10/31/2015

スーパーストリングス理論

世界がどこかの管弦楽団の演奏している旋律だとすると。
スーパーストリングスだ。超弦楽ね。
あっちのスーパーストリング(超ひも)理論はよく知らないけど。

しかしNHKで時々やっているコズミックフロントや数学理論の特集などをみても、
結局何もわかっていないんじゃない? と思う。

世界が人間の意識の上で成り立っているという考えはちょっと無理があるような気がする。
つまり人間がいなかったら世界も無い。
というのは動物にとって失礼だろう。
人間が他の動物から進化してきたとすると人間のいなかった時代もあったわけだから。

それから世界は自分の意識の中だけで存在する。という人もいるね。
自分が死んだら世界も終わる。
自分が死んだら他の人の意識なんて意味がなくなる。

あるいは世界は誰かのコンピュータの中の世界でしかないとか。
これはある程度賛同できるけれど、前にも書いたように”いわゆるコンピュータ”ではないだろう。
それに極めて似たシステム。
たぶん。
光がシステムクロックのような役目をしている。
だから光を超えることはできない。
とかなんとか。

時々、チューナーが合ってると言っているのに、
どうしてもチューニングが合わない時がある。
少し落としたり、上げたりした方がしっくりくる。

昔はチューナーが無かったから音叉で合わせていた。
当時の録音を聞いてみると、
「合ってねえなぁ~」
あれでよくやっていたと思う。









10/28/2015

誰かが弾いているピアノの旋律

要するにこの世界は誰かが弾いてるピアノの旋律のようなものなのだろう。
我々は旋律だ。
旋律にとってそれを誰が弾いているかを知ることはできない。
ただそれがある決まった法則によって流れていることは知ることができるかもしれない。
一つ一つの音が他の音とどのような関係にあるのかはわかるだろう。

旋律にとってピアニストは別次元のものなのだと思う。
この関係はコンピュータプログラムとプログラムによって動いているオブジェクトの関係と同じだ。

あるいはもっと大きなものかもしれない。
壮大なオーケストラによって奏でられている終わりの無いシンフォニーかもしれない。
私はその音楽の中のコントラバスの低い旋律の一部かもしれない。
あるいはピッコロの鋭く響くたった一音かもしれない。その音はそのままコンサートホールを
突き抜け消えて行く。まだ交響曲は終わっていないのに。

そういえば「天上の音楽」という曲があったなあ。あれはヘンデルだったかな?
いや、ヘンデルは「水上の音楽だ」。
モーツアルトだったかな?まあいいいや、
音楽と世界の構造の類似点に気が付いたのはきっとはるか昔なんだろう。
たぶん古代の哲学者の方がわかっていたのだろう。



10/25/2015

Thick as a brick 「ジェラルドの汚れ無き世界」


あれはまだ学生の頃だった。
FMでこれを全曲放送していた。
FM東京だろう。
早速レコードを買いに行った。

邦題の「ジェラルドの汚れ無き世界」、当時は別に気にもとめなかった。
それよりもこの音楽のタイトな完成された世界がすごいと思っていた。
ジャケットに何が書かれていようが関係なかった。
でも、このジャケットは素晴らしかった。
(当時はそう思っていたのだけれど)新聞記事をそのままジャケットにしていた。
これは実際にあった話だろうと思っていた。
これがどういう話題でどういうふうにジェスロ・タルと関係しているのかなど全く知らなかった。
今見てみると左上にJHETHRO TULLというロゴがあるが、当時は「怪しい」とさえ思わなかった。

これは一体何の記事だったのだろう?と改めて思った。
これは何が書いてあるんだろう?と初めて読もうという気になった。
「Thick As A Brick」というのはどうやらこの写真の少年が書いた(とされる)「詩」のようだ。
大見出しと中見出しにはこの9歳の少年の名前がジェラルド・リトルミルトン・ボストックと書かれている。
リトルミルトンというのは文豪ミルトンの名前を茶化してつけられている。
そして、そのジェラルドの勝ち取った受賞が失格になったと書かれている。
その失格を宣告したのはThe Society for literary advancement and gestationとなっている。
これは「文学的な進歩と妊娠のための協会」ということからして変だ。
そのあと、彼がどういう少年でどういう背景でそうなったのかが書かれている。
また家族がその受賞(賞金)を失っていかに失望しているかなど書かれている。
めんどうなので読まない。
他の記事には54歳の女性がラリって頭を怪我したとか、フルートとチェロのアンサンブルの
コンサートが行われたが一部観客のせいで中断させられたとか、
全部読んでみると面白いかも。
”売ります買います”の所にはLサイズの柔道着とかスワヒリ語のレコード求む、とかある。
と、ここまでネット上の画像を見て書いたが、
自分のレコードがみつからない。
どこ行ったろう?

追記:
ところでこの写真は何だったんだろう?
読んでみるとこれはこの新聞記事の数週間前に行われた詩の授賞式の時の写真らしい。
左から、主催者のClive 'Polly' Parritt、少年の両親、本人(Gerald Bostock)、
Julia(彼が詩を書いているジェラルドの仲良し)
とか。




 


10/24/2015

土星・アンドロメダ・オリオン・CCD・ペルチエ・双眼鏡

秋葉原で会社をやっていた頃の話だけれど、
昼休みや夕方はだいたい街を散策していた。
秋葉原と御徒町の中間ぐらいに望遠鏡や顕微鏡を売っている専門店があった。
確か「アトム社」と言ったと思う。
現在は「スターベース」という会社になっているようだけれど、現在その店のある
場所とは山手線を隔てて反対側だったような気がする。(怪しいけれど)

ある日の夕方、まだ太陽が完全には沈んでいなかったと思うけれど、
その店の前で店員さんが反射望遠鏡(確かビクセン)を組み立てていた。
一度そこを通り過ぎて、御徒町から戻ってまたその前を通ったら店員さんが
望遠鏡を覗いていた。
「何か見えるんですか?」と私が聞くと、
「ちょうど今土星が見えています。輪は今の時期見づらいですが・・・どうぞ」
と言って私に場所をゆずってくれた。
アイピースをのぞくと、ゆらゆらと土星がそれとわかる形で見えた。
私は正直、感動した。
秋葉原のしかもまだそんなに暗くない夕方に土星が肉眼で見えたことに
驚き、感動した。
その後店員さんが何かその望遠鏡について説明してくれたが、全く覚えていない。
それよりもその土星の姿が忘れられなかった。

それからしばらくして、子供のおもちゃを買いに行ったお店で、望遠鏡を売っていた。
鏡筒と簡単な三脚がついたおもちゃのようなものだった。
それを買ってみようと思った。
家に帰って月を見てみた、とてもきれいに見えた。
星はちょっと滲んでさすがにおもちゃだった。
どうも私はただ確かめるためだけに何かを買うことが多い。
確かめたらもう満足してしまってどうでもよくなる。

それで、おもちゃでもかなり見えることがわかり、あの土星を見たような望遠鏡は
どうだろう?と思いついた。
あの秋葉原のお店に見に行った。
あの店員さんがいた。
買えそうな値段のものを選らんだ。
タカハシの76mm屈折と赤道義を買った。
今だったら絶対に買えない金額だった。
反射か屈折か迷ったが屈折にした。

夜にセットして見てみた。
正確な北がわからなかった(北の空が家に隠れて見えなかった)ので方位磁石で
合わせて微調節した。
確かにおもちゃのものよりずっときれいに見えた。
毎日見ているとだんだん慣れてきて、今の時間空のどの方角がどの星座かが
わかるようになる。
星雲は見えないだろうかと、アンドロメダを探した。
「見えた」、見えたけれどぼやっとしている。
当然なのだけれど、まあこんなものか、と思った。
肉眼できれいに見える星雲はオリオンだろう。
横浜でもきれいに見えた。
あの望遠鏡では本当に楽しんだ。

それから、その頃実験的な報告がされていた冷却CCDを仕事半分で作ってみた。
とりあえずSONYの産業用CCDカメラを分解してCCDを外し、その後ろに銅で
冷却器を付けそれにペルチエ素子を付けた。
SONYのCCDカメラはCCDの蓄積時間を外部から変えることができた。
フィルムカメラのシャッター開放に相当することができたので、開放のタイミングと
CCDから一度だけ流れ出てくる映像信号を取り込む画像メモリーも作った。
それでアンドロメダを撮ってみた。
それほど長い蓄積時間でなくても星雲はかなりくっきりと写った。

その当時のビデオカメラはNTSC準拠で、解像度は400*400くらいしかなかった。
実際にはもっと低かったかもしれない。
それでも当時は満足だった。

しばらくして望遠鏡には飽きてしまったけれど、星を見るのは今でも好きだ。
今思うには、天体観測を楽しむのに一番いいのは双眼鏡だと思う。
7×10くらいの明るい双眼鏡がいい。
それで寝転んで夜空を見ていると星の中にいるような気分になる。
オリオンもはっきり見えるし、アンドロメダだってちょっと視線をずらせばそこに
あることははっきりわかる。
時として流れ星が視野を横切ることもある。

空を見るには双眼鏡がいい。

10/22/2015

素数はどうやって求めるのだろう?

ということを夜中に目覚めて考えた。
たぶん気のきいた方法があるのだろう。
検索すると出てくるかも。
でも検索したら面白くない。

最もばかばかしい方法はなんだろう?
あるNに対して、2からN/2まで計算して割り切れることがなかったら素数だろうか。
ただし最下位が2,4,6,5,8,0は除く。
1桁の3,5,7は除外する。
時間はかかるけれどそれが良さそうだ。

次に問題になるのは、どうやって計算するかだけれど、
昔ならN-BASICとかで簡単にプログラムできたけれど、Windowsには付属していない。
無料のC#をインストールして・・・という方法もあるが、始めるまでが面倒臭そうだ。
そういえばC#はDelphiに似ているみたいだからとっつきやすいかも。

今のままでなんとかできないだろうか。
EXCELはどうだろう?
ちょっと考えてみた。
できないことはなさそうだけれど、なんか面倒くさそうだ。

やっぱりこういうのはBASICだと思って探したら、
MicrosoftからSmall BASICというのが無料で配布されているのがわかった。
これは子供向けと書いてあったけれど、内容は十分普通に使えそうだ。
早速インストールしてみた。
なかなかいいかもしれない。
少なくともPC-9801のエミュレータでBASICを使うよりもスマートだ。

ちょっとプログラムを作ってみよう。

追記:
しかしもっと気の利いた方法は無いだろうか?
この方法では数が大きくなると恐ろしく計算時間がかかる。
ボゴソートとかボゾソートに匹敵しそうだ。
もう少し考えてみよう。

10/19/2015

加藤登紀子・知床旅情 「白いカモメよ」?

加藤登紀子も知床旅情も嫌いだった。
なんだか知らないが、あの歌い方が嫌いだった。
ものすごく良い声だ。
あれの何が悪いというのか・・・
でも嫌いだった。

知床旅情、北海道のことを歌った歌でたぶん最も有名で最もヒットした歌だろう。
でもあれが嫌いだった。
わざとらしい歌詞がきらいだった。
一体何を歌っているのか解らなかった。

しかし最近、加藤登紀子も知床旅情も実はとても良い歌手であり良い歌だと
思うようになった。
それはこのビデオの歌を聞いたからなのだが、

この歌い方は素晴らしいと思う。
ちょっと感動さえする。

ただ、昔からおかしいと思っていたのが、
「白いカモメよ」のところだ。
私も何の気なしにそうだと思っていた。
でもよく詩をみてみると答えが書いてあった。

     忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
     私を泣かすな 白いかもめを

となっているから、詩の作りかたとしては
出て行くのは「黒いカラス」であり、
残されるのは「白いカモメ」であるので、
意味的にも「白いカモメを」が森重の意図するところなのだと思う。

宮沢賢治はひょっとすると全てを知っていたのか?

要するに、何も無いただの空間であるはずなのに何らかの作用が働いているということは
この世界の外に、この世界を動かしているものがあるのだろう。
凡庸な考えだけれど、ちょうどコンピュータのプログラムによってプログラムの世界が
作られているように。

仮に、この世界がそういう構造になっているとすると、人はどうやって自分を動かしている
プログラムを知るだろう?
それがたぶん自然科学なのだろう。
この世界を制御している法則を探し出し、それで世界を解明しようとしている。

しかし、プログラムの中の人間はどこまでプログラム自体、あるいはコンピュータ自体を
知ることができるだろうか?

ところで、宮沢賢治の「春と修羅」を思い出した。
この詩は全くそういうことを言っているのではないだろうか?と
最近思う。
特にわざわざ「因果交流電灯」と言いなおしているのはすごいと思う。
この人は何だったんだろう?と思う。

「わたし」は現象だと言っている。
つまり単なる物質ではなくそれを観察し確認しいた「存在」だと言っている。
「仮定された有機交流電灯」というのは言い換えれば、
そこにあるだろうと思われる光量子、ということだろう。
なぜ「青い照明」なのだろう?
英語では青は特別なという意味があるので、そういう意味だとすると
自分は特別な存在だと言っているのだろうか。
「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」、これは量子論的にありえる存在の
全ての存在をとりうるという意味だろう。
「風景やみんなと一緒に・・・・・・いかにもたしかにともりつづける」
これはこの世界のすべてが量子から成り、全てがあたかも確実に
存在しているように見えると解釈できる。

「(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)」
これはたぶん自分を存在せしめていた照明自体は失われたけれど、
光子はその存在をたもっているといういみだろうか。

しかも「因果交流電灯」と言っている。
因果はもちろん因果律のことを言っているのだろう。
つまりこの世界を動かしているプログラムだ。
交流はalternateだから、量子の挙動を言っている。
電灯はその存在を示す光子だ。

この詩はもっと長いのだけれど、全部を解釈したら面白そうだ。

・・・という寝言を書いてしまった。
この詩は小学校6年の図書館で初めて読んだ。
意味は全くわからずその時の不思議な感覚だけが残っている。
それが宮沢賢治の「ひかり」なのかもしれない。


     わたくしといふ現象は

     仮定された有機交流電灯の

     ひとつの青い照明です

     (あらゆる透明な幽霊の複合体)

     風景やみんなといっしょに

     せはしくせはしく明滅しながら

     いかにもたしかにともりつづける

     因果交流電灯の

     ひとつの青い照明です

     (ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)

10/13/2015

世界の外とのI/O インターフェイス

それじゃあ、コンピュータの中に世界があった場合彼らはどうやってその世界の構造を
探ることができるだろう?
一つの方法としては純粋に意識の世界だけで世界の構造を考えることがあると思う。
この世界で言えば神学とか哲学がそれに当たると思う。
宇宙の構造を解明しようとする最先端では物理学と神学は一緒になっているという話しも
あることだし。意識の中だけで宇宙の構造を探ることもできるのかもしれない。

もう一つの方法は何かしら外部へのインターフェイスを持つことだと思う。
コンピュータで言えばI/Oインターフェイスになると思う。
ただ「O」とは何か?と考えるとちょっとわからないので置いておこう。
とりあえず入力だ。
デジタル入力もあるだろうしアナログ入力もあるだろう。
たとえばコンピュータの中の人間がキーボード入力の存在に気が付くことができるだろうか?
あるいは何がしかのセンサー入力のようなものの存在に気がつくことができるだろうか?

それは可能かもしれない。
カミオカンデのようなセンサーを使ったり、シンクロサイクロトロンのような装置を使って
世界の外を見ることができるかもしれない。
ただしそれらはプログラム上というか世界を動かしているソフトウェアの上で動くもの
でないといけない。そういうことができるだろうか?

現実のこの宇宙の外を探ることができるだろうか?
外の世界を探るI/Oインターフェイスがあるだろうか?
まえにも書いたけれど、重力センサーみたいなものは外の世界の空間の歪を
検出できるかもしれない。他に何かないだろうか?
光も何か使えそうな気がする。
あるいは素粒子のどれかがそういう性質を持っていないだろうか?

10/12/2015

空間は何を持っている?

たぶん同じ事をもう360回くらい書いているような気がするけれど、
この疑問は繰り返し襲ってくる。

この前プログラムのことを書いた時にも思ったのだけれど、
この世界の出来事はある種の制御命令のようなもので動いているとすると、
その命令は空間の中に書かれているのだろうか?
例えば、地球を出て適当な宇宙の1立米の空間をガラスかなにかで囲って
中の空間を外と遮断する。
その1立米の空間は幾何的な(数学的な)性質、つまり3次元空間という以外に
何を持っているのだろう?

たとえば水素と酸素を混ぜてその空間に入れて火をつけるか、あるいは何か触媒
になるものを入れると水ができるはずだ。
できなくてもいいのに。
なぜ酸素と水素を化合すると水ができるという法則をその空間は持っているのだろう?
それに、一体その空間はどういう形でその法則を備えているのだろう?

あるいは、空間は数学的空間なのだけど、その空間に何らかの力を与えている何かが
その外にあるのだろうか?
その外と考えると、それは次元が違うような気がする。

あるいはまた、酸素と水素を反応させても水ができない空間(別の世界)というのは
あるのだろうか? H4O3 ができるとかあっても良さそうだ。

もしもこの世界の空間がただの数学的な空間だとしたら、何も起きなくてもいいはずだ。
その宇宙の1立米の空間にはもちろん空気は入っていないし、ゴミを一つずつ全部つまみ出して
まったくクリアーな空間にしてもいい。
その中にねずみを1匹いれると死んでしまうだろう。
なぜだ?
何も起きなくてもいいはずなのに。
だれがねずみを殺したのだろう?

それは一つ一つの細かな自然法則がねずみを殺すことになっているのだろうけれど、
その自然法則はどういう風に空間に影響を与えているのだろう?

もう一度コンピュータのプログラムに戻ろう。
コンピュータの中に一つの世界があったとすると、その中で暮らしている人は自分が
制御されているプログラム(自体)の存在は直接知りえないだろう。
おそらく今のこの世界と同じように、「こうすればこうなる」的な法則を調べ上げて
それを彼らの世界の法則とするだろう。
つまり、今この世界の自然法則は全てそういう形で自分達には結果しかわからない
ようになっているのではないだろうか。
この世界の外の次元に自然法則を司るなにかがあるのではないだろうか。

しかし、そういう自然の法則という複雑なものでなく、数学はどうだろう?
再度、コンピュータのプログラムだけれど、コンピュータの中の法則というのは
たぶんモジュールあるいはオブジェクトあるいはサブルーチンのように命令系の組み合わせ
でできているはず。
たぶんこの世界の自然法則も細かな法則の組み合わせでできている。
しかし四則計算に始まる数学の計算はそのままの形で組み込まれる。
1+1=2だ。
この1+1=2はコンピュータの中の世界の人間にとっても、そのプログラムを作った
人間にとっても共通だ。
だからもしこの世界も同じように外の次元からの法則で動いているとしたら、
数学だけはこの世界も外の世界も共通なのかもしれない。
素数の並びなどを見ても、どうも作為的な感じを受けるのは、外の次元の世界も
そうなっているからのような気がする。















10/10/2015

量子について、似てると思ったこと 覚書(寝言)

1.光の速さとコンピュータのクロックは似ている。
  物体は光の速さを超えて動くことはできない。
  プログラムはクロック周波数を超える速さでアクセスすることはできない。
  コンピュータの中に一つの世界が存在したとすると彼らはクロック周波数以上の
  速さで移動することはできない。
  プログラムを分岐して軽い動作のモジュールにしたとしてもクロック周波数を
  超えることはできず、クロック周波数はどのモジュールで計っても同じだ。

2.粒子と波 は デジタルとアナログに似ている。
  素粒子が波と粒子の挙動を持つことと、デジタル波形(デジタル信号ではない)は
  クロック周波数に近い周波数で見るとアナログ波形になるのと似ている。
  アナログ波形が完全に波の性質を持つのと同様デジタル波形も非常に高い周波数では
  アナログ的性格になる。
  周期性は別として波形はどこでデータが1から0あるいは0から1になるか判断できない。
  ある閾値を設定して0か1かを決めるしかない。

3.デジタル信号(ただし周期的矩形波)がフーリエ級数で現すことができるように、
  素粒子の挙動もある種のフーリエ級数のような級数で現すことができるような気がする。

4.時間は戻すことができない。
  プログラムによる動作は戻すことができるだろうか?
  例えばA-B-C-Dと進んで来たシーケンスをD-C-B-Aと戻すことができるとしたら、
  それはどういうアルゴリズムだろう?
  まずA,B,C,Dという動作はそれぞれ一つにまとまった動作でなければいけない。
  ルーチンあるいはオブジェクトあるいは手続のようにまとまったもの。
  それではそれをD-Cと戻すには、プログラム自体を変えることなくできるだろうか?
  クロックは反転しても変わらない。
  プログラムカウンターを逆転させたらプログラムは動くだろうか?
  例えば原始的な
                 
            LD A,(BC)
            LD(address),A
           LD HL,address
           LD A, data
           ADD A ,(HL)
           LD(address), A

   のようなプログラムでも各命令をそのまま逆の順番で動作をさせるだけでは
   逆転しても意味のある動作をさせることはできない。
   プログラムカウンターを逆転させても各命令の意味も逆にしないといけない。
   これにはプログラム自体を変えないといけない。

   逆転させても動作が意味を持って反転するようにするには、プログラムはパイプライン
   処理の構造かあるいはスタックの構造をしていないといけないと思う。
   パイプラインにA-B-C-Dという流れが入力された時、クロックはそのままで
   (あるいはクロックの位相を変えて)反転動作をする「スイッチ」を入れれば
   動作は行われたと通りを逆に行うはず。
 
 それが非常に長い時間の動作を逆に行うことができるとしたら、非常に長いパイプライン
 を持った構造になるだろう。

 もしもこの世の時間を戻すことができるとしたら、世の中の全ての現象はパイプライン状
 に起きているはず。それは全ての現象が一意的に最初から決まっていることになる。









           
  

10/07/2015

PLEASURE PLACES and THE ENGLISH SUNRISE

確か1978年頃だったと思うけれど、Williamが2冊の写真集を札幌に送ってくれた。
1冊はPLEASURE PLACESという写真集でもう一冊は THE ENGLISH SUNRISEという
写真集だった。

今、思うのは彼は何故この2冊を送ってくれたんだろうということ。
彼は本屋で適当にこの2冊を選んだのだろうか。
あるいはこの2冊でなければいけないと思ったのだろうか。

私は写真の学校などへは行っていない。写真については本でしか学んでいない。
全くの素人だ。
でも嫌いな写真というのはある。
観光地でお約束のように撮った写真や、なにか特別の出来事があった時に
記念に撮っておくような写真がそれだ。
最近だと「今日はスーパームーンだから」とブログに貼るような写真だ。
あるいは誰でもカメラを向ければ撮れるような花の写真。
そういう写真は写真ではあるけれど、自分の写真ではないと思う。

この2冊の写真集はそういう写真ではない写真を撮る「理由」のような意味があると思う。
THE ENGLISH SUNRISEの方は朝日を象ったものばかりを街や生活の中で探し出し
それを写真に撮っている。
確かにこういう写真の撮り方があると思う。
日本ではマンホールの写真ばかり撮っている人や車のエンブレムだけを撮っている人が
いる。
私はこういう写真の撮り方はあまり好きではなかった。
色々なもののコレクションは好きだが、写真でそれをやろうとは思わなかった。

もう一つのPLEASURE PLACESは、素晴らしい写真集だ。
写真自体は小さな写真なのだけれど、何を撮っているかがすごい。
街を歩いて自分の気に入ったシーンを撮っている。
決して珍しい景色ではないし、記念すべき風景でもない。
ただ、自分しか気が付かなかったであろうシーンなのだ。
この写真集は札幌に居たころには毎日のように眺めていた。
こういう自分だけの写真が撮りたいと思っていた。

その後何度も引越しをして、この2冊はすっかりどこかに紛れてしまっていた。
最近会社の事務所を引き払って物を整理していたら、この2冊をみつけた。
ものすごく久しぶりだ。
改めてPLEASURE PLACESを見ていたら、どこかで見た感じがした。
自分の写真のファイルを調べたらそっくりな写真が何枚もあった。

                  PLEASURE PLACESから
                    私の写真

 
 
PLEASURE PLACESから
                         私の写真
 
 
PLEASURE PLACESから

                          私の写真
 

決して真似をして撮ったわけではないけれど、記憶の中にPLEASURE PLACESの写真集
の写真があったのだと思う。
これ以外にも沢山おなじような写真がある。
無意識のうちにおなじような写真を撮っていたのだろう。

要するに私にとっての写真はこの写真集が模範だったのだと思う。

そこでまた思うのは、彼は何故この写真集を送ってくれたのだろう?
ということだ。




10/06/2015

昨日、悲別で

このドラマは私が札幌から東京に戻って2年目の1984年3月から始まった。
悲別(かなしべつ)は架空の地名だけれど、映像からすると上砂あたりだろうとわかった。
砂川、滝川、深川、旭川はいずれもとても懐かしい地名だ。
深川は札幌の友人の育った土地だ。
一緒に小学校を見に行ったことがあった。
小学校は平屋で昔ながらの作りのかわいらしい学校だった。
それほど広くない校庭はたぶん桜の並木で囲まれていた。
写真を撮ったはずだが、みつからない。
友人は滝川でも暮らしたそうだ。
その頃の家を見に行った。
長屋のような作りで駅のすぐ脇にあった。
まるで幸せの黄色いハンカチに出てきたような住まいだった。
思い出してみると、何故かとても懐かしい。
まるで自分が育ったところのような気がする。


グラフティーのストーリーは私とは全く違っていたので、共感する部分は少なかった。
当時、あと5歳若ければもっと感じる部分があったかっもしれない。
「駅・ステーション」には共感できる部分が多かったけれど、悲別にはそれが無かった。


ただあのグラフティーの中の東京の暮らしは、ちょっと前の私の東京(実際は千葉)一人暮らし
に重なる部分はあった。
札幌の冬は大きなポット式のストーブだったけれど、東京ではこれだ。
これで十分だとわかった時、あらためて札幌の寒さを思い出した。


このシーンに至る前のシーンは車で駅まで駆けつけるシーンだ。
その途中の景色は当時の北海道だ。
道は未舗装が多く、雪が無いと砂煙を上げて車は走る。
駅前は全て駐車は無料だった。
車を駅舎の横に駐車してしばらくそのままでも全然問題なかった。
この石田えりの髪型は当時みんなこれだった。
私自身の髪もこれに近かった。

このドラマの石田えりはとても良かった。
もう一人、ビデオを見て思い出したけれど、この「大人物」はドラマでは何歳くらいの
設定だったのだろう?
たぶん、今の私より若いのではないだろうか。
大滝秀治さんは計算してみたらこの時59歳だ。
なるほどね。

ドラマの終わりには毎回「22才の別れ」が流れた。
この曲はなぜかこのドラマにぴったりだったような気がする。
歌の内容はドラマとは関係ないけれど、なんとなくだ。



ドラマの最終回だけ、終わりのシーンが違っていた。
いつもは雪のシーンをバックに「22歳の別れ」が流れたが、この最終回だけは
少女とそれを追う男子生徒のシーンだった。
そこに一匹猫が映っているのだが、この猫は偶然入ったというようなことを聞いたように思う。
とても演技派の猫だった。

この少女は石田えりだろうか?
ということをずっと考えていたりする。
いずれにしてもこのシーンはとてもいいシーンだ。