10/19/2015

宮沢賢治はひょっとすると全てを知っていたのか?

要するに、何も無いただの空間であるはずなのに何らかの作用が働いているということは
この世界の外に、この世界を動かしているものがあるのだろう。
凡庸な考えだけれど、ちょうどコンピュータのプログラムによってプログラムの世界が
作られているように。

仮に、この世界がそういう構造になっているとすると、人はどうやって自分を動かしている
プログラムを知るだろう?
それがたぶん自然科学なのだろう。
この世界を制御している法則を探し出し、それで世界を解明しようとしている。

しかし、プログラムの中の人間はどこまでプログラム自体、あるいはコンピュータ自体を
知ることができるだろうか?

ところで、宮沢賢治の「春と修羅」を思い出した。
この詩は全くそういうことを言っているのではないだろうか?と
最近思う。
特にわざわざ「因果交流電灯」と言いなおしているのはすごいと思う。
この人は何だったんだろう?と思う。

「わたし」は現象だと言っている。
つまり単なる物質ではなくそれを観察し確認しいた「存在」だと言っている。
「仮定された有機交流電灯」というのは言い換えれば、
そこにあるだろうと思われる光量子、ということだろう。
なぜ「青い照明」なのだろう?
英語では青は特別なという意味があるので、そういう意味だとすると
自分は特別な存在だと言っているのだろうか。
「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」、これは量子論的にありえる存在の
全ての存在をとりうるという意味だろう。
「風景やみんなと一緒に・・・・・・いかにもたしかにともりつづける」
これはこの世界のすべてが量子から成り、全てがあたかも確実に
存在しているように見えると解釈できる。

「(ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)」
これはたぶん自分を存在せしめていた照明自体は失われたけれど、
光子はその存在をたもっているといういみだろうか。

しかも「因果交流電灯」と言っている。
因果はもちろん因果律のことを言っているのだろう。
つまりこの世界を動かしているプログラムだ。
交流はalternateだから、量子の挙動を言っている。
電灯はその存在を示す光子だ。

この詩はもっと長いのだけれど、全部を解釈したら面白そうだ。

・・・という寝言を書いてしまった。
この詩は小学校6年の図書館で初めて読んだ。
意味は全くわからずその時の不思議な感覚だけが残っている。
それが宮沢賢治の「ひかり」なのかもしれない。


     わたくしといふ現象は

     仮定された有機交流電灯の

     ひとつの青い照明です

     (あらゆる透明な幽霊の複合体)

     風景やみんなといっしょに

     せはしくせはしく明滅しながら

     いかにもたしかにともりつづける

     因果交流電灯の

     ひとつの青い照明です

     (ひかりはたもち、その電灯はうしなはれ)