広島で大きな災害が起きた。
テレビで緑井という地名が頻繁にきかれる。
緑井というところには一度行ったことがある。
もう25年くらい前のことだ。
母方の祖父は公務員で日本各地を点々と赴任していた。
私が知っているのは鹿児島、長崎、広島、というのを母から聞いたことがある。
祖父は廣島の県庁に勤めていた。
そして緑井にあった試験農場に行って仕事をしていたそうだ。
その日の朝、観音町の自宅を自転車で出て、もうすぐ県庁というところでほぼ真上から被爆した。
祖父はひどい状態で、それでも自転車を押して自宅まで帰ったそうだ。
家に戻って家族の無事を知り翌日亡くなったそうだ。
帰ってきた時は動けるのが不思議なくらいの状態だったそうだ。
その時母の家族は6人家族だった。
一番下の娘さんと母親は家にいたらしい。
その上の娘さんは、可部線に乗って通う学校に行っていて全く無事だった。
その上の(私の母)は現在の東洋工業のあたりにあった事務所で働いていた。
そして窓ガラスが爆風で割れ全身に浴びてしまった。
そのガラスの破片は母が亡くなるまでまだ体の中に少し残っていた。
祖母と下の娘さんと家がどうだったのか、私は母から聞いていない。
しかし爆心から2キロ無いので、倒壊したと思われる。
母はその前日には今の平和公園のあるところにあった友人の家に行っていた。
そこで泊まれば仕事場には近かったのだけど、その日は泊まらずに家に帰ったそうだ。
もし帰らなかったら私は今ここにいない。
長男はというと、その時は東京の学校に行っていたため広島にはいなかった。あとから
廣島に原爆の話を聞き数日後に廣島に戻った。
たぶんその時にかなり被爆してしまっていた。
それから千葉で家族を持ち子供二人をもうけたが、50歳の時に突然ALSを発病し
1ヶ月後に亡くなった。
母は私にヒロシマのことを言わなかった。初めて知ったのは私がもう30を過ぎてからだった。
私はそのことを知り、また母が被爆後広島には行ったことがないと言うので、
一緒に行ってみようと言った。
そしてある夏に母と二人で広島に行った。
その時はまだ広島空港は海の端の方にあった。
降下する時に飛行機は急なバンクをかけかなりの速さで降下して行った。
母はそれをすごく怖がっていた。
空港から歩いて当時の母の職場があったところを歩いた。そこから観音町の家が
あったあたりまで歩いた。
母はきょろきょろと周りを見回しながら歩いていたが、昔の場所が良くわからないようだった。
後で街で昔の地図を買ってわかったのだが、観音町のあたりの太田川は昔とは流れが
変わってしまっていた。それで家があった場所は川から少し離れた場所になってしまった
のだった。
その日は街のホテルに泊まり次の日はまず平和公園に行った。
母は何も多くを語らなかったが、平和公園の場所にあった元の街の地図のところで立ち止まり、
友達の家の名前をみつけて、「前の日にここに泊まっていたかもしれないの」と言った。
私はその人の家の名前を忘れてしまった。もう一度聞いておくのだったと思う。
それから横川駅に行った。駅のあたりを歩き、「このあたりはみんな家が倒れて・・・」
遠くを見ながら言った。母は昔の町を見ていたのだろう。私にもその景色が見えるような気がした。
それから可部線に乗って緑井に行った。記憶が定かでないが、どこか鉄の門のある公園のような
ところに行ったように思う。その門の前で「ここだったんだと思うわ」と言った。
そこから己斐(こい)のお寺に行ってみたいと母がいうので、タクシーで行くことにした。
たまたま来たタクシーに乗ったのだが、話をしているうちにその運転手も被爆者であることが
わかった。当時小学生だったそうだ。
己斐のお寺の名前も忘れてしまったが、山肌にあったように思う。
母は歩きながら「ここも、ここも怪我をした人がいっぱいだったの・・・・」と言った。
母の話では山全体が怪我人でいっぱいだったらしい。
恐らく母も川向こうから歩いてここに避難したのだろう。
待っていてくれたタクシーで駅に戻るのだが、タクシーの運転手が「どこか見ておき
たいところはないですか?」と言うので、そこから駅に帰る途中どこかに寄ったのだが、
それがどこだったか思い出せない。
記憶では比治山の話をしていたので比治山を回ったのかもしれない。
今、母に色々聞きたいことがあったとは思うが、あの時は何か聞けるような感じではなかった。
私は母が言う言葉と母の目を通して昔の広島を見る思いだった。