8/19/2014

フォーク・ソング・クラブ

 
大学に入ったのは1970年だった。
私のいた理工学部は文科系のキャンパスとは離れたところにあった。
音楽関係のクラブは渋谷の方にあったので、渋谷キャンパスのクラブに入ろうと思っていた。
どこにしようかと考えているうちに数ヶ月が経ち、出遅れてしまった。
その年に作られたASFというフォークソングのクラブに入ることにした。
先にクラブに入った人達は部室を作ったりクラブ活動の準備を行っていたけれど、それには
参加できなかった。
それにキャンパスが違うので何時もいつもそこにいることができなかった。
そのため自分の中にちょっと引け目があったのは確かだ。

 
そのクラブとは2年半くらい一緒に活動した。
何をやっていたろう?・・
1.入部当初は独りでアメリカンフォーク、それもアパラチア系の古い歌をやっていた。
  それは高校の時に小平の古矢と一緒にそういう歌をやっていたからだ。
  当初はその分野の歌は他の誰も興味を持たなかった。
  半年くらいはずっとそういう歌をやっていた。
2.そのうち先輩の太田さんがキングストントリオのバンドをやろうと言ってきて、私はそれをやろう
  と思った。もう一人大田さんの友達の早稲田の柴田さんという人が一緒だった。
  1年くらいそれをやっていた。色々なコンサート、ライブに出演した。結婚式場の全く知らない
  人の結婚式で歌ったりもした。
  私はジョンのパートでギターとバンジョーを担当していた。今思うともっと上手くできたように
  思う。あの頃は何もわかっていなかった。
3.その後CS&Nのコピーバンドをやろうということになり、Mと吉野と3人でバンドを組んだ。伊賀
  がベースをやってくれた。
 
  このバンドでも色々なところに出た。
1年が過ぎて新年生が入ってくるとクラブは100人を超える人数になってきた。
そのころからどうも何をやっても面白くないという感じがしていた。
 
新年生の中に小松沢という男がいた。
日本人ばなれした顔つきは彼の父親がアメリカ人だったためだった。
彼はとても活動的で面白い男だった。
彼とは話しが合い、いつのまにか彼と行動を共にすることが多くなって行った。
クラブとは離れて音楽活動をするようになった。
私の家で自分達の演奏を録音して独自の音楽を作ることを面白いと思うようになった。
私と小松沢と吉野と望月が一緒になにかやっていることが多かった。
 
ある年の夏の合宿が富士急ハイランドの近くであった時、私と小松沢は、もうクラブは
やめて自分達で始めよう、ということにして、二人でバイクで合宿を抜け出し
帰ってしまった。そして彼のアパートでレコードを聴きながら、お互いの好きな音楽の
話をした。
 
同じ頃にやはり現状のクラブに不満のあったグループがあり、彼らは現状のクラブを
解体するということにしたらしい。 なぜそういうことができたかというと言い出したのが
そのときの部長だったからだ。
クラブは2つに分裂して新しいクラブがASFの名前を使い、もともとのグループはAFW
という名前で新しくクラブを始めたらしかった。
私はその経緯を知らない。もういずれのクラブにも興味が無かったから。 
 
私は藤沢を拠点に活動していた小松沢と一緒に行動していた。
コンサートを開いたりバンドで録音をしてれこードを作ったりしていた。
その時の鎌倉山でのレコーディングセッションはあの頃の最も輝かしい成果だと思う。
 
学校のクラブがどうなっているのか全く興味が無かったが、私達がその分裂した
グループのメンバーだと思われていたらしく、AFWの人達は私と小松沢をよく思って
いなかったようだ。
そのため旧ASFの集まりに私が行くと、どこかよそよそしい感じがしていた。
その時は私はその理由をしらなかったので、なぜだろう?といつも思っていた。
 
どうもその分裂が原因らしいとわかったのはだいぶ後だった。
ASFの集まりがあった時にその誤解を皆に説明したけれど、長い間の誤解はそんなに
簡単には解けないようだった。
 
それが私にとってのクラブ活動だった。
もうどうでもいいが、
もうどうでもいいだろう。
と言いたくなる。
 
あのクラブで楽しかったのは最初の2年間だけだ。