松山君は私が札幌から東京に戻って最初の会社で知り合った人だ。
その会社はA社と言った。
A社は秋葉原の今の秋月電子のある隣のビルにあった。
A社は確か当時まだ20代だったと思うがNさんという人が社長だった。
その頃はあのあたりは電子部品を扱うお店、会社がほとんどだった。
その電子部品を扱うお店の店主の息子さんだったと思う。
A社はその頃はパソコンを使った画像入力・処理装置を作って販売していた。
パソコンはPC-8001,Apple-II,MZ-80などの8ビットパソコンだった。
その頃はビデオ信号をパソコンに入力するインターフェイスはほとんど無く、非常に高額
(250万円~500万円以上)な画像処理装置(単独で使用)があるのみだった。
A社それを50万円前後のパーソナルな装置を開発していた。最初の画像処理装置は
Mー4000と言っただろうか?・・・名前を忘れてしまったが、4ビットのA/Dコンバータを使ってビデオ信号をデジタル化していた。256×256画素の16階調だった。
A/DコンバータはアメリカのTRW社のもので、大変高価だった。それで4ビットタイプの装置の
D/Aコンバートは抵抗アレイで行っていた。
その後6ビットタイプ、8ビットタイプのものも開発した。8ビットタイプのTRWのADは確か60万円したと思う。今のCPU素子の2倍くらいの大きさで発熱がすごかった。
8ビットタイプのものは画素が512×512あった。当時はDRAMの容量も小さく、またFPGAも無かったので基板のほとんどはメモリー素子とそれを駆動するディスクリートのTTL素子だった。
その開発をした人はツボイ君という人だった。
ツボイ君は電子関係パソコン関係のことに詳しく、また英語も普通に話せた。確か後の奥さんは
キーボードを弾く人で音楽にも詳しかった。
それで松山君だけれど、松山君は当時確か22歳くらいだったのではないだろうか。
ツボイ君と同じく電子回路とパソコンに詳しかった。確か元はテレビゲームの基板を作っていたの
ではなかったろうか。
ツボイ君(当時は)はちょっと話しづらかったけれど、松山君は気さくな人だった。若いのでちょっと横柄なところはあったけれど、そのころ営業をしていた私を助けてくれた。
当時まともなマニュアルが付いていなかったので、私がBASICで試験用のソフトを作ってそれを
マニュアルに載せた。それとインターフェイスの回路や信号表なども載せた。それらの技術資料は
ほとんど松山君が作ってくれた。
それで営業に行く時も非常に助かった。
松山君とはお昼はいつも一緒に食べに行った。
だいたいが、日通ビルの裏の姉妹でやっていたトンカツ屋か、そのすぐ近くのキッチンジロー
か、すこし離れた中華料理店。あとはどこへ行ったろう?
そして食べた後は日通ビル脇のミスタードーナツに行ってコーヒーとドーナツを食べた。
あのミスタードーナツはまだあるだろうか。
まだあるとするともう35年以上あそこで営業してることになる。
そうだ、ドーナツのあとはジャンク屋を二人で歩いた。
用も無いものをたくさん買い込んだ。
その後、色々あり、松山君と私を含め数人は別の会社を作ることになった。
その会社もしばらくして、いろいろあり、やめてしまった。
A社の後、松山君と一緒に仕事したのは、画像入力装置の入力部の回路がトランジスタによる回路だったものを私が高速OP-Ampを使ってクランプ回路を作りビデオ信号のレベルを安定化した。
また出力回路も変更した。その頃はS-RAMも使えるものが出てきてS-RAMを使ったものも作ったように思う。
S-RAMはD-RAMよりも容量が小さかったのでさらに基盤のメモリー部分は大きかった。
その後、松山君とは仲が悪くなった。
それは、ほとんど私のせいだ。
松山君にはあやまりたいことがたくさんある。