9/13/2015

「トランスレーター」 と Terang Boelan

もう数年前になるけれど、兄が父の終戦直後の捕虜生活中に書いた日記を出版した。
私は出版された時に兄からその本を受け取ったが、なかなか読めなかった。
読めなかった理由は怖かったからだ。
父が若い頃に何をして、何を考え、どういう風に生きていたのかを知ることはどうしても
今の自分と対比してしまうだろうことが予想できた。
私と父とは違う人間だけれど、どこか同じような考え方をしていたのではないだろうか。
父が自分と違った考えをしていたことよりも自分と同じような考え方をしていたことが
怖かった。



その本をやっと読んだ。
父の日記の文章は淡々としていた。
しかしその中に父の感情が溢れていた。
父の声が聞こえてきそうで懐かしい感じがした。
父がイギリス軍の捕虜として生きていた頃の年齢は私が札幌から東京に戻った頃の
年齢だった。
父は英語と日本語の翻訳と通訳をしていたようだ。
日記を読むとたびたび印刷用の用紙を調達するのに苦労したことが出てくる。
当然イギリス兵と入手するためのやり取りを父はしていたのだろう。

私が子供の頃、父は英語で何か話したことがあったろうか。
あまりはっきり思い出せないが、わずかな記憶では父は英語の単語を一つずつ
はっきりと言っていたように思う。
テレビを見ていてニュースなどで英文が流れるとその文章を茨城弁で直訳して
いたこともあった。

私は一度だけ仕事でシンガポールに行ったことがあった。
国際展示場で展示された機械の技術的説明が必要なときだけ説明するだけの
仕事だった。その時泊まったホテルのあった場所は父がいた収容所からそれほど
遠くなかったことを知った。

日記の終盤1947年7月27日はこんな風に書かれていた。
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  今日は日曜日。晴天なり。一日、休息を取る。正午頃十八名の日本人が、M.P.に
 捕らわれてキャンプに来る。今後の注意を約して事なきを得。夜、床屋に赴き、
 田島、関根と快談す。話は内地のこと、現在作業隊生活のことである。
  夜は月はさんさんとゴム林に照り、スマトラの月を思い出す。テラン・ボエラン
 [Teran Boelan]の懐かしきメロディー、懐かしかりきパングカラン。スマトラも今は
 独立戦争で風雲急なものがあるだろう。タクシーはどうしたかな。街のマーケットは?
 忘れ難きものあり。
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このTeran Boelanという曲はどんな曲だろうと思った。
ひょっとして父はよく歌を口ずさんでいたので、聞き覚えているかもしれない。
そう思って探してみた。
こんな曲だった。



なにか聴いたことがあるような気もするが、ありそうなメロディーのような気もする。
なにかマレーシア国家と同じメロディーだとか。
また日本でも雪村いずみがレコードを出していたところを見ると、この歌は南洋に行って
いたひとにとっては懐かしい歌だったのだろう。