12/08/2016

Wilhelm Furtwangler

前に確かTscaniniが好きだと書いたと思うけれど、中学・高校時代はトスカニーニばかり
聴いていた。まあ、NHKとFENでトスカニーニ・アワーという番組をやっていたせいも
あるのだけど、フルトヴェングラーはほとんど聴かなかった。
その理由は当時はフルトヴェングラーはナチに協力していたと言われていたからという
理由が大きい。
最近「戦争交響曲」(中川右介著)という本を読んで、たぶん正しい事実関係を知った。
フルトヴェングラーという人は悪い人では無いということだ。
どちらかというと不器用な芸術家気質という感じだろうか。
ただ不幸なことに当時のナチスドイツで暮らさずを得なかったということだろう。
K氏のようにナチスの党員になっていたわけでもなく、ヒトラーをできるだけ避けて
音楽活動をしたかったようだ。しかしヒトラー、ゲッペルスは宣伝塔として彼を使おうと
思っていた。
彼は平気でユダヤ系の音楽家を自分の演奏者に加えようと思っていたそうだ。それは
彼が政治的なことに関心が無かったのか政治音痴だったのか知らないが、そういう
ことよりも音楽のことしか考えていなかったようだ。

そういうことを踏まえて考えてみると、フルトヴェングラーはあの時代をよく生き抜いたな、
と思う。へたをすればヒトラーの機嫌を損ねることになり命の危険もあったろうに。
実際ヒトラーの機嫌を悪くさせたこともあったらしい。それも無事に切り抜けていた。

こういう写真が残ってしまっていることが、フルトヴェングラーの
不幸の一つだろう。彼の指揮ぶりを見ると音楽に集中している
ことがわかる。

このナチスドイツの中にいて、ドイツ人として暮らしていたなら、ナチがユダヤ人を
迫害していたことはさすがにわかっていただろう。
しかし絶滅収容所で行われていたことが知られたのは戦争が終わってからでは
ないだろうか。どのくらいのことまでわかっていたのか私にはわからないが、
あれを知っていたらさすがにドイツ人も平気ではいられなかったのではないだろうか。
まあ、知っていなかったとしてもユダヤ人を迫害していたこと自体許されることではない。
そこは日本も同罪だろう。

当然の結果だけれど、戦後はナチ協力者とみなされてしまったようだ。
だから正反対にナチスのいたドイツを嫌っていたトスカニーニとは最後まで会ったことが
なかったそうだ。

そんなわけで最近フルトヴェングラーを聴くようになった。
思うに、すごく新鮮だ。
最新のステレオ録音の演奏などよりも新鮮に感じる。
これはモノラル録音なのか?と思うほどだ。
トスカニーニとは全く違ってゆったりとして、一般的な演奏に聞きなれている耳には
これ遅すぎるのでは?とさえ思わせるほどだ。

田園を聴いた。
1940年の録音だ。
当然ベルリンフィルだ。
初めて田園を聴いた時の感動が蘇った。
大げさではなく。
これは過去あらゆる田園の中で最高の演奏かもしれない。

11/25/2016

量子コンピュータ・EMドライブ

ちょっと癪なのは、たぶんその結果がはっきりするまで生きていないだろうということだ。
量子コンピュータは現実化しそうだ。
あるいは現実に動いているところでは動いているのだろう。
でも自分の机の上で動くのはもうちょっと先だろう。
EMドライブについてはNASAからの発表が(今日?)あったが、
それも原理が解明されるのも時間の問題のような気がする。
どちらも量子に関連したものなのだろう。

今日このEMドライブの説明を読んだ時に感じた、一種の不安は一体何だろう。
もやもやした苛立ちのような。

もしも燃料あるいはなにがしかの物質を噴射せずに動けるというのは、なぜか現実的な感じがする。 噴射物質を噴射しながら飛ぶよりもクールだ。
そういえば2001の映画に出てくる宇宙船のエンジンは一切何も噴射していなかった。
あれは多分慣性航法によるためなのだろうけれど、
ひょっとするとEMドライブを予感していたのかもしれない。

あるいは、多分星間ロケットの形状を想像とは全く違うものにしてしまうかもしれない。
噴射する必要が無いのなら、エンジンはロケットの後尾にある必要がなくなる。
ミッドシップのロケットができるかもしれない。
そうなるとその形状は鉛筆形ではなくいわゆる円盤型でも良いかもしれない。
たぶんその方が便利だ。




11/16/2016

ハローCQ

あれは小学生の時だと思っていたけど、中学生だったのか。
確か北の丸に科学技術館ができた頃と同じだったはずだ。
科学技術館はできた時に行った。
あまりよく覚えていないけれど、建物の斬新さと中が未来っぽかったのを覚えている。
小さな箱を配っていてその箱にはイヤホンがついていて、説明が流れた。
帰りに係員の人に「これは電波でやってるんですか?」と聞いたら
「電磁波です」と言っていた。
電磁波は電波じゃないのか?と帰り道、ずっと考えたことははっきり覚えている。

ハローCQだ。
このドラマは覚えている。
しかしどういう内容だったのか全く覚えていない。
覚えているのは歌だ。
テーマソングはよく歌った記憶がある。

アマチュア無線の資格はハングで使うために取ったけれど、
その後何も使っていない。
YouTube友達のJackさんがアマチュア無線をやっていて話をしたことがある。
そのJackさんももう空の上だ。



11/03/2016

幸せを求めるだけが人生じゃない

ラジオを聴いていたら、ある牧師がそう言っていた。
「え?」と思ったけれど、この人の言ってることはほんとだなと思った。
「あなたはそれで幸せなの?」
「あなたが幸せをだめにしたの」
「あなたには幸せなんてわからないの」
とかいろいろ言われたけど。
どうやってこの牧師はそんな心境になれたのだろう。

「なんでもないようなことが幸せだったと思う…」
という歌があったけれど、たぶんそうなのだろう。
何も変わりない生活が幸せなのだろう。
確かに一番心休まる思い出は親と一緒にくらしていた子供時代だ。
明日の生活の心配をする必要もなく、
お金が必要な時は親が出してくれた。
確かにあれが幸せだったというならそうなんだろう。

子供が小さかった頃。
仕事は大変だった。
夜も眠れず、恐怖で飛び起きたこともあった。
車の中で一夜を明かすこともしょちゅうだった。
でも、あれも幸せだったのだろうと今思う。
今思うと絶対にあの時の仕事はしたくない。
もう自分には無理だったのに「頑張って」やっていた。
自分の能力以上のことをやろうとしていた。
いずれは破綻するはずだった。
他人に迷惑をかけるずっと前にやめておくべきだった。

たぶん幸せというのは幻想なのだろう。
ありもしない幻想を求めても無駄だ。
どんな状況にあろうとも今が一番「幸せ」なのだと思う。


10/24/2016

学校放送 「森は生きている」  Двена́дцать ме́сяцев

突然歌を思い出した。
「燃えろ、燃えろ、鮮やかに~ 夏はかっかと照るだろう…」
っていう歌なのだけど、全部は覚えていないこの部分の歌詞と、
メロディーは多分全部覚えている。
あれは三鷹の第六小学校の西の端にあった校舎で聞いた歌だ。
その頃、学校放送というのがあって、お昼休みか?授業時間かにラジオ放送を
聴く時間があった。
そこでやっていたのが「森は生きている」というお話だ。
その中で「12月の歌」という歌が流れ、それが上の「燃えろ~、燃えろ~」だった。

検索してわかったのだが「12月の歌」というのは”じゅうにつきのうた”と読む
らしい。そうだったろうか? と言っても当時は曲名は言わなかったと思うが。
そういうのだからそうなんだろう。

それで、この歌はYouTubeにあるだろうか? と探してみた。
原題が Двена́дцать ме́сяцев らしい。全く読めないが。
それで検索すると「森は生きている」の劇、アニメが出てくる。
その中の歌を探して通して聞いてみた。
しかしあの歌は無い。
さらに検索してわかったことはあの歌は日本人が作曲したうただということだ。
すっかりロシアの元歌があるのだと思っていた。
それになんかロシアっぽい曲だったからすっかりそう思っていた。
作曲は 林光 だそうだ。

あれを学校放送で聴いたのは、1960年だったと思う。





























10/17/2016

The Log Cabin (自由茶屋)

前から気になっていたことがあって、それを実行することにした。

静岡の山合いに木造のお店が有りそこで定期的にフォークソングの集まりがある。
その建物を写真で見た時になにかとても懐かしく感じた。
建ってからちょっと時間が経っているのを感じさせる色と木の質感だ。
40の頃に行ったノースカロライナのブーンにあったマスト・ストアーの感じだ。



あの木の肌の感じだ。

静岡のそのお店に一度行ってみようとずっと思っていたけれど、出不精のためなかなか行けなかった。
それを昨日実行した。

一応地図は頭に入れていた。
静岡駅前からバスでそのお店の「近くの」バス停まで行った。
もうそこはほとんど山間という感じだった。

頭の中では、あの先のカーブを曲がった先だろう、くらいにしか思っていなかった。
歩き始めてしばらくしたら車が止まって、その集まりに行く人が一緒に行きましょう、と
車に乗せてくれた。
後でしらべたらバス停からお店まで2.5キロあった。
歩けない距離ではないけれど最近足が痛いので歩いたらかなりつらかったかもしれない。
着いたお店の前は川が流れ、その向こうは山だ。
アパラチアの山の中に似てなくもない。




お店の裏は茶畑になっていた。
お店の中はこんな感じに、ライブ用に配置換えされていた。
中も感じが良い。



こういう集まりは一人ずつ順番に何曲ずつかを歌う。
結局3回回ってきて準備していた歌を全部歌ってしまった。

帰りは、来るときに拾ってくれた方に三島まで送っていただいた。
静岡から三島まであんなに距離があるとは思わなかった。
新幹線駅まで送っていただき、とても助かった。

9/25/2016

本日は晴天なり Test,one,two,three

というマイクテストに使われていた言葉がある。
「この言葉は英語のIt's a fine dayをそのまま訳して使っているので、
元の英語の周波数成分を含まないので意味が無い。」
というのが通説らしい。
しかしこれはどう考えてもおかしい。
まず周波数成分としては「本日は晴天なり」の方が高い方から低い方まで多く含んでいる。
あるいは英語の発音に意味がある、とか言う人もいるけれど、英語の発音を日本で
使っても意味が無い。それより日本語の発声の方がいいに決まってる。

これはたぶん誰かがでっちあげた都市伝説なんじゃないだろうか。
日本語でも英語でも検索したけれど、この言葉(It's a fine day)がマイクテストに使われていたという記述は無い。(…と思う)
何かの映画でマイクテストにこの言葉が使われていたのも聞いたことがない。
「アマチュア無線で使われていた」というのが誰かのサイトに書かれていたけれど、
それなら挨拶は「CQ、CQ」とかだろう。

ちょっと参考になることが書かれていた。
http://www.southgatearc.org/news/april2006/first_words.htm

The first word spoken on radio
'Hello!'  Not surprisingly, it was the first word to be heard over the radio some 100 years ago.
From the time he was a young boy, Canadian Reginald Fessenden was fascinated with the idea of transmitting voice. Upon hearing his uncle describe Alexander Graham Bell's demonstration of the telephone, the 10 year-old reportedly asked, "Why do they need wires?" He then spent much of his life trying to figure it out.
His early attempts at voice transmission were unintelligible. With government backing, Fessenden, and his assistant Thiessen, kept trying various improvements until they met with success. The first words transmitted via radio were "Hello! Test, 1, 2, 3, 4. Is it snowing where you are Mr. Thiessen?"

この最後のところだけど、「Test, one , two,」は今でも使われるマイクテストの言葉だ。
その次のところだけど、「It's snowing 」と言っている。
つまり時候の挨拶だ。
たぶん「本日は晴天なり」という言葉を思いついた人は、誰かが時候の挨拶として
It's a fine day「いい天気です」と言っていたのを、そういうもんなんだと思って
使っただけなのだろう。それは自然に出る言葉だから。

しかし、この「本日は晴天なり」という言葉は日本では広く使われてきた言葉で、
とても素晴らしいと思う。思いついた人は天才的だ。
今でも正式に無線でのマイクテストにこれを使うことが決められているらしい。
この言葉がすべて正確に再現できているかでオーディオ設備の再生精度を
確認するのにとてもいい言葉だと思う。
最近はあまり使われなくなったのが寂しい。




9/23/2016

ノスタルジック渋谷

ねえ、あれはいつだっけ?
渋谷駅前のハチ公前の広場で別れたのは。
まだ交番があったね。
あの後の記憶がはっきりしない。
あの時君は何て言ったの?

あそこで別れたということはそれまでどこに行っていたのだろうか?
なぜだろう、その前まではもっとたくさんの人がいたように思う。
どこかでみんなで集まっていたのかな?

それじゃあ、あれはいつだったろう?
地下の部室だったかな?
学校だったと思うけど、
はっきりしない。
ねえ、あの時は君は何て言ったの?

あの映画は僕は全く観る気がしなかったよ。
でも観て良かった。
あんなにすごい人だとは思わなかったから。
今でもあの映画は思い出せる。
だけど、なぜ君は僕をあの映画に誘ったの?
その映画館はもう無いけれど、
渋谷に行けばあの映画館があるような気がする。

あの地下の喫茶店。
あれももうずいぶん昔に無くなってしまった。
でもあの煙った狭い部屋で、
洪水のような音の中に僕らが居たことは
今でも思い出す。

実はあの後何度かあのお店に行ったんだ。
でも君に会うことは無かった。
じゃあ、なぜ君は僕をあの店に誘ったの?

君のアパートの狭い部屋のコタツで
朝までレコードを聴きながら話をしたね。
空が明るくなる前に
僕は眠ってしまった。
あの部屋ももう無いだろうな。
駅からの道は覚えているけれど
あの部屋まではたどり着けない。

雨の日の野外コンサート
傘の中からステージを眺めていた。
誰かが大声で歌っている時に
君は何か言ったね
よく聞こえなかったけど
あれは何て言ったの?

いつだったか君の家に電話をしたね。
あまり元気がなさそうだったけど
君は僕に聞いたね。
その時僕は何て言ったろう?

全てはまだ何もが始まる前のこと。
ずっとずっと昔、昔のこと。
たぶんあの時が世界が始まる前の
最後の1ページだった。


9/20/2016

札幌1992年 (2)

住んでいた時には近くに古い洋館のような建物がいくつかあった。
この1992年に行った時にはすでにそのいくつかが無くなっていた。
でもこの家だけは1992年には残っていた。


しかしこの辺りは今はすっかり変わってしまってもう無い。
多分大通り20の17あたり。
ここよりもう少し西の方にももう1軒あったように思うが、そこももう無かった。

私が住んでいた(下宿のようなアパート)は1992年にはまだあった。
大通り22丁目だった。

右手のシャッターの向こうに鉄製の階段があった。
そこを登ってすぐ右側が私の部屋だった。
しかしこの写真は当時と何かが違うような気がする。
何が違うのだろう?

札幌1992年 (1)

私が東京に移ってから2度目の札幌だった。
写真に1992年とあるので、多分1992年なのだろう。
写真を見ると今年行った時には既に無かったものが写っていた。

円山市場
円山市場の北側に駐車場があったけれど、それがまだあった。
この駐車場は現在は半分以上無くなっている。
その向こうに見える果物屋だけれど、現在残ってお店がそうだろうと思っていたら、
今あるお店はその隣にあったお店のようだ。
上の写真にあるビルがそのようだ。色が茶色に変わっている。

一枚、どこで撮ったのかわからに写真があった。
たぶん、昔からあったであろう家を撮ったのだと思う。
たぶん街の方だと思って地図を探したけれど、よくわからない。
それで写真にある「安全モーター商会」という名前と「54山京ビル」という名前で
調べてわかった。ここだ。Googleだとここだ。
この青い三角屋根の建物だけれど、1975年の航空写真には写っていない。
でも1985年には写っている。

だからたぶん1975年よりも後で建ったもののようだ。
現在は幅が半分になっているようだ。
しかし、なぜこの場所を撮ったのかわからない。

9/18/2016

友人とクラッシック

問題は同じことを二度書いてしまうことかもしれない。
でもこれはまだ書いていないはず。

高校は都立神代高校という高校だった。
木造のおんぼろ校舎だった。
友人に「カチョウ」と呼ばれている男がいた。
本名は小柳勇志朗と言ったと思う。  字が違うかも。
私はクラスでは一番背が高い方だったが、彼は私よりも2センチくらい大きかった。
並んでバス停まで帰る時、あいつはよく私の肩に手を置いて歩いた。
ちょっと変だったかもしれないが、その時はそんな風には思わなかった。

カチョウもクラシック音楽が好きだった。
よく音楽の話をした。
クラシック音楽の話を気兼ねなくできるのは彼だけだった。
音楽の知識は私の方が詳しかった。
でも彼の方が間違えていても決して譲らなかった。


私は短距離が得意だった。
体育の授業で50mの記録を録る時があった。
私とカチョーは同じグループだった。
ゴールの手前で横を見た時カチョーは少し後ろで顔を上に向けて走っていた。
そのグループでは私が1番だった。
でもカチョウは1番の記録時間を自分の時間と信じていて譲らなかった。
ま、いいかと思って、私は2番目の記録を自分の記録として書いた。

どこかに一緒にオーケストラを聴きに行ったことがあったような気がする。
調布だったか。
その会場がシンナーの匂いが強くて音楽を聴いてる場合ではないほどだった。

カチョーの家に行ったことがあった。
確か多摩川に近い団地の一室だった。
タンスの上でハムスターを飼っていた。
その匂いがたまらなく臭かった。
「気にならないの?」と聞いたら、気にならないと言っていた。

カチョーと付き合わなくなったのは、私が当時同じクラスの女の子と付き合い始めた
からだったのだろう。
私が彼女とバス停まで歩いていると彼は道路の反対側を一人でまっすぐ前を向いて
歩いていた。
そのシーンだけをよく覚えている。

それからずいぶん年月が経ってから、京王線の電車で偶然彼に会った。
全く以前のままの感じだった。
「元気?」とかなんとか言ったように思う。
私が電車を降りるとき「じゃあね」と言うと、
彼も「じゃあ」と言い、
まっすぐ窓の外を見ていた。

9/14/2016

Kein schöner Land , Trapp family in America「菩提樹」から

この映画を初めて見たのは実に小学校6年の時だ。
とてもよく覚えている。
特にこの最後のシーンとこの歌のメロディーは覚えている。
時々くちずさんでいた。


ずっと後になって、もう50近くになってこの映画がネットで買えることが分かって、
注文した。
海外のアマゾンだった。
DVD2枚組でTrappファミリーのヨーロッパの物語と、アメリカに渡ってからの物語
が2枚のDVDに入っていた。
ただし、これはPAL仕様のDVDだった。幸い仕事上PALの再生はできた。

そのDVDを改めて見た時思ったのは、劇中の曲は覚えているけれどシーンはほとんど覚えて
いないことだ。
この少年は「野ばら」に出ていたミハエル・エンデだとわかった。
母親役の女性は今見るととても綺麗な人だと思った。

小学生の時に見た時はこれが後のサウンド・オブ・ミュージックの元になった映画
だとは知る由も無かった。
サウンド・オブ・ミュージックは16歳の時だった。
映画の中でI am sixteenと歌っていたが、その年齢だった。

YouTubeにはこの歌を歌っている映像がたくさんある。
でもメロディーが映画のものとは少し異なるみたいだ。
とても美しい歌だと思う。