8/26/2015

都ぞ彌生 北海道大学 恵迪寮 第6回寮歌

北海道大学の恵迪寮には一度行ったことがある。
前にも書いたけれど北大の北先生の紹介で行った英会話の集まりで知り合った北大の大学院生(名前を忘れてしまった。)と一緒に行った。彼の部屋でしばらく話をしたと思う。
私は多分車だったから車で北大の中に入ったのだろう。
彼は熱伝導に関する何か研究をしていた。鍋の底について何か雑談をしたのを覚えている。
あれは1975年の秋だったと思う。
彼の部屋にはストーブがついていたから。

恵迪寮の寮歌というと「都ぞ彌生」が有名だけれど、明治40年から毎年寮歌が作られている。
都ぞ彌生はその6回目(1912年)の寮歌だ。
前にも書いたけれど、小沼が言うには「青函連絡船が函館に着くときにこの歌が流れる。」
と言うのだが青函連絡船にも青函フェリーにも何十回と乗ったけれど、一度も聞いていない。
ほんとうにそんなことがあったのだろうか。

小沼はよくこの歌を口ずさんでいた。
しかし私はその前にこの歌を知っていた。
それは父がよく寮歌を歌っていたからだ。
自分の学校の寮歌だけでなく他の学校の歌も歌っていた。
それで覚えてしまったのだろう。
そういえば小沼も色々な寮歌・校歌を知っていた。

都ぞ彌生はYouTubeでOBか在学生か知らないがいくつか聴くことができる。
去年(2014年)あたりまでは加藤登紀子のものもあったが著作権うんぬんで消されてしまった。
私個人は加藤登紀子のバージョンが好きだ。
普通に現代風の歌い方だ。
特に「星影冴かに光れる北を」のところのオーケストラアレンジが好きだ。




まだ加藤登紀子のビデオがあった頃のコメント書き込みには、加藤の歌い方を
批判するものがいくつかあった。
詳しくは覚えていないが、
1.「尽きせぬ奢に」 のところのメロディーが違う。
2.「夢こそ・一時」 「燃えなん・我胸」 「星影・冴かに」のところの・は間を開けずに歌う
  のが正しい。
とかだったと思う。
1.は「ぬ」を下げるかどうかだが、下げた方が寮歌っぽいと思う。楽譜を知らずに言ってますが。
2.も同じく 間髪居れずに歌う方が寮歌っぽいと思う。 ただこの部分は間が無い分
  その後(ひと時~~)を長く延ばすようだ。

私個人は応援歌のような歌い方は好きじゃない。
加藤登紀子の歌もちょっと綺麗過ぎる感じがする。



8/25/2015

松山君のこと

松山君は私が札幌から東京に戻って最初の会社で知り合った人だ。
その会社はA社と言った。
A社は秋葉原の今の秋月電子のある隣のビルにあった。
A社は確か当時まだ20代だったと思うがNさんという人が社長だった。
その頃はあのあたりは電子部品を扱うお店、会社がほとんどだった。
その電子部品を扱うお店の店主の息子さんだったと思う。

A社はその頃はパソコンを使った画像入力・処理装置を作って販売していた。
パソコンはPC-8001,Apple-II,MZ-80などの8ビットパソコンだった。
その頃はビデオ信号をパソコンに入力するインターフェイスはほとんど無く、非常に高額
(250万円~500万円以上)な画像処理装置(単独で使用)があるのみだった。
A社それを50万円前後のパーソナルな装置を開発していた。最初の画像処理装置は
Mー4000と言っただろうか?・・・名前を忘れてしまったが、4ビットのA/Dコンバータを使ってビデオ信号をデジタル化していた。256×256画素の16階調だった。
A/DコンバータはアメリカのTRW社のもので、大変高価だった。それで4ビットタイプの装置の
D/Aコンバートは抵抗アレイで行っていた。
その後6ビットタイプ、8ビットタイプのものも開発した。8ビットタイプのTRWのADは確か60万円したと思う。今のCPU素子の2倍くらいの大きさで発熱がすごかった。
8ビットタイプのものは画素が512×512あった。当時はDRAMの容量も小さく、またFPGAも無かったので基板のほとんどはメモリー素子とそれを駆動するディスクリートのTTL素子だった。
その開発をした人はツボイ君という人だった。
ツボイ君は電子関係パソコン関係のことに詳しく、また英語も普通に話せた。確か後の奥さんは
キーボードを弾く人で音楽にも詳しかった。

それで松山君だけれど、松山君は当時確か22歳くらいだったのではないだろうか。
ツボイ君と同じく電子回路とパソコンに詳しかった。確か元はテレビゲームの基板を作っていたの
ではなかったろうか。
ツボイ君(当時は)はちょっと話しづらかったけれど、松山君は気さくな人だった。若いのでちょっと横柄なところはあったけれど、そのころ営業をしていた私を助けてくれた。
当時まともなマニュアルが付いていなかったので、私がBASICで試験用のソフトを作ってそれを
マニュアルに載せた。それとインターフェイスの回路や信号表なども載せた。それらの技術資料は
ほとんど松山君が作ってくれた。
それで営業に行く時も非常に助かった。

松山君とはお昼はいつも一緒に食べに行った。
だいたいが、日通ビルの裏の姉妹でやっていたトンカツ屋か、そのすぐ近くのキッチンジロー
か、すこし離れた中華料理店。あとはどこへ行ったろう?
そして食べた後は日通ビル脇のミスタードーナツに行ってコーヒーとドーナツを食べた。
あのミスタードーナツはまだあるだろうか。
まだあるとするともう35年以上あそこで営業してることになる。
そうだ、ドーナツのあとはジャンク屋を二人で歩いた。
用も無いものをたくさん買い込んだ。

その後、色々あり、松山君と私を含め数人は別の会社を作ることになった。
その会社もしばらくして、いろいろあり、やめてしまった。

A社の後、松山君と一緒に仕事したのは、画像入力装置の入力部の回路がトランジスタによる回路だったものを私が高速OP-Ampを使ってクランプ回路を作りビデオ信号のレベルを安定化した。
また出力回路も変更した。その頃はS-RAMも使えるものが出てきてS-RAMを使ったものも作ったように思う。
S-RAMはD-RAMよりも容量が小さかったのでさらに基盤のメモリー部分は大きかった。

その後、松山君とは仲が悪くなった。
それは、ほとんど私のせいだ。
松山君にはあやまりたいことがたくさんある。

8/24/2015

Foothill Flip ?

今、思い出した。
コマツがアメリカに行ってしばらくは彼はFoothill Flipというコピーペーパーの冊子を送ってきていた。この名前もうろ覚えなのだが確かこんな名前だった。
私の3回目の引越しのあたりまではそれを全部持っていた。
その後の引越しで無くなったようだ。
あれはA3の用紙に写真と文字で彼のアメリカ生活のことなどが書かれていたと思う。
それを送ってもらってこちらからは手紙をまた送っていた。

まあ、今考えてみるとあれは非常に応答の遅いSNSのようなものだったのだなと思う。

8/17/2015

コマツのバンジョーのこと The banjo William brought to me

コマツのバンジョーのことを書こう。

私は自分のバンジョーを持っていただろうか。
高校生の頃にバンジョーを練習した記憶がある。
あのバンジョーはたぶん降矢が持っていたものだろう。
それを借りて練習したのかもしれない。
いや、いや、いつも降矢はバンジョーを弾いて、私がギターで伴奏していた。
だから、バンジョーは貸さないだろう。
あの頃、バンジョーを買ったろうか?
そういえば、ピカピカに光ったリムのネジを締めている記憶が少しある。
あるが、それを後で売ったり、誰かにあげた記憶がない。
だから自分のバンジョーを持っていた記憶が無い。

その後大学に入って先輩達とキングストントリオのバンドを作った時には
私はバンジョーが弾けていた。フィンガーもフレーリングもできた。
だからそれ以前にバンジョーを練習していたはずだ。
その時は、ベガのロングネックを借りて弾いていた。

そのバンドをやめてから、コマツと知り合った。
その話の一部は前にも書いている。
初めてコマツと会った日のことを思い出そう。

その日は私は世田谷にあった廻沢キャンパス(理工学部)からシャトルバスで
渋谷キャンパスに向かった。
家からギターを持ってきていた。その頃のギターは神田カワセ楽器のBillyだった。
渋谷キャンパスでバスを降り、まっすぐ部室に向かった。
部室は学生会館の地下の長い廊下に沿って何室もあったが、その一番奥にあった。
部室に入って左半分(?)が「古都探索会」の部室で右側がASFの部室だった。

「古都探索会」だが、その後その部長になったのが小沼だった。
これは偶然だが、よく出来た偶然だと思う。

ASFの部室は奥側に長椅子が置いてありその対面にも椅子があったように思う。
その手前に皆のギターを置いていたように思う。
真ん中に4、5人くらいが立てるスペースがあったように思う。
その日はいつもの様にキタローと松尾と朝倉、佐藤あたりがクリームとかの歌をやっていたように思う。
・・・というかそういうシーンしか浮かばない。

私は奥の長椅子に座ってギターを抱えていた。
右にはタヌがいて、彼らの演奏を眺めていた。あの独特の笑い方で笑っていた。
たぶん、そんなことをしていたところにコマツが現れた。
ドアを開けてやたら目が輝いている男が入ってきた。
彼はアメリカとのハーフだったけれど、私は初めて会った時、そんな印象が無かった。
でも彼を知ってる人から聞くと、「彼は最初から外人だったよ」という人が多い。
実のところ私は彼がハーフだと感じたことがない。

それから彼は部室に入ってきて、皆に愛嬌を振りまきながら何かしゃべっていたと思う。
声はでかかった。
しばらくして(だと思うけれど)私の前に座って、彼は何か歌を歌った。
それが何だったのか思い出せないが、一緒に何かやったような気がする。

学校では、学校の仲間では、彼は小松沢あるいはコマツだった。
それでずっと通っていた。
彼にはコマツではない世界があるのを知ったのはだいぶ後だった。
つまり大学以前は英語名で通っていたわけだ。

そんなコマツと一緒にバンドをやるようになって、コマツはバンジョーを持っていた。
小ぶりの裏蓋の無い素朴な5弦バンジョーだ。
コマツはそのバンジョーを私に貸してくれた。
それからはステージでもほとんどそのバンジョーを使っていた。
金属のリム部が薄かったので普通のバンジョーに比べると軽かった。そのため
持ち運びが楽だった。
音は決していいとは思えなかったけれど、それが返ってマウンテン調のフレーリングを
やると実にいい音がした。あれでたぶんヘッドを何か動物の皮にしたらけっこう味が
出たのではないだろうか。

そのバンジョーはその後、コマツがアメリカに行き、私が札幌に一緒に持って行った。
時々車を海岸脇に止めて弾いたりした。
そうだ、だからその頃はまだフレーリングもできたはずだ。

それから6年後、私が札幌を後にして東京に戻った時に、そのバンジョーを会社のロッカー
に入れっぱなしにしていたことがわかった。
その会社が数年後引越しした時に、当時の友達の女性がそれを預かっていてくれた。
それから20数年年経ってからだろうか、その女性がバンジョーを小樽のモチに渡してくれた。
だからそのバンジョーは今、小樽にある。
渡してくれた女性はそれからしばらくして癌で亡くなった。
そのことも前にここに書いている。

ところで、元々コマツはあのバンジョーをどうやって手にいれたのだろう?


<追記>
本人から電話があった。
あのバンジョーは彼のお父さんのものだったとか。












8/15/2015

小沼のこと

同い年の友達がいない、と書いたけれど、いた。
小沼だ。
小沼とは大学の5年間一緒だった。
もっとも彼は大学院に行ったので、たぶん7,8年いたのだろう。
小沼は都立三鷹高校だった。
三鷹に住んでいた私は都立神代高校だった。
基本的に彼の方が頭が良かった。
あるいは彼の方が論理的思考に長けていた。

小沼は写真と山登りが趣味だった。
他に何の趣味があったのか知らない。
横田基地の近くに住んでいた。
学校の友人と彼の家に行ったことがある。
彼のお父さんがいた。
お父さんは紙に何か問題を書いて私達に示した。
確か「・・・これの答えがわかるかい?」とか言い残して消えた。
あれは数学の問題だっただろうか、ちょっと記憶が確かではないが、
少し考えただけで答えが出そうな問題だったけれど、
考えてみるとすごく難しい問題だったような・・・・

と、書いていて思い出した。
魚の焼き網のような回路網を描いて、「このそれぞれの抵抗素子に
流れる電流を出せるか?」
だった。なぜか今急に思い出した。
その時は計算できなかった。

彼の叔父さんには海法泰治さんという人がいて確か雫石事故の裁判で
独自の解釈を行っていたように思う。

彼は確かNECの関連会社の***アネルバとかいう会社に就職した。そしてドイツの
どこかの研究所に研修でずっと行っていて、そのままドイツに住むことになったとか。
彼の奥さんは確かピアノの先生で生徒さんがたくさんいたように思う。
小沼は学生の時もドイツ語が得意だった。

その後、彼はMax Planck Institute for Metals Research, Stuttgart にいた。
ということを私の先生からお聞きした。
どうしているだろう?と思ってマックスプランクのEメールが公開されていたドイツ人と
思われる(名前が・・・)研究員の人にメールを書いた。
今思うとよく書いたなと思うけれど、「小沼という日本人の研究員を知っていたら
私のアドレスにメールをくれるように伝えていただけないでしょうか?」
とかなんとか書いたと思う。

どうせメールは来ないだろうと思っていたけれど、1週間後くらいだったろうか、
小沼からメールが来た。
ローマ字で書かれていた。
それから何度かメールを交換したと思う。
そのあと会社が引っ越したりでそのままになってしまった。

今もマックスプランクにいるのだろうか?
まだドイツにいるのだろうか?
あるいは日本に帰っているのだろうか。

今会うと30年ぶりくらいになるが、これだけははっきりしている。
もう一度会った時彼はこう言うだろう。
「なんだよ、どうしたんだよ?」と
まるで数日前にも会ったように。










8/13/2015

真夏にクリスマス Christmas in summer

代官山にクリスマスカンパニーができるずっと前のこと(だと思う)けれど、
ラジオ番組で8月にクリスマス特集をやった局があった。
あれはTBSか文化放送かニッポン放送か忘れたけれど、
当時としてはすごく画期的な冗談だと思った。
日本もこういう冗談が通じるようになってきたのか、と思った。
その日の放送はいまでも少し覚えている。

冗談と言えば、タモリの冗談も画期的だった。
あの手の冗談はたぶんその前の時代では通じなかったのでは、と思う。
中州産業大学の教授もオリジナル落語も面白かった。

その後出てきたスネークマンショーも抜群に面白かった。
あの時代を過ごしてきた人は「シンナーに気をつけて壁塗んな」だけで
笑いが起きる。
面白い時代だった。

8/11/2015

コメット・イケヤ  Comet Ikeya


1966年のことを調べていたら「コメットイケヤ」のことが書かれていた。
当時NHK・FMで放送されたラジオドラマだ。
ドラマはステレオ録音の効果を最大に活かしたつくりをしていた。
YouTubeに2つのビデオがあるが、1つはモノラル録音
https://www.youtube.com/watch?v=5n7c5h75Ae8
でもうひとつはステレオ録音だが、
https://www.youtube.com/watch?v=gx9jiA24Zeg
両者ともテープのねじれやヘッドずれで完璧な音ではない。
しかし、ステレオ録音の方はまだ聞ける。
元もとの音の状態を完全ではないけれど、再現できている。
私もこの放送をテープに録音していた。そのテープがみつからない。
あるいは妹のところにあるのかもしれない。

この放送で一番記憶に残っていたのは、途中で男と少女が歌う
フランス語の子守唄Au clair de la lune だった。
この歌をいつか歌いたいと思った。
途中フランス語独特の発音がある。
それを歌えたらいいな、と思った。
高校1年生だった。

今、わかったけれど世界最古の録音された音は1860年4月9日に
フランスの実験的な音声記録装置に記録された女性の歌う
この歌だそうだ。エジソンよりも17年早い。

Au clair de la lune
 Au clair de la lune, mon ami Pierrot
 Prete-moi ta plume, pour ecrire un mot.
 Ma chandelle est morte, je n'ai plus de feu.
 Ouvre-moi ta porte, pour l'amour de Dieu.
 Au clair de la lune, Pierrot repondit :
 _ Je n'ai pas de plume, je suis dans mon lit.
 Va chez la voisine, je crois qu'elle y est
 Car dans sa cuisine, on bat le briquet.
 Au clair de la lune, l'aimable lubin
 Frappe chez la brune, elle repond soudain
 _ Qui frappe de la sorte ?, il dit a son tour
 _ Ouvrez votre porte pour le Dieu d'Amour.
 Au clair de la lune, on n'y voit qu'un peu
 On chercha la plume, on chercha du feu
 En cherchant d'la sorte je n'sais c'qu'on trouva
 Mais je sais qu'la porte sur eux se ferma.

8/10/2015

1965年~1970年頃のフォークソング American folk songs in Japan 1965

忘れそうなことなので書いておこう。
1965年というと中学生か高校生の頃だ。
最初に聴いたアメリカンフォークソングは何だったろう?
その頃は兄が聴いていたのを又聞きしていた。だから兄にきいてみるのが手っ取り早いの
だろうけれど、そうなると自分の記憶ではなくなってしまうので、思い出してみよう。

古そうなのでは、Kingston Trioの「Tom Dooly」だろうか。あるいはThe Highwaymenの
「漕げよマイケル Michael Row the boat ashore」あたりか。今読むとおかしな名前だ。
「漕げよ!マイケル」「やだよ!」「なんだよ!漕げよ!」って感じだ。
マイケルは在るであろう岸に向けてただひたすら漕いでいるだけなのに。
ほっといてやれよ、と思う。マイケルは今の自分だ。
それからPete SeagerのThis land is your landがあった。これはWoody Guthrieの曲だけれど、
ウッディ自身の歌がラジオで聴かれるようになったのはだいぶ後のように思う。

ラジオ(AM放送)でよく聴かれた曲はこのあたりの曲だと思う。
FM放送は東海大学が試験放送でステレオ放送を流していたけれど、この頃はクラシック
ばかり聴いていたせいか、FMでアメリカンフォークが流れたのは覚えていない。
60年も後期になるとブラザースフォーやPP&Mのコンサートをまるごと流していたことも
あったように思う。
テレビでも同様、PP&Mやブラザースフォーのコンサートを1時間番組で流していた。
あの頃ビデオデッキがあったらさぞかし貴重な録画ができたと思う。

70年前後は日本のフォークも盛んになってきたと同時に著作権の問題も起きてきた
ように思う。記憶にあるのは1972年のFM東海(か東京)の放送でPink Floydの東京公演
のThe Dark Side of the Moonを流したことがあった。その録音が残っているが、アナウンサーは
「これはいったいどこのバンドのなんという曲なんでしょうか・・・」と言っていた。

話を元に戻してフォークソングだけれど、評論家という人達がいた。
その人達の影響は強かった。
嘘も平気で言っていた。
Bob Dylanがエレキギターを持ってステージに上がって客からのブーイングに泣き泣き
ステージを降りた、とかいう話も当時は真実として語られていた。
誰が言ったか知らないが、その評論家の一人だ。
あとで映像を見たが客には大受けだった。
レコードには歌詞カードが必ず入っていたが、大嘘だった。
ほとんどでたらめに近い英語の歌詞もあった。

フォークソング歌集も出ていた。
アメリカ人でも知らなそうな古い歌が載った歌集もあった。
ギターコードが付いていたものもあるが、ほとんど大嘘だった。
当時まともな教則本として有名だったのがPete Seegerのバンジョー教則本だ。
ギターのことも少し書かれていた。
これはしかし教則本というよりも歴史書に近いようなものだったと記憶する。
フレーリングの類の弾き方やフィンガーピッキングの方法が楽譜と共に書かれていた。
この本はサイズが大きかった。あれは何サイズと言うのだろう?
A3とA4の中間くらいだったように思う。
その本にはブルーグラスバンジョーの弾き方はほとんど書かれていなかったように思う。
ブルーグラスバンジョーの教則本には東理夫のすばらしい本があった。
この本を最初からまじめにやっていくとかなり上達した。
特にスクラッグススタイルやドンレノスタイルやその当時の最新の弾き方が楽譜付きで
1曲全部紹介されていた。

ギターの方はPP&Mのギター教則本が出ていたと思う。・・・思う。
私は音楽雑誌についていた付録の教則本で練習した。
この教則本はすごかった。曲は有名なところは網羅していた。フィンガーピッキングも
きちんとした楽譜で出ていた。むしろきちんとしすぎて弾けないところもあった。
私のフィンガーピッキングは全部これで勉強したようなものだ。

PP&M以外のバンド、Brothers FourやKingston Trioなどは一応楽譜があった。アメリカの
出版社の楽譜だった。しかしコードも弾き方もほんとうだろうか?と思わせる内容だったと思う。
・・・あれでほんとうに弾けたのだろうか?
だいたいキーのままのコードで書かれていたから、カポ付きで書かれていたそのPP&Mの
教則本とは違い1カポのGで書けばいいものをG#から始まっていた。

そんな事情だったので、あの頃はみなレコードを聴いてとっていた。
それも当時の事情があって、すんなりとは行かなかった。
まずレコードプレーヤーの回転がいいかげん。
当時はほとんどアナログ制御だったので(クリスタルを使っていたとしても)聴いているうちに
微妙に回転数が変わってきた。
それに加えて音をとっているギターのチューニングも当時はチューナーというものは無く、
音叉か笛(ハーモニカの1音だけのやつ)で合わせていた。これがけっこういい加減。
なので微妙なコードはまず聞き取れなかった。
今だとCDとチューナーで合わせたギターは素晴らしく響きあうのがわかる。

それで最初に戻って、This Land is Your Landだけれど、これをみな歌っていた。
特に何も考えずfrom California to the NewYour island・・・だ。
当時の基本姿勢として、歌の内容はあまり考えない、というのがあったように思う。
反戦歌も古い民謡も外国の歌も同じように歌っていた。
たぶんPP&Mの日本公演の時が最初だと思うけれどThis Landの歌の時に日本の
地名を入れて歌った。From Okinawa to Hokkaidoと歌っていた。
それからだと思う。この歌を歌うときに皆意識し出したのは。
「ああ、これはアメリカの歌なんだ」と。
それからみなこのPP&M版の歌詞で歌ったように思う。
Mike Seegerの来日の時もその沖縄が入った歌詞だったように思う。

1965年~1970年頃の学校やアマチュアのコンサートは今考えるとひどいものだった。
・・・日本のフォークソングという流れも同時平行してあったのだけどね。オリジナルの歌を
歌い始めた日本人のフォークシンガーが同じ頃生まれていた。
どうもそれとは別の流れでアメリカン(外国)フォークはあったように思う。
PP&M,Kingston Trio,Brothers Four,Bob Dlylan,Donovan,Joan Baez,,,,,etc.
このあたりのバンド、グループのファンの人達はどうも吉田拓郎、かぐや姫などの流れ
とは別のように思う。

それでアメリカンフォークではあったのだけど、誰もが英語に堪能であるわけではなく、
むしろあまり得意でない人が多かったように思う。
当時色々な学校の文化祭や学園祭に行ったけれど、ほんとにひどい英語で歌っている
人達もいた。ほとんどカタカナで書かれた歌詞カードをそのまま歌っていた。
あるいは英語の発音がわからないからローマ字読みで歌っている人達もいた。
今でもはっきり覚えているのはある学校の学園祭でブラザーズフォーの「北京の55日」
を歌っていたグループだ。「ポネ、ポネポネポネ・・」と歌っていた。
その前になんで北京の55日だ?と、今思うけれど。当時は流行っていたのだろう。

その頃の流れで今もやってる人達もいるわけで、当時のまま演奏し歌っている。
各地のライブスポットでは今でもそれが聴ける。いや、ポネポネが聴けるかどうかは
わからないけれど、似たような英語発音は聴ける。
最近その手のライブに一日いた。
うまい人もいるし、そうでない人もいる。
ポリシーをもった人もいるし、そうでない人もいる。
時間が止まっているようでもあり、
確実に時間においていかれているようでもある。
しかし、これが我々の時間の先端なのだと思う。

8/08/2015

Disneyland TV series 「テレビ番組ディズニーランド」

「ディズニーランド」というテレビ番組があった。
はっきりは記憶していないが、「冒険の国」「未来の国」「おとぎの国」という
設定で様々な内容の番組をやっていた。
たぶんもう一度見れば思い出すのだろうけど、ひとつだけとてもよく覚えて
いるお話がある。それはBeethovenの物語だった。
私は中学生だった。
その番組ではベートーヴェンの伝記とともにバックに音楽が流れていた。
不思議なことにそのメロディーをほとんど知っていた。
そのころテープレコーダー(オープンリール)があって、それでテレビやラジオ
を録音して楽しんでいた。ディズニーランドのその番組も録音していた。
(今は残念ながら残っていない、BASFのテープで青いケースに入れていた)
それでそのテープを何度も聞いてほとんど覚えてしまった。

ベートーヴェンを聞くようになったのはそれからだ。
有名な曲、それほど有名でない曲ほとんどを聴いた。

今でもはっきり覚えているのはベートーヴェンがどこかの宮殿のような
建物の階段を降りてくるシーンで流れていたピアノ協奏曲第5番の第一楽章だ。
今でもその曲を聴くとテレビのシーンを思い出す。

たぶんあのシリーズでは他の音楽家もやったと思う。
でもベートーヴェン以外全く覚えていない。

8/07/2015

札幌のパルコで買った本

ひとつ思い出したので忘れないうちに書いておこう。

札幌のパルコで買った本をずっと持っていた。それを20年ほど前にヤフオクで売った。
その本を思い出した。
稲垣足穂の「月光少年」と(違った!月球儀少年)という本だった。(確か)
今検索しても出てこない。
でも、確かこのタイトルだったと思うのだが。
B5かA4くらいの、厚さが4,5センチはあった大きな本だった。
定価が¥10800だったように思う。¥9800だったかもしれない。
(この値段も怪しい)
どっちかだと思う。
その写真も残っていないけれど、群青色の本だった。
こまかな字で稲垣足穂のエッセイがつまっていた。

思い出したのは、以前書いた「偶然とは思えぬ偶然」の時に書いた
大倉山記念館のことを調べていて、映画「1999年の夏休み」を思い至ったからだ。
あの映画、地味に人気があるようだけれど、みなわかっているのか?
と思う。
あの話の原作者、萩尾望都が男であったならわかるのだが、女性があの話を書いた
というのはどういう気持ちからなのだろう。

あの話は、ひょっとすると作った側の思いとはまったく別の思いを受けて側が持って
いるのではないかとさえ思える。

Daydream Believer everyday  毎日、デイドリームビリーバー

セブンイレブンに行くとこの曲がずっとかかっている。
テレビを見ると、たぶん、一週間に1回はこの曲を聞く。
世の中の40%くらいの人がこの歌を知ってそうだ。
そのうちの40%くらいの人は歌のタイトルを知らなそうだ。
残りの40%くらいの人はこれはモンキーズのオリジナルだと思ってそうだ。
残り60%のうち40%くらいは忌野清志郎が作ったと思ってそうだ。

Johnさんが亡くなった時が68歳だった。
もうじきその歳になる。
あと数年。
でもこの歌はまだまだずっと歌い継がれて行きそうだ。

8/06/2015

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?(2)

知人に早稲田の人がいるのでその人に聞いてみた。
歌をやってる人なので話が早かった。
ザリガニーズは先輩にあたるそうだ。
それで直接ザリガニーズの人に聞いてくれたそうだ。
しかし、オオタさんのことはわからず、「あの歌詞はもっと前からあった」
ということだった。
そうなると、もう調べる手立てが無い。

たぶん、あの当時にピートシーガの歌を聞いて日本語歌詞にした人が
いたのだろう。
その後、あれほど皆に歌われている歌詞なのに、オオタタカシという
名前しか表に出ていない。
いったいどういう人なのだろう?

8/03/2015

ハスカップ酒

「ハマナスはバラ科なんだよ・・・」
初めて北海道に行った時、小沼が言っていた。
あれは8月だった。
暑い東京を後にまだ高速道路ができていない国道4号をひたすら走った。

「ハマナスはバラ科なんだよ、だからとげがある」
サロマ湖の環状になった先端の砂の道に車を停めてハマナスの花を見ていた。
「別に特別きれいな花じゃない」
その頃あの歌が流行っていた。


「ハスカップのお酒があるんですよ・・・」
友人が言った。
あれは確か釧路だった。
小沼じゃない。

そのハスカップという言葉の響きが良かった。
なぜだろう?
すごく北海道っぽい語感がした。
見たこともないのに。

ハスカップがどんな植物か知らない。
だから頭の中ではハマナスのような印象を持っていた。

「ハスカップのお酒を送ったよ」
友人が言った。
あれは深川のアパートだった。
四角い青い瓶の小ぶりのお酒だった。

私はお酒を飲まない。
すっぱかった。

8/01/2015

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?Where did Japanese "Where have all the flowers gone?" lyric come from?

花はどこへ行ったの?はどこから来たの?
Where did Japanese "Where have all the flowers gone?" come from?
Who is Takashi Ohta?
and Where has he gone?

以前NHKで放送された1時間半番組の「花はどこへ行った、静かなる反戦の祈り」
がYouTubeにあったのでもう一度見てみた。
良く出来た番組だと思った。
John Stewartもコメントを言っていた。彼らがあの歌をヒットさせた頃には反戦
の意味はなかったとか言っていた。確かにそうでもなければ大統領の前では歌えない
だろう。
それはいいのだけど、日本語のあの歌詞はいったい誰が書いたのだろう?
それについては説明されていない。
ネットで検索してみると「おおたたかし作詞(安井かずみ補作)」とある。
安井かずみはいいとして、この”おおたたかし”氏とは誰だろう?
検索しても出てこない。
どうやらザ・リガニーズがおおたたかし氏の歌詞で歌ったのが日本で最初の日本語
によるこの歌だったらしい。
それではおおたたかしという人はザ・リガニーズのメンバーだったのだろうか?
と思い、ザ・リガニーズを調べてもメンバーに”おおた”という人はいない。
実際問題、これ以上の情報が出てこない。

1960年から1970年頃が日本での外国フォークソングが流行った頃だと思うけれど、
英語歌詞で歌う人と日本語歌詞で歌う人は半々くらいだったのではないだろうか?
当時いろいろなアマチュアコンサートに行ったけれど、日本語で歌われていた
ことが多かったような気がする。
おおたさんの日本語歌詞については今になっていろいろ言ってる人がいるけれど、
何か文句のある人は1965年に戻って言ってきてほしいですね。
ショーロホフもいいけれど、おおたさんを探してほしい。