5/29/2022

もしもあの時

 という仮定は意味が無いとよく言われるけれどどうなんだろう?
敢えてそれを考えてみようと思う。

まず私の存在だけれど、非常に危い偶然からできているように思う。
私の母は広島にいて、あの日の前日は今の平和公園になっている場所
の中にあった住宅地の友人の家に行っていた。
そしてその夜はその人のところに泊ることになっていた。
しかし母はなぜかその夜、家に帰ることにしたそうだ。
友達のところに泊っていたら悲惨なことになっていたかもしれない。
と言っていたのを思い出した。
友人はその家で亡くなったそうだ。
平和公園内の地図にはその友達の家の名前が記されていた。
残念なことに私はその名前を忘れてしまった。
それが「もしもあの時」の一つだと思う。
幸い私は生まれてこうしている。

もうひとつの大きなもしもは私が学校を卒業する時だ。
あの時、自分で勝手に就職先を決めずに先生の推薦するところに
務めていたらその後の人生は大きく変わっていたと思う。
あれからほんとうに自分のやりたいことをやってきた。
その結果は決して良かったとは言えないけれど、
そこそこの会社に勤めていたらすごくつまらない人生だったと思う。
少なくとも仕事に関してはそうだ。

もしもあの時と思うことはある。
一緒に暮らした人も違っていただろうと思う。
それにたくさんの人に迷惑をかけることは無かったと思う。
それだけが悔やまれることだ。
できることなら全ての人に謝って回りたい。
それが二つ目の「もしも」だ。

もしもあの時、どうしても考えてしまう「もしも」だ。