4/28/2015
平行宇宙と引力
なんと12月から何も書いていなかった。
ので、何か書こう。
ちょっと面白いと思ったことがある。
誰か有名人が亡くなったときいた時、「あれこの人前に亡くなっていたんじゃない?」
と思うことが私だけではなくあるようだ。
しかもその人物はほかの人も同じ人をそう思うようだ。
それは恐らく単なる思い違いにすぎないのだろうが、
思い違いではなかった場合はどうなんだろう?という話だ。
その人の記憶では、つまりその人が生きてきた過去においてはその人は亡くなっていた、
のかもしれない。どこかで平行宇宙を横切ってしまい、その人がまだ生きている世界に
来てしまったということではないか、と考える。
無いとは言えない。
昔どこかの超能力者が行っていたが、未来を予知したり、何か不思議なことを起こす
のは単に、そのことが起きる平衡宇宙に移動するだけだと。
もしそういう能力があるなら、それは単純なことなのかもしれない。
しかし、普通に生活していてほかの宇宙に移動してしまうということがあるのだろうか。
もし今そういう現象があるなら過去においてもずっとあったのだろう。
平行宇宙は数学的に同次元なのであろう。もしも次元の違う宇宙に行ってしまったら
のんびり「このひとは前に・・」などと考えてはいられないだろう。
でもひょっとするとそういう次元に行ってしまった人がいるかもしれない。
では同じ次元にしろ別の次元にしろ、他の宇宙に移動することはできるのだろうか?
あるいは他の宇宙を知ることはできるのだろうか?
先日テレビの物理の番組を見ていて、面白いことに気がついた。
その先生が言うには別の宇宙があったとしても音も光も電波も届かないから
別の世界のことをしることができない。と。
しかしその先生は最後に面白いことを言った。
「引力はとどくでしょうね」と。
そうなのか、引力は空間の歪みだからその歪みは別宇宙で感知できるかもしれない。
そう考えるといろいろ思い当たることが無いだろうか。
たとえばピラミッドだ。
あんなに巨大なものを作って何の意味があったのだろう。
恐らくその重さが問題だったのではないだろうか。
あれだけ大きな重量を持ったものなら、その重量で空間も歪んでいるのではないだろうか。
しかもピラミッドの中には「重量軽減の部屋」というものさえある。
それが元々そういう名前だったかどうかは知らないが。
何かあるだろう、きっと。
あの中心で何か願い事をすれば、それの起きる並行宇宙に行けるのかもしれない。
何か重力に変化を与えればいいんのではないだろうか。
大仏はなぜあんなに大きいのだろう。
大きな岩が神様扱いされるのはどうしてだろう?
宇宙空間のように星の引力の影響をあまりうけない場所はどうだろう。
あるいは高いところから落ちる場合はどうだろう。
バンジージャンプをしながら何か願えばいいのだろうか。
いやそれは本人が落下により無重量状態になっているだけだ。
そうでなく、空間に影響を与えるものでなければいけない。
12/18/2014
量子と現実についてまた考えてみた
それじゃあ、ミクロのところで量子的に振舞っている量子たちの上に成り立っている
この現実は何なんだ?ということにならないだろうか。
根本的なところがそんな状態なのだから、現実もあやしいものだと思う。
トンネル効果によって人間がこの眼で確認できているのに液体窒素は壁を登って来るし、
半導体にしたって実用的なレベルでトンネル効果が利用されている。
そうなると簡単に「量子の世界」とか言ってられないんじゃないかと思う。
たとえば、ここに宝くじが一枚あるとする。
これが当たっているかどうかはいつ決まるのだろう?
1.くじを買った時に決まっている。
2.抽選会場で矢がささった時に決まる。
3.その結果がラジオ、テレビ、ネットで公表された時に決まる。
4.自分がくじの番号をそれと照合した時に決まる。
1は運命論だろうか。
2で矢がささっても自分がその結果を知らなければ当たったかどうかわからない。
3も自分の知らないところで発表されていても自分のくじが当たってるとは言えない。
結局、自分がくじを見ながら番号を照合した瞬間に当たりが決まるような気がする。
つまり当たっているかどうかは、途中はどうでもよく、自分が確認した時点で決まる。
それは量子論とは別次元の話だけれど、よくそういうことを考える。
世の中には「超能力」というものがあるとか無いとか。
あるいは霊魂が存在するとかしないとか。
予知とかテレパシーとか。
本当は存在しているかもしれない。
テレポテーションなんかも実現できるのかもしれない。でもそれが量子テレポテーションの
応用でできるかどうかはわからない。
もっと別な方法だろうなと思う。
この現実は何なんだ?ということにならないだろうか。
根本的なところがそんな状態なのだから、現実もあやしいものだと思う。
トンネル効果によって人間がこの眼で確認できているのに液体窒素は壁を登って来るし、
半導体にしたって実用的なレベルでトンネル効果が利用されている。
そうなると簡単に「量子の世界」とか言ってられないんじゃないかと思う。
たとえば、ここに宝くじが一枚あるとする。
これが当たっているかどうかはいつ決まるのだろう?
1.くじを買った時に決まっている。
2.抽選会場で矢がささった時に決まる。
3.その結果がラジオ、テレビ、ネットで公表された時に決まる。
4.自分がくじの番号をそれと照合した時に決まる。
1は運命論だろうか。
2で矢がささっても自分がその結果を知らなければ当たったかどうかわからない。
3も自分の知らないところで発表されていても自分のくじが当たってるとは言えない。
結局、自分がくじを見ながら番号を照合した瞬間に当たりが決まるような気がする。
つまり当たっているかどうかは、途中はどうでもよく、自分が確認した時点で決まる。
それは量子論とは別次元の話だけれど、よくそういうことを考える。
世の中には「超能力」というものがあるとか無いとか。
あるいは霊魂が存在するとかしないとか。
予知とかテレパシーとか。
本当は存在しているかもしれない。
テレポテーションなんかも実現できるのかもしれない。でもそれが量子テレポテーションの
応用でできるかどうかはわからない。
もっと別な方法だろうなと思う。
12/11/2014
量子とスリットと確率と猫について考えてみた
学校で量子化学というのを習ったはずなのだが、その表紙をめくったところから最後まで
全く覚えていることがない。覚えているのは先生の名前が星教授という名前だったことだけだ。
電子(あるいは光子)のスリット問題について考えてみた。
概要は省略。2本のスリットに何度も単体の電子を撃ち込んだ時干渉模様が現れることだ。
電子は波と粒子の両方の性格を持っているとか言うけれど、
そんなことで理解できるわけもない。
それで、ちょっとシュレディンガーの波動方程式について読んでいたら、
それがどういうことなのかわかるような気がした。
気がした、というのは感覚的にそんなことはあたりまえなんじゃないか
と思えたという意味で。
波動関数の自乗が確率を示すということは、電子は確率として存在しているということなんだろう。
つまり確率自体が電子の存在そのものなのだと思った。
一つのスリットを電子が通る時、もうひとつのスリットを通る電子の確率と干渉している
からだろう。左右にスリットがある場合左のスリットを電子が通る確率と右のスリットを
通る確率が干渉しているから干渉模様が現れるのだろう。
どちらのスリットを通ったかを確認しながら電子を撃つと干渉模様が現れないのは
なぜかというと、「どちらを通ったかを確認」してしまったら、それは確率ではなくなってしまう
からだ。
これはあたりまえのことではないだろうか。
猫の問題は、アルファ線が出るかどうかを検出しようとした時点で、問題の意味を失っている。
確認するまではアルファー線は出ている状態であり出ていない状態なのだろうけれど、
猫は死んだ状態と生きた状態のどちらでもある、ということはない。
EPRパラドックスの話も、電子の存在が確率だと考えればあたりまえのことだと思う。
全く覚えていることがない。覚えているのは先生の名前が星教授という名前だったことだけだ。
電子(あるいは光子)のスリット問題について考えてみた。
概要は省略。2本のスリットに何度も単体の電子を撃ち込んだ時干渉模様が現れることだ。
電子は波と粒子の両方の性格を持っているとか言うけれど、
そんなことで理解できるわけもない。
それで、ちょっとシュレディンガーの波動方程式について読んでいたら、
それがどういうことなのかわかるような気がした。
気がした、というのは感覚的にそんなことはあたりまえなんじゃないか
と思えたという意味で。
波動関数の自乗が確率を示すということは、電子は確率として存在しているということなんだろう。
つまり確率自体が電子の存在そのものなのだと思った。
一つのスリットを電子が通る時、もうひとつのスリットを通る電子の確率と干渉している
からだろう。左右にスリットがある場合左のスリットを電子が通る確率と右のスリットを
通る確率が干渉しているから干渉模様が現れるのだろう。
どちらのスリットを通ったかを確認しながら電子を撃つと干渉模様が現れないのは
なぜかというと、「どちらを通ったかを確認」してしまったら、それは確率ではなくなってしまう
からだ。
これはあたりまえのことではないだろうか。
猫の問題は、アルファ線が出るかどうかを検出しようとした時点で、問題の意味を失っている。
確認するまではアルファー線は出ている状態であり出ていない状態なのだろうけれど、
猫は死んだ状態と生きた状態のどちらでもある、ということはない。
EPRパラドックスの話も、電子の存在が確率だと考えればあたりまえのことだと思う。
8/22/2014
広島・緑井 と ヒロシマ
広島で大きな災害が起きた。
テレビで緑井という地名が頻繁にきかれる。
緑井というところには一度行ったことがある。
もう25年くらい前のことだ。
母方の祖父は公務員で日本各地を点々と赴任していた。
私が知っているのは鹿児島、長崎、広島、というのを母から聞いたことがある。
祖父は廣島の県庁に勤めていた。
そして緑井にあった試験農場に行って仕事をしていたそうだ。
その日の朝、観音町の自宅を自転車で出て、もうすぐ県庁というところでほぼ真上から被爆した。
祖父はひどい状態で、それでも自転車を押して自宅まで帰ったそうだ。
家に戻って家族の無事を知り翌日亡くなったそうだ。
帰ってきた時は動けるのが不思議なくらいの状態だったそうだ。
その時母の家族は6人家族だった。
一番下の娘さんと母親は家にいたらしい。
その上の娘さんは、可部線に乗って通う学校に行っていて全く無事だった。
その上の(私の母)は現在の東洋工業のあたりにあった事務所で働いていた。
そして窓ガラスが爆風で割れ全身に浴びてしまった。
そのガラスの破片は母が亡くなるまでまだ体の中に少し残っていた。
祖母と下の娘さんと家がどうだったのか、私は母から聞いていない。
しかし爆心から2キロ無いので、倒壊したと思われる。
母はその前日には今の平和公園のあるところにあった友人の家に行っていた。
そこで泊まれば仕事場には近かったのだけど、その日は泊まらずに家に帰ったそうだ。
もし帰らなかったら私は今ここにいない。
長男はというと、その時は東京の学校に行っていたため広島にはいなかった。あとから
廣島に原爆の話を聞き数日後に廣島に戻った。
たぶんその時にかなり被爆してしまっていた。
それから千葉で家族を持ち子供二人をもうけたが、50歳の時に突然ALSを発病し
1ヶ月後に亡くなった。
母は私にヒロシマのことを言わなかった。初めて知ったのは私がもう30を過ぎてからだった。
私はそのことを知り、また母が被爆後広島には行ったことがないと言うので、
一緒に行ってみようと言った。
そしてある夏に母と二人で広島に行った。
その時はまだ広島空港は海の端の方にあった。
降下する時に飛行機は急なバンクをかけかなりの速さで降下して行った。
母はそれをすごく怖がっていた。
空港から歩いて当時の母の職場があったところを歩いた。そこから観音町の家が
あったあたりまで歩いた。
母はきょろきょろと周りを見回しながら歩いていたが、昔の場所が良くわからないようだった。
後で街で昔の地図を買ってわかったのだが、観音町のあたりの太田川は昔とは流れが
変わってしまっていた。それで家があった場所は川から少し離れた場所になってしまった
のだった。
その日は街のホテルに泊まり次の日はまず平和公園に行った。
母は何も多くを語らなかったが、平和公園の場所にあった元の街の地図のところで立ち止まり、
友達の家の名前をみつけて、「前の日にここに泊まっていたかもしれないの」と言った。
私はその人の家の名前を忘れてしまった。もう一度聞いておくのだったと思う。
それから横川駅に行った。駅のあたりを歩き、「このあたりはみんな家が倒れて・・・」
遠くを見ながら言った。母は昔の町を見ていたのだろう。私にもその景色が見えるような気がした。
それから可部線に乗って緑井に行った。記憶が定かでないが、どこか鉄の門のある公園のような
ところに行ったように思う。その門の前で「ここだったんだと思うわ」と言った。
そこから己斐(こい)のお寺に行ってみたいと母がいうので、タクシーで行くことにした。
たまたま来たタクシーに乗ったのだが、話をしているうちにその運転手も被爆者であることが
わかった。当時小学生だったそうだ。
己斐のお寺の名前も忘れてしまったが、山肌にあったように思う。
母は歩きながら「ここも、ここも怪我をした人がいっぱいだったの・・・・」と言った。
母の話では山全体が怪我人でいっぱいだったらしい。
恐らく母も川向こうから歩いてここに避難したのだろう。
待っていてくれたタクシーで駅に戻るのだが、タクシーの運転手が「どこか見ておき
たいところはないですか?」と言うので、そこから駅に帰る途中どこかに寄ったのだが、
それがどこだったか思い出せない。
記憶では比治山の話をしていたので比治山を回ったのかもしれない。
今、母に色々聞きたいことがあったとは思うが、あの時は何か聞けるような感じではなかった。
私は母が言う言葉と母の目を通して昔の広島を見る思いだった。
テレビで緑井という地名が頻繁にきかれる。
緑井というところには一度行ったことがある。
もう25年くらい前のことだ。
母方の祖父は公務員で日本各地を点々と赴任していた。
私が知っているのは鹿児島、長崎、広島、というのを母から聞いたことがある。
祖父は廣島の県庁に勤めていた。
そして緑井にあった試験農場に行って仕事をしていたそうだ。
その日の朝、観音町の自宅を自転車で出て、もうすぐ県庁というところでほぼ真上から被爆した。
祖父はひどい状態で、それでも自転車を押して自宅まで帰ったそうだ。
家に戻って家族の無事を知り翌日亡くなったそうだ。
帰ってきた時は動けるのが不思議なくらいの状態だったそうだ。
その時母の家族は6人家族だった。
一番下の娘さんと母親は家にいたらしい。
その上の娘さんは、可部線に乗って通う学校に行っていて全く無事だった。
その上の(私の母)は現在の東洋工業のあたりにあった事務所で働いていた。
そして窓ガラスが爆風で割れ全身に浴びてしまった。
そのガラスの破片は母が亡くなるまでまだ体の中に少し残っていた。
祖母と下の娘さんと家がどうだったのか、私は母から聞いていない。
しかし爆心から2キロ無いので、倒壊したと思われる。
母はその前日には今の平和公園のあるところにあった友人の家に行っていた。
そこで泊まれば仕事場には近かったのだけど、その日は泊まらずに家に帰ったそうだ。
もし帰らなかったら私は今ここにいない。
長男はというと、その時は東京の学校に行っていたため広島にはいなかった。あとから
廣島に原爆の話を聞き数日後に廣島に戻った。
たぶんその時にかなり被爆してしまっていた。
それから千葉で家族を持ち子供二人をもうけたが、50歳の時に突然ALSを発病し
1ヶ月後に亡くなった。
母は私にヒロシマのことを言わなかった。初めて知ったのは私がもう30を過ぎてからだった。
私はそのことを知り、また母が被爆後広島には行ったことがないと言うので、
一緒に行ってみようと言った。
そしてある夏に母と二人で広島に行った。
その時はまだ広島空港は海の端の方にあった。
降下する時に飛行機は急なバンクをかけかなりの速さで降下して行った。
母はそれをすごく怖がっていた。
空港から歩いて当時の母の職場があったところを歩いた。そこから観音町の家が
あったあたりまで歩いた。
母はきょろきょろと周りを見回しながら歩いていたが、昔の場所が良くわからないようだった。
後で街で昔の地図を買ってわかったのだが、観音町のあたりの太田川は昔とは流れが
変わってしまっていた。それで家があった場所は川から少し離れた場所になってしまった
のだった。
その日は街のホテルに泊まり次の日はまず平和公園に行った。
母は何も多くを語らなかったが、平和公園の場所にあった元の街の地図のところで立ち止まり、
友達の家の名前をみつけて、「前の日にここに泊まっていたかもしれないの」と言った。
私はその人の家の名前を忘れてしまった。もう一度聞いておくのだったと思う。
それから横川駅に行った。駅のあたりを歩き、「このあたりはみんな家が倒れて・・・」
遠くを見ながら言った。母は昔の町を見ていたのだろう。私にもその景色が見えるような気がした。
それから可部線に乗って緑井に行った。記憶が定かでないが、どこか鉄の門のある公園のような
ところに行ったように思う。その門の前で「ここだったんだと思うわ」と言った。
そこから己斐(こい)のお寺に行ってみたいと母がいうので、タクシーで行くことにした。
たまたま来たタクシーに乗ったのだが、話をしているうちにその運転手も被爆者であることが
わかった。当時小学生だったそうだ。
己斐のお寺の名前も忘れてしまったが、山肌にあったように思う。
母は歩きながら「ここも、ここも怪我をした人がいっぱいだったの・・・・」と言った。
母の話では山全体が怪我人でいっぱいだったらしい。
恐らく母も川向こうから歩いてここに避難したのだろう。
待っていてくれたタクシーで駅に戻るのだが、タクシーの運転手が「どこか見ておき
たいところはないですか?」と言うので、そこから駅に帰る途中どこかに寄ったのだが、
それがどこだったか思い出せない。
記憶では比治山の話をしていたので比治山を回ったのかもしれない。
今、母に色々聞きたいことがあったとは思うが、あの時は何か聞けるような感じではなかった。
私は母が言う言葉と母の目を通して昔の広島を見る思いだった。
8/21/2014
記憶力
そろそろ記憶がヤバイかも。
クラブのこと同じこと2回書いてる。
消すのもなんだからそのままにしておこう。
記憶力が悪くなってきたのに気がついたのは確か40歳くらいの頃だ。
それまで一度に3つくらいの仕事を平行してやっていて、全部を終える
ことができた。
でもだんだん3つのうちの一つを忘れることが出てきて、一度にいろいろ
やるのはもう無理なんだなと思うようになった。
今は一つのことも怪しい。
これを何時までにやらないといけない。と思っていて忘れる。
もうすっかりわすれる。
ひどいときには時間が来ても気がつかない。
それで楽器だけれど、間奏でソロのメロディーを弾く場合に、楽譜を書くのは面倒なので覚える。
これが不思議と覚えられる。
何故だろうと考えてみた。
覚えているメロディーを楽譜に書こうとすると、記憶だけではまず無理だ。
しかし、ギターで弾くと弾ける。
これは指の流れで覚えているからだとわかった。
よく暗記するのに家に入ってどういう行動するかと合わせて覚えると覚えられる、
ということとをきく。
きっとあれと同じなんだろう。
クラブのこと同じこと2回書いてる。
消すのもなんだからそのままにしておこう。
記憶力が悪くなってきたのに気がついたのは確か40歳くらいの頃だ。
それまで一度に3つくらいの仕事を平行してやっていて、全部を終える
ことができた。
でもだんだん3つのうちの一つを忘れることが出てきて、一度にいろいろ
やるのはもう無理なんだなと思うようになった。
今は一つのことも怪しい。
これを何時までにやらないといけない。と思っていて忘れる。
もうすっかりわすれる。
ひどいときには時間が来ても気がつかない。
それで楽器だけれど、間奏でソロのメロディーを弾く場合に、楽譜を書くのは面倒なので覚える。
これが不思議と覚えられる。
何故だろうと考えてみた。
覚えているメロディーを楽譜に書こうとすると、記憶だけではまず無理だ。
しかし、ギターで弾くと弾ける。
これは指の流れで覚えているからだとわかった。
よく暗記するのに家に入ってどういう行動するかと合わせて覚えると覚えられる、
ということとをきく。
きっとあれと同じなんだろう。
8/19/2014
フォーク・ソング・クラブ
大学に入ったのは1970年だった。
私のいた理工学部は文科系のキャンパスとは離れたところにあった。
音楽関係のクラブは渋谷の方にあったので、渋谷キャンパスのクラブに入ろうと思っていた。
どこにしようかと考えているうちに数ヶ月が経ち、出遅れてしまった。
その年に作られたASFというフォークソングのクラブに入ることにした。
先にクラブに入った人達は部室を作ったりクラブ活動の準備を行っていたけれど、それには
参加できなかった。
それにキャンパスが違うので何時もいつもそこにいることができなかった。
そのため自分の中にちょっと引け目があったのは確かだ。
そのクラブとは2年半くらい一緒に活動した。
何をやっていたろう?・・
1.入部当初は独りでアメリカンフォーク、それもアパラチア系の古い歌をやっていた。
それは高校の時に小平の古矢と一緒にそういう歌をやっていたからだ。
当初はその分野の歌は他の誰も興味を持たなかった。
半年くらいはずっとそういう歌をやっていた。
2.そのうち先輩の太田さんがキングストントリオのバンドをやろうと言ってきて、私はそれをやろう
と思った。もう一人大田さんの友達の早稲田の柴田さんという人が一緒だった。
1年くらいそれをやっていた。色々なコンサート、ライブに出演した。結婚式場の全く知らない
人の結婚式で歌ったりもした。
私はジョンのパートでギターとバンジョーを担当していた。今思うともっと上手くできたように
思う。あの頃は何もわかっていなかった。
3.その後CS&Nのコピーバンドをやろうということになり、Mと吉野と3人でバンドを組んだ。伊賀
がベースをやってくれた。
このバンドでも色々なところに出た。
1年が過ぎて新年生が入ってくるとクラブは100人を超える人数になってきた。
そのころからどうも何をやっても面白くないという感じがしていた。
新年生の中に小松沢という男がいた。
日本人ばなれした顔つきは彼の父親がアメリカ人だったためだった。
彼はとても活動的で面白い男だった。
彼とは話しが合い、いつのまにか彼と行動を共にすることが多くなって行った。
クラブとは離れて音楽活動をするようになった。
私の家で自分達の演奏を録音して独自の音楽を作ることを面白いと思うようになった。
私と小松沢と吉野と望月が一緒になにかやっていることが多かった。
ある年の夏の合宿が富士急ハイランドの近くであった時、私と小松沢は、もうクラブは
やめて自分達で始めよう、ということにして、二人でバイクで合宿を抜け出し
帰ってしまった。そして彼のアパートでレコードを聴きながら、お互いの好きな音楽の
話をした。
同じ頃にやはり現状のクラブに不満のあったグループがあり、彼らは現状のクラブを
解体するということにしたらしい。 なぜそういうことができたかというと言い出したのが
そのときの部長だったからだ。
クラブは2つに分裂して新しいクラブがASFの名前を使い、もともとのグループはAFW
という名前で新しくクラブを始めたらしかった。
私はその経緯を知らない。もういずれのクラブにも興味が無かったから。
私は藤沢を拠点に活動していた小松沢と一緒に行動していた。
コンサートを開いたりバンドで録音をしてれこードを作ったりしていた。
その時の鎌倉山でのレコーディングセッションはあの頃の最も輝かしい成果だと思う。
学校のクラブがどうなっているのか全く興味が無かったが、私達がその分裂した
グループのメンバーだと思われていたらしく、AFWの人達は私と小松沢をよく思って
いなかったようだ。
そのため旧ASFの集まりに私が行くと、どこかよそよそしい感じがしていた。
その時は私はその理由をしらなかったので、なぜだろう?といつも思っていた。
どうもその分裂が原因らしいとわかったのはだいぶ後だった。
ASFの集まりがあった時にその誤解を皆に説明したけれど、長い間の誤解はそんなに
簡単には解けないようだった。
それが私にとってのクラブ活動だった。
もうどうでもいいが、
もうどうでもいいだろう。
と言いたくなる。
あのクラブで楽しかったのは最初の2年間だけだ。
8/17/2014
メラニーという人 Melanie Safka
1970年を考えた時、最初に思い浮かぶのがこの人かもしれない。
もちろん会った事もないのでどんな人なのか本当のことはわからない。
でも彼女が歌うRuby Tuesdayは、彼女自身のイメージが強い。
Ruby Tuesday
昔ルビーテューズデイのような女性にあったことがある。
いや、実際にはルビーテューズデイなる女性を知らないので、あくまでもイメージで話しだ。
彼女には時々会った。何をするわけでもなく話をしたり映画を見たりコンサートに行ったり
したが付き合っていたわけではない。
よく考えたら彼女のことをほとんど知らない。
彼女の部屋に行ったことはあるが、すぐに別なところに引っ越してしまった。
だから何処に行ったのかわからない。
Long long time
いったいそういう人がいたのかさえ、今となってははっきりしない。
記憶なのか、幻想なのか、想像なのか、今となってはわからない。
ルビーテューズデイという女性が歌の中にしかいないのと同じように、
きっとかすかな記憶の中にしかいないのだろう。
8/09/2014
谷津町三丁目
小学校の頃、夏休みに千葉の親戚の家によく行った。1960年頃の話だ。
当時手紙を書いたことがあって、その住所を途中まで覚えている。
それが「谷津町3丁目」だ。 その後は覚えていない。
同じ作りの平屋の住宅が沢山並んで建っていた。
かなり前に車で行ったことがあったが、その場所が何処だったのか、
あまりはっきりわからなかった。
ただ防波堤だけはの残っていた。
当時手紙を書いたことがあって、その住所を途中まで覚えている。
それが「谷津町3丁目」だ。 その後は覚えていない。
同じ作りの平屋の住宅が沢山並んで建っていた。
かなり前に車で行ったことがあったが、その場所が何処だったのか、
あまりはっきりわからなかった。
ただ防波堤だけはの残っていた。
その家に行く時は、谷津遊園駅で降りて谷津遊園地の入り口の前を通って海の方に
向かって歩いた。谷津遊園の前の道は両側にお店が沢山並んで、浮き袋や遊具、
それときれいな貝殻や海ほうずきを売っていた。
その家のから50メートルも行くとすぐに海になっていた。
そこに防波堤があり、ずっと遊園地の方と反対側は船橋ヘルスセンターの方に続いていた。
その海は遠浅になっていた。
潮が引くとすう百メートル先まで砂浜になった。潮が満ちると深さ1メートルくらいの海になったが、
ちょうどその住宅の前から50メートル先くらいから急に深くなっていた。
その深さがどのくらいあったかわからないが、数メートル以上はあったと思う。
今の地図と当時の地図を比べてみると、我々が遊んだ海のところだけ谷津干潟として残って
いるようだ。現在の海はその防波堤から2キロ近く遠ざかってしまった。
当時は遠浅になるとアサリやハマグリが沢山取れた。バケツを持って行くとすぐにバケツいっぱい
の貝がとれた。 また海は(汚れる前までは)とてもきれいで、魚が沢山泳いでいた。
石鯛の子供が群れで泳いでいるのを良くみた。
サヨリやタツノオトシゴ、いろいろな魚が泳いでいた。
そのきれいな海は数年して黒くなって行った。
もう岸近くでは泳げなくなり、遠浅の砂浜をずっと先まで行かないときれいな水にならなかった。
それからは海で遊ぶこともなくなってしまった。
あれが高度成長期だったのだろう。
海がきれいだった頃、冬になると海が凍った。
海水は凍らないと言うけれど、あの防波堤の前の海は凍って真っ白の海岸になった。
すぐそばにオートレース場があって、外から隠れて見に行った。
それが危険な事とは知らず、コースの外側で見ていたら、場内放送のスピーカーで注意された。
たぶんレースは中断したかもしれない。
またヘルスセンターで花火大会をやったので、すぐ真下で見ることができた。
あれは今までで一番打ち上げ近くで見た花火だろう。
8/08/2014
ピンクフロイドの夏 アフロディーテの夏
この話しは前にも何度も書いたような気がする。
今年(2014年)の8月6日はあれから43年目の夏だ。
都合のいいことに小田原で仕事だった。それが昼前に終わって、それから箱根に
向かうことにした。
小田原からバスで元箱根に行く。
途中、箱根湯元を通る。
あの日も小田急ロマンスカーで箱根湯元で降りてそこからバスで元箱根に向かったはずだ。
箱根湯元で急に外人旅行者が大勢乗ってきた。
小田原から1時間くらいで元箱根に着いた。
今年(2014年)の8月6日はあれから43年目の夏だ。
都合のいいことに小田原で仕事だった。それが昼前に終わって、それから箱根に
向かうことにした。
小田原からバスで元箱根に行く。
途中、箱根湯元を通る。
あの日も小田急ロマンスカーで箱根湯元で降りてそこからバスで元箱根に向かったはずだ。
箱根湯元で急に外人旅行者が大勢乗ってきた。
小田原から1時間くらいで元箱根に着いた。
着いて気がついたのは、天気があの日そっくりだったことだ。
雲は低く、頭上を掠めるように飛び去っていた。
あの日は山のホテルの縁の下に野宿したのだが、こん回は元箱根から歩いて行くことにした。
こんなに遠かったのか、と思った。
山のホテルを過ぎて道は右にカーブする。そのカーブしたところに成蹊学園の門がある。
前回来た時は門は閉まっていて、中を撮影させて欲しいと頼んだが断られた。
今回は、たぶん夏休みだったからだろうか、門は開いていたので中に入って行った。
たぶん守衛さんか警備室があるだろうと思い、そこで聴くことにした。
門を入って建物があるところまでは登り坂の小道が続く。
確か当時は砂利道だったと思う。その前日の雨ですこしぬかるんでいた記憶意がある。
しかしその道はすっかりきれいに舗装されていた。
記憶では会場までそんなに歩かなかったような気がするが、今回歩いてみて門から
会場まではダイブあったということがわかった。
坂を上って行くと屋外で学生が集まって何かしていた、私には気がつかなかったようだ。
そこをさらに行くと大きな建物があった。
あとできいてわかったのだが当時はその建物は無かったそうだ。
建物の玄関を入ったが誰もいなかった。受付にベルがあったので何度か鳴らしたが
誰も来なかった。奥の方で学生らしい声が響いていた。
しかたがないので、外に出て庭(コンサート会場跡)を眺めていた。
するとドアの内側に誰かいるのが見えたので、急いで行って、話をした。
その人も昔ここでロックコンサートがあったことを知っていた。
(山のホテルは以前泊まった時にきいてみたが知ってる人はいなかった)
それで、撮影の許可をいただき芝生の中にも入って撮ることができた。
写真正面に林がある。その手前に天使のオブジェがある。
恐らく天使のオブジェのあたりにステージがあったと思う。
その左手が観客席になっていた。
観客席と言っても椅子は無くただの地面でその上にみな座って聴いていた。
観客席の後ろの方からステージを見るとこんな感じだった。
正目のやや右側がステージだったと思う。
しばらくビデオを回しながら、ヘッドフォンで当時の録音の音を聴いていた。
まるであの日に戻ったようだった。
しかし時は明らかにあれから40年以上経っていた。木々はこんなに大きくなかった。
あるいは観客席側には木々は無かったかもしれない。芝生ではなく草原だったかもしれない。
今のアフロディーテ会場はとてもきれいだ。
私以外誰もいない。
自分だけ遠い未来に来てしまったような気がした。
8/05/2014
夏だからSFのことを書こう
記憶がいつのまにか変化して勘違いしていたということがよくある。
今朝は頭上には雲ひとつ無い青空だ。
たぶんもう30度を超えているだろう。
空を見ながら、そういえば夏がタイトルのSFがあったな、と考えていた。
「あれはブラッドベリーだ・・・」
「そうだ、猫だ、猫が出てくる・・・」
それでブラッドベリーを検索して本の名前を思い出そうとした。
しかし、出てこない。
「おかしいな、記憶違いか?・・・」
それで、”SF、猫”で検索してわかった。
ハインラインだ。
そうだ、なんでブラッドベリーだと思ったんだろう?
ブラッドベリーも猫の話を書いていたからだろうか。
原題はThe Door into Summerなんだ、と今知った。
2回は読んでいるはずだけど、内容をほとんど覚えていない。
最後の猫に再会するところしか記憶にない。
たぶんあの小説はそのシーンが一番大事なものだったんだろう。
それじゃあSFのシーンで一番印象に残っているものは?と言うと
やはりブラッドベリーだ。
火星年代記の火星に移住する時の話で、一つだけ地球から持って行って
いいものを選ぶところで、家のポーチを持って行くというところだ。
なぜかその話をよく覚えている。
もうひとつ神林長平の”魂の駆動体”の中の、遠い未来に自動車の設計図(紙)
を見るシーンだ。このシーンは読んでいて涙が出た。
SFはきっと話し尽きない。
また書こう。
今朝は頭上には雲ひとつ無い青空だ。
たぶんもう30度を超えているだろう。
空を見ながら、そういえば夏がタイトルのSFがあったな、と考えていた。
「あれはブラッドベリーだ・・・」
「そうだ、猫だ、猫が出てくる・・・」
それでブラッドベリーを検索して本の名前を思い出そうとした。
しかし、出てこない。
「おかしいな、記憶違いか?・・・」
それで、”SF、猫”で検索してわかった。
ハインラインだ。
そうだ、なんでブラッドベリーだと思ったんだろう?
ブラッドベリーも猫の話を書いていたからだろうか。
原題はThe Door into Summerなんだ、と今知った。
2回は読んでいるはずだけど、内容をほとんど覚えていない。
最後の猫に再会するところしか記憶にない。
たぶんあの小説はそのシーンが一番大事なものだったんだろう。
それじゃあSFのシーンで一番印象に残っているものは?と言うと
やはりブラッドベリーだ。
火星年代記の火星に移住する時の話で、一つだけ地球から持って行って
いいものを選ぶところで、家のポーチを持って行くというところだ。
なぜかその話をよく覚えている。
もうひとつ神林長平の”魂の駆動体”の中の、遠い未来に自動車の設計図(紙)
を見るシーンだ。このシーンは読んでいて涙が出た。
SFはきっと話し尽きない。
また書こう。
6/28/2014
BBCラジオ放送
私はテレビに出たことは昔、札幌テレビにちょっと映ったことがあっただけだ。
ラジオは小学校の4年の時に作文の朗読で出たことがあった。
その時のことはよく覚えている。
自分が何の作文を書いたかは全く忘れてしまったけれど、小学校の用務員室の畳の部屋で読んだのを覚えている。三鷹市立第六小学校だった。
わたしは正座して原稿用紙を広げて、向かい側に放送局のおじさんがヘッドフォンんをして録音機を操作していた。マイクはスタンドについていたと思う。
一回しか読まなかったように思う。他にも生徒がいたと思うのだけど全く覚えていない。
その放送があった日に母親が「聴いたわよ」と言っていた。放送は確か朝早い時間だった。
でも学校に行くと先生が「作文の放送はありませんでした」と言われた。
何故だろうと思った。
家に帰ってそれを母に言うと、「誰かが文句を言ったんだわね。読まれなかった子がいたからね」
と言っていた。たぶんそれで学校は無かったことにしてしまったのだと思う。
ずっと世界中の人とバーチャルコラボの演奏をYouTubeにアップしている。
それでいたずらメールが時々来る。曰く「プロデューサーを紹介する」とか「うちのサイトに登録すれば有名になれる」とか。そういうのは全部無視していた。
ある日イギリスのSimonという人からメールが来て、BBCで放送されるからMicheleと歌った歌の高音質のファイルを送って欲しい。ということだった。
私はいたずらメールだと思って、2度来たメールを無視していた。そしたらMicheleさんからメールが来て、「あなたSimonに返事出したの?」と言ってきた。
それではじめてあれはマジだったとわかった。
それで音を送った次の週にSimonからメールが来て、放送されたと伝えてきた。
土曜日にイギリスBBCのローカルで流れた。それを録音しておいてくれた。
後にも先にも外国の放送で自分の声が流れるのはこれが最初で最後だろう。
6/26/2014
Switzsport SIERRE の2 海を見ていた午後
松任谷由実だか荒井由実だかの歌に「海を見ていた午後」という歌がある。彼女のアルバムは1枚だけ持っていて、それは札幌で暮らしていた頃に買ったアルバムで当時良く聴いていた。
その頃は良く小樽に行っていたので、その歌を聴くと小樽の坂と港を思い出す。
山手の「ドルフィン」というお店は行ったことが無かった。横浜に30年近く住んでいるが今まで行く機会が無かった。それで自転車で行ってみようと思った。
前に港までは走ったので、今回は途中まで地下鉄で行く事にした。
バッグを買ってあったので、自転車をたたんでかばんに入れ担いで地下鉄に乗った。幸い平日だったので車内は比較的空いていた。先頭車両の一番前のスペースに乗ったので他の人の邪魔にもならなかったと思う。
関内で地下鉄を降り、出た所で組み立てた。10分もかからなかった。
入れてきたカバンをリュックに入れたのだが、考えてみるとまた同じ駅に戻るなら他のものと一緒に駅のロッカーに入れて置けばよかった。
関内駅から海に向かって走った。
海まではすぐだ。大桟橋に寄ってみた。ボードウォークの手前に駐輪場がある。それを知らずにボードウォークを走ってしまいスピーカーで注意されてしまった。
その頃は良く小樽に行っていたので、その歌を聴くと小樽の坂と港を思い出す。
山手の「ドルフィン」というお店は行ったことが無かった。横浜に30年近く住んでいるが今まで行く機会が無かった。それで自転車で行ってみようと思った。
前に港までは走ったので、今回は途中まで地下鉄で行く事にした。
バッグを買ってあったので、自転車をたたんでかばんに入れ担いで地下鉄に乗った。幸い平日だったので車内は比較的空いていた。先頭車両の一番前のスペースに乗ったので他の人の邪魔にもならなかったと思う。
関内で地下鉄を降り、出た所で組み立てた。10分もかからなかった。
入れてきたカバンをリュックに入れたのだが、考えてみるとまた同じ駅に戻るなら他のものと一緒に駅のロッカーに入れて置けばよかった。
関内駅から海に向かって走った。
海まではすぐだ。大桟橋に寄ってみた。ボードウォークの手前に駐輪場がある。それを知らずにボードウォークを走ってしまいスピーカーで注意されてしまった。
何かお店があったら簡単に何か食べようと思って下に降りたがレストランが1軒あっただけでファーストフードのようなお店は無かった。この日は港がきれいに見えた。
そこからう海沿いを走り、本牧からぐるっと丘陵を回って根岸駅を目指した。そこまではほとんど起伏の無い平坦な道だった。根岸駅から根岸台に登る道はとても自転車をこいで登れなかったので降りて押して歩いた。カーブを曲がるとすぐに右手に「ドルフィン」の看板が見えた。
この写真の右側の道を向こうから上ってきたことになる。
もう2時を過ぎていて何も食べていなかったので何か食事をすることにした。
お店の中は自転車で走ってきたラフな格好にはちょっと合わないかな、と思われるような感じだったけれど、気にせずに入った。
食事をして気がついたのだけれど、このお店は前に来たことがあるように思った。いつだっかはわからないけれどこの景色には見覚えがあった。
さすがにソーダ水は頼まなかったけれど、3時丁度に「海を見ていた午後」がお店に流れた。丁度その日の午後にはぴったりだった。
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