7/13/2013

何も写っていない写真 何もかも写っている写真


この写真は1979年の秋に円山公園で撮ったものだが、
これには何も写っていない。
何かのパターンだ。
なぜカメラを向けたのかは覚えているが、
結果は何も写っていなかった。


この写真は同じ1979年の冬に撮ったものだ。
ここには沢山のものが写っている。
東京から来てくれた友達を千歳まで送って帰りに撮ったものだ。
気まずい思いを残したまま東京に帰ってしまった友達へ、
何か言い残したような思い。
自分も一緒に東京に行きたかった思い。
この雪の中にあと何年いるんだろう?
彼女に言ったこと。
言われたこと。
カーステレオの音楽。
スパイクタイヤが道路をかじる音。
あの頃の全てが写っている。

7/12/2013

小樽 1975年

小樽には数え切れないほど行ったが、何故か写真があまり無い。
しかもほとんどの写真は港を写したものだ。
小樽は何か食べに行った思いでが多い。
あそこは何て言う通りだろう。函館本線が5号線を横切るところに、
三角形の安全地帯みたいなのがある通り。
あの通りに「鍋焼きうどん」の店があった。割烹着を着た、まさにお母さんのような
感じの女性が一人でやっていた。
鍋焼きのコンロがカウンターの前にたくさん並んでいて、
その場で作ってくれた。
これはすごくおいしかった。
特に真冬によく行った。

その通りの脇に「たこ虎」というおでん屋があった。
人気のあるお店でいつも混み合っていた。
自分の食べたいものだけ頼めばいいので、金の無い身にはとても良かった。
でも、お客の食べ残したものをまたおでん鍋に戻していた。
それが普通にやっていたので、そういうものかと思っていた。

小樽を舞台にしたテレビドラマがあって、すごく印象に残っている。
確かSTVが作成したドラマで、満州から引き上げてきた老夫婦の話と
若い男女の話が同時進行で進むような話しだった。
確か時間を表示しながらドラマが進むというやり方日本で初めてだったと思う。
最後のシーンで岸壁で老夫婦が「千倉に帰ろう」と言っているシーンが
忘れられない。

ある時、いつもの様に港で写真を撮っていると、ロシア船が停泊していた。
その下で写真を撮っていたら、上から英語で声がした。
「船の写真を撮っているのか?」とか言っていた。
「そう、船とか港の写真とかを撮っている」と言うと。
「登って来いよ」というので、タラップを登って甲板に行った。
彼はユーリと言った。(下の写真左から2人目)
船の中を案内してくれて操舵室も見せてくれた。
それから彼の船室に言って話しをした。
船の名前はOsip Pyofnitskyと言うらしい。FESCO LINEという会社だとか。
1週間くらいそこに停泊してからまたロシアに戻るということだった。
その1週間のうちにもう1度彼の船室に行った。


それから彼はまたロシアに戻ったが、1年後にまた来るということだった。
その日時を教えてくれた。
1年後のその頃、ちょうど東京からYosinoたち友人が3人遊びに来たので、
一緒にそのロシア船に行ってみようということになった。
彼の船は小樽の岸壁にあった。
下から大声で呼びかけたら誰かがユーリを呼んでくれた。
それから私たちを上に上げてくれた。
しばらく話しをしたり船を案内してくれた。
上はその時の記念写真。

しかし、後できいたところ、外国船の上は外国になったらしい。
どうも入管法違反だったらしい。
幸いパトカーとか入管の人には出会わなかった。

住所を教えておいたらしばらくして絵葉書が届いた。
その後どうしているだろう。
まだこの住所にいるだろうか?
住所はUSSRだ。

7/11/2013

宮の森・大倉山 ジャンプ台

東京から誰か来ると必ず案内する場所のひとつだ。
アパートから5分もかからない場所だけれど、
あまり一人で行くことは無かった。
この写真は何か大会があった時に行ってみたのではないだろうか。


Me and Yoshino
これは宮の森ジャンプ台の上だ。
上まで登れるのは宮の森の方だけだった。
この写真は面白い。
この写真から10年後にハンググライダーを始めるのだが
私の格好はまるでハンググライダーだ。

7/10/2013

夕張 1975年

(追記:ここに掲載した写真は夕張だと思っているのだけれど、
ひょっとすると幾春別かもしれないと思い始めた。2014.1.30)
 
夕張に行ったのはいつだったかよく覚えている。
現役最後のSLが夕張線を走った時だった。
その最後のSLを見に行く途中で夕張の町を通った。
1975年の12月だった。
三菱夕張炭鉱は閉山した後で、町全体が荒涼としていた。

車を停めて何枚か写真を撮ったが、
町はほとんど何も動いていなかった。

SLを見たのは確か夜か夕方かだったと思う。
どこで見ようかと場所を探しているうちに時間が来てしまい、
どこかの高架道路から下をくぐるSLを見た。
その場所に着いた時にはもうSLの煙が見えていた。
急いでレコーダとカメラを取り出したが、間に合わないと思い、
そのまま姿を見送ることにした。

その場所には既に20人くらいの人がカメラを持って待っていた。
私がレコーダをも持っているのに気がついたそのうちの一人が、
「録音しますよー、皆さん静かにしてくださーい!」
と声をかけてくれたのを覚えている。
今の鉄道オタクではそんなことがあるだろうか。

その日は夕張炭鉱とSLと2つの最後をみた気がした。

7/09/2013

会社 (1)

私が働いていた会社(品川無線)は大通りの西のはずれにあった。
私を入れて3人の男の人と7人の女性社員、パートさんがいた。

この工場は東京に本社のある会社の札幌工場だった。
左の人が吉野工場長。皆は主任と呼んでいた。
この工場の全ては彼がまかされていた。
北海道品川無線

私は一応技術として雇われた形だったが、社内で必要な冶具や設備
のほとんどは吉野工場長が作っていた。私は電子回路とかアンプとか
必要な時に作ったくらいだ。
工場長には皆なんだかんだ苦情を言っていたが、すごく能力のある人
だった。今思い返すと彼が作った冶具は全て完璧だった。

私はここに座って製品のチェックをしているか、皆に混じって製品を作って
いるかだった。たぶんいつの時代にいるわけのわからない若者の
一人だったのではないだろうか。

北海道品川無線

工場長にはほんとに世話になった。奥さんも夕食を作って持ってきて
くれたりした。いま思うと、私はちゃんとお礼を言っただろうか。
工場長夫婦は今は確か九州に住んでいるのではないだろうか。

社員旅行で羊蹄山の近くの温泉に行った。
場所はほとんど覚えていないが、きれいな湧き水があったこと。
帰りに余市でぶどう狩りをしたことなど覚えている。
工場長と右端が福田さん、真ん中の2人は名前を忘れてしまった。

会社のビルの1階。
会社はこの2階にあった。
確か右手の階段を上がったところだ。
佐川ビル

工場長はいつも明るく振舞っていた。
あんまり滅入っているところをしらない。
本社からの電話でちょっと考え込んでいることは時々あった。

いつだったか、休憩室で皆でお茶を飲んでいた時、工場長が突然
胸を押さえて苦しみだした。彼の顔はみるみる紫色に変わって、
これはだめだ、と思って私は電話で救急車を呼んだ。
誰かが裏の工場長の家に奥さんを呼びに行った。
奥さんは、やけに落ち着いた感じでやってきて、
「時々なるから、大丈夫なの」とか言っていた。
でも救急車が来たので一応病院に行った。

工場長は次の日には元気に出てきて、
いつものように明るく振舞っていた。
私はあの会社のために何かできたんだろうか。
今思い出すと申し訳ない気持ちでいっぱいだ。






7/08/2013

青函連絡船・青函フェリー

函館と青森を結ぶフェリーにはいくつかあった。
国鉄の青函連絡船、東日本フェリーの青森-函館、大間-函館、
それと八戸-函館だ。

大抵の場合は八戸-函館に乗った。それが一番楽だったから。
大間は船に乗っている時間は短いが陸路をかなり走らないといけない。
それに船の上の時間が短いから体を休めることができない。
それで大間はあまり使わなかった。

この写真は1978年頃の東日本フェリーだ。

初めて北海道に行った時は国鉄の青函連絡船だった。
国鉄のフェリーはデッキに車を積むため、波止場の路上からデッキの上まで
滑り台を逆さに登るような細いスロープを登らなければいけなかった。

下の写真は、北海道を後にした時の最後のフェリーだ。
この時は初めての時と同じ国鉄の青函連絡船に乗った。
青函連絡船では車はデッキに載せられる。

国鉄の連絡線では航行中は一般乗客と同じように室内で過ごすが、
到着する時は早めに車に戻って下船の準備をする。
その緊張感が好きだった。

これが国鉄青函連絡船に乗った最後だ。
1981年2月だった。
十和田丸
まだ函館の灯が見えているうちにこの写真を撮った。
写真ではよくわからないが、この時泣いていた。

青函連絡船は函館に着く時に、北大の寮歌、「都ぞ弥生」が流れる
と小沼が言っていたが、何度か乗ったが聴いたことがなかった。

冬場は相当揺れることがあった。一度だけ横になって寝てると体が
転がりそうになるくらい揺れたことがあった。
船には弱かったので大抵はデッキで水平線を見ていたが、
その時は揺れに任せて寝ていた。
そのうち眠ってしまった。


7/07/2013

札幌駅 1975年

これは札幌に赴任して早々の札幌駅前だ。
北海道の他の駅もそうだったが、駅前は基本的に駐車無料だった。

駅舎の前に何台かと、駅前広場に駐車できた。
今Googleで見るとひどく変わっているように見える。
この写真では向こうにGOBANKAN(五番館)の文字が見える。
これは夏だ。
夏には旅行者が多い。この自転車の人も明らかに
長距離ツーリングだ。

たぶんこの時25歳。かなりやせていた。
向かいの読売ビルというのはもう無いようだが、左のビルは
まだそのまま残っているようだ。


Nissan Cherry 1200FII coupe
どこかに行ってきた後だと思う。
泥だらけだ。
後ろの自転車の人が私の車のナンバープレートを見ているが、
ナンバーは多摩だった。左の車も静岡だ。

列車にはほとんど乗らなかった。
記憶にある限りで6年間に列車に乗ったのは千歳まで往復1回きりだ。
あとはほとんど車で移動していた。

アパートの駐車場代は雪かきをするということで無料だった。
千歳空港の駐車料金は1日泊めて千円くらいだったかな?
あるいは数百円だったかもしれない。
いずれにしても飛行機で東京に行く時は空港にずっと停めていた。
そのころ羽田空港の駐車料金がすごく高いという記憶があるから、
かなり安かったと思う。

街の駐車場はどうだったろう。
大通りの地下は何か買えば2時間くらい無料だったろうか。
よく覚えていない。
よく停めたのは駅前か大通りだった。

東京の駐車場は新宿などでは当時は1時間、2時間待ちというのは
普通だったが、札幌では駐車場に並ぶということはまず無かった。

駅前から西の方に少し行ったところに、線路を渡る道の交差点のところに
大きなホテルが無かったろうか。
今はロイヤルセンチュリーホテルとなっている。
当時もそうだったかもしれないが。
そのホテルで英会話のサークルに行ったことがあった。
学校の松本先生が北大の北先生に連絡を取ってくれて、
1回だけ参加した。

すごく大勢の人がホテルの宴会場に集まっていて、テーブルごとに
5人くらいが自由に英語で話していた。
何を話したかあまり覚えていないが、アメリカ人の人に、
「ノースカロライナってどんなとこですか?」ときいたのは覚えている。
彼は「アメリカでもかなり貧乏なところだ」と言っていたのを覚えている。
今考えると彼はノースカロライナに行ったことあったんだろうか?
と思う。

そこで知り合った北大の工学部の大学院生の寮にその後行った。
北大の寮はかなりボロだったように思う。
彼の部屋で彼の研究していることとか、自分のやっていたこととか
を話した。彼は確か熱効率について研究していた。
彼も北海道の人ではなかったように思うが、どこだったか覚えていない。

北大の北先生は気さくな方で、その集まりでも人気者だったような気がする。
ずっと後で、電話をくれたか、こっちからしたかで、
話しをした記憶がある。
松本先生とどういう関係だったのか、そういえば、知らない。

札幌駅の北口は閑散としていた。
南側と比べると、ここどこだろう?という感じだったように思う。
写真も無いのではっきり思い出せないが。

7/06/2013

円山公園 1978年


アパートから広い道に出ると向かいが北海道神宮だった。
北海道神宮はほんとにすぐ近くだったけれど、年末年始以外は
あまり足を運ばなかった。

会社に歩いて行く時もあった。そういう気分だった時や、
あまりに雪がひどい日だ。 
神宮の方から円山公園を斜めに抜けて行く。
新緑や紅葉の時期はほんとうに気持ちがいい。


雪の日も公園を抜けて行く。
公園内は全て雪に覆われてしまうけれど、
人が一人通れるくらいの細い道が出来ている。
人が歩いた痕が道になっているだけなのだが。

歩いて行くと向こうから中学生が歩いて来る。
そのままではすれ違えないので、
横を向いてお互いの肩に手を乗せて
よいしょ、とすれ違う。
今もやっているだろうか?・・・

マッチがあった。
「みち」という喫茶店のだ。
「円山公園かど」とある。
かど、かど、、どこの角だったろう?
まったく思い出せない。

東京から友人(吉野)達が来た時も円山公園にギターを持って行って
何かやったような気がする。
その時、ギターを持った女の子2人組みがいて、歌を歌っていた。
彼女達としばらく一緒に話しをした。
彼女達のグループ名をつけてあげたように思うけれど、
名前を思い出せない。


7/05/2013

初めての北海道 My first Hokkaido

The first time I went to Hokkaido was summer in 1970.
Me and my friend Konuma drove my car from Tokyo to Hokkaido island and we run around the island.
This picture is an shot at near Hakodate.
At right side of the picture,Konuma was taking picture os the scenary.
初めて北海道に行ったのは1970年の夏だった。大学1年の同じ学科の友人小沼と
一緒に私の車で走った。まだ東北道が無い頃で日光街道をひたすら走った。
この写真はフェリーを降りてしばらく走った、森のあたりだと思う。

at the Toya lake
My car was Cherry-1000 Nissan and was small but very tough.
We spent most of nights in the car though there is no other meaning but sleeping. 
洞爺湖。
どこだったか途中でひどい雷雨があった。一晩中降っていた。二人ともヘビースモーカー
だったので、車の中は大変な状態だった。しかも蚊取り線香をつけていたから
車内はほとんど真っ白だったと思う。

Thsi town is Sappor. shot from top of mt. Moiwa.
After five year, I begun to live in this town.
藻岩山からの札幌。この5年後に住むことになる街だが、この時は
そんなこと全く考えていなかった。

We picked up a girl named Yuki while our tour.
but I cannot recall when she appeared  and when she's gone.
途中ヒッチハイクしていたユキちゃんという女の子を乗せた。
しかし、どこから乗せてどこで別れたか全く思い出せない。


my friend Konuma and Yuki at somewhere cape.
小沼とユキちゃん。
どこかの岬。どこだったろう?

I think this picture was shot at Saroma lake.  
これはサロマ湖。輪になった突端のところまで走った。

Konuma was a very tough guy.
When we climbed the mt.Taisetsu we bring neither water nor juice. Then he found the snow in his vew.
He said "wait an hour" and went to far far away.
after an hour he appeared holding a block of white snow in his hand. 
大雪山に登った。小沼は山登りを趣味にしていたので登るのがすごく早かった。
しかし、あの山は軽装で登るような山ではなかった。水もジュースも持たずに登った
ので山野頂上でバテてしまった。
小沼は遥か遠くの山肌に雪を見つけて、「1時間待ってろ」と言って歩いて行った。
小沼はきっかり1時間後、手に雪を持って帰ってきた。

Yuki, biting the snow 
その雪にかぶりつくユキちゃん。

雪をかじる私と、小沼。

3人で写した写真があった。
あまりに懐かしい写真だ。
全て夢だったような気もする。

この時は、道内をほとんど回った。
でもどこからユキちゃんが加わったか、覚えていない。

小沼はとにかくタフだった。
車の運転も7割くらいは小沼だったように思う。

これもどこの海岸だったか忘れてしまった。
しかし小沼はこの時に詳細な日記をつけていたはず。
もしももう一度会えたらその日記を見せてほしい。




That  was my first long drive. whole distance was over 3000km.
Konuma is in Max-Planck-Institut für Chemische Physik now, I think.
I don't know where Yuki is.

あれははじめての長距離ドライブだった。また初めての北海道だった。
小沼はドイツのマックスプランク研究所にいるはずだ。
ユキちゃんはその後全くしらない。

7/04/2013

千歳空港

これは確か1976年の写真だ。

夜中に支笏湖に向かう途中、千歳を通る。
支笏湖へ行くにはこの先を右折するのだが、
空港へ行くこともあった。
千歳空港の先は東京であり、飛行機に乗ればすぐに東京だ。
しかしそんなにしょっちゅう行くこともできない。
だからこの先は本当はすごく遠い。
それはわかっていたが、空港に行くと少し寂しさが和らいだ。
 
千歳空港は東京の人間には信じられないような状況でも
飛行機は発着する。この日も結構な吹雪だった。
しかし空港はまるで普通に沢山の飛行機が発着していた。
羽田だったらもう既に閉鎖だ。 
いつだったか、東京行きの最終便に乗った。その日も吹雪で飛行機の
窓の外は雪が吹き付けていた。
アイドリング中のエンジンに地面の雪が小さな竜巻になって
吸い込まれて行くのを見ていた。
滑走路に出て既に40分が経っていた。
その時、急にエンジン音が高くなり機が走り出した。
機内放送はその後だった。
「ただ今より羽田に向かい出発します」
あっと言う間だった。

7/03/2013

藻岩下

藻岩山は誰か東京から人が来るとよく案内した。
この写真は1981年2月だ。
この写真は、札幌から東京に戻る最後の日に撮ったもの。
ここを右に入って盤珪から宮の森に帰るというコースも
よく走った。理由も無く。

このあたりは今もあまり変わっていないように見える。
電線が無くなったのと街灯が変わったくらいだ。
でもこの先まで車で走ると全く変わってしまっていることに気がつく。

今住んでいる近くにMinamoというショッピングセンターがあるが、
時々無意識にMonamiと言ってしまう。
未だに札幌を引きずっている。

7/01/2013

北3条西28-西24





宮の森のバードマンションから会社に向かうのは
たいていはこの道を使った。

写真の左側は今は焼肉屋とツタヤになっているようだ。
この写真は1980年頃。この時は「花梨」というレストランがあった。
おにぎりセットがおいしかった。
ここもよく入った。

たぶんここを右折して大通りの方に向かったと思う。

この道の途中で一度接触事故を起こしたことがあった。
雪が被い頃で真ん中に1本轍ができていて、
両側に分かれて対向車とすれ違おうとした時、
少し接触した。
向こうはオッサンでこっちはまだ若かったから、
言い含められてしまい、こっちが事故を起こしたこと
になってしまった。
あれ以来オヤジには気をつけるようにしている。
札幌もいい人ばかりじゃないな、と思った。