8/17/2015

コマツのバンジョーのこと The banjo William brought to me

コマツのバンジョーのことを書こう。

私は自分のバンジョーを持っていただろうか。
高校生の頃にバンジョーを練習した記憶がある。
あのバンジョーはたぶん降矢が持っていたものだろう。
それを借りて練習したのかもしれない。
いや、いや、いつも降矢はバンジョーを弾いて、私がギターで伴奏していた。
だから、バンジョーは貸さないだろう。
あの頃、バンジョーを買ったろうか?
そういえば、ピカピカに光ったリムのネジを締めている記憶が少しある。
あるが、それを後で売ったり、誰かにあげた記憶がない。
だから自分のバンジョーを持っていた記憶が無い。

その後大学に入って先輩達とキングストントリオのバンドを作った時には
私はバンジョーが弾けていた。フィンガーもフレーリングもできた。
だからそれ以前にバンジョーを練習していたはずだ。
その時は、ベガのロングネックを借りて弾いていた。

そのバンドをやめてから、コマツと知り合った。
その話の一部は前にも書いている。
初めてコマツと会った日のことを思い出そう。

その日は私は世田谷にあった廻沢キャンパス(理工学部)からシャトルバスで
渋谷キャンパスに向かった。
家からギターを持ってきていた。その頃のギターは神田カワセ楽器のBillyだった。
渋谷キャンパスでバスを降り、まっすぐ部室に向かった。
部室は学生会館の地下の長い廊下に沿って何室もあったが、その一番奥にあった。
部室に入って左半分(?)が「古都探索会」の部室で右側がASFの部室だった。

「古都探索会」だが、その後その部長になったのが小沼だった。
これは偶然だが、よく出来た偶然だと思う。

ASFの部室は奥側に長椅子が置いてありその対面にも椅子があったように思う。
その手前に皆のギターを置いていたように思う。
真ん中に4、5人くらいが立てるスペースがあったように思う。
その日はいつもの様にキタローと松尾と朝倉、佐藤あたりがクリームとかの歌をやっていたように思う。
・・・というかそういうシーンしか浮かばない。

私は奥の長椅子に座ってギターを抱えていた。
右にはタヌがいて、彼らの演奏を眺めていた。あの独特の笑い方で笑っていた。
たぶん、そんなことをしていたところにコマツが現れた。
ドアを開けてやたら目が輝いている男が入ってきた。
彼はアメリカとのハーフだったけれど、私は初めて会った時、そんな印象が無かった。
でも彼を知ってる人から聞くと、「彼は最初から外人だったよ」という人が多い。
実のところ私は彼がハーフだと感じたことがない。

それから彼は部室に入ってきて、皆に愛嬌を振りまきながら何かしゃべっていたと思う。
声はでかかった。
しばらくして(だと思うけれど)私の前に座って、彼は何か歌を歌った。
それが何だったのか思い出せないが、一緒に何かやったような気がする。

学校では、学校の仲間では、彼は小松沢あるいはコマツだった。
それでずっと通っていた。
彼にはコマツではない世界があるのを知ったのはだいぶ後だった。
つまり大学以前は英語名で通っていたわけだ。

そんなコマツと一緒にバンドをやるようになって、コマツはバンジョーを持っていた。
小ぶりの裏蓋の無い素朴な5弦バンジョーだ。
コマツはそのバンジョーを私に貸してくれた。
それからはステージでもほとんどそのバンジョーを使っていた。
金属のリム部が薄かったので普通のバンジョーに比べると軽かった。そのため
持ち運びが楽だった。
音は決していいとは思えなかったけれど、それが返ってマウンテン調のフレーリングを
やると実にいい音がした。あれでたぶんヘッドを何か動物の皮にしたらけっこう味が
出たのではないだろうか。

そのバンジョーはその後、コマツがアメリカに行き、私が札幌に一緒に持って行った。
時々車を海岸脇に止めて弾いたりした。
そうだ、だからその頃はまだフレーリングもできたはずだ。

それから6年後、私が札幌を後にして東京に戻った時に、そのバンジョーを会社のロッカー
に入れっぱなしにしていたことがわかった。
その会社が数年後引越しした時に、当時の友達の女性がそれを預かっていてくれた。
それから20数年年経ってからだろうか、その女性がバンジョーを小樽のモチに渡してくれた。
だからそのバンジョーは今、小樽にある。
渡してくれた女性はそれからしばらくして癌で亡くなった。
そのことも前にここに書いている。

ところで、元々コマツはあのバンジョーをどうやって手にいれたのだろう?


<追記>
本人から電話があった。
あのバンジョーは彼のお父さんのものだったとか。