10/06/2024

何もできない

 どうもこのところ何もできない。
ただいたずらに時間が過ぎて行く。
ちょっと前までは「まあ、それもいいんじゃないか」
と思っていたけれど、このところほんとに何もする気が起きない。
だからちょっと車を走らせてみたりしている。
でも全く建設的じゃない。
建設的の反対語は?
・・・「破壊的」「後ろ向き」「否定的」 だって。?
違うなあ「怠惰的」「無気力的」「どうでもいい的」とかの方が
ぴったりくる。
建設的は創造的?
ま、いいか。
とにかくそんな感じ

何かやらなくちゃいけない、
という気持ちがいつもひっかかっている。
そう、もう先も見えてるんだから
1.何もしないで過ごす
2.何か創造的なことをする。
3.何か創造的っぽいことをしてごまかす
4.やり慣れた何かをやってごまかす
5.上記を考えているという体で過ごす

のどれか

10/05/2024

天国のことを考えてみよう

 どうでもいいことだけど

「向こうでまた会いましょう!」とか
「天国で母に会いたい」とか
言うけれど、相手はどう思っているんだろう?
つまり「天国で両親に会いたい」とか思ってるっていうことは
両親は”親”の状態で天国にいると思っているわけで、
自分はその”子供”の状態で会うというのを想定している。
しかし親にしても彼らの両親がいるわけで、
またその彼らもその両親がいる。
それがずーーとつながっていて
天国には相当多くの肉親・親戚が集まっていることになる。
しかもたぶんみな高齢者だ。
幼くして亡くなった人たちもまあその中にいるのだろうけど。
天国も高齢者世界だろう。
私の親関係者だけでも数万人はいそうだ。もっとか?
まあ人類が何万年前に生まれたかにもよるけど、

それでだけど、かなり前までさかのぼると世界中の人が
かなり少数の親にたどり着くんじゃないだろうか?
世界中の最近死んだ人はその巨大家族に含まれることになる。
つまり天国では国籍も年齢も関係なくただ一組の両親
から派生した大勢の人達が一堂に会することになる。
「天国なんて無いと思ってごらん」とか言ってる場合じゃない。

ひとつ問題はその大勢の人達が一堂に会する場所があるかという問題だ。
おそらく3次元的な空間をイメージしたらすぐに満杯になってしまう。
だから、おそらくフラクタルの構造というかマンデルブローのような
構造になっていて、奥行きは無限にあるのだと思う。
それであれば何人いようと関係ない。

天国に行ったら謝らなければいけない人がたくさん居そうだ。
まず謝罪会見を開かないといけない。
天国に入るのはそれからだ。
それで許してもらえなかったら、
一人で天国の旅に出よう
どこかで同じようなやつに会うかもしれないし
天国で一人旅もまたいいかもしれない。

9/30/2024

諸橋近代美術館に行ってきた

 問題はドライブだ。
夜7時にここを出て向かった。
夜の方が車が少ないだろう、と思ったのが間違いだった。
都内を抜けるのに2時間もかかってしまった。

もともと一人でドライブするのが好きだ、
と思っていたのだけど、
やはり歳をとるとそうもいかないみたいだ。
郡山についたころにはかなり疲労した。
パーキングに車を停めて少し眠ろうとしたが
眠れない。もう2時を回っていた。
ショップでココアを買って車で飲んだ。
そしてイスを倒して横になって、
気が付いたら5時だった。
しかし眠った記憶が無い。
2時から突然5時になった感じだ。

頭はすっきりしたので向かうことにした。
現地には6時には着いてしまったので、隣の五色沼に行ってみた。
五色というくらいだからいくつも沼があるわけだけど、
駐車場のところの沼しか見なかった。
別のところにも向かってはみたけれど、
「熊に注意」の看板を見てやめた。
しかしあの沼は水がきれいなせいで沼の湖底がはっきり見えて怖い。
9時半まで時間をつぶして美術館を観た。
この写真、やっぱりこうなるだろうな、
という写真なのだけど、諸橋近代美術館で検索すると
同じような写真が五万とある。
それをわざわざ撮ってしまったのは笑える。

帰りも一人でドライブだ。
一人は疲れると思った。
話もできないし、眠くなるし、
今回のドライブでわかったことは
もう長距離を一人でドライブするのは無理かな?
ということ。
昔はあんなに一人で走り回っていたのに。
気持ちだけは走り屋なのだけど






9/29/2024

Contactの続き

 映画「コンタクト」で知ったことがある。
ペンサコラだ。
これがフロリダ州なのだけれど、
フロリダ州ってあの半島のところだけだと思っていた。
この映画に出てくるペンサコラはもうミシシッピ州やルイジアナ州に近い。
そこまであるとは思わなかった。
実際に映画を撮影したのはフィージーの方らしいけれど、
一応それらしい場所は無いか?と調べたら
内海の方の海岸が最も近いような気がする。
映画の中では木はヤシの木だけれど、
ここは松の系統みたいだ。
でも雰囲気は似ている。
誰かがこの雰囲気のところをイメージしたのかもしれない。
フロリダ州は私が行ったことのある数少ない州のひとつだ。

もう一つ気になったのは訳だ。
特に気になったのは主人公が状況を説明しようとするところで
I don't have any ideaとかなんとか言うのだけど
日本語訳は「夢のようだ」となっていた。
ほんとは「わからない」とかだと思うけど。
感じがだいぶ違う。
ああ、日本語音声の方はどうなっているだろう?
もう一度後で見てみよう。

9/28/2024

映画 Contactをまた観た

 約3カ月くらい前に買ってあったブルレイを今日やっと見た。
テレビで何度か見たのだけどじっくり見たいと思っていた。
それで見て思うのは、この映画はカールセーガンの話にどれくらい
忠実に描いているのだろう?ということ。
ちょっと小説の方を読んでみようと思う。
疑問はこんな感じ

今まで前に見た感じでは「宇宙人は(あるいは他の星に知性人は)
存在するか?」がメインテーマだと思っていた。
しかし(映画では)最初から最後まで流れているのは
「あなたは神を信じるか?」 あるいは
「神は存在するか?」だ。
宇宙人だのSETIだのはどうでもいいのだ。
前半のテーマは「宇宙人の存在は神を冒涜する」ということ
だと思う。
彼女(主人公)は科学は信じるが神を信じることはできない。
後半のテーマは「あなたは科学の結果を信じることができるか?」
だと思う。
科学的な実験の結果は自分しか経験できなかった。
それを他の人に「信じろ」と言えるのか?だ。

ただ単に「宇宙人は存在する」ということをテーマにするなら
もっと別な表現方法があったと思う。
あんなに面倒なストーリーにする必要が無かったと思う。
しかしカールセーガンは(たぶん)あの彼女と同じ
苛立ちをいつも持っていたのだと思う。

原作を読んでみないとわからないけど。

一つ今回気が付いたことがある。
それは、以前にも書いたように秘密基地が北海道にあるのだけど、
その北海道の大きさをあまりに小さく考えている。
あれだと伊豆大島くらいの大きさしかない。
装置の大きさを考えるとあれでは小さすぎる。

9/25/2024

アパート(マンション)を買った時のこと、売った時のこと

 離婚して(正確には離婚届けはまだ出せなかった)一緒に
暮らし始めたのは、仲町台のイトーピアという単身者用の
マンション(アパート)だった。そこに二人で住んだ。
6畳くらいの一間にバスとトイレそれに簡単な台所がついていた。
そこは単身者用だからほんとは二人はダメなのだけれど
他の部屋にも二人で住んでいる人は結構いた。
とにかく家賃が安かった。
それに鉄筋だったから音も響かなかった。
そこにどれくらいいただろう?
香港の娘もそこに来たことがあった。
どうやって寝たんだろう?
まったく思い出せない。
とにかくそこで喧嘩しながらしばらく住んだ。
喧嘩の原因は元妻がなかなか離婚をしてくれないことだった。
そのころのことは思い出したくない。

たまプラの会社にもそこから出かけた。
あれはいつ頃だったろうか?
たぶん2000年代の最初のころ、
ある日、仲町台からセンター南まで二人で歩いた。
そしてセンター南へ行くぺディスタルのところで
妻が「このマンションいいわね」と言った。
新し目のマンションだった。
私も「そうだね」と言いながら駅に向かった。
駅の構内の左側に不動産屋があった。
「ここで聞いてみようか?」ということになり、
お店に入って「あそこのマンション空いてませんか?」
と聞いた。
するとその男の店員さんが、奥へ行って書類を持ってきた。
「実はつい先日あそこから引っ越す人が出ました」
という。
そのマンションは築3年でその人が最初の退去者だった。
早速「そこを買いたい」という話をした。
まだ前の人が住んでいたけれど中を見せてもらった。
その部屋は2LDKの北向きだった。
そのころは北側は何も無かった。
遠くたまプラや武蔵小杉まで見渡せた。
すっかり気に入って買う方向で話を進めた。
その時の金額が¥2300万円だった。

しかし手持ちのお金はほとんど無かった。
たぶん20万円くらいしか無かった。
頭金も払えないのでどうしたもんだろう?と考えた。
すると私は父から土地を相続していた。
その土地は病院の駐車場になっていた。
毎年その病院から100万円が入ってきていた。
しかし他に宛が無いのでそこの土地を売ることにした。
水戸の不動産屋に連絡して水戸まででかけた。
そして病院にも話を持って行ってくれた。
病院は土地を買わなかった。
しかし駐車場の管理会社が買ってくれることになった。

そこで問題は、親戚関係だ。
猛反対にあった。
妹や親戚から怒られた。
しかしそれしか私には無かったので怒られながらも
うる手はずを進めた。
土地の登記簿の間違いがあり土地の区画を確認するために
いなかの隣の土地の人とも立ち会ってもらった。
その人も同じ姓の人だった。でも気持ちよく対応してくれた。
しかし少し遠くから見ていたやはりその近所の人達がいたが、
明らかに私の方を指差しながら不満を言っていた。
つまり地元以外の人間に土地が渡るのが許せなったのだろう。

そんなこともあったけれどその土地は売ることになった。
手続きがあるのですぐに現金化できるわけじゃない。
市役所の登記簿の書き換えがだいぶかかるようだった。
でも売買の話は進んでいた。
確か4500万円くらいだった。

それで購入するマンションの方だけれど、
最高に良い場所だったので他の人にでもすぐ売れそうな
物件だった。
その頭金が無かった。
水戸の方はあと2週間はかかりそうだった。
2週間で済むかどうかもわからなかった。
それで妻が実家から借りられるかも、ということになり。
幸いお母さんが400万円を貸してくれた。
それで手続きを進めた。
家は1か月後にリフォームして入れることになった。

問題は即金で全部払うか、ローンにするかだった。
まだ離婚できていない前の家族には毎月お金を送っていた。
その頃は毎月40万円を送っていた。
それが問題だった。
会社の方は前の社長が降りて私に会社を譲るという話が
その前に進んでいた。
それまではその社長から役員報酬でお金をもらっていたのだけど
会社は一度解散するのであとは自分で稼がなくてはいけない。
それまで社員が10人ほどいたけれど全員別な仕事に就いたので
とりあえず私ひとりでやらなくてはいけない。

その頃はもう一人長野に住んでいる人と一緒に仕事をしていた。
各地の工場に収める検査機を作っていた。
なんとかそれでやっていたけれど、一人の力量ではどうしても
無理がある。いろいろ仕事を受けたけれど、どれも満足のいく
結果にはならなかった。
だからお金もそんなに入らなくなった。

そんな時だったから現金は欲しかった。
それでマンションはローンで買うことにした。
当時50歳だった。
25年ローンだった。
よくそんなローンできたな、と今は思う。

土地を売ったお金が入ってきたけれど、それが時期になくなるのは
目に見えていた。
なぜなら毎月前の家族いお金を送っていたら10年ももたない。
しかもちょうどその頃、会社に置いていたサーバーが乗っ取られるという事件
が起きて、そのサーバーの一部を貸していた会社の
ホームページと顧客データが取り出せなくなった。
それの修復に300万かかるとか。
会社には金が無かったから自腹ではらった。
そのほかにも百万単位でお金が出て行き、
残りが半分くらいになってしまった。
しかたなく元の家族には送る金額を減らしてもらって送った。
それで案の定10年しないうちに土地のお金は無くなった。

しかも長野の人と二人でやってきた仕事も止めたので、
あとは一人で仕事をして行かなければならなくなった。
その頃まだビデオ映像やレコードやカセットをDVDやCDにするという需要が
結構あったので、それを会社としてやることにした。
最初はDVDデッキ2台とビデオデッキ2台だった。
それをフル稼働して毎月250万くらいの売り上げになった。
宣伝はインターネットのホームぺージだけだ。
ホームページをYAHOOの上位に持っていかないといけないので、
そのための費用が結構かかった。
今思うとあんなに躍起になってトップ掲載をしなくても
良かったんじゃないかと思う。

それで会社の家賃や諸費用と家のローンと元家族へのお金、
保険料だとなんだので毎月ほぼトントンか少し赤字。
それでなんとかやって行った。
たまプラは家賃が高いのでセンター南で安い事務所を借りた。
安いといっても事務所だから17万くらいした。
(たまプラは50万だった)
しかしなんとかやって行ったと言っても毎月赤字ギリギリだった。
そんなことをしているうちに香港の娘をこっちに呼ぶことになって、
一緒に住むことになった。
当時は中学生だったから良かったけれど、
すぐに高校入学ということになった。
私立だったから入学金が必要だ。
でも手持ちがないのでお金を借りることにした。
横浜信用金庫からかいしゃ名義で300万を借りた。
その中から娘の学費も出した。
・・・ちょっと待て、横浜信金は娘が大学に入る時だったかもしれない。
しかしまあなんとか大学も卒業させることができた。

そのうちオーストラリアに留学していた香港の息子が日本に来る
ことになって狭い家に4人で住むことになった。
その時はほんとに大変だった。
狭かった。
しかも私はその前に事務所を借りるのをやめて自宅で仕事を
することにしたので、家のリビングはもうなんだかわからない
状態だった。
それでも昔からおお客さん(幼稚園、小学校、中学校、高校、ダンススクール、ピアノスクール、一般のお客さん)が来てくれたのでなんとかローンを
払えるくらいの売りあげにはなった。
しかしローン以外の出費がきつかった。

それで市民税が払えないということが2回あった。
1回目は区役所に行って相談した。
そしたら「どこかで借りて払えませんか?」と役所の若いのが
言うので、頭に来てどなった。
そしたら奥から上司らしいのが出てきて、分割でいつまでにという
話になって、
それはそのまま払えた。

2度目も区役所に行った。
払えないと言った。
すると「一度差し押さえになりますが、いいですか?」と言う。
出せるものは無かったので、なんでもやってくれと言った。
そして差し押さえの書類を渡された。
「一応、資産を調査しますが、よろしいですか?」というので
どうぞと言った。
もう土地のお金も無いし。
それで数日後に呼び出された。
区役所に行くと担当者が、
「使えるお金が見つかりましたのでこれを充てます」と言う。
何だろうと思ったらずいぶん前に入っていた保険が満期のままに
残っているという。
その分が60万くらいあった。
それで払えなかった住民税を払って、かなり戻ってきた。
良かった。
そんなお金自分じゃ絶対探し出せなかった。

とかやっているうちに、年金が入る歳になった。
早速年金の手続きをしよう思った。
すると前妻から年金は年金分割にしてほしいと言う。
もう前妻に送るお金も無かったので、分割にする手続きをした。
だから年金は自分のところには半分しか入らない。
それでも良かった。
前妻はそれで離婚の手続きに判を押してくれた。

それで少しは平和になった我が家だった。
それからしばらくセンター南のその家に暮らしていた。
仕事も細々やっていたので年金+それでなんとかやっていた。

マンションに20年くらい住んだ頃に、
ポストにたくさんチラシが入るようになった。
それは「家を売ってください」というものだった。
「へえ~」と思っていた。
その頃は北側に大きなマンションが建ってしまったので
景色は武蔵小杉の方向がほんの少し見えるだけだった。
うちはまだましで、東側にもマンションが建ったので
東側の人はほとんど景色は見えなかった。
西側もショッピングビル、南側はまだ道路があった。

それでいくらくらいだろう?と思った。
妻がいくつかの不動産屋に聞いてみた。
最初のとこはあんまりはっきりしなかった。
2件目のところはいろいろ調べてくれて、
「4000万出すところがあります」と言う。
「え!?」と思った。
大きな不動産会社だからでたらめではないだろうと思った。
それで他にいろいろ来たけれど、そこに頼むことにした。
同時に転居先のマンションも探してもらった。
今住んでいるところなのだが。
そっちの手配もやってくれた。
結局2300万で購入したものが4000万で売れた。
それとローンの残り(実にまだ数年残っていた)も解消した。
新居の方は息子のローンにした。
その頭金だのなんだのでだいぶ減ったけれど、
まだ手元にはいくらか残っている。

聞いたところ前のマンション(2LDK)は5000万で売れたとか。
センター南はすごいと思う。
まあ、駅まで走れば3分だったから。
それを買えたのはラッキーだった。



パリ、テキサス

 アマゾン・プライムで「パリ・テキサス」が見れるようになった。
それで観ている。
前にも一度見た。
その時は途中までだった。
父親と子供が一緒に学校から歩いて帰るシーンだった。
前に見た記憶はそこまでしかない。
その理由が分かった。
とても見ているのがつらいシーンだ。

今それよりもずっと後まで見ている。
多分あと1時間くらいで終わる。
ああ、話はもっと辛くなってきたなあ
そうですか、そういう風に終わるのか?
ちょっと待て、映画はそれでいいかもしれないけど
観ている方はどうしてくれるんだ?




9/22/2024

横尾忠則と宇野亜喜良

 再放送の日曜美術館を見ていた。
あの番組、解説する人がうるさいからたいてい
音を消してみているのだが、今日はずっと聞いていた。
宇野さんの話が面白かった。
宇野さん、と言っても私は雑誌でしかしらないけれど、
あの絵は強烈に70年を思い出させる。
あの女性の感じも当時いた誰かを思わせる。
私はえの才能というか描く技術も無いから心に描いた
ものを絵にすることができない。
絵が描ける人はいいなあと思う。


先日古い紙類を見ていたら小学校の時の写生会で
賞をもらった時の賞状があった。
「そういえばこんあことあったなあ」と思い出した。
今はもうない三鷹の1中の東側の畑であぜ道にあった1本の木
を描いたものだった。
今でもそのときのことを少し記憶している。
あぜ道に座って木の枝を一本一本描いた。
多分その努力で賞をもらえたのだと思う。

その数年後大阪の高槻に行って高槻の小学校で写生会があった。
皆で駅の方に行ってそこらへんの絵を描くことになった。
私は駅とその手前の線路と架線と電柱を描いた。
画用紙の半分より下にそれを描いて、上は空だった。
そこに先生(担任)がやってきて
「もっと大きく描け、電柱を上いっぱいいっぱいに」
とか言った。
私は言われるがままに大きく描きなおした。
でも今でもあれは最初のがよかったと思っている。

変な先生でね。
めちゃくちゃローカルな関西弁でしゃべって、
癖もひどくて、何言ってるかわからない時があった。
よく覚えているのは算数の授業で、
X+3=6 という問題を書いて
「エッキュス プラス サン」と言った。
それを受けて誰か生徒も「エッキュスは3です」
とか言った。
「エッキュス」って何だろう? とその時思っていた。

工作の授業でボール紙で何かを作ることになった。
私はホバークラフトの模型を作った。
それはその前にホバークラフトの写真を見て格好いいと思っていたから。
その時は自分ではすごくよくできたと思った。
今考えてもあの曲線はどうやって出したんだろう?と思う。
楕円形のスカート部分の上に運転席の部分を作った。
それを職員室で先生に見せた。
「なんだ?これは?」と言った。
私は「水陸両用のホバークラフトです」と言った。
「なんだそれは?自動車か?」と先生は言った。
知らなかった。
ほかの先生もホバークラフトを知らなかった。
私は意気揚々とそれを教室に持って帰った。
田辺だけがわかってくれた。

あれは最初の日だったろうか、皆で(5人くらい)で方向が一緒の
生徒と一緒に帰ることになった。
誰かが「帰りしな**に寄るんやけど、どうや?」
とか言われた。
わからなかった。その「しな」って何だろう?と思った。
その「しな」を理解するのは1週間くらい後だった。
「おまえそれかんしぇーわぁ」と言われた。
「かんしぇーわぁ」がわからなかった。
それはだいぶ後までわからなかった。
後で「感じ良い」という意味だとわかった。
ずっと後になって大人になってから大阪出身の人に
「かんしぇーわぁ」って使う? と聞いたら
「いや、使ったことない」と言われた。
じゃんけんは「インジャンホイ!」だった。
あといろいろあったけど、忘れた。
その学校は1年しかいなかったけれど、
強烈な大阪体験だった。

その番組の最後で横尾さんが、
「90歳をどう思う?」とかいう問いを宇野さんに投げかけた。
それを聞いて、私は
そうだなあ、90歳もいいな、と思った。
この前はあと8年は生きるとか書いたけれど、
90歳までは生きようかなと思う。
なんとか

思い出した、ソウルイートでかかっていた意外な曲

 サイモンとガーファンクルの「明日に掛ける橋」がよくかかっていた。
あの店の雰囲気としては意外だと思う。
もちろんアルバム全曲かかっていた。
というのも理由はたぶんアルバムの中の「バイバイラブ」
が4chで再生すると歌と(ステージと)観客が前後に
立体的に聞こえたからだと思う。
当時その曲がマトリクス4chでもきれいに分離して聞こえる
というので話題だったから。

4chで言うとピンクフロイドの「モア」もそうだった。
モアのテーマはあの店の中をぐるぐる回るように聞こえた。
よく覚えていないけれどアンプがサンスイの4chアンプ
だったように思う。(違うかもしれないけどどこかの4ch)
それでディスクリートの4chでなくてもマトリクスで
4chが再生できていたと思う。

ああ、それと原子心母裏面の「アランのサイケデリックブレックファースト」
あれも4chで面白く聞こえた。
むしゃむしゃとコーンフレークを食べる音が頭の中で鳴っていた。

意外ではないけどジョージハリソンの「マイスイートロード」
もよくかかっていた。あの重いギターのストラムが気持ち良かった。

逆光

 遠くを見ようとすると白くてまぶしいものが先にあって
よく見えない
手で遮ろうとしても白く輝いたものが
手の陰から覗いて
よく見えない
その代わり後ろがよく見える
くっきりと はっきり見える
どうやら前は見えないようだ
その白く輝いているものが邪魔している


9/21/2024

今だから思うこと

 写真だけど今では小さなカメラ、スマホも含め、で高画質の撮影
ができる。動画もOK.
1975年~1980年頃に戻って、今の知識であの当時に小さな
デジタルカメラって作れただろうか?
一番の問題はデータを入れておく媒体が無いということだろう。
デジタル・メモリーは4KBのものでもIC1個分あった。
SRAMもDRAMも同様だった。
あれで高画質のカメラを作ろうとしたら大変な大きさになっただろう。
ICを高密度にできるのはだいぶ後の話だ。
だから一部カメラメーカーではフロッピーディスクあるいは
独自の磁気ディスクにデータを入れようとした。
しかもアナログ信号をだった。
テープレコーダのようにアナログ信号を記録し
アナログ信号を再生するタイプだった。
解像度はえらく悪かった。
たぶん250X250くらい。
しかしこれが一番サイズが小さかった。
一眼レフよりも小さかった。
今考えても当時在った媒体を考えるとそんなものだろう。
DAT(今はもう無いが)に映像を入れるタイプもあった。
それも似たようなものだ。
たぶんカメラは今の知識だけ持っていても小型化は
できなかったと思う。

それでパソコンだけど、
1978年頃だろうか、そのころまで戻って今の知識を使ったら
何かできただろうか?
常々思うのはあの当時ビルゲイツになれた人はたくさんいたと思う。
マイクロコンピュータ自体は今からすると非常に単純だし、
基本的な構造を知っていれば作れた。ビルゲイツもそのコンピュータ
を使っていたはずだ。
ソフトウェアだって基本的なことを理解していれば、作ることはできた。
今思うと、ほんの少しの努力だ。
それと未来をどこまで見ることができたか?だ。
ビルゲイツはそれができたのだろう。
今、1年あげるからインタープリター型のBASICを作れ
と言われたらできると思う。
もちろん当時のコンピュータで。
いや、当時であっても作れと言われたら作れたと思う。
だけどそれができなかったのは未来が見えなかったからだろう。
知り合いにも自分で開発ソフトを作った人がいた。
あの人に未来の見える企業が出資していたら日本に
マイクロソフトができていたかもしれない。

やはり1980年頃がキーのように思う。
現在の知識を持った人間をあの当時に送り込んだら
今の世界はもっと違ったものになっていたように思う。

パソコン

 「パソコン」という言葉は嫌いだ。
と同僚のエンジニアと言っていた。
たぶん1982年頃だ。
「マイコン」という言葉が使われなくなった後だ。
だから二人で「パーソナル・コンピュータ」と言っていた。
いつからか全部がパソコンになってしまったので
パソコンと言うことにした。

そのパソコンだけど、先月新しいのを買った。
DellのサイトからDell直々に買った。
そこそこの値段がした。
買った理由は普段使いのパソコンがWindows10だったから。
もう1台Core-i7のWindows11のパソコンがあったのだけど
それを妻に取られたから。

そのDellのパソコンだけど最初から数日でおかしな動作を
するようになった。
使わずにおいておくと勝手に落ちる。
また何かのきっかけで再起動しなくてはいけなくなる。
そうこうしているうちに再起動ができなくなった。
しかたなくDellのサポートに電話した。
中国人が出た。
片言の日本語だけど長い時間親切に対応してくれた。
しかし、最後は「ハードウェアは大丈夫ですが、
WindowsのOSが壊れているので、後でメールするところから
再インストールしてください」だと。
それで、それをやったのだけど途中で「再起動してください」
のメッセージが出て止まる。
同じことを3回やった。
どうしてもできないので諦めた。

それでそのクソサポートの言うことは無視して、
Windowsをクリーンインストールすることにした。
たいしたデータは残っていないはずだから全部消すことにした。
それで電源投入、ファンクションキー連打という一連の作業を
始めたら、クリーンインストールはうまくいった。
すべての作成データは消えてまっさらなWindows11
になった。
それからマイクロソフトのソフトの設定があるのだけど
いつもなら全部飛ばして、白紙から始めるのだけど、
今回は全てマイクロソフト様の言うとおりにやった。
そしたら忘れていたのだけどOne Driveにお金を払って
スペースを借りていたのを思い出した。
それでなんだかんだ前のデスクトップも画像データも
復元されて元のままのパソコンになった。

たぶんこれでうまく動いているはず。
Windowsの欠陥部分もOSの再インストールで
修復されたはずだ。

まあとりあえずこのまま使ってみよう。