6/29/2017

Buffy Ford Stewart

今朝メールボックスを見たらYouTubeにコメントが入ってるのがわかった。
英語で入っているから誰かがコメントを付けてくれたのだと思った。
読んでみると大変な人からのメッセージだとわかった。
Buffy Fordだ。

Hi Kogowa, I just discovered this and it is so beautiful. Thank you for this and thank you for all the beautiful songs that you play of John's. I just released a new record called, Once Upon A Time. I am the widow of John's, Buffy Ford Stewart and many of the songs on my new CD are JOhn's songs, and many are originals. You might enjoy listening to the CD. And Thanks again for keeping John's music allive. YOur playing is really, really beautiful. Don't stop! All My Love, Buffy

20代のころからずっとJohn Stewartの歌を聞き続けて、Johnさんももう亡くなってしまい、会うこともできなくなってしまったので、Kingston Trioの頃に見て置けば良かった
と今になって思っていた。
このメッセージは全くの不意打ちだった。
Buffy Fordの声はJohnのアルバムの所々に聞こえてくるが、あの声があると無いとでは全く違ったものになっていただろうと思う。Johnはあの声にやられたのではないだろうか。



若い頃はこの写真に憧れたものだった。
二人とも格好いいと思った。
確かこの写真はSunstormの中ジャケットに白黒で載っていたものじゃなかったろうか。

もうずっと前からBolinasという歌をやりたいと思っているけれど、これにはBuffy Fordの
声が無ければ”ならない”。あの声は他にはいない。だからできない。
一緒に歌いませんか?と言ってみようか。。。
とも考えたけれど言い出す勇気が無い。

メッセージの最後の「止めないで」っていうのが突き刺さる。

6/25/2017

悲愴

今日久しぶりに不思議なことがあったので書いておこう。

お客さんから古いオープンリールテープを14本預かった。
中身がわからない。
中に結婚式の録音があるはず、というのでそれを探しながら聞いていた。
何本かはテープが変形してしまって再生できない。
たぶん1960年から1970年頃のテープだ。
ひどく酢酸の匂いがしてテープはワカメ状になっていた。
結婚式のテープは2本あると言われた。
1本はみつかった。
最後の1本をデッキにセットしようとしたらリーダーテープがはがれた。
良くあることだ。というよりつないだ部分はほとんどはがれてしまう。
新しいリーダーテープをつなぎながらチャイコフスキーの6番の出だしを
口ずさんでいた。
悲愴なんてもう何年も聞いていない。
テープをセットし終わって再生始めたらどこかで聞いたメロディーが
低く流れ出した。
あれ?と思った。
「悲愴」だった。
あれ?一度かけたっけ?
と思ったけれど、リーダーテープが切れていたからかけていない。

こういう数秒前に起こることがわかるのはずいぶん久しぶりだ。
中学、高校の頃はよくあった。
「デジャヴーじゃないの?」とよく言われた。
デジャヴーは何度も経験している。
でも起きたことを以前あったと感じるのではなく、
起きる前にわかるのだ。
はっきりとではなく、ぼんやりと見える、聞こえる、感じる。

人に言っても誰も信じないだろう。
でも、自分としては結構普通に起きることだ。
そういえば母は天気を言い当てた。
ほぼ完ぺきだった。
母に自分は「たぶんお母さんの記憶を持ってるよ」と言ったことがある。
前にも書いたかもしれない。
自分の夢を詳細に母に話した。

 真っ暗な空の下に壊れたビルが建っていて、その間に大きな机か台があった。
 その台の上に誰かが横たわっていた。顔は見えない。
 その人も真っ黒だった。
 言い知れぬ不安感があった。
 あまりに怖くて下を向いた。
 
「夢でもその夢を良くみるんだ」と言った。
母は驚きも否定もしなかった。
「そうねえ、それはあの時の景色ね」というようなことを言った。
どの時か私にはわかった。

考えてみると母は不思議な人だった。

6/24/2017

大麻?野幌?江別?

どうしても思い出せないことがある。
北海道で最後に出たコンサートは、あれはどこだったんだろう?
ずっと江別だと思っていたけれど、今Google Mapを見ていたら
あれは大麻だったかもしれないと思った。
酪農大学の学生が何人かいたから江別よりも大麻の方が学校に近い。
江別市民会館だと思い込んでいたけれど、今の市民会館はすごく立派だ。
あんな建物じゃなかったと思う。

あのコンサートの日は吹雪だった。
ステージの脇に楽屋だったかな?部屋があってそのガラス窓から外の
吹雪が見えていた。大雪だった。
私は友人のNと後のNの奥さんのトッピ、それにひげちゃんとのグループ
で出て歌った。3曲くらい歌った。

あれが北海道のステージで歌った最後だ。
NSPの「さよなら」を歌った。
トッピの声がまだ耳の奥に残っている。

どうやって行ったのか、吹雪の中どうやって帰ってきたのか、
まったく思い出せない。

野幌というともう一つ思い出がある。
当時私は28歳くらい。
フォークの集まりの皆は学生だから19歳~23歳くらいだった。
だからちょっと入って行けないところはあった。
皆は気にしなくていいでしょう?と言ってくれていたけれど。

夏だった。
その集まりの皆で、野幌森林公園の百年の塔の下のところで歌を歌おう
ということになった。
私はちょうど用事があったので「行けない」と言った。
でもその日の用事が早く終わったので行ってみることにした。
公園の駐車場に車を停めて、公園を探し歩いた。
すると百年の塔からは少し離れたところに若い人たちが輪になっているのが見えた。
100m以上離れていたので誰も私には気が付かなかったけれど、
私には彼らが騒いでいる声は聞こえた。
しばらく立ち止まってしまった。
そしてどうしてもそこに加わることができなかった。
そこから走って車まで戻って、アパートに帰った。
あれ以来だと思う。
彼らには会っていない。

6/22/2017

母のいた町

母は廣島で原爆に遭う前は鹿児島にいたはず。
母の鹿児島県立第一高等女学校 2598年卒業アルバムを見てみた。
その前に2598年って何年だろう?
アルバムの中には昭和13年3月と書いてあった。
1938年だ。戦争に入る3年前だ。



おかしな話だがアルバムを見ていると母は結構かわいらしい感じだったようだ。
目のあたりは私に似ているように思う。

このアルバムには最後のページに生徒の現住所が書かれている。
鹿児島市西田町38 とある。
この住所は今はもう無いようだ。
でも西田という地名は残っている。
1945年の航空写真と照らし合わせてみると、このあたりだろうと思う。


他のアルバムに同じ頃の写真があった。

また別の写真は、これは学生の頃ではないだろう。
だいぶ後のようだ。

気のせいか、バックは瓦礫のように見える。
家も崩れているように見える。
これはどこだろう?
廣島ではないだろう。
母は大怪我をしていたはずだ。
でもひょっとすると廣島かもしれない。
廣島の後は茨城に帰っていたから、これは水戸かもしれない。
水戸も空襲を受けただろう。
時代もわからない。
何もかもわからない。

この写真が好きだ。
たぶん結婚前の写真だ。

追記:
書き終わってから考えたのだけれど、このアルバムは廣島原爆の7年前のものだ。
母はいつ廣島に行ったのだろう?
もし鹿児島の後すぐに廣島に行ったとしたらこのアルバムは残っていなかったろう。
あるいは拾い出して持っていたのかもしれないが、とてもきれいな状態だからそれは
考えられない。
廣島の家は爆心から1.7kmだった。その距離は壊滅地区だ。
とするとこのアルバムは水戸に残っていたものなのだろう。
母は鹿児島から一度水戸に戻り(父親が役人で農業・営林の仕事で日本各地を回っていた)
また広島に行ったのだろう。

6/10/2017

そこに山があるから

マロリーが本当にこれを言ったかどうかしらないけれど、
私が子供のころから
「なぜ山に登るんだ?」
「そこに山があるから」
という言い回しを何度きいたことだろう。
それもこの言葉をあまりに適当な発言だという意味合いで紹介されていた。

歳をとって、この言葉を改めて読んでみると
これは当然のことというか、これ以外に理由は無いだろうとおもうくらい
的を射たことばだと思う。

自分の人生をいろいろ思い出してみると、
それをしなければいけなかった様々なことを思い出す。
会社に入って仕事をして家に帰ってまた仕事をしてという
の繰り返しの中で様々なことにも挑戦もした。

マロリーにとって山に登ることは人生の一部に過ぎなかったのだろうと思う。
かれは「わざわざ」山に登っていたのではなく、
それが彼の人生だったから山に登っていたのだろう。
山に登ることが彼の人生そのものだったのだろう。

「なんで会社で仕事して働いてるの?」という質問にたいして、
「それが俺の人生における役目だから」、と同じ意味で
「なんで山に登るの?」と聞かれたら
「そこに山があるから」だったのだろう。

私もハンググライダーで飛んでいた時があった。
「なんでそんな危ないことしてるの?」と聞かれた。
でも、今思うとあの経験が無かったら自分の人生はつまらないものだったと思う。

6/07/2017

光・時間・法則

時々おかしいんじゃないか?と思うことがある。
例えば、宇宙は加速膨張をしていて宇宙の端では光の速度に近づいている。
とかいう話があるけれど、宇宙の端って何だろう?と思う。
ここからどこか遠くの方に宇宙の端がある、ということなのだろうけど、
ここでも十分宇宙の端じゃないかと思う。
たぶん宇宙は閉じていてどこにいても宇宙の端なんじゃないかと思う。
そうすると、ここは光の速度に近い速度で広がっているはず。

だいたい光ってなんだろう?と思う。
前にも書いたと思うけれど、光はたぶんこの宇宙のシステムクロックみたいなもの
なんだと思う。だから静止した系から見ても、動いている系からみても同じ速度なのだろう。
光より早いものは無い。
はず。

そういえば、時間に関するドキュメンタリーで、
「ある限られた空間の物や空気やゴミや何もかもとり去ったらそこに何がある?」
ということを言っていたけれど、
大学1年の時に同じことを思って友人に問いかけたことがある。
もう46年くらい前だ。
友人は同じ理工学部で私より頭が良かった。
彼にきいた。
「ここの30cm四方の空間からガスとかチリとかを全部取ったらそこに何がある?」
というテレビと全く同じ質問だった。
私は
「たぶん数学的な3次元空間があるんだろうけど、なぜそれが様々な因果律を持つの?
 例えばネズミを入れたとすると死ぬでしょう? なんで死ぬの?
 何事も起きなくていいはずなのに、何がネズミを殺すの?」
と聞いた。
さらに、
「それじゃあこの何もないみたいな空間を宇宙に持って行って、小さな鉄の玉を2個
 その中に入れたとすると、そのうちその2個は互いにくっつくでしょう?なぜ?」
彼は
「それは自然の法則があるからだよ」と言った。
私は
「その自然の法則ってのは、その一見何も無い空間にどういう風に存在してるの?」
と聞いた。
その返事を覚えていない。
だから今でも同じことを疑問に思っている。

この何もないけれど何かの働きがある。
というのはコンピュータ・プログラムとそれで動いている一連の処理に似ている。
処理の側からは自分がなぜこういう動作をしているのか理解できない。
というと「仮想空間」の話に戻ってしまうけれど、
私は世界がプログラムでできているとは思わない。
しかし世界というハードウェアが自然の法則というプログラムで動いているとは思う。













6/06/2017

仮想現実?

「この世界が仮想現実であることを示す…」とかいう動画があったので見てみた。
「見てみた?」「見て見た?」
まあほっといて、
その理由の一つに量子のダブルスリット問題を挙げていた。

まずその前にこの世界が作られた仮想現実であるという説を初めて言ったのは
2003年とか言っているけれど、それよりずっと前の「ミステリーゾーン」(トワイライトゾーン)
でミニチュアの街に迷い込んでしまう男の話をやっていた。最後にその街を上から大きな
女の子が覗いているという落ちだった。
そういうアイデアはたぶんもっとずっと前からあったのだろうと思う。

それでダブルスリット問題の量子がどっちを通ったかを検出しようとすると、
量子はそれを見越してどちらかからしか通らなくなる。というのを持ち出して
それと仮想現実と似てないか?と言ってるのだけれど、
それは全く別の問題だ。

量子の問題は確率からきている。
仮想現実の問題は単にメモリーあるいはCPUのアクセス低減の問題から来ている。
だいたい本当に仮想現実を作るのだったら、十分なメモリーと高い能力のCPUのを
使って見てないところでもオブジェクトが動いているようにするだろう。
この2017年の人類の能力で、その人類の世界を作っている(かもしれない)仮想現実
の構造を想定するのは全く馬鹿げている。

どこかの海に沈んでる巨大な岩の形状がミレアムファルコンに似ているというのと同じ
くらい馬鹿げている。

と思う。


追伸 to serizawaさん

というわけで書き込みを制限しました。
serizawaさんにはとても不愉快な思いをさせてしまったと思います。
申し訳ありません。



6/05/2017

これのこと

すみません。頭のところにも書いていますが、これは誰かが読むことを想定して書いていません。いい加減な思い付きを書いているだけです。ですから何か書かれてもそれに対してお返事する術をもちません。なぜならいい加減なことを書いているだけだからです。
自分で正論だと思っていることを書いているわけでもなく、
思い付きを書いているだけです。

量子の話なども「こんなのデタラメだろう!」と言われたら、
「ハイその通りデタラメでございます」としか言えません。

昔あったこととか、思いついたこととかを、ここに覚えさせているだけなのです。
希望としてはいつか私の子供達がこれを読んでくれて、バカな父親だったなあ、
と笑ってくれれば本望です。

そんなわけで、今まであまり気にせず書き込み可の状態でやってきましたが、
近々、書き込みできる状態をやめようと思います。

今までコメントを頂いた数人の方々には感謝とお詫びを言わせてください。
ありがとうございました。
また無礼をお詫びします。


硝子細工

前にも書いていると思う。
私の学校の研究室の直接の先生(神崎先生)はガラス細工が得意だった。
私が壊しまくった器具をいつも直してくださった。
私はそれほどうまくはないけれど、普通のガラス管を使った細工は結構できるようになった。

今日YouTubeを見て思い出したことがあった。
YouTubeの動画は
BIGGER BULLET BEATS Prince Rupert's Drop? (at 223,000 FPS) - Smarter Every Day 170              
というタイトルのものだが、オタマジャクシ状のガラスを銃弾で撃つというものだ。
先端の丸い部分は非常に丈夫で銃弾が当たっても壊れない。
ガラスは普通の(並)ガラスなのだが、高温状態の時に水に流し込むとオタマジャクシ状の
形状ができる。
この形状というか、これが丈夫だということはどこかで見たような気がする。

問題はこれが壊れる瞬間なのだけれど、動画では頭の丸い部分を狙った銃弾で
壊れる時の映像が撮られている。やはり壊れる時もあるわけだ。
この壊れる瞬間は非常に短い時間で全体が壊れる。
高速度撮影した映像では頭から壊れて行く時に反対側からも壊れ始める様子が写っている。
どうして反対側は先端が壊れたことがわかったのだろう?
と思って良く見ると、ガラスの表面を何かが壊れる速度よりも早く走っている。
それが反対側まで達して後ろからも壊れ始めるようだ。

この現象は面白い。
並ガラスが割れる速度はこんなに早くない。

それで、この現象は前にどこかで見たような気がする。
恐らく神崎先生が話してくださったか、あるいはあの先生だから実際にガラスを
急冷させて、目の前で実験しくださったような気がする。
細くなった方をペンチかなにかで挟んで割ると、一瞬にして全体が壊れる。
そういうことを見せてくださったように思う。

神崎先生は化学のことだけでなく電子回路のことも教えてくださった。
笑いながら説明してくれて、私が理解できないと厳しく教えてくださった。
とても感謝しています。

6/04/2017

弾き語り

日本のフォークソングの世界に「弾き語り」という演奏形態がある。
いや、演奏形態なのか?とも思う。
たぶん琵琶説法とかバイオリン演歌とか三線弾きながら歌うとかTalking Bluesとか
そういうのが「本家」弾き語りなのだと思うけれど。
記憶では1960年代に流行ったアメリカンフォークソングの中でTalking Bluesのことを
日本語訳で弾き語りと言っていたように思う。
しかし、どうも今の日本のフォークソングの世界で言っている弾き語りというのはそうでは
ないような感じだ。

ギター1本を弾きながら一人で歌を歌のを「弾き語り」と言うらしい。
ピアノを弾きながら歌っても弾き語りだと思うけれど、どうもちょっと違うらしい。
じゃあエレキを弾きながらというのはどうだろう?と思うけれど、これも微妙に違うらしい。
要するにアコースティックギターを弾きながらフォークソングを歌うのを弾き語りというらしい。
「語りが無いだろう?」と言うと、歌っていることが語りだという。
「ああそうですか」とこたえておく。

これで済めばいいのだけど、伴奏を入れたらどうなの?と聞くと、
それも微妙に「弾き語り」ではないらしい。
ベースは?と聞くとそれも違うらしい。

ドラムスとベースとハモとサイドギターを入れてバックにストリングスを入れて「一人で
アコースティックギターを弾いて一人で歌ったら?」と聞くと
それはもう弾き語りでもなんでもはないらしい。
ようするにそういうものらしい。

一人でギター1本で歌って人に聴かせるというのはよほどの歌唱力がないと無理だ。
その辺の集まりで「弾き語り」と称して歌っているのを聞くが、
とても聞いていて気持ちがいいという人はほとんどいない。
考えてみると初期のフォークソングで一人でギターを弾きながら歌っていた人達の
音を聞くとすごいと思う。歌だけでなくギターも聞かせている。
あれは簡単には真似できない。
別に「弾き語り」と言わなくても「ギター単独伴奏による独唱」とか言ってもいいと思う。

思うに、素人でもギター伴奏が一つ増えただけでも聞いてる方は気分がいい。
他の伴奏やハモが入るとさらに聞いていていいと思う。
他の人と一緒に演奏したり歌ったりすることは楽しい。
また音楽的にも厚みがでるように思う。

素人が一人でギター1本で歌うには限界があると思う。
よっぽどの技量がないと無理だ。
「いや、そこがいいんだ」と言う人もいそうだが、無理だ。

と言ってはいけないかもしれない。
選曲が問題だ。
一人で歌うのならそれなりの歌にしてほしい。
ギターをガチャガチャと鳴らして大声でが鳴られてはちょっと引く。
普通に歌ってほしい。
「自分に言えよ!」という声も聞こえてくるけれど、気にせず。。

それに「弾き語り」という謎のジャンルを設定して
それにとらわれるのもどうかと思う。
音楽はもっと楽しく行こう。