8/31/2019

フォンメック婦人

チャイコフスキーと言えば、フォンメック婦人だけど、
本当に一度も会わずに文通だけしていたのだろうか。
どうも歴史上はそういうことになっているらしい。
不思議なのはどちらも会いたいと思わなかったのだろうか?ということ。
チャイコフスキーと言う人はどうも内気な人だったらしいから
言う勇気が無かったのだろうか?
あるいは「財産目当て」と思われるのがいやだったからだろうか。
それにしても生涯チャイコフスキーを援助したわけだから、チャイコフスキー
にしてみれば一度会ってお礼を・・・みたいなことにはならなかったのだろうか。
お互い独身だったんだから会えばよかったのにと思う。

うーーん、1889年にチャイコフスキーは「かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。」
と書かれている。そして1890年にフォンメック婦人はチャイコフスキーへの援助を止めている。昔のことだからこの1年というのは何かのアクションとしては早いんじゃないだろうか?
フォンメック婦人が恋愛感情を持っていなかったとするとこの援助打ち切りというのは
解せない。

フォンメック婦人が援助を申し出たのが1876年、白鳥の湖も1976年だ。
これは偶然だろうか?

というような週刊文春的な憶測を始めるときりがないからやめよう。

でも、最初に会っているような気がする。



はじめてのクラシック

という番組を見ていた。
同じ時間に同じ放送局の地デジで「題名のない音楽会」をやっている。
いいのか?
と思う思うけれどこっちの方が内容があった。
チャイコフスキーの特集で面白かった。

「ロココの主題による変奏曲」をやっていた。
このタイトルは以前は確か「ロココ風主題による変奏曲」だったと思う。
そこはどうでもいいのだけど、この曲の初演の時に曲を献呈したチェリストの
フィッツェンハーゲンが大幅な編曲をして演奏し、それが後々の定番になってしまったらしい。
チャイコフスキーはそれについて良くは思っていなかったそうだ。

そうだろうな、と思う。
献呈はしたけれど変えていいよとは言っていないと思う。
これはある作家の小説が出版時に内容を変えられてしまったようなものだ。

たぶん、編曲したものの方が受けはいいのかもしれない。
チェリストだからチェロのことは良く知っているはずだから。
でもそれはそれで、変えるなら作者の意見は聞かないといけない。
私はチャイコフスキーのオリジナルのものは聞いたことないけれど、
一度聴かないといけないな。

もうひとついつも気になっていることがある。
「白鳥の湖」だ。
組曲になっている有名な小曲(情景)だけれど冒頭の有名なモチーフの後で第2の
モチーフみたいなメロディーに変わるけれど、その変わり目はもっと劇的にやってほしい。
と思っていた。
なぜかみなサッっと入ってしまう。

それでバレエそのものというか全曲の方を聴いてみると、
フィナーレのところ。
王子がオデッテを抱き上げて踊るところあたりで同じテーマが流れるけれど、
(いや、演出で違うかもしれないけど、王子が悪魔に勝つあたり)
その時の第二テーマの現れ方は実に劇的だ。
あれでないといけない。
「情景」と聞き比べてみるとバレエの方は弦楽と金管がメインで演奏している。
そっちの方がいい。
「情景」の方は弦楽と木管がメインだ。

それはそうと最後オデッテと王子は死んでしまうのか?
なんかそれはひどいように思う。
あの世で一緒になっても面白くない。
悪魔に勝ったんだからハッピーエンドでいいんじゃないの?

追記:
色々な白鳥の湖のバレエの最後のところを見比べてみた。
上に書いた「弦楽と金管」というのは違うかもしれない
バイオリン、ビオラ群とチェロ、コントラバス群かもしれない。

最期のところハッピーエンドで終わるものが多いような気がするけれど、
最期に悪魔が一人台の上に立っているまま終わるのがあった。
なんかちょっと・・・


8/26/2019

表現の不自由展と放送禁止歌

なんだろうね、あれは?

多分に政治臭がするので問題なのかな?
と思ったのだけど、それじゃあスミソニアン博物館の原爆展はどうなの?
と思う。
あれはエノラゲイを展示するなら原爆展も併設しろよ、ということなんだと
思うけれど、アメリカ人に理解を求めるのは難しいだろうね。
日本の原爆展が日本国というよりも人類の悲劇を表現したいということも、
当の落とした方からすれば批難されていると思うだろうし、戦争を終わらせた
意識があるだろうから、純粋な核兵器に対する反対の意味は素直には
受け止められないと思う。

じゃあ、あの少女像は?と考えると戦争の悲劇を表現したというより
「韓国が日本から受けた被害の表現」という意味が強いと思う。
人類の悲劇ではなく韓国の対日本批難の象徴、いや違うな、武器に
近いかもしれない。たぶんかなり強力な武器だと思う。

放送禁止歌というのがあるけれど、
あれも作者ではなく周りが「放送禁止にした方がいいんじゃない?」と
いう様々な意識を忖度して放送禁止にしてしまったのだと思う。
たぶん作者は「表現の自由だ!」と怒ってるかもしれない。

たぶん歌の中の歌詞に誰かがクレームをつけたのだと思うけれど、
改めて歌詞を読んでも「どこが?」という感じがする。
受け取り方次第じゃないだろうか。
しかし放送禁止歌の中には誰かを名指しで非難したり、特定の団体を
批難したものはあまり無いように思う。
あることはあるけど、自衛隊がどうしたとか佐藤栄作がどうしたとか。
まあ、それにしてもOKだろうな。
自国の人間が自国の政治を批難するのはありだと思う。

それじゃあ改めてあの少女像はどうなんだ?
ということになるけれど、あれは自国(韓国)に突き付けた方がいい
ようにも思う。慰安婦問題は2015年に両国が合意したことになっている。
その当時の韓国政府がそうしたのだろう。
韓国が合意してしまったことが問題なのだろう。
合意せずに「韓国は未来永劫にわたって日本を批難します」と言っていれば
しょうがないなあ、ということで現在に至っていたと思う。

それはそうと「表現の不自由展」とかいう展示会だけれど、
どうもあれはだめなような気がする。
少女像に限らず政治色が強すぎる。
例えば天皇の写真を燃やしてしまう「作品」だけど作品としてはあまりに幼稚だ。
あえて「芸術作品」という言葉は使わないけれど、自分の生涯をかけた「作品」
を作るのが「芸術家」だと思う。

結果ありきの展示会のように思う。
「こうすれば誰かが反対するから表現の自由が失われたことになる」
という目論見ではないだろうか。
最初からそれを狙っていたと思う。
それは作品展ではなく「展示会の展示」なんだと思う。
一種のインスタレーションあるいはパフォーマンス。
道路で素っ裸で踊れば警察がやってくることをわかって踊る。
それと同じ。
少女像が「作品」とは思わないけれど、他の作品を出品した人は
展示会のもくろみの被害者だと思う。

8/23/2019

英語の先生

高校の同窓会のお知らせに英語のT先生が亡くなったということが書いてあった。
104歳だったそうだ。
経歴からすると私の在籍中だったと思う。
担任になったことあったろうか?
なんとなく顔は思い出すことができる。
でも教わったのは数回しかないように思う。
英語の先生は覚えているのは伊東ちゃんだ。
担任にもなったし好きな先生だったから。
伊東ちゃんはまだ健在のようだ。
というかたぶん10歳も離れていないように思う。


アイソタクティック

最近いろいろな意味不明の言葉が浮かぶ。
今日は「アイソタクティック」だった。
あれ?と考えてもすぐには意味が思い出せない。
何だっけ?
調べるのもしゃくなのでしばらく思い出すことにした。

そうしてるうちに「キレートレモン」という文字がどこかにあって目に入った。
あれ?キレートって「キレート結合」のキレート?
なんでレモン?

キレートって金属イオンの錯体じゃなかったっけ?
その結合がキレート結合。
確か「はさみ」の意味だった。
ここまでは覚えているから当時少しは勉強したんだろうなと思う。

アイソタクティックって何だっけ?
というのも少しして思い出した。
重合だ。同じものがたくさんならんだやつだ。

じゃあ「フリーデルクラフツ」は?
これはやったことは覚えているけれど内容は全く思い出せない。
フリーデルクラフツ・アシル化とかいう化学反応があったはず。
でも思い出せない。
しかしその時の有機化学の先生の顔を思い出した。
フリーデルクラフツにはそういう効果があるのかもしれない。

だけど、化学科は出たけれど化学がその後の人生で役にたったかというと、
悲しいことにたぶん一度も無い。

ときどきあれは何だったんだろう?と思うことがある。



8/19/2019

夏もこんなに暑いとどこへも行きたくなくなる

もうそろそろカレンダー上では夏も終わろうとしているわけだけれど、
いつまでも蒸し暑い。
8月中に水元公園に行ってみようと思ったけれど、
どうもその気にならない。

なんていうか、あの昔の暑い夏を返してほしい。
空は青く、蝉が鳴き、焼けるような太陽が輝くあの夏。
今といったい何が違うのかわからないけれど、
「あの夏」だ。
あの夏が懐かしい

8/18/2019

君は天国を信じるか?

駅の前に立ってる人達の話ではないのだけれど、
私が天国を信じるのは前に書いたことが理由なのだけれど、
無いことを証明するのは難しいとか言うけれど、
これに関しては比較的簡単に証明できそうな気がする。
なぜならその証明とかいうのは科学的(数学を含めて)な証明方法だから。
科学的に問い詰めれば無いということは簡単だと思う。
生理学的に詰めればいいわけだから。

しかしこの「天国」という概念はもちろん科学の範疇ではない。
そういうところの話じゃない。

私は先に亡くなった人達はみな天国で暮らしていると信じている。
「バカ言うな人類が生まれて以来いったい何人が死んだと思ってるんだ?!
 天国は既に満員だろう!」
という人がいるけれど、それも関係ない。
天国はそういう物理的な空間で構成されていないから、そこで物理的広さを
持ち出すのは全く論理的じゃない。

天国は私につながる人々でできている。
誰かが私のことを覚えてくれていたら私はその人の天国にいるはず。
まだ死んでいないけれど、いるはず。
でもそれはその人が私のことを覚えていてくれてるかどうかによる。
私のことを誰も覚えてくれていなかったら私はここにしかいない。
そうなのか?
いや、もうちょっと救いがあるだろう。
私が誰かのことを覚えていたら、私はその人と同じ天国に入れてもらえる
かもしれない。
その方がいい。
そういうつながりで天国はできているにちがいない。

うーーん。
そうすると天国はちょっとばかし広い(大きい)かもしれない。
つながってる人達全員がいるとすると、
この地球の人類くらいの数はいるかもしれない。。
ってことにならないか?
まあ、それでもOKだ。
たぶん天国もフラクタル構造になってる。
どこまで行っても階層構造になってる。
私のいる(であろう)天国もその階層のひとつ。

天国にもフラクタルツアーというのがあったら、知らない人の天国を
見ることができるかもしれない。
どこかマンデルブロー階層の深いところで。












8/15/2019

北海道に行こう

9月になったら北海道に行こう。
飛行機を予約した。
泊まるところも予約した。
今回は5泊だ。

それで帯広まで行くことにしたのだけれど、
何で行くかが問題。
札幌からレンタカー、鉄道+レンタカー、バイク
のどれにしようかと考えて、やっぱりバイクにした。
千歳からバイクだ。
札幌からだと街中を走らないといけないから。
それで帯広に1泊。
バイクも予約した。
雨だったら後ろにずらす。

たぶんバイクに乗れるのも最後かもしれないから。
ちょっと遠いけど向こうで休めるからいいかな。
全部ゲストハウスだからホテル2泊分の費用で済むし。
残りの日は鉄道かレンタカーで近場に行くことにした。

2年ぶり?か?
札幌に住んでいたのが44年も前だ。
それを考えるとなにか冗談のような気がする。
学生時代はそれよりも前だ。
悪い夢のような気もする。


8/14/2019

The Analog session

偶然みつけてしまった動画なのだけど、
これは面白い。
主にアナログシンセを使っているようだけれど、HPを見るとMIDIは使っているらしい。
同期をとるためにはどうしても必要だったのだろう。
Alexander RobotnickとLudus Pinskyが二人で2009年にやったのが最初らしい。


曲はシーケンサーのリズムに合わせておかずを入れるという単純なもので、1965年頃には
タンジェリンドリームがやっていたような曲想だから目新しいことはないのだけれど、
全てリアルタイムに演奏しているというのが面白い。
それにこの二人のおっさんがリズムをとりながらアナログシーケンサやシンセを
弾いている姿が面白い。

このセッションは5日間続けたらしい。
それで7つの曲(トラック)ができて、それを編集して15分くらいの曲にして
YouTubeに上げたらしい。
録音は10チャンネルのレコーダに入れて、2台の固定カメラで撮影したらしい。
それに個別のカメラの映像を編集で加えたそうだ。しかしそのカメラもリアルタイム
の流れに乗っているということだ。
ミキシングはアナログミキサーで行いテープエコーやヴィンテージのイフェクター
を使ったそうだ。

彼らはその後2012年、2017年にもやっているが最初の(2009年)のものが
やはり一番出来がいい。
ように思う。




8/11/2019

刺青のサロメ

今朝の日曜美術館でギュスターブモローの特集をしていたので、好きでも嫌いでも
ないけれど、見ていた。
前から気になっていたのだけど「刺青のサロメ」と言われている作品だけれど、
これは何かがおかしい。
この刺青と言われているものは本当に本人が描いたものだろうか?
どうも本体(女性)と一致していない。
というか後から適当に置いて行ったように思える。
体の皮膚から離れてしまっているし、体の無い部分にも描かれている。
それじゃあ、これはベールとして描いたのか?というと首筋の部分は
明らかに皮膚に描いているつもりのようだ。頭からベールをかぶったら
こういうふうにはならないだろうし。
しかもこの首筋のところは首を立体として見ていない。
首の肌に描いたらこんな風に平面にはならないだろう。
この刺青だけでなく背景になっている部分にも白い線でやはり装飾
が入れられている。
これはまるでステンシルで上から描いたみたいだ。
全体になにんかこういう模様を入れたかったようだ。
しかし、なぜだろう?
どんな理由があったのだろう?









8/09/2019

箱根に行った

今年も箱根に行った。
今年は8月7日だった。
しかし成蹊大学の現地には入れてもらえなかった。
前回は快く入れてもらえたのに、今回は禿茶瓶のおっさんにだめだと言われた。

それでしかたなく上から見ようと思って上に登る道を歩いた。
山の上のくせにたぶん下とあまり違わない暑さだった。
反対側までは登り路を約4キロだ。
到着してみると道路わきの樹木が成長していて、前は全部見渡せたのに
ほんの一部しか見えなくなっていた。
しかたないので写真だけ撮った。
そこからまた元箱根の湖岸まで歩いて、トータル6キロだった。


しかし、箱根はこんなに外人いたっけ?というくらい外人だらけ。
しかも白人が多い。
次に中国人。
日本人はほんとうに少ない。
驚くほどだった。

湖を後にするとき、最後のサービスでガスが出てきた。
湖面はにわかに暗くなり雲に覆われた。
そういえば48年前も湖の方からガスが会場を覆った。
そうだなあ、あの場所でまた雲を観たかった。


8/08/2019

通学路

高校まで自転車で通った道だけど覚えてる?
と思ってグーグルストリートビューでたどってみたらわからない。
だいたいのルートはわかったので距離を調べたら6キロだった。
自転車で急げば30分。ゆっくりだと1時間くらいだったと思う。
それが、地図をしらべたらあまり通らない道を行った方が1キロくらい
近いことがわかった。

それはいいのだけど、だいたい家が増えすぎて通った道がわからない。
好きな道は、以前住んでた家の方を通って三鷹高校と杏林大学の脇を
行くと左手は田んぼと林があって(もちろん今は無い)その先を行くと、
まっすぐ行けばそのまま仙川なのだけれど、わざと外れて林の中を右に
行くと少し下り坂になっていて、道の左側を小川(そんなにきれいな川じゃ
なかった)が流れていて、それが滝のように下っているところがあった。
その場所が好きでわざわざそこを通って、下った分また登って
甲州街道に出た。

というその小川が無い。
逆にたどってだいたいことだろうというところがあった。
地図には川の印があるけれど画像には無い。
でもこの左側が川だったはず。
この坂を自転車で下った。
中二病の私は「ユタの赤い丘」を歌いながら走った。
毎回その歌をここで歌ったので覚えている。


今だったら絶対に通らないだろう。
最近は頭の中で上り下りが一番少ない道を選ぶから。

8/05/2019

迷子

ちょっと遠くのスーパーに買い物に行った。
キャットフードが安いのでわざわざ遠くまで行くわけだけど。
キャットフードは2階の広いフロアーの端にある。
そこでキャットフードをカゴに入れて、ほぼ反対側のレジまで歩いて行くと
どこかの通路から「マーマ~」という泣き声が聞こえた。
すぐに見つかるだろうと思って、他の商品を見ていたら
まだ探しているようだった。
どこだろう?と思って商品の通路を探したら居た。
小さな女の子がきょろきょろしながら母親をさがしていた。
近づいて「どうしたの?ママいないの?」と言うと
緊張しているのか警戒しているのか、そのまま別の通路に行ってしまった。

母親も探しているだろうと思い、また商品棚を散策していた。
そしたらまだ探しているようで、通路の端の方にいた。
脅かさないように遠くから「探してあげるからおいで」
と声をかけたら近づいてきたので、「よし、お店の人に聞こう」
と言って手を差し伸べると手を出してきたので
その手をとって、レジの方に向かった。

「子供の手ってこんなに小さかったんだ」と驚いた。
自分の子供もこのくらいだったんだと思った。
手をつないでいたけれど、必死で涙を堪えていた。
レジの手前まできたら女の子がほんとに小さな声で
「ママいた」と言った。
レジの向こうに母親がいた。
女の子は走って行った。
母親は遠くから私にお礼を言っていた。

あぶなかった。
あとちょっとで女の子に涙を見られるところだった。
私は後ろを向いて商品棚の方に向かって、
気付かれないように涙を拭いた。

しばらく女の子の手の感覚が残っていた。

8/04/2019

有明埠頭の夏

そうだった、夏のバイクだ。
夏はこんなに暑くなかったと思う。

バイクの中型免許をとって、巣鴨でバイクを買って、アパートのところまで
運んでもらって、それから練習だった。
深川のアパートから海の方(南)にまっすぐ走って行くと埋め立て地だった。
そこまでも今のようにビルは建っていなかったけれど、
埋め立て地にはビッグサイトも無かったから、更地だった。

なぜかだいたいの区画ができていて道路だけはきちんと舗装されていた。
そうなるとそこで走ろうと思うのがいるわけで、私もその一人だった。
どうも記憶が定かでないけれど、ビッグサイトの方はまだ無かったか、
立ち入り禁止のバリケードがあったように思う。
今フェリー乗り場がある有明ふ頭の方は入れた。確かバリケードに隙間が
あってそこから入れた。
(あるいは逆にビッグサイト側だったかもしれないけど)

とにかく広い教習所のように何も無い更地に道路だけがあった。
いつも数台のバイクが練習していた。
練習していたというのは、スピードを出して走り廻っている人は
ほとんど居なかったから。
バイクをものすごくねかせて限界で曲がるとか、スラロームとかの
練習にはうってつけだった。

時々白バイの警官も走っているという話だったけれど、
私は見たことが無かった。
何度か行くといつも同じ人に会うわけで、高校生ぐらいの若い人も
走っていた。いつだったか125のバイクに乗った高校生らしい人に
話しかけられた。「いつも会いますね」とかそういう言葉だったと思う。
青い色のオフロードだったと思う。
私は250だったけれどアメリカンでちょっと大きく見えたからか、
「すごいですね」とか言ってた。
フルフェイスのバイザーを上げた時の彼の目が眩しそうだったのを覚えている。
それから何度かそこで会うことがあった。

そのうちバリが強化されてそこには入れなくなってしまった。
そういえばそこの練習場からは草地の向こうの方に「船の科学館」が見えた。
フジテレビはまだ無かった。
その頃からお台場周辺がにぎやかになって行ったのだと思う。

あれはバイクの夏だった。

8/03/2019

夏はバイクだ

たぶんもうそろそろ無理だろう。
今年が最後だろう。

どこか行こうと思ってる。
一番近いとこは東富士の演習場あたり。
グーグルで見ると広々していて良さそう。
御殿場からそれほど遠くない。
そのまま西湖あたりまで。

乗りたいバイクを置いているショップが茅ヶ崎。
そこからどうやって行くのが一番安全だろうか?と考えている。
・・・考えている。。
車だったら何も考えずに走るだけだけど、
バイクはちょっと身構える。
街中をできるだけ避けて、できれば高速も避けたい。
ということで、国道・県道を検討中。

あとは、北海道は置いといて、岩手県かな。
盛岡あたりから花巻、遠野、小岩井あたりを。
問題は車種がない。
福島のいわきにDS250があるけれど、あれは一度乗ってすごく重かった。
あとは秋田までいかないと車種が無い。
秋田駅からショップまで2キロちょっと、(歩くのか?)
秋田から山を越えて盛岡か、
遠いな。
東北はちょっと難しそうだ。
スポーティータイプのバイクはちょっと・・・

だから、あとは北海道しかない。
秋に北海道かな。。

ああ、そういえばコマツ先生、富士急ハイランドから藤沢まで走った時は
あれはどこの道を走ったんでせう?
あの250に二人乗りして走った道ですよ。
あれはいったいどこを走ったんでせう?


西湖の合宿

小学校6年の時近所の学習塾に通っていた。
あれはなんで行こうと思ったのか忘れたけれど、自分から母に行きたいと
言ったのを覚えている。
塾は7小の西側にあった。グーグルで見ると今は住宅地になっていて
どこがそうだったかわからない。
昔は確か畑に面していたように思う。

塾は6年生と中学生がいた。
同じクラスの子が3人くらいと別のクラスの子としらない学校の子もいた。
中学生とは別の教室だったけれど、ガラス窓で仕切られていただけだったので
お互いの様子が良く見えた。

先生は大人に見えたけれど、今考えると大学生だったように思う。
メガネをかけた優しい感じの先生がいた。
あの先生は何の科目だったのだろう。
その顔をとてもはっきり覚えている。※1

中学生のクラスにいつも挨拶をする少年がいた。
たぶん年は1つか2つ違ったと思う。
その少年は目が合うといつもにこにこ会釈してくれた。
何度か話したことがあった。
声はすこしハスキーな声だった。
なんで挨拶するようになったのか、
なんで知り合ったのかわからないけれど、まるで友達のように話をした。
今思うと、あの感じは高槻にいた別のクラスの少年の感じにすごく似ている。

今思い出した。
学習塾で合宿に行った。
富士五胡の西湖だ。
湖の脇のバンガローに何人ずつかに分かれて泊まった。
板の床に寝袋(あれは買ったのだろうか?)、ネイビーブルーの寝袋だった。
寝る時はそれに入って寝た。

湖では水泳をした。
私は泳げなかったけれど、湖には入った。
みんながどんどん泳いで行く後ろで背が立つところまでは歩いて行った。
その次に足を出した時、全く届かなかった。
すごく怖くなって焦って湖岸に戻った。
後で聞いたところあの湖は岸からかなり急角度で深くなっているらしい。
しばらく湖岸に立って皆が帰ってくるのを待っていた。

夜になって花火をやったように思う。
そうなんだ。
なんでこのシーンがとても懐かしい感じがするかというと、
その西湖でやった花火のシーンとダブるからだ。



ご飯はどうしたんだろう?
うっすらと飯盒で作ったシーンが記憶にある。
飯盒なんて他では使ったことがないから、きっとそれだろう。
おかずとかどうしたか全く記憶にない。

バンガローのあったあたりをグーグルで見るとバンガローみたいな建物が
6棟ある。
ここが同じ場所なんだろうか?
昔はずっと砂利の浜になっていたように思うけれど、今は緑に覆われている。

まあ、とにかく60年前だ。
すごい。。

※1:思い出した。あの先生は獣医大学の学生だった。
   武蔵境の獣医大学に何人かで行ったことがあった。テーブルの上に白い動物の
   死体がいくつもあったのを覚えている。

8/01/2019

ワシリー・カリンニコフ

知らなかった。
昔はクラシックファンをきどっていたけれど、
この名前を知らなかった。
さっきチャイコフスキーの4番を聴こうと思ってYouTubeを見たら
隣にこの人の1番の交響曲があった。

ちょっと聴いてみようと思った。
冒頭、「なんだこれは!」と思った。
明らかに民族音楽あるいは民謡を基にしたと思われるメロディーだ。
しかしこれはとてもいい。
天才じゃないだろうか。