10/16/2025

いちご白書をもう一度

 あの映画のことについては前に書いていた。
Thunderclap NewmanのSomething in the airという歌についてだった。

今日は、FBの音楽仲間の歌「いちご白書をもう一度」に伴奏を付けている。
「君も観るだろか?いちご白書を」といううただけれど、
あの映画を観たのは渋谷だった。
あの映画館は何ていっただろう?パンテオンか?
そこだったと思う。
一緒に行ったのは竜さん(竜真知子)だった。
映画館はとても混んでいた。
正直なところ内容をあまり覚えていない。
後からの疑似記憶を取り除くと
二人でどこかでダンスをするように振舞っているシーン。
そこしか覚えていない。

竜さんと映画に行ったのはそれっきりだったと思う。
竜さんはそのことを覚えてはいないだろうきっと。
学校を出てから彼女は作詞家として
「思い切りアメリカン」や「あずさ2号」、「ミスターサマータイム」
「ハートのエースが出てこない」など
当時の多くの歌手に曲を書いている。

学生の頃は彼女とデュエットで歌ったこともあった。
Williamと3人で歌ったこともあった。
その頃は彼女の作詞家の才能は全く知らなかった。

竜さんと二人でどこかに行ったのはその映画「いちご白書」
が最後だろうな。

10/13/2025

スーザン・ソンタグって・・・

車で ラジオを聴いていたらこの名前を言っていた。
何の話だったか聞いていなかったけれど、
その名前を聴いた瞬間頭の中に札幌のアパートの部屋が浮かんだ。
そしてスーザン・ソンタグの本が本棚にあった。

あれは何の本だったんだろう?
全く思い出せない。
でも何か本は買ったんだと思う。
そのうち読もうと思って、たぶんそのまま本棚に。

でも本のことはどうでもいいんだ。
あのアパートの部屋を久しぶりに思い出した。
その名前のせいで匂いや窓からの光を感じた。
懐かしい感覚だった。

旅愁という歌

 が好きだ。
自分でも歌っていたとおもけれど、FBの西森さんという人が
歌っていたので伴奏を付けた。


真ん中のガットギターと歌が西森さん。
私は左右のサイドギターとベースとストリングスとピアノを入れた。
けっこううまく行ったと自分では思うのだけど。
こういうのをやる時は伴奏は決してメインよりも目立ってはいけない
のだけれど、その加減が難しい。
全部後ろに下がってしまうと出来として面白くないから。

先日も「明日からホスピスに行くのでこれが最後の投稿になります」
と言う人の弾き語りに伴奏を付けて投稿したのだけど、
グループでの評判は良かったけれど、本人からの
返事はもらえなかった。聴いてもらえたかどうかもわからない。
グループの他の人も「聴いてもらえましたか?」ときいてくれたのだけど、
返事が無かった。
たぶんもう聞く元気も無かったのかもしれない。

この1,2年ほんとに人を見送ってばかりいるような気がする。
次は私だとはわかっているのだけど、
けっこう先送りになっている。
今のところヤバイ兆候も無い。
だけどわからない。
ほんとにわからない。


10/11/2025

チャトGPT

 チャットGPTはしゃべり過ぎる。
  ように思う。
ああ、そこまで聞いてないよ、
考えてるのはこっちだからね、
君のおだてには乗らないよ、

しかし、確かに疑問だったことを順序だてて考えるのにはいい。
今日の疑問は
「何も無い空間の中で生き物はなぜ死ぬか?」だった。
空気が無いからとか、そういう答えを予想していたけれど
彼?が言うことは私の疑問そのものに答えてくれた。
つまり何も無いなら死ななくてもいいだろう?ということへの
答えだった。
彼の答えは哲学的でさえなかった。
いろんなところから色んなものを持ってきて納得させられた。

もう一つ質問した。
「仮にタイムマシンが出来たとしても過去は未来と同じく未定ではないか?」
という物だけれど、ここにもちょっと前にそのことを書いたと思う。
つまりシュレディンガーの方程式が未来と同様に過去にも成り立つなら
過去も確率的にしか存在しえないだろう?
という質問だったのだけれど、
彼は明確にそれを肯定した。
そして同様の考えを持つ学者のことも教えてくれた。
もっとも気に入った彼の回答は
時間は過去から未来に流れているように感じる感覚でしかない。
ということだ。
つまりエントロピーは増大し続けるので過去へ戻ることはできない
ということ。シュレーディンガーの方程式は過去に対しても成り立つ
けれど未来方向にしか現実には成り立たない。
ということだ。

・・・と妙に納得したのだけれど、
良く考えてみると今まで自分が考えてきたことをまとめてくれただけ
のような気もする。

だいたい一つの質問に対してしゃべりすぎる

10/06/2025

無言歌

 アザラシヴィリの「無言歌」について以前書いたけれど、
その後あの曲はアザラシヴィリのオリジナルじゃなくて
歌詞のついた元歌があるんだよ。と日本人が自分のホームページに
書いているのをみつけた。
その人によると


だと言っている。
本当だろうか?
この人はその理由を知人が報せてきた歌が同じだからだ、
と言っている。
色々な人がその歌を歌っているからだ、と言う。
ただそれだけの理由だ。
ちゃんと時代考証をしたのだろうか?
まずグルジアの無名のソングライターがこんな歌を作れるだろうか?
曲全体で6回も転調しているような歌を作れるだろうか?
私は無理だと思う。

これは逆だと思う。
アザラシヴィリの曲を歌にして歌謡曲にしたというのが本当ではないだろうか。
私もほんとのことは知らない。
その歌謡曲を聴いた限りでは曲のメロディーも構成も同じだ。
原曲と言うならもう少し粗削りではないだろうか?

アザラシヴィリの他の曲を聴いてみるとわかるけれど、
他の曲にこの無言歌とよく似た曲調が現れる。
とても良く似た印象を受ける。

私は「無言歌」はアザラシヴィリ本人が作った曲だと思う。




10/04/2025

原子心母とクレイジー・ダイアモンド

 1970年の10月5日にPink FloydのAtom Heart Motherが
リリースされた。それからちょうど55年目が明日だ。
さっきどこかのFBにシド・バレットのことが投稿されていた。
彼が亡くなる6カ月前にファンが彼の家を訪ねたことがある。
と書かれていた。
そういうこともあっただろうな、と思う。

その投稿に気になるコメントがあった。
その記事がすぐにいなくなってしまったので正確には書けないが、

シドがいたらああいう素晴らしい音楽はできなかっただろう。
彼はバンドの足手まといだったのだから。

という内容だった。
そうだろうか? 確かに彼の音楽性は他のメンバーとは異なっていた。
原子心母以降の音楽にシドが入る余地は無かったと思う。
しかし問題は彼の存在そのものなのだ。
彼の存在がその後の音楽全てに影をおとしている。
それは誰も否定できないはずだ。

ある日バンドの練習のためスタジオに車で向かう途中
誰かが「今日はシドを拾うのはやめよう」と言った。
その日からバンドにシドは居なかった。
誰がそう言ったかは明記されていないが、その時の状況
からしてロジャーだと思う。
デイブはまだバンドの新人だったのだから。
シドの代わりにデイブがメンバーになったようなものだし、
リックもニックもそんな非情なことは言わないだろう。

その時からバンドはシドに対して負い目を持つことになる。
シドは確かに薬中だったし精神状態もおかしかった。
しかしそんなにひどいやり方でバンドから外されるとは
思っていなかっただろう。
バンドの練習に一人だけ呼ばれなかったら、どんなに悲しんだろう。

思うに音楽性などよりも彼の存在がバンドには必要だったと思う。
演奏も歌も歌わないにしても、そこに彼がいて欲しかった、のだと思う。
そうすれば彼の悲しみをずっと後まで引きずることもなかっただろう。
そして、その後のバンドの曲の歌詞にはシドが幽霊のように現れる。

ある日バンドの練習スタジオに予告も無しにシドが来たことがあった。
シドはドラッグによって以前の姿を全くとどめておらず、
最初にスタジオに入ったロジャーもその人が誰かわからず、
デイブに彼は誰かを訪ねたそうだ。
デイブはそれがシドだと伝えた。
ロジャーはそのあとずっと涙が止まらなかった。
シドは何も言わずにスタジオを出て行った。

恐らくそのシドの姿はメンバー全員の心の中に残ったと思う。
だからピンク・フロイドの音楽にはシド居るし、
シドが必要だったんだと思う。

友達

 は居ない。

今日昔の仕事のお客から電話があった。
やって欲しいことがあると。
でももう機材も全て処分したので出来ないと告げた。
人と話すの機会はあまりない。
だから今日はその希な日だった。

義理の息子が入院するというので桜木町まで車で送った。
その後みなとみらいで食事をした。
みなとみらいは少し変っていた。
MINIのお店がある。
12月に法定点検だからと葉書がそこから来た。
でも今回は近くのオートバックスに頼もうと思う。
みなとみらいのディーラーは高いから。
前回の車検は50万かかった。
まあ、ブレーキを4個交換したからしかたないのだけど
でもちょっと高かった。

松尾と花輪が逝ってしまい、気楽に電話をかける相手がいなくなった。
先日、先輩(と言っても年齢は同じ)の柴田さんに電話をした。
鳴っていたけど出なかった。
その後向こうからもかかって来ない。
もう一度かける勇気が無い。

そういえば、半年くらい前に野池さんにも電話した。
鳴っていたけど出なかった。
向こうからもかかってこなかった。
もう一度かける勇気がないのでそのままだ。

Williamは電話をすれば出るはずだ。
でも忙しそうだから躊躇する。
またどこかで会えそうな時に電話しよう。

キタローに電話したのも1年くらい前だ。
忙しそうだった。
また電話する勇気が無い。

そうそうずっと昔の沖縄の友達に電話したことがある。
全く知らない人が出た。
その番号は他の人のものになっていた。

佐賀の並川に電話できたらいいのに。
あの訛ったしゃべり方を聞きたい
「ああ、こがわさん? どおよ、最近」
頭の中で彼の声がリアルに再生される。
ああ、芹沢さんの声としゃべり方にそっくりだった。
あれは同じ九州だからだろうか?
ちょっと驚くほどそっくりだ。

先週並川からのメールを発見した。
1通だけ残っていた。
2015年の9月26日だ。

 「久しぶり、元気にしてますか?
  私は、パーキンソンにかかってしまいましたが、元気にやってます。」

ちょうど10年前だ。
偶然か?
このメールは会社のservice@stl-jp.comというアドレスに来ていた。
このアドレスは普段使わない。
ホームページのどこかにあったのだろう。
たぶん見ていなかった。
これに返信した形跡が無いから。
ああ、返事を書くんだった!と今切に思う。
ごめん。
その後札幌に行った時に電話した時はもう電話に出れなかった。
しばらくして並川君の友達から電話が来て亡くなったことを知った。
思い出してしまった。

並川君は面白い人だった。
札幌である日とんでもない物をとんでもない量持ってきた。
また彼女ができたことをアパートまで言いにきた。
また、飼っていた猫を公園に連れて行ったら帰って来ない
と言ってきた。
彼は札大を卒業して国に帰る時に
一緒にコンサートに出た。
並川の彼女のトッピとその友達のヒゲちゃん(彼女は福島の人だった)
と4人で歌った。
もう吹雪の江別の公民館。
真っ白な雪の夜だった。

並川が札幌を去る時、私は送って行っただろうか?
記憶が無い。
送ってあげていたらいいけど。

ごめん。並川










9/30/2025

北海道を去った本当の理由

 雪に負けた、と前に書いたけれど、
それは本当の理由じゃない。
雪は好きだった。
北海道にいるのがたまらなく苦痛になったのは、
どこへ行っても行き止まりだったからだ。
これは地理的な理由なのだけれど、
どこへ行っても「ああ、この向こうは海で行き止まりだ」
ということに気がつき
その閉塞感がたまらなく辛かった。
それは本州に居てもそうなだろうけど、
本州の場合はHOME(家)があった。
どこかに行っても帰れる場所があった。
だけど北海道には帰れる場所が無かった。
アパートに帰ってもそこはHOMEじゃない。
どっちに向かって走っても行き止まり。
そこから帰る場所が無い。
そういう行き場のない閉塞感が一番の理由だったと思う。


当時認められなかったこと

1970年代のことだけれど、デジタル録音が出てきた頃あまり真剣に実用化を
考えていなかったように思う。ただしSONYとかビクターとかの技術者を除いて。
我々一般はそんなものが普及するとは思っていなかった。
当時のメモリーなんか12ビットのステレオ音の10分間を一時的でさえ保存しておく
メモリーが無かったのだから。
それにやはり当時はまだアナログ音の方が格段に良いとされていたから。
それはたぶん写真の世界でも同じだったと思う。
デジタルカメラが出てくるのはもう10年以上後だけれど。
しかしその頃アメリカでは既にデジタル化が進んでいた。
1978年に見学に行ったアメリカの音響工場ではデジタルの音響機器、
特にスタジオ用途のもの、が実用になっていた。

CDのレコードが出たのが1982年だったと思う。
もうアナログレコードはだめだろうな、という予感はあったけれど、実際には
ビニルレコードはまだその後もけっこう続いていた。
それよりもオーディオファンはCDの音は良くないという風潮だった。
まだビニルレコードやオープンテープの方が音がいいと言うのが一般通説だった。
だけどCDとオープンテープの音を聞き分けられる人は居ないと思う。
CDもまだ当時はオープンテープに録音された音から作っていたのだから。
今でもまだアナログレコードの方が音が良いという説が流通しているのは
驚くべきことだ。
さらに言えば真空管アンプの方が音がいいとかいうこともある。
真空管アンプの音は聞きやすいが決して良い音ではない。
元の音が真空管の応答の悪さで柔らかくなっているからにすぎない。

マウスが出た時のことを覚えている。
パソコン関連の仕事をしていたのでマウスはかなり早くサンプルを手にした。
他の技術屋と話をしたが「こんなもの使えないな」という意見が多かった。
当時アップルコンピュータを使っていた人にしてそうだった。
しかしマウスはその後驚くべき速さで浸透していった。

それからさらに10年後くらいに、QRコードの試作を見た事があった。
あれはたぶんそれを開発した会社の人が持ってきたのだと思う。
やはり他の技術屋と話したけれど「こなんなもんも使えないな」と言っていた。
その当時は画像解析に使えるCPUも遅かったから、あのドットを解析
するだけの能力が無かった。
実際QRコードが実用になるのはさらに10年以上後だったと思う。

同じ頃だろうかブルートゥースの話が入ってきた。その当時はリモコンも
赤外通信だった。音も赤外か電波だった。ほぼ1対1の危機対応だった。
その時の技術者と話をして「こんなの使えないな」と言っていた。
ブルートゥースはその後ある程度使われていたけれど、今みたいに広く
使われるようになったのは少し後だったように思う。

ああ、USBがあった。
USBが出た時は便利だと思った。それ以前のRS232C,GPIB,HPIB,SCASIにくらべたら
接続の面倒くささが無かったから。でもUSBはその後の外部インターフェイスを
大きく変えることになった。
パラレルのインターフェイスなんかはデータをそのまま扱えたからIOを
作るのも楽だった。
しかしUSBはそれとはまったく異なるインターフェイスだった。だから
単純な8ビットの出力を作るにもUSBをどうするかから考えないといけなかった。
今ではパラレルの5V出力を出すのにUSBのアダプターを使えばいい。

そういうもの全てが今では中国製だけれど、ちょっと前までは
中国製はダメだという人が多かった。でも今では中国製の方が
優れているというのが現状だろう。
時代は変わるものだとつくづく思う。














 1980年代のことだけれど、

9/29/2025

思い出したこと

 子供の頃のことだけれど、
たぶん小学校の3年~5年くらいの時、
三鷹の下連雀に住んでいた。
そのころ時々空で「ドーン」という大きな音が聞こえた。
それはジェット機のソニックブームなのだけれど、
けっこう大きな音で頻繁に聴こえていたと思う。
最近というか70年を過ぎるとあんまり聞こえなくなったように思う。
このごろでは 全く聞こえない。
要するに占領直後くらいから日本の住宅地だろうがなんだろうが
彼らはジェット機の超音速を試していたのだろう。
厚木、横田、立川と米軍の基地は周りにあったから。

9/28/2025

改定版

 意味は無いのだけど、書き換えようと思って。
歌も録り直した。

もしも私にアイドルが気になった時があったとしたら、
天地真理だと思う。
夢中にはならなかったけれど彼女の歌は好きだった。
歌い方はそんなに好きではなかったけれど、
歌っている歌が好きだった。
それと彼女の笑顔が好きだった。

あの頃他にアイドルになりそうな女性歌手は誰がいただろう?
と思い出すとあんまり思い出せない。
ピンクレディーとかキャンディーズとかはちょっと違った。
山口百恵も太田裕美も岩崎宏美も違う。
南沙織もちょっと違うな。
ようするに天地真理以外に居なかったのだと思う。
だから天地真理が唯一のアイドルだったんだと思う。


またパラが墜落

 と言っても山沈したみたいだ。
富士宮だ。
なぜかまたタンデム飛行だ。
でも二人とも怪我で済んだみたい。
どのくらいの怪我かわからないけれど、
命に別状は無いということで良かった。

しかしこの「別状」っていうのは考えてみると変な言い方だな。
命には別に特別深刻なことは無い、という意味だろうか。
バールのようなものと同じくらい曖昧ないいかただな。