5/31/2024

どこだ?

 この前札幌に行って来た感覚が残っている間に、昔の
1978年頃撮った場所がわからない写真を考えてみよう。

これは全くわからないのだけれど、
速度制限60と見えるので、36号線だと思う。

これははっきりわかった。西28丁目の環状線だ。

これも環状線だと思う。遠くに薄っすら見えるのは藻岩山か?

先生、これはどこだろう?環状線ぽいけど。歩行者に注意だね。

マクドナルドはっわかったけれど、どこのだろう?
たぶん西野の5号線じゃないだろうか?


この写真を撮ったのは覚えている。36号線の千歳に向かうところの、
あ、橋を渡って恵庭に入るところかもしれない。


これは江別のあたりらしい。

全くわかりません。先生。 たぶん中島公園あたり

この写真を撮ったのはよく覚えている。
友人を千歳まで送って、その帰りの島松のあたりだ。

これは藻岩山麓道路っていうのかな。そこを南から北に向かっている。

これも良くわからないのだけど、わざわざ写真を撮ったことを考えると
羊ケ丘を南から札幌に向かっている所だと思う。

これはその続きのネガだから、上は多分正しい。
これは月寒の今はっドームがあるところの交差点。

こうなるともうわからないけど、続きとしては福住あたりだと思う。

これは逆に札幌から千歳に向かってる。36号線の清田の上り坂のとこ
だと思う。

これも上と同じあたり。吹雪いている。

この看板には憶えがあるけど、わからない。
たぶんこれも36号線だと思う。


これも36号だけれど、豊平からすすき野の方に近づいているところ
だと思う。

市内に入ってすすき野を過ぎたあたり。市電が写っている。

これどこのファミレスだったっけ?
覚えてる?ひょっとしてビーバーかなあ?

これが5号線のロイヤルホストだから、上のはやっぱりビーバーかもしれない。

豊平のあたりで雪をダンプに積んでいるところだ。

前にもこれを載せたことがあるけど、琴似の方だと思う。

5号線の宮の森あたりだと思う。


訳のわからない写真はまだたくさんあるのだけど、
こうやってみるともう今になっては何のどこの写真かなんて
わからないね。
先生ちょっと天国から降りて来て教えてくれない?

5/29/2024

風の又三郎(1940)

 さっき「白い蒸気機関車」のことを書いてから、
Amazonから「風の又三郎」を推薦された。
そんなに人の検索を覗き込んでいるのだろうか?
やってるかもしれないな、と思う。

それはともかく観ろというので見た。
これを全編見るのは3度目くらいだけれど、
すっかり内容を忘れていたことに気が付いた。
だいたい1時間半もある。
途中かなり冗長なシーンがあることがわかった。
あるいはああいうシーンは必要だったのかもしれないが。
映像も今となってはあまり綺麗ではない。
綺麗ではないのだけどその分昔の雰囲気が出ている。

又三郎は5年生だったのを知った。
私が初めて転校したのも5年生だった。
転校生は特別な目で見られた。
また転校した自分も新しい学校はとても不安だ。
だいたいまだ何も世間のことを知らず
幽霊も信じていたような頃だから、
何が起きるかわからない。

風の又三郎という話は又三郎以外の子どもたちの
話であり、又三郎自身の心情はあまり語られていないように思う。
いや、又三郎自身の気持ちを表現した記述は無いように思う。
タバコの葉のシーンだって、本来の賢治の書き方なら
 「三郎はにわかに心配になりました
  しかしそれを皆に悟られまいと
  怒ったように『知らないで取ったんだい』
  と言いました。
みたいに書いていたように思う。
しかし三郎は発言は書かれているけれど、
その時の心情は全く書かれていない。
それは三郎が得体の知れない転校生であることを
読者にわからせるためなのだろう。

「風の又三郎」という話の主人公は三郎ではなく
嘉助を主人公とした話なのだと思う。
話を読んだあとで心に残るのは嘉助の
又三郎にもう一度会いたいという気持ちだ。

雪の蒸気機関車

たぶん私が5歳かそこらだったと思うけれど、
三鷹の下連雀に住んでいた時、近所の家で映画会をやってくれた。
カレンダーの切り抜きの数字がチケットだった。
たぶん入ることができる人数分の数字を切ったのだろう。
その真四角の紙を覚えている。
映画はその人の家でやった。
その頃だから8mmだったのだと思うけれど、
16mmだったのかもしれない。
2回くらいそこで映画を観たと思う。
あまりはっきり覚えていないけれど、学生が皆で雪像の
蒸気機関車を作る話だった。
真っ白な雪原に機関車があったのを覚えている。
ストーリーは全く覚えていない。


それが何だったのかを検索していてわかった。
ここに詳細が書かれていた。
機関車労働組合という国鉄の労組が作った映画らしい。
製作年代がはっきり書かれていないが1951~1959くらいの間らしい。
2019年に上映会があったようだ。

それがわかったとしても別に懐かしく感じるわけでもない。
ただ、私のかなり初期の記憶であることは確かだ。

5/28/2024

言い忘れたこと

 支笏湖に行った。
借りたMINIを返す前に支笏湖経由で真駒内から
豊平に行くつもりだった。

支笏湖はもう何度来たかわからない。
札幌にいた時はよく夜中に来てこの浜で朝を迎えた。


いつ来ても何も変わっていない。
そうだ、昔はこの浜から杭が何本か並んでいた。
それはたぶん朽ちて無くなった。

前回来た時はバイクだった。
いや、前々回もバイクだった。
どっちもすごく寒かった。
夏だったのに。
今回も5月末でとても寒かった。
でも車で良かった。

ここからオコタンペの方に行こうと思い、
途中で脇道に曲がろうとしたら通行止めだった。
前回はどうだったろう?
それで諦めた。

もう、真駒内に近づいたころに思い出した。
そうだ支笏湖に「また来るから」と
言うのを忘れていた。

5/27/2024

札幌コミュニティーセンター 続き

ほんとにそうだろうか?
という気になってきた。
教会は別にあったような気がしてきた。
いや、やっぱりその教会だったのかもしれないけど。
改めて「大通公園」の本を見てみると西6丁目に
例のルーテル教会があるけれど、

西5丁目に謎の建物がある。

この四角は何だろう?
道路から向かって右側が駐車場だ。
そういえば車で行った時はどこに停めていただろう?
全く記憶が無いけれど、大通りの西向きの道路の
脇に停めていたんだろうな。
建物脇の駐車場には停めた記憶が無い。
だけどこの小さな四角がその建物だったという可能性も
ある。 というかそうなんじゃないか?とも思える。

もう一つ思い出した。
コミュニティーセンターの玄関を入るとロビーがあって
その奥の右手に広い部屋があった。
そこで何かのミーティングをした記憶がある。
そこを右手に見て左手?奥に教室のような
部屋があった。
そこで発表会のようなものをやったと思う。
この写真はその部屋でコンサートの準備をしている時に
撮ったものだ。


彼の名前を忘れてしまったけれど、
私に親切にしていてくれた記憶がある。

この写真があるということは、ネガの山の中に
建物の写真があるかもしれない
という希望はあるのかもしれない・


 

5/26/2024

札幌コミュニティーセンター

 1975年頃フォークソングの集まりを古矢という人が
やっていたということは前に書いたけれど、
その写真が無いだろうか?と今回探した。
図書館や古本屋をざっと探してみたけれど、
大通り公園内の写真は色々あるけれど、
公園の外側の道路に沿った写真はほとんどない。
一つヒントになったのが、並木書店(大通り19丁目)
で買った「大通公園」という良く見る「さっぽろ文庫」
の1冊だ。
この中に昔(本は昭和50年だから1975年)の大通りの
外側のビル、建物が書かれていた。
その中の大通り6丁目の駐車場の隣が
「札幌中央ルーテル教会」となっている。
これかもしれない。
そういえば建物の上に十字架があったような気が・・・
建物はアメリカ風の平屋だったと思うけれど、
中央の建物が三角屋根でその上に十字架があったかもしれない。
同じ本の見開きのところのカラー写真はテレビ塔から円山の方を
写したものなのだけど、その6丁目にわずかに青い屋根
が写っている。これがそうだと思う。
ほんの僅か写っているだけなので別な建物かもしれない。
だけど位置的にはここだと思う。
それで「ルーテル教会」を検索したけれど、最近の場所も違う
写真しか出てこない。

しかしこのルーテル教会ということは確かなような気がしてきた。
そういうフォークの集まりに場所を貸してくれそうだ。
仮に市の施設だったりしたら地図にも書かれていていいはずだ。
当時「ルーテル教会」と言っていただろうか?
よくわからない。
でもキリスト教っぽい感じはあった。
それじゃあ私が「コミュニティーセンター」と言う名前で
覚えているのは何故だろう?

その写真があったからって、どうしたことでもないのだけど、
見たらすっきりすると思う。



北海道2024札幌 1975

 月曜日から土曜日まで6日間札幌にいた。
旅行としては一番長かったように思う。
中島公園の脇のビジネスホテルにいた。
考えてみると住んでいた頃は中島公園に行った記憶は
たぶん1回しかない。
行く理由が無いから。
ジャズの世良譲さんとうちの会社の社長と一緒に
パークホテルに行った時だ。
なぜかそのシーンは鮮明に覚えている。
何しに行ったかは覚えていない。
池の脇を歩いた記憶がある。


だから今回初めてちゃんと公園を見たように思う。
とても綺麗な公園だった。
すすき野の隣にあるとは思えない。
小川が流れていてそれもとても綺麗だ。

芝生のエリアの中にレナード・バーンスタインの銅像があった。


この人は芸術の森美術館の脇の野外ステージにもパネルがあった。

そういえば札幌交響楽団で岩城宏之さんが主任だった時と私が
札幌にいた時がちょうど同じ時期で、うちの社長が岩城さんと
仲が良かったので社長が札幌に来た時は岩城さんと会っていたようだ。
一度くらいご一緒させて欲しかったけれど叶わなかった。
社長はバーンスタインさんにも会っていたと思う。

バーンスタインは札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル
を開設して、その年に亡くなっている。1990年のことだ。
1990年と言うと私はもう横浜に住んでいた。
ずいぶん前のことだ。
バーンスタインも社長ももう亡くなっている。
あの頃の人は生きている人はいるのだろうか?

今回知人の家を訪ねてみた。
奥さんは既に亡くなっているのだけど、
もしいたら会いたいと思った。
電話番号もわからないので、住所を頼りに行った。
アパートはそのままあった。
まだそんなに古びていなかった。
しかしもう彼はそこに住んではいなかった。
そうだよね、とは思ったけれど
帰りの地下鉄駅まではすごく遠く感じた。

それから昔良く行ったとんかつ屋(玉藤)に行った。
昔は大通りの鉄塔の下にあったのだけど、
それがエスタの方に移った。
そしてそのエスタも倒産したので、東急のビルの上に
移った。お店は少し小さくなっていた。
でも味はおいしかった。

それから宮の沢の青い橋にも行ってみた。
このお店も昔は週1くらいで通った店だ。
元は手作りの家で前に木の橋があった。
今は普通のレストランになっていた。
少しはこだわった店であってほしかったけれど、
普通のレトロな喫茶店という感じだった。
昔はそこで何を食べたか忘れてしまった。
しかしお店のメニューの中にビーフシチューがあった。
その響きに懐かしいものがあった。
そうだ、たぶんビーフシチューみたいなものだった。
それでそれを注文しようとしたら今日はやっていないと言う。
とても残念だ。
まあ、作っている人も違うだろうし。

壁に昔のお店の写真があった。
帰り際に許可をもらって写真を撮った。

帰る時にお店の人と話をした。
二人居て二人ともかなりの高齢だった。
その一人と私が話していた時レジの奥の椅子で
ニコニコ話を聞いていた人がいた。
あの人はひょっとすると1980年頃やっていたご主人かもしれない。
「私も写真があるので後で送ります」
と言って住所を教えてもらった。
同じ場所でやっているようだがもう当時の面影は
かけらも無い。

聖地巡りとしてはそんなところだ。
住んでいたアパートは毎回行っているが、
今回は行かなかった。
時計台は行った。
時計台の向いに大阪屋というお店があって、うちの会社の
オーディオ製品を入れていた。
そのお店はまだ同じ場所にある。
時計台の周りは中国人だらけだ。
時計が鐘を鳴らすのを聴いていた。
1975年からずっと時計台は鐘を鳴らし続けて
そこに建っていた。
それはきっとすごいことだ。
札幌に赴任して最初の夜に時計台に来て
鐘がなるのを聴いていた。
時計台は何も変わっていない。

5/19/2024

北海道はどこへ行くの

 明日から1週間北海道に行くのだけど、
全く無計画だ。
いつものことだけど。
1日だけレンタカーを借りるのは決めた。
そうだなあ1週間誰とも話をすることは無いだろうな。
誰かに会うことを決めるとそのことで制約されてしまうし
いろいろ面倒だ。
カメラを持って歩き回るのがいい。

小さなキーボードを持ち歩いて、思いついたメロディー
を記録する、というのも考えたけど、
そんなこと実際に私がするとも思えない。
鼻歌を録音するくらいかな。

バスと電車(列車)だな。
住んでいた時にはほとんど乗らなかったから。
調べてみるとかなり時間と料金がかかるみたいだ。
時間が問題だな。
下手に遠くに行くと帰ってこれない。
横須賀みたいにどこからでも、とりあえず
歩いて帰ってこれる、という風には行かない。

ここも1週間空けるので、
生きて帰ってこれたらまた書こう。

5/18/2024

花はどこへ行った

 この恐ろしく古い歌の歌詞を変えて歌った。
FBに上げたのだけど恐らく誰も歌詞を聴いてくれていない。
一人Virginiaさんだけは聴いてくれているはず。
もうどうでもいいのだけど、
変えた歌詞も映像も見ていないことはわかった。
下手な歌詞で下手な映像であることは確かだけど
それにしても私が言いたかったことくらいは
わかってほしかった。
「懐かしい歌です」とか「私の原点です」とか
どうでもいい。

もう皆ウクライナのことは忘れようとしている。
そこにいる子供達のことも。
ガザの悲劇もアメリカの傘の下
忘れられようとしている。
大勢の子供達と共に。



時間のこと

 もう何年も前から「時間というものは存在しない」と
言ってきたけれど、たぶんそれは間違いないのだけれど。
その場合、物理で言う、
位置ゼロ(0)からある速度(V)である時間(T)
動いた時の距離(L)は
L=V×T
というのは一体どういう意味になるのだろう?
この式の上ではT時間後の位置はLなのだけれど
元の位置まで戻る場合はたぶん(ーV)とかにして
L=(ーV)×T=ーL
でL-L=0ということになるのだろう、きっと。
しかしここで時間を戻してもいいんだろうか?
L=V×(ーT)=ーL
でやはりL-L=0ということになるだろう。
学校ではどういう風に教えているのだろう?
「では時間を戻しましょう!」とは教えていにないだろう、きっと。

それはほっといて、この(T)と言うのは何だろう?
「時間というものは存在しない」と言ったからには
この(T)が何を意味するのかを言わなくてはいけない。
それを考えているのだけれど、
頭が働かない

5/15/2024

北海道に行こう

 と思っているのだけど、来週月曜日に出発だ。
いつものことではあるけれど旅行の日が近づくと
行きたくなくなる。
だいたい何しに行くんだよ!? と思ってしまう。
わざわざ辺鄙(笑)なところになんで行くか?
まあとにかく予約とかしてしまったから行くんだろうな。

5日間豊平川脇の怪しいホテルに宿泊。
ゲストハウス並みに安い。
大丈夫なのかなあ?
まあ、豊平川の景色がいいみたいだからそこにしたんだけど、
たぶん部屋の窓から豊平川が見えるはず。
指定しておいたから。

豊平川はいつだったかの夏に花火を見た。
あの頃は道路わきに駐車できた。
みんな車を停めて見ていた。
ホテルの豊平川の向いあたりに並川のアパートがあったはず。
豊平川にはそれくらいしか思い出は無い。

水曜日にはレンタカーを予約しているのだけど、
日高の方とか沙流川とかに行く予定だけど、
そこからどうするか不明。
思いつかなかったらその日に車を返そう。
日高からだと富良野に行けるかも。

望来と支笏湖と石狩の周辺は行ってみたい。

そういえば大雪山の銀河の滝のところは国道が無くなっているようだ。
いつからトンネルになったんだろう?
あの崖の間を走る道が無くなったのは寂しい。
乗鞍の頂上まで車で行けなくなったのの次くらいに寂しい。
オロフレ峠(旧道)とかも。私が居た頃は未舗装の道路だった。
北海道の人には「あの道は通るな」と言われてました。
でも一度降りたことがあったような気がする。
それがどうした?

何にも準備していないな。
どうしよう?

5/14/2024

韃靼人の踊り

 そんなわけでやりかけの録音を再度やった。
後半は12弦ギターのリードでやろうと思っていたのだけど、
左手の悪化が懸念されたのでピアノ(シンセ)でやることにした。
左手は単音のみ。

それはいいのだけどFBのコメントでこの曲のPOPSバージョンが
Stranger in Paradiseという曲だと知った。
トニーベネットがヒットさせたらしい。
しかし私はその曲を聴いたことがない。
かなり有名なヒット曲らしく他のバージョンも結構あるらしい。
それをなぜか知らなかった。
このボロディンの曲を初めて聴いたのは中学生の時だった。
トニーベネットがこの曲をヒットさせたのは私が小学校入る前だ。
だからどこかでトニーベネットを聴いたはずなのだけど、
全く記憶に無い。

だいたいこの曲をやろうと思ったのは、数週間前からこのメロディー
が頭に流れ出して「あれ?このメロディーなんだっけ?」
というのが始まりだった。
以前だったらすぐに曲がわかったはずだけど、
もう何十年もクラシックの曲はあまり聴くことがなかったから
すぐに思いつかなかった。
しかしロシア5人組のあたりだろうということは思いついたので
すぐにわかった。

ついでに思ったのだけど、
「中央アジアの草原にて」とかラベルの「ボレロ」なんかは
あれはトランスなんじゃないかと思う。
ああ、ボレロはもう恍惚状態だよね。
スネアの人が可哀そうなのであれはドラムのループか
シーケンサーでやった方がいい。
グリーグの「朝」なんかもそうだなあ。



5/13/2024

10時間眠った

 ロキソニンは効かなかったけれど10時間眠れた。
まったく目が覚めなかった。
痛みはまだ少し来る。
ピキピキと針で刺したような。

今日は朝から雨だ。
改修工事のスクリーンのせいで外は
印象派絵画の上からオイルを流したような景色だ。

もう一度ギターを弾いて録音し直したい
けれど、どうなんでしょう?先生
またひどくなるかな

5/12/2024

ロキソニン

 を買いに出たのだけど最初のスーパーは薬剤師が今日は不在とかで買えず、
2件目のハックは本日改装で休み、
えー、そんなことあるのか?!と思った。
3軒目のマツキヨで買えた。
でも昨日はバファリンは全く効かなかった、
今日の買ったロキソニンも全く効かない。
こういう神経系の痛みには効かないのかなぁ?
しょうがない。
でも痛みの頻度が下がって来たので、
今日はなんとか眠れるかもしれない。

痛みの原因に思いついた。
先日録音するのでギターをずっと弾いていた。
たぶんそれだ。
痛み出したのはその日の夜だったから。

ちょっと前、1年くらい前にも痛んだことがあった。
あの時は数時間で治った。
その時は重い荷物を運んだ時だった。
だから重い荷物には気を付けていた。
しかし久しぶりに弾いたギターには思い至らなかった。
気を付けなければ。


手が痛い

 今、朝の4:45。
1時頃から左手が痛み出した。
前から時々なるのだけれど、
子供の頃に左腕を複雑骨折したせいだ。
眠くなって「うとっ」とした瞬間に強い電気が走る。
一瞬にして目が覚める。
眠れそうな瞬間にショックが来る。
だから眠れない。
左腕をマッサージしたりしても治らない。
右を向いて寝ようが左を向こうが
うつぶせになろうが関係なく電気ショックが来る。
たぶんこれは脳が疑似的に痛みを発生させているのだろう。
何かの罰か?

それと4時間以上闘っていた。
でももう疲れた。
眠るのは諦めて起きることにした。
ちょっと寒いのでエアコンの暖房を入れた。
家族は来週まで香港に行っているので、
今は私と猫のハッチだけだ。
ハッチは私が部屋のドアーを開けたのに気が付いて
やってきた。
私の代わりに私のベッドで寝ている。
気持ちよさそうだ。

東の空がすっかり明るくなった。

5/10/2024

2022年暮れから今まで一番アクセスの多いブログ

 何だろう?と思って調べたら「記憶 69年新宿」とか
「宇宙人との遭遇」だった。
考えてみると不思議な話で、基本的に4人の人が来ている
ことわかってる。しかし他には宣伝もしていないし、SNSで
言及したりもしていない。
自分で検索しようとしても出てこないこのブログに20人近い
人がアクセスしている。これはどうやって探したんだろう?
というか何ゆえにこの記事にたどり着き読んだのだろう?
もっと以前までたどると1700アクセスもある記事がある。
しかしその後一度ここを非公開にしたことがあったので
アクセスはほとんどゼロになった。
4人の人は知っているはずだけれど、特に読んで楽しかったり
何か得することもないはず。

公開にして定期的にアクセスしておかないとGoogleさんに
削除されてしまうので何か書いているだけ。
私が死んだら誰かが残してくれない限り消滅するだろう。
家族にはこれは知らせていない。
でも誰かひとりくらいには知らせておこうかと思う。




5/09/2024

暖房入れた

 もう4月も10日だけど、
なんとなく寒いので暖房を入れた。
外気温は14度だ。
寒いよね。
蒸し暑いのと寒いのどっちがいい?と言われれば
寒い方をとる。
だけど寒いのは気温のせいだけじゃない。
夏が心の状態であるのと同じく
寒いのも心の状態だ。
たぶん

私の父が死んだ歳に近づいている。
あの頃はとても早く死んだなあ、と感じていた
しかし今その頃の年に近づいてみると
「ああ、もうすぐだ」というのと
「あの歳まではけっこう大変だな」と思う。

友人も何人も逝ってしまった。
昔はそんなこと考えもしなかった。
まあ、いつ行ってもおかしくはない。

だけどもう少しだ。
もう少しだけ生きていたい。

5/07/2024

また嫌な夢

 昨日の夢はひどかった。
最初のは学校でプログラムを組むレーポートを出す夢。
だいたい化学科で何でプログラムなんだ?
私は誰かからプログラムのプリントアウトをもらって
その分厚い(10cmくらい)A3サイズのプリントアウト
を持って提出しに行こうとする。
すると「コンパイルしたプログラムとソースコードも必要、
それがオリジナルで完全に一致しない場合は誰かのコピーとみなす」
というアナウンスがある。
「あ、しょうがないなあ、じゃあ自分でソースコードを作るか・・」
と思って分厚いプリントを見直す・・・
という作業をしている夢。

でも、結構リアルだった。
化学科でフォートラン以外のプログラムを組んだことは無かった
けれど、その後の仕事とごっちゃになっている。
分厚い紙の束の重さを夢の中で感じていた。

その次の夢はもっとひどい夢だった。
どこかの会社にやとわれで上司をやっていた。
たぶん30歳台だと思う。
その会社を辞めることになって、会社を出る時に
「みなさん、大変お世話になりましたー」と大きな声で言う。
(実際に声が出ていたか不明)
しかし皆仕事をしたままで誰もこっちを振り向かない。
私はそのまま会社を出る。
と言う夢。

  これもなにかすごくリアルだった。
  誰にも期待されておらず、成果も出せなかった。
  そういうリアルさがあった。

友人(誰だったろう?)と一緒にバスで渋谷に行こうと思う。
そこからバスに乗ってどこかで乗り換えなければいけない。
バスに乗っていると友人が
「乗り換え場所で降りるの忘れた!」
と言う。
しかたなくバスを降りて歩く。
全くどこを歩いているのかわからない。

という夢

5/05/2024

2度目のコロナ発病4日目

 最初の日が一番辛かった。
後は39度と36度を行ったり来たり。
今日は発病多分4日目だけど一日平熱に戻ったらしい。
さっき4日ぶりにちゃんとした食事をした。
と言っても簡単な食事だが。
オニギリ1個、タマゴスープ、肉じゃがをレンゲに1杯、
あとほうじ茶。
今のところ無事だ。

ベッドでずっと寝ていたのでその辺にあるブルーレイやDVD
を見ていた。デッキに録画してあったのもいくつか見た。
「クライマーズ・ハイ」を見た。
最初にあの小説を読んだ時、電車の中で思わず涙を流して
しまったのを思い出した。
123便のことではなく途中に短く挿入された山登りのシーンだ。
映画でもやはりそのシーンが細切れで出てくる。
やっぱり涙が出た。

タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」を見た。
この映画は「ベニスに死す」と同じだと思った。
最初に出てくる兵士(たぶん主人公)はあの少年に会った時から
少年を愛してしまう。
その思い(たぶん監督の)はそこそこに見え隠れしている。
少年の入浴シーン、薄明かりの少年の横顔、セーターに着替えた
少年の姿、少年が上司の兵士に抱き着くシーン、
それになにより「ベニスに死す」の少年と同じ12歳だ。
だけどこっちの少年の方がはるかに子供に見える。
途中の主人公の兵士は医療班の女性兵士を好きになる(かのように)
描かれているがあれはどう見てもおかしい。
そうであるならば兵士をあんなにひどい目に合わせたりしない。
あれではまるで兵士はストレイトだと弁解しているようだ。
たぶんそうしなくてはいけない理由があったのだろう。
「ベニスに死す」では主人公のおっさんが最後死んでしまうが、
「僕の村」では最後少年が死んでしまう。
これはかなりショッキングだ。
少年への愛を昇華させるためだったのだろう。








5/04/2024

2度目のコロナ

 原因は明らかにあのエキストラ参加だと思う。
百人以上同じ場所に何時間もいたのだから。
しかし俳優さんや他の人は大丈夫だったとうか?
たぶん何割かは罹患したと思う。
原因が誰かはわからない。
咳とかしていた人は居なかったから。
あそこでゴホゴホやってたら追い出されたと思う。
それに体温検査も毎回やってたし。
まあ、しかたないね。