12/14/2025

不思議な偶然

 時々こういうことが起きる。
例えば誰かと何かの話をしているとテレビで同じことを話している
ということはかなり頻繁に起きていると思う。

今日の偶然は、古い機関車の事故の写真だ。

ラウンドハウスの機関車事故(Roundhouse Locomotive Crash 1913)
と書かれている。
建物から蒸気機関車が飛び出しているものだ。
この写真だけれど、このところフェイスブックに流れてくる写真に
2度ほど出てきた。
「ああ、これは本当の写真だろうか?」とその時思った。
でも詳しくそれを探ることはしなかった。
でもその写真はとても記憶に残るものだった。

それで、今日夜の9時頃YouTubeに全編見れる映画があるので
それのどれかを見てみようと思いたまたま「ヒューゴの不思議な発明」
というスコセッシ監督の映画があったので見ていた。
すると映画のシーンとして同じシーンが出て来て驚いた。
このシーンを見るとフェイスブックに出てきたのはこっちの写真か?
と、どちらがそうだったかわからなくなる。
でもフェイスブックで見た写真は周りに人がいたので最初の写真だと思う。

ところがさらに探してみると同じような写真があった。
フェイスブックで見たのはこれのような気がする。
この写真には、
1895 STEAM TRAIN LOCOMOTIVE 721 WRECK PHOTO RAILROAD STATION CRASH IN PARIS
と書かれている。それにこの写真の事故の場所は映画と同じだと思う。
これはヒューゴの映画の撮影の時に撮った写真だろうか?
いや、写真の感じからして昔の写真だろう。
ヒューゴは2012年の映画だ。
恐らくこの写真を元にデジタルに作成したものだと思う。

この説明がほんとうだとするとジョルジュ・メリエス(ヒューゴの映画の
中に登場する映画監督)は1868-1938だからこの事故を見ているはずだ。
でもメリエスがこういう事故の映画を撮っていたかは知らない。
ヒューゴの映画ではこの写真のシーンをかなり忠実に再現している。

ま、とにかくフェイスブックで見た写真と同じような写真が
見ていた映画に出てきたことが面白かった。







12/12/2025

夢の感じ

 夢を思い出そうとすると、夢のシーンはいつもと同じような
日常のシーンとして思い出すが、
実際の夢のシーンはそれとは全然違うということを
先日思い出した。

ショッピングセンターのフードコートで軽く夕食を
食べていた時、フードコートは閑散としていて
広いエリアにテーブルとイスが整然と並んでいた。
それを見ていたら、いつかの夢のシーンが混ざってきた。
はっきりと思い出せないのだけれど、
夢ではやはりテーブルがたくさん並んでいた。
しかしそれは木やプラスティックで出来ているのではなく、
野菜と何かわからない蔦のようなもので出来ていた。
その野菜がテーブルなのだ。
いやテーブルの形はしていなかった。
でもそれがテーブルだったのだ。
その間を歩いて行くのだが、とてもフワフワした感じだった。

それは一瞬のことだったけれど、
夢は論理的にはできていないと思った。
それは最近のAiが作った不気味なSF映像と似ている。
だけど夢の場合はおそらく夢の論理でできていて
全然矛盾が無いように思えた。

夢をはっきりと夢の中の論理で思い出したのは
恐らく初めてだったと思う。


幻覚

 というか、見たと思ったものが無かった。
ということがこの数年で数回あった。
ボケとかではないと思う。
いや、そうなのかもしれないが

一度はあるバスターミナルでバスに乗って発車を待っていた時、
先に出るバスが出たから、次は自分のバスが出るだろう、
と思っていたのだけど、出ないので「なんで出ないんだろう?」
と妻に聞いたら、
「まだ前のバスは出てないじゃない」と言う
私は確かに先のバスが出たのを見たのに、
変な気持だった。
映像として記憶の中にはバスが出た映像があったから。

先日のことだけれど、近くに車1台しか通れない相互通行のトンネルがある。
いつもそこを通っているのだけど、前から車が来たら待っていないといけない。
ある日、そのトンネルで軽自動車がトンネルを抜けて来るのが見えたので
手前で待っていた。
軽自動車の後ろにトラックらしい車が続いていたのが見えた。
それで軽自動車をやり過ごして
次のトラックが来るのを待っていた。
しかしトラックは来なかった。
私の後ろに車が続いていたので、そろそろとトンネルの入り口に行くと
トンネルにはトラックはいなかった。
あれ?どこ行ったんだろう?と不思議だった。
確かにトラックが見えたのに。

もう一度同じようなことがあった。
横横道路を私はほとんど左側を80キロで走る。
追い越しはめったにしない。
横横道路を100キロで走っても時間はほとんど変わらないから。
それである日私の前を異常に遅い軽が走っていたので
追い越そうと思ってサイドミラーを見ると
赤い車と銀色のスポーツタイプの車がつながって来ていた
それをやり過ごしてから追い越そうと思っていた。
先に赤い車がかなりのスピードで私を追い抜いて行った。
次のスポーツタイプが行ったら出ようと思ったのだけど、
スポーツタイプが来ない。
あれ?と思ったけれど、車が来ないので
前の軽を追い越して左に戻った。
ルームミラーとサイドミラーを見たけれど
銀色のスポーツカーがいない。
車数台がつながって来ていたけれど
スポーツカーがどこにもいなかった。
その区間は脇道や出口は無い。
これはほんとに不思議だった。

今のところそれで危ない目にあったことは無い。
今のところ・・・

11/21/2025

5000メートルから落下

YouTubeで「サバイバー 極限の生存者」という映画を観た。
一人の女性が航空機事故で5000メートルから落下して生きていた。
という話だけれど、作り話だろうと思ってみていたのだけれど、
「5000メートるから落下して助かった」というニュースを
昔どこかで見たような気がしてきた。
それで調べたらほんとの話だった。
映画では少し作り話が入っていたけれど、
1981年8月24日のことだったらしい。
私が札幌から東京に戻った年だ。
どこかでそのニュースをみたのだろう。
映画は2023年の公開だったようだ。
つい最近だ。
映画ではソビエトの隠ぺい体質がらみの話になっているが、
民間機と軍の2機編隊の飛行機のうちの一機が5000メートルで衝突したらしい。
民間機はアントノフAn-24のプロペラ機。
軍の方はTu-16Kミサイル搭載爆撃機だったそうだ。
事故の原因も軍と民間の連絡が取れていなかったためのようだ。
両飛行機を合わせて31人が亡くなり、生存者は彼女ひとりだけだった。
彼女は空中分解した飛行機の後部の席にいて、
機体が比較的ゆっくり落ちたため助かったらしい。
ゆっくりと言っても相当の速度だったはずだ。
彼女以外は全員亡くなったわけだから。

軍と民間機の事故というと雫石を思い出す。
1971年の悲惨な事故だった。
あの事故はどういう事故だったのか改めてwikiを読んでみた。
やはり映画と同じく、軍(自衛隊)の2機編隊と全日空の旅客機が衝突した。
状況が良く似ている。
民間機はボーイング727、自衛隊はF-86Fだった。
事故の状況は今ではかなり詳しく分かっているようだ。
当時私の友人の小沼の親戚の人に
雫石事故の時の 海法泰治(2審検察側鑑定人)という人がいた。
当時、海法発言として話題になった人だ。
小沼はよくその話をしていた。
「海法さんは、民間機が自衛隊機に追突するなんてありえない
と言っているよ。」
という話をしていたのを覚えている。
いずれにしても事故は起き多くの命が犠牲になった。
ロシアの事故の様にプロペラ機ではなく3発ジェット機だった。
だから衝突後ものすごい速度で落ちたようだ。
途中音速を越えソニックブームが発生したらしい。

日航123便の時も自衛隊機だか米軍機だかが関係していた
という陰謀論があるが、
全く人の死を面白がっているとしか思えない。

11/19/2025

中国人の友達

 こう中国からの圧力というか非難というか攻撃というか
があるとほんとに中国という政府を嫌いになる。
こういう時は中国人の友達、馬さんを思い出す。
しゃべり方こそ変な日本語ではあったけれど、
誠実でまじめな人だった。
一緒にプログラミングの仕事をした。
と言っても技術は彼の方が数十倍上だった。
決してそれを自慢せず、静かに仕事をしていた。
そんな時に天安門広場の事件が起きた。
彼の家族も中国政府の役人から監視されていたそうだ。
家族にデモに行った人がいないか調べにきたそうだ。
彼はデモ隊シンパだった。
現地で何が起きているかを知っていた。
私は彼の身元保証人になっていた。
何か起きたら彼を守るつもりだった。
と言っても何ができるかわからなかったけれど、
東大闘争救援会に居た時の知人に相談するつもりだった。
もしも彼の家族にデモに参加した人がいたら、
かれは即刻強制帰国させられただろう。
彼は国の人達が知り合いでデモに加わった人を
密告していたと言っていた。
でも、幸い彼は無事に過ごすことができた。

こういう時は彼が話す姿を思い浮かべると
心が和む
彼も私と同い年くらいだから今は高齢者だろう。
元気にしていれば良いが。

11/18/2025

ビュッフェで食べた

 息子が籍を入れたというのでお祝いに横浜のホテルのビュッフェで
食べることにした。
しかし私はそんなに食べないし、聴けば彼女もあまり食べないという。
他にしようかなとも思ったけれど各自食べられるものを食べられるから
やっぱりビュッフェがいいと思いそうした。
たぶん3人でニューヨークでまともなランチを食べるくらいの金額だった。
それよりも息子たちはあまりホテルとかに行かないから、みなとみらいの
ホテルにして良かったと思った。ブーケも用意してくれたし、
写真も撮ってフレームに入れてくれた。
メニューも多く美味しかった。
息子だけはしこたま食べていた。

私はそこのビュッフェは確か3度目くらいだ。
だいたい私自体一人でレストランとかには行かない。
あんまり外で食べるのは好きじゃないから。
だからこういうことを私が主催するのはめったにない。
というかたぶん初めてだろう。
息子たちじゃなかったら絶対やらないだろう。
他の人に任せてしまう。

私の父たちの世代の人はそういうことをよくやっていた。
父はそういうことが好きだったみたいだし、
前妻の父もよくやってくれた。
思い出すのは芝にあったクレッセント。
私の父も義父もそこに私達を連れて行ってくれた。
いつか自分も家族をそこに連れて行こうと
やっとできそうになってみると、お店が無くなってしまった。
あの跡はどうなっているんだろう?


11/17/2025

「ワンセカンド・永遠の24フレーム」という映画を観た

 中国の映画だ。
文革当時の中国で矯正収容所にいた男が、
娘がニュース映画に写っているという手紙を知人からもらい、
その映画を観るために脱走してその映画を上映している村に行くという話。
途中フィルムを運んでいるバイクからフィルムを盗むが、それをまた
別の女の子が盗んでしまう。
女の子には勉強好きな弟がいる。
女の子は弟と暮らすために一生懸命。
男といろいろやりとりがあるが、心情的にお互い親しくなって行く。
それからすったもんだがあり、とにかく映画は上映される。
そのニュース映像に1秒だけ男の娘が写っている。
男はそれを見ることができるが、保安員に捕まってしまう。
捕まって連れて行かれる時に映画館の主人が男の娘が写った
フィルムの一コマを新聞紙に畳んで男のポケットに入れてくれる。
それを途中で保安員に見つかって捨てられてしまう。
それを遠くから見ていた女の子が捨てられた何かを探しに
その場所に行く。
女の子はそこに落ちていた新聞紙を折りたたんで大事にしまう。
何年か経って文革が終わって男は解放され
またその村に行く。
そこですっかり端正な身なりになった女の子に会う。
女の子は家に大事にしまっていた新聞紙を男に渡す。
男が新聞紙を広げるが何も入っていない。
二人でその新聞紙を見つけた砂漠に行くが
何も見つけることができない。
二人で笑いあうシーンで終わる。

前半は男の横暴さと愚かさにいらいらするが、
文革が終わって人々が穏やかになって行くところが
何ともいえずいい感じにできていた。

これはニューシネマパラダイスの中国版のように思えた



11/11/2025

オーディオ神話の最終段階

 長いことオーディオに関連した仕事をしてきたのだけど、
最初からオーディオには懐疑的だった。
どっちがいい音か?なんてわかるわけない。
とずっと思っていた。
もちろん自分でもいやというほど聴き比べとかをやった。
結局(よっぽどひどいものでなければ)どっちが良いかなんて
わかるわけがない。
わかるのは低音の出方が違うとか、こっちの方が定位がはっきりしてるとか、
高い音がキンキンしてるとか、ちょっと音がボケてるとか、
そういうことはわかる。
そういうことがわかるのはよっぽどひどい製品だ。

そうではなくて一定のレベル(金額)以上の製品を比べた時
違いはわからないと思う。
違いは雰囲気で左右される。
どっちが「いい音」かなんてわかるわけがない。

そういうことを今でもまだやっていることが驚きだ。
コンデンサーを交換すると音が良くなるとか、
スピーカーのケーブルを変えると音が良くなるとか、
そういうことを平気で言っている。
しかもそういうことを言っている人達は高齢者だ。
後期高齢者かもしれない。
いずれにしても6000ヘルツ以上の音が聞こえないのに
いい音もくそもあったものではない。
20代の若者が言うならまだわかる。
でも高齢者にはたとえ違いがあったとしても
違いなんてわからない。

それとは関係なく周波数はどこまできこえるだろう?
とサイン波の周波数を上げて行ったら、
やはり6000~7000Hzくらい以上は聞こえない。
若い頃に同じ実験をやった時は18000~19000Hzくらいまで聞こえた。
今それが半分以下の周波数しか聞こえない。
これだとギターの音がどうこうなんていうのも気が引ける。

その実験をやっていた時、傍で寝ていた猫は20000Hz以上の音も
聴こえるので、寝ていたのにスッと首を上げて
どこから音がするのかを聴いていた。
こっちは音が出ていることもわからないのに
それに反応する猫が不思議に思えた。

11/09/2025

グーグルマップスのストリートビューを見ていたらちょっと錯覚しそうになったこと

 FBの知り合いが写真を乗せていたのでそれはどこだろう?
と探していた。
道道268号と国道5号の交差するあたりらしいのだが
どうにもわからない。
268号を南から岩内の方まで少しずつ景色を見ていた。
マウスをクリックしながらたぶん10メートルくらいずつ
進のだが、周りの景色は自由に見ることができるので
まるで実際にそこにいるような気分になる。
それをやっていることはたぶん記憶に残るだろう。

前にやはり北海道の道路を同じように見ていた時もそうだった。
まるでほんとにそこの道を歩いているような気分になる。
(だけど絶対にそこには行ったことがない)
それをずっと後になってテレビでそこの地名が出た時、
「ああ、ここには行ったことがある」と思った。
でもよく考えると行ったことは無い。
だけど記憶の中で想い出のようにそこの道を歩いたことが思い出される。

それは「想い出」でいいのだろうか?

例えば長野県の田舎の国道を走ったことは記憶としても
想い出としても残っている。
しかし道の景色は車のウィンドーから見た一瞬一瞬にすぎない
それはたぶんグーグルで見ている景色とそんなに違わない。
どっちにしても同じような気がする。

ああ、なんか子供がゲームで遊んだ時のことは
想い出として同じように記憶しているというようなことを
読んだことがある。
私はゲームをやらないのでわからないが、ちょっとやってみた
スーパーマリオの景気の中を跳び回った時の景色は覚えている。
それにストーリーが付いたらきっと体験として記憶され
想い出として思い出すんだろうな、と思う。

11/07/2025

 最近熊の出没とか襲われたとかいうニュースが多い。
多いだけでなく他府県にまたがっている。
これはなぜだろう?
これまで話題にならなかっただけというわけではないだろう。
亡くなった人がけっこう出ているのだから。

じゃあ、なぜこの時期に広い範囲で熊は蜂起したのだろうか?
何か熊界で情報交換があったのだろうか?
と思ってしまう。
偶然ではないだろう。
何か全国的なきっかけがあったはずだ。
それが何かはわからないけど。

いざ熊に出会った時にどう思うだろうか?
熊は動物ではあるがこちらの気持ちが伝わるとは思えない。
猫や犬は興奮していても何とか収めることが出来そうな気はする。
だけどイノシシとか熊は通じないだろ。
こちらに向かってくる熊の目を見ると、
絶対に理解し合えないのを確信する。
彼は自然そのものだ。

海で突然足元をすくわれて沖に流されそうになったり、
山で歩いていた山道が突然崩れたり、
雷がすぐ近くに落ちたり、
ハングで飛んでいた時も、突然の横風で山に落ちそうになった、
そういう時に感じるのは自然の人間に対する一種の悪意だ。
それまで楽しく遊んでいたのに急に相手の本性を見せられる
これはとても怖い。
こっちが「何も悪いことはしてません!」と言っても通じない。
「あーーちょっと待って!」と言っても通じない。
そういうのを体験すると
熊はこちらのことなど考えもせず襲ってくるだろう。
そういう怖さだ。

「熊は悪くない」という人がいるが、
善悪の判断ではない。
彼らは自然そのものなのだ。
人間がダムを作ったり堤防を作ったりして自然と戦ってきたこと
それと同じように思う。
人間の命を大事にしたいならそれと戦うしかない。
絶滅させようという意味ではない。
人間が安全に生きるためには自然と戦うしかない。

11/02/2025

父の死んだ年齢

 今まさに父が死んだ年齢なわけだけれど、
父はいったいどんなだったんだろう?と考える。
父は私のことをどう思っていたのだろう?
父が兄を信頼していたのは良くわかる。
母は私と仲が良く、兄とはあんまり中が良くなかったように思う。
そもそもの原因は私がいい加減な人間だったからだと思う。
何をするにも。

父は一度、父も若い頃は私のようだったと語ったことがあった。
一度だけだ。
でも私の知る父は私とは大違いで、生真面目で几帳面だった。
だから銀行員が務まったのだと思う。

今の私はまるでガキだ。
何ひとつまともじゃない。
私のやっている仕事が昔雑誌などで紹介されたことがあったけれど、
はったりだ。
それを見て父は少し自慢げだったようだ。
ということを母から聞いた。

だけど私がやってきた仕事はほとんどはったりだ。
その時代の先端だったから誰もやっていなかったというだけだ。
皆私を援助してくれた。
まるで夢のようだった。
でもいつまでもそうもいかなかった。
いかさま野郎だ。
一人でやるには限界があった。

父は人づきあいがうまかった。
父を慕っていた人は大勢いた。
私を慕ってくれた人は数えるくらいだ。
右手の半分で済む

父は自分の人生を満足していただろうか?
最後の頃、病室でふたりだけの時があった。
私は暇だからスケッチブックに寝ている父の姿を
鉛筆で描いていた。
書きあがったものを父に見せた。
父は「もう今日はいいぞ、あとは看護婦がやってくれる」
と言い、私は病室を後にした。
あれがまともな父を見た最後だった。
それから脳に転移してまともな状態ではなくなった。

私はどうだろう?
息子を前にすると彼には敵わないと実感する。
息子は立派だ。
とてもうれしい。

だけど彼にとって父(私)はどうなんだろう?
今度会うことになっている。
その時に息子に言おうと思う。
「お前は立派になった」と

10/26/2025

東北ドライブ

 もうあんまり時間が過ぎるとドライブも考えなくちゃいけない。
だからドライブに行ってきた。
思ったこと
最初に北海道に行った時は高速が全く無かったから、
ひたすら4号線を走った。
記憶の中ではそんなに遠くは感じなかった。
その後、矢板から仙台まで高速が出来た。
東京から矢板までがすごく遠く感じた。
仙台から青森まではそれほど遠いという記憶が無い。
それから川口から東北道に入れるようになった。
川口までが恐ろしく遠く感じた。

今回は横須賀からずっと高速だった。
郡山まですごく遠かった。
なんであんなに遠く感じたかわからない。
その後、山形まではすぐだった。
気分的には。

往復1000キロだった。
札幌までの片道でしかない。
昔はよくあんなに何往復もしたなあ、と思う。
実質6年間だから10回以上は往復していた。
記憶では一般道の4号線の想い出が鮮やかだ。
高速になってからの記憶があまりない。
あるのは羽生のとこの橋かな?
上りも下りも「やっとここまで来た」という感じだ。
今回もそう感じた。