8/11/2015

コメット・イケヤ  Comet Ikeya


1966年のことを調べていたら「コメットイケヤ」のことが書かれていた。
当時NHK・FMで放送されたラジオドラマだ。
ドラマはステレオ録音の効果を最大に活かしたつくりをしていた。
YouTubeに2つのビデオがあるが、1つはモノラル録音
https://www.youtube.com/watch?v=5n7c5h75Ae8
でもうひとつはステレオ録音だが、
https://www.youtube.com/watch?v=gx9jiA24Zeg
両者ともテープのねじれやヘッドずれで完璧な音ではない。
しかし、ステレオ録音の方はまだ聞ける。
元もとの音の状態を完全ではないけれど、再現できている。
私もこの放送をテープに録音していた。そのテープがみつからない。
あるいは妹のところにあるのかもしれない。

2025年2月27日追記:音の良いのを保存した。
https://youtu.be/jSzMpe3kwos

この放送で一番記憶に残っていたのは、途中で男と少女が歌う
フランス語の子守唄Au clair de la lune だった。
この歌をいつか歌いたいと思った。
途中フランス語独特の発音がある。
それを歌えたらいいな、と思った。
高校1年生だった。

今、わかったけれど世界最古の録音された音は1860年4月9日に
フランスの実験的な音声記録装置に記録された女性の歌う
この歌だそうだ。エジソンよりも17年早い。

Au clair de la lune
 Au clair de la lune, mon ami Pierrot
 Prete-moi ta plume, pour ecrire un mot.
 Ma chandelle est morte, je n'ai plus de feu.
 Ouvre-moi ta porte, pour l'amour de Dieu.
 Au clair de la lune, Pierrot repondit :
 _ Je n'ai pas de plume, je suis dans mon lit.
 Va chez la voisine, je crois qu'elle y est
 Car dans sa cuisine, on bat le briquet.
 Au clair de la lune, l'aimable lubin
 Frappe chez la brune, elle repond soudain
 _ Qui frappe de la sorte ?, il dit a son tour
 _ Ouvrez votre porte pour le Dieu d'Amour.
 Au clair de la lune, on n'y voit qu'un peu
 On chercha la plume, on chercha du feu
 En cherchant d'la sorte je n'sais c'qu'on trouva
 Mais je sais qu'la porte sur eux se ferma.

8/10/2015

1965年~1970年頃のフォークソング American folk songs in Japan 1965

忘れそうなことなので書いておこう。
1965年というと中学生か高校生の頃だ。
最初に聴いたアメリカンフォークソングは何だったろう?
その頃は兄が聴いていたのを又聞きしていた。だから兄にきいてみるのが手っ取り早いの
だろうけれど、そうなると自分の記憶ではなくなってしまうので、思い出してみよう。

古そうなのでは、Kingston Trioの「Tom Dooly」だろうか。あるいはThe Highwaymenの
「漕げよマイケル Michael Row the boat ashore」あたりか。今読むとおかしな名前だ。
「漕げよ!マイケル」「やだよ!」「なんだよ!漕げよ!」って感じだ。
マイケルは在るであろう岸に向けてただひたすら漕いでいるだけなのに。
ほっといてやれよ、と思う。マイケルは今の自分だ。
それからPete SeagerのThis land is your landがあった。これはWoody Guthrieの曲だけれど、
ウッディ自身の歌がラジオで聴かれるようになったのはだいぶ後のように思う。

ラジオ(AM放送)でよく聴かれた曲はこのあたりの曲だと思う。
FM放送は東海大学が試験放送でステレオ放送を流していたけれど、この頃はクラシック
ばかり聴いていたせいか、FMでアメリカンフォークが流れたのは覚えていない。
60年も後期になるとブラザースフォーやPP&Mのコンサートをまるごと流していたことも
あったように思う。
テレビでも同様、PP&Mやブラザースフォーのコンサートを1時間番組で流していた。
あの頃ビデオデッキがあったらさぞかし貴重な録画ができたと思う。

70年前後は日本のフォークも盛んになってきたと同時に著作権の問題も起きてきた
ように思う。記憶にあるのは1972年のFM東海(か東京)の放送でPink Floydの東京公演
のThe Dark Side of the Moonを流したことがあった。その録音が残っているが、アナウンサーは
「これはいったいどこのバンドのなんという曲なんでしょうか・・・」と言っていた。

話を元に戻してフォークソングだけれど、評論家という人達がいた。
その人達の影響は強かった。
嘘も平気で言っていた。
Bob Dylanがエレキギターを持ってステージに上がって客からのブーイングに泣き泣き
ステージを降りた、とかいう話も当時は真実として語られていた。
誰が言ったか知らないが、その評論家の一人だ。
あとで映像を見たが客には大受けだった。
レコードには歌詞カードが必ず入っていたが、大嘘だった。
ほとんどでたらめに近い英語の歌詞もあった。

フォークソング歌集も出ていた。
アメリカ人でも知らなそうな古い歌が載った歌集もあった。
ギターコードが付いていたものもあるが、ほとんど大嘘だった。
当時まともな教則本として有名だったのがPete Seegerのバンジョー教則本だ。
ギターのことも少し書かれていた。
これはしかし教則本というよりも歴史書に近いようなものだったと記憶する。
フレーリングの類の弾き方やフィンガーピッキングの方法が楽譜と共に書かれていた。
この本はサイズが大きかった。あれは何サイズと言うのだろう?
A3とA4の中間くらいだったように思う。
その本にはブルーグラスバンジョーの弾き方はほとんど書かれていなかったように思う。
ブルーグラスバンジョーの教則本には東理夫のすばらしい本があった。
この本を最初からまじめにやっていくとかなり上達した。
特にスクラッグススタイルやドンレノスタイルやその当時の最新の弾き方が楽譜付きで
1曲全部紹介されていた。

ギターの方はPP&Mのギター教則本が出ていたと思う。・・・思う。
私は音楽雑誌についていた付録の教則本で練習した。
この教則本はすごかった。曲は有名なところは網羅していた。フィンガーピッキングも
きちんとした楽譜で出ていた。むしろきちんとしすぎて弾けないところもあった。
私のフィンガーピッキングは全部これで勉強したようなものだ。

PP&M以外のバンド、Brothers FourやKingston Trioなどは一応楽譜があった。アメリカの
出版社の楽譜だった。しかしコードも弾き方もほんとうだろうか?と思わせる内容だったと思う。
・・・あれでほんとうに弾けたのだろうか?
だいたいキーのままのコードで書かれていたから、カポ付きで書かれていたそのPP&Mの
教則本とは違い1カポのGで書けばいいものをG#から始まっていた。

そんな事情だったので、あの頃はみなレコードを聴いてとっていた。
それも当時の事情があって、すんなりとは行かなかった。
まずレコードプレーヤーの回転がいいかげん。
当時はほとんどアナログ制御だったので(クリスタルを使っていたとしても)聴いているうちに
微妙に回転数が変わってきた。
それに加えて音をとっているギターのチューニングも当時はチューナーというものは無く、
音叉か笛(ハーモニカの1音だけのやつ)で合わせていた。これがけっこういい加減。
なので微妙なコードはまず聞き取れなかった。
今だとCDとチューナーで合わせたギターは素晴らしく響きあうのがわかる。

それで最初に戻って、This Land is Your Landだけれど、これをみな歌っていた。
特に何も考えずfrom California to the NewYour island・・・だ。
当時の基本姿勢として、歌の内容はあまり考えない、というのがあったように思う。
反戦歌も古い民謡も外国の歌も同じように歌っていた。
たぶんPP&Mの日本公演の時が最初だと思うけれどThis Landの歌の時に日本の
地名を入れて歌った。From Okinawa to Hokkaidoと歌っていた。
それからだと思う。この歌を歌うときに皆意識し出したのは。
「ああ、これはアメリカの歌なんだ」と。
それからみなこのPP&M版の歌詞で歌ったように思う。
Mike Seegerの来日の時もその沖縄が入った歌詞だったように思う。

1965年~1970年頃の学校やアマチュアのコンサートは今考えるとひどいものだった。
・・・日本のフォークソングという流れも同時平行してあったのだけどね。オリジナルの歌を
歌い始めた日本人のフォークシンガーが同じ頃生まれていた。
どうもそれとは別の流れでアメリカン(外国)フォークはあったように思う。
PP&M,Kingston Trio,Brothers Four,Bob Dlylan,Donovan,Joan Baez,,,,,etc.
このあたりのバンド、グループのファンの人達はどうも吉田拓郎、かぐや姫などの流れ
とは別のように思う。

それでアメリカンフォークではあったのだけど、誰もが英語に堪能であるわけではなく、
むしろあまり得意でない人が多かったように思う。
当時色々な学校の文化祭や学園祭に行ったけれど、ほんとにひどい英語で歌っている
人達もいた。ほとんどカタカナで書かれた歌詞カードをそのまま歌っていた。
あるいは英語の発音がわからないからローマ字読みで歌っている人達もいた。
今でもはっきり覚えているのはある学校の学園祭でブラザーズフォーの「北京の55日」
を歌っていたグループだ。「ポネ、ポネポネポネ・・」と歌っていた。
その前になんで北京の55日だ?と、今思うけれど。当時は流行っていたのだろう。

その頃の流れで今もやってる人達もいるわけで、当時のまま演奏し歌っている。
各地のライブスポットでは今でもそれが聴ける。いや、ポネポネが聴けるかどうかは
わからないけれど、似たような英語発音は聴ける。
最近その手のライブに一日いた。
うまい人もいるし、そうでない人もいる。
ポリシーをもった人もいるし、そうでない人もいる。
時間が止まっているようでもあり、
確実に時間においていかれているようでもある。
しかし、これが我々の時間の先端なのだと思う。

8/08/2015

Disneyland TV series 「テレビ番組ディズニーランド」

「ディズニーランド」というテレビ番組があった。
はっきりは記憶していないが、「冒険の国」「未来の国」「おとぎの国」という
設定で様々な内容の番組をやっていた。
たぶんもう一度見れば思い出すのだろうけど、ひとつだけとてもよく覚えて
いるお話がある。それはBeethovenの物語だった。
私は中学生だった。
その番組ではベートーヴェンの伝記とともにバックに音楽が流れていた。
不思議なことにそのメロディーをほとんど知っていた。
そのころテープレコーダー(オープンリール)があって、それでテレビやラジオ
を録音して楽しんでいた。ディズニーランドのその番組も録音していた。
(今は残念ながら残っていない、BASFのテープで青いケースに入れていた)
それでそのテープを何度も聞いてほとんど覚えてしまった。

ベートーヴェンを聞くようになったのはそれからだ。
有名な曲、それほど有名でない曲ほとんどを聴いた。

今でもはっきり覚えているのはベートーヴェンがどこかの宮殿のような
建物の階段を降りてくるシーンで流れていたピアノ協奏曲第5番の第一楽章だ。
今でもその曲を聴くとテレビのシーンを思い出す。

たぶんあのシリーズでは他の音楽家もやったと思う。
でもベートーヴェン以外全く覚えていない。

8/07/2015

札幌のパルコで買った本

ひとつ思い出したので忘れないうちに書いておこう。

札幌のパルコで買った本をずっと持っていた。それを20年ほど前にヤフオクで売った。
その本を思い出した。
稲垣足穂の「月光少年」と(違った!月球儀少年)という本だった。(確か)
今検索しても出てこない。
でも、確かこのタイトルだったと思うのだが。
B5かA4くらいの、厚さが4,5センチはあった大きな本だった。
定価が¥10800だったように思う。¥9800だったかもしれない。
(この値段も怪しい)
どっちかだと思う。
その写真も残っていないけれど、群青色の本だった。
こまかな字で稲垣足穂のエッセイがつまっていた。

思い出したのは、以前書いた「偶然とは思えぬ偶然」の時に書いた
大倉山記念館のことを調べていて、映画「1999年の夏休み」を思い至ったからだ。
あの映画、地味に人気があるようだけれど、みなわかっているのか?
と思う。
あの話の原作者、萩尾望都が男であったならわかるのだが、女性があの話を書いた
というのはどういう気持ちからなのだろう。

あの話は、ひょっとすると作った側の思いとはまったく別の思いを受けて側が持って
いるのではないかとさえ思える。

Daydream Believer everyday  毎日、デイドリームビリーバー

セブンイレブンに行くとこの曲がずっとかかっている。
テレビを見ると、たぶん、一週間に1回はこの曲を聞く。
世の中の40%くらいの人がこの歌を知ってそうだ。
そのうちの40%くらいの人は歌のタイトルを知らなそうだ。
残りの40%くらいの人はこれはモンキーズのオリジナルだと思ってそうだ。
残り60%のうち40%くらいは忌野清志郎が作ったと思ってそうだ。

Johnさんが亡くなった時が68歳だった。
もうじきその歳になる。
あと数年。
でもこの歌はまだまだずっと歌い継がれて行きそうだ。

8/06/2015

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?(2)

知人に早稲田の人がいるのでその人に聞いてみた。
歌をやってる人なので話が早かった。
ザリガニーズは先輩にあたるそうだ。
それで直接ザリガニーズの人に聞いてくれたそうだ。
しかし、オオタさんのことはわからず、「あの歌詞はもっと前からあった」
ということだった。
そうなると、もう調べる手立てが無い。

たぶん、あの当時にピートシーガの歌を聞いて日本語歌詞にした人が
いたのだろう。
その後、あれほど皆に歌われている歌詞なのに、オオタタカシという
名前しか表に出ていない。
いったいどういう人なのだろう?

8/03/2015

ハスカップ酒

「ハマナスはバラ科なんだよ・・・」
初めて北海道に行った時、小沼が言っていた。
あれは8月だった。
暑い東京を後にまだ高速道路ができていない国道4号をひたすら走った。

「ハマナスはバラ科なんだよ、だからとげがある」
サロマ湖の環状になった先端の砂の道に車を停めてハマナスの花を見ていた。
「別に特別きれいな花じゃない」
その頃あの歌が流行っていた。


「ハスカップのお酒があるんですよ・・・」
友人が言った。
あれは確か釧路だった。
小沼じゃない。

そのハスカップという言葉の響きが良かった。
なぜだろう?
すごく北海道っぽい語感がした。
見たこともないのに。

ハスカップがどんな植物か知らない。
だから頭の中ではハマナスのような印象を持っていた。

「ハスカップのお酒を送ったよ」
友人が言った。
あれは深川のアパートだった。
四角い青い瓶の小ぶりのお酒だった。

私はお酒を飲まない。
すっぱかった。

8/01/2015

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?Where did Japanese "Where have all the flowers gone?" lyric come from?

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?
Where did Japanese "Where have all the flowers gone?" come from?
Who is Takashi Ohta?
and Where has he gone?

以前NHKで放送された1時間半番組の「花はどこへ行った、静かなる反戦の祈り」
がYouTubeにあったのでもう一度見てみた。
良く出来た番組だと思った。
John Stewartもコメントを言っていた。彼らがあの歌をヒットさせた頃には反戦
の意味はなかったとか言っていた。確かにそうでもなければ大統領の前では歌えない
だろう。
それはいいのだけど、日本語のあの歌詞はいったい誰が書いたのだろう?
それについては説明されていない。
ネットで検索してみると「おおたたかし作詞(安井かずみ補作)」とある。
安井かずみはいいとして、この”おおたたかし”氏とは誰だろう?
検索しても出てこない。
どうやらザ・リガニーズがおおたたかし氏の歌詞で歌ったのが日本で最初の日本語
によるこの歌だったらしい。
それではおおたたかしという人はザ・リガニーズのメンバーだったのだろうか?
と思い、ザ・リガニーズを調べてもメンバーに”おおた”という人はいない。
実際問題、これ以上の情報が出てこない。

1960年から1970年頃が日本での外国フォークソングが流行った頃だと思うけれど、
英語歌詞で歌う人と日本語歌詞で歌う人は半々くらいだったのではないだろうか?
当時いろいろなアマチュアコンサートに行ったけれど、日本語で歌われていた
ことが多かったような気がする。
おおたさんの日本語歌詞については今になっていろいろ言ってる人がいるけれど、
何か文句のある人は1965年に戻って言ってきてほしいですね。
ショーロホフもいいけれど、おおたさんを探してほしい。

7/17/2015

It came upon a midnight clear

日本の唱歌を最近歌っているのだけれど、
ちょっと前に「灯台守」もいいな、と思ってスタジオで録音した。
それからしばらくして、YouTubeでクリスマスソングをいろいろ聴いていた。
真夏にクリスマスソングもいいと思った。
Daryl Hallの家で録音されたクリスマス音楽があって、それがとても良かった。
John Oatesと一緒に歌っているのだけれど、特に"It came upon a midnight clear"がいいと思った。
コードを取って歌えるようにした。
それまで気がつかなかったのだけれど、今日「灯台守」はどこの民謡だったろう?と思って
調べたら、それが実にこの歌だった。
偶然だったのだろうか?
それとも記憶のどこかで覚えていたのだろうか?

7/05/2015

Farthe Along ...we will...

思い出した。
The Byrdsの洋盤を買ったのは確か御茶ノ水のハーモニーだった。
買って家に帰って聴いてみたら、レコードの裏面に大きな歪があって、取り替えてもらおう
とお店に持って行ったら在庫が無かった。
それでじゃあ他のレコードと交換して、ということで選んだのがフローティングハウスバンドのレコードだった。何も無しにフローティングハウスバンドを選ぶわけがない。

それはいいのだけど、その後バーズのレコードが入ったよ、という連絡を受けていたのだけれど、
買いに行かなかった。それでそうこうしているうちに札幌に行ってしまい、そのレコードを買いそびれてしまった。FMで録音した音が残っていて、あのレコードを欲しいと思っていたけれど、お店では見つけられなかった。
それで数十年が経ってしまい、結局入手できなかったのだけれど、友人宅に行った時に彼がLPを持っていて、「そうかそれじゃあ、これあげる」と言ってくれた。
もうすでにCDが出ている時代だったけれど、LPは嬉しかった。

この曲はすごくアコースティックな雰囲気で好きだ。
コーラスもきれいだ。

もうだんだんこの世の中にいられる時間も後半に入っているけれど、
宇宙の仕組みや、人類がどこまで進化するのか、あるいは
まだわかっていないもろもろのことなど、
ずっと先に我々は知るのだろうか?
たぶん歌のように私がそれを知るのは天国に行ってからだろう。

Farther along we'll know all about it
Farther along we'll understand why
Cheer up my brother live in the sunshine
We'll understand it all by and by

7/03/2015

Johnさんのこと

ジョンさんは一番古いメール友達の1人だ。
最初にメールをくれたのは私が以前やっていたYouTubeチャンネルのThe Floating House Bandの動画について書いてきた時だった。

その前にThe Floating House Bnadだが、これはお茶の水の(確か前に書いた)レコードショップ「ハーモニー」でたまたま見つけたレコードだった。ジャケット写真で買ってしまったレコードの一枚だった。それを聞いてすごく良かったので自分達のバンドでもやろうということになって何曲かをやったと思う。

それで、勝手に彼らのレコードをアップしていたのだけれど、それを見てジョンさんがメールをくれた。ジョンさんは当時Floating Hause Bnadの人と一緒に暮らしていて(サンフランシスコで)、
バンドの誰かに彼女をとられて恨みがあるということだった。
しかしそれとは関係なくあのレコードには入っていないいい曲があるよ。と言っていた。
それが始まりだった。それからもう6年くらいになるがメールをやりとりしている。

面白いことにジョンさんと私の過ごしてきた人生は非常に似ている。
話始めてそのことがだんだん色々なことで共通していることがわかり、二人で面白がった。
まず私としては珍しく同い年だった。
彼は写真家だった。またギター(Martin G-18)の古いのを持っていて弾いている。
彼の元の家族関係と今の家族関係は私と全く同じだった。
それから今まで手に入れたお金、遣ってきたお金の額がほぼ同じだった。
細かなことは思い出せないが、あらゆることでシンクロしていた。

以前はほとんど毎日メールをやりとりしていたが、今は時々だがやりとりしている。
今、どんな状況でどんな風に考えているか、どちらかが書いたものは互いにほとんど同じような考えで、思いで、心境でいることがわかった。

これは非常に不思議なことだ。
どちらが先に書いても同じだ。
日本とアメリカと遠く離れているのに。
向こうが市役所に行って来たと書いてくると、私もほぼ同じ時に区役所に行っていた。
年金の話をしたら、彼は私が金に困窮していることを知っていたので言わなかったけれど、かれもほぼ同額の年金を受けているという。

旅行できるお金ができたら一度ユタまで行って、会いたいと思う。

7/01/2015

柿崎さんのこと

柿崎さんは、仲間で会社を作った時ソフトをやっていた。
彼は私の唯一の同い年の友達だった。
彼は野太い声で話をした。
いつもおかしなことを言って私を笑わせていた。
大きな工場の機械の下で一緒に徹夜もした。

会社を変わって彼とは別の会社を始めた。
彼は確かソフト関連の会社に移った。
数年は会うことはなかったけれど、知人からは一緒にスキーに行ったとか聞いていた。
また彼は元同じ会社にいた女性と結婚して子供もできたと聞いていた。

それで、どうしてるだろうかと、彼の新しい家に電話してみた。
奥さんが出た。
「ああ、元気ですか?」彼女は言った。
「カキちゃんいます?」私は聞いた。
「え?」そのあと暫く沈黙があった。どうしたのかな、と思った。
「本当に聞いてないの?」彼女は言った。ちょっときつい感じだった。
「なんで? どうした!?」私は全くわからなかった。

それから彼が心筋梗塞で急逝したことを知った。
暫く声が出なかった。
泣いた。
電話の向こうで「一度会いに来て」と言っていた。

その後、同じ会社をやっていた人を誘って、彼と一緒に彼の家に行った。
仏壇にあった写真は何かの冗談のように思えた。

同い年の日本人の友達は彼が最後だった。
あの時、まだ30台だった。