5/21/2018

砂漠

時々、誰もいない場所に行きたくなる。
乾燥した砂漠がいい。
メサは有っても無くてもいいけれど、
赤い台地がいい。
しばらくそこに座って眺めていたい。
そこに飽きたら、少し移動してまた座っていたい。
たぶんたいして景色は変わらないかもしれないけれど。

                           

晴れていてもいいし、嵐でもいい。

日本だと砂漠が無いので、どこか静かな川を眺めていたい。
これはどこだったろう。。
長野の方かな?


まあ、どこでもいいから
人のいない場所で静かに川を眺めていたい。

5/17/2018

ピノキオ

また映画(AI)を見てしまった。
この映画前半は辛いことばかりなので、最後の30分を見る。
最後の30分も辛いので途中で中断。

ピノキオは本当の人間になりたくて色々な苦難を乗り越え
妖精さんにお願いして本当の人間なることができる。
AIを見ていて思ったのだけど、AIと人間の違いは何なんだ?と

というか人間はピノキオに任せておいていいのだろうか?と思う。
そもそも人間は「本当の」人間なんだろうか?
たぶん大昔からそれを追及してきたはずだ。
哲学者やたくさんの宗教家、あるいは科学者たちが。
一体人間というのは何なんだろう?と

それを「ピノキオは本当の人間になれてよかったね。」
ということでいいのだろうか?
人間は本当に人間なんだろうか?



5/14/2018

樹海

「人生の途中にはあるだろう?
人生を変えるような大きな瞬間」
「何が大切か気づく瞬間だよ」
「来ては去る瞬間だが、時として
遅すぎる」
「手遅れだ」
"too late"

映画だ。"追憶の森"
樹海に迷い込んだ男が言っていた。

映画の中でアメリカ人の男がGoogleで「a perfect place to die」と検索すると
青木ヶ原が出てきていた。
同じことをやってみた
実際に同じように出てきたので驚いた。



今、見終わった。
おとぎ話だったけど
とてもいい映画だった。

追記:これ書いてからから4年経った。また今日この映画を見直してみた。泣いた。
   なぜかしらないけれど泣いた。もうストーリーもわかっていたのに。
   一つ違ったのは今回は字幕じゃなくて吹き替えだった。だからちょっと
   会話に違和感があった。それと日本語と英語が交差する内容のところは
   やっぱり少し変だ。この映画は字幕、あるいは何もなしでやった方がいい。
   その方がこの映画の面白さがでると思う。
   しかしこの映画はいい映画だと思う。

5/13/2018

今日の夢

私の娘はまだ6歳だった。
部屋のおもちゃやがらくたの山の中で眠っていた。
「なんでそんなとこで寝てるんだ?」と起こすと
部屋のおもちゃで遊び始めた。
部屋は明るいオレンジ色の光に満ちていて、
部屋の外からの空気の流れを感じる。
私はそばに行って彼女を膝の上に乗せる。
その温かさと柔らかさがはっきりと伝わってくる。
彼女は何か言いながらおもちゃで遊んでいる。
私はそれを見ながら「まだ子供で良かった」と心底思う。
脇に私の母が立ってそれを見ている。
私はふと不安になって、
「お母さん、これって夢?」と聞く。
母はとても淋しそうな顔で何も言わずに見ている。

私はこれは夢か?と聞くのもおかしい、と思っている。
子供はまだ私の腕の中でおもちゃで遊んでいる。
「これ、夢なの?」と自問する。
私は母の手をとる。
母の手はすこしザラザラした指先だが、とてもやさしい。
「ああ、これは本当なんだ」と思う。
母の顔を見る。
まだ、とても淋しそうな顔をしている。
私は腕の中の子供がいないことに気が付く。

目が覚めた。
あれは夢ではないと思った。

4/30/2018

5月1日 1994 San Marino Grand Prix

子供の頃の記憶にあるうちではスターリング・モスはまだコースを走っていた。
白黒のニュース映画だったのか、あるいは番組の映像だったのかわからない。
だからそれは1961年か62年だったのだと思う。
その後中学生くらいになったら1時間か2時間かわからないけれどF1のレースを
録画中継するような番組があったと思う。
そのころのレーシング・ドライバーの名前を憶えている。
ジャック・ブラバム、グラハム・ヒル、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュワート
・・
だいたいあの頃のドライバーの名前は全部覚えている。

それからずっとF1とル・マンはテレビで見てきた。
1994年の5月1日までは。

あの日以来見ることはなくなった。




4/24/2018

Glenn Gould 2

今日はBeethovenの交響曲第6番をグールドがピアノで弾いているのを見つけたので
聴いてみた。
これも昨日の「皇帝」と同様衝撃的な演奏だった。
第一楽章からしてオーケストラで聴いていた曲と同じものか?
と思わせるほどの劇的な演奏だ。
編曲はリストなのだ。同じリスト編曲のピアノバージョンを他の人で以前に聴いた
ことがあった。でもその時は(たぶん)忠実にオーケストラを再現していたように思う。
なぜなら退屈でオーケストラの方がいい、と思ったからだ。

でもグールドの演奏は全く違う。
ベートーヴェンの曲の中に隠されたメロディーを引き出して聞かせてくれている。
とても新鮮だ。

私はメロディーをハミングしながら聞いていたけれど、
どうもハミングがハモって聞こえる。
よく聞いてみるとグールドがハミングしながら弾いている。
しかもメインの旋律ではないメロディーをハミングしている。

ところどころバッハを思わせる部分がある。
これはリストの仕業かグールドの仕業か知らないが、
つい引き込まれてしまう。
すばらしい演奏だ。

誰かがコメントを書いていた。

Beethoven wrote the Symphony.
Liszt transcribed it for piano.
Gould added choral.

Glenn Gould

中学・高校とクラッシクおたくだったのだけれど、グレングールドは聴かなかった。
理由は「変な人」だということだったから。
最近クラシックをまた聞き始めた。しかしいざ聞き始めると長いのだ。
以前は平気で聞いていたチャイコフスキーの4番。長い!
この曲は好きな曲だから聞けるだろうと思ったけれど、途中放棄。
ベルリオーズの幻想もシェーラザードも何もかも長い。

それでちょっと聞くのをやめて、また今日ちょっと聞いてみた。
YouTubeでベートーヴェンのピアノ協奏曲5番を聞き始めたらやはりかったるい。
別枠にグレングールドとカレルアンチェルの映像があったので、それを聞いてみた。
たぶんグレングールドをまともに聞くのは初めてだ。
しかし驚いたことにものすごく新鮮だ。
最初から最後まで一気に聞いてしまった。
グールドはすごい。
全く違うフレーズに聞こえる。
いや、ほんとに違うんじゃないか?と思う。
特に後半から最後の盛り上がりのフレーズはどう考えても違うような気がする。
まあ、中学・高校の時の記憶だからあてにはならないけれど、
でおそれほど新鮮に聞こえた。
久しぶりにクラシックにのめり込めた。

4/22/2018

子供のころ体験した不思議なこと

というスレッドを読んだ。

いくつか私もしたのと同じ体験が書かれていた。
1.赤ん坊で母親のお腹の中にいた時の記憶が子供の小さいころにはあった。
これは私も同じことを感じていた。子供のころお風呂に入って水道のホースを
お湯に入れて水を出して、それを手で受け止める時の手の感触がお腹の中にいた
時の漢字と同じだ。と小さい頃に思っていた。
だんだんその感覚は無くなって行ったけれど、小さい頃にそういう感覚があった
ということははっきり覚えている。
2.夢が現実になる。私の場合は夢でみた場面に出会うということだった。
小さな頃から大学生くらいまでそういうことがあった。最後にあったのは(どこかに
書いたかもしれないけれど)白樺湖に合宿に行った時だ。一度も行ったことが無い
場所なのに曲がり路の先に貯水池があることが、道を曲がる前にわかった。
その光景は夢とほとんど同じだった。
いや、40歳くらいの時にもあった。初めて行った沖縄の公園の景色を夢で
みていた。
こういうことは体験した人でないとわからない。というか勘違いとか幻覚とかで
片付けられてしまう。
3.目を閉じて一瞬で次の朝になる。これはたぶん不思議な出来事ではなく、子供は
みなそう感じるのだろう。一日はすごく長いのに夜目を閉じると一瞬で朝になって
いることが不思議だった。
4.友達とばったり会う。これも何度もあった。住んでるのと同じ街ならわかるけれど
新宿の雑踏の中だったり、ちょっと普段は行かない町だったり。
新宿で友達に出会った時のことははっきり覚えている。東口のサクラ屋の前だった。
5.知らない子と一緒に遊んだこと。これも小学生の頃茨城の田舎に夏休みに
一人で泊まりに行った時のことだった。一人で近くの田んぼや川の方に行ったり
していた。池のところで少し大きな男の子達が釣りをして騒いでいた。そのそばを
通るとき何か言われたような気がした。怖いので早足でそこを離れた。
川のところに行くと男の子がいた。たぶん同い年くらいの男の子だった。手に棒を
持って川の水草をつついていた。
何をしているのか気になって聞いたように思う。男の子はすこしいばったかんじで
何か言った。何を言ったかは覚えていない。
一緒に遊んでいると川の向こう側に行こう、ということになって、川の中を
膝よりも深いところを二人で歩いて行った。

途中でその子が「あ!」と言った。「靴が流れた!」と言って水に手を入れたけれど
靴は勢いよく流されてしまった。
しょうがないね、と言いながら片方だけの靴で歩いて家の方に一緒に帰った。
そうなんだ、一緒に帰ったんだ。
遠くの川で会った男の子と一緒に家の方まで「同じ道」を帰ったんだ。
家なら他にもたくさんあるのになぜ同じ方向だったんだろう?
私が泊まっていた田舎(母の実家)の手前でその子は「それじゃあね」
と笑って別れた。隣の(と言ってもかなり離れているのだけど)家の子だと
思っていた。
そのことをおばあちゃんに話した。
おばあちゃんは「・・ちゃんが帰ってきてるのかねえ」と言ったけれど、
はっきりわからないようだった。
その日以降その男の子を見かけることはなかった。
今、別れた時の笑顔だけはっきり覚えている。
6.思ったことが現実になる。 これは小学校の頃によくあった。だいたいが授業中
のことだった。自分が答えを知っている質問を先生がした時、下を向いて「僕にあてて」
と願った。そうするとたいてい先生は自分にあててくれた。
それから「こうなればいいのに」ということがあると、何か一連のやり方があったの
だけど、その順番で起きてほしいことを考えるとたいていその通りになった。

7.これはそこには書かれていなかったけれど、最近昔のことをいろいろ思い出して
みるとある一つの事実にゆきあたる。それは自分の考えを人に伝えることができる。
ということだ。子供の頃から自分がまだ言っていないことを相手が先に言うことが
何度もあった。それは相手は兄であったり母親であったりしたので、私は肉親に
対してだけ起きることだと思っていた。しかし社会人になって他の人にも
そういうことが起きることがわかって、これは自分の考えが人に漏れてしまうんだ
ということがわかった。
いちいち書いていくときりがないけれど、はっきり覚えていることがある。
会社の同僚からレコードを借りたので、お返しに自分のCDを貸そうとした時のことだ。
そのCDはちょっと変わったCDで誰も買わないようなもので、音楽の途中で突然女性の声が入ってびっくりする内容のものだった。そのことは隠していた。
そして「このCD聞いてよ」というとそのCDは知らないはずなのに、「そういうびっくりする音楽はきらいなんだ」と言った。「え!?これ知ってるの?」と聞くと
「全然知らない、そういう感じのもののような気がした」と言った。
ジャケットはごく普通の景色のような絵だったから推測できるわけもない。

自分の考えが伝わってしまうのはだいたい知られたくないことばかりだ。
でも、相手がそう思ったとしても私が直接言ったことではないので私が言ったとは
思っていないだろう。でも突然自分の頭の中のことを言われるとびっくりする。
「そんなこと思ってないよ」というけれど、内心はすごくびっくりしている。

まあ、子供の頃の話に戻るけど、
子供は確かに超能力者だと思う。


















3/30/2018

地球への帰還

ひとつ映画を思い出した。
たぶん12歳頃にテレビで見た。
例の奥様なんとか劇場だと思う。

筋は全く覚えていないけれど、その最後のシーンを覚えている。
どこか宇宙から地球に帰還するロケットの中。
男と女の二人が乗っている。
たぶん何かの生き残り。
地球に降りるロケットの中に立っている。
確か、床に立ったままでロケットは降下して行く。
するとロケットはその衝撃に耐えきれず、ボロボロと壊れて行く。
窓の外は輝くような光が流れている。
白黒映画だからそのシーンは強烈なコントラストだった。
最後は覚えていないけれど、
二人はロケットと共に燃え尽きてしまう。
という話だった。確か。
そのロケットの外を流れる光のシーンを思い出した。
なんという映画かは全くわからない。

3/27/2018

無から生まれるか?

宇宙は無の状態からビッグバンで生まれたとか言うけれど、
「無」が本当に何も無い状態だと規定するなら、
そこから何も生まれるわけがない。
「無」と言っているのだから、何かを生み出す可能性すら無いはずだと思う。

たぶん純粋な2次元空間みたいなものがあったのだと思う。
全く動きの無い水面をイメージしたい。
そこに小さな石を落とした時、1点から生まれた波紋が無限の広がりに
広がって行くだろう。
最初の一撃が何だったかは知らない。
その波紋が何かが存在できる確率だ。
波動関数と言ってもいいかもしれない。

2次元の1点から3次元の空間が生まれ、
それが無限に広がって行く。
たぶん物質はその波動のリップルみたいなものだろう。

そんな風に考えると「無」からこの宇宙が生まれたと言えるかもしれない。

3/17/2018

もうすぐ誕生日

どうでもいいけど、
子供の時から学校で祝ってもらったことがない。
入学式の日だから。
でもたいていは桜が咲いていて、
桜に祝ってもらっていたようなものかな。

最近の夢の特徴は、やけに現実的なこと。
それでも相変わらず学校の単位が取れないんじゃないか?
っていうテーマが出てくる。
本気で心配している。

それと会社の夢。
自分は管理職だけれど、他の社員から疎外されている。
はっきりとは言わないけれど皆私を避けている。
その疎外感は現実の会社では感じなかった。
そうなんだ。
それは感じなかっただけで、
本当は疎外されていたんだ。
そのことに夢の中で気が付いた。

この前、何だったかドラマを見た。
中村雅俊が定年になって関連会社の役職について
第二の人生を歩こうとする。
しかし、その会社では自分は邪魔であり疎外されていることに気が付く。
そのシーンを見て思わず固まってしまった。
あ、これは私だ。
と思った。
自分では良かれと思ってやっていることが
実は余計なことであり、もう古いやりかただった。
それで誰かを傷つけていた。
そういう夢を見る。

夢の中で歩く。
ひたすら歩く。
例えば四国の高松あたりにいて、横浜まで歩いて帰るとか。
山あり谷ありの道をひたすら歩く。
目が覚めて気が付くのは、その道は子供の頃遊んだ町の
とても狭いところを歩いていただけだった。
その狭い町が日本全部くらいの広さに思えた。

時々とてもきれいな景色に出会う。
雪をかぶったアルプスのような山だったり、
フィヨルドのような谷と海の景色だったり。
そこで写真を撮っておこうと思うのだけど、
カメラを持っていた試しがない。

ある時はカメラを取りに家に戻ろうとするが、
戻ろうとしたらもう全く別の土地を歩いていて、
家にも着けないし、元にも戻れない。
夢はそんなものだろう。

でも、夢がとても面白くて
また続きを見たくなる。

2/09/2018

妹

妹というのはいつになっても妹だ。
妹が乳癌が見つかったとメールしてきた。
私は能天気だけれど妹はとても心配性だ。
メールからもそれがうかがえる。
元気づけるしかない。
幸いまだ初期のものらしい。
だから大丈夫だよ、と言った。
しかし妹が今どんな気落ちでいるか良くわかる。
とても励ましの言葉で安心するわけがない。
いつでも電話しなさい、と書いた。
手術がうまく行くのを祈るしかない。