる並行宇宙に行けるのかもしれない。
何か重力に変化を与えればいいんのではないだろうか。

大仏はなぜあんなに大きいのだろう。
大きな岩が神様扱いされるのはどうしてだろう?
宇宙空間のように星の引力の影響をあまりうけない場所はどうだろう。
あるいは高いところから落ちる場合はどうだろう。
バンジージャンプをしながら何か願えばいいのだろうか。
いやそれは本人が落下により無重量状態になっているだけだ。
そうでなく、空間に影響を与えるものでなければいけない。
















12/18/2014

量子と現実についてまた考えてみた

それじゃあ、ミクロのところで量子的に振舞っている量子たちの上に成り立っている
この現実は何なんだ?ということにならないだろうか。
根本的なところがそんな状態なのだから、現実もあやしいものだと思う。
トンネル効果によって人間がこの眼で確認できているのに液体窒素は壁を登って来るし、
半導体にしたって実用的なレベルでトンネル効果が利用されている。

そうなると簡単に「量子の世界」とか言ってられないんじゃないかと思う。
たとえば、ここに宝くじが一枚あるとする。
これが当たっているかどうかはいつ決まるのだろう?

1.くじを買った時に決まっている。
2.抽選会場で矢がささった時に決まる。
3.その結果がラジオ、テレビ、ネットで公表された時に決まる。
4.自分がくじの番号をそれと照合した時に決まる。

1は運命論だろうか。
2で矢がささっても自分がその結果を知らなければ当たったかどうかわからない。
3も自分の知らないところで発表されていても自分のくじが当たってるとは言えない。
結局、自分がくじを見ながら番号を照合した瞬間に当たりが決まるような気がする。
つまり当たっているかどうかは、途中はどうでもよく、自分が確認した時点で決まる。

それは量子論とは別次元の話だけれど、よくそういうことを考える。

世の中には「超能力」というものがあるとか無いとか。
あるいは霊魂が存在するとかしないとか。
予知とかテレパシーとか。
本当は存在しているかもしれない。
テレポテーションなんかも実現できるのかもしれない。でもそれが量子テレポテーションの
応用でできるかどうかはわからない。
もっと別な方法だろうなと思う。




12/11/2014

量子とスリットと確率と猫について考えてみた

学校で量子化学というのを習ったはずなのだが、その表紙をめくったところから最後まで
全く覚えていることがない。覚えているのは先生の名前が星教授という名前だったことだけだ。

電子(あるいは光子)のスリット問題について考えてみた。
概要は省略。2本のスリットに何度も単体の電子を撃ち込んだ時干渉模様が現れることだ。
電子は波と粒子の両方の性格を持っているとか言うけれど、
そんなことで理解できるわけもない。

それで、ちょっとシュレディンガーの波動方程式について読んでいたら、
それがどういうことなのかわかるような気がした。
気がした、というのは感覚的にそんなことはあたりまえなんじゃないか
と思えたという意味で。

波動関数の自乗が確率を示すということは、電子は確率として存在しているということなんだろう。
つまり確率自体が電子の存在そのものなのだと思った。
一つのスリットを電子が通る時、もうひとつのスリットを通る電子の確率と干渉している
からだろう。左右にスリットがある場合左のスリットを電子が通る確率と右のスリットを
通る確率が干渉しているから干渉模様が現れるのだろう。

どちらのスリットを通ったかを確認しながら電子を撃つと干渉模様が現れないのは
なぜかというと、「どちらを通ったかを確認」してしまったら、それは確率ではなくなってしまう
からだ。
これはあたりまえのことではないだろうか。

猫の問題は、アルファ線が出るかどうかを検出しようとした時点で、問題の意味を失っている。
確認するまではアルファー線は出ている状態であり出ていない状態なのだろうけれど、
猫は死んだ状態と生きた状態のどちらでもある、ということはない。
EPRパラドックスの話も、電子の存在が確率だと考えればあたりまえのことだと思う。


8/22/2014

広島・緑井 と ヒロシマ

広島で大きな災害が起きた。
テレビで緑井という地名が頻繁にきかれる。
緑井というところには一度行ったことがある。
もう25年くらい前のことだ。

母方の祖父は公務員で日本各地を点々と赴任していた。
私が知っているのは鹿児島、長崎、広島、というのを母から聞いたことがある。
祖父は廣島の県庁に勤めていた。

そして緑井にあった試験農場に行って仕事をしていたそうだ。
その日の朝、観音町の自宅を自転車で出て、もうすぐ県庁というところでほぼ真上から被爆した。
祖父はひどい状態で、それでも自転車を押して自宅まで帰ったそうだ。
家に戻って家族の無事を知り翌日亡くなったそうだ。
帰ってきた時は動けるのが不思議なくらいの状態だったそうだ。


その時母の家族は6人家族だった。
一番下の娘さんと母親は家にいたらしい。
その上の娘さんは、可部線に乗って通う学校に行っていて全く無事だった。
その上の(私の母)は現在の東洋工業のあたりにあった事務所で働いていた。
そして窓ガラスが爆風で割れ全身に浴びてしまった。
そのガラスの破片は母が亡くなるまでまだ体の中に少し残っていた。
祖母と下の娘さんと家がどうだったのか、私は母から聞いていない。
しかし爆心から2キロ無いので、倒壊したと思われる。
母はその前日には今の平和公園のあるところにあった友人の家に行っていた。
そこで泊まれば仕事場には近かったのだけど、その日は泊まらずに家に帰ったそうだ。
もし帰らなかったら私は今ここにいない。

長男はというと、その時は東京の学校に行っていたため広島にはいなかった。あとから
廣島に原爆の話を聞き数日後に廣島に戻った。
たぶんその時にかなり被爆してしまっていた。
それから千葉で家族を持ち子供二人をもうけたが、50歳の時に突然ALSを発病し
1ヶ月後に亡くなった。

母は私にヒロシマのことを言わなかった。初めて知ったのは私がもう30を過ぎてからだった。
私はそのことを知り、また母が被爆後広島には行ったことがないと言うので、
一緒に行ってみようと言った。
そしてある夏に母と二人で広島に行った。
その時はまだ広島空港は海の端の方にあった。
降下する時に飛行機は急なバンクをかけかなりの速さで降下して行った。
母はそれをすごく怖がっていた。

空港から歩いて当時の母の職場があったところを歩いた。そこから観音町の家が
あったあたりまで歩いた。
母はきょろきょろと周りを見回しながら歩いていたが、昔の場所が良くわからないようだった。
後で街で昔の地図を買ってわかったのだが、観音町のあたりの太田川は昔とは流れが
変わってしまっていた。それで家があった場所は川から少し離れた場所になってしまった
のだった。

その日は街のホテルに泊まり次の日はまず平和公園に行った。
母は何も多くを語らなかったが、平和公園の場所にあった元の街の地図のところで立ち止まり、
友達の家の名前をみつけて、「前の日にここに泊まっていたかもしれないの」と言った。
私はその人の家の名前を忘れてしまった。もう一度聞いておくのだったと思う。

それから横川駅に行った。駅のあたりを歩き、「このあたりはみんな家が倒れて・・・」
遠くを見ながら言った。母は昔の町を見ていたのだろう。私にもその景色が見えるような気がした。
それから可部線に乗って緑井に行った。記憶が定かでないが、どこか鉄の門のある公園のような
ところに行ったように思う。その門の前で「ここだったんだと思うわ」と言った。

そこから己斐(こい)のお寺に行ってみたいと母がいうので、タクシーで行くことにした。
たまたま来たタクシーに乗ったのだが、話をしているうちにその運転手も被爆者であることが
わかった。当時小学生だったそうだ。
己斐のお寺の名前も忘れてしまったが、山肌にあったように思う。
母は歩きながら「ここも、ここも怪我をした人がいっぱいだったの・・・・」と言った。
母の話では山全体が怪我人でいっぱいだったらしい。
恐らく母も川向こうから歩いてここに避難したのだろう。

待っていてくれたタクシーで駅に戻るのだが、タクシーの運転手が「どこか見ておき
たいところはないですか?」と言うので、そこから駅に帰る途中どこかに寄ったのだが、
それがどこだったか思い出せない。
記憶では比治山の話をしていたので比治山を回ったのかもしれない。

今、母に色々聞きたいことがあったとは思うが、あの時は何か聞けるような感じではなかった。
私は母が言う言葉と母の目を通して昔の広島を見る思いだった。

8/21/2014

記憶力

そろそろ記憶がヤバイかも。
クラブのこと同じこと2回書いてる。
消すのもなんだからそのままにしておこう。

記憶力が悪くなってきたのに気がついたのは確か40歳くらいの頃だ。
それまで一度に3つくらいの仕事を平行してやっていて、全部を終える
ことができた。
でもだんだん3つのうちの一つを忘れることが出てきて、一度にいろいろ
やるのはもう無理なんだなと思うようになった。

今は一つのことも怪しい。
これを何時までにやらないといけない。と思っていて忘れる。
もうすっかりわすれる。
ひどいときには時間が来ても気がつかない。

それで楽器だけれど、間奏でソロのメロディーを弾く場合に、楽譜を書くのは面倒なので覚える。
これが不思議と覚えられる。
何故だろうと考えてみた。
覚えているメロディーを楽譜に書こうとすると、記憶だけではまず無理だ。
しかし、ギターで弾くと弾ける。
これは指の流れで覚えているからだとわかった。
よく暗記するのに家に入ってどういう行動するかと合わせて覚えると覚えられる、
ということとをきく。
きっとあれと同じなんだろう。


8/19/2014

フォーク・ソング・クラブ

 
大学に入ったのは1970年だった。
私のいた理工学部は文科系のキャンパスとは離れたところにあった。
音楽関係のクラブは渋谷の方にあったので、渋谷キャンパスのクラブに入ろうと思っていた。
どこにしようかと考えているうちに数ヶ月が経ち、出遅れてしまった。
その年に作られたASFというフォークソングのクラブに入ることにした。
先にクラブに入った人達は部室を作ったりクラブ活動の準備を行っていたけれど、それには
参加できなかった。
それにキャンパスが違うので何時もいつもそこにいることができなかった。
そのため自分の中にちょっと引け目があったのは確かだ。

 
そのクラブとは2年半くらい一緒に活動した。
何をやっていたろう?・・
1.入部当初は独りでアメリカンフォーク、それもアパラチア系の古い歌をやっていた。
  それは高校の時に小平の古矢と一緒にそういう歌をやっていたからだ。
  当初はその分野の歌は他の誰も興味を持たなかった。
  半年くらいはずっとそういう歌をやっていた。
2.そのうち先輩の太田さんがキングストントリオのバンドをやろうと言ってきて、私はそれをやろう
  と思った。もう一人大田さんの友達の早稲田の柴田さんという人が一緒だった。
  1年くらいそれをやっていた。色々なコンサート、ライブに出演した。結婚式場の全く知らない
  人の結婚式で歌ったりもした。
  私はジョンのパートでギターとバンジョーを担当していた。今思うともっと上手くできたように
  思う。あの頃は何もわかっていなかった。
3.その後CS&Nのコピーバンドをやろうということになり、Mと吉野と3人でバンドを組んだ。伊賀
  がベースをやってくれた。
 
  このバンドでも色々なところに出た。
1年が過ぎて新年生が入ってくるとクラブは100人を超える人数になってきた。
そのころからどうも何をやっても面白くないという感じがしていた。
 
新年生の中に小松沢という男がいた。
日本人ばなれした顔つきは彼の父親がアメリカ人だったためだった。
彼はとても活動的で面白い男だった。
彼とは話しが合い、いつのまにか彼と行動を共にすることが多くなって行った。
クラブとは離れて音楽活動をするようになった。
私の家で自分達の演奏を録音して独自の音楽を作ることを面白いと思うようになった。
私と小松沢と吉野と望月が一緒になにかやっていることが多かった。
 
ある年の夏の合宿が富士急ハイランドの近くであった時、私と小松沢は、もうクラブは
やめて自分達で始めよう、ということにして、二人でバイクで合宿を抜け出し
帰ってしまった。そして彼のアパートでレコードを聴きながら、お互いの好きな音楽の
話をした。
 
同じ頃にやはり現状のクラブに不満のあったグループがあり、彼らは現状のクラブを
解体するということにしたらしい。 なぜそういうことができたかというと言い出したのが
そのときの部長だったからだ。
クラブは2つに分裂して新しいクラブがASFの名前を使い、もともとのグループはAFW
という名前で新しくクラブを始めたらしかった。
私はその経緯を知らない。もういずれのクラブにも興味が無かったから。 
 
私は藤沢を拠点に活動していた小松沢と一緒に行動していた。
コンサートを開いたりバンドで録音をしてれこードを作ったりしていた。
その時の鎌倉山でのレコーディングセッションはあの頃の最も輝かしい成果だと思う。
 
学校のクラブがどうなっているのか全く興味が無かったが、私達がその分裂した
グループのメンバーだと思われていたらしく、AFWの人達は私と小松沢をよく思って
いなかったようだ。
そのため旧ASFの集まりに私が行くと、どこかよそよそしい感じがしていた。
その時は私はその理由をしらなかったので、なぜだろう?といつも思っていた。
 
どうもその分裂が原因らしいとわかったのはだいぶ後だった。
ASFの集まりがあった時にその誤解を皆に説明したけれど、長い間の誤解はそんなに
簡単には解けないようだった。
 
それが私にとってのクラブ活動だった。
もうどうでもいいが、
もうどうでもいいだろう。
と言いたくなる。
 
あのクラブで楽しかったのは最初の2年間だけだ。